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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=103.226.44.65&feedformat=atom miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-04T12:30:25Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ジャン=ジャック・デサリーヌ 2018-06-20T03:10:20Z <p>103.226.44.65: リンク</p> <hr /> <div>{{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ジャック1世<br /> | 各国語表記 = Jacques I<br /> | 君主号 = ハイチ皇帝<br /> | 画像 = Jean Jacques Dessalines.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[1804年]][[9月22日]] - [[1806年]][[10月17日]]<br /> | 戴冠日 = 1804年[[10月6日]]<br /> | 別号 = <br /> | 全名 = ジャン=ジャック・デサリーヌ&lt;br&gt;Jean-Jacques Dessalines<br /> | 出生日 = [[1758年]][[9月20日]]<br /> | 生地 = {{FRA987}}領[[イスパニョーラ島]]、[[サン=ドマング]]<br /> | 死亡日 = 1806年10月17日<br /> | 没地 = {{HAI}}、[[ポルトープランス]]<br /> | 埋葬日 = <br /> | 埋葬地 = <br /> | 配偶者1 = <br /> | 子女 = <br /> | 王家 = <br /> | 王朝 = <br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = <br /> | 母親 = <br /> }}<br /> [[画像:Jean-Jacques-Dessalines.jpg|right|thumb|[[ポルトープランス]]に残るデサリーヌの壁画]]<br /> &#039;&#039;&#039;ジャン=ジャック・デサリーヌ &#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Jean-Jacques Dessalines&#039;&#039;&#039;,[[1758年]][[9月20日]] - [[1806年]][[10月17日]])は、[[ハイチ]]独立運動指導者、独立後最初の統治者であり、1805年には自ら&#039;&#039;&#039;ジャック1世&#039;&#039;&#039;として[[皇帝]]の座に就いた&lt;ref&gt;{{cite web |url=http://www.kreyol.com/history005.html |title=Independent Haiti |publisher= |accessdate=2006年11月27日 }}&lt;/ref&gt;。今日もハイチ[[建国の父]]として敬愛されている。<br /> <br /> [[ハイチ革命]]において、フランス植民地だった[[サン=ドマング]]で、[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]の部下として活躍した。[[1802年]]に彼が拘束されると反乱軍の新たな指導者として再蜂起し、[[1803年]]11月18日[[ヴェルティエールの戦い]]で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の派遣した[[ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー]]の子ドナチアン=マリ=ジョゼフ・ド・ロシャンボー率いる[[フランス軍]]を破り、サン=ドマング領内から駆逐した。[[1804年]]に独立宣言し、国名をサン=ドマングから先住民である[[タイノ族|タイノ人]]がつけた名であったハイチに変更した。[[ムラート]]と[[黒人]]の将校による議会から総督に選ばれ、さらにナポレオンに倣って皇帝として即位した。権力を掌握すると報復として[[白人]]を大量に殺した。しかし、皇帝になったものの、北部の[[アンリ・クリストフ]]と南部の[[アレクサンドル・ペション]]らの勢力に圧迫され、1806年に[[暗殺]]された。<br /> <br /> == 生い立ち ==<br /> ジャン=ジャックはサン=ドマングの北県のグランド=リヴィエル=ドュ=ノールの町の近くのコルミエの村のプランテーションで[[奴隷]]として生まれた。両親については伝わっておらず、おばのヴィクトリア・モントゥに&#039;&#039;&#039;トヤ&#039;&#039;&#039;と呼ばれ、可愛がられていた。彼女は[[1805年]]に亡くなるまで甥と親しくしていた。<br /> <br /> ジャン=ジャックは30ぐらいまで農場主のフランス人アンリ・デュクロに仕えた。その頃までは便利なように主人の姓で&#039;&#039;&#039;ジャック・デュクロ&#039;&#039;&#039;と呼ばれていた。そしてデサリーヌという名の自由黒人に買われ、姓を貰った。主人のデサリーヌは彼によくした。後に1804年に終身総督に就くと宣言した際に彼は元主人のデサリーヌを自宅に招き雇った。ジャン=ジャックは1791年までの3年ほど主人のデサリーヌに仕えた。<br /> <br /> == 革命 ==<br /> [[1791年]]にジャン=ジャック・デサリーヌはジャン・フランソワとジョルジュ・ビアソーの率いる奴隷の反乱に加わった。この反乱はハイチ革命へと続く最初のものであった。デサリーヌはフランソワの部隊の大尉となり、フランソワがスペイン軍に従軍したときもこれに従った。この間に(後に[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]として知られる)軍事司令官トゥーサン・ブレダと知り合った。<br /> <br /> [[1794年]]にフランスの[[国民公会]]が奴隷廃止を宣言するとルーヴェルチュールは転向してフランスのためにスペインやイギリスと戦うようになった。