Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=106.181.191.130&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-17T00:47:07Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 第4回十字軍 2018-05-06T09:31:30Z <p>106.181.191.130: </p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> |参照方法=2017年8月<br /> |出典の明記=2018年5月<br /> |独自研究=2018年5月}}<br /> <br /> {{Battlebox<br /> |battle_name=第4回十字軍<br /> |campaign=<br /> |image=[[ファイル:ConquestOfConstantinopleByTheCrusadersIn1204.jpg|250px]]<br /> |caption=[[コンスタンティノープル]]を攻撃する第4回十字軍<br /> |conflict=<br /> |date=[[1202年]] - [[1204年]]<br /> |place=[[バルカン半島]]<br /> |result=コンスタンティノポリスの占領と東ローマ帝国の滅亡、そして十字軍諸国家の成立<br /> |combatant1 = [[ファイル:Flag of Most Serene Republic of Venice.svg|25px]][[ヴェネツィア共和国]]&lt;br&gt;[[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|25px]][[神聖ローマ帝国]]&lt;br&gt;[[ファイル:Arms of the Kings of France (France Ancien).svg|25px]]{{仮リンク|フランス (中世)|en|France in the Middle Ages|label=フランス}}&lt;br&gt;<br /> * [[ファイル:Argent_a_chief_gules.svg|25px]][[モンフェッラート侯国|モンフェラート候]]<br /> * [[ファイル:Blason région fr Champagne-Ardenne.svg|25px]][[シャンパーニュ伯]]<br /> * [[ファイル:Blason Blois Ancien.svg|25px]][[ブロワ伯]]<br /> * [[ファイル:Blason Nord-Pas-De-Calais.svg|25px]][[フランドル伯]]<br /> |combatant2=[[ファイル:Komnenos-Isaac-Arms.svg|25px]][[東ローマ帝国]]&lt;br&gt;[[ファイル:Alex K Kingdom of Hungary.svg|25px]][[ハンガリー王国]]&lt;br&gt;[[ファイル:Coat of Arms of the Emperor of Bulgaria (by Conrad Grünenberg).png|25px]][[第二次ブルガリア帝国]]<br /> |commander1=[[ファイル:Flag of Most Serene Republic of Venice.svg|22px]][[エンリコ・ダンドロ]]&lt;br&gt;[[ファイル:Blason Blois Ancien.svg|22px]]{{仮リンク|ルイ1世 (ブロワ伯)|en|Louis I, Count of Blois|label=ルイ1世}}&lt;br&gt;[[ファイル:Argent_a_chief_gules.svg|22px]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]&lt;br&gt;[[ファイル:Blason Empire Latin de Constantinople.svg|22px]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン9世]]&lt;br&gt;[[ファイル:Komnenos-Isaac-Arms.svg|22px]][[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]<br /> |commander2=[[ファイル:Komnenos-Isaac-Arms.svg|22px]][[アレクシオス3世アンゲロス|アレクシオス3世]]&lt;br&gt;[[ファイル:Komnenos-Isaac-Arms.svg|22px]][[アレクシオス5世ドゥーカス|アレクシオス5世]]&lt;br&gt;[[ファイル:Alex K Kingdom of Hungary.svg|22px]][[イムレ1世]]&lt;br&gt;[[ファイル:Coat of Arms of the Emperor of Bulgaria (by Conrad Grünenberg).png|22px]][[カロヤン・アセン]]<br /> |strength1=<br /> |strength2=<br /> |casualties1=<br /> |casualties2=<br /> |}}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;第4回十字軍&#039;&#039;&#039;(だいよんかいじゅうじぐん、[[1202年]] - [[1204年]])は、[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]によって呼びかけられ、[[フランス]]の[[諸侯]]と[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]を中心として行われた[[十字軍]]。