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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-15T02:20:08Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
ラファイエット
2018-03-28T22:07:29Z
<p>103.226.44.5: /* 晩年 */補足</p>
<hr />
<div>{{Otheruses}}<br />
[[image:Gilbert du Motier Marquis de Lafayette.jpg|right|250px|thumb|ジョゼフ=デジレ・クール(1797年 - 1865年)《中将の制服を着たラ・ファイエット侯爵の肖像》1834年、キャンヴァスに油彩、135x100cm、ヴェルサイユ宮殿]]<br />
'''ラファイエット侯爵マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ'''<ref>爵位名はラ・ファイエットであるが、日本国内の文献ではラファイエットと表記されることが多い。これは前後を繋げていくフランス語の特徴であり、「ラ」「ル」「ド」といった冠詞や前置詞のつく人名にはよく見られる表記法である。つまり「La Fayette」が「Lafayette」になるわけで、日本で勝手に省略しているわけではない。</ref><ref>ラファイエットは爵位名で、姓は「デュ・モティエ」の部分である。</ref>(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette、[[1757年]][[9月6日]] - [[1834年]][[5月20日]])は、[[フランス]]の[[侯爵]]で、軍人、政治家である。[[アメリカ独立革命]]と[[フランス革命]]の双方における活躍によって「両大陸の英雄」({{lang|en|The Hero of the Two Worlds}}、{{lang|fr|le héros des deux mondes}})と讃えられた。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
第3代[[アメリカ大統領]]となった[[トーマス・ジェファーソン|ジェファーソン]]は、独立戦争を通じてラファイエットを良く知っており、「ラファイエットの弱点は人気と評判に対して飢えきっていることである」と評している。「両大陸の英雄」と称賛されたときから、いつも人々の注目を浴びることを願い、それがその後の彼の行動を律したといわれている。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== アメリカ独立革命への参加 ===<br />
[[1757年]]、ラファイエットは、代々軍人で戦死が多い裕福な貴族(侯爵)の子として、[[オーヴェルニュ]]地方のシャヴァニアック城(現在の[[シャヴァニアック=ラファイエット]])で生まれた。父は彼が2歳の時、[[七年戦争]]に従軍して、先祖たちと同様に戦死した。彼は14歳で軍隊に入隊し、16歳で、2歳年下の貴族(公爵)の娘と結婚した。[[1776年]]、[[アメリカ独立戦争]]が勃発すると、支援を求めて来仏した[[ベンジャミン・フランクリン]]に会ってその考えに共鳴し、周囲の反対を押し切って自費を投じて船を購入し、[[義勇兵]]としてアメリカへ渡った。19歳の時のことである。[[1779年]]には[[フリーメイソン]]へ加入、参入儀式を[[ジョージ・ワシントン]]が執り行った。いったん帰国後、1780年、帆船「エルミオンヌ号」に乗って、再度アメリカに渡った。アメリカの独立を決定的にした1781年の[[ヨークタウンの戦い]]に、彼は重要な役割を果たした。翌年フランスに帰国すると「新大陸の英雄」と称えられ、一躍名声を得た。<br />
<br />
=== フランス人権宣言を起草 ===<br />
[[1789年]]、ラファイエットは[[三部会]]の第2身分(貴族)代表として選出された。しかし、アメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)を戦った彼は、フランスの[[絶対王政]]を[[立憲君主制]]に変革すべきだという構想を持ち、第2身分でありながら第3身分の側に立って、議会政治の実現に向けて行動した。ラファイエットは、[[7月14日]]の[[バスティーユ襲撃]]の翌日に新設された[[国民衛兵]]の総司令官に任命されるとともに、[[人間と市民の権利の宣言|フランス人権宣言]]の起草に着手した。[[国民議会 (フランス革命)|国民議会]]で採択された人権宣言は、第1条で「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」という人間平等を、第2条で天賦の[[人権]]、第3条で人民[[主権]]、第11条で[[思想の自由]]・[[言論の自由]]、第17条で[[所有権]]の不可侵をうたっており、近代[[民主主義]]発展史上に記念碑的な位置を占めるものであった。<br />
<br />
=== 失墜 ===<br />
しかしその後のラファイエットは、国民衛兵司令官として動乱期に入った[[パリ]]の治安維持という難問に取り組む中でたびたび不手際を犯し、その名声と権力は急速に衰えていく。[[10月5日]]、女性を中心としたパリの大群衆が[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]を[[ヴェルサイユ宮殿]]からパリへ連行した[[ヴェルサイユ行進]]においては、彼と国民衛兵は群衆による[[近衛兵]]の殺害や、宮殿に対する破壊、略奪を傍観するのみであった。また翌年[[6月20日]]に[[ヴァレンヌ事件|ルイ16世がパリから逃亡した]]際にも、警備責任者として逃亡阻止に失敗した廉で多くの批判を浴びることとなった。彼は政治家としては[[フイヤン派]]に属し、前述の政治構想のように立憲君主制の支持者であったが、王政打倒を主張する[[ジロンド派]]や最過激派たる[[ジャコバン派]]の勢力増大も食い止めることができなかった。<br />
<br />
[[1791年]][[7月17日]]、パリ西部の[[シャン・ド・マルス]](練兵場)での共和派の集会に対して、[[国民衛兵]]に無警告での発砲を命じこれを鎮圧したことによりラファイエットの政治生命は終わりを告げた。この事件では死者が50名にも上ったため「[[シャン・ド・マルスの虐殺]]」と呼ばれ、彼は共和派の激しい非難を浴び、国民衛兵司令官の職を辞した<ref>「[http://jp.encarta.msn-ppe.com/text_761557826___12/content.html フランス革命 III]」『エンカルタ』マイクロソフト、2009年。</ref><ref>P・クールティヨン 著 金柿宏典 訳注「[http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/home2/Ronso/Jinbun/L38-2/L3802_0609.pdf パリ : 誕生から現代まで XV]」『福岡大学人文論叢』第38巻 第2号(通巻第149号)平成18年9月。</ref>。その後復活を期してパリ市長選挙に立候補するが落選、政治の第一線を去ることとなる。<br />
<br />
翌年4月、[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]と[[プロイセン王国|プロイセン]]に対する[[フランス革命戦争]]が勃発すると一方面軍の司令官に復帰したが、[[8月]]に[[王権]]が[[8月10日事件|停止される]]やラファイエットは司令官を解任された。王党派として逮捕される危険を感じた彼は即座にオーストリアへ亡命した。オーストリア政府は彼の身柄を受け入れたが、待遇はあくまで[[戦争捕虜]]としてであった。5年間の獄中生活を送ったのち、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が[[ブリュメールのクーデター|政権を握った]]1799年に帰国したが、公職への復帰はならず[[ナポレオン戦争]]中も故郷で隠退生活を送った。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
のち[[1824年]]、アメリカ政府は[[国賓]]としてラファイエットをアメリカに招待した。彼は15か月にわたってアメリカ各地を旅行し、国を挙げての歓迎を受けた。[[1830年]]、[[七月革命]]が勃発すると再び国民軍司令官に任命され、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]を支持したが、翌年には解任されて下野し、3年後パリで死去した。<br />
<br />
[[2002年]]、その過去の名声から[[アメリカ合衆国名誉市民]]に選ばれた。また、[[ニューヨーク]]の[[ロウアー・マンハッタン]]に彼の名を冠した[[ラファイエット・ストリート]]がある。<br />
<br />
== 脚註 ==<br />
{{Commonscat|Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette}}<br />
{{reflist}}<br />
{{フランス革命}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:らふあいえつと まりしよせふ}}<br />
[[Category:フランスの侯爵]]<br />
[[Category:フランス革命期の軍人]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国名誉市民]]<br />
[[Category:フイヤン派]]<br />
[[Category:フランスのフリーメイソン]]<br />
[[Category:アメリカ独立戦争の人物]]<br />
[[Category:フランスの死刑廃止論者]]<br />
[[Category:フランスの亡命者]]<br />
[[Category:1757年生]]<br />
[[Category:1834年没]]</div>
103.226.44.5
アヴェニュー
2018-02-10T21:18:29Z
<p>103.226.44.5: 補足</p>
<hr />
<div>'''アヴェニュー'''または'''アベニュー'''は、[[道路]]などの「[[通り]](とおり)」を主な意味とする。[[フランス語]]では'''アヴニュー'''となる。<br />
<br />