デサリーヌはルーヴェルチュールに従って[[1799年]]には彼の軍の[[准将]]に昇格した。デサリーヌは[[ジャクメル]]、プチゴワーヴ、アンサヴォーの占領など多くの戦闘を指揮し勝利した。[[1801年]]には北県で起きたルーヴェルチュールの甥のモイズ将軍による反乱を直ちに鎮めた。デサリーヌは「捕虜を捕らない」方針により評判が良かった(ルーヴェルチュールは処刑を嫌ったため逃した相手に蜂起された)、そして家々や都市を焼き払った。<br /> <br /> ルヴェルチュールは支配下に置いたサン=ドマングの施政権をフランスに返さず、憲法を起草してサン=ドマングの自治を定め自らを終身総督に就けた。<br /> <br /> 反動化したフランスは[[シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール|シャルル・ルクレール]]率いる軍を派遣し再支配を目指した。デサリーヌは侵攻したフランス軍をクレ=タ=ピエロの戦いのなどで破り退けた。その戦闘中の[[1802年]]の4月にはデサリーヌと指揮下の1,300人は18,000人の攻撃陣を相手に小さな砦を守っていた。戦闘開始時にデサリーヌは弾薬庫に松明を翳しフランス軍が突破してきたら爆破すると脅した。守備隊は攻撃陣に多くの犠牲を出させたが、包囲開始から20日経ち守備隊の食料や軍用品がなくなったため、デサリーヌらは部隊のほとんどを維持したまま包囲線を突破しカオス山脈へと退却した。<br /> <br /> ルクレール率いるフランス軍は[[アレクサンドル・ペション]]や[[アンドレ・リゴー]]らの率いる[[ムラート]]部隊と共同していた。ペションやリゴーらはムラートの権利を主張してルーヴェルチュールに反対していたが3年前に彼の軍に破れていた。<br /> <br /> デサリーヌはクレタピエロの戦いの後一時的にルヴェルチュールから離反し、ルクレール、ペション、リゴーらの側についた。[[6月7日]]にルヴェルチュールが捕らえられるとデサリーヌが革命の指導者となった。1802年10月デサリーヌとペションはフランスが奴隷制の再建を図っていたことが明らかになったために再び転向した。ルクレールの後任のロシャンボーの残忍な戦略もフランスに対する反乱軍の統一を助けた。デサリーヌらは[[黄熱病]]で苦しむフランス軍を[[ヴェルティエールの戦い]]などで撃ち破った。[[1803年]][[11月18日]]デサリーヌとペションの率いる黒人及びムラートの部隊は北部のカプ=フランセ近くのヴェルティエールの砦に籠るロシャンボー率いるフランス軍を攻撃した。ロシャンボーとその部隊は翌日降伏した。[[12月4日]]にはナポレオンのフランス植民地軍の残存兵のすべてがデサリーヌの軍に降伏し、世界で唯一の成功した黒人反乱が公式に終結した&lt;ref&gt;{{cite web|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/httoc.html#ht0013 |title=Chapter 6 - Haiti: Historical Setting |publisher=Library of Congress |work=Country Studies |accessdate=2006年9月18日 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 皇帝 ==<br /> 1803年の[[11月30日]]からサン=ドマング総督の座に就いていたデサリーヌは、[[1804年]][[1月1日]][[ゴナイーヴ]]で公式に植民地の独立を宣言し、国名をハイチに改め、終身総督となった。1804年[[9月22日]]デサリーヌは[[ハイチ帝国]]皇帝となり、[[10月6日]]に[[カパイシャン]]で&#039;&#039;&#039;ジャック1世&#039;&#039;&#039;として戴冠式を行った。1805年[[5月20日]]帝国憲法が公布され、ジャック1世を後継者指名権付きの終身皇帝に指名した。<br /> <br /> ジャック1世は奴隷制なしで砂糖のプランテーション及び工場を維持するために大変な努力をした。<br /> <br /> 彼は奴隷として生まれ、フランス人に怨みを抱いていた。彼は権力を握ると、数世紀に渡る蛮行への報復と、黒人の国であるハイチが再び奴隷制に戻ることへの脅威から、全てのフランス人の処刑を求めた。皇帝はハイチを黒人国家であると宣言し、白人が資産や土地を所有することを禁じた。この法律はハイチの誇りの象徴である。<br /> <br /> ジャック1世は歴史家に &#039;&#039;caporalisme agraire&#039;&#039; (農業軍事主義)と記されたようにプランテーション労働を厳しく推し進めた。彼は全ての黒人に兵士として国を守るか農園や畑で働くかどちらかを求めた。<br /> <br /> 皇帝はまた貿易の規制を信じた。砂糖とコーヒーの輸出に依存したハイチにとってそれは不可欠であった。彼はフランスよりも[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国|米国]]との貿易を望んでいた。<br /> <br /> 統治にあたって、ジャック1世は読み書きができて教育のある人材を将校や経営に求めた。そのような配置を行うと明るい肌のエリート(ムラート)がそのような地位を独占した。<br /> <br /> == 死と記念物 ==<br /> [[Image:Jean-Jacques Dessalines statue.jpg|200px|thumb|銅像([[カパイシャン]])]]<br /> ペションやクリストフを含むジャック1世の政権に不満を持つ者たちが皇帝を倒すために陰謀を始めた。1806年10月17日ジャック1世は反乱鎮圧に向かう途上の首都ポルトープランスの北のポン=ラルナージュ(現在はポン=ルージュとして知られる)で暗殺された。複数の歴史家はジャック1世は実際にはランテルマン通りのペションの家で国の権力と将来について協議した後に殺されたと主張している。ポルトープランスの北の玄関口には皇帝が殺された場所の記念碑が作られた。<br /> <br /> 複雑な出自のデフィレという女性が皇帝の刻まれた遺体を葬った。数世代のハイチ人にとって悪口の対象であったジャック1世は20世紀になって再評価され、名門の経歴およびナショナリズムの象徴として扱われるようになった。<br /> <br /> ハイチの国歌「[[デサリーヌの歌]]」はデサリーヌ市同様ジャック1世を記念している。また、[[2004年]]より250[[グールド (通貨)|グールド]]紙幣に肖像が使用されている。