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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&user=103.226.44.10&feedformat=atom
miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-16T01:21:33Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
銀座
2018-08-02T03:18:55Z
<p>103.226.44.10: /* 主な店舗・施設 */細部ミス修正</p>
<hr />
<div>{{改名提案|銀座 (東京都中央区)|date=2018年7月}}<br />
{{脚注の不足|date=2013年4月}}<br />
{{Otheruseslist|[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]にある商業地区|[[封建制|封建時代]]([[近世]])の日本の政権において、[[銀貨]]の[[鋳造]]を行った機関|銀座 (歴史)|[[パチンコ]]・[[パチスロ]]メーカー|銀座 (企業)|全国にある地名の銀座|銀座 (地名)}}<br />
{{Pathnav|日本|東京都|[[中央区 (東京都)|中央区]]|frame=1}}<br />
{{Infobox settlement<br />
| name = 銀座<br />
| settlement_type = [[町丁]]<br />
| image_skyline = Ginza01s3872.jpg<br />
| imagesize = 270px<br />
| image_caption = 銀座四丁目交差点<br />
| image_map = <br />
| map_caption = 銀座の位置<br />
| pushpin_map = Japan Wards of Tokyo#<br />
| latd = 35 | latm = 40 | lats = 16.4 | latNS = N<br />
| longd = 139 | longm = 45 | longs = 54.0 | longEW = E<br />
| subdivision_type = [[国の一覧|国]]<br />
| subdivision_name = {{JPN}}<br />
| subdivision_type1 = [[都道府県]]<br />
| subdivision_name1 = [[File:Flag of Tokyo Prefecture.svg|border|25px]] [[東京都]]<br />
| subdivision_type2 = [[東京都区部|特別区]]<br />
| subdivision_name2 = [[File:Flag of Chuo, Tokyo.svg|border|25px]] [[中央区 (東京都)|中央区]]<br />
| subdivision_type3 = [[地域]]<br />
| subdivision_name3 = [[京橋区|京橋地域]]<br />
| established_title1 = <!--- 設置 ---><br />
| established_date1 = <!--- 設置日 ---><br />
| area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---><br />
| area_total_km2 = 0.87<br />
| elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---><br />
| elevation_m = 4.4<br />
| population_as_of= [[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在<br />
| population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|url=http://www.city.chuo.lg.jp/kusei/statisticaldata/zinko/tyotyomebetuzinko/index.html|title=町丁目別世帯数男女別人口|publisher=中央区|date=2017-12-05|accessdate=2017-12-31}}</ref><br />
| population_total = 3544<br />
| population_density_km2 = auto<br />
| timezone1 = [[日本標準時]]<br />
| utc_offset1 = +9<br />
| postal_code_type = [[郵便番号]]<br />
| postal_code = 104-0061<ref name="postal">{{Cite web |url=http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=1040061|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2017-12-31}}</ref><br />
| area_code = 03<ref name="areacode">{{Cite web|url=http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2017-12-31}}</ref><br />
| registration_plate = [[東京運輸支局|品川]]<br />
| footnotes = ※座標・標高は銀座四丁目交差点付近<br />
}}<br />
<br />
'''銀座'''(ぎんざ)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]の[[地名]]で、旧[[京橋区]]の[[地域]]にある。現行行政地名は銀座一丁目から銀座八丁目。[[郵便番号]]は104-0061<ref name="postal" />。[[地域ブランド]]としても知られている。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[日本]]有数の[[繁華街]]であり[[下町]]の一つでもある。東京屈指の高級な商店街として、日本国外においても戦前より[[フジヤマ]]、[[ゲイシャ]]、[[ミキモト]]、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]などとともに知られる。「銀座」の名は一種の[[ブランド]]になっており全国各地の[[商店街]]には「○○銀座」と呼ばれる所がそこかしこに見受けられる。銀座の地名の由来は、[[江戸時代]]に設立された[[銀]][[貨幣]]の鋳造所のことで、[[1601年]](慶長6年)に[[京都]]の伏見に創設されたのが始まり{{sfn|浅井建爾|2001|p=154}}。1606年(慶長11年)に[[駿府]](現・静岡市)の置かれていた幕府の銀座鋳造所(銀座役所)が、[[1612年]](慶長17年)に[[江戸]]に移され{{sfn|浅井建爾|2001|p=154}}、その後[[1800年]]に[[東京]]の[[日本橋蛎殻町|蛎殻町]]に移転して以来、元の「新[[両替町]]」の名称に代わって「銀座」として親しまれるようになり<ref>{{Cite web|url=http://www.ginza-machidukuri.jp/column/column1-5.html|title=銀座八丁―町名の変遷|publisher=銀座まちづくり会議・銀座デザイン協議会|work=ウェブサイト|accessdate=2018-02-17}}</ref>、銀座役所が[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]に移転されたあともこの地名が定着した。また、銀座四丁目交差点周辺は[[商業地]]として日本一[[地価]]の高い場所としても知られる。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
[[ファイル:Car Free Ginza 201806.jpg|thumb|[[中央通り (東京都)|中央通り]]の[[歩行者天国]]]]<br />
[[File:銀座ー1.JPG|thumb|オリンピック凱旋パレード(2012年8月19日撮影)]]<br />
[[File:銀座ー2.JPG|thumb|巨人軍優勝パレード(2009年11月22日撮影)]]<br />
東京都中央区の西部に位置し、西を[[千代田区]]、南を[[港区 (東京都)|港区]]に接する。北側より銀座一丁目から銀座八丁目まで存在する。また、[[江戸城外堀]]を埋め立てた[[東京高速道路]]の1・2階部分は商店街となっているが、行政区画が未確定な部分もあり、俗に銀座九丁目・銀座西◎丁目地先などと呼ばれる。こうした事情から、銀座は4丁目と5丁目を除き、1番地が存在しない。こうした未整理区域が在ることを利用し、銀座八丁目と新橋の間には銀座九丁目を示す「銀座ナイン」と呼ばれる商業施設が3棟あり<ref>行政区画上、銀座八丁目の管轄となっている。なお、建物の上は道路になっている。</ref>、2号館には「銀座九丁目」というおでん屋が入居している。<br />
<br />
街路に関しては、[[仙台市|仙台]]、[[秋田市|秋田]]、[[会津若松市|会津若松]]、駿府([[静岡市|静岡]])、[[名古屋市|名古屋]]、大坂([[大阪市|大阪]])、[[広島市|広島]]など多くの[[近世]][[城下町]]の[[町人]]地と同じく、[[直交]]街路を基本としており、これは近隣の[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]地区と同様である。<br />
<br />
しかし、[[大阪市|大阪]]の[[船場]]や[[名古屋市|名古屋]]の[[錦三丁目|錦]]周辺、あるいは[[京都市|京都]]の[[四条通|四条]][[室町通|室町]]周辺などと異なり、街区は[[正方形]]ではなく細長い[[長方形|短冊形]]となっている。これは、京都のうち[[豊臣秀吉]]による都市改造を受けた地域や、大阪の[[上汐|平野町]]や[[天満]]周辺、[[松山市|松山]]などと共通する。<br />
<br />
また、街路網は北東から南西に向かう'''[[中央通り (東京都)|中央通り]]'''を中軸として設計されており、[[大阪市|大阪]]、[[京都市|京都]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[札幌市|札幌]]のように東西南北の方位を基準とした構造を有していないばかりか、銀座における中央通りの軸線は、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[神田 (千代田区)|神田]]における軸線と異なる方向を向いている。これは、[[徳川家康]]による当初の都市計画の際、[[#江戸前島|江戸前島]]以来の[[微高地]]の[[尾根]]筋沿いに、地形に沿った主軸線として通町筋(とおりちょうすじ、現在の中央通り)を設定し、そこから両側に向かう道路を設けることにより、効率的な[[排水]]の便を図ったものといわれる。<br />
<br />
[[近代]]になってからの[[都市計画]]に基づきさらに整備が加えられている。[[関東大震災]]後、[[後藤新平]]による震災復興の[[都市計画]]における目玉として、中央通りの東側に、新たな北東-南西軸([[東京]]全体の南北軸の一部)として[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]が設けられた。また、[[数寄屋橋]]から銀座四丁目交差点、[[歌舞伎座]]前を経て[[勝どき橋]]方面へ至る、北西-南東方向の主要な直交街路として[[晴海通り]]が大通りとして整備され、銀座街区の西側には[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]が整備された。<br />
<br />
このような整備にも関わらず、銀座内部の街路は昔ながらのものであり、通りから通りへと抜ける[[路地]]が多く点在し銀座らしい空間を醸し出している。<br />
<br />
地域の[[郵便番号]]は104-0061で統一されている。<br />
<br />
=== 区域 ===<br />
南東側を現在の[[首都高速都心環状線]]、その他を[[東京高速道路]]にぐるりと囲まれた地域である。かつては、東を[[三十間堀川]]、西を江戸城外堀、南を[[汐留川]]、北を[[京橋川 (東京都)|京橋川]]に囲まれた人工の島であった。<br />
<br />
[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]の南東に位置する地域は、かつて[[木挽町]]と呼ばれる地域だったが、三十間堀川の埋め立てにより銀座と地続きとなったことから銀座東と改名し、1960年代後半に銀座西と共に銀座に統合された。首都高速都心環状線を挟んだ地域も含めて[[東銀座駅]]を最寄りとする一帯は、一般的に'''東銀座'''と呼ばれている。<br />
<br />
一方、[[数寄屋橋]]を中心とする地域はかつて銀座西という町名だったが、地下鉄[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]の[[西銀座駅]](現在の[[銀座駅]])があったことなどから、町名が銀座となった今でも'''西銀座'''の名を冠した施設も散在する(例:[[西銀座デパート]]・西銀座チャンスセンター・西銀座通り)。<br />
<br />
<!---この名残からか、[[第一勧業銀行]]の店舗で、銀座五丁目の店舗を'''銀座支店'''(と銀座通支店)、銀座一丁目の店舗を'''西銀座支店'''としていた。[[みずほ銀行]]発足後、前者は、銀座四丁目の[[富士銀行]]数寄屋橋支店(みずほ銀行数寄屋橋支店)所在地に移転の上、同支店との[[ブランチインブランチ]]の後に統合し、現在は[[数寄屋橋富士ビル]]の建てかえに伴い、旧有楽町支店所在地に仮店舗を設置している。後者は、旧富士銀時代の銀座支店であった銀座中央支店に統合されている(このほか、第一勧銀時代の数寄屋橋支店がみずほ銀行銀座外堀通支店として銀座七丁目にあったが、銀座通支店に統合されている)。---><br />
<br />
==== 区域・町名の変遷 ====<br />
[[ファイル:Ginza-townmap-kyobashiward.png|thumb|[[土地区画整理事業|区画整理]]実施前後の<br />町名町域対照地図<br />([[1930年]]3月)]]<br />
* [[1869年]](明治2年)5月<br />
*: 江戸町名改正により新両替町と三十間堀西側等をあわせて銀座一丁目から銀座四丁目が起立。<br />
*: 当時の銀座一丁目から銀座三丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、観世通り、松屋通り、桜通り(東京高速道路)に囲まれた四角形、銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在のあづま通り、観世通り、晴海通り、松屋通りに囲まれた四角形にあたる。<br />
* [[1930年]](昭和5年)3月4日<br />
*: [[区画整理]]により現在の晴海通り北側の4町域を銀座一丁目〜銀座四丁目に編入。また、現在の晴海通り南側の9町域を統合して銀座五丁目〜銀座八丁目とし、同時にこれら「銀座」地区と外堀に挟まれた18町域を統合して銀座西一丁目〜銀座西八丁目とした。<br />
*: この時点での銀座一丁目〜銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、[[晴海通り]]、桜通りに囲まれた四角形にあたる。また、当時の銀座五丁目〜銀座八丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、御門通り、晴海通りに囲まれた四角形にあたる。「銀座西」は「銀座」と西側にある外堀に囲まれた地域。<br />
* [[1951年]](昭和26年)8月1日<br />
*: 三十間堀川の埋め立てにより木挽町と陸続きになることから、この木挽町一丁目を銀座東一丁目(銀座東二丁目〜銀座東八丁目も同様)と改名した(埋め立ては[[1952年]]7月に完了した)。<br />
* [[1968年]](昭和43年)10月1日<br />
*: [[住居表示]]実施により、銀座西一丁目と銀座一丁目を統合し、これを改めて銀座一丁目(銀座二丁目〜銀座八丁目も同様)として<ref>1968年(昭和43年)12月28日自治省告示第243号「住居表示が実施された件」</ref>銀座西が消滅(ただし[[東京高速道路]]下にある店舗などは未だに何区に帰属するか確定していないため、暫定的に「中央区銀座西◎丁目地先」と名乗っている)。<br />
* [[1969年]](昭和44年)4月1日<br />
*: 住居表示実施済みの銀座一丁目に未実施の銀座東一丁目を編入し、これを改めて銀座一丁目(銀座二丁目〜銀座八丁目も同様)として<ref>1969年(昭和44年)7月2日自治省告示第113号「住居表示が実施された件」</ref>銀座東が消滅。<br />
<br />
{|class="wikitable"<br />
|-<br />
!実施後<br />
!実施年月日<br />
!実施前(特記なければ各町名ともその全域)<br />
|-<br />
|rowspan="2"|銀座一丁目<br />
|[[1968年]][[10月1日]]<br />
|銀座西一丁目、銀座一丁目<br />
|-<br />
|[[1969年]][[4月1日]]<br />
|銀座一丁目、銀座東一丁目<br />
|-<br />
|rowspan="2"|銀座二丁目<br />
|1968年10月1日<br />
|銀座西二丁目、銀座二丁目<br />
|-<br />
|1969年4月1日<br />
|銀座二丁目、銀座東二丁目<br />
|-<br />
|rowspan="2"|銀座三丁目<br />
|1968年10月1日<br />
|銀座三丁目、銀座西三丁目の一部<br />
|-<br />
|1969年4月1日<br />
|銀座三丁目、銀座東三丁目<br />
|-<br />
|rowspan="2"|銀座四丁目<br />
|1968年10月1日<br />
|銀座西四丁目、銀座四丁目、銀座西三丁目の一部<br />
|-<br />
|1969年4月1日<br />
|銀座四丁目、銀座東四丁目<br />
|-<br />
|rowspan="2"|銀座五丁目<br />
|1968年10月1日<br />
|銀座西五丁目、銀座五丁目<br />
|-<br />
|1969年4月1日<br />
|銀座五丁目、銀座東五丁目<br />
|-<br />
|rowspan="2"|銀座六丁目<br />
|1968年10月1日<br />
|銀座西六丁目、銀座六丁目<br />
|-<br />
|1969年4月1日<br />
|銀座六丁目、銀座東六丁目<br />
|-<br />
|rowspan="2"|銀座七丁目<br />
|1968年10月1日<br />
|銀座西七丁目、銀座七丁目<br />
|-<br />
|1969年4月1日<br />
|銀座七丁目、銀座東七丁目<br />
|-<br />
|rowspan="2"|銀座八丁目<br />
|1968年10月1日<br />
|銀座西八丁目、銀座八丁目<br />
|-<br />
|1969年4月1日<br />
|銀座八丁目、銀座東八丁目<br />
|}<br />
<br />
==== 隣接する地区 ====<br />
{|<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
* 東 - [[新富 (東京都中央区)|新富]]、[[築地]]<br />
* 西 - [[内幸町]]、[[有楽町]]、[[丸の内]]<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
* 南 - [[浜離宮庭園]]、[[東新橋]]、[[新橋 (東京都港区)|新橋]]<br />
* 北 - [[八重洲]]、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]、[[八丁堀 (東京都中央区)|八丁堀]]<br />
|}<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
=== 江戸時代 ===<br />
[[江戸時代]]以前、現在の[[丸の内]]から[[日比谷]]にかけては[[日比谷入江]]と呼ばれ海になっており、その東には[[隅田川]]の運んできた砂によって[[#江戸前島|江戸前島]]という[[砂州]]が形成されていた。その先端が現在の銀座にあたる<ref>岡本 12頁</ref>。<br />
<br />
* 江戸前島<br />
:'''江戸前島'''は銀座付近にあった半島。[[中央通り (東京都)|中央通り]]付近を尾根筋とし、[[汐留]]付近を先端としていた。江戸時代初めの[[日比谷入江]]の埋め立てにより、日本橋台地と呼ばれる微高地になっている<ref>{{cite web|title=江戸の道路と地形-地図趣味のすすめ|url=http://mapfreak.sakura.ne.jp/column/nihonbashi.html|accessdate=2012/12/25}}</ref>。<br />
<br />
[[1600年]]、[[徳川家康]]が[[関ヶ原の戦い]]に勝利し、[[1603年]]に[[江戸幕府]]を樹立すると、第一回目の[[天下普請]]が行われ、[[日比谷入江]]の埋め立てと京橋地区の整備が進められた。[[1604年]]には[[東海道]]が整備されたが、銀座の都市基盤の整備は[[1612年]]の第二回目の天下普請まで待つことになる<ref>岡本 26頁</ref>。整備は、[[間|京間]]10間とした東海道(銀座通り)を中心にグリッド状に設計され、それぞれの[[街区]]の中央には[[会所地]]が設けられた。町割りは[[金座]]御金改役で家康の側近でもあった[[後藤庄三郎]]を中心に行われた。<br />
<br />
[[町人地]]として整備が行われた銀座には、[[1612年]]に[[駿府]]にあった[[銀座 (歴史)|銀座役所]](現在の[[静岡市]][[葵区]][[両替町]]一丁目)が移転し、銀貨の鋳造が行われた。当時、通町京橋より南一丁目〜四丁目までを拝領して新両替町と称し銀座人らが住居を構え、新両替町二丁目東側南角に[[大黒常是|常是役所]]、この北隣に銀座役所が設けられた。常是役所は現在の[[第一三共|第一三共ビル]]付近、銀座役所は現在の[[ティファニー|ティファニー銀座ビル]]の位置に相当する。[[1715年]]には[[大判座]]の[[後藤四郎兵衛|後藤屋敷]]が一丁目に移転してきた。これらの場所は現在の銀座一丁目から四丁目にあたる。銀を特権的に扱う銀座は相当な利益があり、銀座役人の不正事件が多発したことから、銀座そのものは1800年に蛎殻町(現在の[[日本橋人形町]]一丁目付近)に移転させられるが、呼び名としての銀座は当地の通称としてそのまま残った<ref>[http://www.ginza.jp/history ヒストリー]銀座Tokyo Ginza Official</ref>。<br />
<br />
現在の五丁目〜八丁目は、尾張町、竹川町、出雲町と呼ばれていた。現在の銀座七丁目付近には[[朱座]]が設けられた。また、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった[[能]]の四座のうち三座も銀座に置かれた。このほかにも、[[槍]]や[[鍋]]といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。<br />
<br />
[[1657年]]、[[明暦の大火]]により江戸は大半を焼失し、銀座も大きな被害を出した。これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも[[三十間堀川]]沿いの[[河岸]]の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。<br />
<br />
江戸時代の銀座は、[[御用達]]町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の[[三田村鳶魚]]も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと、自著『銀座』内で語っている。<br />
<br />
=== 明治時代 ===<br />
[[ファイル:Tokyo-edohakub-ginza.jpg|thumb|銀座煉瓦街のミニチュア(江戸東京博物館)]]<br />
[[ファイル:Ginza in 1880s.JPG|thumb|1880年代の銀座]]<br />
銀座に転機が訪れたのは、[[明治維新]]後の[[1869年]]と[[1872年]]に起こった2度の大火だった。特に、1872年の銀座大火は[[和田倉門]]内の[[兵部省]]添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、[[東京府知事]]・[[由利公正]]の主導により、大規模な[[区画整理]]と、[[トーマス・ウォートルス]]設計による[[ジョージアン様式]]の[[銀座煉瓦街]]の建設が行われた。この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった[[横浜市|横浜]]〜[[東京]]間を結ぶ鉄道の終点・[[新橋駅]]と、当時の東日本経済の中心地であった[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の間に位置する銀座を[[文明開化]]の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされる。[[ロンドン]]の[[リージェント・ストリート]]に倣って、街路樹(当初は松・桜・もみじ)やガス燈、アーケードなどが造られた<ref>{{YouTube|PTWUeI6kcFM|The Ginza in the late 19th century, with Japanese narration}}([[藤森照信]]、Massachusetts Institute of Technology, 2009)</ref>。煉瓦街はまず[[1873年]]、[[銀座通り]]沿いに完成し、[[1877年]]に全街区の建設が完了した。<br />
<br />
しかし、その一方で、住民たちは自らの住所に帰ることができなかった。煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店である。<br />
<br />
こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。まず、[[実用品]]の[[小売]]を中心とした町であったこと。そして、[[京橋区]]という下町にありながら、顧客は主に[[山の手]]([[番町]]、[[市谷]]、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]、[[麻布]]など)に住む[[華族]]や[[財閥]]といった[[特権階級]]([[上流階級]])や、[[中産階級]]、[[ホワイトカラー]]の人々だったということである<ref>小野一成「繁華街としての銀座」『銀座 街の物語』 81頁</ref>。当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた[[浅草]]・[[上野]]だった。一方、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。<br />
<br />
=== 大正・昭和戦前 ===<br />
[[ファイル:Ginza circa 1920.JPG|thumb|1920年頃の銀座]]<br />
[[ファイル:Ginza after Great Kanto earthquake.JPG|thumb|関東大震災直後の銀座通り]]<br />
[[ファイル:Ginza in 1933.JPG|thumb|1933年の銀座通り]]<br />
[[1923年]][[9月1日]]に発生した[[関東大震災]]で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。国の援助を受けて[[東京市]]は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]の整備、[[晴海通り]]や[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]の拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。<br />
<br />
なお戸越の商店街は震災後の排水処理に困っていた為、銀座から撤去されたレンガを貰いうけて排水処理に利用した。この由来から『[[戸越銀座]]』と名乗るようになって、全国初の「○○銀座」となった<ref>大石学『駅名で読む江戸・東京』、237頁</ref>。その後、全国各地に「○○銀座」と名付けられた[[商店街]]が数多く形成されていくようになった。<br />
震災後は、[[東京駅]]の開業に伴う[[丸の内]]の発展や[[東京市電]]の整備などにより、[[百貨店]]や[[劇場]]、[[喫茶店]]([[カフェー]])などが次々と登場し、[[震災恐慌]]や[[金融恐慌]]などで日本中が不景気に見舞われるなかでも発展を続けてゆく。昭和初期には[[アール・デコ]]の影響を受けたモダンボーイ([[モボ・モガ|モボ]])やモダンガール([[モボ・モガ|モガ]])と呼ばれる人々が町を闊歩し、散策する「[[銀ブラ]]」が全盛を極める<ref group="†">「銀ブラ」の語源については諸説あるが、安藤更生『銀座細見』によれば大正4、5年頃、[[慶應義塾]]の学生が使い始めた言葉であるという説などがある。<!---パウリスタの宣伝に関する記述を除去。[[カフェーパウリスタ]]と[[銀ぶら]]で言及あり。このページのノート参照 → 意味不明です。[[銀ぶら]]ではパウリスタ以上に慶應義塾についてもっとも言及されているが。---></ref><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=1c2ElCTJ998#t=39 1930年代の銀座] - 銀座を練り歩く資生堂石鹸の[[キャンペーンガール]]たち(Massachusetts Institute of Technology所蔵)</ref>。<br />
<br />
しかし、日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。戦局の悪化に伴い[[1940年]]に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による[[広告灯]]・[[ネオンサイン]]の消滅、[[1944年]]には[[警視庁]]によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。[[第二次世界大戦]]末期の[[1945年]]1月27日に銀座は初めて空襲を受け多数の死者・重傷者を出した。爆弾は[[中央区立泰明小学校|泰明国民学校]]にも直撃し教員4人が死亡、2人が重軽傷を負った<ref>『銀座 街の物語』 119頁</ref>。その後も3月10日、4月28日、5月25日の空襲で銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受ける事となる。<br />
<br />
=== 戦後 ===<br />
[[ファイル:Ginza circa 1960.jpg|thumb|1960年頃の銀座]]<br />
[[ファイル:Morinaga Ginza Neon sign 19530420-2.JPG|thumb|[[森永ミルクキャラメル]]の地球儀型ネオン広告塔(1950年代後期)]]<br />
第二次世界大戦が終わると、[[服部時計店]]、[[松屋 (百貨店)|松屋]]や銀座東芝ビル<ref group="†">[[東急不動産]]に買収されて後の銀座TSビル。[[阪急百貨店#数寄屋橋阪急|モザイク銀座阪急]]が入居していた。[[2012年]]9月に取り壊され現存しない。</ref>など、多くの商業施設が[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍]]の[[PX]]として接収された。その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められ、被災した商店は[[バラック]]や[[露店]]で営業を再開した。[[華僑]]・[[王長徳]]による一等地買占めが行われたのもこの時期である。[[1946年]]には銀座復興祭が行われ、銀座の復興は軌道に乗り出した。[[1951年]]に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の命令により露店は廃止になったが、その頃から接収解除になる建物が増え、銀座は賑わいを取り戻していった。<br />
<br />
銀座は明治維新以来の事情から伝統的に不燃建物が多く、戦災を免れた建物も比較的多かったが、復興の過程では戦災を免れた建物もかなり多くのものが取り壊され、建物の(当時としては)高層化が進み、中央通り沿いの景観は、[[建築基準法]](当時)の[[百尺規制]](約31m、1尺≒303mm)で建物の高さが揃うまでになっていった。また、[[1964年]]の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]開催に合わせて東京の都市インフラ整備も急速に進められ、[[1949年]]の[[三十間堀川]]の埋め立てを皮切りに、銀座を取り囲んでいた掘割の埋め立てが行われ、銀座西端の旧外堀、南端の[[汐留川]]、北端の[[京橋川 (東京都)|京橋川]]を埋め立て、1964年に[[東京高速道路]]が完成するなど、掘割は道路へと変貌を遂げていった。<br />
<br />
そんな銀座であったが、銀座には暗い影が忍び寄りつつあった。上述のように、明治維新以来、銀座の主要な顧客であり銀座の個性的文化を創ってきたのは、地方から上京して[[山手]]地区に住む[[ホワイトカラー]]層であったが、[[関東大震災]]以降、山手の住宅街は、[[東京急行電鉄]]や[[小田急電鉄]]、[[西武鉄道]]等の沿線住宅開発により、[[武蔵野台地]]を急速に西へ西へと広がっていた。これら電鉄会社は、大阪の[[阪急電鉄]]に倣ってそれぞれの都心側[[ターミナル駅]]の繁華街建設を進めており、[[渋谷]]、[[新宿]]、[[池袋]]に代表される[[副都心]]の鉄道ターミナル繁華街が勃興しつつあったのである。[[山手線]]よりはるかに西に住むようになったホワイトカラー層の主力にとって、銀座は遠い繁華街になりつつあった。[[1964年]]の[[みゆき族]]、[[1971年]]の[[マクドナルド]]1号店の開店、[[1970年]]の[[歩行者天国]]の開始などを最後に、東京の繁華街の文化的中心としての銀座は、山手在住の若者文化の中心としての地位を[[渋谷]](「[[シブヤ系]]」も参照)や[[原宿]]に、庶民的な要素も含めた総合的な筆頭繁華街としての地位は、[[新宿]]に奪われることになっていく。[[1980年代]]後半には、[[バブル景気]]に伴う[[地価]]高騰の象徴として、銀座の天文学的地価が連日報道され、[[高級クラブ]]に代表される夜の街としてのステータスは盤石ながらも、総合的な繁華街としては首都圏における鉄道沿線文化の色分けに組み込まれていき、銀座は、[[千葉弁]]が飛び交う、東京東部の一繁華街に落ち着きつつあった。<br />
<br />
[[1990年代]]後半になると、東京郊外の西への拡張が一段落し、都心[[再開発]]のブームが起きて、[[都心]]としての銀座が再び脚光を浴びるようになる。銀座の各所で再開発が促され、[[ヨーロッパ]]の高級ブランド各社も銀座の持つブランド性に再び着目するようになった結果、海外の高級ブランド店が、中央通りや晴海通りなどに表通りに軒を連ねるようになった。他方、都心再開発は、遠く遠ざかっていた東京西部郊外の住民を、一定程度銀座にも呼び戻すことになった。彼らによって、総合的繁華街としての副都心の雰囲気が銀座にも持ち込まれるようになり、長期不況に伴う小売業態の変化も手伝って、[[ドラッグストア]]や[[飲食店]]の[[チェーン店]]なども開業するようになった。その結果、[[戦前]]や[[高度経済成長]]期のような「独特な高級繁華街」としての雰囲気は、随分薄くなっていると言える。<br />
<br />
[[2010年代]]になると、[[中国人]][[観光客]]によるいわゆる爆買に代表される外国人観光客が目立つようになった。それにあわせ外国人向け免税店や既存の店舗の中に外国人向け免税コーナーや免税手続き所を設ける店舗が多くなっている<ref>http://diamond.jp/articles/-/77270 銀座の免税店競争が過熱、ラオックス、三越にロッテも参入 週刊ダイヤモンド編集部2015年8月25日</ref>。<br />
<br />
== 地域 ==<br />
=== 世帯数と人口 ===<br />
[[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"></ref>。<br />
{| class="wikitable"<br />
![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]<br />
|-<br />
|銀座一丁目<br />
|style="text-align:right"|944世帯<br />
|style="text-align:right"|1,513人<br />
|-<br />
|銀座二丁目<br />
|style="text-align:right"|447世帯<br />
|style="text-align:right"|638人<br />
|-<br />
|銀座三丁目<br />
|style="text-align:right"|201世帯<br />
|style="text-align:right"|284人<br />
|-<br />
|銀座四丁目<br />
|style="text-align:right"|126世帯<br />
|style="text-align:right"|179人<br />
|-<br />
|銀座五丁目<br />
|style="text-align:right"|34世帯<br />
|style="text-align:right"|52人<br />
|-<br />
|銀座六丁目<br />
|style="text-align:right"|38世帯<br />
|style="text-align:right"|59人<br />
|-<br />
|銀座七丁目<br />
|style="text-align:right"|186世帯<br />
|style="text-align:right"|244人<br />
|-<br />
|銀座八丁目<br />
|style="text-align:right"|463世帯<br />
|style="text-align:right"|575人<br />
|-<br />
|style="text-align:center"|計<br />
|style="text-align:right"|2,439世帯<br />
|style="text-align:right"|3,544人<br />
|}<br />
<br />
[[1908年]]には27,689人が暮らしていたが、[[関東大震災]]や戦争を機に郊外流出が進み、[[1955年]]に15,582人にまで減少した。さらに[[高度経済成長|高度経済成長期]]には人口減少に拍車がかかり、[[1970年]]の人口は6,257人、[[1998年]]は2,963人にまで減少したが、それ以降は[[都心回帰]]に伴う投資[[マンション]]の建設ラッシュによって多少は増加に転じているもののそれらマンションの実態は事務所使用が著しく多い。<br />
<br />
=== 小・中学校の学区 ===<br />
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school">{{Cite web|url=http://www.city.chuo.lg.jp/kosodate/gakkokyouiku/nyugaku/kuritugakkoannai.html|title=区立学校一覧|publisher=中央区|date=2017-08-17|accessdate=2017-12-31}}</ref>。<br />
<br />
{| class="wikitable"<br />
!丁目!!番地!!小学校!!中学校<br />
|-<br />
|rowspan=2|銀座一丁目||2〜10番<br/>11番1〜2号||[[中央区立泰明小学校]]||rowspan=12|[[中央区立銀座中学校]]<br />
|-<br />
||11番3号<br/>12~28番||rowspan=2|[[中央区立京橋築地小学校]]<br />
|-<br />
|rowspan=2|銀座二丁目||10〜16番<br />
|-<br />
||2〜9番||rowspan=2|中央区立泰明小学校<br />
|-<br />
|rowspan=2|銀座三丁目||2〜8番<br />
|-<br />
||9〜15番||rowspan=2|中央区立京橋築地小学校<br />
|-<br />
|rowspan=2|銀座四丁目||9〜14番<br />
|-<br />
||1〜8番||rowspan=5|中央区立泰明小学校<br />
|-<br />
||銀座五丁目||全域<br />
|-<br />
||銀座六丁目||全域<br />
|-<br />
||銀座七丁目||全域<br />
|-<br />
||銀座八丁目||全域<br />
|}<br />
<br />
=== 景観 ===<br />
[[ファイル:Ginza-WAKO 2012.JPG|thumb|[[和光 (商業施設)|和光]]本館]]<br />
銀座の建物は戦後復興の[[1960年代]]までに建設されたものが多く、当時の[[建築基準法]]により高さ31mに制限され、統一された[[景観]]を形成してきた。しかし、老朽化した建物の建て替えに際して、多くの建物が[[容積率]]制度の導入される[[1964年]]以前に建設されたものであることから、建て替え前よりも小さい規模での建設を余儀なくされることや、建物の高層化により統一した景観が阻害されることを懸念した地元と[[中央区 (東京都)|中央区]]が協議し、[[1998年]]に地区計画「'''銀座ルール'''」が制定された。ルールでは、道路幅に応じて高さ13〜56mにまで制限し、容積率も基準を800%、最大でも1100%とし、開発に大幅な制限をした<ref>三枝進「銀座の未来」『銀座 街の物語』 111頁</ref>。<br />
<br />
しかし、[[2002年]]に[[都市再生特別措置法]]の「緊急整備地域」に指定されたために、容積率が大幅に緩和され、銀座においても再開発による建物の高層化の機運が高まることとなった。これとは別に、[[2005年]]に[[都市計画法]]の[[特定街区]]制度を活用して銀座八丁目に121mの[[三井ガーデンホテル銀座プレミア|銀座三井ビルディング]]が建設された。この流れを受けて、[[2004年]]に地元企業は[[資生堂]]名誉会長の[[福原義春]]を代表とする「銀座街づくり会議」を発足させた。<br />
<br />
そのなかで、 [[松坂屋]]が[[森ビル]]と共同で松坂屋銀座店と隣の街区を合わせて大規模な再開発をする計画が浮上。また、ほぼ同時期に[[歌舞伎座]]でも建て直しに伴う一部高層化の計画が発覚し、再び「銀座ルール」の見直しがされることとなった。[[2006年]]に施行された新ルールでは、[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]より西の銀座中心部では一切の例外を禁止して建物の高さを56mに抑え、今まで規定のなかった[[屋上広告]]についても最大で10mまでとした。<br />
<br />
一方で、昭和通りより東では、区長が「文化等の維持・継承に寄与する大規模開発」と判断した場合に限って56mを超える建物の建設が許可されることになり、歌舞伎座の再開発は認められた。また建物の建設に際して[[建築確認]]の前に「銀座街づくり会議」が選出した学者や地元商店主らによって構成された「銀座デザイン協議会」と建物のデザインや用途などについて協議することを求めている。<br />
<br />
=== 象徴 ===<br />
[[ファイル:Ginza03s3200.jpg|thumb|三愛ドリームセンター]]<br />
銀座のシンボルとされているのが[[ヤナギ|柳]]である。また、銀座4丁目交差点に建つ[[和光 (商業施設)|和光本館]]の時計台と[[三愛ドリームセンター]]は完成時より銀座の[[ランドマーク]]的存在である。<br />
<br />
==== 銀座の柳 ====<br />
銀座発祥の地、[[堺市|堺]]から移住してきた[[銀細工職人]]が故郷を懐かしんで移植したのが起源とされる<ref>[http://blog.sakai-tcb.or.jp/spot/%e8%a6%b3%e5%85%89%e6%a1%88%e5%86%85%e6%9d%bf%ef%bd%a2%e5%a0%ba%e3%81%ae%e6%98%94%e3%81%b0%e3%81%aa%e3%81%97%ef%bd%a3-4/ 堺観光ものがたり 観光案内版「堺の昔ばなし」]</ref>。現在では、「中央区の木」にも指定されている。[[1874年]]に日本初の[[街路樹]]として、[[サクラ|桜]]・[[マツ|松]]・[[カエデ|楓]]が銀座通りに植樹されたが、埋立地である銀座の土地が水分の多いことから根腐れを起こしてしまい、[[1877年]]に湿地に生育する柳に植え替えられた。[[1921年]]には車道の拡幅にともない[[イチョウ|銀杏]]へと植え替えられたものの、銀座の柳に対する思いは強く、[[1929年]]に発表された[[西條八十]]作詞の『[[東京行進曲]]』でも銀座の柳をなつかしむ歌詞が登場する。[[1932年]]に[[朝日新聞社]]の寄贈で銀座通りに柳が復活し、同年4月には第1回柳まつりが開催された。その後も、『[[東京ラプソディ]]』や『[[東京音頭]]』で歌われるなど、柳は銀座のシンボルとして定着していった。<br />
<br />
しかし、[[1968年]]に銀座通りの[[共同溝]]工事のために柳は伐採され、[[東京都]][[日野市]]の[[建設省]]街路樹苗圃に移植された。その柳もどんどん枯れていき、[[1984年]]には3本しか残っていなかった。それを知った地元商店主が柳の枝を譲り受けて挿し木を行い、自宅の庭などで育てたものを銀座をはじめ、全国各地に植樹を行った。銀座に柳を復活させる運動は続いており、現在では[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]や銀座柳通り、御門通りに柳が植えられている。また、外堀通りでは[[2006年]]から毎年[[5月5日]]に「[http://www.ginza.jp/nishiginza/yanagi/index.html 銀座柳まつり]」が開催されている。<br />