フランス語や[[英語]]で用いられる'''Avenue'''([[:fr:Avenue|fr]]、[[:en:Avenue|en]])を[[日本語]]([[片仮名]])で表記したものである。フランス語圏などでは[[並木道]]や[[街路樹]]を備えた[[大通り]]([[ブールバール]])に用いられているが、英米語圏では実際に並木道ではなくても用いられている。<br />
<br />
==用例==<br />
* [[通り]] ⇒ [[道路]]、[[路地]]、[[坂道]]、大通り(ブールバール)などの意味で用いられる。<br />
** [[シャンゼリゼ通り]]や{{仮リンク|モンテーニュ通り|fr|Avenue Montaigne}}などの[[パリ]]市内を放射状に伸びた[[並木道]]、[[街路樹]]を備えた大通り(ブールバール)に用いられている。<br />
** [[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]などでは、南北方向へ伸びる通りの名称に使用されている。なお、東西方向の通りは[[ストリート]](Street)が使用される。これに倣い、南北に伸びる[[大阪市内の筋・通一覧|大阪市内の筋]](例:[[御堂筋]]、[[堺筋]])の英訳にも使用されている。<br />
* [[街]] ⇒ 通り沿いにある街区や施設など[[地理]]上の表記を示す上で用いられている。<br />
** 上述ニューヨーク・マンハッタンの[[5番街 (マンハッタン)|5番街]]は「Fifth Avenue」と表記される南北方向に伸びる通りである。<br />
<br />
==その他の用例==<br />
* [[ave;new]](アベニュー) - [[日本]]の[[音楽]][[アーティスト]]グループ、および[[芸能プロダクション]]の名称。<br />
* [[横浜ブルーアベニュー]] - [[横浜市]]の[[横浜みなとみらい21|みなとみらい]]地区内にある[[オフィスビル]]の名称。<br />
<br />
==関連項目==<br />
* [[地理]]<br />
* [[道路]]<br />
* [[路地]]<br />
* [[街]]<br />
* [[都市]]<br />
* [[外来語]]<br />
<br />
{{Aimai}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あうえにゆ}}<br />
[[Category:道路]]<br />
[[Category:街]]<br />
[[Category:景観]]<br />
[[Category:都市計画]]<br />
[[Category:外来語]]<br />
[[Category:英語の語句]]</div>
103.226.44.5
ゲラン
2018-01-07T06:25:44Z
<p>103.226.44.5: 補足</p>
<hr />
<div>{{Otheruses}}<br />
{{基礎情報 会社<br />
|社名= ゲラン<br />
|英文社名= Guerlain<br />
|ロゴ= <br />
|画像= [[File:Immeuble, 68 avenue des Champs-Élysées, Paris 8e 009.JPG|240px]]<br />
|画像説明= [[シャンゼリゼ通り]]68番地の店舗外観<br />
|種類= <br />
|市場情報= <br />
|略称=<br />
|国籍= <br />
|郵便番号=<br />
|本社所在地= {{Flagicon|FRA}} [[ルヴァロワ=ペレ]]<br />
|設立= [[1828年]]<br />
|業種= <br />
|統一金融機関コード=<br />
|SWIFTコード=<br />
|事業内容= 化粧品製造・販売<br />
|代表者= ローラン・ボワロ (Laurent Boillot)<br />
|資本金=<br />
|発行済株式総数=<br />
|売上高= 20億[[フランス・フラン|フラン]] (1992)<br />
|営業利益= <br />
|純利益= 1億6200万フラン (1993)<br />
|純資産=<br />
|総資産=<br />
|従業員数=<br />
|決算期=<br />
|主要株主= [[LVMH]]<br />
|主要子会社=<br />
|関係する人物= <br />
|外部リンク= [http://www.guerlain.com/guerlain/index.jspz GUERLAIN] {{en icon}}<br />[http://www.guerlain.co.jp/index.html GUERLAIN] {{ja icon}}<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
'''ゲラン''' (Guerlain) は、[[フランス]]の[[香水]]・[[化粧品]]メーカー。<br />
<br />
[[1828年]]にピエール=フランソワ=パスカル・ゲラン (Pierre François Pascal Guerlain) が、現在の[[1区 (パリ)|パリ1区]]リヴォリ通り228番地<ref>その後、1842年に現在の[[2区 (パリ)|パリ2区]]ラ・ペ通り15番地に移転し、また、1912年[[シャンゼリゼ通り]]、1935年[[ヴァンドーム広場]]等に店舗を展開した。</ref>に店を開いたことに始まる。<br />
<br />
皇后[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]に献上した香水「オー・デ・コロン・イムペリアル」<ref>カナ表記はゲラン・ジャポンによる名称。より原音に近いものは「オー・ドゥ・コローニュ・アンペリアル」</ref> (Eau de Cologne Impériale) により帝室御用達となる。[[1889年]]に発表したジッキー (Jicky) が[[合成香料]]を用いた近代香水として高い評価を受ける。その後もルール・ブルー (L'Heure Bleue) 、ミツコ ([[Mitsouko]]) 、シャリマー (Shalimar)、夜間飛行 (Vol de Nuit) などの香水を出して名声を得た。ゲランはその香水の多くに[[バカラ (ガラス)|バカラ]]社製の香水瓶を用いた。<br />
<br />
1912年に[[シャンゼリゼ通り]]68番地に店舗を開く。ゲランは4代目[[調香師]]のジャン=ポール・ゲランまでの間、ゲルリナーデ (Guerlinade) と呼ばれる香りの調合法を受け継いで調香を担った。ゲランは創業以来[[同族経営]]を行なっていたが、1987年以降は[[LVMH]]による企業買収を受けて1994年にその傘下に入った。2011年時点で約80の国と地域に事業展開している<ref>「ブランド研究 (55) ゲラン 香りで時代を包む」 読売新聞 2011年4月29日東京朝刊、朝刊特集A面、21ページ</ref>。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
{{Double image aside|right|Flickr - mararie - eau imperiale.jpg|126|Flickr - ParisSharing - Guerlain, merchandising2.jpg|120|オー・デ・コロン・イムペリアルと「ゴールデンビーボトル」。栓の形状・装飾は1924年に変更があり献上当時の意匠と異なる|}}<br />
[[1798年]]、[[ピエール=フランソワ=パスカル・ゲラン]]はフランス北部の[[ピカルディ地域圏|ピカルディ地方]]に生まれた。ピエール=フランソワ=パスカルは白目細工職人である父との確執で故郷を後にすると渡英して石鹸製造に携わった。また化学と医学を学んだ<ref>モリス, 中村 (1992) pp.161-162.</ref>。[[1828年]]、帰仏後のピエール=フランソワ=パスカルは伯父が所有する、パリ・[[リヴォリ通り]]42番地の{{仮リンク|オテル・ムーリス|en|Hôtel Meurice}}に最初の[[ブティック]]を開いた。ピエール=フランソワ=パスカルはイギリスからの輸入石鹸を販売し、また複数の花の香りを用いた[[香水]]を調香して上流階級の顧客から支持を集めた<ref>松井 (1993) p.130</ref><ref>モリス, 中村 (1992) pp.161-163.</ref>。当時は単一の花の香りで生成される香水が主流であり、直接身にまとうのではなくハンカチや手袋・シーツに香りを付けていた。ゲランは[[フレグランス]]、[[スキンケア]]製品を扱う店として始まった。1830年に[[ボルドーワイン]]入りの[[リップクリーム]]「ボーム・デ・ラ・フェルテ」 (Baume de la Ferté) <ref>Fiona Bell (1998-06-13). [http://www.independent.co.uk/news/the-firm-that-created-designer-scent-1164529.html The firm that created designer scent] TheIndependent. 2012年3月17日閲覧</ref>と、現存の原型となるリキッド状のリップ「リキッド・ローズ・エキストラクト」 (Liquid Rose Extract) を発売した。1840年には[[コールドクリーム]]「ア・ラ・フレーズ・プール・タン」 (Crème à la fraise pour le teint) を発売、オーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]がこれを愛用したと伝わる<ref>[http://www.marieclaire.fr/,exposition-d-art-contemporain-guerlain-fete-ses-180-ans,20119,14944.asp Exposition d’art contemporain : Guerlain fête ses 180 ans] Marie Claire. 2012年3月17日閲覧</ref>。ゲランは1842年にベルギー王妃から御用達許可書を受け、1844年に[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の御用香水商となるなどヨーロッパの王侯貴族から支持を集めた<ref name=mc169>シャザル, 高波 (2010) p.169</ref>。ゲランは1844年にパリの中心地である[[ラ・ペ通り]]15番地に店舗を構え<ref name=rd226/>、1851年にはロンドンに出店した<ref name=mc169/>。ゲランがラ・ペ通りに進出した時期は文献によって異なり、他に1840年・1841年・1848年の記述が見られる<ref name=mc169/>。<br />
<br />