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{reflist}}<br /> * TiCam (2006-09-27). [http://www.haitiwebs.com/emagazine/content/view/318/155/1/0/lang,en/ &quot;October 17: Death of Dessalines&quot;.] haitiwebs.com. 2006年10月16日 閲覧。 <br /> * Schutt-Ainé, Patricia; Staff of Librairie Au Service de la Culture (1994). Haiti: A Basic Reference Book. Miami, Florida: Librairie Au Service de la Culture, 33-35, 60. ISBN 0-9638599-0-0. <br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [https://web.archive.org/web/20080821111613/http://thelouvertureproject.org/wiki The Louverture Project]: [https://web.archive.org/web/20060827162158/http://www.thelouvertureproject.org/wiki/index.php?title=Jean-Jacques_Dessalines Jean-Jacques Dessalines]<br /> * [https://web.archive.org/web/20051228150910/http://www.webster.edu/~corbetre/haiti/history/earlyhaiti/1805-const.htm Haitian Constitution of 1805]<br /> <br /> {{先代次代|[[ハイチの元首一覧|ハイチの国家元首]]|1804 - 1806|―|[[ハイチの元首一覧|ハイチ国(北部)大統領]]&lt;br/&gt;[[アンリ・クリストフ]]&lt;br/&gt;[[ハイチの元首一覧|ハイチ共和国(南部)大統領]]&lt;br/&gt;[[アレクサンドル・ペション]]}}<br /> {{先代次代|[[ハイチの元首一覧|ハイチの君主]]|1804 - 1806|―|[[ハイチの元首一覧|ハイチ王国国王]]&lt;br/&gt;[[アンリ・クリストフ|アンリ1世]]}}<br /> {{先代次代|[[ハイチの元首一覧|ハイチ帝国皇帝]]|1804 - 1806|―|[[フォースタン1世]]}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:てさりいぬ しやん しやつく}}<br /> [[Category:ハイチの政治家]]<br /> [[Category:ハイチ皇帝]]<br /> [[Category:革命家]]<br /> [[Category:奴隷]]<br /> [[Category:反仏感情]]<br /> [[Category:反白人感情]]<br /> [[Category:暗殺された人物]]<br /> [[Category:ハイチ・グールド紙幣の人物]]<br /> [[Category:1758年生]]<br /> [[Category:1806年没]]</div> 103.226.44.65 ジャコバン派 2018-06-19T05:42:47Z <p>103.226.44.65: /* 定義 */リンク</p> <hr /> <div>{{出典の明記|date=2016年3月20日 (日) 14:15 (UTC)}}<br /> [[ファイル:JacobinClubDoor.jpg|thumb|200px|ジャコバン派が本拠地としたジャコバン修道院]]<br /> &#039;&#039;&#039;ジャコバン派&#039;&#039;&#039;(ジャコバンは、{{lang-fr-short|Jacobins}})とは、[[フランス革命]]期にできた[[政治]]党派の1つ。名称の由来は[[パリ]]のジャコバン[[修道院]]を本拠としたことによる。「[[ジャコブ]]」とは、[[ユダヤ人]]の祖である「[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ(イスラエル)]]」に由来する人名「[[ヤコブ]]」のフランス語読みである。つまり「ジャコバン派」とは「ヤコブ派」である。<br /> <br /> 後述のように内容は時期によって異なるが、[[マクシミリアン・ロベスピエール]]が中心となって急進的な革命の推進を行った時期が有名。フランス革命を主導した主流で、[[恐怖政治]]で活躍し、[[テルミドールのクーデター]]以降、一転、没落の道をたどる。[[国民公会]]で左の席に座ったことから[[左翼]]の語源となり、恐怖政治({{lang-fr-short|La Terreur}}、{{lang-en-short|Reign of Terror}})は、テロ、[[テロリズム]]の語源となった。<br /> <br /> == 定義 ==<br /> [[ファイル:ジャコバン・クラブの変遷.jpg|thumb|right|460px|ジャコバン・クラブの変遷]]<br /> 元々は、&#039;&#039;&#039;ジャコバン・クラブ&#039;&#039;&#039;というさまざまな思想を持つ人々が集まる政治クラブであった。この政治クラブはフランス全国に支部をもち、組織的に革命を推進した。しかし、革命を経るにつれて信念や政策によって分裂し、まず立憲君主派である[[フイヤン派]]が、ついで穏健共和派である[[ジロンド派]]がこのクラブから脱退し、最終的に&#039;&#039;&#039;[[山岳派]]&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Montagnards&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;モンタニャール&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;モンターニュ派&#039;&#039;&#039;とも)と呼ばれる急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り、主導権を握る(右図も参照のこと)。