<br />
== 経済 ==<br />
東京[[都心]]部に位置する銀座は、[[明治|明治時代]]より商業の中心地として日本でも有数の繁華街を形成している。<br />
<br />
商業地域は[[銀座通り]](中央通り)沿いの地域を軸とした銀座の西部、特に[[晴海通り]]と交わる銀座四丁目交差点の周辺を中心としている。また、七丁目や八丁目周辺は[[高級クラブ]]や[[飲食店]]などが立ち並んでいる。<br />
<br />
一方で、東銀座地域は企業の社屋などが立ち並ぶオフィス街となっており、[[新橋演舞場]]のある六丁目から八丁目にかけては[[新橋 (花街)|新橋]]の[[花街]]が形成されている。<br />
<br />
=== 商業 ===<br />
[[ファイル:Ginza Mitsukoshi 2012.JPG|thumb|銀座[[三越]]]]<br />
銀座は、東京の中心的な商業地の一つであり、[[有楽町]]エリアを合わせた[[2002年]]の[[日本の年間商品販売額一覧|年間商品販売額]]は4088億2100万円で、東京都内では[[新宿駅]]東口地域に次ぐ規模である。<br />
<br />
[[明治|明治時代]]に舶来品などが並んだ銀座は高級商店街として発展してきた。昭和初期の[[百貨店|デパート]]進出などにより、銀座は東京随一の盛り場としての地位を確実なものにしていくが業態は少しずつ変化していった。従来は高級婦人服飾店といえば[[銀座セキネ]]、[[銀座マギー]]、[[マミーナ]]、[[マミーナ]]、[[小松ストア]]、[[銀座ダイアナ]]、[[三愛]]、創作洋品店([[オートクチュール]]店舗)、日本初のセレクトショップである[[サンモトヤマ]]などが代表だったが[[1990年代]]のバブル崩壊以後は海外の有名ブランドが続々と旗艦店を銀座に構えた、その一方で[[カラオケ店]]、ブランド品買取専門の[[質店]]などといった大衆的な業種のチェーン店化が活発になってゆく。<br />
<br />
[[ファイル:Matsuya Ginza 2012.jpg|thumb|[[松屋 (百貨店)|松屋]]銀座店]]<br />
銀座は、老舗の集積地でもあり、[[松屋 (百貨店)|松屋]]・[[三越]]のほかにも、隣接する[[有楽町]]に[[ルミネ]]・[[阪急百貨店|阪急MEN'S TOKYO]]が立ち並ぶ。しかし、[[有楽町駅]]再開発・[[一億総中流]]社会解体によって、有楽町[[そごう]]は2000年、有楽町[[西武百貨店|西武]]は2010年、有楽町[[阪急百貨店|阪急]]は2011年、[[松坂屋]]は2013年、[[プランタン銀座]]は2016年に閉店しており、百貨店は7店から2店にまで急減している。<br />
<br />
1966年には[[ソニー]]が[[ソニービル]]を建設するのを皮切りに家電メーカーがオーディオ製品を中心にしたショールームを銀座に相次いで開設した([[パナソニック|松下電器]]=[[テクニクス]]銀座ショールーム、[[日立製作所]]=[[Lo-D]]プラザ、[[東芝|東京芝浦電気]]=東芝銀座セブン、[[日本ビクター]]=ニッパーズギンザ<ref group="†">所在地は新橋1丁目だった。</ref>)。また、[[日産自動車]]も[[日産ギャラリー|銀座ギャラリー]]を開設した。<br />
<br />
近年では、新築された[[東急プラザ銀座]]や[[銀座プレイス]]、[[GINZA SIX]](ギンザ シックス)、改装された[[メルサ|イグジットメルサ]](旧ニューメルサ)などの大型の複合商業施設が数多く並ぶ。<br />
<br />
=== 情報通信業 ===<br />
かつて銀座に[[マスメディア]]の集中が見られた時期があった。明治時代、[[銀座煉瓦街]]の建設に伴い、[[丸の内]]や[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]に近い銀座に、多くの新聞社が集中した。一時期は、[[東京日日新聞]](現・[[毎日新聞]])、[[東京朝日新聞]](現・[[朝日新聞]])、[[読売新聞]]や[[國民新聞]]などといった新聞社のほとんどが銀座に集中し、それに伴って[[印刷業]]や[[広告代理店]]なども集中した時期もあった。しかし[[関東大震災]]により東京在来の新聞社が壊滅的打撃を受けると、読売が大手町へ移転するなど銀座への集中も途絶えることとなった。現在は、隣接する[[築地]]に[[朝日新聞]]東京本社が、隣接する[[汐留]]に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]がそれぞれ社屋を構えていることが目立つくらいである。<br />
<br />
また、日本電報通信社(現・[[電通]])が銀座に設立されたことにより、広告原稿の受け渡しの利便性から[[地方紙|地方新聞社]]の多くが銀座周辺に東京支局を構えた。このことから、現在でも地方の[[ローカル局|テレビ局]]・ラジオ局などのうち、比較的小規模なものを中心に、銀座に支局や支社を構えるところが少なからず存在する([[地方民間放送共同制作協議会]]も、銀座に事務所を置く地方ラジオ局支社長達が「火曜クラブ」として定例会合を開いたことにちなむ)。<br />
<br />
[[出版社]]や大手出版取次店をはじめとする印刷出版業に関しては、東京における集中地区は、主要な[[大学]]にほど近い[[本郷 (文京区)|本郷]]をはじめとする[[文京区]]内や[[千代田区]][[神田神保町]]周辺を含む、[[皇居]]の北側のエリアに一大中心地があり、銀座は中心地とは言えない。しかし、前述したような事情から、明治時代から社屋を構える[[教文館]]や[[実業之日本社]]など、古い出版社には銀座に本社を残しているところも残存する。<br />
<br />
=== 銀座に本社を置く企業 ===<br />
[[ファイル:RICOH Company Head Office Building 2007-1.jpg|thumb|[[リコー]]本社が入居していた[[銀座三井ビルディング]]。現在、[[三愛ドリームセンター]]に同社のフォトギャラリーがある。]]<br />
<!-- 現在本社を置く企業のみ --><br />
{| width="100%"<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
* [[鳩居堂]]<br />
* [[和光 (商業施設)|和光]]<br />
* [[伊東屋]]<br />
* [[マロニエゲート]](旧[[プランタン銀座]])<br />
* [[松屋 (百貨店)|松屋]]<br />
* [[中越パルプ工業]]<br />
* [[王子製紙]]<br />
* [[紀文食品]]<br />
* [[阪和興業]]<br />
* [[資生堂]](実質的な本社機能は[[港区 (東京都)|港区]][[東新橋]]にある)<br />
<!--* [[リコー]] → 馬込に移転。--><br />
* [[ヤマトホールディングス]]<br />
* [[大和自動車交通]]<br />
* [[電源開発]]<br />
<!--* [[三城]] → 本社は港区港南--><br />
* [[東映]]<br />
* [[高島 (商社)]]<br />
* [[日本香堂]]<br />
* [[弘電社]]<br />
* [[東京高速道路]]<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
* [[J.フロント リテイリング]]<br />
* [[東京テアトル]]<br />
* [[博品館]]<br />
* [[天賞堂]]<br />
* [[山野楽器]]<br />
* [[東京海上日動あんしん生命保険]]<br />
* [[時事通信社]]<br />
* [[ぎょうせい]]<br />
* [[実業之日本社]]<br />
* [[大日本図書]]<br />
* [[マガジンハウス]]<br />
* [[読売広告社]]<br />
* [[ピーアークホールディングス]]<br />
* [[駅探]]<br />
* [[リクルート]]<br />
* [[安田松慶堂]]<br />
<!--* [[銀座コージーコーナー]] → 本社は新宿区--><br />
<!--* [[コロンバン]] → 現在、原宿本店とのこと--><br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
|}<br />
<br />
== 文化 ==<br />
明治時代、[[銀座煉瓦街|煉瓦街]]建設や横浜と新橋を結ぶ鉄道の開業、また築地([[明石町 (東京都中央区)|明石町]])鉄砲洲([[湊 (東京都中央区)|湊]])に[[外国人居留地]]があったために[[舶来品]]の往来が盛んとなった銀座にはそれらの品を扱う商店が軒を連ね、銀座は西洋文化の発信地として日本文化の近代化に大きな役割を果たした。<br />
<br />
=== 食文化 ===<br />
[[ファイル:Ginza Restaurant Renga tei (01).jpg|thumb|煉瓦亭]]<br />
食においても、銀座は西洋の味覚を紹介する場となった。[[1871年]]、「文英堂」(現・[[木村屋總本店]])が尾張町にて創業し、[[あんパン]]の販売を始めた。また、[[1895年]]には洋食屋の「[[煉瓦亭]]」が開業した。銀座で調剤薬局を営んでいた[[資生堂]]は[[1902年]]、店舗内に「ソーダ・ファウンテン」(現・[[資生堂パーラー]])を併設し、[[ソーダ水]]や[[アイスクリーム]]を売りだした。他にも、[[1897年]]に開業した「[[千疋屋|銀座千疋屋]]」は輸入果物の販売や日本初のフルーツパーラーを開業するなど銀座には様々な食文化が流入した。<br />
<br />
[[1911年]]3月、[[パリ]]の[[カフェ]]を模した「[[カフェー・プランタン]]」が開店し、作家や画家などの[[文化人]]の[[サロン|社交場]]となった。その後も「[[カフェー・ライオン]]」<!-- 1911年8月 -->や「[[カフェーパウリスタ]]」<!-- 1911年12月 -->などが続々と開店し、学生なども出入するようになり、[[文壇]]の議論が盛んに行われた。しかし、[[関東大震災]]を境に関西資本の[[カフェー]]が進出し、カフェーは女給による濃厚なサービスを行う場に変貌していった。昭和初期には[[アンダーグラウンド (文化)#文化としてのアンダーグラウンド|エロ・グロ・ナンセンス]]の流行とともに大衆化・俗化し、カフェーは全盛を極めることとなった。また、この頃に関西の[[料亭]]の進出も相次いだ。<br />
<br />
戦後、銀座は徐々に世界各国の高級料理店が進出し、代表的なフランス料理店の[[レカン]]、[[マキシム・ド・パリ]]や[[高級クラブ]]などが林立する街として認知されるようになってゆく。[[1980年代]]後半に差し掛かるとそれまでとは比較にならない勢いで世界の一流レストランが挙って出店する一方、外食フランチャイズも盛んになる。まず[[1971年]]に「[[マクドナルド]]」、「[[ダンキンドーナツ]]」の1号店が銀座に開店。[[1990年代]]後半には「[[スターバックスコーヒー]]」や「[[タリーズコーヒー]]」が相次いで進出し、その後も「[[サンマルクカフェ]]」や銀座四丁目交差点で[[銀座和光]]と並ぶ[[ランドマーク]]的な存在である[[三愛ドリームセンター]]内に「[[ドトールコーヒー#ル・カフェ・ドトール|ル・カフェ・ドトール]]」の1号店が開店、銀座は戦前とは異なる形態のカフェ激戦地となり、カフェブームを全国へ広げる舞台として躍進する。<br />
<br />
=== ファッション ===<br />
[[ファイル:Armani Ginza Tower.jpg|thumb|アルマーニ銀座タワー]]<br />
服飾文化においても、銀座は西洋ファッションを紹介する場となった。そのなかで、資生堂は[[化粧品]]を扱うなど、ファッション文化の発展に大きく貢献する。<br />
<br />
関東大震災後の大正末期から昭和初期にかけては[[モボ・モガ]]と呼ばれる当時の世界的流行である[[アール・デコ]]の影響を色濃く受けた若者たちが現れた。<br />
<br />
[[1964年]]に並木通りや[[みゆき通り (東京都)|みゆき通り]]周辺で「[[みゆき族]]」と呼ばれる若者が出現した。男性は流行していた[[アイビー|アイビー・ルック]]か[[コンチネンタル]]ルック、女性はロングスカートのバックに[[共布]]のリボンベルトを結び、二つに折ったハンカチーフを頭にかぶるというスタイルで、手には流行を扇動した「[[ヴァンヂャケット|VAN]]」や「[[JUN]]」の紙袋かコーヒー豆の麻袋を持つというスタイルだった。しかし、同年に開催される[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]を前に風紀の乱れを懸念した警察によって一斉取締りが行われ、みゆき族はひと夏で姿を消す。<br />
<br />
[[1990年代]]後半からは海外ブランドの進出が活発になり、並木通りを中心として次第に晴海通り、銀座通り(中央通り)へと多くの海外高級ブランド店が進出。しかし、[[2007年]][[8月]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で起きたバブル崩壊と経済危機の煽りで、海外ブランドの閉鎖が相次ぎ、2割ほどが撤退すると予想されている。近年では、[[プランタン銀座]]と[[マロニエゲート]]の間を南北に走る銀座マロニエ通りに、カルティエ、シャネル、ルイヴィトン、ブルガリ等のラグジュアリーブランドが軒を連ねている。<br />
最近では[[ユニクロ]]や[[FOREVER21]]等の[[ファストファッション]]専門店が進出し様変わりしている。<br />
<br />
=== 文化施設 ===<br />
[[1900年代]]から[[1920年代]]前半にかけて、[[歌舞伎座]]や[[東京宝塚劇場]]など、銀座・有楽町周辺には多くの[[劇場]]が開場した。<br />
<br />
[[1950年代]]以後は[[カントリー・ミュージック]]や[[ジャズ]]などをバンドの生演奏で楽しむ[[ジャズ喫茶]]の開店が相次ぎ、[[1960年代]]に入ると[[銀座ACB]]が盛況を博し、シャンソン喫茶「[[銀巴里]]」は多くのシャンソン歌手を生んだ。しかし、1970年頃より、[[新宿]]や[[御茶ノ水]]などへ音楽の拠点は移っていった。<br />
<br />
劇場や[[映画館]]は1970年代までと比べ減少したが、現在では[[コンサートホール]]などの文化施設が多く存在している。特徴的なのは、ヤマハホールや王子ホールといった企業の[[企業メセナ|文化支援活動]]の一つとして開いているものが多いことである。また、[[画廊]]は全国の4分の1が銀座に集約しているとされる。<br />
<br />
==== 主な文化施設一覧 ====<br />
{| width="100%"<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
;劇場<br />
* [[歌舞伎座]]<br />
* [[新橋演舞場]]<br />
* [[博品館劇場]]<br />
* [[ル テアトル銀座 by PARCO]]<br />
; 映画館<br />
* [[ヒューマックスシネマ|銀座シネパトス]](2013年3月末閉館)<br />
* [[東京テアトル|銀座テアトルシネマ]](2013年5月末閉館)<br />
* [[シネスイッチ銀座]]<br />
* [[丸の内TOEI]]<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
; 音楽ホール<br />
* [[王子ホール]]<br />
* [[ヤマハホール]]<br />
; ギャラリー<br />
* [[ガーディアン・ガーデン]]<br />
* [[ニコンサロン]]<br />
* [[資生堂|資生堂ギャラリー]]<br />
* [[富士フイルム|富士フォトサロン]]<br />
* [[ポーラ (企業)|ポーラ・ミュージアム・アネックス]]<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
|}<br />
<br />
[[ファイル:Kabuki-za theater 2010.jpg|thumb|[[歌舞伎座]](2010年)]]<br />
== 交通 ==<br />
銀座へは[[地下鉄]]とバス網が整備されており、またJRの[[有楽町駅]]、[[新橋駅]]からも徒歩圏内にある。このため、1998年に行われた銀座への交通手段に関するアンケート調査では地下鉄利用者が半数以上を占め、JRの利用者も3割以上だったことから、大半が鉄道を利用して銀座へ来ていることが分かった。<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
[[ファイル:Wako Ginza Chuo Tokyo 1 16 November 2003.jpg|thumb|晴海通り]]<br />
[[晴海通り]]や[[中央通り (東京都)|中央通り]]、[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]などの大通りが[[縦貫]]し、これらの通りでは自動車の交通量が多いことに因り渋滞が深刻化している。<br />
<br />
銀座全域が首都高速道路に囲まれた形になっており、直に利用する以外にも目印等の用途がある。<br />
<br />
==== 道路 ====<br />
; 南北に延びる道路を西からの順<br />
* 銀座コリドー通り<br />
* 数奇屋通り<br />
* [[東京都道405号外濠環状線]](西銀座通り・外堀通り) - 数寄屋橋交差点より南西側が「西銀座通り」<br />
* ソニー通り<br />
* 並木通り<br />
* 西五番街<br />
* 金春通り・すずらん通り・ガス灯通り<br />
* [[中央通り (東京都)|中央通り]] - 銀座通過部分は「銀座通り」<br />
* 信楽通り・あづま通り<br />
* 三原通り<br />
* [[昭和通り (東京都)|昭和通り]]<br />
; 東西に延びる道路を北からの順<br />
* 銀座桜通り<br />
* 銀座柳通り<br />
* 銀座マロニエ通り<br />
* 松屋通り<br />
* [[東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線]]([[晴海通り]])<br />
* みゆき通り<br />
* 交詢社通り(沿道に[[交詢社]]があるため)<br />
* 花椿通り(かつては出雲通りだったが資生堂が買収)<br />
* 御門通り<br />
<br />
==== 首都高速道路・出入口 ====<br />
* [[首都高速都心環状線]]<br />
** [[京橋出入口 (東京都)|京橋出入口]]<br />
** [[新富町出口]]<br />
** [[銀座出入口]]<br />
* [[東京高速道路]]<br />
** [[西銀座入口]]<br />
** [[新京橋出口]]<br />
** [[東銀座出口]]<br />
<br />
=== 鉄道 ===<br />
[[ファイル:Ginza-sta-a9.JPG|thumb|銀座駅]]<br />
[[1882年]]に[[東京馬車鉄道]]が[[新橋 (東京都港区)|新橋]]〜[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]間で開業した。[[1903年]]、馬車鉄道は「東京電車鉄道」と名を変え電化し、同年には[[数寄屋橋]]〜[[神田橋]]間に東京市街鉄道が開業した。これらの鉄道路線は、後に[[東京市電]]として公営化し、路線・系統の拡大がされた。[[1934年]]には[[東京地下鉄道]]によって敷設された[[地下鉄]](現・[[東京メトロ銀座線]])が銀座まで延伸した。<br />
<br />
[[1950年代]]より地下鉄整備が着々進められ、西銀座駅の[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]が開業したことを機に整備されてゆく。その一方で自動車の増加に因り[[東京都電車|都電]]は徐々に撤去されていった。<br />
; 鉄道駅<br />
[[東京地下鉄]](東京メトロ)<br />
* [[銀座駅]](<span style="color:#f39800">'''○'''</span>[[東京メトロ銀座線|銀座線]]、<span style="color:#9caeb7">'''○'''</span>[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]、<span style="color:#e60012">'''○'''</span>[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]])<br />
* [[東銀座駅]](<span style="color:#9caeb7">'''○'''</span>日比谷線)<br />
* [[銀座一丁目駅]](<span style="color:#d7c447">'''○'''</span>[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]])<br />
[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])<br />
* 東銀座駅(<span style="color:#ff66bb">'''○'''</span>[[都営地下鉄浅草線|浅草線]])<br />
<br />
== 主な店舗・施設 ==<br />
[[法人]]については本店・[[旗艦店]]ないし路面店、あるいはそれに準ずるもののみ掲載。[[ゲームセンター]]の類が無く、[[家電量販店]]・[[カラオケボックス]]・[[パチンコ店]]・[[ファストフード]]店は他の繁華街に比較して少ない。それらの店は隣の[[有楽町]]や[[新橋 (東京都港区)|新橋]]などに集中している。<!--料理店は、とりあえずミシュラン二つ星以上を中心に、寿司清など大型店を加味して掲載してみた。さらに、基本的に、グーグル等の口コミが数十〜百あり評価が4前後以上のその他お店を適宜抜粋掲載した。--><br />
<br />
{| width="100%"<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
<br />
; 1丁目<br />
<!--* [[くすりの福太郎]]銀座1丁目店 →キリがないので、本店旗艦店に準ずるもののみで。--><br />
<!--* [[三菱東京UFJ銀行]]京橋支店 →下記の地銀と異なり本店機能が置かれていない。 --><br />
* [[ハリー・ウィンストン]]銀座店<br />
* [[オンワード樫山#ライセンスブランド|トッカ]]ストア銀座店<ref group="†">1994年、[[ミッドタウン|ミッドタウン・マンハッタン]] ガーメント地区 ([[:en:Garment District, Manhattan|en]]) 発の[[イタリア|イタリアン]]スタイルのブランド。日本には1996年に東京[[南青山]]で開店し、2014年に銀座店が開店した(「[https://www.vogue.co.jp/tag/beauty-brand/tocca トッカ / TOCCA]」 [[ヴォーグ (雑誌)|VOUGUE]])。[[オンワード樫山]]による[[ライセンス]]ブランド店で、同社の[[レーベル]]([[ブランド]])の一つになる。</ref><br />
* [[三城ホールディングス|パリミキ]]MIKISSIMES GINZA<br />
* [[大塚家具|IDC大塚家具]]銀座本店<br />
* キラリトギンザ<ref group="†">[[ジュエリー]]や[[ブライダル]]、レストラン等の[[ショッピングモール]]。</ref><br />
** 貴和製作所<ref group="†">アクセサリー[[パーツ]]や[[ビーズ]]の[[ラボ]]とカフェとの複合店舗。[[原宿]]にもカフェ併設店舗がある。</ref><br />
* [[銀座アスター食品|銀座アスター]]本店([[中華料理]]店)<br />
* [[銀座コージーコーナー]]本店([[洋菓子]]店)<br />
* ドミニク・ブシェ([[フランス料理]]店)<br />
* [[リプトン]]・ブルックボンドハウス([[ティールーム]])<br />
* 雪ノ下銀座([[カフェ]])<ref group="†">2000年、大阪[[梅田]]発の[[パンケーキ]]や[[かき氷]]のカフェ(「[http://hatenanews.com/articles/201311/16870 分厚いパンケーキ&かき氷カフェ 雪ノ下 東京銀座に…]」 はてなニュース 2013年11月1日)。</ref><br />
* [[ポーラ (企業)|ポーラ ミュージアム アネックス]]<br />
* [[ホテル西洋銀座]]<br />
* [[ホテルモントレ|ホテルモントレ ラ・スールギンザ]]<ref group="†">銀座では他に、ホテルモントレ銀座が松屋銀座裏手銀座2丁目にある。</ref><br />
* [[佐賀銀行]]東京支店<br />
* 奥野ビル<ref group="†">1932年、"銀座アパートメント"として築造された[[レトロ]]ビル。現在は[[骨董品店|アンティークショップ]]や[[ギャラリー]]、[[アトリエ]]等が入居。<!-- 中央区HP http://www.city.chuo.lg.jp/bunka/timedomeakashi/kindai_kentikubutu_tyousa/kindai60.html など参照--></ref><br />
<br />
; 2丁目<br />
* [[メルサ|メルサGinza-2]]<br />
** [[東京ますいわ屋]]([[和服]]店)<ref group="†">1946年、[[大阪]]で創業した高級[[呉服]]ないし和服[[専門店]]の[[チェーンストア]]。2003年から[[さが美]]の子会社。銀座では他に、[[銀座コア]]店がある。</ref><br />
* [[マロニエゲート銀座1]]<br />
** [[東急ハンズ]]銀座店<br />
** [[トミー・ヒルフィガー]]銀座マロニエゲート店<br />
** [[ユナイテッドアローズ]]銀座店<ref group="†">[[銀座駅]]構内にも[[エチカ|エチカフィット]]店がある。</ref><br />
** ブラッスリー [[ポール・ボキューズ]](フランス料理店)<ref group="†">[[リヨン]]で[[ブラッスリー]]を展開するポール・ボキューズのライセンスブランド店で、''ひらまつ'' によるレーベルの一つになる。</ref><br />
* [[マロニエゲート|マロニエゲート銀座3]]<br />
** [[バナナ・リパブリック]]銀座店<br />
* 銀座ベルビア館<ref group="†">[[三井ショッピングパーク]]が運営。</ref><!--以下、https://mitsui-shopping-park.com/urban/velviakan/floorguide.html 参照--><br />
** 銀座[[ロフト (雑貨店)|ロフト]]<br />
** CK [[カルバン・クライン]]銀座店<br />
** [[三陽商会#ブランド|三陽山長]]<ref group="†">「[[和]]」をコンセプトとした紳士靴を中心にドレスシャツやスーツ等を扱う[[三陽商会]]のオリジナルブランド。</ref><br />
** ル・ドーム (Le Dome EDIFICE et IENA)銀座店<ref group="†">[[パリジャン]]を意識したメンズブランド"エディフィス"<!--"パリジャン"については、http://edifice.baycrews.co.jp/concept/ 参照-->と、[[16区 (パリ)|パリ16区]]の[[パリ|パリジェンヌ]]<!--"イエナ"の名は、イエナ広場やイエナ橋がある高級住宅街パリ16区を想起させるものゆえ「パリ16区」を挿入した。-->を意識したレディースブランド"イエナ"とを融合した店舗。2つとも、"ジャーナルスタンダード"などを扱う日本のベイクルーズグループによるオリジナルブランド(「[https://www.timeout.jp/tokyo/ja/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0/le-dome-edifice-et-iena-%E9%8A%80%E5%BA%A7%E5%BA%97 Le Dôme ÉDIFICE et IÉNA 銀座店]」 タイムアウト東京 2018年)。</ref><br />
* 銀座ブロッサム<ref group="†">中央区立の結婚式場やイベントホール、貸し会議室。</ref><br />
* [[矢場とん]]東京銀座店([[味噌カツ]]店)<br />
* 銀座メゾン[[アンリ・シャルパンティエ]]([[パティスリー]]、[[カフェ]])<br />
* [[デビアス]]銀座店<br />
* [[ショパール]]ブティック銀座店<br />
* [[ティファニー]]銀座本店・ブライダルブティック<br />
* [[ダンヒル]]銀座本店<br />
* [[エルメネジルド・ゼニア]]銀座店<br />
* [[青山商事|洋服の青山]]銀座本店<br />
* 銀座スイス本店([[洋食]]店)<ref group="†">1947年に銀座7丁目で創業。常連客の[[読売ジャイアンツ|巨人軍]]選手[[千葉茂]]の注文で始まったとされる「[[カツカレー]]」発祥店<!--http://ginza-swiss.com/episode/参照-->として知られている。なお「カツカレー形式の洋食」の発祥に関しては、[[浅草]]の「河金丼」も知られている(「[http://asakusanews.com/erudition/3259 カツカレー発祥の店が、実は浅草だった! 河金]」 浅草smartニュース 2015年1月29日)。[[築地]]にバー&グリル銀座スイス店がある。</ref><br />
* [[ウインズ銀座]]<br />
* [[伊東屋]]本店<br />
* [[カルティエ]]銀座ブティック<br />
* [[ブルガリ]]銀座タワー<br />
<br />
; 3丁目<br />
* [[松屋 (百貨店)|松屋]]銀座店<ref group="†">[[東京高速道路]]下の専門店街「銀座インズ」で、[[ワールド (企業)|ワールド]]などの各レーベルショップが入る"プチプチマルシェ"のプロデュースをしている。</ref><!--特に断りが無ければ、銀座三越内店舗、銀座旗艦店などと重複する以外、銀座だと松屋内の店舗のみ記載--><br />
** [[バカラ (ガラス)|バカラ]]松屋銀座店<br />
** [[スワロフスキー]]松屋銀座店<br />
** [[モニッケンダム]]松屋銀座店<ref group="†">1890年、[[オランダ]]の[[アムステルダム]]で創業。1914年[[第一次世界大戦]]勃発で[[ロンドン]][[カムデン区]]の宝石商街ハットンガーデン ([[:en:Hatton Garden|en]]) を拠点とした。1948年には[[エリザベス2世|エリザベス王女]]の結婚指輪のカットイヤリングを担当した"世界3大[[カッティング]](カッターズ)ブランド"の一つ。日本での販売総代理店(ライセンスブランド店)はムラキ。<!--https://monnickendam.norennoren.jp/contents/page/history.html、 https://www.world-luxury-diamonds.com/brand/monnickendam、 <br />
https://www.monnickendam-dia.com/、<br />
https://www.muraki-ltd.co.jp/about/ --> </ref><br />
** [[クリスチャン・ルブタン]]松屋銀座店<br />
<!--** [[ディオール]]松屋銀座店→三越含め百貨店共通の化粧品売場ゆえコメントアウト--><br />
** [[ロジェ・ヴィヴィエ]]松屋銀座店<ref group="†">1937年、[[エコール・デ・ボザール|ボザール]]出身のロジェ・ヴィヴィエにより[[8区 (パリ)|パリ8区]]ロワイヤル通りに創業、[[フランス]]発の高級靴ブランド。[[エリザベス・テイラー]]や[[ケーリー・グラント]]、[[エヴァ・ガードナー]]、[[マレーネ・ディートリッヒ]]、[[ビートルズ]]、[[ジャクリーン・ケネディ・オナシス]]、[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]、[[ブリジット・バルドー]]らに愛用され、また、1953年[[エリザベス2世]]の女王戴冠式にも採用された。<!--出典付いた当ブランドフランス語版参照--></ref><br />
** [[シャーロット・オリンピア]]松屋銀座店<ref group="†">2010年、[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウェスト・エンド・ロンドン]]の[[メイフェア]]地区マドックス・ストリート (Maddox Street) 創業、[[イギリス]]発の婦人靴ブランド。<!--出典付いた当ブランド英語フランス語版参照--></ref><br />
** [[イヴ・サン=ローラン|サンローラン]]松屋銀座店<br />
** [[セリーヌ]]松屋銀座店<br />
** [[ランバン]]松屋銀座店<br />
** [[プラダ]]松屋銀座店<br />
** カルバン・クライン松屋銀座店<br />
** [[ラルフ・ローレン|ポロ ラルフ・ローレン]]松屋銀座店<br />
** [[フェンディ]]松屋銀座店<br />
** [[ジル・サンダー]]松屋銀座店<br />
** [[モラビト]] ブラン松屋銀座店<ref group="†">モラビトのライセンスブランド店になる。</ref><br />
** [[コーチ (企業)|コーチ]]松屋銀座店<br />
** [[エルベシャプリエ|エルベ・シャプリエ]]松屋銀座店<br />
** [[タグ・ホイヤー]]松屋銀座店<br />
** [[ヨーガン・レール]]松屋銀座店<br />
** [[アンテプリマ]]松屋銀座店<ref group="†">1993年、日本人の[[荻野いづみ]]が[[ミラノ]]で創業したイタリア発のバッグなど革アイテムのブランド。<!--https://www.anteprima.co.jp/company/brand/ --></ref><br />
** [[ヒロフ]]松屋銀座店<ref group="†">1977年創業、紳士靴から始まった、主に女性用バッグやシューズ等の日本発の革アイテムブランド。<!--http://hirofu.co.jp/corporate/、http://www.matsuya.com/m_ginza/exhib_gal/honmono/details/150318_01.html<br />
--></ref><br />
** トッカ松屋銀座店<!--銀座にあるのは、上記トッカストアと松屋のみ--><br />
** [[ワールド (企業)#ブランド|アンタイトル]]松屋銀座店<!--クーデシャンス等様々なブランドが松屋にあるワールドブランドの中で、アンタイトルは代表的ブランドで、かつ銀座界隈であるのは松屋のみ--><br />
** [[ワールド (企業)#ブランド|クードシャンス]]松屋銀座店<!--銀座では、松屋とマロニエ2のみにある。--><br />
** [[山本耀司|ヨウジ・ヤマモト]]松屋銀座店<br />
** [[三宅一生|イッセイ・ミヤケ]]各[[ライン]]松屋銀座店<br />
** [[ケイト・スペード|ケイト・スペード ニューヨーク]]松屋銀座店<br />
** [[ステラ・マッカートニー]]松屋銀座店<br />
** [[ラコステ]]松屋銀座店<br />
** [[ソニア・リキエル]]松屋銀座店<br />
** [[ロクシタン]]松屋銀座店<br />
** [[日比谷花壇]]松屋銀座店<ref group="†">銀座では他に、銀座インズ店がある。</ref><br />
** 築地宮川本廛松屋銀座店([[ウナギ|鰻]]料理屋)<ref group="†">[[深川 (江東区)|深川]]宮川の廃業を受けて明治26年(1893年)、築地で創業した全国の「宮川」の「[[総本山]]」(「[https://allabout.co.jp/gm/gc/406624/ 築地本願寺近く、宮川の総本山 つきじ宮川本廛]」 [[All About]] 2013年3月4日)。その松屋内の店舗。</ref><br />
** [[豆源]]松屋銀座店<br />
** [[ユーハイム]]松屋銀座店<br />
** [[メゾン・カイザー]]ショップ松屋銀座店([[ベーカリー|ブーランジュリー]])<ref group="†">[[木村屋總本店]]6代目長男が創業者。銀座では他に、&COFFEE MAISON KAYSER が銀座1丁目にある。</ref><br />
** [[ガトーフェスタ・ハラダ]]松屋銀座店([[パティスリー]])<br />
** [[デメル]]松屋銀座店(パティスリー)<br />
** [[ゴディバ]]松屋銀座店(パティスリー)<br />
** [[ラ・メゾン・デュ・ショコラ]]松屋銀座店([[パティスリー]])<ref group="†">1977年、パリ8区フォーブール・サントノレ通り創業、フランス発の[[ショコラ]]パティスリー。</ref><br />
** [[ピエール・エルメ|ピエール・エルメ・パリ]]松屋銀座店(パティスリー)<br />
** [[アニエス・ベー]]松屋銀座店<!--ルイヴィトン同様、松屋の1棟貸し切りの路面店ないし旗艦店--><br />
** [[ルイ・ヴィトン]]松屋銀座店(銀座店)<br />
* [[シャネル]]銀座店(シャネル銀座ビル)<br />
** ベージュ [[アラン・デュカス]](フランス料理店)<br />
* [[ショーメ]]銀座本店<ref group="†">ヴァンクリーフ&アーペル、ブシュロン、モーブッサン、メレリオ・ディ・メレーと共に、[[パリ]]の[[ヴァンドーム広場]]界隈に本店を構える"[[グランサンク]]"と(日本でのみ)括られる高級宝飾店の一つ。[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]以来、欧州王室による[[ティアラ]]着用の発祥店とされている。</ref><br />
* [[ヴァンクリーフ&アーペル]]銀座本店<br />
* [[ラザール・ダイヤモンド]]ブティック銀座店<ref group="†">1903年、[[ベルギー]]の[[アントワープ]]で創業。モニッケンダム同様、1914年の第一次世界大戦勃発で[[ニューヨーク]]に本拠地を移した。1946年以来からの「サイトホルダー([[デビアス]]から直接ダイヤモンド原石供給を受けられる[[特権]]<!--https://www.lazarediamond.jp/sp/history/ 参照-->。日本では1994年から[[TASAKI]]<!--https://www.tasaki.co.jp/about-tasaki/diamond/ 参照-->)」。"世界の三大カッティング(カッターズ)ブランド"の一つ<!--https://takeuchi-bridal.com/reason/diamond-top-brand/ 参照-->。日本での販売総代理店(ライセンスブランド店)は[[佃 (東京都中央区)|佃]]にあるプリモ・ジャパン。2003年に同銀座ブティックを開店。<!--https://www.primojapan.co.jp/ja/business/brand.html、https://www.primojapan.co.jp/ja/company/history.html 参照--></ref><br />
* [[マロニエゲート|マロニエゲート銀座2]]<br />
** クードシャンス マロニエゲート銀座2店<br />
** [[ニコル (アパレル)|ニコル]]銀座店<br />
** [[アインズ&トルペ]]マロニエゲート店<ref group="†">[[札幌]]の[[アインファーマシーズ]]が展開する化粧品中心の[[ドラッグストア]]チェーン店。銀座では他に、銀座8丁目に銀座並木通り店がある。</ref><br />
** [[ニトリ]]マロニエゲート店<br />
* [[シップス]]銀座店<br />
* [[丸の内TOEI]]<br />
* [[銀座十字屋]]ハープ&フルートサロン<ref group="†">銀座では他に、銀座4丁目にハープ&フルートサロン Hanare店がある。</ref><br />
* [[東和銀行]]東京支店<br />
* とんかつ銀座にし邑([[東銀座]]にある[[豚カツ|とんかつ]]屋)<br />
* [[煉瓦亭]](老舗高級[[洋食]]店)<br />
* 銀座ハゲ天本店([[天ぷら|天ぷら屋]])<br />
* 白いばら([[キャバレー]])<br />
* [[Apple Store]] Ginza<br />
<br />
; 4丁目<br />
* [[天賞堂]]本店<br />
* [[木村屋總本店]]<ref group="†">「[[あんパン]]」発祥店として知られている。</ref><br />
* [[教文館]]<br />
* [[山野楽器]]本店<br />
* [[ミキモト]]本店<br />
** レカン(フランス料理店)<ref group="†">銀座では他に、銀座5丁目にロテスリーレカン銀座店がある。</ref><br />
* 銀座[[和光 (商業施設)|和光]]本店<br />
** [[メレリオ・ディ・メレー]]銀座和光店<ref group="†">ショーメ、ヴァンクリーフ&アーペル、ブシュロン、モーブッサンと共に、パリのヴァンドーム広場界隈に本店を構える"グランサンク"と(日本でのみ)括られる高級宝飾店の一つ。</ref><br />
* 銀座[[三越]]<br />
** サンローラン銀座三越店<br />
** セリーヌ銀座三越店<br />
** [[ジバンシー]]銀座三越店(化粧品売場)<br />
** [[エスティ・ローダー]]銀座三越店(化粧品売場)<br />
** プラダ銀座三越店<br />
** [[ケンゾー]]銀座三越店<br />
** ポロ ラルフ・ローレン銀座三越店<br />
** [[ロンシャン (フランスの企業)|ロンシャン]]銀座三越店<br />
** [[ザディグ・エ・ヴォルテール]]銀座三越店<ref group="†">東京には銀座と[[南青山]]店がある。パリ16区パッシー通り、[[1区 (パリ)|パリ1区]][[サントノーレ通り|サントノレ通り]]、[[ル・マレ|マレ地区]][[4区 (パリ)|パリ4区]]フラン・ブルジョワ通りなどパリ市内各所で展開する、1997年創業のフランス発のブランド。</ref><br />
** ステラ・マッカートニー銀座三越店<br />
** [[ヴァレンティノ]]銀座三越店<br />
** アンテプリマ銀座三越店<br />
** ヒロフ銀座三越店<br />
** [[モーブッサン]]銀座三越店<br />
** [[ブシュロン]]銀座三越店<br />
** ヴァンクリーフ&アーペル銀座三越店<br />
** ティファニー銀座三越店<br />
** ショパールブティック銀座三越店<br />
** ケーファー銀座三越店([[デリカテッセン]])<ref group="†">1930年、[[ミュンヘン]]創業の[[ドイツ]]発の惣菜からハム、ソーセージ、ワイン、ビールまでの食料品店(デリカテッセン)。以降、レストランから配達([[ケータリング]])まで展開している総合食料品事業を本国や欧州で営む。日本では、1992年以降、三越全店内で店開している。<!--https://mitsukoshi.mistore.jp/store/common/kafer/history.html 参照--></ref><br />
** [[ジョアン]]銀座三越店(ブーランジュリー)<ref group="†">1942年、パリの[[モンパルナス]]地区で創業した[[ベーカリー|ブーランジュリー]]。日本では1983年に銀座三越店の第一号店開店から、三越各店内中心に16店舗がある。<!--https://mitsukoshi.mistore.jp/store/common/johan/johan.html 参照--> </ref><br />
** ゴディバ銀座三越店(パティスリー)<br />
** [[ラデュレ]]銀座三越店(パティスリー)<br />
** [[ダロワイヨ]]銀座三越店(パティスリー)<br />
** レ・ロジエ・エグスキロール銀座三越店(フランス料理店)<br />
* [[ロイヤル・アッシャー]]銀座本店<ref group="†">1854年、アムステルダムで創業した"三大カッティング(カッターズ)ブランド"の一つ<!--https://takeuchi-bridal.com/reason/diamond-top-brand/ 参照-->。1980年にオランダの[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ女王]]から"アッシャー"に"[[ロイヤル]]"の名を冠され、現社名となった。<!--https://www.royalasscher-jp.com/history/ 参照--></ref><br />
* [[グッチ]]銀座店<br />
* ランバンブティック銀座店<br />
* [[ゼニス (時計)|ゼニス]]ブティック銀座<br />
* [[フルラ]]銀座店<ref group="†">1927年、[[ボローニャ]]で創業したイタリア発のバッグなど革アイテムのブランド。</ref><br />
* [[エミリオ・プッチ]]銀座店<br />
* [[マイケル・コース]]銀座店<br />
* イッセイ・ミヤケ銀座店<br />
* [[コシノヒロコ|ヒロコ・コシノ]]銀座店・KHギャラリー<br />
* [[ギャップ (企業)|GAP]]フラッグシップ銀座<br />
* [[ビームス]]銀座<br />
* [[帝人|テイジンメンズショップ]]銀座店<br />
* [[日本香堂]]ビル<br />
** [[エステバン|ESTÉBAN Tokyo]]<ref group="†">読み方は"エステバン"。マレ地区パリ4区フラン・ブルジョワ通り本店や[[サン=ジェルマン=デ=プレ]]地区[[6区 (パリ)|パリ6区]]レンヌ通りにある1979年創業、[[南フランス|南仏]]発の香水店。1996年、日本香堂傘下のグループ会社になった。<!--https://www.nipponkodo.co.jp/company/outline02.php 参照--></ref><br />
* みかわや(老舗高級洋食店)<br />
* 寿司清銀座四丁目店([[寿司屋]])<ref group="†">[[築地]]に総本店がある。銀座では他に、銀座8丁目に博品館店がある。</ref><br />
* [[王子ホール]]<br />
* [[塚本素山ビル]]<br />
** [[野田岩]]銀座店(鰻料理屋)<br />
** [[小野二郎 (寿司職人)#すきやばし次郎|すきやばし次郎]](寿司屋)<br />
* [[銀座クリスタルビル]]<br />
** [[リーガルコーポレーション|リーガルシューズ]]銀座数寄屋橋店<br />
* [[シネスイッチ銀座]]<br />
* [[歌舞伎座]]<br />