[[1853年]]、ゲランは[[ナポレオン3世]]の皇后[[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]に「オー・デ・コロン・イムペリアル」 (Eau de Cologne Imperiale) を献上した。この香水は1830年に調香した「フルール・ドゥ・セドラ」 (Esprit de Fleurs de Cedrat) を[[ポシェ・エ・デュ・キュルバル]]社が製作した香水瓶「ゴールデンビーボトル」に封入したものである<ref>シャザル, 高波 (2010) p.357</ref>。シトラス系の香水「オー・デ・ゲラン」 (Eau de Guerlain) を封入していたとの説もある<ref>ダブ, 新間 (2010) pp.226-227.</ref>。この香水瓶は[[帝政様式]]を持ち、ラ・ペ通りにある[[ヴァンドーム広場]]の円柱をモチーフに、ナポレオン3世のシンボルである69の[[ミツバチ]]の意匠を側面に純金を用いて描き散りばめていた<ref>エドワーズ (2005) p.15</ref>。ピエール=フランソワ=パスカルはこの香りの成功により帝室御用達調香師の称号を得た。ピエール=フランソワ・パスカルは1864年に亡くなり、息子であるエメとガブリエルが調香と経営を分業して受け継いだ。ゲランはニキビやニキビ跡の赤みをケアする「クリーム・カンフレア」 (Crème Camphrea) を1870年に<ref>Elsa McAlonan (2012-03-08). [http://www.dailymail.co.uk/femail/article-2111720/Beauty-confidential-And-lady-loves-nappy-cream--tried-tested-beauty-classics.html And all because the lady loves nappy cream... and other tried and tested beauty classics] [[:en:Mail Online|Mail Online]]. 2012年3月17日閲覧</ref>、<br />
初めてのスティックタイプのリップ「ヌ・ムブリエ・パ」 (Ne M'oubliez Pas) を1871年に発売した<ref>[http://www.lvmh.com/the-group/lvmh-companies-and-brands/perfumes-cosmetics/guerlain PERFUMES&COSMETICS GUERLAIN] LVMH. 2012年3月17日閲覧</ref>。ゲランはこの時期までにフランスにおける高級香水商の地位を確立した<ref name=bb23>ジョーンズ, 江夏, 山中 (2011) p.23</ref>。<br />
<br />
{{Double image|right|Guerlain - Le parfum de Champs-Elysees (1904) Tortue.jpg|110|L'Heure Bleue.jpg|135|シャンゼリゼの「トルテュ」(左)とルール・ブルーの「ジャンダルム」|}}<br />
{{Double image|right|Perfume Shalimar.jpg|122|Guerlain - Vol de nuit (1933) 2.jpg|123|シャリマーとヴォル・ドゥ・ニュイ(右)|}}<br />
[[File:Guerlain - Bouquet de Faunes (1926).jpg|thumb|160px|ブーケ・ドュ・フォーヌ<br />瓶は[[ルネ・ラリック]]による製作。噴水をモチーフとし側面に牧神を配置している]]<br />
[[1889年]]、ゲランは「ジッキー」 (Jicky) を発表する。この香水は天然素材と[[合成香料]]を加えて創った初期の近代香水である。実際に合成香料を最初に用いた香水は1882年に[[ウビガン]]社のポール・パルケが作成した「フジュール・ロワイヤル」であるが、ジッキーは天然素材の[[ローズマリー]]、[[ベルガモット]]、[[ラベンダー]]などに加え、合成香料の[[クマリン]]と[[バニリン]]をわずかに用いたことにより香りの多様な表現に成功して高い評価を受けている。[[シベット]]の含まれるジッキーの香りは女性にとって革新的なものであり当初は男性を中心に評価されたが、1910年代に入って女性からの支持をも集めた<ref>エドワーズ (2005) pp.16-17.</ref><ref>ジョーンズ, 江夏, 山中 (2011) p.17</ref>。フゼア系の香水として知られるジッキーは、エメの甥ジャック・ゲランの愛称・ジッキーから名づけられたとの説と<ref name=em172>モリス, 中村 (1992) p.172</ref>、若かりしエメが英国留学中に恋慕した女性の愛称から名づけられたとの説がある<ref name=rd92>ダブ, 新間 (2010) p.93</ref>。発売当時は薬瓶を香水瓶として使用したが、後にガブリエルがデザインした[[バカラ (ガラス)|バカラ]]社製香水瓶を採用した。同年、ゲランは[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]で香水部門を主催して審査委員長を担当、1900年の[[パリ万国博覧会 (1900年)|同博覧会]]で香水部門のグランプリを獲得した<ref>シャザル, 高波 (2010) p.171, p.176</ref>。また1890年にゲランらが全仏香水製造組合を設立して議長にエメが就任、エメの後を受けて3代目調香師となるジャック・ゲランが「オンブル」 (Ambre) を発表した。エメは1910年に亡くなった。<br />
<br />
[[File:Immeuble, 68 avenue des Champs-Élysées, Paris 8e 01.JPG|thumb|160px|シャンゼリゼ通り68番地の店舗1階外観]]<br />
1912年、ゲランは「ルール・ブルー」 (L'Heure Bleue) を発表した。[[ブルーアワー|青の時]]を意味する名を持つ、パリの黄昏の空を表現したフローラルオリエンタル系の香水であり、香水瓶にバカラ社製「ジャンダルム」を使用した。この時期に新興の香水商として[[フランソワ・コティ]]が台頭し始めていた。コティは[[ルネ・ラリック]]にデザインを依頼し、彼による香水瓶やパッケージは支持を集めた。香水瓶のデザインと芸術性はコティの登場によりマーケティング上の重要性を高めた<ref>ジョーンズ, 江夏, 山中 (2011) p.33</ref>。ゲランもこの時期に前後して香水瓶のデザインを変更している。ジッキーの香水瓶にバカラ社製「ギャドリドーブ」を採用し、1904年に発表した香水「シャンゼリゼ」 (Champs-Élysées) には亀甲をモチーフとしたバカラ社製「トルテュ」を採用した<ref>ダブ, 新間 (2010) p.259</ref>。[[1914年]]、ゲランは[[シャンゼリゼ通り]]68番地に店舗を開いた。第一次世界大戦後の1919年、ゲランは『[[ラ・バタイユ (クロード・ファレールの小説)|ラ・バタイユ]]』の登場人物の名を冠したシプレ系の香水「ミツコ」 ([[Mitsouko]]) を発表した。ミツコは1908年に合成された[[γ-ウンデカラクトン|アルデヒドC14]]による桃の香りを孕み、ルール・ブルーと同じバカラ社製のジャンダルムを香水瓶とした。ミツコは後年、香料に含まれる[[アレルゲン]]の問題により処方に変更がなされている<ref>新間 (2010) p.45</ref>。1925年、ゲランは[[パリ万国博覧会 (1925年)|パリ万国博覧会]]でオリエンタル系の香水「シャリマー」 (Shalimar) を発表した。多めの[[エチルバニリン]]を用いてベルガモット、ローズ、ジャスミンなどの香りを引き立てたこの香水の名は[[シャーラマール庭園|シャリマール庭園]]に由来、[[サンスクリット語]]の愛の殿堂を意味し、レイモンド・ゲランとバカラ社による香水瓶は[[ムガル帝国]]の[[仏塔|ストゥーパ]]をモチーフにしている<ref>エドワーズ (2005) p.56</ref>。ゲランはこの万国博覧会で香水部門の審査員長を務めた。シャリマーはオリエンタル系の範となる成功を収め、この後ゲランはアメリカ合衆国に拠点を置いて営業活動を開始した<ref>モリス, 中村 (1992) p.184</ref>。<br />
<br />
1933年、ゲランは「ヴォル・ドゥ・ニュイ」 (Vol de Nuit) を発表。この香水の[[夜間飛行]]を意味する名はジャックの友人である[[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]]の同名小説から名づけられ、香水瓶は飛行機のプロペラをイメージして放射状に広がる複数の立体的な線形を前面に施した意匠を採用した<ref>モリス, 中村 (1992) p.188</ref>。1937年には「コック・ドール」 (Coque d'Or) を発表、二枚貝を象るブルーガラス製の瓶全面に黄金の塗色を施す装飾を持たせたバカラ社製香水瓶を採用した<ref>フランス香水委員会 (1994) p.20</ref>。1939年にはシャンゼリゼ通り68番地の店舗3階に美容学校を開業した。ゲランはシャンゼリゼの店舗デザインにインテリアデザイナーの[[ジャン・ミッシェル・フランク]]、彫刻家の[[アルベルト・ジャコメッティ]]、イラストレーターの[[クリスチャン・ベラール]]を起用した。<br />
<br />