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の[[東ローマ帝国]]を攻略し、コンスタンティノポリス([[コンスタンティノープル]]・現[[イスタンブール]])を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。<br /> <br /> 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後の[[オスマン帝国]]による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。通常は1453年の[[コンスタンティノープル陥落]]をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。<br /> <br /> == 背景 ==<br /> [[1198年]]、主要な国王が参加しながらあまり成果のなかった[[第3回十字軍]]から10年たち、[[教皇|ローマ教皇]]インノケンティウス3世は、新たなる十字軍を呼びかけた。各国王はこれに参加しなかったが、[[シャンパーニュ]]で開かれた[[馬上槍試合]](トーナメント)における勧誘で、[[シャンパーニュ伯]][[ティボー3世 (シャンパーニュ伯)|ティボー3世]]、[[ブロワ伯]]{{仮リンク|ルイ1世 (ブロワ伯)|en|Louis I, Count of Blois|label=ルイ1世}}を中心とした有力なフランス貴族が参加を決め、その後、[[フランドル伯]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン9世]]等が加わり、70人以上の諸侯、[[騎士]]の参加を得た。シャンパーニュ伯が指導者になり、具体的な遠征計画を立てるための代表者として6人の騎士が選ばれた(その一人が、詳細な記録を後世に残した[[ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン]]である)。彼らが決めた方針は、[[イスラム教徒]]の本拠地である[[エジプト]]([[アイユーブ朝]])の[[カイロ]]を海路から攻撃するというもので、その輸送を[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]や[[ピサ]]にも呼びかけたが、結局ヴェネツィアに依頼することに決まった。ヴェネツィアは単に輸送を担当するだけでなく、元首([[ドージェ]])[[エンリコ・ダンドロ]]自ら参加することになった。[[1200年]]にティボーが病死したため、新たに[[モンフェラート侯]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]を指導者に選出した。<br /> <br /> 一方、[[歴史的シリア|シリア]]と[[パレスチナ]]を支配していた[[アイユーブ朝]]は、エルサレムへの武装巡礼団が時々[[ベイルート]]などの沿岸都市を襲うため、イタリア諸都市に対し西洋人の武装勢力を運ばせないようにする協定を行おうとしていた。[[1202年]]、アイユーブ朝の王で[[サラーフッディーン]]の弟[[アル=アーディル]]は、互いに貿易相手として重要な関係にあったヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロと協議し、以下の協定を交わしている。<br /> *エジプトは[[アレクサンドリア]]や[[ディムヤート|ダミエッタ]]など貿易港へのヴェネツィア船舶の自由な入港と援助を保障する。<br /> *見返りに、ヴェネツィアはエジプトに対するいかなる遠征も援助しない。<br /> ヴェネツィアは、十字軍との契約もアイユーブ朝との協定も、同時に守るべく行動していた。<br /> <br /> == ヴェネツィア ==<br /> [[1201年]]に十字軍参加者はヴェネツィアに集結し始めたが、当初予定した3万人の約1/3の人数しか集まらなかった。このため、参加者の有り金を全部集めてもヴェネツィアに支払う船賃が大幅に不足し、出航することができなくなった。そこでヴェネツィア側との協議の結果、かつてのヴェネツィア領で当時は[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王保護下にあったザラ市(現在は[[クロアチア]]の都市[[ザダル]])を攻略することで、船賃の補填とすることにした。