** [[歌舞伎座タワー]]<br />
* 銀座木挽堂書店([[古書店]])<ref group="†">それまであった老舗古書店の奥村書店が閉店したのにともない、2010年、同書店員が同じ歌舞伎座界隈に独立開業した古書店。[[歌舞伎]]や映画を中心とする[[古本]]屋。<!--https://www.google.com/amp/s/gamp.ameblo.jp/yamato-ru/entry-10725451334.html 参照--></ref> <br />
* ナイルレストラン([[東銀座駅|東銀座]]にある[[インドカレー]]屋)<br />
* [[日本基督教団]][[銀座教会]]<br />
* [[七十七銀行]]東京支店<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
<br />
; 5丁目<br />
* [[中央区立泰明小学校]]<br />
* [[東急プラザ銀座]](旧銀座東芝ビル (銀座TSビル))<br />
** [[マリー・クヮント]]プラザ銀座店<ref group="†">隣接する[[日比谷]]側の[[有楽町]]に路面店ないし旗艦店がある。</ref><br />
** [[JUN#主なファッションブランド|サロン アダム エ ロペ]]<br />
** [[シネクァノン]]<ref group="†">東京には銀座の他、[[青山 (東京都港区)|青山]][[Ao (複合商業ビル)|Ao]]や[[渋谷]][[東急百貨店|東急百貨店本店]]に店舗がある。1973年サン=ジェルマン=デ=プレ地区パリ6区フール通り発祥、フランス各地で展開するブランド。</ref><br />
** [[バリー]]銀座店<ref group="†">パリジェンヌの靴に惹かれ制作された革靴からスポーティブシューズ、バッグなど革アイテムからアパレルまで取り扱う1851年創業[[スイス]]発のブランド(「[https://gqjapan.jp/brand/bally DICTIONARY バリー]」GQジャパン、NO.177 2018年3月3日号)。</ref><br />
** [[パンドラ (ジュエリー)|パンドラ]]プラザ銀座店<br />
* 旧[[ソニービル]]<br />
** [[マキシム]]・ド・パリ(2015年閉店)<ref group="†">[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]の作品など[[アールヌーヴォー]]の店内装飾で知られるパリ8区ロワイヤル通り[[マキシム (フランスのレストラン)|マキシム本店]]のライセンスブランド店だった。[[GINZA SIX]]の「THE GRAND GINZA (ザ・グラン銀座)」でマキシムの"苺の[[ミルフィーユ]]"が販売されている。<!--http://bg-mania.jp/2017/09/28222236.html--></ref><br />
* 銀座あけぼの本店([[和菓子]]店)<ref group="†">1948年に現在地で創業した、[[おかき]]を主とした[[米菓]]・和菓子店。銀座では他に、松屋銀座や銀座三越にある。</ref><br />
* 鹿乃子本店&和喫茶室(和菓子店)<ref group="†">1946年に現在地で甘味とかき氷店として創業した和菓子屋。2階は[[あんみつ]]や[[お汁粉]]等の[[甘味]]喫茶室(「[https://cake.tokyo/1820 愛情が直に伝わる老舗和菓子店 銀座 鹿乃子の、親子2代…]」 CAFE.TOKYO 2015年12月20日)。</ref><br />
* [[マネケン|銀座マネケン]]<ref group="†">1986年に日本で初めて[[ワッフル|ベルギーワッフル]]を販売した大阪発の店舗。<!-- https://ginza.kokosil.net/ja/place/00001c0000000000000200000016b862 参照--></ref><br />
* [[三愛ドリームセンター]]<br />
** [[ドトールコーヒー|ル・カフェ・ドトール]]<br />
* [[鳩居堂|東京鳩居堂]]本店<ref group="†">[[江戸時代]]から[[京都]]に店舗を構える[[文房具|書画用品]]や[[香]]の専門店。銀座には、[[銀座煉瓦街]]の時代から路面店を構える[[老舗]]。</ref><br />
* [[TASAKI]]本店<br />
* [[銀座プレイス]]<br />
** [[日産ギャラリー|NISSAN CROSSING]]<br />
** ティエリー・マルクス(フランス料理店)<ref group="†">[[ミシュランガイド]]2つ星のパリ1区サントノレ通り本店のライセンスブランド店になる。</ref><br />
** [[サッポロライオン|銀座ライオン]]([[ビヤホール]]、[[ブラッスリー]])<br />
* [[銀座コア]]<br />
** 銀座萬年堂本店(和菓子店)<ref group="†">江戸時代の[[元和 (日本)|元和]]3年に京都で創業。1872年の[[東京遷都]]と共に東京[[八重洲]]に移転し、[[関東大震災]]や[[第二次世界大戦]]等で店舗が消失したのを期に銀座に移転。<!--http://www.mannendou.co.jp/index/history.html、 https://myrecommend.jp/japanese-sweets-24/ 参照--></ref><br />
** 池田屋東京銀座店<ref group="†">1950年、静岡の[[清水区|旧清水市]]で創業。[[ランドセル]]や、[[印伝|甲州印伝]]のバッグ専門店。</ref><br />
** ひだまり本舗<ref group="†">[[エベレスト#登頂史|エベレスト登山隊]]にも採用された、[[肌着]]専門店(「[http://www.zakzak.co.jp/smp/economy/pressrelease/news/20150930/prl1509301552108-s1.htm 保温力でエベレスト登山隊に貢献…]」 [[zakzak]]、2015年9月30日)。</ref><br />
** [[ワコール|ワコール・ザ・ストア]]<br />
** [[つばめグリル]](老舗洋食店)<ref group="†">1930年、[[新橋駅]]近くで創業した[[ドイツ料理]]風ステーキ等の洋食屋。銀座では他に、銀座1丁目に和牛グリルつばめやがある。</ref><br />
* [[メルサ|イグジットメルサ]](旧ニューメルサ)<br />
** [[文明堂|銀座文明堂]]、BUNMEIDO CAFE GINZA<ref group="†">BUNMEIDO CAFE は併設のカフェレストラン。銀座では他に、[[歌舞伎座]]横のカフェレストラン併設の東銀座店の他、松屋銀座、銀座三越にある。</ref><br />
* [[ラオックス]]銀座本店<br />
* 銀座[[千疋屋]]本店<ref group="†">銀座では他に、銀座三越、GINZA SIX に店舗がある。</ref><br />
* [[ピエールマルコリーニ|ピエール・マルコリーニ]]銀座本店(パティスリー、カフェ)<br />
* リーフルダージリンハウス銀座([[ティールーム|サロン・ド・テ]])<ref group="†">赤坂[[トゥール・ダルジャン]]など数店の高級フランス料理店にも卸す、1988年創業の[[茶葉]]専門店。銀座では他に、銀座三越に店舗がある。<!--http://shop.leafull.co.jp/html/newpage.html?code=6、 http://shop.leafull.co.jp/html/newpage.html?code=4 参照--></ref><br />
* [[マリアージュフレール|マリアージュ・フレール]]銀座(サロン・ド・テ)<br />
* 銀座メゾン[[エルメス]]<br />
* [[アルマーニ]]銀座タワー<br />
* コーチ銀座店<br />
* [[ディオール]]ブティック<br />
* [[森英恵|ハナエ・モリ]]銀座店<br />
* プラダ銀座店<br />
* ロンシャン銀座店<br />
* アンテプリマ銀座店<br />
* ケイト・スペード ニューヨーク銀座店<br />
* カルティエ銀座並木通りブティック<br />
* ブシュロン銀座本店<br />
* モーブッサン銀座フラッグシップストア<br />
* [[フランク・ミュラー]]ウォッチランド東京<br />
* エスパス タグ・ホイヤー銀座<br />
* [[ドルチェ&ガッバーナ]]銀座店<br />
* [[銀座山形屋]]銀座店<ref group="†">創業100年の[[オーダーメイド]]スーツチェーン店。銀座界隈のオーダーメイドスーツ店は他に、銀座SAKAEYA、銀座テーラーなどがある。<!--銀座山形屋については、https://www.ginyama.co.jp/shops/ 等を参照。なお、銀座山形屋本店は中央区湊とのこと。 → https://www.ginyama.co.jp/corporate/profile/ 参照。--></ref><br />
* [[日動画廊]]<br />
* [[靖山画廊]]<br />
* 銀座さわ田(寿司屋)<br />
* 近藤(天ぷら屋)<br />
* 小十(こじゅう、[[日本料理]]店)<br />
* [[エスキス]](フランス料理店)<br />
* [[時事通信ビル]]<br />
<!--* くすりの福太郎銀座5丁目店 →キリがないので、本店旗艦店に準ずるもののみで。--><br />
* [[ピーアークホールディングス|ピーアーク]]銀座店([[パチンコ店]])<br />
<br />
; 6丁目<br />
* ギンザコマツ<ref group="†">[[第二次世界大戦]]後、流行の先端を牽引した婦人服や雑貨を取り扱う小松ストアーがあった地。小松ストアーを開業した小坂武雄の父[[小坂梅吉]]は[[松本楼|日比谷松本楼]]開業者で、松本楼の発祥地である銀座松本楼(小松食堂)があった地にもなる。</ref><br />
** 東館<br />
*** [[ユニクロ]]銀座店<ref group="†">銀座では他に、マロニエゲート2に店舗がある。</ref><br />
** 西館 <br />
*** ドーバー ストリート マーケット ギンザ・[[コム・デ・ギャルソン|コム デ ギャルソン]]<br />
*** ローズベーカリー銀座<ref group="†">[[サクレ・クール寺院]]南側の[[9区 (パリ)|パリ9区]]マルティル(殉教者)通りに、イギリス人夫婦が2002年に開店した[[カフェ]]のライセンスブランド店になる<!--パリのHPは、http://rosebakery.jp/ -->。</ref><br />
*** KOMATSU BAR<br />
* [[アバクロンビー&フィッチ]]銀座店<br />
* かねまつビル<br />
** [[道場六三郎|懐食みちば]](日本料理店)<br />
** 銀座かねまつ 銀座6丁目本店<ref group="†">1947年、[[数寄屋橋]]で創業した靴&バッグ等の革アイテムブランド店。銀座では他に、元の本店であった<!--http://www.ginza-kanematsu.co.jp/recruit/company/history.html 参照-->銀座4丁目店がある。</ref><br />
* 菊水・ダイアナ共同ビル<br />
** [[ダイアナ]]銀座本店<ref group="†">1948年、銀座[[東京すずらん通り連合会|すずらん通り]](現在地裏手付近)で創業した靴&バッグ等の革アイテムブランド店。銀座では他に、マロニエゲート銀座2店がある。</ref><br />
** [[銀座ヨシノヤ]]<ref group="†">1907年、[[尾張町]](銀座6丁目)で創業した靴専門店。</ref><br />
** 銀座菊水([[喫煙具]]店)<ref group="†">1903年、現在地で創業した、[[パイプ]]等の喫煙具専門店。</ref><br />
* [[コメ兵]]銀座店<br />
* [[交詢社]](交詢ビル)<br />
** [[今半]]銀座店<br />
** [[バーニーズ・ニューヨーク]]銀座本店<br />
** スリオラ([[スペイン料理]]店)<br />
* [[GINZA SIX]](ギンザ シックス、旧[[松坂屋]]銀座店<ref group="†">元の場所にあった松坂屋銀座店は2013年6月30日を以って閉店。ただし、公式サイトでは「[http://www.matsuzakaya.co.jp/ginza/ 一旦営業を終了]」という記述があり、公式見解では営業再開を前提としていると思われたため、"完全閉店"ではないと一部で見られていた。</ref>)<br />
** サンローランGINZA SIX店<br />
** セリーヌGINZA SIX店<br />
** フェンディGINZA SIX店<br />
** ヴァレンティノGINZA SIX店<br />
** [[ジミー・チュウ]]GINZA SIX店<br />
** [[マルニ]]GINZA SIX店<ref group="†">1994年ミラノ創業の革アイテム中心のイタリアブランド。海外ではパリ8区モンテーニュ大通り等にある他、日本上陸は2002-12年南青山にあった旗艦店から(「[https://www.vogue.co.jp/tag/brand/marni マルニ / MARNI]」 [[ヴォーグ (雑誌)|VOUGUE]]<!--青山旗艦店の開店時期はvougueでは2000年と記載あるが、2002年。以下を参照<br />
https://www.fashion-press.net/shops/572-->)。銀座・[[有楽町]]界隈では他に、松屋銀座、銀座三越、[[阪急百貨店|阪急メンズ東京]]にある。</ref><br />
** ケンゾーGINZA SIX店<br />
** Discord ヨウジ・ヤマモト(アクスサリー店)<br />
** ディオール・ビューティー、ハウス・オブ・ディオール 銀座ハウス<ref group="†">[[ピエール・エルメ]]監修の[[ディオール]]の[[カフェ]]ないし[[ブラッスリー]]。</ref><br />
** アレクサンドル ドゥ パリGINZA SIX店(オートコワフュール<ref group="†">[[フランス語]]で[[オートクチュール]]の性格を[[美容院]]に置き換えたような"高級美容院"の意<!--(「[https://www.fashionsnap.com/the-posts/2016-09-17/alexandredeparis/ 八木通商 アレクサンドルドゥパリ株取得] 」 fashionsnap.com, 2016年9月17日 参照)-->。1957年にパリ8区フォーブール=サントノレ通り120番地に開店した美容サロンが発祥。2017年、南青山5丁目とGINZA SIXに直営サロンを開店。銀座では他に、松屋銀座店内に店舗がある。現在は、ヘアアクセサリーブランドやコスメ([[ロレアル]]製造)も展開。[[ウィンザー公爵夫人]]、[[グレース・ケリー]]モナコ大公妃、[[ローレン・バコール]]、[[マリア・カラス]]、[[ミシェル・モルガン]]、[[オードリー・ヘップバーン]]、[[グレタ・ガルボ]]、[[ソフィア・ローレン]]、[[ロミー・シュナイダー]]・・らが顧客だったとのこと。2016年から日本の[[八木通商]]の所有ブランド(公式HP「[http://www.alexandredeparis-accessories.com/histoire.htm?changelangue=IT アレクサンドルドゥパリ 美しい物語]」「[https://alexandredeparis.co.jp/ 同 about]」「[http://www.alexandredeparis.jp/brand/ 同 ブランド紹介]」、仏公式HP「[http://www.alexandredeparis-coiffure.com/histoire-1.php Alexandre de Paris]」、fashionsnap.com. 「[https://www.fashionsnap.com/the-posts/2016-09-17/alexandredeparis/ 八木通商 アレクサンドルドゥパリ株取得] 」2016年9月17日 ・・など参照)。</ref>)<br />
** [[植村秀|シュウ ウエムラ]]GINZA SIX店<ref group="†">現在は[[ロレアル]]傘下の化粧品コスメブランド。</ref><br />
** [[シチズン]]フラッグシップストア東京<br />
** [[モワナ]]メゾン銀座<ref group="†">パリのサントノレ通りなどに店舗がある[[トランク]]など革製品のフランス老舗高級ブランド。</ref><br />
** ヴァンクリーフ&アーペルGINZA SIX店<br />
** [[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|銀座蔦屋書店]]<br />
** [[観世能楽堂]]<ref group="†">施設の老朽化等を理由に、2017年に渋谷の[[松濤]]から移転。</ref><br />
* [[ライカ]]銀座店・銀座サロン<br />
* [[オメガ]]ショップ銀座<br />
* [[新橋演舞場]]<br />
* [[銀座天一]]本店(天ぷら屋)<br />
* 寿司幸本店(寿司屋)<br />
* モンロワール銀座みゆき通り店(パティスリー)<ref group="†">[[神戸]][[岡本 (神戸市)|岡本]]に本店があるショコラパティスリー。東京では他に、南青山6丁目や[[麻布十番]]に路面店がある。<!--https://www.monloire.co.jp/shop.html--></ref><br />
* [[くすりの福太郎]]銀座店<ref group="†">現在はドラッグストアとしては閉店。暫く空きテナントとなっていたが、再び「くすりの福太郎」が入居し、調剤薬局として営業している。銀座では他に、銀座1丁目店、銀座5丁目店がある。</ref><br />
<br />
; 7丁目<br />
* [[虎屋|とらや]]銀座店、虎屋菓寮<ref group="†">銀座では他に、松屋銀座店、銀座三越店がある。</ref><br />
* 清月堂銀座本店、喫茶清月茶房(和菓子店)<ref group="†">銀座では他に、松屋銀座店がある。</ref><br />
* [[洋菓子舗ウエスト|銀座ウェスト]]本店<br />
* [[リンツ&シュプルングリー|リンツ]]ショコラカフェ銀座店<br />
* [[サッポロライオン]](ビヤホールライオンや銀座ライオン等がある)<br />
* [[安田松慶堂]]本店<br />
* [[ジーユー]]銀座本店<br />
* [[H&M]]銀座店<ref group="†">2008年9月13日に開店した同銀座店は同社の日本第1号店であったが、2018年7月16日をもって閉店。</ref><br />
* [[ザラ (ファッションブランド)|ZARA]]銀座本店<br />
* [[モンブラン (企業)|MONT BLANC]]銀座本店<br />
* [[ダミアーニ]]銀座タワー店<ref group="†">パリの[[ベル・エポック]]に触発された1924年、イタリアの[[ヴァレンツァ]]で創業したジュエリーブランド<!--ベル・エポックについては、公式HP http://www.damiani.com/jp/ を参照-->。</ref><br />
* [[ピアジェ]]ブティック銀座店<br />
* パンドラ銀座フラッグシップストア<br />
* [[サルヴァトーレ・フェラガモ]]銀座本店<br />
* クリスチャン・ルブタン銀座店<br />
* [[ブレゲ]]ブティック銀座店<br />
* [[セイコー]]プレミアムブティック<br />
* [[スウォッチ]]銀座、スウォッチグラスヒュッテオリジナルブティック銀座<br />
* [[ロンジン]]ブティック東京<br />
* [[ヴァシュロン・コンスタンタン]]銀座ブティック <br />
* [[金田中]]([[料亭]])<br />
* ロオジエ(フランス料理店)<br />
* とよだ(日本料理店)<br />
* 尹家(ユンケ、[[韓国料理]]店)<br />
* 銀座梅林本店(とんかつ屋)<br />
* 俺のうなぎ(鰻料理屋)<br />
* [[ガーディアン・ガーデン]]<br />
* [[ヤマハホール]]<br />
* [[ニコンサロン]]<br />
* [[電通銀座ビル]]<br />
<br />
; 8丁目<br />
* スワロフスキー銀座本店<br />
* [[フォリフォリ]]銀座店<br />
* [[バーバリー]]銀座店<br />
* 三陽銀座タワー<ref group="†">2015年9月に開店した三陽商会のレーベル(ブランド)を集積したビル(「[https://www.fashion-press.net/news/18278 三陽銀座タワーがオープン - マッキントッシュ ロンドンなど三陽商会の展開ブランドが集結]」 fashion-press)。</ref><br />
** [[ポール・スチュアート (ファッションブランド)|ポール・スチュアート]]<ref group="†">三陽商会のレーベル(ブランド)の一つになり、三陽銀座タワー内にある旗艦店。銀座・有楽町界隈では他に、松屋銀座や阪急メンズ東京に店舗があり、また、1981年以来[[神宮前 (渋谷区)|神宮前]]に路面店がある。</ref><br />
** 三陽山長<br />
** マッキントッシュ・ロンドン<br />
** ブラックレーベル・クレストブリッジ<br />
** ブルーレーベル・クレストブリッジ<br />
* [[オンワード樫山#オリジナルブランド|23区]]GINZA<ref group="†">オンワード樫山のオリジナルブランド。銀座では他に、松屋銀座、マロニエゲート2&3 <!--https://shopblog.onward.co.jp/brand/23ku-bag-selection/shop/gp-marronnier-ginza/e1dddb67-de0f-44a8-97e0-fe32a6acca8c?categories%5B0%5D=%E6%96%B0%E7%9D%80%E6%83%85%E5%A0%B1&categories%5B1%5D=Pick+Up&title=%E3%83%9E%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88%E9%8A%80%E5%BA%A7%EF%BC%92+23%E5%8C%BA%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%B0&archive=2017.10.23&shop=gp-marronnier-ginza 参照-->に店舗がある。</ref><br />
* [[アシックス]]ストア東京<ref group="†">銀座では他に、アシックスウィメンマロニエゲート銀座2、アシックスウォーキング銀座インズ、同イグジットメルサ(期間限定店)に店舗がある。</ref><br />
* [[和真|和真メガネ]]銀座本店<br />
* [[月光荘]]<br />
* [[カフェーパウリスタ]]<br />
* [[吉兆|東京吉兆]]本店(料亭)<br />
* [[竹葉亭]][[木挽町]]本店(鰻料理屋)<br />
* 銀座久兵衛本店(寿司屋)<ref group="†">「[[軍艦巻|軍艦巻き]]」発祥店として知られている。</ref><br />
* 鮨よしたけ(寿司屋)<br />
* 銀座いわ Ginza IWA(寿司屋)<ref group="†">1921年(大正10年)、築地創業の寿司岩が本店。築地本店の他に、銀座では同店と銀座三越店がある。</ref><br />
* 福樹(日本料理店)<br />
* 一期銀座(いちごぎんざ、日本料理店)<br />
* カーエム(フランス料理店)<br />
* 銀座天國本店(天ぷら屋)<br />
* [[銀座三河屋]]<br />
* [[マツモトキヨシ]]BeautyU店<ref group="†">銀座では他に、銀座5丁目に銀座5th店がある。</ref><br />
* [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]銀座本館<br />
* [[博品館]]<br />
** [[博品館劇場]]<br />
* [[東京銀座資生堂ビル]]<br />
** [[資生堂パーラー]]<br />
** ファロ資生堂([[イタリア料理]]店)<br />
* [[銀座三井ビルディング]]<br />
* ソサエティ・オブ・スタイル<ref group="†">略称SOS、現在はSOSモデル・エージェンシーとも、1957年に[[菅原文太]]、[[岡田眞澄]]ら総勢8名で発足した日本初の男性専門モデル・クラブ、後年には女性も所属。</ref><br />
* [[中央区立銀座中学校]]<br />
* [[銀座郵便局]]<ref group="†">旧・[[東京南部小包集中局]]。更に遡って明治時代には旧[[逓信省]]もここにあった。</ref><br />
* [[中銀カプセルタワー]]<br />
; 未確定地域<br />
* [[西銀座デパート]]、銀座インズ、銀座ファイブなど[[東京高速道路]]の[[オフィスビル|テナントビル]]街<br />
** キプリング<ref group="†">銀座ファイブ内にある。その他に、パリ6区・[[7区 (パリ)|パリ7区]]境界界隈セーヴル通りなど国内外で店舗展開している。1987年、アントワープ創業のベルギー発のカジュアルバッグのブランド。<!--http://ginzafive.com/shoplist/1F-31.html--></ref><br />
** パンジー<ref group="†">銀座ファイブ内にある。その他、[[表参道 (原宿)|表参道交差点]]界隈[[北青山]]等にも路面店がある。[[ミナミ|大阪ミナミ]]発のイタリアンスタイルの靴のブランド。<!--http://ginzafive.com/shoplist/1F-09.html--></ref><br />
** 誠友堂(美術[[刀剣]]店)<ref group="†">銀座ファイブ内にある。[[日本刀]]、刀装具、[[火縄銃]]、[[甲冑]]・・等の[[武具]]を銀座で販売している店舗として[[メディア]]に取り上げられる事が多い。</ref><br />
; その他<br />
* [[川本源司郎#丸源ビル|丸源ビル]]<br />
|style="vertical-align:top;"|<br />
|}<br />
<br />
== 銀座を舞台・背景とした作品 ==<br />
[[日本映画]]の黎明期から黄金期となる[[戦後混乱期]]から[[高度経済成長]]期まで、東京を代表する町として頻繁に銀座が登場。[[歌謡曲]]でも銀座を歌った歌が数多く、『[[東京行進曲]]』や『[[東京音頭]]』などといった東京の歌の歌詞にも銀座が登場する。<br />
; 映画<br />
<br />
{{columns-list|2|<br />
* [[銀座カンカン娘]](1949年、新東宝)<br />
* [[銀座化粧]](1951年、新東宝)<br />
* [[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]](1954年、東宝)<br />
* [[銀座二十四帖]](1955年、日活)<br />
* [[太陽の季節]](1956年、日活)<br />
* [[夜の蝶]](1957年、大映)<br />
* [[嵐を呼ぶ男]](1957年、日活)<br />
* [[銀座のお姐ちゃん]](1959年、東宝)<br />
* [[銀座旋風児]]シリーズ(1959年 - 1963年、日活)<br />
* [[秋立ちぬ]](1960年、東宝)<br />
* [[女が階段を上る時]](1960年、東宝)<br />
* [[セクシー地帯]](1961年、新東宝)<br />
* [[銀座っ子物語]](1961年、大映東京) <br />
* [[銀座の恋人たち]](1961年、東宝)<br />
* [[銀座の若大将]](1962年、東宝)<br />
* [[閉店時間]](1962年、大映東京) <br />
* [[銀座の恋の物語]](1962年、日活)<br />
* [[風速七十五米]](1963年、大映)<br />
* [[二人の銀座]](1967年、日活)<br />
* [[007は二度死ぬ]](1967年、[[ユナイテッド・アーティスツ]])<br />
* [[続組織暴力]](1967年、東映)<br />
* [[女の警察]](1969年、日活)<br />
* [[続 女の警察]](1969年、日活)<br />
* [[夜をひらく 女の市場]](1969年、日活)<br />
* [[女の警察 国際線待合室]](1970年、日活)<br />
* [[女の警察 乱れ蝶]](1970年、日活)<br />
* 経験(1970年、東映)<br />
* [[赤頭巾ちゃん気をつけて]](1970年、東宝)<br />
* [[実録 私設銀座警察]](1973年、東映)<br />
* [[逆襲! 殺人拳]](1974年、東映)<br />
* [[白昼の死角]](1979年、東映)<br />
* [[ロスト・イン・トランスレーション]](2003年)<br />
}}<br />
<br />
; ラジオドラマ<br />
* [[君の名は]](1951年)<br />
; テレビドラマ<br />
* 君の名は(1991年)<br />
* [[教師びんびん物語]](1988年)<br />
* [[孤独の賭け]](1963年)<br />
* [[白い魔魚]](1965年)<br />
* [[銀座わが町]](1973年)<br />
* [[東京大地震マグニチュード8.1]](1980年)<br />
<br />
; 小説<br />
* [[黒蘭姫]]([[横溝正史]]、1948年)<br />
* [[女が見ていた (小説)|女が見ていた]](横溝正史、1949年)<br />
* [[魔弾の射手 (小説)|魔弾の射手]]([[高木彬光]]、1950年)<br />
* [[女王蜂 (横溝正史)|女王蜂]] (横溝正史、1951年)<br />
* [[にっぽん製]]([[三島由紀夫]]、1953年)<br />
* [[暗闇の中の猫]] (横溝正史、1956年)<br />
* [[黒革の手帖]]([[松本清張]]、1980年)<br />
* [[ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり]]([[柳内たくみ]]、2010年)<br />
<br />
; 漫画<br />
{{columns-list|2|<br />
* [[女帝 SUPER QUEEN|女帝]]([[倉科遼]]作、[[和気一作]]画)<br />
* [[哀愁荒野]]([[梶原一騎]]作、[[松久由宇]]画)<br />
* [[虹色仮面]]([[高口里純]])<br />
* [[おいしい銀座]]([[酒川郁子]])<br />
* [[XXXHOLiC]]([[CLAMP]])<br />
* [[バーテンダー (漫画)|バーテンダー]]([[城アラキ]]作、[[長友健篩]]画)<br />
* [[銀座の番ねこ]]([[高梨みどり]])<br />
* [[銀座ギャラクシー]]([[長尾謙一郎]])<br />
* [[江戸前の旬]]([[九十九森]]作、[[さとう輝]]画)<br />
* [[美味しんぼ]]([[雁屋哲]]作、[[花咲アキラ]]画)<br />
}}<br />
<br />
; アニメ<br />
* [[アイドルマスター XENOGLOSSIA]](2007年)<br />
<br />
== 出身者 ==<br />
*[[岸田劉生]] - [[洋画家]]<br />
*[[吉田暁芳]] - [[浮世絵師]]<br />
*[[池田彌三郎]] - [[民俗学|民俗学者]]<br />
*[[稲山嘉寛]] - [[実業家]]。第5代[[経済団体連合会|経団連]]会長、[[新日本製鐵]]初代社長<br />
*[[福原信三]] - 実業家、[[写真家]]。[[資生堂]]社長、[[日本写真会]]会長<br />
*[[福原路草]] - 写真家<br />
*[[篠沢秀夫]] - [[仏文学者]]、[[学習院大学]]教授。[[タレント]]教授の走り<br />
*[[矢代静一]] - [[劇作家]]。実家は[[銀座ヨシノヤ]]。<br />
*[[岸田辰彌]] - [[演出家]]、[[オペラ歌手]]。<br />
*[[居作昌果]] - 元[[TBSテレビ|TBS]]<!--<ref group="†">会社法人としては現在の[[東京放送ホールディングス]]。放送局としては現在の[[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]]。</ref>→不用な注釈では?-->[[プロデューサー]]<br />
*[[和泉雅子]] - [[女優]]、[[冒険家]]。実家は銀座・三原橋で三代続いた寿司[[割烹]]店であった。現在は自社ビルとなっている。<br />
*[[柄本明]] - [[コメディアン]]。出生地は[[岩手県]]<br />
*[[泉ピン子]] - 女優<br />
*[[なぎら健壱]] - [[シンガーソングライター]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group="†"}}<br />
<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
=== 参考文献 ===<br />
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}<br />
*[[大石学]] 『駅名で読む江戸・東京』 [[PHP研究所]] (PHP新書)、2003年1月、ISBN 978-4569625720<br />
* 岡本哲志『銀座四百年 都市空間の歴史』([[講談社]]・2006年)<br />
* 川崎房五郎『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』4巻「銀座」(吉川弘文館、1984年)<br />
* 三枝進ほか『銀座 街の物語』([[河出書房新社]]・2006年)<br />
* 田谷博吉『近世銀座の研究』([[吉川弘文館]]、1963年)<br />
<br />
== 世界各地の"銀座" ==<br />
* [[シャンゼリゼ通り|シャンゼリゼ大通り]]([[8区 (パリ)|パリ8区]])、モンテーニュ大通り([[:fr:Avenue Montaigne|fr]]、パリ8区)、ジョルジュ=サンク大通り([[:fr:Avenue George-V|fr]]、パリ8区) - シャンゼリゼは銀座と友好提携関係を結んでいる。上記3つの[[アベニュー|アヴニュー]]に囲まれた周辺界隈が[[ラグジュアリー]]関連の"黄金の三角地帯 ([[:fr:Triangle d'or|fr]])"と呼称されている。また、下記フォーブール=サントノレ通りがシャンゼリゼ通り北側を並走している。<br />
* [[フォーブール=サントノレ通り]]([[:fr:Rue du Faubourg-Saint-Honoré|fr]]、パリ8区)、[[サントノーレ通り]]([[1区 (パリ)|パリ1区]]) - ロワイヤル通りを挟んで続くこの2つの通り界隈は、世界屈指の高級[[ブランド]]店街。<br />
* [[ヴァンドーム広場]](パリ1区)、オペラ地区([[2区 (パリ)|パリ2区]]・[[9区 (パリ)|パリ9区]]) - ヴァンドーム界隈の高級宝石商街から[[ガルニエ宮]]([[オペラ座]])のあるオペラ広場周辺の、劇場映画館、[[プランタン (フランスの百貨店)|プランタン]]や[[ギャラリー・ラファイエット|ギャルリー・ラファイエット]]などのグラン・マガザン([[百貨店]])街へ続く界隈。<br />
* [[ナイツブリッジ]]([[シティ・オブ・ウェストミンスター]]) - [[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウェスト・エンド・ロンドン]]にある、百貨店[[ハロッズ]]や[[ハーヴェイ・ニコルズ]]など高級商業施設が集積する地区。<br />
* ニュー・ボンド・ストリート、オールド・ボンド・ストリート([[:en:Bond Street|en]]、シティ・オブ・ウェストミンスター) - "[[ボンド・ストリート]]"はウェスト・エンドの[[メイフェア]]地区にある高級ブランド店の集積地。<br />
* [[オックスフォード・ストリート]]、[[リージェント・ストリート]]、[[ピカデリー]](シティ・オブ・ウェストミンスター) - メイフェア地区を中心とするこれら通り一帯は、ブランド店から劇場までが集積するウェスト・エンドにある代表的な歓楽街。<br />
* [[オコンネル通り]]([[ダブリン]])<br />
* [[モンテナポレオーネ通り]]([[:en:Via Monte Napoleone|en]]、[[ミラノ]])<br />
* [[コルソ通り]]([[ローマ]])<br />
* [[グランビア通り]]([[マドリード]])<br />
* [[ランブラス通り]]([[バルセロナ]])<br />
* [[5番街 (マンハッタン)|5番街]]、[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]<!--日比谷の映画街のみならず、東銀座の歌舞伎座からの類推-->([[ミッドタウン|ミッドタウン・マンハッタン]])<br />
* 47番街のダイヤモンド地区([[:en:47th Street (Manhattan)#Diamond District|en]]、ミッドタウン・マンハッタン)- 上記5番街と[[6番街 (マンハッタン)|6番街]]との間にある高級宝石商街。<br />
* [[ロデオドライブ]]([[ビバリーヒルズ]]) <br />
* [[ヤング・ストリート]]([[トロント]])<br />
* [[西ベルリン#西ベルリンの商業地区|クアフュルステンダム通り]](通称クーダム通り、[[ベルリン]])<br />
* [[メンケベルク通り]]([[ハンブルグ]])<br />
* [[カイザー通り]]([[フランクフルト・アム・マイン]])<br />
* [[トゥヴェルスカヤ通り]](旧[[ゴーリキー通り (モスクワ)|ゴーリキー通り]]、[[モスクワ]]) - [[ロシア革命]]前からロシア随一の[[メインストリート]]であり、古くから多数の日本人駐在員より「モスクワ銀座」とも呼ばれている。首都モスクワと(ロシア革命前まで首都であった)[[サンクトペテルブルグ]]を結ぶ幹線道路の(モスクワ側からの)始点でもある。<br />
* [[ネフスキー大通り]]([[サンクトペテルブルク]])<br />
* [[スヴェトランスカヤ通り]]([[ウラジオストク]])<br />
* [[レーニナ通り|レーニナ通り(旧豊原大通り)]]、[[サハリーンスカヤ通り|サハリーンスカヤ通り(旧真岡通り)]]、[[ミーラ大通り]]([[ユジノサハリンスク]])<br />
* [[フレシチャーティク]]([[キエフ]])<br />
* [[マーシャル通り]]、[[イェロゾリムスキェ通り]]([[ワルシャワ]])<br />
* [[ナロードニ通り]]、[[ヴァーツラフ広場]]([[プラハ]])<br />
* [[アンドラーシ通り]]、[[ヴァーツィー通り]]([[ブタペスト]])<br />
* [[ヴィクトリア通り]]、[[マゲル通り]]([[ブカレスト]])<br />
* [[ヴィトシャ通り]]([[ソフィア]])<br />
* [[クネズ・ミハイロヴァ通り]]([[ベオグラード]])<br />
* [[イリツァ通り]]([[ザグレブ]])<br />
* [[アマリアス通り]]([[アテネ]])<br />
* [[イスティクラル通り]]([[イスタンブール]])<br />
* [[バリアス通り]]([[テヘラン]])<br />
* [[コンノートプレイス]]、[[パハールガンジ|パハールガンジ(別名「メインバザール」)]]([[ニューデリー]])<br />
* サリットセンター、[[ウェストゲート (ケニア)|ウェストゲート]](ウェストランド・[[ナイロビ]])<!--参照として、http://new-jun-jun.jugem.jp/?eid=90、https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g294207-d4137727-r264160567-Black_Diamond-Nairobi.html、https://www.tour.ne.jp/blog/chocotakeda/92182/ など--><br />
* [[サントン]]([[ヨハネスブルグ]])<br />
* [[パウリスタ通り]]([[サンパウロ]])<br />
* [[アトランティカ通り]]([[リオデジャネイロ]])<br />
* [[フロリダ通り]]([[ブエノスアイレス]])<br />
* [[レフォルマ通り]]([[メキシコシティ]])<br />
* [[頂好]]([[台北]])<br />
* [[狎鴎亭]]、[[明洞]]([[ソウル特別市|ソウル]])<br />
* [[黎明通り]]([[平壌]])<br />
* [[人民大街]]([[長春]])<br />
* [[王府井街]]([[北京]]) - 古くから多数の日本人駐在員より「北京の銀座」とも呼ばれている。<br />
* [[南京路 (上海)|南京東路]]([[上海]])<br />
* [[銅鑼湾]]([[香港]])<br />
* [[オーチャード・ロード]]([[シンガポール]])<br />
* [[サイアム・スクエア|サイアム]]([[パトゥムワン区|バンコク都パトゥムワン区]])<br />
* [[ドンコイ通り]]([[ホーチミン市|ホーチミン(旧サイゴン)]])<br />
* ジョージ・ストリート([[シドニー]]) - 同ストリートの[[クイーン・ヴィクトリア・ビルディング (シドニー)|クイーン・ヴィクトリア・ビルディング]]周辺界隈が高級商業施設街。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{Commonscat|Ginza}}<br />
* [[金座]]<br />
* [[両替町]] - 銀座のルーツ<br />
* [[築地警察署]] - 銀座周辺の管轄にあたる。<br />
* [[ホステス]]<br />
* [[御堂筋]]・[[北新地]]・[[心斎橋]] - 大阪の商業中心地区。西の高級飲食店街や高級[[ブランド]]店集積地域。<br />
* [[栄 (名古屋市)|栄]] - 名古屋の商業中心地区。<br />
* [[表参道 (原宿)|表参道]] - 銀座同様に東京の高級ブランド店集積地域。<br />
* [[読売ジャイアンツ]] - 優勝パレードを当地で行っている。<br />
* [[アーケード]]・[[地下街]] - <!--大都市の繁華街でありながら-->当地には存在しない。[[晴海通り]]・銀座通り([[中央通り (東京都)|中央通り]])等の[[目抜き通り]]地下に、[[地下鉄]]の各駅や各ビルをつなぐ「地下通路」のみがあり、小規模な商店街をつくっている。<br />
* [[東京都の観光地]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.city.chuo.lg.jp/ 中央区ホームページ]<br />
* [http://www.city.chuo.lg.jp/kusei/syokai/tyomeiyurai/kyobashi/ginza.html 銀座・銀座西地区 町名の由来 - 中央区ホームページ内]<br />
* [http://www.city.chuo.lg.jp/kusei/syokai/tyomeiyurai/kyobashi/ginzahigashi.html 銀座東地区 町名の由来 - 中央区ホームページ内]<br />
* [http://www.ginza.jp/ 銀座コンシェルジュ] - 銀座公式サイト<br />
* [http://www.ginza-machidukuri.jp/ 銀座街づくり会議 銀座デザイン協議会] <br />
<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre = 銀座<br />
|North = [[八重洲]] [[京橋 (東京都中央区)|京橋]]<br />
|Northeast = [[八丁堀 (東京都中央区)|八丁堀]]<br />
|East = [[新富 (東京都中央区)|新富]]<br />
|Southeast = [[築地]]<br />
|South = [[浜離宮庭園]]<br />
|Southwest = [[新橋 (東京都港区)|新橋]]<br />[[東新橋]]<br />
|West = [[内幸町]]<br />
|Northwest = [[丸の内]]<br />[[有楽町]]<br />
|image =<br />
}}<br />
<br />
{{東京都中央区の町名}}<br />
{{東京23区の地域}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:きんさ}}<br />
[[Category:銀座|*]]<br />
[[Category:東京都の商店街]]<br />
[[Category:東京都中央区の町名]]</div>
103.226.44.10
白金台
2018-08-02T02:54:59Z
<p>103.226.44.10: /* 沿革 */リンク</p>
<hr />
<div>{{Pathnav|日本|東京都|[[港区 (東京都)|港区]]|frame=1}}<br />
{{Infobox settlement<br />
| name = 白金台<br />
| settlement_type = [[町丁]]<br />
| image_skyline = Platina_dori_Tokyo.jpg<br />
| imagesize = 270px<br />
| image_caption = 白金台交差点より[[東京都道418号北品川四谷線|外苑西通り]](プラチナ通り)を望む<br />
| image_map = <br />
| map_caption = 白金台の位置<br />
| pushpin_map = Japan Wards of Tokyo#<br />
| latd = 35 | latm = 38 | lats = 16.5 | latNS = N<br />
| longd = 139 | longm = 43 | longs = 34.08 | longEW = E<br />
| subdivision_type = [[国の一覧|国]]<br />
| subdivision_name = {{JPN}}<br />
| subdivision_type1 = [[都道府県]]<br />
| subdivision_name1 = [[File:Flag of Tokyo Prefecture.svg|border|25px]] [[東京都]]<br />
| subdivision_type2 = [[東京都区部|特別区]]<br />
| subdivision_name2 = [[File:Flag of Minato, Tokyo.svg|border|25px]] [[港区 (東京都)|港区]]<br />
| subdivision_type3 = 地区<br />
| subdivision_name3 = 高輪地区<br />
| established_title1 = <!--- 設置 ---><br />