第二次世界大戦後の1955年、ゲランは4代目調香師となる18歳のジャン=ポール・ゲランが祖父ジャックとの共作を発表、1959年には庭師が発する土と煙草の香りをモチーフに調香した香水「ベチバー」 (Vetiver) を発表した<ref>ゲラン (2004) p.44</ref>。ジャックは1963年に亡くなった。1969年、ゲランはフローラル系の香水「シャマード」 (Chamade) を発表した。フランス語で熱き鼓動、あるいは籠城した軍が降伏する際に打ち鳴らす太鼓の音を意味する名を冠した、ヒヤシンス、カルバナム、[[クロスグリ|ブラックカラント]]などの香りを調和した香水である。この香水にはレイモンド・ゲランが貝殻をモチーフにデザインした香水瓶を採用した<ref>エドワーズ (2005) p.149</ref>。1970年、ゲランは日本に現地法人を設立した。1974年、ジャン=ポールの父ジャン=ジャック・ゲランらが調香師の学校である[[ISIPCA]] (Institut supérieur international du parfum, de la cosmétique et de l'aromatique alimentaire, 香水・化粧品・食品国際高等学院) を設立した<ref>ゲラン (2004) p.29</ref>。1960年代以降、アメリカにおける香水の需要が拡大し、また新規参入する業者の増加にしたがって広告戦略の重要性が増していた<ref>エドワーズ (2005) p.251</ref>。ゲランは1970年代以降に積極的な広告戦略を推進した<ref>モリス (1992) p.255</ref>。1984年、ゲランはパウダー「テラコッタ」 (Terracotta) を発売し、パリでヒットを呼んだ。1987年には空から舞い降りる隕石をイメージしたカラーボール状の[[フェイスパウダー|パウダー]]「メテオリット」 (Météorites) を発売して好評を得る<ref>「ざん新な化粧品で消費者の心つかむP・ゲラン氏 洗練の美を追求 (発流行人) 」 日経流通新聞1991年4月30日付 27ページ</ref>。同年、[[ベルナール・アルノー]]の率いる[[LVMH]]がゲランの企業買収を開始した。1989年、ゲランはウッディ系の香水「サムサラ」 (Samsara) を発表した。サンスクリット語の[[輪廻]]に由来する名を冠し[[白檀]]と[[ジャスミン]]などの香りを調和した香水である。ジャン=ポールによると、サムサラは香りの決定までに309回の処方を要した<ref>松井 (1993) p.137</ref>。従来のゲランは調香師が香りを完成させ、香水瓶を選定して命名し、その後に広告活動を開始する手法を採ってきたが、この香水ではその順序を改め、テーマを東南アジアに決定した後に香りの創作を開始した<ref>エドワーズ (2005) pp.251-252.</ref>。この香水には5000万ドルの広告費が投じられた<ref>「ジャン・ポール・ゲランさん 来日したフランスの名門調香師」 朝日新聞 1990年3月20日朝刊、東京版、22ページ</ref>。サムサラが成功を収めた後の時期、ゲランの全世界における売上高は日経産業新聞によると20億[[フランス・フラン|フラン]] (1992年) <ref>[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa199401/hpaa199401_2_026.html 文部科学省 (平成6年)]によると1992年のIMF為替レートは1フラン=24円、1993年は1フラン=20円である。</ref>、純利益は1億6200万フラン (1993年)であった<ref name=nk1994/>。<br />
<br />
[[1994年]]、買収を進めていた[[LVMH]]が発行済み株式の58.8%を取得したことにより、ゲラン社は同グループの傘下に入った<ref name=nk1994>「仏ルイ・ヴィトン、「ゲラン」ブランド買収 香水事業を拡大へ。」 日経産業新聞 1994年5月10日付、3ページ</ref>。1996年にLVMHがゲラン社の発行済み株式を100%取得したことにより、創業者一族のゲラン家は同社の経営から離れた<ref>「「ブランド王国」版図拡大 ヴィトン、セリーヌ買収、ゲランも全株取得。」 日本経済新聞 1996年5月1日夕刊、3ページ</ref>。ジャン=ポールはその後も社に残り、2002年までゲラン社と雇用関係にあった<ref>[http://articles.cnn.com/2010-10-16/world/france.perfume.tycoon.slur_1_jean-paul-guerlain-anti-racism-racial-epithet?_s=PM:WORLD French perfume designer under fire for racial slur] CNN (2010-10-16). 2012年3月19日閲覧</ref>。<br />
2005年、ゲランはシャンゼリゼ通り68番地の店舗を改装し、地上3階の「メゾン・ド・ゲラン」 (La Maison de Guerlain) が完成した<ref>Stephanie Rosenbloom (2005-07-21). [http://www.nytimes.com/2005/07/21/fashion/thursdaystyles/21open.html OPEN FOR BUSINESS - New York and Paris] New York Times. 2012年3月17日閲覧</ref>。2008年、ティエリー・ワッサーが5代目調香師に就任した。<br />
<br />
なお、1900年代後半から2000年代初頭まで東京都銀座を中心にファッションブランド「銀座ゲルラン」(タグ表記は「GUERLAIN」)を擁し国内各所に店舗展開していたゲルラン商事株式会社(東京都新宿区市谷本村町)・株式会社ゲルラン(東京都中央区銀座5丁目)とは、一切関係ない<ref name=shinpan_20041214>[http://shohyo.shinketsu.jp/decision/tm/search/SearchInput.do;jsessionid=8EC42F29E50964BF80104D29A4D19900 商標の呼称「ゲルラン」 審決2004年12月14日] - 商標審決データベース</ref>。<br />
<br />
== ゲランと歴代調香師 ==<br />
ゲランは調香技術と才能を継承してフレグランスを創作した。初代ピエール=フランソワ=パスカルによる社訓は「首尾一貫してよい物を造り出す。品質に妥協はない。単純なアイデアに固執し、それを慎重に当てはめていくこと」であった<ref>ナヴィインターナショナル (1996) p.17</ref>。ゲランは天然素材を尊重した処方に拘りを持ち、微かに[[合成香料]]を用いた<ref>ゲラン (2004) p.29</ref>。ゲラン家代々の調香師は香りに女性への尊敬と愛を表現していた<ref>松井 (1993) pp.135-144.</ref>。2代目のエメとガブリエル以降は調香と経営を分業する体制を敷いた。ゲラン家は優れた鼻を持つ一族を選び出し教育を施して調香師を育て上げた。4代目ジャン=ポールは祖父から約3000種の香りを嗅ぎ分ける訓練を施された。ゲランは一族の調香師がゲルリナーデ (Guerlinade) と呼ばれる香りの調合法と処方を受け継ぎ、フレグランスの新しい歴史を刻んだ<ref>ダブ, 新間 (2010) pp.226-227.</ref>。[[LVMH]]に入った後に従来の処方に変更があったとされる。2000年代に入りゲラン家出身以外の調香師が誕生した。<br />
* 初代:ピエール=フランソワ=パスカル・ゲラン (Pierre-François-Pascal Guerlain, [[1798年]] - [[1864年]]) <br />
* 2 代目:エメ・ゲラン (Aimé Guerlain, [[1834年]] - [[1910年]]) - ピエールの息子<br />
* 3 代目:ジャック・ゲラン (Jacques Guerlain, [[1874年]] - [[1963年]]) - エメの甥<br />
* 4 代目:ジャン=ポール・ゲラン (Jean-Paul Guerlain, [[1937年]] - ) - ジャックの孫<br />
* 5 代目:ティエリー・ワッサー (Thierry Wasser, [[1961年]] - ) <br />
<br />
== 主な歴代フレグランス ==<br />
{| class="wikitable sortable"<br />
! 名称 !! 和名 !! 年 !! 備考 !! <br />
|-<br />
|Santeurs des Champs||サントゥール・デ・シャン (田園の香り) || 1828 ||ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン調香||<ref>『ゲラン180周年記念本』 p.13</ref><br />
|-<br />
|Esprit de Fleurs||エスプリ・ドゥ・フルール (花の精) || 1828 ||ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン調香||<ref>『ゲラン180周年記念本』 p.13</ref><br />
|-<br />
|Esprit de Fleurs de Cedrat||フルール・ドゥ・セドラ(シトロンの精)|| 1830 || ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン調香||<ref name=mc113>シャザル, 高波 (2010) p.113</ref><br />
|-<br />
|Eau Lustrale||オー・リュストラル(澄みきった水)|| 1830 ||ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.92</ref><br />
|-<br />
|Eau de Cologne Russe double imperiale||オーデコロン・リュス・ドゥーブル・イムペリアル|| 1840 ||ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.92</ref><br />
|-<br />
|Pois de Senteur||ボワ・ドゥ・サンタール(スイートピー)|| 1840 ||ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン調香||<ref>シャザル, 高波 (2010) p.239</ref><br />
|-<br />
|Eau de Cologne Impériale||オー・デ・コロン・イムペリアル || 1853 ||ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン調香||<ref name=rd226>ダブ, 新間 (2010) p.226</ref><br />
|-<br />
|Eau Impériale||オー・イムペリアル || 1861 ||ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン調香||<ref>モリス, 中村 (1992) p.161</ref><br />
|-<br />
|Eau de Verveine||オー・ドゥ・ヴェルヴェーヌ(ヴェルヴェーヌの水)|| 1872 ||エメ・ゲラン調香||<ref name=mc127>シャザル, 高波 (2010) p.127</ref><br />
|-<br />
|New Mown Hay||ニュー・モーン・ヘイ(刈りたての藁)|| 1880 ||エメ・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.92</ref><br />
|-<br />
|Eau de Cologne||オー・ドゥ・コローニュ|| 1881 ||エメ・ゲラン調香||<ref name=mc113/><br />
|-<br />