<br /> <br /> そのため、まれに広義の意味としてジャコバン・クラブに属していた[[市民]]、または単に革命を支持する革命派を指してジャコバン派ということもあるが、一般的には後者の急進共和派(山岳派)を指して用いられる。実際、[[ラファイエット]]や[[ジャック・ピエール・ブリッソー|ブリッソー]]などのフイヤン派・ジロンド派の代表格も一時期ジャコバン・クラブに属していたが、彼らを指して「ジャコバン派である」と言うことは(紛らわしいため)まずない。ただしジロンド派がジャコバンの一部であるという考え自体は間違いではない。<br /> <br /> 一方で、急進共和派クラブである[[コルドリエ・クラブ]]系の急進[[共和主義者]]たち(コルドリエ派)に対して用いる場合もある。この場合はクラブの違いを意識して区別されるだけであり、両者に立場的違いがはっきりあるわけではない。<br /> <br /> == 経緯 ==<br /> === 設立 ===<br /> [[三部会]]の第三身分の議員のうち、[[ブルターニュ]]出身議員で構成された&#039;&#039;&#039;ブルトン・クラブ&#039;&#039;&#039;が原型である。[[ヴェルサイユ行進]]ののち、ジャコバン修道院で集会が行われるようになり、ジャコバン・クラブと呼ばれるようになる。<br /> <br /> === ジャコバン派成立まで ===<br /> ==== 立憲君主派(フイヤン派)の脱退 ====<br /> [[1790年]]の3〜6月にかけて、ラファイエットやバイイら立憲君主派はジャコバン・クラブから脱退し、89年クラブを創設した。一方、ジャコバン・クラブ内では[[1791年]]6月の、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]一家の国外[[逃亡]]未遂([[ヴァレンヌ事件]])や7月の[[シャン・ド・マルスの虐殺]]を期に、国王の責任を追及する[[左派]]と、議会と国王を共存させようとする[[右派]]が対立した。<br /> <br /> この時期、バルナーヴやデュポール、ラメット兄弟などの右派(つまり三頭派)がジャコバン・クラブから相次いで脱退。これに先の89年クラブが合流し、フイヤン・クラブ(フイヤン派)が創設された。この時点でジャコバン・クラブからは立憲君主派が消え、残ったのは、穏健・及び急進的共和派となった。<br /> <br /> ==== 穏健共和派(ジロンド派)の脱退 ====<br /> [[ファイル:Jacques Bertaux - Prise du palais des Tuileries - 1793.jpg|250px|thumb|right|8月10日事件]]<br /> [[1792年]]、他の[[ヨーロッパ]]諸国との戦争の気運が高まる。それに対し、ジャコバン・クラブ内では、主戦派と反戦派との対立が始まる。この対立は、主戦派=穏健共和派(ジロンド派)、反戦派=急進共和派(ジャコバン派)という構図であったが、議会では主戦派のジロンド派が実権を握り、[[4月20日]]、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]に対し、宣戦を布告した。しかし、破産状態のフランスは戦備が整っておらず、兵士も未訓練で、革命の余波が軍隊に及んで指揮系統が機能しない[[フランス軍]]は敗戦を重ねる(またこのとき、王妃[[マリー・アントワネット]]がフランス軍の作戦を敵軍へ提供していたと言われている。)<br /> <br /> [[プロイセン王国|プロシア]]軍が参戦するなどの情勢の変化や度重なる敗戦の中、拒否権を発動するルイ16世によって国政も停滞したため、反戦派の中心であったロベスピエールや[[ジョルジュ・ダントン|ダントン]]、[[ジャン=ポール・マラー|マラー]]が主導し、[[8月10日事件]]を機に[[王権]]の廃止を要求、実現させる。<br /> <br /> やがて、[[国民公会]]と名のついた議会が召集される。この時点でジャコバン・クラブにはジロンド派・ジャコバン派両派閥の議員が混じって在籍していたが、ボルドークラブの人脈と[[ブルジョワ]]を支持基盤とする[[ジロンド派]]と、民衆を支持基盤とする山岳派との対立が深刻になっており、ブリッソーを指導者とするジロンド派は、10月以降次々とジャコバン・クラブから脱退する。<br /> <br /> こうしてジャコバン・クラブに残ったのは急進共和派だけとなり、ようやくジャコバン・クラブ=ジャコバン派と呼べる状況となる。また、急進共和派議員の多くは議会で議場後方の高い位置に陣取ったため、山岳派とも呼ばれた。<br /> <br /> === 山岳派独裁 ===<br /> ==== ジロンド派の追放 ====<br /> 国王裁判でも対立したジロンド・ジャコバン両派であったが、[[国民投票]]や[[執行猶予]]などにこだわったジロンド派に対して、[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]や、[[ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト|サン=ジュスト]]といった山岳派の明確な主張が勝り、[[1793年]][[1月21日]]、国王の処刑に至る。国外では全ヨーロッパを敵にし、国内では大衆の人気を失い、山岳派に圧倒され始めたジロンド派は、山岳派の主要人物の拘束を図るが、マラーやエベールに対して行われた[[裁判]]はいずれも[[無罪]]となり、法廷闘争でも敗北した。<br /> <br /> エベール派やアンラジェを中心にしてコミューンが[[暴動]](いわゆる五月蜂起)を煽るようになると、ジロンド派は攻撃を山岳派に的を絞るが[[5月26日]]にロベスピエールがジャコバン・クラブで行った演説によって失脚。5月31日~6月2日にかけて、機能不全となった政府に怒りを募らせた民衆の武装蜂起が起こり、ジロンド派は国民公会より武力で追放され、さらに[[逮捕]]・処刑された。ここに、ジャコバン派が主導する体制が確立する。<br /> <br /> ==== ジャコバン派内部での派閥闘争 ====<br /> やがて憲法は停止され、ロベスピエールも属した大[[公安委員会 (フランス革命)|公安委員会]]が革命の遂行のため、あらゆる権限を有するようになる。次第に彼らによる&#039;&#039;&#039;委員会[[独裁政治|独裁]]&#039;&#039;&#039;が始まり、内戦の激化によって反革命派の[[粛清]]といった必要から、非常手段としての[[恐怖政治]]を求める声がパリでは強くなっていく。