| established_date1 = <!--- 設置日 ---><br />
| area_footnotes = <ref name="menseki">{{Cite web|url=http://www.city.minato.tokyo.jp/toukeichousa/kuse/toke/jinko/kokusechosa/index.html|title=平成22年国勢調査による各総合支所管内別の町丁目別面積・昼夜人口等|publisher=港区|date=2015-02-19|accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
| area_total_km2 = 1.00<br />
| elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---><br />
| elevation_m = <!--- 標高 ---><br />
| population_as_of= [[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在<br />
| population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|url=http://www.city.minato.tokyo.jp/toukeichousa/kuse/toke/jinko/chocho/index.html|title=各月1日現在の各総合支所管内別の町丁目別人口・世帯数(平成14年~平成29年)|publisher=港区|date=2017-12-06|accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
| population_total = 11635<br />
| population_density_km2 = auto<br />
| timezone1 = [[日本標準時]]<br />
| utc_offset1 = +9<br />
| postal_code_type = [[郵便番号]]<br />
| postal_code = 108-0071<ref name="postal">{{Cite web |url=http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=1080071|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
| area_code = 03<ref name="areacode">{{Cite web|url=http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
| registration_plate = [[東京運輸支局|品川]]<br />
| footnotes = ※座標は白金台駅付近<ref>[[Google Earth]]より</ref><br />
}}<br />
<br />
'''白金台'''(しろかねだい)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]にある地名。[[住居表示]]実施済み地区であり、現行行政地名は白金台一丁目から白金台五丁目。高輪地区総合支所管内に属する地域である。[[郵便番号]]は108-0071([[高輪郵便局|高輪局]]管区)<ref name="postal" />。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の西南端に位置し、西部で[[渋谷区]][[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]・[[品川区]][[上大崎]]・[[東五反田]]に隣接し、東部で[[高輪]]に、北部で[[白金 (東京都港区)|白金]]にそれぞれ接する。目黒通りと[[東京都道418号北品川四谷線|外苑西通り]]・[[桜田通り]]([[国道1号]])沿いには[[店|商店]]・[[マンション]]が点在する。町内には、歴史的建造物が所在する[[学校法人明治学院|明治学院]]がある。<br />
<br />
[[武蔵野台地]]の東縁に所在する住宅地の一つであり、[[住宅地]]として好適な環境を持つ土地として知られてきたが、[[バブル景気]]後半頃より洒落た[[レストラン]]やカフェ、[[ブティック]]が目立ち始め、それらに伴い高級マンションが建つようになり、近年は高所得の[[住民]]が増加している。いわゆる、[[高級住宅街]]として知られる。その一部の女性住民が[[マスコミュニケーション|マスコミ]]により「[[シロガネーゼ]]」<ref>実際には[[マスメディア]]が言うところの「[[シロガネーゼ]]」に当たるのはほんの一部の住民であった。しかしそのようにマスコミが仕掛け大々的に取り上げたこともあり、外苑西通りは別名プラチナ通りと呼ばれるようになり、通り沿いを中心に[[レストラン]]や[[カフェ]]、[[ブティック]]などが増え、次第に目黒通り沿いにも同様の光景が見受けられるようになった。その後、地価の急激な高騰と昨今の長期的不況により、店の入れ替わりがいっそう激しくなり、開店して1年も経たずに店が入れ替わるケースもある。</ref><ref>旧白金台町は[[空襲]]の被害を受けなかったことや、長らく住宅街としての位置づけにあったこともあり、目黒通り周辺には近年まで[[戦前]]から残る家屋も並んでいた。しかし、地価の高騰や[[日本の地下鉄|地下鉄]]開業、目黒通りの拡幅工事によって、地権者や建造物の入れ替わりが進み、他の東京の地区と同様にマンションや[[オフィスビル]]が多くを占めるようになっている。</ref>として取り上げられた。<br />
<br />
歴史的には[[1867年]]([[慶応]]3年)、東京で最初の近代的[[屠畜場]]が設置された地になる。現在の白金台にあたる[[荏原郡]]今里村(後の芝白金今里町)が当該地になる([[芝浦屠場#沿革]]、[[今半#今半本店]]なども参照)。<br />
<br />
== 「白金」の読み ==<br />
町名である白金台の正しい読みは「しろかねだい」であり、「しろがねだい」ではない<ref>作家[[今東光]]は会話の時うっかり「芝のしろがね町の……」と発言したために、[[谷崎潤一郎]]から「芝はしろかね。白金と書いてしろかねと言うんだ」「[[白銀町 (新宿区)|牛込の]]はしろがね。白銀と書いてしろがねと発音するんだ。明治になってから、田舎っぺが東京へ来るようになって、地名の発音が次第に滅茶苦茶になってきたな」と怒鳴りつけられたことを記している(『十二階崩壊』[[中央公論社]]、[[1978年]]。p.250)</ref>。一般にはどちらの読み方もされてきたが、<br />
# もともと町名の起源となった白金長者([[応永]]年間に白金地区を開墾した柳下上総介)は、白金(しろがね = [[白金|プラチナ]])ではなく、大量の銀(しろかね)を保有していたために白金長者と呼ばれるようになったこと<br />
# それを裏付けるように、『[[小田原衆所領役帳]]』(北條役帳)では「白銀」と記されていること<br />
などの歴史的事情を考慮し、[[1969年]]([[昭和]]44年)[[1月1日]]に白金地区において[[住居表示]]が実施された際、[[港区 (東京都)|港区]]が「しろかねだい」を正式町名として採用したという経緯がある。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
=== 沿革 ===<br />
* [[応永]]年間、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[国司]]であった柳下上総介が当地を開墾、白金村を開く(白金村は[[武蔵国]][[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]と[[荏原郡]]の境界線上にあったため長いこと所属が定まらず、[[江戸時代]]は[[入会地]]とされた)。<br />
* [[1651年]]([[慶安]]4年):現在の目黒通り沿いに形成された町屋が白金村より分離し、白金台町一丁目~十一丁目が成立する。<br />
* [[1713年]]([[正徳 (日本)|正徳]]3年):新たに町奉行支配となる。<br />
* [[1867年]]([[慶応]]3年):[[外国人]]に[[牛肉]]を供給していた中川嘉兵衛が、江戸荏原郡今里村(後の芝白金今里町、現在の白金台二丁目)に[[屠畜場|屠牛場]](後の「東京共有屠牛場」)を設立。これが江戸・東京における最初の近代的屠場であった<ref>[http://www.shijou.metro.tokyo.jp/syokuniku/rekisi_keihatu_01_01.html 東京都中央卸売市場 食肉市場・芝浦と場ホームページ 東京食肉市場の歩み] 参照。なお、[[すき焼き]]専門店[[今半]]の「今」は、[[明治]]初期に今里村にあったこの屠牛場から牛肉を仕入れていたことに由来する。</ref>。[[芝浦屠場]]も参照。<br />
* [[1868年]]([[明治]]元年):[[東京府]]成立に伴い、白金台町は東京府の所属となる。<br />
* [[1869年]](明治2年):白金台町六丁目に白金[[瑞聖寺]]門前を合併する。<br />
* [[1873年]](明治5年):白金台町一丁目~五丁目に瑞聖寺の敷地を合わせて新たに白金台町一丁目とし、白金台町六丁目~十一丁目に白金御料地を合わせて白金台町二丁目とした。<br />
* [[1878年]](明治11年):[[芝区]]の成立に伴い、東京府芝区白金台町となる。<br />
* [[1887年]](明治20年):東京府から私立明治学院の設置が認可され、白金今里町(現在の東京都港区白金台1-2-37)に開設される。<br />
* [[1889年]](明治22年):[[5月1日]] [[東京市]]の成立に伴い、東京市芝区白金台町となる。<br />
* [[1912年]](明治45年):神田橋より白金火薬庫前(現・[[上大崎]])まで東京市電が開通する。<br />
* [[1947年]]([[昭和]]22年):芝区が[[赤坂区]]・[[麻布区]]と合併し、新たに[[港区 (東京都)|港区]]が成立する。それに伴い町名に「[[芝 (東京都港区)|芝]]」の冠称がつき、港区芝白金台町となる。<br />
* [[1967年]](昭和42年)[[12月10日]]:白金台の[[東京都電車|都電]]が廃止される(5系統・[[目黒駅]]前~白金台町~[[永代橋]])。<br />
* [[1969年]](昭和44年)[[1月1日]]:[[住居表示]]実施。従来の芝白金台町に周辺の芝白金三光町・芝白金今里町・芝白金猿町・芝二本榎西町などを合わせて、現在の白金台(しろかねだい)成立。<br />
* [[2000年]]([[平成]]12年)[[9月26日]]:地下鉄[[東京メトロ南北線|南北線]]・[[都営地下鉄三田線|三田線]][[白金台駅]]が開業。<br />
<br />
=== 変遷 ===<br />
{|class="wikitable"<br />
|-<br />
!実施後<br />
!実施年月日<br />
!実施前(各町名ともその一部)<br />
|-<br />
|白金台一丁目<br />
| rowspan="5" |1969年1月1日<br />
|芝白金台町一丁目、芝白金今里町<br />
|-<br />
|白金台二丁目<br />
|芝白金今里町、芝白金猿町、芝二本榎西町<br />
|-<br />
|白金台三丁目<br />
|芝白金台町一丁目、芝白金台町二丁目、芝白金今里町<br />
|-<br />
|白金台四丁目<br />
|芝白金台町一丁目、芝白金台町二丁目、芝白金三光町<br />
|-<br />
|白金台五丁目<br />
|芝白金台町二丁目、芝白金三光町<br />
|}<br />
<br />
== 世帯数と人口 ==<br />
[[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"></ref>。<br />
{| class="wikitable"<br />
![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]<br />
|-<br />
|白金台一丁目<br />
|style="text-align:right"|512世帯<br />
|style="text-align:right"|1,060人<br />
|-<br />
|白金台二丁目<br />
|style="text-align:right"|1,515世帯<br />
|style="text-align:right"|2,773人<br />
|-<br />
|白金台三丁目<br />
|style="text-align:right"|1,884世帯<br />
|style="text-align:right"|3,816人<br />
|-<br />
|白金台四丁目<br />
|style="text-align:right"|1,167世帯<br />
|style="text-align:right"|2,091人<br />
|-<br />
|白金台五丁目<br />
|style="text-align:right"|1,058世帯<br />
|style="text-align:right"|1,895人<br />
|-<br />
|style="text-align:center"|計<br />
|style="text-align:right"|6,136世帯<br />
|style="text-align:right"|11,635人<br />
|}<br />
<br />
== 小・中学校の学区 ==<br />
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school_1">{{Cite web|url=http://www.city.minato.tokyo.jp/gakkouuneishien/kodomo/gakko/tetsuzuki/tennyugaku/tetsuzuki/tsugakukuiki27.html|title=港区立小・中学校通学区域一覧表|publisher=港区|date=2015-04-01|accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
{| class="wikitable"<br />
!丁目!!番地!!小学校!!中学校<br />
|-<br />
||白金台一丁目||全域||rowspan=4|[[港区立白金小学校]]||rowspan=4|[[港区立高松中学校]]<br />
|-<br />
||白金台二丁目||全域<br />
|-<br />
||白金台三丁目||全域<br />
|-<br />
|rowspan=2|白金台四丁目||1〜5番<br/>7~19番<br />
|-<br />
||その他||rowspan=2|[[港区立白金の丘学園]]||rowspan=2|港区立白金の丘学園<br />
|-<br />
|rowspan=2|白金台五丁目||1~12番<br />
|-<br />
||その他||港区立白金小学校||港区立高松中学校<br />
|}<br />
<br />
== 施設・名所 ==<br />
=== 白金台一丁目 ===<br />
* [[明治学院大学]](明治学院[[インブリー館]]、明治学院記念館、明治学院礼拝堂)<br />
* [[明治学院高等学校]]<br />
* 清正公([[覚林寺]])<br />
* [[シェラトン都ホテル東京]]<br />
* [[八芳園]](旧[[久原房之助]]邸)<br />
* [[スパ白金]]<br />
* [[港区立白金小学校]]<br />
* [[桑原坂]]<br />
* [[日吉坂]]<br />
<gallery><br />
Meiji Gakuin University.jpg|明治学院大学<br />
Happoen-2.jpg|八芳園(2018年3月30日撮影)<br />
Spa_Shirokane.jpg|スパ白金<br />
Kuwahara-saka_0012.jpg|桑原坂<br />
</gallery><br />
<br />
=== 白金台二丁目 ===<br />
* [[畠山記念館]] <br />
* [[高輪台駅]]<br />
* [[頌栄女子学院中学校]]<br />
<br />
=== 白金台三丁目 ===<br />
* [[港白金台郵便局]]<br />
* [[瑞聖寺]]<br />
<gallery><br />
Zuisho-ji_main_hall.JPG|瑞聖寺<br />
</gallery><br />
<br />
=== 白金台四丁目 ===<br />
* [[国立公衆衛生院|旧国立公衆衛生院]]<br />
* [[東京大学医科学研究所]]<br />
* [[白金台駅]]<br />
* [[エリトリア]][[大使館]]<br />
* [[港区立白金台児童館]]<br />
<gallery><br />
Koshu_eisei-in.jpg|旧国立公衆衛生院<br />
Institute of Medical Science-1.jpg|東京大学医科学研究所(2018年3月30日撮影)<br />
Shirokanedai Jidokan-1.jpg|港区立白金台児童館(2018年3月30日撮影)<br />
</gallery><br />
<br />
=== 白金台五丁目 ===<br />
* [[国立科学博物館附属自然教育園]]<br />
* [[東京都庭園美術館]]<br />
* [[松岡美術館]]<br />
* [[ジンバブエ]]大使館<br />
* [[台北経済文化代表処|台北駐日経済文化代表処]]<br />
* [[白金台どんぐり児童遊園]]<br />
* [[日東坂]]<br />
<gallery><br />
Tokyo Metropolitan Museum entrance.jpg|東京都庭園美術館正門<br />
Tokyo teien museum.jpg|旧・[[朝香宮]]邸<br />
</gallery><br />
<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[白金台駅]](<font color="#00ada9">'''○'''</font>[[東京メトロ南北線]]・<font color="#0079c2">'''○'''</font>[[都営地下鉄三田線]])<br />
* [[高輪台駅]](<font color="#ff66bb">'''○'''</font>[[都営地下鉄浅草線]])<br />
<gallery><br />
Shirokanedai Station entrance.jpg|白金台駅<br />
</gallery><br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* [[首都高速2号目黒線]][[目黒出入口]]<br />
* 目黒通り([[東京都道312号白金台町等々力線]])<br />
* [[桜田通り]]([[国道1号]])<br />
* 外苑西通り([[東京都道418号北品川四谷線]])<br />
<br />
== 参考図書 ==<br />
* 『まち探訪ガイドブック』 2007年度版 港区発行<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[白金 (東京都港区)]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/gaiyo/chimerekishi/35.html 白金台(しろかねだい)]<br />
<br />
{{東京都港区の町名}}<br />
{{デフォルトソート:しろかねたい}}<br />
[[Category:東京都港区の町名]]<br />
[[Category:白金 (東京都港区)]]</div>
103.226.44.10
今半
2018-08-02T02:32:24Z
<p>103.226.44.10: /* 店名の由来 */リンク</p>
<hr />
<div>[[画像:Imahan Sukiyaki Asakusa.JPG|thumb|300px|今半別館]]<br />
<br />
'''今半'''(いまはん、英文表記:Imahan)は飲食業者、小売業者の名称である。本項では[[東京都]]にある[[すき焼き]]専門店「今半本店」と、同店をルーツとする東京都内の4事業者について解説する。<br />
<br />
== 今半本店 ==<br />
'''今半本店'''(いまはんほんてん)は[[浅草]]の新仲見世通り沿いに店舗を構える、すき焼き専門店。所在地は東京都[[台東区]]浅草一丁目19番7号。後述の<br />
*[[#今半別館|今半別館]]<br />
*[[#浅草今半(株式会社今半)|浅草今半(株式会社今半)]]<br />
*[[#人形町今半|人形町今半]]<br />
*[[#代々木今半|代々木今半]]<br />
は今半本店をルーツとしているが、2011年時点ではそれぞれ直接の関係はなく、独立した経営を行っている。<br />
<br />
=== 歴史 ===<br />
[[1895年]](明治28年)、[[本所区]]吾妻橋の牛鍋屋として創業し、のちに浅草へ移った。[[関東大震災]]により店舗が焼失したが、その後新たに[[龍宮]]をイメージした豪華な店舗を建て、人々をあっと言わせた<ref name="SS060416">『産経新聞』東京朝刊 2006年4月16日25面</ref>。新店舗は木造3階建てで、店内には客用の風呂も設けられており、湯口は[[ライオン]]を模ったものであった。和洋中の料理が取り揃えられ、[[金]]製のすき焼き鍋も用意されていた。同店には「今半御殿」との異名が付き<ref name="YS030220">『読売新聞』東京朝刊 2003年2月20日35面</ref><ref name="SS040316">『産経新聞』東京朝刊 2004年3月16日26面</ref>、店舗の[[絵葉書]]も作られた。[[永井荷風]]は同店をしばしば訪れており、店内の様子などを『[[断腸亭日乗]]』に書き記している。<br />
<br />
この建物は[[太平洋戦争]]時に焼失した。同店は2011年現在、すき焼き専門店として営業している。<br />
<br />
==== 沿革 ====<br />
*1895年(明治28年) - 本所区吾妻橋にて創業。<br />
*[[1912年]](大正元年) - 浅草にて「今半」開店。<br />
*[[1921年]](大正10年) - [[暖簾分け]]により、[[芝区]][[三田 (東京都港区)|三田]]に支店開業(のちの今半別館)。<br />
*[[1923年]](大正12年) - 関東大震災により店舗焼失。のちに店舗を再建(今半御殿)。<br />
*[[1928年]](昭和3年) - 暖簾分けにより、[[東京都道462号蔵前三ノ輪線|国際通り]]沿いに「浅草今半」開業。<br />
*太平洋戦争時 - [[空襲]]により今半御殿焼失。<br />
2011年現在、新仲見世通り沿いにて営業中。<br />
<br />
=== 店名の由来 ===<br />
開業当時、[[関東地方]]で唯一の政府公認[[屠畜場|食肉処理場]]が[[芝区]][[白金 (東京都港区)|白金]]今里町(現在の[[白金台]])にあり、ここから肉を仕入れていた店は店名に「今」の字を付けることが多かった<ref name="TS040331">『東京新聞』首都版朝刊 2004年3月31日26面</ref>。今半の「今」の字は、ここから肉を仕入れていたことと、「今様」という語句に由来している。<br />
<br />
「半」の字については、<br />
*創業者3人のうち1人の名前から「半」の字を採ったもの<ref name="BEKKAN">[http://www.asakusa-imahan.co.jp/out_line/out_line.html 「今半の由来と現在」]有限会社今半別館</ref><ref name="NINGYOCHO">[http://www.imahan.com/company/story.html 「今半物語」]株式会社人形町今半</ref><br />
*別の創業者の名前から「伴」の字を採り、「半」に変えたもの<ref name="TS040331" /><br />
とされている。<br />
<br />
== 今半別館 ==<br />
{{基礎情報 会社<br />
|社名 = 有限会社今半別館<br />
|英文社名 = <br />
|ロゴ = <br />
|画像 = Imahan1.jpg<br />
|画像説明 = 今半別館玄関棟<br />(2017年2月4日撮影)<br />
|種類 = [[株式会社]]([[特例有限会社]])<br />
|市場情報 = 非上場<br />
|略称 = <br />
|国籍 = {{JPN}}<br />
|郵便番号 = 111-0032<br />
|本社所在地 = 東京都台東区浅草2-2-5<br />
|設立 = <br />
|業種 = 6100<br />
|統一金融機関コード = <br />
|SWIFTコード = <br />
|事業内容 = 日本料理店<br />
|代表者 = <br />
|資本金 = <br />
|売上高 = <br />
|総資産 = <br />
|従業員数 = <br />
|決算期 = <br />
|主要株主 = <br />
|主要子会社 = <br />
|関係する人物 = <br />
|外部リンク = http://www.asakusa-imahan.co.jp/<br />
|特記事項 = <br />
}}<br />
<br />
'''有限会社今半別館'''(-いまはんべっかん)は、浅草の伝法院通り近くにて、すき焼きを中心とした[[日本料理]]店「今半別館」を運営する企業である。所在地は東京都台東区浅草二丁目2番5号。同店の建物は[[登録有形文化財]]となっている。<br />
<br />
=== 沿革 ===<br />
*[[1921年]](大正10年) - 今半(のちの今半本店)からの[[暖簾分け]]により、芝区三田にて開業。<br />
*太平洋戦争末期 - 店舗が[[建物疎開]]のため取り壊される。<br />
*[[1950年]](昭和25年)頃 - 浅草の伝法院通り近くにて開店。<br />
*[[2003年]](平成15年) - 同店建物(北棟、南棟、玄関棟)が[[文部科学大臣]]により登録有形文化財として登録された。<br />
<br />
=== 建物 ===<br />
同店の建物は、今半(のちの今半本店)から暖簾分けを受けた当時の店主が、太平洋戦争後にかつての「今半御殿」をイメージして建てさせたものである。[[1948年]](昭和23年)から10年近くにわたって増築が重ねられ、21世紀初頭には大規模な修繕工事がなされている。<br />
<br />
[[数寄屋造り]]の木造2階建て。天井や[[欄間]]などに施された彫刻は、[[富山県]]から呼び寄せた[[井波彫刻]]の職人と、地元浅草の職人に腕を競わせたものである。細い材の組子や花形の隅板を多用した建具は、造られた当時「くどい」との批判もあったが、のちに[[目黒雅叙園]]など日本各地の料亭、旅館でも同様の建具が使われるようになった<ref name="YS030306">『読売新聞』東京朝刊 2003年3月6日35面</ref>。<br />
<br />
建築史家の[[稲葉和也]]は、ビルの多い浅草にこのような建物が残っていることを「奇跡に近い」と述べている<ref name="YS030227">『読売新聞』東京朝刊 2003年2月27日37面</ref><ref>[[山田太一]]の小説とその映画『[[異人たちとの夏]]』のラストシーンで、30年も前に生き別れた両親との食事のシーンで使われている。</ref>。<br />
<br />
== 浅草今半(株式会社今半) ==<br />
{{基礎情報 会社<br />
|社名 = 株式会社今半<br />
|英文社名 = IMAHAN CO.,LTD.<br />
|ロゴ =<br />
|画像 = Imahan2.jpg<br />
|画像説明 = 浅草今半<br />(2018年2月26日撮影)<br />
|種類 = 株式会社<br />
|市場情報 = 非上場<br />
|略称 = <br />
|国籍 = {{JPN}}<br />
|郵便番号 = 111-0035 <br />
|本社所在地 = 東京都台東区西浅草2-17-4<br />
|設立 = 1956年3月<br />
|業種 = 6100<br />
|統一金融機関コード = <br />
|SWIFTコード = <br />
|事業内容 = 精肉の加工販売、牛肉加工食品・弁当惣菜の製造販売など<br />
|代表者 = 代表取締役社長 澤井映子<br />
|資本金 = 1000万円<br />
|売上高 = <br />
|総資産 = <br />
|従業員数 = 264名(2014年4月1日現在)<br />
|決算期 = <br />
|主要株主 = <br />
|主要子会社 = <br />
|関係する人物 = <br />
|外部リンク = http://www.asakusaimahan.co.jp/<br />
|特記事項 = <br />
}}<br />
'''株式会社今半'''(-いまはん)は、[[精肉]]の加工販売、牛肉加工食品や[[弁当]]などの製造販売を行う企業である。本社所在地は台東区西浅草二丁目17番4号。同社の関連企業には、すき焼きを中心とした日本料理店「浅草今半」を運営する「株式会社高伴」がある。<br />
<br />
同社の商品は、<br />
*牛肉[[佃煮]]<br />
*精肉<br />
*弁当(牛肉弁当、他)<br />
*[[ローストビーフ]]、牛肉[[たたき]]<br />
*牛肉みそ漬<br />
*[[ハンバーグ]]<br />
*[[レトルト食品]](ビーフカレー、他)<br />
*すき焼き[[割下]]、[[焼肉]]のたれ<br />
など、高級黒毛[[和牛]]肉を加工した食品が中心である。<br />
<br />
同社の佃煮詰め合わせは、[[毎日新聞]]が発表する[[三元|お中元ギフト、お歳暮ギフト]]の人気ランキング<ref name="Gift">『毎日新聞』東京朝刊 2005年6月27日8面、2005年12月5日8面、2006年12月4日9面、2007年6月18日9面(これらの記事には、小田急百貨店のデータが使われている)</ref>にしばしば登場する人気商品である。人形町今半のウェブサイト<ref name="NINGYOCHO" />には、浅草今半(株式会社今半)が牛肉佃煮で日本一の[[シェア]]を持っている旨が記載されている(2007年9月現在)。<br />
<br />
[[BSE問題|BSE騒動]]当時は佃煮の売上に深刻な<ref name="TS040331" />影響が出ていたため、新たに牛肉弁当を売り出したところ、のちに月1万食(2004年時点)の人気商品となった。<br />
<br />
{{Main|浅草今半}}<br />
<br />
== 人形町今半 ==<br />
{{基礎情報 会社<br />
|社名 = 株式会社人形町今半<br />
|英文社名 = Ningyocho Imahan Co,. Ltd.<br />
|ロゴ = <br />
|種類 = [[株式会社]]<br />
|市場情報 = 非上場<br />
|略称 = <br />
|国籍 = {{JPN}}<br />
|郵便番号 = 103-0014<br />
|本社所在地 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋蛎殻町]]1-4-5(本部)<br />
|本店郵便番号=103-0013<br />
|本店所在地=東京都中央区日本橋人形町2-9-12<br />
|設立 = [[1956年]]3月<br />
|業種 = 6100<br />
|統一金融機関コード = <br />
|SWIFTコード = <br />
|事業内容 = 飲食店、精肉店、総菜店の運営、弁当の製造販売など<br />
|代表者 = 代表取締役社長 高岡慎一郎<br />
|資本金 = 4300万円(グループ計)<br />
|売上高 = 93億円(2006年4月期) <br />
|総資産 = <br />
|従業員数 = 1,152名(2015年11月現在)<br />
|決算期 = <br />
|主要株主 = <br />
|主要子会社 = <br />
|関係する人物 = [[高岡雨星]]<br />
|外部リンク = http://www.imahan.com/<br />
|特記事項 = <br />
}}<br />
[[File:Ningyocho imahan head store 2014.jpg|thumb|人形町今半]]<br />
<br />
'''株式会社人形町今半'''(-にんぎょうちょういまはん)は<br />
*飲食店、精肉店、惣菜店の運営<br />
*弁当の配達サービス<br />
*調味料(すき焼き割下、焼肉のたれ、他)の製造販売<br />
などを行う企業である。本店を[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋人形町]]2丁目9番12号に、本部を[[日本橋蛎殻町]]1丁目4番5号におく。<br />
<br />
今半本店をルーツとする都内の飲食業者の中で、最も多くの飲食店舗を持つ事業者となっている(2007年現在)。<br />
<br />
=== 商品、サービス ===<br />
同社の「特製すき焼き弁当」は、[[カシ|樫]]の[[重箱]]にすき焼きとご飯が別々に詰められており、温かいまま注文先へ届けられる。[[1959年]](昭和34年)から配達サービスが行われており、企業からの注文が多い。かつては「重役弁当」との通称<ref name="MS990323">『[[毎日新聞]]』東京朝刊 [[1999年]][[3月23日]]21面</ref>もあった。<br />
<br />
同社は20種類以上のたれ、ドレッシング類を製造し、[[スーパーマーケット]]などに出荷するメーカーでもある。同社の製造する割下は、日本で3位のシェアを持っている(国内メーカー別シェア、[[2007年]]の報道<ref name="FB070430">『フジサンケイ ビジネスアイ』2007年[[4月30日]]2面</ref>より)。<br />
<br />
=== 沿革 ===<br />
*[[1952年]](昭和27年) - 浅草今半の[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]支店として開業。<br />
*[[1956年]](昭和31年) - 浅草今半より独立し、有限会社人形町今半として法人化。<br />
*[[1985年]](昭和60年) - 改組し、株式会社人形町今半となる。<br />
*[[1999年]](平成11年) - [[農林水産省]]から優良フードサービス事業者として表彰される。<br />
<br />
=== 店舗 ===<br />
;「人形町今半」:すき焼、[[しゃぶしゃぶ]]を中心とした日本料理店。東京都内を中心に8店舗を展開する。<br />
;「喜扇亭」:[[鉄板焼き]][[ステーキ]]店。[[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]に1店舗。<br />
;「今半万窯」:炭火焼料理店。[[渋谷区]][[代々木]]に1店舗。<br />
;精肉店:関東地方の百貨店内を中心に展開している。<br />
;惣菜店:東京都内に独立型の2店舗をおくほか、百貨店内の4店舗でも惣菜を取り扱う。惣菜店の店名は「あったか惣菜」。<br />
(2007年9月現在、グループの店舗を含む)<br />
<br />
== 代々木今半 ==<br />
'''しゃぶしゃぶ亭 代々木今半'''(しゃぶしゃぶてい よよぎいまはん)は、渋谷区代々木一丁目45番4号に店舗を構える、しゃぶしゃぶとすき焼きの専門店である。テレビ番組『[[出没!アド街ック天国]]』では、同店の牛タンしゃぶしゃぶを「日本初の牛タンしゃぶしゃぶ」として紹介している<ref name="AD030201">[http://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/030201/20.html テレビ東京『出没!アド街ック天国』2003年2月1日放送分]</ref>。<br />
<br />
同店では牛肉しゃぶしゃぶを注文した客に対し、肉を筒状に丸めて静かに鍋へ入れるよう勧めている。こうすることで、内側はレアのまま、外側に熱を通して食べることができる<ref name="NG070702">『日食外食レストラン新聞』2007年7月2日号</ref>。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[沸騰ワード10]] - 2017年10月20日の放送で、今半本店、浅草今半、人形町今半の代表が、浅草今半にて初めて一堂に会した。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist|2}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{ウィキポータルリンク|食}}<br />
*[http://imahan-honten.co.jp 今半本店]<br />
*[http://www.asakusa-imahan.co.jp/ 今半別館]<br />
*[http://www.asakusaimahan.co.jp/ 浅草今半]<br />
*[http://www.imahan.com/ 人形町今半]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いまはん}}<br />
[[Category:日本の小売業者]]<br />
[[Category:日本の調味料メーカー]]<br />
[[Category:東京都の登録有形文化財]]<br />
[[Category:老舗企業 (明治創業)]]<br />
[[Category:1895年設立の企業]]</div>
103.226.44.10
市村清
2018-08-01T23:52:43Z
<p>103.226.44.10: /* 外部リンク */ +cat</p>
<hr />
<div>'''市村 清'''(いちむら きよし、[[1900年]][[4月4日]] - [[1968年]][[12月16日]])は、[[日本]]の[[実業家]]。[[リコー]]を中心とする「リコー三愛グループ」の創始者。[[昭和]]初期から中期の[[日本]]を代表する経営者の一人。<br />
<br />
「'''人の行く裏に道あり花の山'''」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。現在も[[銀座]]4丁目交差点に建つ、円柱・総ガラス張りの個性的な「[[三愛ドリームセンター]]」([[1963年]]完成)も、元々は市村の「お客を動かさず、建物を回して商品の方を動かしてはどうか」との発想に基づくものである。<br />
<br />
産業界・学界で功労者を顕彰する[[市村賞]]にその名を遺す。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
[[佐賀県]][[三養基郡]]北茂安村(現・[[みやき町]])の[[農家]]市村豊吉の長男として生まれる。父豊吉は市川虎之丞という[[佐賀藩]]士の子で[[武士]]の出だった。豊吉は7歳のとき市村家の[[養子]]になった。<br />
<br />
名門・佐賀中学校(現・[[佐賀県立佐賀西高等学校]])に入学するも、経済的困窮により2年で中退を余儀なくされる。その後野菜売り、銀行員を経て、[[中央大学]][[専門部]]法科に入学する。[[1922年]]、日中合弁の「大東銀行」に入社するため大学を中退、[[北京市|北京]]に渡る。<br />
<br />
[[昭和金融恐慌]]のため、[[1927年]]大東銀行は閉鎖される。帰国した市村は富国徴兵保険(現・[[富国生命保険]])のセールスマンとして再出発し、赴任先の[[熊本]]で抜群の成績を上げる。<br />
<br />
[[1929年]]、縁あって[[理化学研究所]](理研)が開発した陽画感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、たちまち業績拡大に成功、[[朝鮮]]・[[満州]]の総代理店の権利も獲得する。[[1933年]]、理研所長[[大河内正敏]]より理化学興業(株)感光紙部長に招聘される。[[1936年]]理研感光紙(株)専務取締役に就任。同社は2年後に「理研光学工業」に改称され、これが後の[[リコー]]となる。[[1942年]]には理研産業団より独立する。<br />
<br />
[[1945年]]終戦を迎えると、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の'''三愛主義'''をモットーに三愛商事(現・[[三愛]])を設立、銀座4丁目角の土地を取得し食料品店を開業する。後に婦人服専門店に転業し現在に至る。[[銀座]]の土地は買収に難航したが、ある地権者の老婦人が大雪の中断りに出向いた時、彼女の濡れた足元を見た女性事務員が自分の[[スリッパ]]を履かせ、抱きかかえるように3階まで案内したことに感激し、交渉がまとまったというエピソードは有名である。<br />
<br />
[[1952年]]には[[三愛石油]]を設立、外資の攻勢をはねのけて、[[東京国際空港|羽田空港]]の給油権獲得に成功する。本拠の理研光学においても、[[1950年]]に[[二眼レフカメラ]]「[http://www.ricoh.co.jp/camera_lib/library/1950.html リコーフレックスIII]」を発表、従来のカメラの1/4ほどの価格低下を実現し、大衆カメラブームを巻き起こした。<br />
<br />
この他、[[西銀座デパート]]、[[日本リース]](リース会社の先駆け)など各社を次々と設立、[[1962年]]には経営不振に陥った[[名古屋市|名古屋]]の「高野精密工業」の社長となり再建に成功する(現在の[[リコーエレメックス]])。「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、[[五島昇]]、[[盛田昭夫]]ら若手経営者や[[大宅壮一]]、[[邱永漢]]、[[今東光]]、[[升田幸三]]等の文化人が市村を取り巻いて教えを求め、世間はこれを「市村学校」と呼んだ。<br />
<br />
[[1965年]]、リコーは無配に転落し、世間からは一転してバッシングが浴びせられることとなる。市村はこれに耐え、[[組織]]の効率化と業績給導入を柱とする改革を陣頭指揮で推進、「電子リコピー」の成功により2年後に復配を実現し、現在の[[情報機器|OA機器]]メーカーとしての隆盛の基礎を築く。<br />
<br />
晩年、技術革新のための研究開発助成を目的とした[[財団法人]]の設立を発案し、亡くなる直前の[[1968年]][[12月12日]]に財団法人(現・公益財団法人)[[新技術開発財団]]の設立認可が下りている。同財団では市村の遺志を継ぎ、科学技術の分野で学術、産業の発展に貢献した個人・団体を表彰する[[市村賞]]を運営している。<br />
<br />
[[1968年]][[12月16日]]、急性肝萎縮症のため逝去。享年68。<ref>正確には肝臓等への胃癌の転移により亡くなる。発表は当時の状況を考慮しての措置であった。尾崎芳雄著『茨と虹と 市村清の生涯』より。</ref><br />
<br />
== 著書・伝記 ==<br />
;著書<br />
*『儲ける経営法・儲かる経営法 ここに成否の岐れ目がある』実業之日本社 1958 のち三愛新書 <br />
*『人の逆をいく法』青春出版社 青春新書 1960 のち三愛新書<br />
*『そのものを狙うな わが人間的経営』有紀書房 1964 のち三愛新書 <br />
*『闘魂ひとすじに わが半生の譜』有紀書房 1964、1974、のち三愛新書 <br />
*『明日への着眼』実業之日本社 実日新書 1965<br />
*『私の履歴書 経済人 5』日本経済新聞社 1980<br />
*『市村清実践哲学』三愛新書 2000<br />
*『三愛精神』三愛新書 2000<br />
*『光は闇をつらぬいて わが闘魂の記録』三愛新書 2000<br />
*『市村清講演集』三愛新書、2008 <br />
<br />
;伝記<br />
*尾崎芳雄『茨と虹と 市村清の生涯』実業之日本社 1969<br />
*市村茂人『起業の神様 市村清の実像』中経出版 1995。実弟の回想記<br />
*山本長次『市村清と佐賀』岩田書院〈佐賀学ブックレット〉 2014 <br />
**関係者による追悼文集(1969年)が出されている。<br />
<br />
==注釈==<br />
<references /><br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[リコー]]<br />
*[[市村賞]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://san-ai-kai.jp/ichimura/index.html 市村清と三愛精神 -「三愛会」ウェブサイト]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:いちむらきよし}}<br />
[[Category:日本の実業家]]<br />
[[Category:リコー三愛グループの人物]]<br />
[[Category:中央大学出身の人物]]<br />
[[Category:佐賀県出身の人物]]<br />
[[Category:1900年生]]<br />
[[Category:1968年没]]</div>
103.226.44.10
有楽町
2018-08-01T22:56:44Z
<p>103.226.44.10: /* 施設 */</p>
<hr />
<div>{{Otheruses|東京都千代田区の地名|その他の有楽町|有楽町 (曖昧さ回避)}}<br />
{{Pathnav|日本|東京都|千代田区|frame=1}}<br />
{{Infobox settlement<br />
| name = 有楽町<br />
| settlement_type = [[町丁]]<br />
| image_skyline = Yurakucho0953.jpg<br />
| imagesize = 270px<br />
| image_caption = 有楽町を走る[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[京浜東北線]]<br />
| image_map = <br />
| map_caption = 有楽町の位置<br />
| pushpin_map = Japan Wards of Tokyo#<br />
| latd = 35 | latm = 40 | lats = 23.6 | latNS = N<br />
| longd = 139 | longm = 45 | longs = 38.35 | longEW = E<br />
| subdivision_type = [[国の一覧|国]]<br />
| subdivision_name = {{JPN}}<br />
| subdivision_type1 = [[都道府県]]<br />
| subdivision_name1 = [[File:Flag of Tokyo Prefecture.svg|border|25px]] [[東京都]]<br />