|Fleurs d'ltalie||フルール・ディタリー || 1884 ||エメ・ゲラン調香||<ref name="Edwards">エドワーズ (2005) p.294</ref><br />
|-<br />
|Rococo||ロココ || 1887 ||エメ・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Jicky||ジッキー || 1889 ||エメ・ゲラン調香||<ref>ダブ, 新間 (2010) p.91</ref><br />
|-<br />
|Cuir de Russie||キュイール・ドゥ・リュシー (ロシアの皮) || 1890 ||エメ・ゲラン調香||<ref>モリス, 中村 (1992) p.172</ref><br />
|-<br />
|Excellence||エクセランス || 1890 ||エメ・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Genet||ジュネ(エニシダ) || 1890 ||エメ・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.94</ref><br />
|-<br />
|Belle France||ベル・フランス || 1892 ||エメ・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Ambre||オンブル || 1890 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Peau d'Espagne||ポー・デスパーニュ(スペインの皮)|| 1893 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name=mc127/><br />
|-<br />
|RITA||リタ|| 1893 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.95</ref><br />
|-<br />
|Le Jarden de Mon Cure||ジャルダン・ドゥ・モンキュレ || 1895 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Vetiver||ヴェチヴェル|| 1895 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name=mc127/><br />
|-<br />
|Eau de Rose||オー・ドゥ・ローズ(バラ水)|| 1895 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name=mc127/><br />
|-<br />
|Voila pourquoi j'aimais Rosine||ヴォワラ・プークワ・ジャメ・ロジーヌ || 1900 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Fleur Qul Meurt||フルール・キ・ムール || 1901 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Bon Vieux Temps||ボン・ビュー・トン || 1902 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Extra-Dry||エクストラ・ドライ|| 1904 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name=mc127/><br />
|-<br />
|Voilette de Madame||ヴォワレット・ドゥ・マダム || 1904 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Le Mouchoir de Monsieur||ル・ムッシュワール・ドゥ・ムッシュー || 1904 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Champs-Élysées||シャンゼリゼ || 1904 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Apres L'Onde||アプレ・ロンデ (にわか雨の後)|| 1906 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Sillage||シャージュ || 1907 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Muget||ミュゲ || 1908 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Une Rose||ユンヌ・ローズ || 1908 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Rue de la Paix||リュ・ドゥ・ラ・ペ || 1908 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Le Jardin De Mon Cure||ル・ジャルダン・ドゥ・モン・キュレ(私の司祭の庭) || 1910 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.117</ref><br />
|-<br />
|Quand vient l'été||カンビアン・ラテ || 1910 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Pour Troubler||プール・トゥルブレ || 1911 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|L'Heure Bleue||ルール・ブルー (蒼色の時)|| 1912 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>ダブ, 新間 (2010) p.101</ref><br />
|-<br />
|Fol Arome||フォラローム|| 1912 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.132</ref><br />
|-<br />
|Jasmiralda||ジャスミラルダ|| 1912 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.133</ref><br />
|-<br />
|Canard||カナール(鴨)|| 1914 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.139</ref><br />
|-<br />
|Vague Souvenir||ヴァーグ・スーヴニール(曖昧な記憶)|| 1916 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.146</ref><br />
|-<br />
|[[Mitsouko]]||ミツコ|| 1919 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>ダブ, 新間 (2010) p.105</ref><br />
|-<br />
|Eau de Fleurs de Cedrat||オー・デ・フルール・ド・セドラ || 1920 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Guerlinade||ゲルリナーデ || 1922 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Bouquet de Faunes||ブーケ・ドュ・フォーヌ (牧神の花束) || 1922 ||ジャック・ゲラン調香、香水瓶は[[ルネ・ラリック]]製作<ref>フランス香水委員会 (1994) p.75</ref>||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Candide Effluve||カンディド・エフルーヴ || 1924 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Shalimar||シャリマー || 1925 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>ダブ, 新間 (2010) p.114</ref><br />
|-<br />
|Vega||ベガ || 1926 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|DJEDI||ジェディ || 1927 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Liu||リゥ || 1929 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Vol de Nuit||ヴォル・ドゥ・ニュイ (夜間飛行) || 1933 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>ダブ, 新間 (2010) p.126</ref><br />
|-<br />
|Sous Levent||スール・ヴァン || 1933 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|A Travers Champs||ア・トラヴェル・シャン(野を越えて)|| 1933 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.276</ref><br />
|-<br />
|Guerlarose||ゲラローズ || 1934 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.277</ref><br />
|-<br />
|Coque d'Or||コック・ドール (金色のリボン) || 1937 ||ジャック・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Atuana||アトゥアナ || 1952 ||ジャック・ゲラン調香||<ref>香水瓶の図鑑, 原書房 (2014) p.318</ref><br />
|-<br />