同じキリスト教徒(しかも[[カトリック教会|カトリック]])のザラを攻略することには、十字軍内にも大きな抵抗感があったが、結局ザラを攻撃し、数日でこれを降伏させた。知らせを聞いたインノケンティウス3世は激怒し、十字軍を[[破門]]にしたが、十字軍からの弁明を受けて破門を解いた。<br /> <br /> ところが、ここに[[東ローマ帝国]]の亡命皇子[[アレクシオス4世アンゲロス|アレクシオス]]が訪ねてきて、帝位獲得の助力を願い出た。アレクシオスの父は皇帝[[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]だったが、弟([[アレクシオス3世アンゲロス|アレクシオス3世]])により簒奪されており、正当な帝位を回復したいとのことで、見返りとして、20万[[マルク (通貨)|マルク]]の支払い、東ローマ帝国の十字軍への参加、東西教会の統合を提示した。モンフェラート侯とヴェネツィアはこれに賛成した(予め知っていたと思われる)。他の十字軍士は躊躇し、一部の者は別行動をとったが、結局大部分の者はこれに同意した。<br /> <br /> == コンスタンティノープル攻撃 ==<br /> === 第1回 ===<br /> [[ファイル:Eugène_Ferdinand_Victor_Delacroix_012.jpg|thumb|right|300px|[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]作「コンスタンティノポリスの陥落」]]<br /> [[1203年]]6月に[[コンスタンティノープル]]に到着し、アレクシオスを帝位に就けるよう要求したが拒絶され、7月に攻撃を開始した。コンスタンティノープルはそれまで数々の攻撃を防いできた難攻不落の城塞都市であったが、十字軍はヴェネツィアの優勢な海軍力を生かして海側から攻撃を仕掛けると同時に、陸上からフランス騎士隊が攻撃をかけた。攻防の途中でアレクシオス3世は逃亡し、残された者はイサキオス2世を復位させて、城門を開いた。<br /> <br /> しかし、父イサキオス2世とともに共同皇帝として即位した[[アレクシオス4世アンゲロス|アレクシオス4世]]は十字軍との約束を果たせなかった。東ローマ帝国の国庫にはそれだけの金がなく、東西教会の合同にも[[正教会]]側の激しい抵抗があり、即位したばかりのアレクシオスには、新税を課したり、強制したりする力がなかった。十字軍は約束を果たすよう要求し、また、東ローマ軍や市民との間にいざこざが起こり、次第に両者の仲は険悪になっていった。[[1204年]]2月に先帝アレクシオス3世の婿であるムルヅフォロスがイサキオス2世とアレクシオス4世を共に殺して[[アレクシオス5世ドゥーカス|アレクシオス5世]]を称したことにより、両者は決裂し、十字軍は再びコンスタンティノープルを攻撃することになった。<br /> <br /> === 第2回・略奪と暴行 ===<br /> 1204年4月に攻撃を開始したが、今度は東ローマ側も慣れてきており、十字軍側の苦戦が続いた。しかしコンスタンティノープル城内にはヴェネツィアの居留民が大勢住んでおり、彼らが東ローマへの抵抗に回ったため、東ローマ側も防衛は苦しいものだった。12日になり十字軍側が城壁への侵入に成功し、これを見た[[アレクシオス5世ドゥーカス|アレクシオス5世]]は夜更けに逃亡し、代わって皇帝となった[[コンスタンティノス・ラスカリス|ラスカリス]]も抵抗を断念し逃亡した。<br /> <br /> 東ローマ側は抵抗をやめたが、都市に侵入した十字軍はコンスタンティノープルで破壊と暴行の限りを尽くした。[[アヤソフィア|アギア・ソフィア大聖堂]]に立てこもった者も含めた[[神品 (正教会の聖職)|聖職者]]、[[修道士]]、[[修道女]]、市民たちは暴行・殺戮を受け、一般市民・修道女の別を問わず女性達は[[強姦]]された。[[総主教]]座には娼婦が座り込んで卑猥な歌をわめきちらした。市街のみならず[[聖堂]]や[[修道院]]でも略奪が行われ、貴重な品々は持ち去られるか、持ち帰れないものは破壊された([[コンスタンティノープル競馬場]]などの歴史的建造物も略奪・破壊されている)。こうしたコンスタンティノープルに対するヴェネチアと十字軍の暴行は、彼らが東ローマ帝国の信仰を自分達と同じキリスト教のものであるとは考えていなかった事を示している&lt;ref&gt;[[高橋保行]]『東方の光と影』103頁、[[春秋社]] (1991-05-30出版)ISBN 9784393261033 (4393261038)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> コンスタンティノープル攻撃を東ローマから見た記録としては、コンスタンティノープルを命からがら脱出した政治家[[ニケタス・コニアテス]]の著書が詳しい。<br /> <br /> == ラテン帝国 ==<br /> 新たに[[ラテン帝国]](- [[1261年]])が作られ、皇帝にはフランドル伯[[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン9世]]が選ばれた。領土はヴェネツィアやモンフェラート侯([[テッサロニキ王国]])等の主要参加諸侯で分割された。教皇は、コンスタンティノープル攻撃に怒ったが、攻略成功後は東西教会の統合を祝福した。