| subdivision_type2 = [[東京都区部|特別区]]<br />
| subdivision_name2 = [[File:Flag of Chiyoda, Tokyo.svg|border|25px]] [[千代田区]]<br />
| subdivision_type3 = [[地域]]<br />
| subdivision_name3 = [[麹町#麹町地域(麹町区)|麹町地域]]<br />
| established_title1 = <!--- 設置 ---><br />
| established_date1 = <!--- 設置日 ---><br />
| area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---><br />
| area_total_km2 = <!--- 面積 ---><br />
| elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---><br />
| elevation_m = <!--- 標高 ---><br />
| population_as_of= [[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在<br />
| population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|url=http://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kuse/toke/cho-setai/index.html|title=町丁別世帯数および人口(住民基本台帳)|publisher=千代田区|date=2017-12-06|accessdate=2018-01-02}}</ref><br />
| population_total = 18<br />
| population_density_km2 = auto<br />
| timezone1 = [[日本標準時]]<br />
| utc_offset1 = +9<br />
| postal_code_type = [[郵便番号]]<br />
| postal_code = 100-0006<ref name="postal">{{Cite web |url=http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=1000006|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2018-01-02}}</ref><br />
| area_code = 03<ref name="areacode">{{Cite web|url=http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2018-01-02}}</ref><br />
| registration_plate = [[東京運輸支局|品川]]<br />
| footnotes = <br />
}}<br />
'''有楽町'''(ゆうらくちょう)は、[[東京都]][[千代田区]]の[[町丁|町名]]である。[[住居表示]]実施済みの地域で、現行行政地名は有楽町一丁目及び有楽町二丁目。[[郵便番号]]は100-0006<ref name="postal" />。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
有楽町は千代田区南部の[[有楽町駅]]周辺に広がり、[[皇居]]の南東側、[[丸の内]]から[[日比谷]]周辺界隈に位置する。[[東京高速道路]]をはさんだ東側は[[銀座]]になる<ref>{{要出典範囲|date=2018年1月|[[大手町 (千代田区)|大手町]]・丸の内と合わせて「[[大丸有|大丸有(だいまるゆう)エリア]]」と呼ぶ人も存在する}}。</ref>。<br />
<br />
== 由来 ==<br />
千代田区の見解では、[[東京都]][[千代田区]]の'''有楽町'''(ゆうらくちょう)という町名は、戦国時代の大名の[[織田長益|織田有楽斎]](織田長益)に由来するとされる<ref name="koujimachi">{{Cite web| url = http://koujimachi.net/newtown/yuraku.html | title = 麹町わがまち情報館 | publisher = 麹町出張所地区連合町会 | accessdate = 2016-10-13 }}</ref>。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと徳川方に属し、[[数寄屋橋]]御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、[[明治]]時代に「有楽町」と名付けられたとされる<ref name="koujimachi" />。{{要出典範囲|しかし、読みがその際「ゆうらくちょう」に改められたとする証拠はなく、しかも織田有楽斎は、生涯のほとんどを[[上方]]で過ごしており、江戸に屋敷を拝領したという記録も、江戸に来たという記録も見当たらない。|date=2018年2月}}<br />
<br />
{{要出典範囲|江戸開府期には、この辺りまで海が入り込んでいた([[日比谷入江]])ことから、水辺の地名の「浦原」「浦ヶ原」から転じたのではないか、という説がある。|date=2018年2月}}<br />
<br />
町名としての「有楽町」は明治初めに誕生したが、その時、現在の東京駅あたりに「永楽町」が誕生していることから、地名研究家の櫻井澄夫は、有楽、永楽はペアの地名であって、明治初期の新政府(東京)による町名確定の際、新造されたいわゆる瑞祥地名の一種であるとしている。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
このあたりは江戸時代に大名屋敷が建ち並んでいた、いわゆる「大名小路」の南端付近である。<br />
[[1707年]]([[宝永]]4年)には[[町奉行|南町奉行所]]が開設された。<br />
<br />
[[ファイル:Nichigeki-1952.jpg|thumb|270px|日劇(1952年)]]<br />
明治時代に入ると、[[1872年]](明治5年)に有楽町一丁目ないし三丁目ができた。1898年(明治31年)に東京市役所が設置された<ref>日本歴史地名大系(平凡社)</ref>。[[1910年]]([[明治]]43年)には[[山手線]]が延伸され、有楽町駅が開業。[[1933年]]([[昭和]]8年)に[[日本劇場|日劇]]が、[[1934年]]に[[東京宝塚劇場]]がオープンし、有楽町は劇場街と化した。また、[[毎日新聞社|毎日]]、[[朝日新聞社]]の本社と[[読売新聞グループ本社|讀賣新聞社]]有楽町別館が置かれ、その界隈は「新聞街」と呼ばれていた<ref>通信手段として伝書鳩が使われたので各新聞社の屋上には鳩小屋があり、訓練のため放たれた鳩が空を飛び交った。[[戦後]]、[[1948年]][[11月12日]]に[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]において[[被告人|被告]]達への[[判決 (日本法)|判決]]言い渡しが行われた際には、新聞社の判決速報を聞くために、周辺一帯に黒山の人だかりができた。</ref>。[[戦前]]の有楽町は、まだ庶民には遠い存在だったといえる。[[戦争]]末期には空襲をうけた。<br />
<br />
[[File:View of Yurakucho circa 1960.jpg|thumb|right|270px|1960年頃の有楽町]]<br />
戦後、[[第一生命館|第一生命ビル]]が接収され、[[連合国最高司令官総司令部]](GHQ)となった<ref>日本歴史地名大系(平凡社)</ref>。戦後の混乱期に、すし屋横丁ができ、また[[街娼]]が集まるようになる一方で<ref>[[日本放送協会|NHK]]『街頭録音』(1947年4月22日)において「ガード下の娘たち」として[[インタビュー]]を受けた街娼の1人は、有楽町だけで知り合いの街娼が150人はいると言っている。街娼のなかでは「楽町お時(らくちょうおとき)」が有名である。アナウンサーの藤倉修一がインタビューした。[http://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%81%AE%E3%81%8A%E6%99%82 ラクチョウのお時] kotobank</ref>、続々と[[映画館]]が誕生した。[[1951年]]、東日本初の民放[[ラジオ]]局であるラジオ東京(放送局としては現:[[TBSラジオ]]、会社としては現:[[東京放送ホールディングス|東京放送ホールディングス(TBSHD)]])が開局し、[[1961年]]まで毎日新聞東京本社内に本社機能を置いていた。[[1954年]]に[[深夜放送]]「[[オールナイトニッポン]]」でおなじみのラジオ局、[[ニッポン放送]]が本社を設けた。[[file:Nippon Broadcasting System Building circa 1960.jpg|thumb|1960年のニッポン放送旧社屋]]また、ニッポン放送の子会社として設立された[[フジテレビジョン|フジテレビ]]も[[1962年]]まで本社機能を置いていた。[[1957年]]には讀賣新聞が経営する[[讀賣会館]]のテナントとして[[そごう]]東京店がオープン。そのコマーシャルソングの「[[有楽町で逢いましょう]]」を[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター]]の[[フランク永井]]が歌った。また、そごうの東京進出に一役買っていた[[大映]]映画がキャンペーンのための同名の映画を[[京マチ子]]主演で製作した。映画も歌もヒットし、有楽町の名が全国に広まった。1965年、すしや横丁および周辺が整理されて[[東京交通会館]]が開業した。<br />
<br />
[[1966年]]、千代田区は[[住居表示に関する法律]]の実施基準により<ref>1967年(昭和42年)、「丁目」が付く町名では「町」は付けないのを原則としているため</ref>「有楽町」の「町」をとり「有楽」という地名に変更しようとしたところ、[[マスコミュニケーション|マスコミ]]各社の反対により「有楽町」の町名が残ることになった<ref>谷川健一編 「地名を守る意味 - 頻発する町名変更反対運動」『現代「地名」考』 pp.164-165、[[NHK出版|日本放送出版協会]]、1979年</ref>。<br />
<br />
[[1980年代]]にはいると、新旧交替が始まった。[[1981年]](昭和56年)から有楽町の顔とも言えた朝日新聞社と日劇の建物が解体され<ref>朝日は築地に移転。日劇は[[TOHOシネマズ日劇]]に変わった</ref>、[[1984年]]に[[有楽町センタービル]](通称・有楽町マリオン)がオープンし、新たなシンボルが誕生した。[[2000年]]([[平成]]12年)には有楽町そごうが閉店し、その後に新たに[[ビックカメラ]]がオープンした。また、有楽町駅前の再開発が行われ、[[2007年]][[10月]]には[[丸井]]などの入店する新ビル「[[有楽町イトシア]]」が開業した<ref>イトシア(ITOCiA)の由来は「愛しい + ia(場所を表す名詞語尾)であるが、この言葉は偶然にも、フランク永井の歌の歌詞に出てくる。</ref>。<br />
<br />
== 世帯数と人口 ==<br />
[[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"></ref>。<br />
<!--- 二丁目の世帯数と人口が少ないので一丁目と合算 ---><br />
{| class="wikitable"<br />
![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]<br />
|-<br />
|有楽町一丁目・二丁目<br />
|style="text-align:right"|13世帯<br />
|style="text-align:right"|18人<br />
|}<br />
<br />
== 小・中学校の学区 ==<br />
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school">{{Cite web|url=https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kosodate/gakko/tsugaku-kuiki.html|title=区立小学校の通学区域|publisher=千代田区|date=2017-08-17|accessdate=2018-01-02}}</ref>。なお、千代田区の中学校では[[公立学校選択制|学校選択制度]]を導入しており、区内全域から選択することが可能。<ref>{{Cite web|url=https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kosodate/gakko/gakkosentaku.html|title=区立中学校の通学区域と学校選択|publisher=千代田区|date=2017-10-26|accessdate=2018-01-02}}</ref>。<br />
{| class="wikitable"<br />
!丁目!!番地!!小学校!!中学校<br />
|-<br />
||有楽町一丁目||全域||rowspan=2|[[千代田区立千代田小学校]]||rowspan=2|[[千代田区立麹町中学校]]<br/>[[千代田区立神田一橋中学校]]<br />
|-<br />
||有楽町二丁目||全域<br />
|}<br />
<br />
== 交通 ==<br />
* 鉄道駅<br />
**{{Color|#80c241|■}}[[山手線|JR山手線]]([[有楽町駅]])<br />
**{{Color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線|JR京浜東北線]](有楽町駅)<br />
**{{Color|#c9242f|■}}[[京葉線|JR京葉線]]([[東京駅]])丸の内3丁目に所在<br />
**[[ファイル:Subway TokyoGinza.png|15px|G]][[東京メトロ銀座線]]([[銀座駅]])[[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]3・4丁目に所在<br />
**[[ファイル:Subway TokyoMarunouchi.png|15px|M]][[東京メトロ丸ノ内線]](銀座駅)中央区銀座4丁目に所在<br />
**[[ファイル:Subway TokyoHibiya.png|15px|H]][[東京メトロ日比谷線]]([[日比谷駅]]・銀座駅)<br />
**[[ファイル:Subway TokyoChiyoda.png|15px|Y]][[東京メトロ千代田線]](日比谷駅)<br />
**[[ファイル:Subway TokyoYurakucho.png|15px|Y]][[東京メトロ有楽町線]](有楽町駅)<br />
**[[ファイル:Subway TokyoMita.png|15px|M]][[都営地下鉄三田線]](日比谷駅)<br />
* 道路<br />
** [[晴海通り]]<br />
** [[日比谷通り]]<br />
<br />
== 施設 ==<br />
* [[丸の内警察署]]<br />
* [[丸の内消防署]]有楽町出張所<br />
* [[東京国際フォーラム]]<br />
* [[有楽町センタービル]](有楽町マリオン)<br />
** [[ルミネ]]<br />
** [[阪急百貨店|阪急MEN'S TOKYO]]<br />
<!--** [[TOHOシネマズ日劇]]→閉鎖--><br />
** [[丸の内ルーブル]]<br />
** [[丸の内ピカデリー]]<br />
<!--* [[TOHOシネマズ有楽座]]→閉鎖--><br />
<!--* [[有楽町スバル座]]→下記有楽町ビル内にある。--><br />
<!--* [[TOHOシネマズシャンテ]]→下記日比谷シャンテないにある。--><br />
* [[日生劇場]]<br />
* [[東京宝塚劇場]]<br />
<!--** [[TOHOシネマズスカラ座]]<br />
** [[TOHOシネマズみゆき座]] →ミッドタウン日比谷内に統合された。--><br />
* [[東宝]]シアタークリエビル<br />
** [[シアタークリエ]]<br />
** [[阪急阪神ホテルズ#レム|レム日比谷]](阪急阪神ホテルズ)<br />
* [[新日石ビルヂング]]<br />
** [[三菱UFJ銀行]]日比谷支店<br />
** [[昭和日タン]]本社<br />
* [[新東京ビルヂング]]<br />
** [[エルメス]]丸の内店<br />
** [[ポール・スミス]]丸の内店<br />
** [[SMBC日興証券]]本社<br />
** [[吉野石膏]]本社<br />
* [[新国際ビルヂング]]<br />
** [[ラ・メゾン・デュ・ショコラ]]丸の内店<br />
** [[青木定治|パティスリー・サダハルアオキ・パリ]]丸の内店<br />
** [[コム・デ・ギャルソン]]丸の内店<br />
** [[ヨーガン・レール]] + [[ババグーリ]]丸の内<br />
** [[三井住友銀行]]丸ノ内支店<br />
** [[生命保険協会]]<br />
** [[日本交通協会]]<br />
* [[国際ビルヂング]](帝劇ビル)<br />
** [[帝国劇場]]<br />
** [[タニタ|丸の内タニタ食堂]]<br />
** [[フォリフォリ]]有楽町店<br />
** [[出光美術館]]<br />
** [[出光興産]]本社<br />
<!--* [[豊田通商]]東京本社→港区港南--><br />
* [[DNタワー21]]<br />
** [[第一生命保険]]本社<br />
** [[農林中央金庫]]本店<br />
* [[東京ミッドタウン日比谷]]<br />
* [[東宝日比谷ビル]](日比谷シャンテ)<br />
** [[TOHOシネマズシャンテ]]<br />
** [[東宝]]本社<br />
** [[ぐるなび]]本社<br />
** [[サンフロンティア不動産]]本社<br />
* 糖業会館・ニッポン放送本社ビル<br />
** [[ニュートーキョー]]綴(Tsuzuri)糖業会館店<br />
** [[糖業協会]]<br />
** [[ニッポン放送]]本社 - [[1997年]][[3月]]から[[2004年]][[9月]]までは、社屋建て直しのため[[港区 (東京都)|港区]][[お台場|台場]]の[[FCGビル|フジテレビ本社ビル]]に同居していた。<br />
* [[ザ・ペニンシュラ東京]]([[日比谷パークビルヂング]]跡)<br />
* [[有楽町イトシア]](有楽町駅前ビルディング)<br />
** 有楽町[[丸井|マルイ]]<br />
** [[ヒューマントラスト|ヒューマントラストシネマ有楽町]]([[ミニシアター]])<br />
** [[パーク24]]本社<br />
* 百果園有楽町店 - 駅前にある白い外観の[[八百屋|果物屋]]チェーン。<br />
* [[東京交通会館]]<br />
** 大阪百貨店 - [[大阪]]の[[アンテナショップ]]。<br />
** [[三省堂書店]]有楽町店<br />
** [[近畿日本ツーリスト]]有楽町営業所<br />
** [[パスポート]]センター([[東京都庁]]旅券課有楽町分室)<br />
** 東京交通会館内[[郵便局]]<br />
** 有楽町[[献血ルーム]]<br />
** 12階[[多目的ホール|イベントルーム]]<br />
* [[インフォス有楽町]]<br />
** [[無印良品]]有楽町店<br />
** [[紅虎餃子房]]有楽町店<br />
* [[読売会館]]<br />
** [[ビックカメラ]]有楽町店<br />
** [[角川書店|角川シネマ]]有楽町(ミニシアター)<br />
* [[有楽町電気ビルヂング]]<br />
** [[プロント]]有楽町電気ビル店<br />
** [[アルマーニ|ジョルジオ・アルマーニ]]銀座<br />
** [[日本外国特派員協会]]<br />
* [[新有楽町ビルヂング]]<br />
** [[銀座ルノアール|喫茶室ルノアール]]新有楽町ビル店<br />
** [[今半|人形町今半]]有楽町店<br />
** [[銀座山形屋]]丸の内店<!--https://www.ginyama.co.jp/shops/--><br />
** [[シップス]]有楽町店<br />
** [[ロイヤルコペンハーゲン]]ジャパン本店<br />
** [[ニコン]]本社<br />
** [[旭硝子]]本社<br />
** [[日本製紙]]本社<br />
* [[有楽町ビルヂング]]<br />
** [[マクドナルド]]有楽町ビル店<br />
** [[スターバックス]]有楽町ビル店<br />
** [[ボリオリ]]東京<br />
** [[エルメネジルド・ゼニア]]丸の内<br />
** [[有楽町スバル座]]<br />
** [[東宝不動産]]本社<br />
** [[スバル興業]]本社<br />
* [[富士ビルヂング]]<br />
* [[東京會舘]]ビル - [[三菱地所]]により隣接する上記富士ビルヂング・[[東京商工会議所]]ビルと共に建替え中。<br />
<!--ウィキペディアの記事には日比谷、丸の内もあります。ここに書き足す方はご一考下さい。--><br />
<br />
上記には現在の丸の内三丁目辺りにあるものが含まれている。ここがかつて有楽町一丁目、二丁目だった名残である。「[[千代田区の町名]]」参照。<br />
<br />
<gallery><br />
Yurakucho-hankyu sep2006.jpg|有楽町マリオン<br />
Tokyo Takarazuka Building.JPG|東京宝塚ビル<br />
DN-Tower-02.jpg|DNタワー21<br />
Tokyo Midtown Hibiya-1.jpg|東京ミッドタウン日比谷(2018年3月28日撮影)<br />
</gallery><br />
<br />
== 同名の地名がある自治体 ==<br />
[[青森県]][[つがる市]](旧[[西津軽郡]][[木造町]]、うらくまち)/<br />
[[秋田県]][[秋田市]](実際の住所としては[[南通亀の町]]だが、有楽町と呼ばれる地区がある)/<br />
[[栃木県]][[足利市]]/<br />
[[埼玉県]][[所沢市]]/<br />
[[岐阜県]][[高山市]]/<br />
[[福井県]][[福井市]]/<br />
[[愛知県]][[豊橋市]]/<br />
愛知県[[半田市]]/<br />
[[三重県]][[桑名市]]/<br />
[[山口県]][[周南市]]<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.city.chiyoda.lg.jp 千代田区]<br />
* [http://www.0101.co.jp/stores/guide/shopsearch/map/00086/1f.html 有楽町マルイ]<br />
* [http://yurakucho.today/ 有楽町.today]<br />
<br />
{{Commonscat|Yurakucho}}<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre = 有楽町<br />
|North = [[丸の内]]<br />
|Northeast = <br />
|East = [[銀座]]<br />
|Southeast = <br />
|South = [[内幸町]]<br />
|Southwest = <br />
|West = [[日比谷公園]]<br />
|Northwest = [[皇居外苑]]<br />
|image = <br />
}}<br />
<br />
{{東京23区の地域}}<br />
{{千代田区の町名}}<br />
{{大手町・丸の内・有楽町高層ビル群}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{デフォルトソート:ゆうらくちよう}}<br />
[[Category:有楽町|*]]<br />
[[Category:千代田区の町名]]</div>
103.226.44.10
千駄ヶ谷
2018-07-30T17:32:13Z
<p>103.226.44.10: /* 施設 */脚注追加</p>
<hr />
<div>{{Pathnav|日本|東京都|渋谷区|frame=1}}<br />
{{Infobox settlement<br />
| name = 千駄ヶ谷<br />
| settlement_type = [[町丁]]<br />
| image_skyline = Sendagaya from Tokyo Metropolitan Gym.JPG<br />
| imagesize = 270px<br />
| image_caption = [[東京体育館]](1丁目)から望む[[NTTドコモ代々木ビル]](5丁目)<br />
| image_map = <br />
| map_caption = 千駄ヶ谷の位置<br />
| pushpin_map = Japan Wards of Tokyo#<br />
| latd = 35 | latm = 40 | lats = 50.83 | latNS = N<br />
| longd = 139 | longm = 42 | longs = 40.18 | longEW = E<br />
| subdivision_type = [[国の一覧|国]]<br />
| subdivision_name = {{JPN}}<br />
| subdivision_type1 = [[都道府県]]<br />
| subdivision_name1 = [[File:Flag of Tokyo Prefecture.svg|border|25px]] [[東京都]]<br />
| subdivision_type2 = [[東京都区部|特別区]]<br />
| subdivision_name2 = [[File:Flag of Shibuya, Tokyo.svg|border|25px]] [[渋谷区]]<br />
| subdivision_type3 = [[地域]]<br />
| subdivision_name3 = [[千駄ヶ谷町|千駄ヶ谷地域]]<br />
| established_title1 = <!--- 設置 ---><br />
| established_date1 = <!--- 設置日 ---><br />
| area_footnotes = <!--- 面積(<ref>) ---><br />
| area_total_km2 = <!--- 面積 ---><br />
| elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---><br />
| elevation_m = <!--- 標高 ---><br />
| population_as_of= [[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在<br />
| population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|url=http://www.city.shibuya.tokyo.jp/data/statics/tokei/02jinko.html|title=住民基本台帳・外国人登録による人口|publisher=渋谷区|date=2017-12-01|accessdate=2017-12-22}}</ref><br />
| population_total = 10543<br />
| population_density_km2 = auto<br />
| timezone1 = [[日本標準時]]<br />
| utc_offset1 = +9<br />
| postal_code_type = [[郵便番号]]<br />
| postal_code = 151-0051<ref name="postal">{{Cite web |url=http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=1510051|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2017-12-22}}</ref><br />
| area_code = 03<ref name="areacode">{{Cite web|url=http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2017-12-22}}</ref><br />
| registration_plate = [[東京運輸支局|品川]]<br />
| footnotes = <br />
}}<br />
'''千駄ヶ谷'''(せんだがや)は、[[東京都]][[渋谷区]]の地名。[[住居表示]]実施済み。現行行政地名は千駄ヶ谷一丁目から千駄ヶ谷六丁目。[[郵便番号]]は151-0051<ref name="postal" />。JRの[[千駄ケ谷駅]]の「ケ」は、小さい「ヶ」ではなく、通常の「ケ」を採用している。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
渋谷区の北東部に位置する。現在の千駄ヶ谷の町域([[住居表示]])は、[[千駄ケ谷駅|千駄ヶ谷駅]]周辺から、北部は[[新宿駅]]南口付近、西部は[[代々木駅]]東口付近までである。<br />
<br />
町域の北西部は[[新宿区]]新宿三・四丁目に接し、西は[[山手線|JR山手線]]・[[中央線快速|JR中央本線]]などの[[線路 (鉄道)|線路]]を境に渋谷区[[代々木]]及び同区[[代々木神園町]]に、南は渋谷区[[神宮前 (渋谷区)|神宮前]]に、東は<!--外苑西通りが境ではない-->[[明治神宮外苑]]がある新宿区[[霞ヶ丘町]]<!--「霞岳町」は旧町名-->に、それぞれ接する。町域北東部は[[新宿御苑]]敷地の一部をなし、新宿区[[内藤町]]及び同区[[大京町]]に接する。<br />
<br />
[[住宅地]]や[[オフィスビル]]のほか、[[東京体育館]]、[[津田塾大学|津田ホール]]、[[能楽堂]]などの文化施設もみられる。また、[[原宿]]・[[青山 (東京都港区)|青山]]や[[新宿]]に隣接する立地や繊維製品大手[[イトキン (企業)|イトキン]]本社の存在から、[[1980年代]]以降には[[ファッション]]・[[アパレル産業|アパレル]]関係のオフィスが集積した。<br />
<br />
=== 地誌 ===<br />
[[ファイル:SendagayaGinkgo.JPG|thumb|千駄ヶ谷四丁目の銀杏並木]]<br />
[[ファイル:Takashimaya Times Square.jpg|thumb|千駄ヶ谷五丁目(タカシマヤタイムズスクェアとNTTドコモ代々木ビル)]]<br />
[[ファイル:JR Shinjuku Miraina Tower-1b.JPG|thumb|JR新宿ミライナタワー<ref name="miraina">画面中央の高いビルの部分は新宿区に所在している。</ref>とバスタ新宿]]<br />
;千駄ヶ谷一丁目 - [http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.40.34.338&lon=139.42.50.850&p=%BD%C2%C3%AB%B6%E8%C0%E9%C2%CC%A5%F6%C3%AB1%C3%FA%CC%DC&gov=13113.17.1 地図] <br />
<br />
地区北東部、[[千駄ケ谷駅|千駄ヶ谷駅]]の出口付近一帯にあたる。千駄ヶ谷駅も千駄ヶ谷一丁目にあり、[[都営地下鉄大江戸線]]・[[国立競技場駅]]の出口も当地にある。一丁目には千駄ヶ谷駅前にある[[東京体育館]]をはじめ、津田ホール、[[津田塾大学]]千駄ヶ谷キャンパスなどがある。駅を離れるとオフィスビルや商店の混在する住宅地になる。<br />
<br />
;千駄ヶ谷二丁目 - [http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.40.22.220&lon=139.42.46.922&p=%BD%C2%C3%AB%B6%E8%C0%E9%C2%CC%A5%F6%C3%AB2%C3%FA%CC%DC&gov=13113.17.2 地図] <br />
<br />
地区の東南部、千駄ヶ谷一丁目の南に位置する。オフィスビルや商店のほか、[[マンション]]、住宅地になる。東京・[[将棋会館]]([[日本将棋連盟]]本部)が二丁目にある。[[アパレル産業|アパレル]]関連会社が多く集まり、かつて[[スターバックス]]日本法人の親会社であった[[サザビーリーグ|サザビー]]の本社も所在する。<br />
<br />
;千駄ヶ谷三丁目 - [http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.40.22.285&lon=139.42.33.408&p=%BD%C2%C3%AB%B6%E8%C0%E9%C2%CC%A5%F6%C3%AB3%C3%FA%CC%DC&gov=13113.17.3 地図] <br />
<br />
地区南西部、千駄ヶ谷四丁目の南に位置する。当地域を縦貫している明治通り沿いには、オフィスビルやマンションなどが目立つ。道路より奥まると民家が残る地域も見受けられる。[[ファイブフォックス]]に代表されるアパレル関連会社が多数集まる地域でもある。<br />
<br />
;千駄ヶ谷四丁目 - [http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.40.38.571&lon=139.42.32.364&p=%BD%C2%C3%AB%B6%E8%C0%E9%C2%CC%A5%F6%C3%AB4%C3%FA%CC%DC&gov=13113.17.4 地図] <br />
[[image:SYD Building Tokyo 2.JPG|thumb|[[修養団]]ビル(中央)、[[日本共産党|共産党]]本部(右)]]<br />
地区の西部、[[中央線快速|JR中央線]]の線路の南側の地域。千駄ヶ谷三丁目の北、千駄ヶ谷五丁目の南に位置する。明治通りが通り、代々木駅、千駄ヶ谷駅共に近いことから、オフィスビル、マンションが多い。[[北参道駅]]が当地にあり、さらに[[国立能楽堂]]と[[日本共産党]]・[[日本民主青年同盟]]本部もある。[[河合塾]]千駄ヶ谷校も当地に所在したが、新宿校の開設に伴い、閉校した。<br />
<br />
住居表示の改正以前には、[[山手線]]の西側、現在の[[代々木|代々木1丁目]]のうち南部地域までが、千駄ヶ谷四丁目の町域であった。<br />
<br />
またかつて、現在の[[北参道駅|北参道]][[交差点]]から外苑橋まで、[[明治神宮]]北参道(裏参道)と[[明治神宮外苑]]を結ぶ[[道路]]に沿って[[乗馬|乗馬道]]となっていたが、[[第二次世界大戦]]後には[[遊歩道]]となり、その後は[[首都高速道路4号新宿線]]に変わった<ref name="furusato">東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p230</ref>。<br />
<br />
;千駄ヶ谷五丁目 - [http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.40.55.693&lon=139.42.22.503&p=%BD%C2%C3%AB%B6%E8%C0%E9%C2%CC%A5%F6%C3%AB5%C3%FA%CC%DC&gov=13113.17.5 地図] <br />
<br />
地区の北西部、JR中央線の線路の北側の地域。新宿駅南口に接しており、新宿駅構内に接して代々木駅東口に続く町域には[[タカシマヤタイムズスクエア]](1996年開業)や[[NTTドコモ代々木ビル]](2000年完成)などが建設された。<br />
<br />
住居表示の改正以前には、山手線の西側、[[代々木駅]]や代々木駅前の[[商業地]]を含む現在の[[代々木|代々木一丁目]]、[[文化学園]]や[[代ゼミ新タワー校舎]]、[[小田急サザンタワー]]などを含む現在の代々木二丁目の地域までが、千駄ヶ谷四丁目の町域であった。<br />
<br />
;千駄ヶ谷六丁目 - [http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.40.53.230&lon=139.42.33.663&p=%BD%C2%C3%AB%B6%E8%C0%E9%C2%CC%A5%F6%C3%AB6%C3%FA%CC%DC&gov=13113.17.6 地図] <br />
<br />
地区北東部。もとは千駄ヶ谷大谷戸町といわれていた。町域の大半は[[新宿御苑]]の敷地で、西北端は[[東京都立新宿高校]]の敷地の一部となる。民家とマンションが混在する地域である。新宿御苑内を渋谷区と新宿区の区境が通っている。<br />
<br />
=== 地価 ===<br />
住宅地の地価は、[[2017年]]([[平成]]29年)の[[公示地価]]によれば、千駄ケ谷3-4-24 の地点で115万円/m{{sup|2}}となっている<ref>[http://www.land.mlit.go.jp/landPrice/AriaServlet?MOD=2&TYP=0 国土交通省地価公示・都道府県地価調査]</ref>。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
[[File:Street in Sendagaya.JPG|thumb|left|160px|千駄ヶ谷2丁目(左側)と[[神宮前 (渋谷区)|神宮前]]2丁目(右側)を隔てる道路]]<br />
<br />
{{main|渋谷区の町名#千駄ヶ谷村の成立過程}}<br />
{{main|新宿区の町名#千駄ヶ谷地区の変遷}}<br />
{{see also|千駄ヶ谷町}}<br />
{{see also|原宿#歴史}}<br />
<br />
かつてこの地に存在した[[東京府]][[豊多摩郡]][[千駄ヶ谷町]]は、[[1932年]]([[昭和]]7年)に[[東京市]]に編入され、[[渋谷町 (東京府)|渋谷町]]、[[代々幡町]]と合併して[[渋谷区]]を形成した。維新後、徳川宗家が住し[[天璋院]]も居住した。<br />
<br />
現在の[[新宿御苑]]内を水源とした[[渋谷川]]上流地区に位置し、たくさんの萱が生えていたこと、それを一日に「千駄(駄は馬に積む荷物の重さの単位)の萱」を積む事から千駄ヶ谷となった。もとは豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷。昭和7年に千駄ヶ谷一丁目から五丁目まで起立。昭和43年千駄ヶ谷二丁目の南半分を神宮前二丁目に分離、原宿三丁目の北半分を千駄ヶ谷三丁目に編入。また千駄ヶ谷大谷戸町を千駄ヶ谷六丁目とし、さらに、代々木山谷町の一部および代々木外輪町の一部を千駄ヶ谷六丁目に編入。<br />
<br />
千駄ヶ谷一丁目の[[鳩森八幡神社]]前交差点から西に伸びて同・二丁目の[[北参道交差点]]に続く「千駄ヶ谷大通り」は、古くから千駄ヶ谷と[[代々木]]を結ぶ主要道で、戦前には『豊栄亭』という[[芝居小屋]]もあるなど大いに賑わい、また1932年([[昭和]]7年)に千駄ヶ谷町が渋谷区となるまでは「大通」という小字があった<ref name="kioku">『渋谷の記憶II 写真でみる今と昔』 渋谷区教育委員会発行 平成21年3月10日発行</ref>。<br />
<br />
千駄ヶ谷は1960年代前半までは東京都内でも有数の温泉マーク「連れ込み宿」(別名として連れ込み旅館、現在の[[ラブホテル]]に該当)街であった<ref>映画「LOVEHOTELS」公式サイト</ref>。当時、千駄ヶ谷小学校付近にも連れ込み宿が林立し、それを一掃しようという運動が近隣住民や小学校の[[PTA]]を中心におこった<ref name="jingumae">神宮前三丁目 『原宿 1995』 コム・プロジェクト 穏田表参道商店会1994年12月25日発行 p42</ref>。その結果、千駄ヶ谷は[[1957年]]([[昭和]]32年)、隣接する[[原宿]]地区と共に[[文教地区]]としての指定を受け<ref name="jingumae"/>、現在までには本地区において[[風俗営業法]]に準拠する同様の施設はみられなくなった。<br />
<br />
== 交通 ==<br />
地区の北寄りをJR中央線が東西に横断しており、[[千駄ケ谷駅]]が所在する。<br />
<br />
地区の西寄りを[[明治通り (東京都)|明治通り]]、東端近くを[[外苑東通り]]が縦断している。明治通りの地下には[[東京メトロ副都心線]]が通り(2008年6月14日に開業)、[[北参道駅]]が当町域内に所在する。<br />
<br />
== 世帯数と人口 ==<br />
[[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"></ref>。<br />
<!--- 六丁目は世帯数が少ないため、五丁目と合算 ---><br />
{| class="wikitable"<br />
![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]<br />
|-<br />
|千駄ヶ谷一丁目<br />
|style="text-align:right"|966世帯<br />
|style="text-align:right"|1,890人<br />
|-<br />
|千駄ヶ谷二丁目<br />
|style="text-align:right"|661世帯<br />
|style="text-align:right"|1,119人<br />
|-<br />
|千駄ヶ谷三丁目<br />
|style="text-align:right"|2,000世帯<br />
|style="text-align:right"|3,242人<br />
|-<br />
|千駄ヶ谷四丁目<br />
|style="text-align:right"|1,179世帯<br />
|style="text-align:right"|1,799人<br />
|-<br />
|千駄ヶ谷五丁目・六丁目<br />
|style="text-align:right"|1,582世帯<br />
|style="text-align:right"|2,493人<br />
|-<br />
|style="text-align:center"|計<br />
|style="text-align:right"|6,388世帯<br />
|style="text-align:right"|10,543人<br />
|}<br />
<br />
== 小・中学校の学区 ==<br />
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school">{{Cite web|url=https://www.city.shibuya.tokyo.jp/katei/gakkou/kuiki/|title=通学区域|publisher=渋谷区|accessdate=2017-12-22}}</ref>。<br />
{| class="wikitable"<br />
!丁目!!番地!!小学校!!中学校<br />
|-<br />
|rowspan=2|千駄ヶ谷一丁目||2~10番<br/>13~36番||[[渋谷区立鳩森小学校]]||rowspan=7|[[渋谷区立原宿外苑中学校]]<br />
|-<br />
||その他||rowspan=3|[[渋谷区立千駄谷小学校]]<br />
|-<br />
||千駄ヶ谷二丁目||全域<br />
|-<br />
||千駄ヶ谷三丁目||全域<br />
|-<br />
||千駄ヶ谷四丁目||全域||rowspan=3|渋谷区立鳩森小学校<br />
|-<br />
||千駄ヶ谷五丁目||全域<br />
|-<br />
||千駄ヶ谷六丁目||全域<br />
|}<br />
<br />
== 施設 ==<br />
[[File:Tsuda Hall.jpg|thumb|right|180px|津田ホール]]<br />
[[File:Sendagaya Elementary School 1.JPG|thumb|right|180px|千駄谷小学校]]<br />
{|<br />
|<br />
* [[千駄ケ谷駅|千駄ヶ谷駅]]<br />
* [[北参道駅]]<br />
* [[東京体育館]]<br />
* 津田ホール<br />
* [[津田塾大学]]千駄ヶ谷キャンパス<br />
* [[将棋会館]]<br />
* [[鳩森八幡神社]]<br />
** 境内に「千駄ヶ谷の[[富士塚]]」(都指定有形[[民俗文化財]])がある。<br />
* 瑞円寺<br />
* モンマスティー - [[ミルクティー]]及び[[紅茶]]店<ref>[https://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20170421/ecn1704210730002-n1.htm 【人生二毛作】タバコ会社を辞め極めた一服 「3坪の紅茶専門店」が軌道に] [[ZAKZAK]] 2017年4月21日、[http://www.shibuya-univ.net/classroom/detail/245 Monmouth Tea ~千駄ヶ谷の休憩所~] [[シブヤ大学]] 2011年3月22日</ref><br />
* [[明星食品]]本社<br />
* [[イトキン]]本社<br />
* [[国立能楽堂]]<br />
* [[代々木ゼミナール]] 造形学校<br />
* [[東京海上日動火災保険]]能力開発センター <br />
* [[ブラックベリー (企業)|リサーチ・イン・モーション・ジャパン]]本社<br />
* [[渋谷区立千駄谷小学校]]<br />
* [[千駄ヶ谷トンネル]]<br />
* [[東京デザイン専門学校]]<br />
|<br />
* [[修養団]]<br />
* SYDホール<br />
* [[フジタ]]本社<br />
* [[大京]]本社<br />
* [[日本共産党]]本部<br />
* [[日本民主青年同盟]]本部<br />
* [[NTTドコモ代々木ビル]]<br />
* [[服部栄養専門学校]]<br />
* [[ファイブフォックス]]本社<br />
* [[タカシマヤタイムズスクエア]]<br />
** [[紀伊國屋書店]]新宿南店<br />
* [[東日本旅客鉄道|JR]][[新宿駅]]甲州街道改札・新南改札・ミライナタワー改札<br />
* [[バスタ新宿]]<br />