|Ode||オード || 1955 ||ジャン=ポール・ゲラン最初の調香、ジャックと共作<ref>ダブ, 新間 (2010) p.227</ref>||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Vetiver||ベチバー || 1959 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref>エレナ, 芳野 (2010) p.144</ref><br />
|-<br />
|Chant D'Aromes||シャン・ダローム || 1962 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Habit Rouge||アビ・ルージュ(赤い乗馬服) || 1965 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Chamade||シャマード || 1969 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref>ダブ, 新間 (2010) p.167</ref><br />
|-<br />
|Eau de Guerlain||オー・デ・ゲラン || 1974 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Parure||パリュール || 1975 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|First||ファースト || 1976 ||ジャン=ポール・ゲラン調香<!--日本未発売-->||<ref name=me148>エドワーズ (2005) p.148</ref><br />
|-<br />
|Silences||サイエンス || 1978 ||ジャン=ポール・ゲラン調香<!--日本未発売-->||<ref name=me148/><br />
|-<br />
|Nahéma||ナエマ || 1979 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref>ダブ, 新間 (2010) p.177</ref><br />
|-<br />
|Jardins de Bagatelle||ジャルダン・バガテール || 1983 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Derby||ダービー || 1985 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Samsara||サムサラ || 1989 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref>ダブ, 新間 (2010) p.189</ref><br />
|-<br />
|Héritage||エリタージュ || 1992 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Petit Guerlain||プティ・ゲラン || 1994 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Un Air de Samsara||エール・ド・サムサラ || 1995 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Champs-Élysées||シャンゼリゼ || 1996 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<ref name="Edwards"/><br />
|-<br />
|Guerlinade||ゲルリナーデ || 1998 ||||<br />
|-<br />
|Belle Epoque||ベルエポック || 1999 ||||<br />
|-<br />
|Cherry Blossom||チェリーブロッサム || 1999 ||ジャン=ポール・ゲラン調香||<br />
|-<br />
|Aqua Allegoria||アクア・アレゴリア || 1999 ||ジャン=ポール・ゲラン他調香||<ref>[http://www.guerlain.com/jp/ja/base.html#/ja/guerlain-heritage/lepatrimoine-subtitle/creations/ ゲラン]</ref><br />
|-<br />
|Météorites||メテオリット || 2000 ||||<br />
|-<br />
|L'Instant Guerlain||ランスタン・ゲラン(ゲランの瞬間)|| 2003 ||モーリス・ルーセル調香||<ref>エレナ, 芳野 (2010) p.142</ref><br />
|-<br />
|Insolence||アンソレンス|| 2006 ||モーリス・ルーセル調香||<ref>エレナ, 芳野 (2010) p.142</ref><br />
|-<br />
|Guerlain Homme||ゲラン・オム|| 2008 ||ティエリー・ワッサー調香||<br />
|-<br />
|Idylle||イディール|| 2009 ||ティエリー・ワッサー調香||<br />
|-<br />
|La Petite Robe Noire||ラ・プティット・ローブ・ノワール(モデル3)|| 2012 ||ティエリー・ワッサー調香||<br />
|-<br />
|L'HOMME IDEAL||ロムイデアル|| 2014 ||ティエリー・ワッサー調香||<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist|25em}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* エドウィン・T・モリス (著), 中村祥二 (監修) 『フレグランス クレオパトラからシャネルまでの香りの物語』 求龍堂 1992年 ISBN 4-7630-9210-3<br />
* 松井孝司 『フランス香水の旅~香りを創る男たち』 日本放送出版協会 1993年 ISBN 4-14-080105-0<br />
* フランス香水委員会 (監修) 『香水賛歌 魅惑の薫り』 朝日新聞社 1994年 ISBN 4-02-258576-5<br />
* ナヴィインターナショナル (著) 『香水ベストコレクション360』 1996年 日本文芸社 ISBN 978-4537017960<br />
* ジャン=ポール・ゲラン (著) 『ゲラン香りの世界への旅』 フレグランスジャーナル社 2004年 ISBN 978-4894790759<br />
* マイケル エドワーズ (著) 『パヒュームレジェンド 世界名香物語』 フレグランスジャーナル社 2005年 ISBN 978-4894790872<br />
* ルカ・トゥリン, タニア・サンチェス (著) 『世界香水ガイド☆1437 「匂いの帝王」が五つ星で評価する』 原書房 2008年 ISBN 978-4-562-04232-6<br />
* ロジャ・ダブ (著) 新間美也 (監修) 『フォトグラフィー 香水の歴史』 原書房 2010年 ISBN 978-4-562-04548-8<br />
* ジャン=クロード・エレナ (著), 芳野まい (訳) 『香水 香りの秘密と調香師の技』 白水社 2010年 ISBN 978-4-560-50953-1<br />
* 新間美也 (著) 『香水のゴールデンルール』 原書房 2010年 ISBN 978-4-562-04599-0<br />
* マルティーヌ・シャザル (著・監修), 高波眞知子 (著) 『香水瓶の世界 きらめく装いの美』 ロータスプラン 2010年<br />
* ジェフリー・ジョーンズ (著), 江夏健一・山中祥弘 (監訳) 『ビューティービジネス 「美」のイメージが市場をつくる』 中央経済社 2011年 ISBN 978-4-502-68870-6<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commonscat|Guerlain}}<br />
* [http://www.guerlain.com/guerlain/index.jspz GUERLAIN] {{en icon}}<br />
* [http://www.guerlain.co.jp/index.html GUERLAIN] {{ja icon}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:けらん}}<br />
[[Category:フランスの文化]]<br />
[[Category:パリの文化]]<br />
[[Category:フランスの化粧品メーカー・ブランド]]<br />
<br />
[[Category:香水メーカー・ブランド]]<br />
[[Category:多国籍企業]]<br />
[[Category:LVMH]]</div>
103.226.44.5
高等法院 (フランス)
2016-10-16T01:11:41Z
<p>103.226.44.5: /* 歴史と概要 */dauphine「ドーフィネ」(ドーフィヌ)という言葉同様、「ー」挿入</p>
<hr />
<div>{{otheruses|アンシャン・レジームの高等法院|その他|高等法院 (曖昧さ回避)}}<br />
[[image:Parlement-Paris-Charles7.jpg|thumb|250px|パリ高等法院における[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の[[親裁座]]]]<br />
'''高等法院'''(こうとうほういん、{{lang-fr-short|Parlement}}, {{IPA-fr|pärləmäN|}}<small> [http://ja.forvo.com/word/parlement/#fr 発音例]</small>)は[[アンシャン・レジーム]]期の[[フランス]]の最高司法機関である。'''パルルマン'''または'''評定法院'''とも日本語訳される<ref>「アンシアン・レジーム―フランス絶対主義の政治と社会」(ユベール・メティヴィエ (著)井上堯裕 (翻訳)、白水社、1965年)p65</ref>。なお、'''parlement'''は語源的には「話し合いの場」を意味するもので、現代では「議会」を意味するが(英語のparliamentと同様)、フランスの高等法院は裁判所であって立法機関(議会)ではない。<br />
<br />