その後、十字軍にエジプトへの出立を促したが、彼らは獲得した領土に居座って、再び出立することはなかった。彼らの多くは、シリアやパレスチナより国土が豊かな東ローマの征服に満足していたし、それ以上に現地の反乱や[[ニカイア帝国]]、[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]の侵攻への対処に忙しく、外征どころではなかった。<br /> <br /> 十字軍による東ローマ攻略を、史学者[[堀米庸三]]は「金時計を手にした複数の野蛮人のようなもの」と表現している。すなわち、一人が黄金のケースを、一人がぜんまいを、一人が針を分けるようなもので、各部品が互いに連絡を欠いては機能しないのだと。十字軍領主下でばらばらの領邦に分割されたラテン帝国が、かつての東ローマ帝国に匹敵するような有力な政治的・経済的存在となることはなかった。<br /> <br /> 一方、東ローマの皇族たちは帝国周辺の各地に亡命し、[[アナトリア半島|小アジア]]西部の[[ニカイア帝国]]、小アジア北東部の[[トレビゾンド帝国]]、[[バルカン半島]]南西部の[[エピロス専制侯国]]などを立てた。<br /> <br /> == 影響 ==<br /> *これ以降、十字軍はローマ教皇の制御から離れ、参加した王侯の利害に左右されることが一層強くなった。<br /> *西欧からは[[イスラム]]に対する防壁の役割を果たすと見られていた東ローマ帝国が、多大な人力、財力を奪われたため弱体化させられた。[[1261年]]に[[ニカイア帝国]]がラテン帝国を滅ぼして東ローマ帝国を復興させたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、結局往年の勢力を取り戻すことが出来ず、後に[[オスマン帝国]]の[[ヨーロッパ]]への侵入を許すことになった。<br /> *東ローマにあった大量のイコンなど美術品、古代の遺物、聖遺物、多数の書物が持ち去られたり、破壊されたりした。ただし、結果論であるが、東ローマに残ったものの多くは、後に[[オスマン帝国]]による陥落の際略奪されたり、偶像崇拝を禁止する宗教上の理由により破壊されたため、却って貴重な品が[[西ヨーロッパ|西欧]]に保存されるという効果もあった。<br /> *東ローマ帝国の国民や[[正教会]]の人々はカトリック側の動きに対して深い不信感を抱くようになった。その後に何度か試みられた性急な東西教会再統一の動きは、国民や聖職者の反対によってことごとく頓挫し、現在に至っている。カトリックには、このことの原因を、[[フィリオクェ問題]]などの教義の違いではなく、第4回十字軍などの政治的な原因に帰す論調がある。<br /> *ヴェネツィアが東地中海の[[制海権]]を確立した。ヴェネツィアは巧みな外交で東ローマ帝国復興後も、それどころかオスマン帝国勃興後も長きにわたって制海権を確保し続けた。<br /> *援軍が来ないと知った[[アンティオキア公国]]、[[トリポリ伯領]]、[[アッコン]]などシリア沿岸の[[十字軍国家]]は[[エルサレム]]攻略をあきらめ、アイユーブ朝と更なる休戦の延長に応じ、沿岸部での両者の共存が続く。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> *ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥワン、伊藤敏樹訳『[[コンスタンチノープル]]征服記 [[第四回十字軍]]』([[筑摩書房]]、1988年/[[講談社学術文庫]]、2003年)<br /> *ロベール=ド=クラリ、伊藤敏樹訳『コンスタンチノープル遠征記 第四回十字軍』(筑摩書房、1995年)<br /> *ジョナサン・フィリップス『第四の十字軍 コンスタンティノポリス略奪の真実』(野中邦子・中島由華訳 [[中央公論新社]]、2007年)<br /> *エリザベス・ハラム編『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』([[川成洋]]・太田直也・太田美智子訳、[[東洋書林]]、2006年)<br /> {{normdaten}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{commonscat|Fourth Crusade}}<br /> * [[ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン]]<br /> * [[ニケタス・コニアテス]]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:たい4かいしゆうしくん}}<br /> [[Category:十字軍|4]]<br /> [[Category:東西教会の分裂]]<br /> [[Category:東ローマ帝国の歴史]]<br /> [[Category:ヴェネツィア共和国の戦争]]<br /> [[Category:中世のハンガリー王国]]<br /> [[Category:13世紀の戦争]]<br /> [[Category:1200年代]]</div> 106.181.191.130
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46