** [[バスタ新宿#運営会社|新宿高速バスターミナル]]本社<br />
* [[JR新宿ミライナタワー]](一部は[[新宿区]]に跨る)<br />
* [[日本コンピュータデザイン専門学校]]<br />
* [[大伸社]]東京本社<br />
* [[テルウェル東日本]]本社<br />
* [[野村證券]][[新宿]]支店<br />
* [[東京俳優生活協同組合]](俳協)本部<br />
|}<br />
<br />
== 主な出身人物・ゆかりある人物 ==<br />
* [[山本五十六]] - 軍人、[[聯合艦隊司令長官]]<br />
* [[山本義正]] - 著述家、山本五十六の子<br />
* [[西田税]] - 軍人、思想家<br />
* [[増原惠吉]] - 官僚、元参議院議員、元防衛庁長官<br />
* [[北原白秋]] - 詩人、作家<br />
* [[獅子文六]] - 作家<br />
* [[与謝野鉄幹]] - 歌人<br />
* [[与謝野晶子]] - 歌人、作家<br />
* [[千田是也]] - 演出家、俳優<br />
* [[五十嵐淳子]] - 女優<br />
* [[江波杏子]] - 女優<br />
* [[田村奈巳]] - 女優 <br />
* [[真木洋子]] - 女優 <br />
* [[徳川家達]] - [[徳川将軍家|徳川宗家]]16代目<br />
* [[徳川家正]] - 同17代目<br />
<!--* 柏井慶一 - 千駄ヶ谷界隈の紅茶店モンマスティー店長 → 一応、下記に同人の記事を掲載しておきます。[https://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20170421/ecn1704210730002-n1.htm 【人生二毛作】タバコ会社を辞め極めた一服 「3坪の紅茶専門店」が軌道に] [[ZakZak]] 2017年4月21日、[http://www.shibuya-univ.net/classroom/detail/245 Monmouth Tea ~千駄ヶ谷の休憩所~] [[シブヤ大学]] 2011年3月22日--><br />
<br />
== 千駄ヶ谷が舞台となっている作品 ==<br />
*『[[流血の抗争]]』([[1971年]]、日活)<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.city.shibuya.tokyo.jp/ 渋谷区]<br />
{{Commonscat|Sendagaya}}<br />
<br />
{{渋谷区の町名}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:せんたかや}}<br />
[[Category:渋谷区の町名]]<br />
[[Category:原宿]]</div>
103.226.44.10
6番街 (マンハッタン)
2018-07-30T15:12:34Z
<p>103.226.44.10: /* 概要 */補足</p>
<hr />
<div>{{Coord|40.742893|-73.992792|format=dms|display=title}}<br />
[[File:Sixth Avenue looking north.jpg|thumb|right|218px|[[40丁目 (マンハッタン)|40丁目]]から[[セントラルパーク]]を見た様子。6番街には、[[インターナショナル・スタイル]]・ビルの「超高層ビルの路地」がある。]]<br />
<br />
'''6番街'''(Sixth Avenue)は、[[ニューヨーク市]][[マンハッタン]][[行政区 (ニューヨーク市)|区]]を走る通り([[アヴェニュー]])である。但し、6番街の名称は[[ニューヨーカー]]の間では滅多に使用されない<ref name=streetbook />。公式には、'''アベニュー・オブ・ザ・アメリカス'''(Avenue of the Americas)と呼ばれる。<br />
<br />
南から北向きに、あるいは[[アップタウン]]に向けて走っている。通り界隈は商業施設が軒を並べる。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
6番街は、[[キャナル・ストリート (マンハッタン)|キャナル・ストリート]]より4ブロック南の、[[トライベッカ (マンハッタン)|トライベッカ]]にあるフランクリン・ストリートから、北向きの[[チャーチ・ストリート (マンハッタン)|チャーチ・ストリート]]を西に分岐して始まり、キャナル・ストリートまで支線のような形で走る。ここから6番街は、[[ソーホー (ニューヨーク市)|ソーホー]]と[[グリニッジ・ヴィレッジ]]を横断し、おおまかに[[チェルシー (ニューヨーク)|チェルシー]]から[[フラットアイアン・ディストリクト]]と[[ノーマッド]]を分割、さらに[[ミッドタウン]]の[[ガーメント・ディストリクト (ニューヨーク市)|ガーメント・ディストリクト]]と[[シアター・ディストリクト (ニューヨーク)|シアター・ディストリクト]]を通る。<br />
<br />
6番街の北端は[[セントラルパーク・サウス]]であり、[[セントラル・パーク]]内の通りたるセンター・ドライブへのアーティスト・ゲートに隣接する。セントラル・パーク内イースト・ドライブを経て同パーク北側に接続する6番街の通り箇所は、1887年に[[レノックス・アベニュー (マンハッタン)|レノックス・アベニュー]] ([[:en:Lenox Avenue|en]]) に改名され、1987年には[[マルコムX]]・[[ブールバール|ブルバード]]との二重命名<!--英語版参照-->となった。この名称は、ときどき混乱させられる<ref>"What's in a Street Rename? Disorder", ''[[The New York Times]]'', July 20, 1987. p. B1</ref>。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
<br />
[[Image:Sixth Avenue, North From 14th Street, New York City.jpg|thumb|right|325px|[[14丁目 (マンハッタン)|14丁目]]から北を見た右の[[6番街線]]と併走する1905年の6番街]]<br />
[[File:Ladies' Mile overview from north.jpg|thumb|325px|right|6番街沿いに繁栄した[[レディーズ・マイル歴史地区|歴史的レディーズ・マイル商業地区]]は、市で最大の小売地のいくつかを後に残した。建物は数十年間使われていなかったが、1990年代から再使用されている]]<br />
<br />
[[1811年委員会計画]]により6番街が計画された。<br />
<br />
[[高架鉄道]]の[[6番街線]]が1878年に建設されたことにより、6番街が暗くなり、不動産価格が下がった。高架鉄道はグリニッジ・ヴィレッジに始まり、1938年から1939年にかけて段階的に南下した<ref>'WPA Guide to New York City'' (1939) 1984:138</ref>。<br />
<br />
本来、6番街の南端は、グリニッジ・ヴィレッジのカーマイン・ストリートとして設計された。この地点から通りを南へ拡張する提案は、より簡単にロウアー・マンハッタンへアクセスできるようにするため、早くも1860年代中頃には、[[ニューヨーク市議会|下院議会]]で議論された<ref name="Times-1877">{{cite news|url=http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9B02E2D9133FE63BBC4A52DFBE66838C669FDE|title=Street Improvements|date=Aug. 12, 1877|work=The New York Times|accessdate=20 June 2010}}</ref>。南への拡張は、[[ホランド・トンネル]]の交通を緩和するため、1920年代中頃に行われ、[[8番街線]]が延長して、[[チャーチ・ストリート (マンハッタン)|チャーチ・ストリート]]の北端近くで、ロウアー・マンハッタンからのこの4車線の道路に接続した。<br />
<br />
拡張工事は、居住者たちにかなりの混乱を引き起こした。歴史家の1人は次のように語った。「1万人が引っ越した。このうちのほとんどが、アメリカに他の家を持たなかったイタリア人だ」<ref>Gold, Joyce. ''From Trout Stream to Bohemia: A Walking Guide to Greenwich Village History'' (1988:49)</ref>。ニューヨークの雇用推進局職員は、「影響のない道路」、名残の少ない場所に面する道路の拡張が白紙のまま行われたといった。<ref>''WPA Guide to New York City'' [1939] 1982:138</ref>。もともとの[[アントニオ・デモ|ポンペイ聖母マリア教会]]を含む多くの建物が壊された。<br />
<br />
=== 改名 ===<br />
<br />
道路の公式名称は、1945年、市議会で[[フィオレロ・ラガーディア]]市長が強要し、'''アベニュー・オブ・ザ・アメリカス'''に改名された<ref name=NYT1945>"Name of 6th Ave. to Be Changed To the Avenue of the Americas; Council Votes Proposal at Mayor's Request, 12 to 1, After a Debate Rages for 2 Hours --Isaacs Fears Oblivion for Historic Sites", ''[[The New York Times]]'', September 21, 1945. p. 23</ref>。彼は1945年10月2日、法案に署名し、法律として承認した<ref>[http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F10616F63E5416738FDDAA0894D8415B8588F1D3&scp=3&sq=Sixth+Avenue+name+change&st=p "Sixth Avenue's Name Gone With the Wind; Sure Sign of Sixth Avenue's Passing"] ''[[New York Times]]'' (October 3, 1945)</ref>。[[米州機構]]の国家を尊敬する意図があった<ref name=streetbook>{{cite streetbook}}, p.24</ref>。また、見窄らしい名前の通りに壮大な名称を付け<ref name="Barry">{{cite news|url=http://select.nytimes.com/2005/09/21/nyregion/21about.html|title=About New York; No Way To Name An Avenue|last=Barry|first=Dan|date=21 September 2005|work=The New York Times|accessdate=20 June 2010}}</ref>、西半球との貿易を促進する狙いがあった<ref name="Gonzalez">{{cite news|url=http://www.nytimes.com/2008/07/04/nyregion/04avenue.html|title=Few Emblems of Americas Remain on Their Avenue|last=Gonzalez|first=David|date=4 July 2008|work=The New York Times|accessdate=20 June 2010}}</ref>。改名後、OASの全ての国家のシールが貼られた標識が、道路の街頭に付けられた。<br />
<br />
[[File:ZDAG0042 - Avenue of the Americas.jpg|thumb|left|187px|[[ベネズエラ]]の標識]]<br />
<br />
6番街の高架鉄道の廃止により、[[ミッドタウン]]の急速な商業開発が行われた。1960年代から、道路には、会社の入った[[インターナショナル・スタイル|インターナショナル・モダニスト]]・スタイルのガラス張りのタワーがほとんど途絶えることなく、42丁目付近に建設された。建設された建物の中には、[[52丁目]]の下から上まで花崗岩でつくられたことから「ブラック・ロック」と呼ばれる[[エーロ・サーリネン]]の[[CBSビルディング]](1965年)がある。これは、彼の設計した唯一の超高層ビルである。<br />
<br />
1957年3月10日、6番街は、[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]と交わる[[ヘラルド・スクエア]]より北は、一方通行となった<ref>{{cite news|last=Ingraham|first=Joseph|title=Midtown Gets New Traffic Pattern|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20E14FC3D5D167B93C3A81788D85F438585F9|accessdate=28 August 2012|newspaper=The New York Times|date=11 March 1957}}</ref>。道路の残りも、1963年11月10日に同様となった<ref>{{cite news|last=Stengren|first=Bernard|title=One-Way Traffic Plan Tangled At 3 Broadway 'X' Intersections|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F40E13FC3A541A7B93C1A8178AD95F478685F9|accessdate=28 August 2012|newspaper=The New York Times|date=13 November 1963}}</ref>。<br />
<br />
1970年代中頃、街頭と新しい歩道をペイントし直し、レンガの横断歩道を追加して、通りを「小綺麗に」した。さらに追加された特別照明は、珍しい<ref name=Secrets>{{cite web|title=Forgotten Street Scenes: Secrets of Sixth Avenue|url=http://www.forgotten-ny.com/STREET%20SCENES/deepsix/deepsix.html|work=Forgotten NY|accessdate=18 February 2011}}</ref>。<br />
<br />
ニューヨーカーは、新しい道路の名を滅多に使用しなかった。また、近年、通りの名は「アベニュー・オブ・ザ・アメリカス」と「6番街」の両方であるとされた。国の紋章が書かれたほとんどの標識は、1990年代の終わりまでに撤去されたが、残りの標識が展示されている<ref name="Gonzalez"/>。<br />
<br />
[[Image:Jefferson market.jpg|thumb|200px|グリニッジ・ヴィレッジの[[ジェファーソン・マーケット図書館]]]]<br />
<br />
== 有名なビルとイベント ==<br />
<br />
6番街には、次のようなものがある。[[フアン・パブロ・ドゥアルテ・スクエア]]、[[グリニッジ・ヴィレッジ]]を含み、[[ゴシック・リヴァイヴァル建築]]のジェファーソン・マーケット裁判所のある[[ジェファーソン・マーケット図書館]]。[[18丁目 (マンハッタン)|18丁目]]から[[23丁目 (マンハッタン)|23丁目]]にわたる[[レディーズ・マイル歴史地区]]の1880年から1900年にかけての[[デパート]]。以前の大規模なフラワー・ディストリクト。[[メイシーズ]]・デパートのある34丁目の[[ヘラルド・スクエア]]。[[40丁目 (マンハッタン)|40丁目]]から[[42丁目 (マンハッタン)|42丁目]]にかけての[[ブライアント・パーク]]。42番街には、次のようなビルがある。[[バンク・オブ・アメリカ・タワー (ニューヨーク)|バンク・オブ・アメリカ・タワー]]、[[W・R・グレース・ビル]]、[[国際写真センター]]、[[ロックフェラー・センター]] &mdash; [[タイム=ライフ・ビル]]、[[1211 アベニュー・オブ・ザ・アメリカス|ニュー・コープ・ビル]]、[[エクソン・ビル (ニューヨーク)|エクソン・ビル]]、[[1221 アベニュー・オブ・ザ・アメリカス|マグロウ=ヒル・ビル]]、[[ラジオシティ・ミュージックホール]]を含む。<br />
<br />
6番街では、グリニッジ・ヴィレッジの[[ニューヨークス・ヴィレッジ・ハロウィーン・パレード|ヴィレッジ・ハロウィーン・パレード]]、ミッドタウンの[[ドミニカン・デイ・パレード]]が行われる。<br />
<br />
== 公共交通機関 ==<br />
<br />
6番街には、[[ニューヨーク市地下鉄]][[6番街線]]([[ニューヨーク市地下鉄B線|B]] [[ニューヨーク市地下鉄D線|D]] [[ニューヨーク市地下鉄F線|F]] [[ニューヨーク市地下鉄M線|M]])が走っている。また、9丁目から32丁目の地下には[[33丁目駅 (パストレイン)|33丁目駅]]を終点とするジャーナル・スクエア/[[ホーボーケン]]発の[[パストレイン|PATH]]が走っている。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
<br />
* [[6.5番街 (マンハッタン)]]<br />
<br />
== 出典 ==<br />
'''Notes'''<br />
{{reflist|2}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commons category|6th Avenue (Manhattan)}}<br />
*[http://www.nysonglines.com/6av.htm New York Songlines: Sixth Avenue], a virtual walking tour<br />
*[http://www.forgotten-ny.com/STREET%20SCENES/deepsix/deepsix.html Secrets of Sixth Avenue] Forgotten-NY<br />
<br />
<!--spacing--><br />
<br />
{{デフォルトソート:6はんかい}}<br />
[[Category:マンハッタンの通り]]<br />
[[Category:ロックフェラーセンター]]<br />
[[Category:グリニッジ・ヴィレッジ]]</div>
103.226.44.10
鎌倉市
2018-07-30T12:51:20Z
<p>103.226.44.10: /* その他 */二重記載その他補正</p>
<hr />
<div>{{日本の市<br />
|画像 = TsurugaokaHachiman-M8867.jpg<br />
|画像の説明 = 鎌倉市のランドマーク『[[鶴岡八幡宮]]』<br />
|市章 = [[ファイル:Flag of Kamakura, Kanagawa.svg|125px|center]]鎌倉[[市町村旗|市旗]][[画像:神奈川県鎌倉市市章.svg|75px|center]]鎌倉[[市町村章|市章]]<br />
|市章の説明 = 市章:昭和27年11月3日 鎌倉市告示第56号「鎌倉市市章」による<br />
|自治体名 = 鎌倉市<br />
|都道府県 = 神奈川県<br />
|支庁 =<br />
|コード = 14204-2<br />
|境界未定 = なし<br />
|隣接自治体 = [[横浜市]]、[[逗子市]]、[[藤沢市]]<br />
|木 = [[ヤマザクラ]]<br />
|花 = [[リンドウ]]<br />
|シンボル名 = 他のシンボル<br />
|鳥など = -<br />
|郵便番号 = 248-8686<br />
|所在地 = 鎌倉市御成町18番10号<br />{{small|{{ウィキ座標度分秒|35|19|9.3|N|139|32|48.1|E|region:JP-14_type:adm3rd|display=inline,title|name=鎌倉市}}}}<br />[[画像:Kamakura City Hall 20120630.JPG|250px|center|鎌倉市役所本庁舎]]<br />
|外部リンク = [http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/ 鎌倉市]<br />
|位置画像 = {{基礎自治体位置図|14|204}}<br />
|特記事項 = [[市外局番]]:0467(市内全域) <br />
}}<br />
<br />
[[ファイル:Kamakura-buddha-1.jpg|thumb|[[高徳院|鎌倉大仏]](高徳院)]]<br />
[[ファイル:Kencho-ji 108599196 ac1ef7203f o.jpg|thumb|[[建長寺]]]]<br />
[[ファイル:Kamakuragu Main Hall.jpg|thumb|[[鎌倉宮]](大塔宮)]]<br />
[[ファイル:Egara Tenjin Shrine.JPG|thumb|[[荏柄天神社]]]]<br />
'''鎌倉市'''(かまくらし)は、[[神奈川県]]、[[三浦半島]]西側の付け根に位置し、[[鎌倉]]を中心部とする[[市]]である。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
鎌倉市は[[横浜市]]の南西、[[藤沢市]]の東、[[逗子市]]の北西に位置し、南は[[相模湾]]に面している。三方が低い山で囲まれ海に面する地であり、かつては[[鎌倉幕府|幕府]]が置かれ政権の要の地であった。今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた[[鎌倉]]」の外側に位置する地域も市内に含まれる。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「[[古都]]」であるが、後述の通り[[室町時代]]中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。<br />
<br />
[[江戸時代]]後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、[[明治]]初期の段階でも[[高徳院|鎌倉大仏]](高徳院)や[[長谷寺 (鎌倉市)|長谷寺]]を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった。<br />
<br />
明治初期、現鎌倉市域を含む[[鎌倉郡]]を管轄する郡役所は[[戸塚区|戸塚]](現横浜市戸塚区)に置かれた。明治中期以降、保養・別荘地として、[[昭和]]以降に[[観光地]]として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。ゆえに中世以来の建造物はほとんど存在せず、文化遺産として価値の高い中世都市の遺構の多い地域といえる。<br />
<br />
=== 河川 ===<br />
市内を流れる[[河川]]は主な物で三本。全て[[二級河川]]である。これに支流や[[準用河川]]が加わる。<br />
; 二級河川<br />
* [[滑川 (神奈川県)|滑川]]<br />
* [[柏尾川]]<br />
* 神戸川<br />
; 準用河川<br />
* 神戸川<br />
* [[砂押川 (神奈川県)|砂押川]]<br />
* 小袋谷川<br />
* 新川<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
地形が天然の要害でもあり、古代、[[鎌倉郡]]の[[郡衙]]が設置された場所であり、また豪族の[[鎌倉氏]]の本拠でもあった。<br />
<br />
[[平忠常の乱]]の際、[[平直方]]による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した[[源頼信]]の功により、その子[[源頼義]]の頃に[[畿内]]の[[河内国]]石川郡壷井(現・[[大阪府]][[羽曳野市]]壷井)を本拠地とした[[河内源氏]]の所領となる。頼義の子で河内源氏三代目棟梁の[[源義家|八幡太郎義家]]の4代後の[[源頼朝]]が[[鎌倉幕府]]を置いて武家政権を成立させ、[[鎌倉街道]]も整備される。幕府の要職に就いた有力[[御家人]]は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、[[鎌倉五山]]なども置かれ関東における文化的中心地となる。<br />
<br />
[[貞応]]3年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]([[1224年]][[7月16日]])には[[北条泰時]]が[[執権]]に就き、[[連署]]や[[評定衆]]を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた[[大倉]]から[[宇都宮辻子]]に移し、[[貞永]]元年([[1232年]])には[[御成敗式目]]を制定して幕府の体制を磐石なものとした。[[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])に[[後醍醐天皇]]の討幕に呼応した[[上野国]]([[群馬県]])の[[河内源氏]][[源義家|義家流]]・[[新田義貞]]は、分倍河原などで鎌倉幕府を専横した[[桓武平氏]]流[[北条氏]]の兵を撃破し、鎌倉へ進撃して泰時以来の菩提寺である[[東勝寺 (鎌倉市)|東勝寺]]で北条氏一族を滅亡させた([[東勝寺合戦]])。[[1953年]](昭和28年)に[[鈴木尚]]の調査では大量の刀創などのある[[人骨]]が発掘されている。<br />
<br />
[[京都]]で後醍醐天皇の[[建武の新政]]が始まると義貞は召還され、京都の[[六波羅探題]]を滅亡させるなど討幕に効のあった一族の[[足利尊氏]]の弟である[[足利直義]]や一門の[[細川氏]]などが親王を奉じて下り、鎌倉将軍府が成立。[[北条氏]]一族の残党が[[中先代の乱]]を起こし鎌倉が陥落すると尊氏は討伐に向かい、そのまま新政から離反して鎌倉で恩賞の授与などを行うが、尊氏は追討に派遣された義貞らを撃破し、京での戦いに負け[[九州]]落ちした後に北朝を樹立して武家政権を設立し、鎌倉へは子の足利義詮を派遣する。足利家の内紛が観応の擾乱と呼ばれる内乱に発展すると義詮は京へ呼び戻され、代わりに尊氏の次子の[[足利基氏]]が鎌倉へ派遣されて[[鎌倉府]]を設置し、以後[[鎌倉公方]]として関東統治を行う。<br />
<br />
[[室町時代]]には鎌倉公方は幕府と対立し、鎌倉公方を補佐する[[関東管領]]とも対立したことなどにより[[上杉禅秀の乱]]、[[永享の乱]]、[[結城合戦]]などの騒乱が起こる。[[享徳]]4年([[1455年]])には[[享徳の乱]]で[[足利成氏]]が下総国古河へ移り[[古河公方]]を成立させたことにより鎌倉は衰退する。<br />
<br />
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には小田原の[[北条早雲]]が進出、[[玉縄城]]を築いて東相模の拠点とした。[[北条氏綱]]の治世時代に安房の[[里見氏]]との合戦で焼失した鶴岡八幡宮を再建。[[上杉謙信]]・[[武田信玄]]・里見氏らにより度々侵攻を受けたが、そのたびに撃退している。北条氏滅亡後は[[徳川家康]]の支配下に入った。<br />
<br />
近世には[[江戸]]が東国の中心となり、江戸時代には寺社の復興が始まる。江戸の庶民によって、[[大山 (神奈川県)|大山]]の[[大山阿夫利神社|阿夫利神社]]、[[江の島]]の[[江島神社]]などへの参拝を目的とした[[講]]が結成されるようになると、代参者の立ち寄り先として観光ルートに含まれるようになった。<br />
<br />
[[1889年]](明治22年)に東京と軍港のある[[横須賀市|横須賀]]を結ぶ目的で[[横須賀線]]が開通したが、その経由地となったことによって、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため段葛は寸断された。<br />
<br />
その少し前[[1883年]](明治16年)に、「衛生(えいせい)」という言葉を日本で初めて医学に使用した[[長与専斎]]が、神奈川県・鎌倉の海を、地形的な特徴から「[[海水浴場]]として最適」と紹介した。当時は[[海水浴]]が医療効果を持つと信じられていたため、長与の紹介も行楽的な観点からではなく医療的な観点によるものであったが、今日では海水浴と医療効果との因果関係は科学的根拠に欠けるとされ、[[由比ヶ浜]]、材木座海岸といった海水浴場は行楽客を対象に設営され、[[湘南]]の一部として一般に認識されている。<br />
<br />
[[1923年]](大正12年)[[9月1日]]に起きた[[関東大震災]]では鎌倉も大きな被害がもたらされた。<br />
<br />
[[昭和]]に入ると、[[久米正雄]]など、作家や文人の一部が鎌倉へ移り住むようになり「[[鎌倉文士]]」という言葉が生みだされた。[[1936年]](昭和11年)、[[松竹]]が撮影所を蒲田から大船に移し大船撮影所が開設されるようになると、映画関係者で鎌倉に移り住む者が増えていった。<br />
<br />
[[1928年]](昭和3年)の[[鎌倉山]]の分譲を嚆矢に、[[1930年]](昭和5年)の[[横須賀線]]列車の電車化以降、戦前・戦後を通じて大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊の[[ベッドタウン]]としての性格が強くなっていった。とりわけ、高度経済成長期の大規模開発の波は「昭和の鎌倉攻め」とも形容される。この時期に起こった[[鶴岡八幡宮]]裏の「御谷」開発中止を求める、作家[[大佛次郎]]を中心とした市民運動は、[[古都保存法]]制定の契機となり、異論はあるが日本における[[ナショナル・トラスト]]運動の嚆矢ともいわれている。<br />
<br />
=== 芥川龍之介と鎌倉 ===<br />
[[夏目漱石]]門下の若手天才[[小説家]]・[[芥川龍之介]](24歳)は、[[1916年]]([[大正]]5年)7月に東京帝国大学(現・[[東京大学]])[[イギリス文学|英吉利文学]][[学科|科]]を卒業した後、恩師の紹介で[[横須賀]]にある[[海軍機関学校]][[英語]]教授[[嘱託制度|嘱託]]として12月付けで赴任することになり、東京から[[鎌倉町]]和田塚(現・[[由比ガ浜]]4-8付近)へ転居して、江之島電気鉄道(現・[[江ノ島電鉄]])沿線で[[下宿]]生活を始める。芥川は、この後、[[1917年]](大正8年)9月にいったん[[横須賀市]][[汐入町 (横須賀市)|汐入町]]へ転居したが、[[1918年]](大正7年)3月になって[[大町 (鎌倉市)|大町]][[字]]辻の小山別邸内に[[借家]]として新居を構え、[[1919年]](大正8年)3月末に海軍機関学校を退職して[[田端 (東京都北区)|田端]]の自宅([[東京府]][[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]]田端〈現在の[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]田端1-19-18〉。''cf.'' [[田端文士村]])に戻るまで暮らした。<br />
<br />
おおよそ1917年から1919年までの間、芥川が生活と文筆活動の本拠を鎌倉に置いたことは、[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]発生以降に本格化する[[文化人]]の鎌倉暮らし、いわゆる[[鎌倉文士]]の時代の先駆けとも見なされている。<br />
<br />
=== 年表 ===<br />
==== 江戸時代以前 ====<br />
<!--法的に遡って、慶応3年12月31日(1868年1月24日)以前--><br />
<br />
==== 明治時代 ====<br />
===== 明治改元後 =====<br />
<!--法的に遡った明治改元は慶応4年1月1日(1868年1月25日)なので、それ以降。法と違って現実にはその時点で元号「明治」が存在しなかったから、年表上は明治時代の冒頭に「慶応4年」の一部が入る。--><br />
* [[1878年]]([[明治]]11年)[[11月18日]] - [[神奈川県]]で[[郡区町村編制法]]が施行され、近代[[行政区画]]としての[[鎌倉郡]]が発足。<br />
* [[1888年]](明治21年)<br />
:* [[11月1日]] - 官設[[鉄道]](この頃は[[鉄道省#鉄道部門幹部(鉄道省以前)|工部省]][[鉄道省#鉄道寮・鉄道局|鉄道寮]]管轄の鉄道)が、[[日本海軍]]の[[軍港]]都市・[[横須賀]]までの延伸が予定される軍用主体路線(後の[[横須賀線]])の[[始発駅]]的位置付けで[[大船駅]]を開業/この時点での大船駅は[[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]であった。<br />
:* 11月1日かその近日 - [[実業家]]・[[富岡周蔵]](後の[[大船軒]]創業者)が、大船駅の開業を機に大船に移り住み、駅前で[[旅館]]を営み始める。<br />
* [[1889年]](明治22年)<br />
:* [[4月1日]] - 30余りの村があった[[鎌倉]]で[[日本の市町村の廃置分合|村の廃置分合]]が行われたうえで[[町村制|村制]]が施行され、近代[[村#行政村|行政村]]としての[[東鎌倉村]]・[[西鎌倉村]]・腰越津村・[[深沢村 (神奈川県)|深沢村]]・[[小坂村]]・[[玉縄村]]が発足する<ref name="教育委">鎌倉市教育委員会『かまくら34』第2版、1995年3月31日、98頁</ref>。<br />
:* [[6月16日]] - 官設鉄道([[工部省]]鉄道寮管轄の鉄道)の軍用主体路線として[[大船駅]]-[[横須賀駅]]間(後の[[横須賀線]])が開通し、[[鎌倉駅]]・[[逗子駅]]が途中駅として、[[横須賀駅]]が[[終着駅]]として開業。<br />
* [[1893年]](明治26年)某月某日 - [[由比ガ浜]]にて、尋常由比浜小学校([[鎌倉市立第一小学校]]の前身)の開校。<br />
* [[1894年]](明治27年)[[7月7日]] - [[東鎌倉村]]と[[西鎌倉村]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|合体(新設合併)]]したうえで[[町村制|町制]]を施行し、'''[[鎌倉町]]を発足する'''<ref name="教育委" />。<br />
<br />
===== 日清戦争後 =====<br />
<!--1895年(明治28年)3月以後--><br />
* [[1895年]](明治29年)[[4月1日]] - [[鉄道省#鉄道寮・鉄道局|逓信省鉄道局]](旧・[[鉄道省#鉄道部門幹部(鉄道省以前)|工部省]][[鉄道省#鉄道寮・鉄道局|鉄道寮]]、直近の逓信省鉄道庁)が、[[新橋駅]](初代の新橋駅、後の[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]])-[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間、[[大船駅]]-[[横須賀駅]]間、[[大府駅]]-[[武豊駅]]間、[[深谷駅]]-[[長浜駅]]間、[[米原駅]]-[[敦賀駅]]-[[金ケ崎駅]]間、[[馬場駅]](現・[[膳所駅]])-[[大津駅]](初代の大津駅、現在の[[びわ湖浜大津駅]])間の線路名称に、「東海道線」([[本線]]は今日の[[東海道本線]])という正式名称を制定する。<br />
* [[1897年]](明治30年)[[12月28日]] - [[鎌倉大仏]](指定名称:銅造阿弥陀如来坐像)が、[[旧国宝]]([[重要文化財]])に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。<br />
* [[1898年]](明治31年)[[5月16日]] - [[岡本 (鎌倉市)|岡本村]]にて、[[大船軒]]が営業を開始。<br />
* [[1899年]](明治32年)<br />
:* [[4月5日]] - [[円覚寺]][[舎利殿]](指定名称:同左)が、[[旧国宝]]([[重要文化財]])に指定される<ref name="市-定財覧-20180309">{{Cite web |author=文化財部文化財課 |date=2018年3月9日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/shiteibunkazai-kensu-list.html |title=鎌倉市指定文化財一覧表 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-26 |ref=市-定財覧-20180309 }}</ref>/''cf.'' 1951年。<br />
:* 9月 - [[鎌倉郡]][[鎌倉町]][[大町 (鎌倉市)|大町]](現・鎌倉市[[御成町 (鎌倉市)|御成町]])にて、[[鎌倉御用邸]]の造営/''cf.'' 1931年、1866年。<br />
* [[1903年]](明治36年)<br />
:* [[6月20日]] - 江之島電氣鐵道路線(現・[[江ノ島電鉄線]]。直近までは[[藤沢駅]]-片瀬駅〈現・[[江ノ島駅]]〉間)が鎌倉方面へ延伸し、片瀬駅-田辺駅(現・[[七里ヶ浜駅]])間が開通する。<br />
:* [[7月17日]] - 江之島電氣鐵道路線の鎌倉方面への延伸に追揚駅(現在は廃駅)の1駅が追加される。<br />
* [[1904年]](明治37年)[[4月1日]] - 江之島電氣鐵道路線の鎌倉方面へ延伸し、追揚駅-[[極楽寺駅]]間が開通する。<br />
<br />
===== 日露戦争後 =====<br />
<!--1905年(明治38年)9月5日以後--><br />
* [[1906年]](明治39年)6月 - 江之島電氣鐵道路線の[[極楽寺駅]]-[[長谷駅 (神奈川県)|長谷駅]]間にて、極楽洞(極楽トンネル)の着工/当時は、[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]側では[[曾禰荒助]](元[[大蔵大臣]])の[[揮毫]]から「極楽洞」、[[長谷 (鎌倉市)|長谷]]側では[[松方正義]](元[[総理大臣]])の揮毫から「千歳開道」と呼んだ。<br />
* [[1907年]](明治40年)<br />
:* 2月某日 - 極楽洞(極楽トンネル)の竣工。<br />
:* [[8月16日]] - 江之島電氣鐵道路線の鎌倉方面へ延伸し、[[極楽寺駅]]-大町駅(現在は廃駅)間が開通する。<br />
* [[1909年]](明治42年)<br />
:* [[4月5日]] - 鎌倉三名鐘のうちの2つ、[[円覚寺]]の洪鐘<sup>おおがね</sup>(指定名称:[[梵鐘]] 円覚寺鐘)と[[建長寺]]の梵鐘(指定名称:梵鐘 建長寺鐘)が、[[国宝]](新国宝)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />/[[常楽寺 (鎌倉市)|常楽寺]]の梵鐘は指定されず。''cf.'' 1933年。<br />
:* [[10月12日]] - [[鉄道省#内閣鉄道院|内閣鉄道院]](旧・[[鉄道省#鉄道部門幹部(鉄道省以前)|工部省]][[鉄道省#鉄道寮・鉄道局|鉄道寮]]、直近の[[鉄道省#鉄道寮・鉄道局|逓信省鉄道局]]と[[鉄道省#帝国鉄道庁|帝国鉄道庁]]の統合機関)が[[国鉄・JR線路名称一覧|官設鉄道線路名称]]を制定し、東海道線の一[[支線]]であった「[[大船駅]]-[[横須賀駅]]間」には「[[横須賀線]]」の正式名称が与えられる。<br />
* [[1910年]](明治43年)[[11月4日]] - 江之島電氣鐵道路線(現・[[江ノ島電鉄線]])が鎌倉方面へ延伸し、大町駅(現在は[[廃駅]])-小町駅([[鎌倉駅]]の前身にあたる廃駅)間が開通し、これをもって全線開通する。<br />
* 明治末期 - [[豊島屋]]が[[洋菓子]]「鳩三郎(今でいう[[鳩サブレー]])」を発売。<br />
<br />
==== 大正時代 ====<br />
* [[1916年]]([[大正]]5年)11月 - [[芥川龍之介]]の[[鎌倉]]暮らしが始まる/詳しくは「[[#芥川龍之介と鎌倉|芥川龍之介と鎌倉]]」節を参照。<br />
===== 第一次世界大戦後 =====<br />
<!--1918年(大正7年)11月11日以降--><br />
* 大正中期{{efn|大正時代(1912-1926年)の中期ということで、記載位置は1919年とする。}} - 山縣ホテル(今では[[クラシックホテル]]として[[鎌倉市指定景観重要建築物]]となっている[[ホテルニューカマクラ]])の開業。<br />
* [[1920年]](大正9年) - [[鎌倉郡]][[小坂村]]岩瀬(現・鎌倉市[[岩瀬 (鎌倉市)|岩瀬]])にて、[[岩瀬下関防災公園#鎌倉食用蛙養殖場|鎌倉食用蛙養殖場]]が開設され、食用蛙(食用[[ウシガエル]])の[[養殖]]が始まる/これを機に当地域では米国向け輸出用の食用蛙の養殖業が大々的に行われるようになる。''cf.'' 1927年、1938年、1976年、2015年。<br />
* [[1923年]](大正12年)[[9月1日]] - [[関東大震災]]の発生/[[鎌倉]]にも大きな被害あり。[[円覚寺]]では[[舎利殿]]や[[仏堂|仏殿]]が倒壊。<br />
:* この[[大震災]]をきっかけとして、壊滅状態となった[[東京]]に比べれば遥かに被害の少なかった鎌倉と[[浦和]](現在の[[さいたま市]][[浦和区]])に多くの[[文化人]]が居を移す時代が到来する。この時期を中心とした鎌倉と浦和の文化人をそれぞれに「[[鎌倉文士]]」「[[浦和画家]]」と呼ぶようになる。<br />
<br />
==== 昭和時代 ====<br />
===== 太平洋戦争前 =====<br />
* [[1927年]]([[昭和]]2年)<br />
:* [[5月20日]] - 帝国鉄道([[日本国有鉄道]]の前身)[[横須賀線]]北鎌倉[[臨時駅|仮停車場]]([[北鎌倉駅]]の前身)の開業。<br />
:* 某月 - [[岩瀬下関防災公園#鎌倉食用蛙養殖場|鎌倉食用蛙養殖場]]を始めとする[[岩瀬 (鎌倉市)|岩瀬]]の食用蛙(食用[[ウシガエル]])養殖業者が蛙の餌として[[アメリカザリガニ]]を使用し始める。<br />
* [[1928年]](昭和3年)<br />
:* [[4月3日]] - [[神武天皇祭]]のこの日、[[鶴岡八幡宮]][[境内]]にて、[[鎌倉国宝館]]の設立・開館。<br />
:* [[4月4日]] - [[徳川吉宗]][[奉納]]、鶴岡八幡宮所蔵の、[[太刀]][[銘文|銘]][[青江派|正恒]](指定名称:太刀 銘正恒 附 糸巻太刀拵。員数:1口)が、[[旧国宝]]([[重要文化財]])に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。<br />
* [[1929年]](昭和4年)<br />
:* [[4月14日]] - [[岡本 (鎌倉市)|岡本]]の仏海山[[大船観音寺]]にて、[[大船観音寺#大船観音|大船聖観世音菩薩立像]](大船観音菩薩立像)の起工式が執り行われる<ref name="大船観音寺-史">{{Cite web |url=http://www.oofuna-kannon.or.jp/01enkaku/index.html |title=沿革 |work=公式ウェブサイト |publisher=大船観音寺 |accessdate=2018-03-24 |ref=大船観音寺-史 }}</ref>/''cf.'' 1934年、1960年。<br />
:* 某月某日 - [[円覚寺]][[舎利殿]]の再建。<br />
* [[1930年]](昭和5年)[[10月1日]] - 帝国鉄道([[日本国有鉄道]]の前身)[[横須賀線]]の北鎌倉[[臨時駅|仮停車場]]が駅へ昇格し、[[北鎌倉駅]]が開業。<br />
* [[1931年]](昭和6年)<br />
:* [[1月1日]] - 腰越津村が単独で[[町村制|町制]]を施行し、[[腰越町]]を発足する<ref name="教育委" />。<br />
:* 某月某日 - [[鎌倉御用邸]]の閉鎖。<br />
* [[1933年]](昭和8年)<br />
:* [[2月11日]] - [[小坂村]]が単独で[[町村制|町制]]を施行し、[[大船町]](第1次大船町)を発足<ref name="教育委" />。<br />
:* [[4月2日]] - [[大船町]]が[[玉縄村]]を[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]し、改めて大船町(第2次大船町)を発足<ref name="教育委" />。<br />
* [[1934年]](昭和9年) - [[岡本 (鎌倉市)|岡本]]の[[大船観音寺#大船観音|大船聖観世音菩薩立像]](大船観音菩薩立像)の建造が、[[世界恐慌]]影響下の資金難から中断を余儀なくされ、その後、23年もの間放置されることとなる<ref name="大船観音寺-史" />。<br />
* [[1936年]](昭和11年)[[1月15日]] - [[大船]]にて、[[松竹大船撮影所]]の開所/''cf.'' 1936年、1999年、2000年、2003年。<br />
* [[1938年]](昭和13年)<br />
:* 7月 - [[豪雨]]で[[砂押川]]が[[氾濫]]し、[[岩瀬下関防災公園#鎌倉食用蛙養殖場|鎌倉食用蛙養殖場]]の食用蛙(食用[[ウシガエル]])と[[アメリカザリガニ]]が大量に逃げ、周辺環境に拡散されてしまう。<br />
:* 12月 - [[鎌倉町]]と[[藤沢町]]の間で、[[片瀬町]]と[[腰越町]]を合併するための争奪戦が発生。<br />
* [[1939年]](昭和14年)[[11月3日]] - [[鎌倉町]]と[[腰越町]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|合体(新設合併)]]したうえで[[市制]]を施行し、'''鎌倉市(第1次鎌倉市)を発足する'''<ref>同日、[[内務省 (日本)|内務省]][[告示]]第515号</ref>。<br />
* [[1940年]](昭和15年)[[4月9日]] - 旧[[鎌倉町]]最後の[[市町村長|町長]]・[[清川来吉|清川來吉]]が、初代鎌倉市長に就任。<br />
* [[1940年代]]前半 - [[岩瀬下関防災公園#鎌倉食用蛙養殖場|鎌倉食用蛙養殖場]]を始めとする[[岩瀬 (鎌倉市)|岩瀬]]の食用蛙(食用[[ウシガエル]])[[養殖業]]が、[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])の勃発に先立つ欧米諸国の禁輸政策の影響をまともに受けて立ち行かなくなり、急速に衰退する。<br />