高等法院は[[売官制]]により官職を購入した[[法服貴族 (フランス)|法服貴族]]により構成されていた。通常の司法権限だけでなく、勅令や法令の登記や国王に建言する立法的行政的権限も有しており、貴族階級の特権を擁護する彼らはしばしば王権と対立した。その対立の最たるものが[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の治世初期に起こった[[フロンドの乱]]である。[[ブルボン朝]]末期には、彼らと国王との対立が[[フランス革命]]の契機の一つとなった。革命が起こると高等法院は[[1790年]]に廃止された。<br />
<br />
== 歴史と概要 ==<br />
[[中世]]のフランスにおいては[[フランス王|国王]]を取り巻く王会<ref>''{{lang|fr|Conseil du Roi}}''または''[[キュリア・レジス|{{lang|fr|Curia regis}}]]''</ref>が王国内の全ての事項を取り扱っていた。[[13世紀]]、王権の拡大に伴い王会は政務を扱う国務会議、財政を扱う会計監査院、そして司法を扱う高等法院の三つの機関に分割された。当初はパリ高等法院だけであり、[[シテ島]]にある中世の宮殿内に建てられ、この場所は現在の[[パレ・ド・ジュスティス (パリ)|パレ・ド・ジュスティス]](パリ裁判所)である。<br />
<br />
[[14世紀]]まではパリ高等法院が王国全域を管轄していたが、[[百年戦争]]の混乱が続く[[1443年]]に[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]が[[ラングドック]]地方に独自の高等法院を認め、[[トゥールーズ]]高等法院が設置された。これが最初の地方高等法院で、その管轄権は南フランスのほとんどの地域に及んでいる。[[1443年]]から[[フランス革命]]までに他の地方でも幾つかの高等法院が設立されている。アンシャン・レジーム終焉までに地方高等法院が設立された地方は(北から)[[アラス]]、[[メス (フランス)|メス]]、[[ナンシー]]、[[コルマール]]、[[ディジョン]]、[[ブザンソン]]、[[グルノーブル]]、[[エクス=アン=プロヴァンス|エクス]]、[[ペルピニャン]]、[[トゥールーズ]]、[[ポー]]、[[ボルドー]]、[[ルーアン]]である。これらは歴史的に独立性が強い地域の行政首都に置かれた。パリ高等法院は北部と中部のほとんどを占める最も広い管轄地域を有しており、単に「高等法院」と呼ばれた。<br />
<br />
これらの法院の官職は通常は国王から購入し、そしてこの身分は国王{{仮リンク|ポーレット税|en|Paulette (tax)}}を支払うことによって世襲ができ、[[法服貴族 (フランス)|法服貴族]]<ref>''{{lang|fr|noblesse de robe}}''</ref>と呼ばれた。国王によって強固に統一されているのではなく司法制度、税制そして慣習において多様であったフランスにおいて彼らは強力な分権勢力となっていた。幾つかの地域では地方[[三部会]]が継続して開催され、ある種の自治による立法と管轄地域における徴税を執行していた。<br />
<br />
通常の司法機能以外に全ての高等法院は勅令の発効や慣習法を実施するための規定布告を出すことができ、それ故、彼らは基本法や地方慣習<ref>''{{lang|fr|coûtumes}}''</ref>に反すると判断したならばその勅令の登記を拒否することもできる勅法登記権と、国王に助言を述べる建言権を有していた<ref>「ルイ14世 フランス絶対王政の虚実」(千葉治男、清水書院、1984年)p40-41</ref><ref>「アンシアン・レジーム―フランス絶対主義の政治と社会」(ユベール・メティヴィエ (著)井上堯裕 (翻訳)、白水社、1965年)p66</ref>。<br />
<br />
司法官たちの見解では高等法院の役割には立法過程に積極的に参加することが含まれるとし、このことが彼らとアンシャン・レジーム期の絶対王権の進展との紛争の増大をもたらすことになり、[[16世紀]]には国王が{{仮リンク|親裁座|en|Lit de justice}}に就き勅命の登記を強いるようになった<ref>Mack P. Holt, "The King in Parlement: The Problem of the Lit de Justice in Sixteenth-Century France" ''The Historical Journal'' '''31'''.3 (September 1988:507-523).</ref><ref>「アンシアン・レジーム―フランス絶対主義の政治と社会」(ユベール・メティヴィエ (著)井上堯裕 (翻訳)、白水社、1965年)p66</ref>。<br />
<br />
高等法院は[[ガリカニスム]](フランス教会自立主義)を擁護して[[教皇]]に対する王権の優越を支持した。[[ユグノー戦争]]の時には高等法院は教皇の権力を強化する[[トリエント公会議]]の教会改革のフランスへの導入に反対した。内戦の終わりには[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]は各地の高等法院の忠誠を獲得している。<br />
<br />
勅法登記権と建言権をもって高等法院(特にパリ高等法院)は、しばしば王権と対立した。その最たるものが[[フロンドの乱]](1648年~1652年)である。パリ高等法院は[[イギリス議会|イングランド議会]]と同様の王国内の財務に関する権限を要求した<ref>「ルイ14世 フランス絶対王政の虚実」(千葉治男、清水書院、1984年)p41</ref>。イングランド議会を構成する二院のうちの[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]は選挙で選出された議員によって構成されるが、高等法院は世襲官僚によって構成されている。<br />
<br />
[[1673年]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は勅令の登記に際して高等法院による如何なる批評も禁じた。これにより、彼の治世では高等法院は建言権を封じられてしまった。ルイ14世が死去すると、パリ高等法院は王の遺言を廃棄して[[フィリップ2世 (オルレアン公)|オルレアン公]]の[[摂政]]就任を支持する代わりに建言権を取り戻している。<br />
<br />
[[1750年]]、高等法院は全身分に対する課税を含む王権強化の改革を妨害した。このため、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]は高等法院の権限を削減する決意をする。[[1771年]]、大法官[[ルネ・ニコラ・シャルル・オギュスタン・ド・モープー|モープー]]([[:en:René Nicolas Charles Augustin de Maupeou|en]])はパリ高等法院と地方高等法院を廃止して、権限を六つの機関に分割する司法改革を断行した。だが、次の[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]は「高等法院なしに国王はない」とのモールパ伯の進言により、[[1774年]]に高等法院を復活させる誤りを犯してしまう。そして、ルイ16世は常に高等法院の抵抗に遭い妥協を強いられるようになった。高等法院は[[フランス革命]]前の[[1780年]]代の政治的動揺に重要な役割を果たしている。高等法院は貴族特権を守るために国王に抵抗していたのだが、国王の「専制」に反対する「民衆の父」<ref>「フランスの法服貴族―18世紀トゥルーズの社会史」(宮崎揚弘、同文舘出版、1994年)p222</ref>として多くの人々から支持された。あらゆる改革に抵抗することによって、彼らは革命を準備したことになる。だが、高等法院は革命の最初の犠牲者となった。[[1790年]]、[[憲法制定国民議会|国民議会]]の決定により世襲の司法官たちは選挙により選出された新たな司法官に替えられ、高等法院は解体された<ref>「フランスの法服貴族―18世紀トゥルーズの社会史」(宮崎揚弘、同文舘出版、1994年)p225</ref>。<br />
<br />
==地方高等法院==<br />
{|<br />
! colspan="3" style="font-weight: normal; text-align: left;" | '''アンシャン・レジーム期の[[フランスの州 (フランス革命以前)|フランス各州]]の高等法院と最高評定院<ref>{{lang|fr|conseils souverain}}</ref>。''' 数字は設立年<ref>Dates and list based on Pillorget, vol 2, p. 894 and Jouanna p. 1183.</ref>。<br />
|-<br />
| <br />
*1. [[イル=ド=フランス地域圏|イル=ド=フランス]] ('''[[パリ]]''' 1260)<br />
*4. [[ノルマンディー]] ('''[[ルーアン]]''' 1499/1515)<br />
*5. [[ラングドック]] ('''[[トゥールーズ]]''' 1443)<br />
*7. [[ドーフィネ]] ('''[[グルノーブル]]''' 1453)<br />
*12. [[ギュイエンヌ]]と[[ガスコーニュ]] ('''[[ボルドー]]''' 1462)<br />
*13. [[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ]] ('''[[ディジョン]]''' 1477)<br />
*16. [[プロヴァンス]] ('''[[エクス=アン=プロヴァンス]]''' 1501)<br />
*20. [[ブルターニュ地域圏|ブルターニュ]] ('''[[レンヌ]]'''、短期間 [[ナント]], 1553)<br />
*26. [[ベアルン]] ('''[[ポー]]''' 1620)<br />
*27. [[アルザス地域圏|アルザス]] (州都[[ストラスブール]]、最高評定院は'''[[コルマール]]'''に所在 1667)<br />
*28. [[アルトワ]] (最高評定院'''[[アラス]]''' 1640)<br />
*29. [[ルシヨン]] (最高評定院'''[[ペルピニャン]]''' 1660)<br />
*30. [[フランドル]]と[[エノー州|エノー]] (州都[[リール (フランス)|リール]]、高等法院は当初は [[トゥルネー]]、後に'''[[ドゥエー]]''' 1686)<br />
*31. [[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]]('''[[ブザンソン]]''' 1676; 以前は[[ドール]] (1422))<br />
*32. [[ロレーヌ]] ('''[[ナンシー]]''' 1776)<br />
*37. [[サヴォイア]] ('''[[シャンベリ]]''' 1537-1559)<br />