しかし次第にそれが急進過激化すると多くの無関係の市民も処刑されるようにと変貌していった。<br /> <br /> 大胆な政策の実行や、反革命派の粛清により、一応の安定をみたフランス国内であったが、ジャコバン派内部で恐怖政治に対する見解の相違から、恐怖政治の緩和を求める寛容派(ダントン派・右派)と、恐怖政治をより強化するように求める矯激派(エベール派・左派)が山岳派と分裂する。両派の間に立つ山岳派内の中道左派(ロベスピエール派)は、分裂した双方の派閥をそれぞれ粛清し、自らの影響力を強化させて、自らの政策(主に貧者対策で、小土地所有農民の形成にあったとされる)を実現させようと、恐怖政治を継続させた。<br /> <br /> [[ファイル:Shot.jpg|200px|right|thumb|テルミドールのクーデタ]]<br /> <br /> === 終焉 ===<br /> ロベスピエール派は少数グループで、もともと支持基盤が弱かったが、極端な権力の集中と恐怖政治の実行により、名目的な主導的地位にあったロベスピエール派に非難の矛先が向くようになり、[[最高存在の祭典]]やカトリーヌ・テオの[[神の母事件]]などで、ロベスピエールが独裁者となり、国王を目指しているのではないかというあらぬ疑念が広まって、次第に孤立していった。やがて[[テルミドールのクーデター]]が起こり、ロベスピエールが失脚すると、同年11月にジャコバン・クラブが閉鎖される。[[政権]]を手にしたテルミドール派は右派に転向して反動政治を行ったため、総裁政府時代にも、ジャコバン派残党ら左派勢力は徹底した粛清を受けた。<br /> <br /> [[1795年]]、すべての政治クラブの活動が禁止されると、地方に存在していたジャコバン派の勢力も急速に衰退する。ただしナポレオンによる[[ブリュメールのクーデター]]([[1799年]])時にはフランス全土におよそ一万人のジャコバン派とされる実勢力はあった。しかしナポレオン体制下でも引き続き[[弾圧]]を受け、政治的勢力としての存在は消滅した。<br /> <br /> ジャコバン派の思想そのものは[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]ら[[共産主義]]の先駆とされるネオ・ジャコバンや、[[フランス7月革命]]、[[1848年革命]]などの19世紀の諸革命を通して受け継がれ、共産主義思想や[[ロシア革命]]に受け継がれるのであった。<br /> <br /> == 政策 ==<br /> [[1793年]]、通称[[1793年憲法|ジャコバン憲法]]と呼ばれる憲法が採択される。これはジャコバン・山岳派の理想が反映された初の[[普通選挙]]を基にする憲法であったが、国内外の[[戦争]]のために、結局、選挙が行えず、施行されることもなかった。公安委員会を中心にして、{{仮リンク|一般最高価格法|fr|Loi du maximum général}}や[[フランス革命暦|革命暦]]の採用などが行われていった。<br /> <br /> [[1794年]][[2月4日]]にプリュヴィオーズ16日法を可決し、全フランス領での[[奴隷制度廃止運動|奴隷制の廃止]]を決議した&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;ジャコバン派は[[サン=ドマング]]([[ハイチ]])での[[ハイチ革命|黒人奴隷の反乱]]を受け、西欧世界初の奴隷制廃止を決議した。この決議は[[ナポレオン・ボナパルト]]によって反故にされるまで効力を保った。&lt;/ref&gt;。この決議を受けて[[サン=ドマング]]の実力者[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[トリニダード・トバゴ]]の[[C・L・R・ジェームズ]]は、1938年にルーヴェルチュールを「ブラック・ジャコバン」と評した。&lt;/ref&gt;はフランスへの帰属を決めた。<br /> <br /> {{節スタブ}}<br /> <br /> == ジャコバン派内部における党派 ==<br /> 派内での対立が深刻になる以前は、[[ジャン=ポール・マラー|マラー]]、[[ジョルジュ・ダントン|ダントン]]、[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の3人を指して「&#039;&#039;&#039;ジャコバン三巨頭&#039;&#039;&#039;」と呼んだ。<br /> <br /> === エベール派(矯激派) ===<br /> [[ファイル:Hebert-1.jpg|thumb|120px|矯激派の領袖格とされたエベール]]<br /> 急進左派で、[[極左]]勢力。別名、&#039;&#039;&#039;矯激派&#039;&#039;&#039;。主要なメンバーの一人である[[ジャック・ルネ・エベール]]の名を冠するが、特にリーダーは不在。[[政策]]も曖昧で、矯激派や跳ね返り分子と言われたのは、アジテーションだけで内容がなかったことに由来する。無教養な[[サン・キュロット]]、下層貧民を支持基盤としており、むしろ議会の外、パリ・コミューンに強い勢力を持っていた。しばしば革命政府を「なまぬるい」として非難し、さらなる革命の推進(つまり恐怖政治の強化)を要求。エベールの発行する新聞『[[デュシェーヌ親父]]』を通して人気を獲得し、一方で新聞を軍に専売することでの不正蓄財もあり、議会転覆を狙って民衆の蜂起(いわゆる三月蜂起)を促すなどしたため、ロベスピエール派のみならず他の全ての党派から危険視され、粛清された。また、汚い野次や根も葉もない告発を行う議員も多く、その点もロベスピエール個人から嫌われる原因となった。<br /> <br /> {{仮リンク|アナカルシス・クローツ|en|Anacharsis Cloots}}ら無神論者が理論的指導者のなかにおり、反[[キリスト教]]政策を掲げて、「{{仮リンク|理性の崇拝|en|Cult of Reason}}」を進めたのもこのグループ。また[[マリー・アントワネット]]の処刑、ジロンド派の追放、ヴァンデでの[[虐殺]]でも主導的役割を果たした。メンバーは名前をギリシャ名に変えたという特徴がある。&#039;&#039;&#039;{{仮リンク|アンラジェ|en|Enragés}}&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;過激派&#039;&#039;&#039;/激昂派、派外勢力)とは考えは近いが、両派は対立関係にあった。