<br />
===== 太平洋戦争中 =====<br />
<!--1941年12月8日から1945年9月2日まで--><br />
* [[1942年]](昭和17年)7月 - [[深沢村 (神奈川県)|深沢村]](現在の[[深沢地域]][[梶原 (鎌倉市)|梶原]]・[[寺分 (鎌倉市)|寺分]]付近)にて、[[横須賀海軍工廠深沢分工場]]の着工。<br />
:* 建設の際、「[[泣塔]]」と呼ばれる[[宝篋印塔]]を破却いようとしたところ、地元住民が反対するなか、様々な凶事と変事が立て続けに起こって[[祟り]]が噂されるうちに、当局は計画の微調整を余儀なくされ、塔に手を着けないまま敷地脇に残す形で工事を続けることとなった。<br />
* [[1943年]](昭和18年)10月 - 横須賀海軍工廠深沢分工場の竣工と操業開始。<br />
* [[1945年]](昭和20年)<br />
:* [[1月9日]] - 最初の[[鎌倉空襲]]あり。<br />
<br />
===== 太平洋戦争後 =====<br />
<!--1945年9月3日から--><br />
* [[1945年]](昭和20年)<br />
:* 9月以降 - 京浜女子家政理学専門学校([[鎌倉女子大学]]の前身校)が、[[横浜市]][[神奈川区]]から鎌倉市[[岩瀬 (鎌倉市)|岩瀬]]へ[[キャンパス]]を移転/''cf.'' 1959年、1999年、2003年。<br />
* [[1946年]](昭和21年)5月某日 - [[材木座海岸|材木座]]の天照山[[光明寺 (鎌倉市)|光明寺]]を仮校舎として、[[鎌倉アカデミア]]が開校。<br />
* [[1948年]](昭和23年)<br />
:* [[1月1日]] - 鎌倉市が[[深沢村]]を[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]し、改めて'''鎌倉市(第2次鎌倉市)を発足'''<ref name="県告示458">昭和22年[[12月26日]]、神奈川県告示第458号</ref>。<br />
:* [[6月1日]] - 鎌倉市が[[大船町]]を編入し、改めて'''鎌倉市(第3次鎌倉市)を発足'''<ref name="県告示233">昭和22年[[5月29日]]、神奈川県告示第233号</ref>。これをもって'''[[鎌倉郡]]が消滅する'''。<br />
* [[1951年]](昭和26年)<br />
:* [[6月9日]] - [[旧国宝]]([[重要文化財]])指定物件である[[円覚寺]][[舎利殿]](指定名称:同左)が、[[国宝]](新国宝)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。<br />
:* [[11月17日]] - [[鶴岡八幡宮]][[境内]]にて、[[神奈川県立近代美術館]]鎌倉館の開館。<br />
* [[1952年]](昭和27年)<br />
:* [[3月29日]] - [[旧国宝]]([[重要文化財]])指定物件である、[[鶴岡八幡宮]]所蔵の[[太刀]][[銘文|銘]][[青江派|正恒]](指定名称:太刀 銘正恒 附 糸巻太刀拵)が、[[国宝]](新国宝)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。<br />
:* [[11月3日]] - 鎌倉市[[市章]]の制定。<br />
* [[1953年]](昭和28年)[[11月14日]] - [[旧国宝]]([[重要文化財]])指定物件である[[円覚寺]]の洪鐘(指定名称:[[梵鐘]] 円覚寺鐘)と[[建長寺]]の梵鐘(指定名称:梵鐘 建長寺鐘)が、[[国宝]](新国宝)に指定される<ref name="市-定財覧-20180309" />。<br />
* [[1959年]](昭和34年)<br />
:* 某月某日<!--※4月1日と推定。--> - 京浜女子家政理学専門学校を母体として京浜女子大学([[1989年]]に校名を[[鎌倉女子大学]]に変更)が設立される。<br />
:* [[5月1日]] - [[鶴岡八幡宮]]の[[鳥居]]近くにて、[[鎌倉文士]]達が[[貸本屋]]「[[鎌倉文庫]]」を開店。<br />
* [[1960年]](昭和35年)[[4月28日]] - [[岡本 (鎌倉市)|岡本]]の仏海山[[大船観音寺]]にて、[[大船観音寺#大船観音|大船聖観世音菩薩立像]](大船観音菩薩立像)の[[開眼法要]]<ref name="大船観音寺-史" />/''cf.'' 1929年、1934年。<br />
* [[1961年]](昭和36年)[[10月25日]] - 鎌倉市と[[藤沢市]]の境界に変更あり<ref name="省告示322">[[s:市の境界変更 (昭和36年自治省告示第322号)|同日、自治省告示第322号]]</ref>。<br />
* [[1964年]](昭和39年) - [[円覚寺]]仏殿の再建。<br />
* [[1966年]](昭和41年)<br />
:* [[11月9日]] - 鎌倉市と[[ニース]]市([[フランス]] [[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏]])が[[姉妹都市]]提携の盟約を締結。<br />
:* 某月某日 - [[住居表示]]の際、かつて[[鎌倉御用邸]]のあった地域一帯([[大町 (鎌倉市)|大町]]、[[小町 (鎌倉市)|小町]]、[[扇ガ谷]]の一部)が、その歴史を地名に留めるべく、新町名「[[御成町 (鎌倉市)|御成町]]」を誕生させる。<br />
* [[1967年]](昭和42年)某月某日 - [[岡本 (鎌倉市)|岡本]]にて、[[神奈川県立フラワーセンター大船植物園]]の開園。<br />
* [[1968年]](昭和43年)[[6月16日]] - [[大船駅]]近くで[[横須賀線電車爆破事件]]が発生。<br />
* [[1970年]](昭和45年)[[3月7日]] - [[湘南モノレール江の島線]]の[[大船駅]]-[[西鎌倉駅]]間が開業。<br />
* [[1971年]](昭和46年)<br />
:* [[7月1日]] - [[湘南モノレール江の島線]]の[[西鎌倉駅]]-[[湘南江の島駅]]間が開業し、全線開通。<br />
:* 某月 - [[歴史学者]]・[[竹内理三]]が『[[鎌倉遺文]]』の[[編纂]]に着手/[[1995年]](平成7年)まで25年をかけた。''cf.'' 1995年、2008年。<br />
* [[1972年]](昭和47年)<br />
:* [[3月15日]] - [[七里ガ浜東]]にて、[[下水処理場|下水道終末処理場]]「七里ガ浜浄化センター」の運転開始<ref name="市-汚水-20170418" />。<br />
:* [[5月1日]] - 鎌倉市と[[逗子市]]の境界に変更あり<ref name="省告示111">[[s:市の境界変更 (昭和47年自治省告示第111号)|同年4月20日、自治省告示第111号]]</ref>。<br />
* [[1975年]](昭和50年)[[10月25日]] - [[リンドウ]]を「市の花」に、[[ヤマザクラ]](オオシマザクラを含む)を「市の木」に制定。<br />
* [[1976年]](昭和51年)<br />
:* 某月某日 - [[防災行政無線]]の運用開始/''cf.'' 2010年。<br />
:* 某月某日 - 鎌倉市が、[[岩瀬 (鎌倉市)|岩瀬]]の[[岩瀬下関防災公園#鎌倉食用蛙養殖場|鎌倉食用蛙養殖場]]跡地を地権者より借り受け、[[公園]]「[[岩瀬下関防災公園#いわせ下関青少年広場|いわせ下関青少年広場]]」として整備する。<br />
* [[1979年]](昭和54年)<br />
:* [[1月12日]] - [[鎌倉彫]]が、通商産業大臣指定伝統的工芸品(現・[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]])になる<ref>{{Cite web |url=https://www.kamakurabori-kougeikan.jp/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%BD%AB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ |title=鎌倉彫について |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉彫工芸館 |accessdate=2018-03-26 |ref=鎌倉彫館 }}</ref><ref>{{Cite web |author=鎌倉市市民活動部観光商工課商工担当 |date=2017年2月27日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/shoukou/kamakurabori.html |title=鎌倉彫 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-26 |ref=市-鎌倉彫-20170227 }}</ref>。 <br />
:* [[11月2日]] - 鎌倉市と[[萩市]]([[山口県]])が[[姉妹都市]]提携の盟約を締結。<br />
:* [[11月5日]] - 鎌倉市と[[上田市]]([[長野県]])が姉妹都市提携の盟約を締結。<br />
* [[1982年]](昭和57年)[[4月26日]] - 鎌倉市と[[足利市]]([[栃木県]])が[[姉妹都市]]提携の盟約を締結。<br />
* [[1983年]](昭和58年)某月某日 - 鎌倉ニュージャーマンが[[洋菓子]]「[[鎌倉カスター]]」を発売。<br />
* [[1985年]](昭和60年)[[10月31日]] - [[長谷 (鎌倉市)|長谷]]にて、[[鎌倉文学館]]の開館。<br />
* [[1987年]](昭和62年)[[6月9日]]~10日 - 大船近くのアパートで、[[不動塾事件]]が発生。<br />
<br />
==== 平成時代 ====<br />
* [[1990年]]([[平成]]2年)<br />
:* [[4月12日]] - 鎌倉市の日本飛行機専務宅にて、[[日本飛行機専務宅放火殺人事件]]の発生。<br />
:* [[10月1日]] - [[鎌倉文学館]]が[[鎌倉市指定景観重要建築物]]の第1号となる。<br />
* [[1993年]](平成5年)<br />
:* [[6月1日]] - [[山崎 (鎌倉市)|山崎]]にて、[[下水処理場|下水道終末処理場]]「山崎浄化センター」の運転開始<ref name="市-汚水-20170418" />。<br />
:* 10月某日 - [[大船]]にて、[[鎌倉芸術館]]の開館。<br />
* [[1994年]](平成6年)[[12月24日]] - かまくらFM([[鎌倉エフエム放送]])の開局。<br />
* [[1995年]](平成7年)<br />
:* [[10月10日]] - [[松竹大船撮影所]]の敷地内にて、[[鎌倉シネマワールド]]のグランドオープン/[[松竹]]創立100周年記念事業として。''cf.'' 1996年、1998年。<br />
:* 某月 - 歴史学者・[[竹内理三]]が『[[鎌倉遺文]]』の編纂を終える。<br />
* [[1996年]](平成8年)<br />
:* [[8月4日]] - [[松竹映画]]の看板俳優・[[渥美清]]が死去。これを機に[[鎌倉シネマワールド]]の入場者数が激減し始める。<br />
:* 11月某日 - [[鎌倉七口]]が、[[文化庁]]選定「[[歴史の道百選]]」に「鎌倉街道-七口切通」として選出される。<br />
* [[1998年]](平成10年)[[12月15日]] - 巨額の営業赤字を抱えた[[鎌倉シネマワールド]]が閉鎖。<br />
* [[1997年]](平成9年)某月某日 - 「[[関東の駅百選]]」の第1回選定駅リストに、[[北鎌倉駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]])と[[鎌倉高校前駅]]([[江ノ島電鉄]])が選出される。<br />
* [[1998年]](平成10年)[[9月28日]] - 鎌倉市と[[敦煌市]]([[中華人民共和国|中国]][[甘粛省]])が[[姉妹都市#「姉妹都市」と「友好都市」|友好都市]]提携の盟約を締結。<br />
* [[1999年]](平成11年)<br />
:* [[10月14日]] - 「[[関東の駅百選]]」の第3回選定駅リストに、[[極楽寺駅]]([[江ノ島電鉄]])が選出される。<br />
:* 某月某日 - 閉鎖が決まった[[松竹大船撮影所]]の跡地を[[鎌倉女子大学]]が取得。<br />
* [[2000年]](平成12年)<br />
:* 4月某日 - 鎌倉市が生み出す[[廃棄物]]の焼却処理を担う名越クリーンセンターと今泉クリーンセンターが、発生する焼却残渣の全量の[[溶融スラグ|溶融]]固化処理を開始し、[[最終処分場]]での埋め立てを廃止する<ref name="環境部-20180228" />。<br />
:* [[6月30日]] - [[松竹大船撮影所]]の閉鎖。<br />
:* 某月某日 - 「[[関東の駅百選]]」の第4回選定駅リストに、[[鎌倉駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]。[[江ノ島電鉄]]は選定対象外)が選出される。<br />
* [[2002年]](平成14年)7月某日 - [[稲村ヶ崎]][[海水浴場]]、最後の[[海開き]]/この年を最後に海水浴場の指定から外されたが、原因は[[浸蝕]]による[[砂浜]]の減少であった。<br />
* [[2003年]](平成15年)某月某日 - [[鎌倉女子大学]]が、[[松竹大船撮影所]]跡地を、[[大学院]]・[[大学]]・[[短期大学]]部の大船[[キャンパス]]として使用し始める。<br />
* [[2004年]](平成16年)[[2月27日]] - [[高徳院]][[境内]]一帯(指定名称:鎌倉大仏殿跡)が、国指定[[史跡]]となる<ref name="市-定財覧-20180309" />。<br />
* [[2007年]](平成19年)[[6月17日]] - 鎌倉商工会議所主催の[[ご当地検定]]「[[鎌倉観光文化検定]]」の第1回試験が開催される。<br />
* [[2008年]](平成20年)[[3月31日]] - 『[[鎌倉遺文]]』全46巻の[[CD-ROM]]版が刊行される。<br />
* [[2009年]](平成21年)某月某日 - [[社団法人]][[土木学会]]が、[[小坪隧道]]と[[名越隧道]]([[逗子市]]-鎌倉市間の[[隧道]])を「小坪隧道・名越隧道」名義で、[[土木学会選奨土木遺産|平成21年度選奨土木遺産]]の一つに選定する<ref name="JSCE">{{Cite web |url=https://www.jsce.or.jp/contents/isan/index.html |title=土木学会選奨土木遺産 |work=公式ウェブサイト |publisher=[[社団法人]][[土木学会]] |accessdate=2018-03-23 |ref=JSCE }}</ref>。<br />
* [[2010年]](平成22年)<br />
:* [[1月12日]] - [[防災行政無線]]の夕方の[[チャイム]]([[夕焼け小焼け]]の新音源)の放送開始。<br />
:* [[3月10日]] - [[鶴岡八幡宮]]境内で、強風のために[[鶴岡八幡宮#大銀杏の倒伏|大銀杏が倒伏]]。<br />
:* [[12月24日]] - 鎌倉市役所屋上([[御成町 (鎌倉市)|御成町]]18-10)にて、[[鎌倉テレビ中継局]](鎌倉の[[地上デジタルテレビ放送]][[中継局]])が本放送を開始。<br />
* [[2011年]](平成23年)[[8月1日]] - 鎌倉を貫流する[[滑川 (神奈川県)|滑川]](滑川橋-太刀洗川間)で行われたこの日の調査において、[[ヒメヌマエビ]]の棲息が、[[神奈川県]]で初めて確認される<ref>{{Cite web |author=丸山 智朗([[東京大学]]大学院農学生命科学研究科水域保全学研究室) |date=2012-09-22 |url=http://nh.kanagawa-museum.jp/files/data/pdf/nhr/33/nhr33_041-044_maruyama_s.pdf |title=鎌倉市滑川におけるヒメヌマエビ(節足動物門;十脚目;ヌマエビ科)の記録 |format=PDF |publisher=[[神奈川県立生命の星・地球博物館]] |accessdate=2018-03-23 }}</ref>。<br />
* [[2013年]](平成25年)某月某日 - 社団法人[[土木学会]]が、神奈川県営水道施設群の6施設を、「神奈川県営水道施設群(記念館他)」名義で[[土木学会選奨土木遺産|平成25年度選奨土木遺産]]の一つに選定<ref name="JSCE" />。鎌倉市域にある施設としては「鎌倉配水池」(現・佐助配水池)がこれに含まれる<ref name="JSCE" />。<br />
* [[2014年]](平成26年)某月某日 - 社団法人[[土木学会]]が、[[江ノ島電鉄]]([[藤沢市]]・鎌倉市)を[[土木学会選奨土木遺産|平成26年度選奨土木遺産]]の一つに選定<ref name="JSCE" />。<br />
* [[2015年]](平成27年)[[5月24日]] - [[岩瀬下関防災公園]]の開園/鎌倉市が、2011年(平成23年)に地権を取得した「いわせ下関青少年広場」をの再整備を終え、この日、開園式を執り行う。<br />
* [[2017年]](平成29年)[[5月15日]] - [[扇ガ谷]]にて、[[鎌倉歴史文化交流館]]の開館。<br />
<br />
=== 行政区域の変遷 ===<br />
* [[1878年]](明治11年)[[11月18日]] - [[神奈川県]]で[[郡区町村編制法]]が施行され、近代[[行政区画]]としての[[鎌倉郡]]が発足。<br />
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - 30余りの村があった[[鎌倉]]で[[日本の市町村の廃置分合|村の廃置分合]]が行われたうえで[[町村制|村制]]が施行され、近代[[村#行政村|行政村]]としての[[東鎌倉村]]・[[西鎌倉村]]・腰越津村・[[深沢村 (神奈川県)|深沢村]]・[[小坂村]]・[[玉縄村]]が発足する<ref name="教育委" />。<br />
* [[1894年]](明治27年) - [[東鎌倉村]]と[[西鎌倉村]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|合体(新設合併)]]したうえで[[町村制|町制]]を施行し、'''[[鎌倉町]]を発足する'''<ref name="教育委" />。<br />
* [[1931年]](昭和6年) - 腰越津村が単独で町制を施行し、[[腰越町]]を発足する<ref name="教育委" />。<br />
* [[1933年]](昭和8年)<br />
:* [[2月11日]] - [[小坂村]]が単独で町制を施行し、[[大船町]](第1次大船町)を発足する<ref name="教育委" />。<br />
:* [[4月2日]] - [[大船町]]が[[玉縄村]]を[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]し、改めて大船町(第2次大船町)を発足<ref name="教育委" />。<br />
* [[1939年]](昭和14年)[[11月3日]] - [[鎌倉町]]と[[腰越町]]が合体(新設合併)したうえで[[市制]]を施行し、'''鎌倉市(第1次鎌倉市)を発足する'''<ref>同日、[[内務省 (日本)|内務省]][[告示]]第515号</ref>。<br />
{{Wikisource|村廃止市境界変更 (昭和23年1月17日神奈川県公告)|深沢村を廃し、鎌倉市に編入する件|神奈川県[[公告]]文}}<br />
{{Wikisource|市町村の廃置分合 (昭和23年総理庁告示第139号)|大船町を廃し、鎌倉市に編入する件|[[総理府|総理庁]][[告示]]文}}<br />
* [[1948年]](昭和23年)<br />
:* [[1月1日]] - 鎌倉市が[[深沢村 (神奈川県)|深沢村]]を編入し、改めて'''鎌倉市(第2次鎌倉市)を発足'''<ref name="県告示458" />。<br />
:* [[6月1日]] - 鎌倉市が[[大船町]]を編入し、改めて'''鎌倉市(第3次鎌倉市)を発足'''<ref name="県告示233" />。これをもって[[鎌倉郡]]が消滅する。<br />
* [[1961年]](昭和36年)[[10月25日]] - 鎌倉市と[[藤沢市]]の境界に変更あり<ref name="省告示322" />。<br />
* [[1972年]](昭和47年)[[5月1日]] - 鎌倉市と[[逗子市]]の境界に変更あり<ref name="省告示111" />。<br />
<br />
== 地域 ==<br />
[[ファイル:Yuigahama.JPG|thumb|[[由比ガ浜]]]]<br />
; [[鎌倉地域]]<br />
: [[扇ガ谷]]、[[大町 (鎌倉市)|大町]]、[[御成町 (鎌倉市)|御成町]]、[[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]、[[小町 (鎌倉市)|小町]]、[[材木座]]、[[坂ノ下 (鎌倉市)|坂ノ下]]、[[笹目町]]、[[佐助]]、[[十二所 (鎌倉市)|十二所]]、[[浄明寺]]、[[二階堂 (鎌倉市)|二階堂]]、[[西御門 (鎌倉市)|西御門]]、[[長谷 (鎌倉市)|長谷]]、[[由比ガ浜]]、[[雪ノ下]]、[[稲村ガ崎]]<br />
; [[腰越地域]]<br />
: [[腰越]]、[[七里ヶ浜]]、七里ガ浜東、[[津 (鎌倉市)|津]]、[[津西]]、[[西鎌倉 (大字)|西鎌倉]]<br />
; [[深沢地域]]<br />
: [[梶原 (鎌倉市)|梶原]]、[[鎌倉山]]、[[上町屋]]、[[手広]]、[[寺分 (鎌倉市)|寺分]]、[[常盤 (鎌倉市)|常盤]]、[[笛田 (鎌倉市)|笛田]]、[[山崎 (鎌倉市)|山崎]]<br />
; [[大船地域]]<br />
: [[今泉 (鎌倉市)|今泉]]、[[今泉台]]、[[岩瀬 (鎌倉市)|岩瀬]]、[[大船]]、[[小袋谷]]、[[台 (鎌倉市)|台]](一丁目を除く)、[[高野 (鎌倉市)|高野]]、[[山ノ内 (鎌倉市)|山ノ内]]<br />
; [[玉縄地域]]<br />
: [[植木 (鎌倉市)|植木]]、[[岡本 (鎌倉市)|岡本]]、[[城廻 (鎌倉市)|城廻]]、台一丁目、[[玉縄]]、[[関谷 (鎌倉市)|関谷]]<br />
<br />
== 人口 ==<br />
{{人口統計|code=14204|name=鎌倉市}}<br />
<br />
=== 通勤率と就業者について ===<br />
[[東京都]]特別区部への通勤率は23.5%・[[横浜市]]への通勤率は18.5%である(いずれも平成22年国勢調査)。<br />
<br />
当地に常住する15歳以上就業者は72,820人。うち他市区町村で従業している者は44,730人と、全体の61.4%である。他市区町村への従業先1位は[[東京都]]特別区部の17,093人、2位は[[横浜市]]の13,459人、3位は[[藤沢市]]の4,418人、4位は[[川崎市]]の1,675人、5位は[[横須賀市]]の974人である(平成22年国勢調査による)。<br />
<br />
==隣接している自治体・行政区==<br />
* [[横浜市]]([[栄区]]、[[戸塚区]]、[[金沢区]])<br />
* [[藤沢市]]<br />
* [[逗子市]]<br />
<br />
== 行政 ==<br />
[[鎌倉]]市でも、[[風致地区]]の保存など[[観光資源]]の維持管理には努力しているが、[[関東大震災]]での被害などもあって建築文化財は少ない([[国宝]]建造物は[[円覚寺]]舎利殿1棟のみ)。周辺地域に比べて自然が保存されており、例えば個人の土地の大きな樹を保存するのに市から助成金が出る。[[オムニバスタウン]]の一つでもある。<br />
<br />
市章は、源氏の家紋だったといわれる「[[ササ|笹]][[リンドウ|りんどう]]」。<br />
<br />
=== 現職市長 ===<br />
* [[市町村長|市長]] - [[松尾崇|松尾 崇]](まつお たかし)<br />
::: [[2009年]](平成21年)10月25日初当選(36歳、[[無所属]])<ref name="選挙.com">選挙ドットコム</ref>、11月1日就任<ref name="市-歴長-20150123">{{Cite web |author=経営企画部秘書広報課 |date=2015年1月23日 |url=http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/hisyo/rekidaishichou.html |title=歴代市長 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=市-歴長-20150123 }}</ref>、[[2013年]](平成25年)10月31日退任。同年10月27日再選(40歳、無所属)<ref name="選挙.com" />、11月1日再任<ref name="市-歴長-20150123" />、[[2017年]](平成29年)10月31日退任。同年10月22日再選(44歳、無所属)<ref name="選挙.com" />、11月1日再任。現在は3期目で、[[任期]]満了日は[[2021年]](平成33年)10月31日。<br />
* [[副市町村長|副市長]] - 小礒 一彦(こいそ かずひこ):[[2016年]](平成28年)6月14日初就任<ref>{{Cite news |newspaper=タウンニュース |date=2016年6月24日 |url=https://www.townnews.co.jp/0602/2016/06/24/337617.html |title=3役と副市長が決定 |work= |publisher=株式会社[[タウンニュース社]] |accessdate=2018-03-22 |ref=TN-20160624 }}</ref>。任期満了日は[[2020年]](平成32年)6月13日。<br />
<br />
=== 歴代市長 ===<br />
* 出典1 - {{Cite web |author=選挙管理委員会事務局 |date=2015年10月15日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/senkan/26about_shi.html |title=過去の選挙記録 - 鎌倉市の選挙 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=選管-歴長-20151015 }} ※第21代まで。<br />
* 出典2 - {{Cite web |author=経営企画部秘書広報課 |date=2015年1月23日 |url=http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/hisyo/rekidaishichou.html |title=歴代市長 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=市-歴長-20150123 }} ※第22代まで。<br />
[[首長]]の代数(歴代)の数え方は何種類もあるが、本節では (a)(b) を添える形で書き分けながら解説する。表示欄では「代(a)」「代(b)」という名で2種類を記載した。「代(a)」は、就任のあるたびにカウントする方式に基づく代数であり、「代(b)」は、同一人物による連続就任をカウントしない方式に基づく代数である。鎌倉市は「代(a)」の方式を採っているが(他の例:[[八王子市#歴代市長|八王子市歴代市長]]、[[弘前市#行政|弘前市歴代市長]][http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/rekishi/shuchou/]<!--※歴代の首長-弘前市(公式)-->、[[浜松市#行政|浜松市歴代市長]][http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hisho/intro/101_01d.html]<!--※歴代市長-浜松市(公式)-->)、「代(b)」の方式を採る自治体も多く(例:[[京都市#歴代市長|京都市歴代市長]][http://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000033357.html]<!--※歴代市長-京都市情報館(京都市公式)-->、[[大垣市#行政|大垣市歴代市長]][http://www.city.ogaki.lg.jp/0000000749.html]<!--※歴代市長-大垣市(公式)-->)、(a) と (b) の違いを認識しないまま単純に比較すると誤解が生まれる。なお、返り咲きがあろうとも同一人物を1カウントとする方式もあるが、鎌倉市にこれを当てはめると (b) の代数から 1 が引かれる。<br />
<br />
{|class="wikitable" style="width:100%"<br />
! style="background-color:#52b8b8; width:3%" | 代(a) !! style="background-color:#52b8b8; width:3%" | 代(b) !! style="background-color:lightblue; width:13%" | 氏名 !! style="background-color:#52b8b8; width:27%" | 就任年月日 !! style="background-color:lightblue; width:27%" | 退任年月日 !! style="background-color:#aad" | 備考<br />
|-<br />
| <center>1 || <center>1 || <center>{{Ruby|[[清川来吉|清川 來吉]]|きよかわ らいきち}} || [[1940年]]([[昭和]]15年)[[4月9日]] || 1940年(昭和15年)11月16日 || <small>[[1939年]](昭和14年)[[11月3日]]、鎌倉市が発足。市長が選出されて就任するまでの間は、市長[[権限#権限の代行|職務代行者]]が置かれるが、旧[[市町村の合併の特例に関する法律|合併特例法]]に基づく特例事項で[[都道府県知事]]等もしくは施行前の[[首長]]がこれを務める。鎌倉市の係る資料は確認できないが、おそらく旧[[鎌倉町]]長・清川來吉が務めた。その後、清川が選出され、初代市長に就任した。<br />
|-<br />
| <center>2 || rowspan="2" | <center>2 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[鈴木富士彌|鈴木 富士彌]]|すずき ふじや}} || 1940年(昭和15年)12月24日 || [[1944年]](昭和19年)12月23日 || <small>1期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>3 || 1944年(昭和19年)12月24日 || 1945年(昭和20年)12月10日 || <small>2期目の1周年を目前に体調を崩して辞任か。辞任のおよそ1か月後に死亡している。<br />
|-<br />
| <center>4 || rowspan="2" | <center>3 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[磯部利右衛門|磯部 利右衛門]]|いそべ りえもん}} || 1946年(昭和21年)1月25日 || [[1947年]](昭和22年)3月25日 || <small>[[無所属]]。1期4年を満了せず。<br />
|-<br />
| <center>5 || 1947年(昭和22年)4月5日 || [[1951年]](昭和26年)4月4日 || <small>無所属。1期分4年を満了。<br />
|-<br />
| <center> 6 || <center>4 || <center>{{Ruby|[[草間時光|草間 時光]]|くさま ときみつ}} || 1951年(昭和26年)4月24日 || [[1955年]](昭和30年)4月23日 || <small>無所属。1期4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>7 || <center>5 || <center>磯部 利右衛門 || 1955年(昭和30年)5月1日 || [[1958年]](昭和33年)7月17日 || <small>無所属。在任中に死亡<ref name="市-歴長-20130507">{{Cite web |date=2013年5月7日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/qa/gyousei/gyousei0005.html |title=歴代市長について知りたい。|work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=市-歴長-20130507 }}</ref>。<br />
|-<br />
| <center>8 || rowspan="3" | <center>6 || rowspan="3" | <center>{{Ruby|[[山本正一|山本 正一]]|やまもと しょういち}} || 1958年(昭和33年)9月3日 || [[1962年]](昭和37年)8月29日 || <small>[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]。1期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>9 || 1962年(昭和37年)8月30日 || [[1966年]](昭和41年)9月2日 || <small>自由民主党。2期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>10 || 1966年(昭和41年)9月3日 || [[1970年]](昭和45年)9月2日 || <small>自由民主党。3期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>11 || rowspan="2" | <center>7 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[正木千冬|正木 千冬]]|まさき ちふゆ}} || 1970年(昭和45年)9月3日 || [[1974年]](昭和49年)9月2日 || <small>鎌倉市民連合。1期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>12 || 1974年(昭和49年)9月3日 || [[1978年]](昭和53年)9月2日 || <small>鎌倉市民連合。2期目4年を満了。3選を目指すも落選。<br />
|-<br />
| <center>13 || <center>8 || <center>{{Ruby|渡辺 隆|わたなべ たかし}} || 1978年(昭和53年)9月3日 || [[1981年]](昭和56年)9月10日 || <small>無所属。在任中に病死<ref name="市-歴長-20130507" />。<br />
|-<br />
| <center>14 || <center>9 || <center>{{Ruby|[[小島寅雄|小島 寅雄]]|こじま とらお}} || 1981年(昭和56年)11月1日 || [[1985年]](昭和60年)10月31日 || <small>無所属。1期4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>15 || rowspan="2" | <center>10 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[中西功 (鎌倉市長)|中西 功]]|なかにし いさお}} || 1985年(昭和60年)11月1日 || [[1989年]](平成元年)10月31日 || <small>無所属。1期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>16 || 1989年(平成元年)11月1日 || [[1993年]](平成5年)10月31日 || <small>無所属。2期目4年を満了。3選を目指すも落選。<br />
|-<br />
| <center>17 || rowspan="2" | <center>11 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[竹内謙|竹内 謙]]|たけうち けん}} || 1993年(平成5年)11月1日 || [[1997年]](平成9年)10月31日 || <small>鎌倉を愛する市民の会。1期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>18 || 1997年(平成9年)11月1日 || [[2001年]](平成13年)10月31日 || <small>無所属。2期目4年を満了。3選は目指さず。<br />
|-<br />
| <center>19 || rowspan="2" | <center>12 || rowspan="2" | <center>{{Ruby|[[石渡徳一|石渡 德一]]|いしわた とくかず}} || 2001年(平成13年)11月1日 || [[2005年]](平成17年)10月31日 || <small>2001年(平成13年)10月21日、48歳で初当選<ref name="選挙.com" />。無所属。1期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>20 || 2005年(平成17年)11月1日 || [[2009年]](平成21年)10月31日 || <small>無所属。2期目4年を満了。3選は目指さず。<br />
|-<br />
| <center>21 || rowspan="3" | <center>13 || rowspan="3" | <center>{{Ruby|[[松尾崇|'''松尾 崇''']]|まつお たかし}} || 2009年(平成21年)11月1日 || [[2013年]](平成25年)10月31日 || <small>2009年(平成21年)10月25日、36歳で初当選<ref name="選挙.com" />。無所属。1期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>22 || 2013年(平成25年)11月1日 || [[2017年]](平成29年)10月31日 || <small>無所属。2期目4年を満了。<br />
|-<br />
| <center>'''23''' || 2017年(平成29年)11月1日 || <center>'''( 現 職 )''' || <small>無所属。現在は3期目で、任期満了日は[[2021年]](平成33年)10月31日。<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
=== 不祥事等 ===<br />
* [[1970年]](昭和45年)に革新市長・[[正木千冬]]が誕生すると、勧奨退職金の最高額を90ヶ月分から130ヶ月分にまで大幅にアップした<ref>“役所天国・鎌倉市”お手盛り給与「わたり」 市議会から「即時廃止」迫られ「組合」熾烈防戦 産経新聞 2014年10月27日</ref>。これを受けて、[[1980年代]]には市職員が各省事務次官をしのぐ5千万円以上の高額退職金をもらう事例が続出し、「退職金日本一のお役所天国」と揶揄された。<br />
* [[2012年]](平成24年)4月頃から2年間にわたり、市役所の生活福祉課の[[生活保護]]相談窓口の前に棚や衝立などを設置し、窓口を利用できない状態にしていたことが発覚した<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/78832 鎌倉市の生活保護申請窓口についたて 2年以上 外部指摘で撤去] - [[神奈川新聞|カナロコ]]、2014年7月1日</ref><ref>[http://apital.asahi.com/article/news/2014070200005.html ふさがれた生活保護窓口 鎌倉市「棚置く場所なく」] - [[朝日新聞]]、2014年7月2日</ref>。隣の窓口で生活保護相談を受け付ける旨の表示はあったが、同課を訪れた市民が窓口で引き返した例もあり、支援団体からの指摘を受けて窓口を再開した。[[松尾崇]]市長は[[ツイッター]]上で本件について謝罪した<ref>[https://twitter.com/takashi_matsuo/status/484511988324651008 2014年7月3日のツイート]</ref>。<br />
<br />
=== 市役所等 ===<br />
==== 市役所 ====<br />
* 鎌倉市役所 - [[御成町 (鎌倉市)|御成町]]18-10に所在。<br />
:* 深沢支所 - [[常盤 (鎌倉市)|常盤]]111-3に所在。<br />
:* 腰越支所 - [[腰越]]864に所在。<br />
:* 大船支所 - [[大船]]2-1-26に所在。<br />
<br />
==== 税務署 ====<br />
* 鎌倉税務署 - [[佐助]]1-9-30に所在。管轄区域は、鎌倉市、[[逗子市]]、[[三浦郡]][[葉山町]]。<br />
<br />
==== 他の市民サービス施設 ====<br />
{{Main|鎌倉市図書館}}<br />
:* 鎌倉市中央図書館 - [[御成町 (鎌倉市)|御成町]]20-35に所在。<br />
:* 鎌倉市大船図書館 - [[大船]]2-1-26に所在。<br />
:* 鎌倉市玉縄図書館 - [[岡本 (鎌倉市)|岡本]]2-16-3に所在。<br />
:* 鎌倉市深沢図書館 - [[常盤 (鎌倉市)|常盤]]111-3に所在。<br />
:* 鎌倉市腰越図書館 - [[腰越]]864に所在。<br />
* [[鎌倉歴史文化交流館]] - [[扇ガ谷]]1-5-1に所在。<br />
<br />
=== 警察 ===<br />
* [[鎌倉警察署]] - [[由比ガ浜]]2-11-26に所在。[[神奈川県警察]][[神奈川県警察#第六方面|第六方面]][[警察署]]の一つ。管轄区域は、鎌倉市南部。<br />
:* [[交番]] - [[鎌倉駅]]前交番など、9ヶ所。<br />
:* [[駐在所]] - 6ヶ所。<br />
* [[大船警察署]] - [[大船]]1709-2に所在。神奈川県警察第六方面警察署の一つ。管轄区域は、鎌倉市北部。<br />
:* 交番 - [[大船駅]]前交番など、4ヶ所。<br />
:* 駐在所 - 今泉駐在所のみ。<br />
<br />
=== 消防・防災・救急救命 ===<br />
* [[鎌倉市消防本部]] - [[大船]]3-5-10に所在。管轄区域は、鎌倉市全域。<br />
:* 鎌倉消防署 - [[由比ガ浜]]4-1-10に所在。<br />
::* 腰越出張所 - [[腰越]]4-9-12に所在。<br />
::* 深沢出張所 - [[手広]]1-16-12に所在。<br />
::* 浄明寺出張所 - [[浄明寺]]6-2-7に所在。<br />
::* 七里ガ浜出張所 - [[七里ガ浜東]]1-2-5に所在。<br />
:* 大船消防署 - 大船3-5-10に所在。<br />
::* 玉縄出張所 - [[玉縄]]2-5-2に所在。<br />
::* 今泉出張所 - [[今泉 (鎌倉市)|今泉]]2-4-25に所在。<br />
* 鎌倉市[[消防団]] - 事務所は鎌倉市消防本部消防総務課に所在<ref name="FDMA-20160401">{{Cite web |date=2016年(平成28年)4月1日 |url=http://www.fdma.go.jp/syobodan/search/pdf/kanagawa/32.pdf |title=鎌倉市消防団 - 消防団の組織概要 |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=[[総務省]][[消防庁]] |accessdate=2018-03-22 |ref=FDMA-20160401 }}</ref>。全28分団、[[鎌倉]]地区11分団、[[深沢地域|深沢地区]]6分団、[[大船]]地区10分団(2016年時点)<ref name="FDMA-20160401" />。女性団員数は2人と少ない(2016年時点)<ref name="FDMA-20160401" />。<br />
<br />
=== 水道事業 ===<br />
; [[上水道]]<br />
* 鎌倉水道営業所 - [[御成町 (鎌倉市)|御成町]]12-18に所在。管轄区域は、鎌倉市、[[逗子市]]、[[三浦郡]][[葉山町]]([[湘南国際村]]を除く)の全域。<ref>{{Cite web |author=企業局水道部水道施設課 |date=2018年3月14日 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/div/3112/ |title=鎌倉水道営業所 |work=公式ウェブサイト |publisher=神奈川県 |accessdate=2018-03-22 |ref=県-鎌水営-20180314 }}</ref><br />
; [[下水道]]<br />
* 山崎浄化センター - [[山崎 (鎌倉市)|山崎]]354-2に所在。[[大船]]、[[今泉 (鎌倉市)|今泉]]、[[玉縄]]、[[植木 (鎌倉市)|植木]]などの地域の[[汚水]]を処理するための[[下水処理場|下水道終末処理場]]。放流先水域は、山崎川雨水幹線。1993年(平成5年)6月1日運転開始。<ref name="市-汚水-20170418">{{Cite web |date=2017年4月18日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kurashi/suidou/osui_jigyou/joukacenter/index.html |title=浄化センター - 上下水道 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=市-汚水-20170418 }}</ref><br />
* 七里ガ浜浄化センター - [[七里ガ浜東]]5-3-1に所在。鎌倉旧市街、[[七里ガ浜]]、[[腰越]]、[[西鎌倉]]などの地域の汚水を処理するための下水道終末処理場。放流先水域は、七里ガ浜雨水幹線([[行合川]])。1972年(昭和47年)3月15日運転開始。<ref name="市-汚水-20170418" /><br />