* (未表示) [[ドンブ]] ('''[[トレヴー]]''' 1523-1771)<br />
* (未表示) [[コルシカ島|コルス島]] (最高評定院'''[[バスティア]]''' 1768)<br />
* (未表示) [[三司教管区]] ('''[[メス司教区]]''' 1633)<br />
* ''注: 地図は高等法院の管轄地域を表していない。地図の国境は現代のもので、当時のフランス領土を表していない。この表の州は幾つかの歴史的州と郡部を含んでいる。<br />
| [[Image:Provinces of France.png|300px|Provinces of France]]<br />
|}<br />
<br />
==司法的役割==<br />
高等法院は民事、刑事、行政の裁判権限を有し、終審裁判所となるが、他の行政諸院(会計法院、租税法院、貨幣法院)の管轄事件については上告が可能になっている<ref>「フランスの法服貴族―18世紀トゥルーズの社会史」(宮崎揚弘、同文舘出版、1994年)p47</ref>。<br />
<br />
最高責任者は国王の親任状をもって任命される法院長で、組織は大審議部<ref>''{{lang|fr|la grand-chambre}}''</ref>、調査部<ref>''{{lang|fr|la chambre des enquêtes}}''</ref>、申請部<ref>''{{lang|fr|la chambre des requêtes}}''</ref>から成っているが、地方高等法院によって部局の数や構成は異なる。<br />
<br />
法院の司法官になるには弁護士の資格を取得して、[[売官制]]を通じて国王から官職を購入する。官職はポーレット税を国王に支払うことによって世襲が可能であり、新興ブルジョワ階層から新たな貴族が生まれ、彼らは中世以来の帯剣貴族<ref>''{{lang|fr|noblesse d'épée}}''</ref>に対して[[法服貴族 (フランス)|法服貴族]]<ref>''{{lang|fr|noblesse de robe}}''</ref>と呼ばれた。<br />
<br />
民事裁判では訴訟当事者たちは司法官にエピス<ref>''{{lang|fr|épices}}'':スパイスの意味で、当初、香料漬けの果物や糖果を贈る習慣であったので、転じて裁判官への贈答品をさす。後には単に金銭を払う賄賂となった</ref>を支払わねばならない。このため裕福な者や縁故がある者以外の平民にとって民事裁判は縁遠いものだった。<br />
<br />
刑事裁判の手続きは著しく古風なものだった。司法官は自白や[[共犯|共犯者]]の名前を引き出すために容疑者の[[拷問]]を命じることができ、通常の拷問である「通常尋問」<ref>''{{lang|fr|question ordinaire}}''</ref>とより残忍な「特別尋問」<ref>''{{lang|fr|question extraordinaire}}''</ref>が存在した。容疑者が貧しい単なる平民の場合は、[[推定無罪]]の概念はほとんどなかった。単なる[[窃盗]]を含む様々な犯罪に対して死刑が宣告でき、これは犯罪の種類と被害者の社会階層によった。処刑は貴族には[[斬首刑]]、平民には[[絞首刑]]が行われ、平民による凶悪犯罪には[[車裂きの刑]]、[[異端]]と[[無神論]]の擁護には[[火刑]]が執行された。[[王殺し]]の様な犯罪にはより残忍な処刑方法が執行される。<br />
<br />
司法官による拷問や残忍な方法の処刑は[[1788年]]に[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]によって廃止されている<ref>[http://history.rutgers.edu/graduate/ab93silv.htm Abstract of dissertation "'Pour savoir la verité de sa bouche': The Practice and Abolition of Judicial Torture in the Parlement of Toulouse, 1600-1788"] by Lisa Silverman.</ref>。<br />
<br />
==政治的役割==<br />
理論上は高等法院は[[立法府]]ではなく裁判所である。しかしながら、高等法院には全ての[[勅令]]と[[法令]]を登録する責務あり、勅令は高等法院が登記して発効する(勅法登記権)。幾つかの特にパリ高等法院は次第に彼らが同意しない法令の登記を拒否するようになり、国王は親裁座<ref>''{{lang|fr|lit de justice}}''</ref>を開催するか拘禁令状<ref>''{{lang|fr|lettre de cachet}}''</ref>を出して強制するようになった。また、高等法院は国王に対して助言する権利と義務を有しており(建言権)、国王はその助言を重んじることになっているが必ずしも従う義務はない<ref> 「フランスの法服貴族―18世紀トゥルーズの社会史」(宮崎揚弘、同文舘出版、1994年)p48</ref>。<br />
<br />
更に高等法院は治安維持や行政に関する指導権限を有し、管轄地域に適用される院判決<ref>''{{lang|fr|arrêts de réglement}}''</ref>を定めることができ、行政権と立法権も兼ね備えていた<ref> 「フランスの法服貴族―18世紀トゥルーズの社会史」(宮崎揚弘、同文舘出版、1994年)p47-48</ref>。<br />
<br />
絶対主義の確立を進める王権に対して、貴族の諸特権(特に免税特権)を擁護する高等法院は国王としばしば対立している。<br />
<br />
[[フランス革命]]直前の数年間、アンシャン・レジームでのブルジョワと貴族の諸特権の保護への高等法院の非常な関心はフランスにおける様々な改革(とりわけ税制改革)を阻害し、理論上は[[絶対王政]]を支える改革であっても抵抗した。<br />
<br />
高等法院のこの行為が[[フランス革命]]以降、フランスの裁判所が[[フランス民法典]]第5条によって法律の制定と立法機関として活動することを禁じられ、権限を法律の解釈に限られた理由の一つである。[[ナポレオン法典]]以降、フランスは判例が[[コモン・ロー|普通法]]の国でほど強力ではない近代[[大陸法]]制度の起原であった。[[先例遵由の法理]]も最高裁判所もなく、裁判所の違憲審査権もないフランス法制度の弱さの原因は「司法官による統治」との敵対に起因している<ref>Michael H. Davis, ''The Law/Politics Distinction, the French Conseil Constitutionnel, and the [[:en:Supreme Court of the United States|U. S. Supreme Court]]'', The American Journal of Comparative Law, Vol. 34, No. 1 (Winter, 1986), [http://www.jstor.org/stable/840292 pp. 45-92]</ref><ref>James Beardsley, ''Constitutional Review in France'', The Supreme Court Review, Vol. 1975, (1975), [http://www.jstor.org/stable/3108812 pp. 189-259]</ref><ref>Denis Tallon, John N. Hazard, George A. Bermann, ''The Constitution and the Courts in France'', The American Journal of Comparative Law, Vol. 27, No. 4 (Autumn, 1979), [http://www.jstor.org/stable/839794 pp. 567-587]</ref>。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* {{fr icon}} Bluche, François. ''L'Ancien régime: Institutions et société''. Collection: Livre de poche. Paris: Fallois, 1993. ISBN 2-253-06423-8<br />
* {{fr icon}} Jouanna, Arlette and Jacqueline Boucher, Dominique Biloghi, Guy Thiec. ''Histoire et dictionnaire des Guerres de religion''. Collection: Bouquins. Paris: Laffont, 1998. ISBN 2-221-07425-4<br />
* {{fr icon}} Pillorget, René and Suzanne Pillorget. ''France Baroque, France Classique 1589-1715''. Collection: Bouquins. Paris: Laffont, 1995. ISBN 2-221-08110-2<br />
<br />
'''和書'''<br />
*「フランスの法服貴族―18世紀トゥルーズの社会史」(宮崎揚弘、同文舘出版、1994年)ISBN 978-4495860110<br />
* 「アンシアン・レジーム―フランス絶対主義の政治と社会」(ユベール・メティヴィエ (著)井上堯裕 (翻訳)、白水社、1965年)<br />
*「ルイ14世 フランス絶対王政の虚実」(千葉治男、清水書院、1984年) ISBN 978-4-389-44013-8 <br />
*「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」(長谷川輝夫、大久保桂子、土肥恒之共著、中公文庫、2009年)ISBN 978-4-12-205115-7 <br />
<br />
{{DEFAULTSORT:こうとうほういん}}<br />
[[Category:フランスの歴史]]<br />
[[Category:フランス革命]]<br />
[[Category:フランスの司法裁判所|廃]]<br />
[[Category:廃止された裁判所]]<br />
[[Category:フランス古法]]<br />
<br />
[[bg:Парижки парламент]]</div>
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