<br /> <br /> === ダントン派(寛容派) ===<br /> [[ファイル:Georges Danton.jpg|thumb|left|130px|寛容派領袖ダントン]]<br /> ジャコバンの右派勢力。別名、&#039;&#039;&#039;寛容派&#039;&#039;&#039;。[[ジョルジュ・ダントン]]かを領袖に、[[カミーユ・デムーラン]]、エドー・ド・セシェルなども有力なメンバー。[[酒]]や女、ギャンブルなどで人生を楽しんでいた享楽的な人物が多いのが特徴。ジャコバンを支持するブルジョワ層とのつながりが深く、ジャコバン派(ないしコルドリエ派)の中では最も穏健なグループである。ジロンド派との抗争の際には、ジロンド派内閣では入閣したこともあったため、彼らとの融和に努めたが、ダントンらの努力はジロンド派の議員によって拒絶されて無駄になった。ダントン派と激しく敵対したエベール派の処刑後、先んじてこれに寛容な態度を要求したことで知られ、恐怖政治の終了や、[[フランス革命戦争]]の終結などを主張した。しかし未だ改革半ばで、革命の継続をはかるロベスピエール派(直接的にはサン=ジュスト)は、主導権を奪われることを恐れて、王党派との内通罪という事実無根の罪をでっち上げて、粛清することにした。<br /> <br /> リーダーであるダントンは個人的に人気があり、民衆への影響力も大きかった。またダントンやデムーランは、個人的にはロベスピエールとは親友の関係にあった。そのため彼らの粛清を決めたロベスピエールは逮捕に際して顔面蒼白になったと言われる。バラスとフレロンはダントン派の生き残りであり、テルミドールのクーデタでは彼らには個人的な復讐という動機もあった。<br /> <br /> === ロベスピエール派(中道左派) ===<br /> [[ファイル:Robespierre.jpg|right|thumb|140px|中道左派領袖ロベスピエール]]<br /> 便宜的に中道派と呼ばれることがあるが、実際の中道派は[[平原派]]である&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;ロベスピエール派が中道派と呼ばれる場合は、(左派である)ジャコバン派の中でのという意味であり、フランス革命の全体からみれば必然的に[[中道左派]]になる。またロベスピエールやサン=ジュストの政策はかなり[[社会主義]]的で、中道ということはできない&lt;/ref&gt;。厳密にいうと中道左派ないし左派中道である。派内闘争に勝ち抜き、最後まで革命の中心たらんとしたグループ。マクシミリアン・ロベスピエールを領袖とし、[[ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト|サン=ジュスト]]、[[ジョルジュ・クートン|クートン]]との三頭政治を行った(この場合も、この3人を「ジャコバン三頭」と呼ぶことがある)。ルバも含めて、個人的な友情のつながりを重視するという特徴があり、少数の友愛同志だけで構成される。<br /> <br /> 矯激派のエベール一派、寛容派のダントン一派を粛清した後、ロベスピエール派は影響力は強まったが、公安委員会政府の主導的役割を果たしていたものの、[[公安委員会 (フランス革命)|公安委員会]]の12人(ダントン派粛清後は1名欠員)のうち同派はわずか3名のみで、保安委員会には同派は1人しかいなかった。議会でも少数派であるがゆえに、ロベスピエールらが提案した法案を議会に通すには平原派や無党派のジャコバン派議員の協力は不可欠だったのであり、独裁的に振舞った事実はない&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;恐怖政治の時代に、独裁的な権限を発揮したのは、地方や軍に派遣された派遣議員たちである。彼らは無制限の権限を認められており、まさに地方の独裁者である。そして彼らを監査する立場が公安委員会であった&lt;/ref&gt;。このためサン=ジュストが提出した法案のいくつかは否決されている。ロベスピエールは政策を推し進めるには、議会やクラブで演説して、聴衆を説得する必要があった&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;テルミドール9日の議会での出来事が起こった背景にも、公安委員コロー・デルボワの説得失敗がある&lt;/ref&gt;。ロベスピエール派の支持基盤は議会にはなく、パリのジャコバン派民衆であり、アンリオが指揮する国民衛兵隊および武装民兵であった。<br /> <br /> [[ファイル:Portrait Lazare Carnot.jpg|thumb|left|130px|ジャコバンでない山岳派と呼ばれたカルノー]]<br /> しかし、身にやましいことのある議員や、地方で極端な虐殺・[[汚職]]を行った[[派遣議員]]達は、パリに召還されると、清廉潔白で[[潔癖|潔癖症]]とも言うべき独裁三頭からの告発を恐れるようになる。猛威を振るい始めた[[革命裁判所 (フランス革命)|革命裁判所]]での処刑を恐れ、武装民兵の脅迫をうけていた議員達は、ロベスピエールに反対できなくなっていたが、[[ジョゼフ・フーシェ]]の陰謀により結束した反ロベスピエール派議員たちが[[テルミドールのクーデタ]]を起こすと、いっせいに無党派がこれを支持。最後は武力で打倒された。<br /> <br /> === 無党派の山岳派 ===<br /> [[ラザール・カルノー]]やサン=タンドレ、プリュール・ド・ラ・コート=ドールなどに代表される山岳派に属する[[無党派]]議員。一部は[[平原派]]と混同されるが、ジロンド派追放後の議会では最大派閥だった。フランス革命当時は[[政党]]が存在しないため、議員は個々人の信条で行動して、実のところ党派はそれほど明確ではなかった。党派は後世の史家が創った便宜的な括りという面が少なくない。彼らのような無党派議員は、特に領袖となるリーダーを持たないかわりに、それぞれの法案で独自の投票行動をしており、(カルノーなどの頑固者は除いて)そのつど主流となった政治家に追随した。<br /> <br /> [[ファイル:Gracchus Babeuf.jpg|thumb|130px|ネオ・ジャコバンに属したバフーフ]]<br /> 無党派のなかにも、左派と右派、中道がおり、[[ジャン=マリー・コロー・デルボワ|コロー=デルボワ]]や[[ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ|ビヨー=ヴァレンヌ]]はエベール派のシンパとされた極左である。テルミドール後は、これら極左は追放され、右派と中道、若干の左派残党の[[日和見主義]]者達は、一部は&#039;&#039;&#039;テルミドール派&#039;&#039;&#039;と合流、一部はネオ・ジャコバンへ、残りは総裁政府議会の共和派諸派となった。<br /> <br /> === ネオ・ジャコバン ===<br /> {{出典の明記|section=2|date=2011年10月}}<br /> 後発の最も過激な平等主義者のグループ。あまりに極端な主張であるため、一部でしか支持を得られず、また弾圧の対象でもあった。私有財産の廃止を求めるなど、分配重視の初期社会主義的な主張をしていた。[[共産主義]]のルーツとして知られ、[[フランソワ・ノエル・バブーフ]]、国際的な職業革命家の[[フィリッポ・ブオナロッティ]]などがそのメンバーとして挙げられる。<br /> <br /> 革命中は勢力を誇ることはなかったが、むしろ革命後の19世紀の諸革命でその思想を浸透させ、ジャコバン主義を共産主義へとつないだ。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{reflist|group=注釈}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &lt;!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい--&gt;<br /> {{節スタブ|date=2016年3月20日 (日) 14:15 (UTC)}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[フランス革命関連人物一覧]]<br /> *[[恐怖政治]]<br /> *[[左翼]]<br /> *[[テロリズム]]<br /> <br /> {{フランス革命}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{デフォルトソート:しやこはんは}}<br /> [[Category:ジャコバン派|*]]<br /> [[Category:フランス革命]]<br /> [[Category:かつて存在したフランスの政党]]</div> 103.226.44.65 ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ 2018-06-19T05:06:03Z <p>103.226.44.65: /* 生涯 */cat</p> <hr /> <div>[[Image:Billaud-Varenne.jpg|thumb|ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ ]]<br /> &#039;&#039;&#039;ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ &#039;&#039;&#039; (&#039;&#039;&#039;Jacques Nicolas Billaud-Varenne&#039;&#039;&#039;, [[1756年]][[4月23日]] - [[1819年]][[6月3日]]) は[[フランス革命]]の指導者。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 西部フランスの[[ラ・ロシェル]]港の弁護士の家に生まれ、法律を学び弁護士になった。[[オラトリオ会]]の教授を務めたが、[[パリ]]で弁護士を開業し1786年に徴税請負人の娘と結婚し、自分の名前に「ヴァレンヌ」を加えた。<br /> <br /> 1790年に[[ジャコバン派|ジャコバン・クラブ]]に加入。1792年8月10日の[[8月10日事件|チェルリー宮殿襲撃事件]]を扇動して、[[コミューン]]の一因となり助役に任じられた。[[国民公会]]成立後、議員となり[[山岳派]]に属して国王の死刑に賛成した。1793年6月には[[ジロンド派]]の没落にも荷担した。[[派遣議員]]として[[ヴァンデの反乱]]の鎮圧に参加。公安委員会の急進的な一員となり恐怖政治の推進を主張した。しかし嫉妬から[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の独裁を非難し始めるようになる。<br /> <br /> [[テルミドールのクーデター]]では[[ジャン=ランベール・タリアン|タリアン]]と組んで[[ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト|サン=ジュスト]]の発言を封じ、ロベスピエールの失脚に一役買った。以後は1794年9月1日に公安委員を辞し反動の行き過ぎと戦おうとしたが、過激なテロリストとしてしばしば攻撃され、1795年3月2日ついに逮捕された。[[コロー・デルボワ]]らと一緒に翌年南米[[フランス領ギアナ|ギアナ]]へ流刑された。20年間の[[流刑]]生活の後、1814年赦免されたが[[ナポレオン]]の政府を容認せずに[[恩赦]]を拒否し、フランスに帰国しなかった。その後[[アメリカ合衆国|アメリカ]]本土に渡り、1816年[[ハイチ]]に移住し、[[ポルトープランス]]で病死した。<br /> <br /> {{先代次代|[[国民公会]]議長|1793.09.05 - 1793.09.19|[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]|[[ピエール・ジョゼフ・カンボン|ジョゼフ・カンボン]]}}<br /> {{フランス革命}}<br /> [[Category:ジャコバン派|ひようあれんぬ しやつく にこら]]<br /> [[Category:シャラント=マリティーム県出身の人物|ひようあれんぬ しやつく にこら]]<br /> [[Category:1756年生|ひようあれんぬ しやつく にこら]]<br /> [[Category:1819年没|ひようあれんぬ しやつく にこら]]</div> 103.226.44.65 ルネ・レオミュール 2018-06-19T05:02:32Z <p>103.226.44.65: /* 参考文献 */cat</p> <hr /> <div>{{Infobox scientist<br /> |name = ルネ=アントワーヌ・フェルショー・ド・レオミュール<br /> |image = Reaumur 1683-1757.jpg<br /> |image_width = <br /> |alt = <br /> |caption = <br /> |birth_name = René-Antoine Ferchault de Réaumur<br /> |birth_date = [[1683年]][[2月28日]]<br /> |birth_place = {{FRA987}}[[ラ・ロシェル]]<br /> |death_date = [[1757年]][[10月17日]]<br /> |death_place = {{FRA987}}{{仮リンク|サン=ジュリアン=デュ=テルー|fr|Saint-Julien-du-Terroux}}<br /> |death_cause = <br /> |residence = &lt;!-- 居住 --&gt;<br /> |citizenship = &lt;!-- 市民権 --&gt;<br /> |nationality = &lt;!-- 国籍 --&gt;<br /> |field = [[昆虫学]]、[[動物学]]、[[化学]]、[[物理学]]<br /> |workplaces = <br /> |alma_mater = <br /> |doctoral_advisor = <br /> |academic_advisors = &lt;!-- 他の指導教員 --&gt;<br /> |doctoral_students = &lt;!-- 博士課程指導学生 --&gt;<br /> |notable_students = &lt;!-- 他の指導学生 --&gt;<br /> |known_for = [[レオミュール度]]の考案&lt;br /&gt;全6巻からなる『昆虫誌』の執筆<br /> |influences = &lt;!-- 影響を受けた者 --&gt;<br /> |influenced = &lt;!-- 影響を与えた者 --&gt;<br /> |awards = &lt;!-- 主な受賞歴 --&gt;<br /> |author_abbreviation_bot = &lt;!-- 命名者名略表記(植物学) --&gt;<br /> |author_abbreviation_zoo = &lt;!-- 命名者名略表記(動物学) --&gt;<br /> |signature = <br /> |signature_alt = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;ルネ=アントワーヌ・フェルショー・ド・レオミュール&#039;&#039;&#039;([[フランス語]]:&#039;&#039;&#039;René-Antoine Ferchault de Réaumur&#039;&#039;&#039;、[[1683年]][[2月28日]] - [[1757年]][[10月17日]])は、[[フランス]][[ラ・ロシェル]]出身の[[科学者]]([[化学者]]、[[物理学者]]、[[博物学者]]、[[昆虫学者]])。[[水]]の[[凝固点]]を0°Ré、[[沸点]]を80°Réとして、その間を80等分した温度単位である「[[レオミュール度]]([[列氏温度]])」の考案者として知られるが、昆虫学者としても活躍し、全6巻からなる大著『昆虫誌』の作者として世界的に知られる。<br /> <br /> ==略歴==<br /> [[File:Plate 25, Illus. of cycle from caterpillar to butterfly Wellcome L0072138.jpg|thumb|left|著書 &quot;Mémoires pour servir à l&#039;histoire des insectes&quot;の図版、蝶の生活史]]<br /> [[ポワチエ]]の[[イエズス会]]の学校で学び、[[ブールジュ]]で法律と数学を学んだ。はじめは法律を専門的に学んでいたが、1703年にパリに出て自然科学に影響を受け、数学と物理の勉強を続けた。1708年には24歳の時に[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]の会員に選ばれた。初め、数学特に幾何学に取り組んだが、1710年頃から実用的な工業の分野に取り組んだ。1731年に[[温度計]]に興味をもち、水の凝固点と沸点の間を80等分する、[[レオミュール度]](列氏)目盛を発明した。鉄と鋼の精錬法を考案した業績などもあるが、現在有名なのは、『昆虫誌』6巻の著者としてである。実験の中で有名なものとして[[タカ]]に肉片や穀物を詰めた金属製の筒を飲み込ませ、[[胃液]]が機械的消化又は化学的消化が行われるかを調べた物がある。また、スズメバチの巣が木でできていることに気づき、木材パルプを使った紙を開発する原点ともなった。<br /> <br /> また[[真珠]]の生成の発見者としても知られた。<br /> <br /> == 脚注・参考文献 ==<br /> === 脚注 ===<br /> {{reflist}}<br /> <br /> === 参考文献 ===<br /> * [[藤村淳]](文章執筆)、[[澤田嘉一]](印刷人)『大日本百科事典 18 よーん』([[小学館]]、[[1967年]][[11月20日]]) - [[日本大百科全書]]シリーズ<br /> * [[深川泰男]](文章執筆)、[[下中邦彦]](編集兼発行者)『世界大百科事典 32 リラーワン』([[平凡社]]、[[1972年]][[4月]]) - [[世界大百科事典]]シリーズ<br /> * [[根本順吉]](文章執筆)、[[鈴木勤]](編集者)『世界文化大百科事典 11 ラファーワンリ 索引』([[世界文化社]]、[[1971年]])<br /> * [[山崎俊雄]](文章執筆)、[[鈴木泰二]](編集者)『グランド現代百科事典 24 ハトーヒメ』([[学習研究社]]、[[1983年]][[6月1日]])<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:れおみゆる るね}}<br /> [[category:フランスの昆虫学者]]<br /> [[Category:18世紀の学者]]<br /> [[Category:シャラント=マリティーム県出身の人物]]<br /> [[Category:1683年生]]<br /> [[Category:1757年没]]<br /> {{Scientist-stub}}<br /> {{biosci-stub}}</div> 103.226.44.65
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