<br />
=== 清掃事業 ===<br />
; 清掃<br />
* 名越クリーンセンター - [[大町 (鎌倉市)|大町]]5-11-16に所在。<ref name="環境部-20180223">{{Cite web |author= |date=2018年2月23日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/shisei/soshikiannai/kankyou.html |title=環境部 |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=環境部-20180223 }}</ref><ref name="環境部-20180228">{{Cite web |author=環境部 |date=2018年2月28日 |url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kurashi/gomi/shorishisetsu/index.html |title=処理施設 - ごみ・リサイクル |work=公式ウェブサイト |publisher=鎌倉市 |accessdate=2018-03-22 |ref=環境部-20180228 }}</ref><br />
* 今泉クリーンセンター - [[今泉 (鎌倉市)|今泉]]4-1-1に所在。<br />
* 深沢クリーンセンター - [[笛田 (鎌倉市)|笛田]]3-24-1に所在。<br />
* 笛田リサイクルセンター - 笛田1-11-34に所在。<br />
; [[最終処分場|最終処分]]<br />
名越クリーンセンターと今泉クリーンセンターから発生する焼却残渣は、2000年(平成12年)4月以降は全量を[[溶融スラグ|溶融]]固化処理を行っており、最終処分場での埋め立ては行われなくなった<ref name="環境部-20180228" />。<br />
* 一般廃棄物最終処分場 - [[関谷 (鎌倉市)|関谷]][[字]]島ノ神1522-1外に所在。<ref name="環境部-20180223" /><ref name="環境部-20180228" /><br />
<br />
=== 姉妹都市等 ===<br />
* {{Flagicon|FRA}} [[ニース]]市([[フランス]] [[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏]]) - [[1966年]](昭和41年)[[11月9日]]、[[姉妹都市]]提携の盟約締結。<br />
* {{Flagicon|JPN}} [[萩市]]([[山口県]]) - [[1979年]](昭和54年)[[11月2日]]、姉妹都市提携の盟約締結。<br />
* {{Flagicon|JPN}} [[上田市]]([[長野県]]) - 1979年(昭和54年)[[11月5日]]、姉妹都市提携の盟約締結。<br />
* {{Flagicon|JPN}} [[足利市]]([[栃木県]]) - [[1982年]](昭和57年)[[4月26日]]、姉妹都市提携の盟約締結。<br />
* {{Flagicon|CHN}} [[敦煌市]]([[中華人民共和国|中国]][[甘粛省]]) - [[1998年]](平成10年)[[9月28日]]、[[姉妹都市#「姉妹都市」と「友好都市」|友好都市]]提携の盟約締結。<br />
<br />
== 立法 ==<br />
=== 市議会 ===<br />
{{Main|鎌倉市議会}}<br />
* 定数:26名<br />
* 任期:2013年(平成25年)5月15日 - 2017年(平成29年)5月14日<br />
* 議長:中沢克之(公正と法、2期)<br />
* 副議長:久坂くにえ(みんなの鎌倉、3期)<br />
* 2期での議長が誕生した。<br />
{|class="wikitable"<br />
!会派名!!議席数!!議員名(◎は代表)<br />
|-<br />
|鎌倉夢プロジェクトの会||style="text-align:right"|4||◎髙橋浩司、日向慎吾、永田磨梨奈、小野田康成<br />
|-<br />
|みんなの鎌倉||style="text-align:right"|4||◎渡辺隆{{efn|13代目市長と同姓同名であるが別人である。}}、河村琢磨、久坂くにえ、中村聡一郎<br />
|-<br />
|公明党鎌倉市議会議員団||style="text-align:right"|3||◎大石和久、西岡幸子、納所輝次<br />
|-<br />
|鎌倉みらい||style="text-align:right"|3||◎池田実、前川綾子、山田直人<br />
|-<br />
|公正と法||style="text-align:right"|3||◎上畠寛弘([[自由民主党 (日本)|自由民主党]])、長嶋竜弘、中澤克之(自由民主党)<br />
|-<br />
|[[日本共産党]]鎌倉市議会議員団||style="text-align:right"|2||◎赤松正博、吉岡和江<br />
|-<br />
|神奈川ネットワーク運動・鎌倉||style="text-align:right"|2||◎三宅真里、保坂令子 <br />
|-<br />
|[[無所属]]||style="text-align:right"|8||千一、竹田ゆかり、渡邊昌一郎 (自由民主党)、松中健治<br />
|}<br />
※ :2016年(平成28年)5月26日現在。<br />
<br />
※ 政党名を冠する会派以外の議員のうち、市議会議員選挙時に政党公認であった議員はカッコつきで政党名を付した。<br />
<br />
=== 神奈川県議会(鎌倉市選挙区) ===<br />
* 定数:2名(欠員1)<br />
* 任期:2015年(平成23年)4月30日 - 2019年(平成31年)4月29日<br />
{|class="wikitable"<br />
!氏名!!会派名<br />
|-<br />
|[[中村省司]]||自由民主党神奈川県議会議員団 → 神奈川絆の会<br />
|}<br />
※2017年(平成29年)10月25日現在<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/137787 中村氏離団一人会派に] 2015/12/03 神奈川新聞</ref><br />
<br />
=== 衆議院 ===<br />
* 選挙区:[[神奈川県第4区]]<br />
* 任期:2017年(平成29年)10月22日 - 2021年(平成33年)10月21日<br />
{|class="wikitable"<br />
!議員名!!党派名!!当選回数!!備考<br />
|-<br />
|[[早稲田夕季]]||[[立憲民主党 (日本)|立憲民主党]]||align="center"|1||選挙区<br />
|-<br />
|[[山本朋広]]||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]||align="center"|4||比例復活<br />
|}<br />
<br />
== 司法 ==<br />
=== 裁判所 ===<br />
* [[東京高等裁判所]] 管轄区域<br />
* [[横浜地方裁判所]] 管轄区域<br />
* [[横浜家庭裁判所]] 管轄区域<br />
* [[鎌倉簡易裁判所]] - 由比ガ浜2-23-22に所在。<br />
<br />
=== 検察庁 ===<br />
* 鎌倉区検察庁 - [[横浜地方検察庁]]管内[[検察庁]](本庁)の一つで、事務所は横浜地方検察庁本庁舎([[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]日本大通9)内に所在。管轄区域は、鎌倉市、横浜市([[戸塚区]]、[[栄区]]、[[泉区 (横浜市)|泉区]])。<br />
<br />
== 医療 ==<br />
[[医療法#医療提供施設|医療提供施設]]は特筆性の高いもののみを記載する。急患診療所以外の医療提供施設の記載順は「[[#地域]]」節の記載順を基準としている。<br />
; 一次医療圏<br />
[[ファイル:Shonan Kamakura General Hospital3.jpg|thumb|[[湘南鎌倉総合病院]]]]<br />
* 鎌倉市医師会休日夜間急患診療所 - [[材木座]]3-5-35に所在。<br />
* 額田記念病院 - [[総合病院]]。[[大町 (鎌倉市)|大町]]4-6-6に所在。<br />
* 清川病院 - 総合病院。[[救急指定病院]]([[輪番]]制)。[[小町 (鎌倉市)|小町]]2-13-7に所在。<br />
* 鎌倉ヒロ病院 - 救急指定病院(輪番制)。材木座1-7-22に所在。<br />
* 鎌倉病院 - 救急指定病院(輪番制)。[[長谷 (鎌倉市)|長谷]]3-1-8に所在。<br />
* 医療法人社団 南浜会 鈴木病院 - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。[[腰越]]1-1-1に所在。<br />
* 湘南記念病院 - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。[[笛田 (鎌倉市)|笛田]]2-2-60に所在。<br />
* 大船中央病院 - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。[[大船]]6-2-24に所在。<br />
* [[湘南鎌倉総合病院]] - 総合病院。救急指定病院(鎌倉市唯一の[[救命救急センター]])。[[岡本 (鎌倉市)|岡本]]1370-1に所在。<br />
; 広域医療圏<br />
鎌倉市が属する広域[[医療計画#医療圏|医療圏]]は、二次医療圏(二次保健医療圏)としては「横須賀・三浦医療圏(横須賀・三浦保健医療圏)」(管轄区域:[[横須賀市]]、鎌倉市、[[逗子市]]、[[三浦市]]、[[葉山町]])<ref name="JMAP-2015">{{Cite web |date=2015年 |url=http://jmap.jp/cities/detail/medical_area/1406 |title=横須賀・三浦医療圏 |work=JMAP(公式ウェブサイト) |publisher=[[日本医師会]] |accessdate=2018-03-25 |ref=JMAP-2015 }}</ref><ref>{{Cite web |author=神奈川県保健福祉局保健医療部医療課 |date=2015年8月17日 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f533183/p950707.html |title=平成26年度 二次保健医療圏別(横須賀・三浦圏域)の医療機能ごとの病床の状況 |work=公式ウェブサイト |publisher=神奈川県 |accessdate=2018-03-25 |ref=県-2次医圏-20150817 }}</ref><ref>{{Cite web |author=神奈川県保健福祉局保健医療部医療課 |date=2017年6月26日 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/573948.pdf |title=II 各二次保健医療圏・政令市の課題と施策の方向性 - 神奈川県保健医療計画 |format=PDF |work=公式ウェブサイト |publisher=神奈川県 |accessdate=2018-03-25 |ref=県-2次医圏-20170626 }}</ref>である。三次医療圏は「神奈川県医療圏」(管轄区域:神奈川県全域)。<br />
<br />
== 郵便事業 ==<br />
[[ファイル:Kamakura post-office.jpg|thumb|[[鎌倉郵便局]]]]<br />
[[ファイル:Ofuna Post Office.JPG|thumb|[[大船郵便局]]]]<br />
<!--※記載順は「地域」節を基準にしました。--><br />
* [[鎌倉郵便局]] - [[小町 (鎌倉市)|小町]]1-10-3に所在。<br />
* 鎌倉材木座郵便局 - [[材木座]]3-17-30に所在。<br />
* 鎌倉浄明寺郵便局 - [[浄明寺]]3-2-20に所在。<br />
* 鎌倉長谷郵便局 - [[長谷 (鎌倉市)|長谷]]1-15-11に所在。<br />
* 鎌倉由比ヶ浜郵便局 - [[由比ガ浜]]3-9-45に所在。<br />
* 鎌倉雪ノ下郵便局 - [[雪ノ下]]1-10-6に所在。<br />
* 鎌倉稲村ガ崎郵便局 - [[稲村ガ崎]]1-15-18に所在。<br />
* 腰越郵便局 - [[腰越]]3-1-23に所在。<br />
* 鎌倉津西郵便局 - [[津西]]1-1-14に所在。<br />
* 西鎌倉郵便局 - [[西鎌倉]]1-3-4に所在。<br />
* 鎌倉梶原郵便局 - [[梶原 (鎌倉市)|梶原]]2-34-8に所在。<br />
* 深沢郵便局 - [[常盤 (鎌倉市)|常盤]]60-3に所在。<br />
* 鎌倉手広郵便局 - [[笛田 (鎌倉市)|笛田]]1-8-4に所在。<br />
* 鎌倉今泉台郵便局 - [[今泉 (鎌倉市)|今泉台]]4-19-17に所在。<br />
* 大船ルミネウィング内郵便局 - [[大船]]1−4−1 大船ルミネウィング内に所在。<br />
* [[大船郵便局]] - 大船2-20-23に所在。<br />
* 鎌倉大船三郵便局 - 大船3-15-29に所在。<br />
* 鎌倉台郵便局 - [[台 (鎌倉市)|台]]3-11-21に所在。<br />
* 鎌倉小坂郵便局 - [[山ノ内 (鎌倉市)|山ノ内]]739に所在。<br />
* 鎌倉植木郵便局 - [[植木 (鎌倉市)|植木]]580に所在。<br />
* 鎌倉岡本郵便局 - [[岡本 (鎌倉市)|岡本]]2-12-4に所在。<br />
<br />
== 教育 ==<br />
=== 小学校 ===<br />
;公立<br />
{{Col-begin}}<br />
{{Col-break}}<br />
* [[鎌倉市立第一小学校]]<br />
* 鎌倉市立第二小学校<br />
* 鎌倉市立大船小学校<br />
* [[鎌倉市立稲村ケ崎小学校]]<br />
* 鎌倉市立関谷小学校<br />
* [[鎌倉市立玉縄小学校]]<br />
{{Col-break}}<br />
* [[鎌倉市立御成小学校]]<br />
* [[鎌倉市立腰越小学校]]<br />
* 鎌倉市立今泉小学校<br />
* 鎌倉市立山崎小学校<br />
* 鎌倉市立七里ガ浜小学校<br />
{{Col-break}}<br />
* 鎌倉市立小坂小学校<br />
* 鎌倉市立植木小学校<br />
* 鎌倉市立深沢小学校<br />
* [[鎌倉市立西鎌倉小学校]]<br />
* 鎌倉市立富士塚小学校<br />
{{Col-end}}<br />
;国立<br />
* [[横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校]](旧神奈川師範学校跡地)<br />
;私立<br />
* [[清泉小学校]]<br />
* [[鎌倉女子大学初等部]]<br />
<br />
=== 中学校 ===<br />
;公立<br />
{{Col-begin}}<br />
{{Col-break}}<br />
* 鎌倉市立第一中学校<br />
* 鎌倉市立第二中学校<br />
* 鎌倉市立大船中学校<br />
{{Col-break}}<br />
* 鎌倉市立岩瀬中学校<br />
* 鎌倉市立玉縄中学校<br />
* 鎌倉市立御成中学校<br />
{{Col-break}}<br />
* 鎌倉市立腰越中学校<br />
* 鎌倉市立手広中学校<br />
* 鎌倉市立深沢中学校<br />
{{Col-end}}<br />
;国立<br />
* [[横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校]]<br />
;私立<br />
{{Col-begin}}<br />
{{Col-break}}<br />
* [[栄光学園中学校・高等学校|栄光学園中学校]]<br />
* [[鎌倉学園中学校・高等学校|鎌倉学園中学校]]<br />
{{Col-break}}<br />
* [[鎌倉女学院中学校・高等学校|鎌倉女学院中学校]]<br />
* [[鎌倉女子大学中等部・高等部|鎌倉女子大学中等部]]<br />
{{Col-break}}<br />
* [[清泉女学院中学高等学校|清泉女学院中学校]]<br />
* [[北鎌倉女子学園中学校・高等学校|北鎌倉女子学園中学校]]<br />
{{Col-end}}<br />
<br />
=== 高等学校 ===<br />
;公立<br />
* [[神奈川県立鎌倉高等学校]]<br />
* [[神奈川県立七里ガ浜高等学校]]<br />
* [[神奈川県立深沢高等学校]]<br />
* [[神奈川県立大船高等学校]]<br />
;私立<br />
* [[栄光学園中学校・高等学校|栄光学園高等学校]]<br />
* [[鎌倉学園中学校・高等学校|鎌倉学園高等学校]]<br />
* [[鎌倉女学院中学校・高等学校|鎌倉女学院高等学校]]<br />
* [[鎌倉女子大学中等部・高等部|鎌倉女子大学高等部]]<br />
* [[清泉女学院中学高等学校|清泉女学院高等学校]]<br />
* [[北鎌倉女子学園中学校・高等学校|北鎌倉女子学園高等学校]]<br />
<br />
=== 特別支援学校 ===<br />
* [[神奈川県立鎌倉養護学校]]<br />
<br />
=== 大学・短期大学 ===<br />
* [[鎌倉女子大学|鎌倉女子大学・短期大学部]]<br />
: 鎌倉市では、「鎌倉市奨学金制度」という[[奨学金]]制度がある。<br />
<br />
== 情報・通信 ==<br />
鎌倉市は三方を山に囲まれているため市外からの電波が入りにくく、[[古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法|古都保存法]]によって新たな中継局設置も困難なことから、[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]の難視聴世帯が多く発生すると見られている。これに対し、市では[[ケーブルテレビ]]による解決を図っている<ref>{{Cite web<br />
|url = http://www.townnews.co.jp/020area_page/03_fri/01_kama/2009_3/07_10/kama_top2.html<br />
|title = 2011年7月24日 地デジ移行・7,000世帯が受信困難か<br />
|publisher = [[タウンニュース]]<br />
|accessdate = 2010-03-10 }}{{deadlink|date=2018-03}}</ref>。<br />
<br />
=== 放送事業者 ===<br />
* [[J:COM 鎌倉]]([[ケーブルテレビ]])<br />
;ラジオ放送<br />
* [[鎌倉エフエム放送]]([[コミュニティ放送]])<br />
<br />
== 交通 ==<br />
鎌倉市の交通については、鉄道は市の規模に対して充実している反面、道路については地形の特性上行き止まりが多く、交通は限られた路線に集中する上、幅員も狭く歩行者・自動車の分離も不十分でかつ計画[[道路整備率]]が県内平均に劣っていることなど、交通安全上・渋滞面で課題を抱えており、特に休日や海水浴シーズンには市内各所で激しく渋滞する。バス路線は地域内を網羅しサービス水準は高いものの、前述の道路面の課題に影響され定時性の確保が課題となっている<ref>鎌倉市都市マスタープラン「III部門別方針 5 交通システム整備の方針 1現況と課題」[http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/plan/masterplan_plan_3syou_3-5_5home.html]</ref>。<br />
<br />
この道路渋滞を少しでも緩和するため駐車上の整備とともに[[パークアンドライド]]が2001年度から本格実施されている。<br />
<br />
また、参拝客が集中する年末年始にかけては市内中心部(いわゆる[[鎌倉]])を中心に大規模な交通規制が実施される。<br />
<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[東日本旅客鉄道]] - ほとんどの列車が[[大船駅]]から[[東京駅]]方面へ直通しており、[[成田空港駅]]へ直通の特急列車もある。また[[湘南新宿ライン]]経由で[[新宿駅]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[小山駅]]・[[宇都宮駅]]方面にも直通している。また[[鎌倉車両センター]]もある。<!--また[[鎌倉総合車両センター]]もある。(工場設備は2006年に閉鎖)--><br />
** [[横須賀線]]<br />
*** - [[大船駅]] - [[北鎌倉駅]] - [[鎌倉駅]] -<br />
** [[東海道本線]]<br />
*** - 大船駅 -<br />
** [[根岸線]]([[京浜東北線]])<br />
*** 大船駅 -<br />
* [[湘南モノレール]]<br />
** [[湘南モノレール江の島線|江の島線]]<br />
*** 大船駅 - [[富士見町駅 (神奈川県)|富士見町駅]] - [[湘南町屋駅]] - [[湘南深沢駅]] - [[西鎌倉駅]] - [[片瀬山駅]] -<br />
[[ファイル:Enoden-New500-Romen.JPG|thumb|240px|江ノ電]]<br />
* [[江ノ島電鉄]](江ノ電)<br />
** [[江ノ島電鉄線]]<br />
*** - [[腰越駅]] - [[鎌倉高校前駅]] - [[七里ヶ浜駅]] - [[稲村ヶ崎駅]] - [[極楽寺駅]] - [[長谷駅 (神奈川県)|長谷駅]] - [[由比ヶ浜駅]] - [[和田塚駅]] - 鎌倉駅<br />
* 中心となる駅:鎌倉駅<br />
<br />
=== バス ===<br />
[[オムニバスタウン]]政策をとっていることもあり、[[コミュニティバス]]の普及も見られる。<br />
* [[京浜急行バス]]・湘南京急バス<br />
** [[京浜急行バス鎌倉営業所|鎌倉営業所]]<br />
* [[江ノ島電鉄]]・江ノ電バス藤沢・江ノ電バス横浜<br />
** [[江ノ電バス藤沢・手広営業所|手広営業所]]・[[江ノ電バス横浜・鎌倉営業所|鎌倉営業所]]<br />
* [[神奈川中央交通]]・神奈川中央交通東<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* 最寄りの[[有料道路]]<!--横浜新道は高速道路ではありません--><br />
** [[横浜横須賀道路]] : [[朝比奈インターチェンジ|朝比奈IC]](横浜市金沢区)<br />
** [[横浜新道]] : [[戸塚終点]](横浜市戸塚区)<br />
[[ファイル:Mt. Fuji from Inamuragasaki.jpg|thumb|国道134号]]<br />
* [[一般国道]]<br />
** [[国道134号]]<br />
* [[都道府県道]]<br />
** [[神奈川県道21号横浜鎌倉線]]<br />
** [[神奈川県道23号原宿六ツ浦線]]<br />
** [[神奈川県道32号藤沢鎌倉線]]<br />
** [[神奈川県道203号大船停車場矢部線]]<br />
** [[神奈川県道204号金沢鎌倉線]]<br />
** [[神奈川県道301号大船停車場線]]<br />
** [[神奈川県道302号小袋谷藤沢線]]<br />
** [[神奈川県道303号鎌倉停車場線]]<br />
** [[神奈川県道304号腰越大船線]]<br />
** [[神奈川県道311号鎌倉葉山線]]<br />
** [[神奈川県道312号田谷藤沢線]]<br />
** [[神奈川県道402号阿久和鎌倉線]]<br />
<br />
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==<br />
以下に主要な名所などを掲げる。なお、鎌倉の歴史的建造物群には「[[武家の古都・鎌倉]]」として、[[世界遺産#暫定リスト|日本の世界遺産暫定リスト]]に登録されているものがある。<br />
<!-- 主要な施設のみを記載しています。無節操に追加するのは迷惑なのでお止めください --><br />
[[ファイル:Syakadou kiridoushi.jpg|thumb|釈迦堂切通し/浄明寺側より望む。通行禁止前]]<br />
[[ファイル:円覚寺正読院.JPG|thumb|円覚寺舎利殿/[[国宝]]]]<br />
* [[鶴岡八幡宮]]<br />
* [[段葛]]<br />
* [[神奈川県立近代美術館]]<br />
* [[鎌倉国宝館]]<br />
* [[鎌倉文学館]]<br />
* [[寿福寺]] - [[鎌倉五山]]の一つ。<br />
* [[宇賀福神社]] - 銭洗弁天とも呼ばれる<br />
* [[高徳院]](鎌倉大仏)<br />
* [[長谷寺 (鎌倉市)|長谷寺]]<br />
* [[極楽寺 (鎌倉市)|極楽寺]]<br />
* [[稲村ヶ崎]]<br />
* [[鎌倉七口]]<br />
** 釈迦堂切通し - 七口には含まれないが、[[洞門]]状の偉容が鎌倉[[切通し]]の象徴的な存在であった。現在崩落の危険があって通行禁止。 ■右列に画像あり<br />
* 北鎌倉(山ノ内)<br />
** [[建長寺]] - 鎌倉五山の一つ。<br />
** [[円覚寺]] - 鎌倉五山の一つ。[[円覚寺#伽藍|舎利殿]]は、[[関東大震災]]で倒壊したが、復旧された。神奈川県唯一の[[国宝]]建造物。 ■右列に画像あり<br />
** [[明月院]] - あじさい寺とも呼ばれる<br />
* 大船<br />
** [[大船観音寺|大船観音]]<br />
** [[常楽寺 (鎌倉市)|常楽寺]]<br />
*[[由比ヶ浜南遺跡]]<br />
<!-- 主要な施設のみを記載しています。無節操に追加するのは迷惑なのでお止めください --><br />
<br />
=== レジャー ===<br />
* [[材木座海岸]]・[[由比ヶ浜]]・[[七里ヶ浜]]・[[湘南海岸]]<br />
* [[神奈川県立フラワーセンター大船植物園]]<br />
* [http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/ ハイキングコース(裏大仏コース、天園コースなど)]<br />
* [[鎌倉芸術館]]<br />
<br />
=== 祭り・イベント ===<br />
[[ファイル:Yabusame1.jpg|thumb|鶴岡八幡宮 流鏑馬]]<br />
[[鶴岡八幡宮]]で催される祭事については、当該項目も参照のこと。<br />
* 東日本大震災復興祈願祭(3月)<br />
* 鎌倉祭り(4月)<br />
* 夏越(なごし)祭り(8月)<br />
* ぼんぼり祭り(8月)<br />
* 海上花火大会(8月)<br />
* 鶴岡八幡宮秋期例大祭(9月)<br />
* [[面掛行列]](9月)<br />
* 御鎮座記念祭(12月)<br />
鎌倉祭りと[[鶴岡八幡宮]]秋期[[例大祭]]では、[[流鏑馬]]が奉納される。 ■右列に画像あり<br />
<br />
[[2007年]](平成19年)[[7月21日]] - [[8月19日]]、[[週刊少年ジャンプ]]で連載中の「[[ONE PIECE]]」連載10周年記念イベントの一環として、[[鎌倉駅]]、由比ヶ浜、小町通り等がジャックされた。市内でスタンプラリー等色々なイベントが行われた。<br />
<br />
=== 食 ===<br />
* [[鎌倉丼]]<br />
* [[しらす丼]]<br />
* [[たたみいわし]]<br />
* [[鳩サブレー]] - 鎌倉土産の一つ<br />
* [[けんちん汁]] - 建長寺が由来とされている<br />
* [[鯵の押し寿司]] - [[大船駅]]の駅弁<br />
* [[鎌倉カスター]]<br />
<br />
※ [[鎌倉ハム]]は旧[[鎌倉郡]]に由来するため鎌倉市とは直接関係ない。<br />
<br />
== 鎌倉市出身の有名人 ==<br />
{{columns-list|2|<br />
* [[有坂美香]]([[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]][[歌手]])<br />
* [[アンジェリカ (タレント)|アンジェリカ]]([[シンガーソングライター]]、[[作詞家]]、[[作曲家]]、[[タレント]])<br />
* [[伊地知潔]]([[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]のドラム、[[ロックバンド]])<br />
* [[石渡明]]([[地質学者]])<br />
* [[今井洋介]]([[写真家]])<br />
* [[岩崎俊男]]([[実業家]]・キャピタリスト)<br />
* [[上野章子]]([[俳人]]、[[随筆家]]、[[高浜虚子]]の六女)<br />
* [[上野水香]]([[東京バレエ団]] [[バレエ]]ダンサー)<br />
* [[内山圭]]([[サッカー選手]])<br />
* [[大橋マキ]]([[フリーアナウンサー]])<br />
* [[小笠原泰]](経営コンサルタント、大学教授)<br />
* [[岡本行夫]](外交官)<br />
* [[小澤昭博]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]][[アナウンサー]])<br />
* [[遠藤嘉人]]([[俳優]])<br />
* [[草上仁]]([[小説家]])<br />
* [[日下太平]]([[ラグビー]]選手)<br />
* [[小泉淳作]]([[日本画家]])<br />
* [[小泉博]]([[アナウンサー]]、俳優)<br />
* [[後藤芳光]]([[福岡ソフトバンクホークス]]球団社長)<br />
* [[小林完吾]](アナウンサー)<br />
* [[境鶴丸]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー)<br />
* [[佐藤アサト]](ナレーター)<br />
* [[佐野隼平]](ミュージカル俳優)<br />
* [[紫雷美央]]([[プロレスラー]])<br />
* [[紫雷イオ]](プロレスラー)<br />
* [[菅原一剛]](写真家)<br />
* [[鈴木寛史]]([[バレーボール]]選手)<br />
* [[関健一郎]](衆議院議員)<br />
* [[立川祐路]]([[レーサー]])<br />
* [[鶴田真由]]([[俳優|女優]])<br />
* [[直崎人士]]([[作家]]、写真家、[[音楽家]])<br />
* [[長崎玄弥]](英語教育評論家)<br />
* [[中原茂]]([[声優]])<br />
* [[根本雄伯]]([[ホルン]]奏者)<br />
* [[橋爪大三郎]]([[社会学]]者)<br />
* [[服部陽介]](フリーアナウンサー)<br />
* [[馬場憲治]](タレント)<br />
* [[日野美歌]](歌手)<br />
* [[平松千花]]([[テレビ山梨]]アナウンサー)<br />
* [[福山芳樹]](歌手)<br />
* [[藤岡真]](作家)<br />
* [[藤村俊二]](タレント)<br />
* [[前田美波里]](女優)<br />
* [[ますいさくら]](作家)<br />
* [[ますい志保]](タレント)<br />
* [[真野あずさ]](女優)<br />
* [[真野響子]](女優)<br />
* [[皆川真里奈]](ヴァイオリニスト)<br />
* [[宮川祥子]]([[情報学者]]、[[慶應義塾大学]]准教授)<br />
* [[宮崎緑]](アナウンサー、[[千葉商科大学]]教授)<br />
* [[山ノ井高洋|山ノ井髙洋]]([[北海学園大学]]教授)<br />
* [[友里千賀子]](女優)<br />
* [[養老孟司]]([[解剖学]]者、[[東京大学]]名誉教授)<br />
* [[若田部健一]](元・[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]の投手)<br />
* [[渡邊あゆみ]](アナウンサー)<br />
* [[一色洋平]](俳優)<br />
* [[朝美絢]]([[宝塚歌劇団]][[雪組]]男役)<br />
}}<br />
<br />
== ゆかりのある有名人 ==<br />
=== 居住者 ===<br />
{{columns-list|2|<br />
* [[青木淳一]](生物学者。稲村ガ崎に居住)<br />
* [[芥川龍之介]](作家。由比ガ浜に居住)<br />
* [[阿部義晴]](ミュージシャン)<br />
* [[有島生馬]](作家。稲村ガ崎に居住)<br />
* [[有島武郎]](作家)<br />
* [[井川邦子]](女優。扇ガ谷に居住)<br />
* [[石田ひかり]](女優)<br />
* [[石塚友二]](俳人。稲村ガ崎に居住)<br />
* [[伊集院静]](作家)<br />
* [[泉鏡花]](作家)<br />
* [[伊藤正道]](絵本作家。稲村ガ崎に居住)<br />
* [[今井敬]](実業家)<br />
* [[宇佐美淳]](俳優。大町に居住)<br />
* [[海上寿子]](歌人。扇ガ谷に居住)<br />
* [[梅原龍三郎]](画家)<br />
* [[江藤淳]](作家。極楽寺、西御門に居住)<br />
* [[エリアナ・パヴロワ]]([[バレエ|バレリーナ]]。[[ロシア]]より亡命。[[1932年]](昭和7年)七里ガ浜にバレエスクールを建設)<br />
* [[正親町公和]](作家)<br />
* [[太田水穂]](歌人)<br />
* [[岡村文子]](女優。長谷に居住)<br />
* [[小倉遊亀]](画家・文化勲章受章・鎌倉市名誉市民。山ノ内に居住)<br />
* [[尾崎左永子]](歌人)<br />
* [[大佛次郎]](作家)<br />
* [[小津安二郎]](映画監督)<br />
* [[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]](外交官・初代国連大使・鎌倉市名誉市民)<br />
* [[桂木洋子]](女優。長谷に居住)<br />
* [[鏑木清方]](画家)<br />
* [[唐木順三]](歌人)<br />
* [[川端康成]](作家・[[ノーベル文学賞]]受賞者・文化勲章受章・鎌倉市名誉市民。長谷に居住。記念館がある)<br />
* [[蒲原有明]](詩人。二階堂に居住)<br />
* [[菊地信義]](装幀家。腰越に居住)<br />
* [[岸田劉生]](画家)<br />
* [[国木田独歩]](作家)<br />
* [[久米正雄]](作家)<br />
* [[倉田百三]](作家)<br />
* [[小林米珂]](弁護士)<br />
* [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]([[文芸評論家]]。雪ノ下ほかに居住)<br />
* [[堺駿二]](俳優。大町に居住)<br />
* [[佐佐木信綱]](歌人)<br />
* [[佐田啓二]](俳優。材木座に居住)<br />
* [[里見弴]](作家。文化勲章受章・扇ガ谷に居住)<br />
* [[澁澤龍彦]](仏文学)<br />
* [[島崎藤村]](作家)<br />
* [[菅虎雄]](独文学)<br />
* [[鈴木大拙]](仏教学。文化勲章受章)<br />
* [[千家元麿]](作家)<br />
* [[園池公致]](作家)<br />
* [[高浜虚子]](俳人。文化勲章受章・由比ガ浜に居住)<br />
* [[立原正秋]](作家)<br />
* [[田中絹代]](女優。鎌倉山に居住)<br />
* [[玉木正之]](作家・スポーツライター)<br />
* [[田村隆一]](詩人。稲村ガ崎に居住)<br />
* [[月丘夢路]](女優。大町に居住)<br />
* [[鶴田浩二]](俳優。大船に居住)<br />
* [[東郷慎十郎]](篤志家。坂の下に居住)<br />
* [[内藤洋子 (女優)|内藤洋子]](女優)<br />
* [[直木三十五]](作家。稲村ガ崎に居住)<br />
* [[永井龍男]](国文学)<br />
* [[永井路子]](作家・鎌倉市名誉市民)<br />
* [[長洲一二]](経済学・神奈川県知事。稲村ガ崎に居住)<br />
* [[中原中也]](詩人)<br />
* [[長与専斎]](医師。由比ガ浜に居住)<br />
* [[長与善郎]](作家)<br />
* [[夏目漱石]](作家。[[円覚寺]][[塔頭]]に居住)<br />
* [[夏目雅子]](女優)<br />
* [[夏八木勲]](俳優)<br />
* [[西田幾太郎]](哲学。文化勲章受章・稲村ガ崎姥ヶ谷に居住 記念歌碑がある)<br />
* [[西脇順三郎]](詩人)<br />
* [[昇曙夢]](露文学。稲村ガ崎に居住)<br />
* [[萩原朔太郎]](詩人)<br />
* [[橋本明]](ジャーナリスト)<br />
* [[橋本乾三]](検事)<br />
* [[蓮田修吾郎]](金属造型。文化勲章受章・鎌倉市名誉市民)<br />
* [[林房雄]](作家。名越、長谷、浄明寺に居住)<br />
* [[原節子]](女優)<br />
* [[日守新一]](俳優。小町に居住)<br />
* [[平山郁夫]](画家。文化勲章受章・鎌倉市名誉市民)<br />
* [[深田久弥]](作家。二階堂に居住)<br />
* [[福澤幸雄]]([[レーシングドライバー]]、[[モデル (職業)|モデル]])<br />
* [[藤田泰子]](女優。大町に居住)<br />
* [[星野立子]](俳人)<br />
* [[前田青邨]](画家・文化勲章受章。[[円覚寺]]境内に居住)<br />
* [[三浦光子]](女優。二階堂に居住)<br />
* [[水木一郎]](アニソン歌手)<br />
* [[水の江瀧子]](女優。材木座に居住)<br />
* [[水原真知子]](女優。扇ガ谷に居住)<br />
* [[三井弘次]](俳優。大船に居住)<br />
* [[みのもんた]](タレント)<br />
* [[三好達治]](詩人。稲村ガ崎に居住)<br />
* [[山口達也 (ジャニーズ)|山口達也]](タレント、元[[TOKIO]]メンバー)<br />
* [[山口淑子]](女優。鎌倉山に居住)<br />
* [[山田ミネコ]](漫画家)<br />
* [[山本五十六]](軍人)<!--山本義正著「父・山本五十六」より--><br />
* [[山本道子 (作家)|山本道子]](作家、稲村ガ崎に居住)<br />
* [[山本容子]](版画家・挿画家)<!--山本容子著「マイ・ストーリー」より--><br />
* [[山本義正]](著述家、山本五十六の子)<!--山本義正著「父・山本五十六」より--> <br />
* [[横山隆一]](漫画家・鎌倉市名誉市民)<br />
* [[吉田秀和]](評論家・文化勲章受章・鎌倉市名誉市民)<br />
* [[吉野秀雄]](歌人)<br />
* [[吉屋信子]](作家。長谷に居住。記念館がある)<br />
* [[笠智衆]](俳優)<br />
* [[藤沢周]](作家)第 119 回芥川賞受賞、法政大学教授<br />
* [[石橋湛山]](政治家。第55代内閣総理大臣、鎌倉郡鎌倉町の町議)<br />
}}<br />
<br />
=== その他 ===<br />
* [[荒川静香]](プロ[[フィギュアスケート|フィギュアスケーター]]):幼少時をすごした<br />
* [[吉川文夫]](鉄道研究家):鎌倉市在住だが[[2007年]](平成19年)死去<br />
* [[鈴木保奈美]](女優):[[神奈川県立鎌倉高等学校]]卒業<br />
* [[桑田佳祐]](ミュージシャン):[[鎌倉学園高等学校]]卒業<br />
<!--* [[若田部健一]](プロ野球選手):出身地かつ、鎌倉学園高等学校卒業→上記出身者に記載。--><!--[[若田部遥]]([[HKT48]])→ わずかに関わっただけの項目をいちいち挙げないこと。あとアルバムを分解して無駄に長いリストを作らないこと--><br />
<br />
== 鎌倉市を舞台とした作品 ==<br />
基本的に五十音順で表記。<br />
=== 映画 ===<br />
* [[稲村ジェーン]] (1990年、東宝、[[桑田佳祐]]監督)<br />
* [[海街diary]](2015年、東宝、[[是枝裕和]]監督)<br />
* [[美味しんぼ]] (1996年)<br />
* [[駆込み女と駆出し男]] (2015年 監督:[[原田眞人]])<br />
* [[サンセットドライブ]] (2015年 監督:[[樋本淳]])<br />
* [[シン・ゴジラ]] (2016年、東宝、[[庵野秀明]]総監督)<br />
* [[早春物語]] (1985年、東宝、[[澤井信一郎]]監督)<br />
* [[タイヨウのうた]] (2006年、松竹、[[小泉徳宏]]監督)<br />
* [[鎌倉ものがたり|DESTINY 鎌倉ものがたり]](2017年 監督:山崎貴)<br />
* [[テラスハウス クロージング・ドア]] (2015年 監督:[[前田真人]])<br />
* [[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]](1963年、東宝、[[黒澤明]]監督) - 江ノ電が犯人逮捕の重要な手掛かりとなる。<br />
* [[ねらわれた学園 (2012年の映画)|ねらわれた学園]] (2012年 監督:[[中村亮介]])<br />
* [[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]] (1951年、松竹、小津安二郎監督)<br />
* [[はつ恋 (1975年の映画)|はつ恋]] (1975年、東宝、[[小谷承靖]]監督)<br />
* [[晩春 (映画)|晩春]] (1949年、松竹、[[小津安二郎]]監督)<br />
* [[武曲|武曲 MUKOKU]] (2017年 監督:[[熊切和嘉]])<br />
* [[ビブリア古書堂の事件手帖]]<br />
* [[真木栗ノ穴]] (2008年 監督:[[深川栄洋]]) <br />
* [[山の音]] (1954年、東宝、[[成瀬巳喜男]]監督)<br />
* [[ラヴァーズ・キス]] (2002年、東北新社、[[及川中]]監督)<br />
<br />
=== 小説 ===<br />
* [[悪魔が来りて笛を吹く]] / [[横溝正史]] 著<br />
* [[丘の家のミッキー]]/[[久美沙織]] 著 - 主な舞台は[[葉山]]だが、鎌倉もしばしば登場。<br />
* 鏡の中は日曜日 / [[殊能将之]] 著<br />
* 鎌倉江ノ電殺人事件 / [[西村京太郎]] 著<br />
* 鎌倉釈迦堂殺人事件 / [[木谷恭介]] 著<br />
* 鎌倉十二神将の誘拐 / [[斎藤栄]] 著<br />
* 鎌倉・流鏑馬神事の殺人 / [[西村京太郎]] 著<br />
* 鎌倉擾乱 / [[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]] 著<br />
* コズミック・ゼロ / [[清涼院流水]] 著<br />
* [[純白の夜]] / [[三島由紀夫]] 著<br />
* [[ビブリア古書堂の事件手帖]] / [[三上延]] 著<br />
<br />
=== 漫画 ===<br />
注記のないものは連載終了した作品<br />
* [[青い花 (漫画)|青い花]]([[志村貴子]]作、[[太田出版]][[マンガ・エロティクスF]]連載中)<br />
* [[海街diary]](吉田秋生作、小学館[[月刊フラワーズ|月刊flowers]]連載中)<br />
* [[エルフェンリート]]([[岡本倫]]作、[[集英社]]ヤングジャンプ連載)<br />
* [[各駅停車 (漫画)|各駅停車]]([[谷川史子]]作、[[集英社]]りぼんオリジナルに掲載された)<br />
* [[鎌倉ものがたり]]([[西岸良平]]作、[[双葉社]]月刊まんがタウン連載中)<br />
* [[吸血姫美夕]]([[垣野内成美]])作、[[秋田書店]]サスペリアに不定期掲載) - 主人公がヴァンパイアとして覚醒する場所が鎌倉である。<br />
* [[源平伝NEO]]([[あかほりさとる]]/[[別天荒人]]作、[[角川書店]]月刊少年エース)<br />
* [[甲子園へ行こう!]]([[三田紀房]]作。講談社ヤングマガジン) - 主人公の通う高校が「鎌倉西高校(架空)」である。<br />
* [[菜 (漫画)|菜]]([[わたせせいぞう]]作、[[講談社]]週刊モーニング)<br />
* [[さえずり少女、しんしん鎌倉]]([[matoba]]作、[[まんがホーム]]連載) - 主人公のホームステイ先は鎌倉の和菓子屋。また、主人公が佐助稲荷から由比ヶ浜の海岸線を経て、極楽寺に至る連作風の扉絵が毎回掲載されていた。<br />
* [[侵略!イカ娘]]([[安部真弘]]作、秋田書店[[週刊少年チャンピオン]]連載) - 主要キャラの相沢千鶴と嵐山悟郎のデートの待ち合わせ場所に[[鎌倉駅]]と駅前の時計塔の描写がある。<br />
* [[ストライクウィッチーズ]](角川書店企画のメディアミックス作品)- 宮藤芳佳の本籍地が神奈川県鎌倉市になっている。<br />
* [[SLAM DUNK]]([[井上雄彦]]作。集英社週刊少年ジャンプ)- 鎌倉高校前1号踏切付近にある[[神奈川県立鎌倉高等学校]]が、劇中の神奈川県立湘北高校のモデルとなっている。<br />
* [[とめはねっ! 鈴里高校書道部]]([[河合克敏]]作、小学館[[週刊ヤングサンデー]])<br />
* [[なぎさMe公認]]([[北崎拓]]作、[[小学館]]週刊少年サンデー)<br />
* [[花右京メイド隊]]([[もりしげ]]作。秋田書店月刊少年チャンピオン) - 主人公の太郎が観光で訪れる回がある。江ノ島から鎌倉高校駅前付近にかけての海岸線を散策し、鶴ヶ岡八幡宮や江ノ電も登場。<br />
* [[ハナヤマタ]]([[浜弓場双]]作、[[芳文社]][[まんがタイムきららフォワード]]連載中) - 主人公らが通う由比浜学園中学周辺の描写が七里ヶ浜近辺で、登場人物の名字(関谷、笹目、西御門、常盤など)が鎌倉の地名から取られている。<br />
* [[はるかリフレイン]]([[伊藤伸平]]作、[[ベネッセ]]中三チャレンジ) - 鎌倉駅旧時計塔の描写がある。<br />
* [[最終戦争伝説]]=ハルマゲドンでんせつ([[山田ミネコ]]作、[[朝日ソノラマ]]) - 主人公は[[1981年]]の鎌倉市民。タイムスリップで未来へと連れ去られてしまう。<br />
* [[まかせてイルか!]]([[大地丙太郎]]/[[たかしたたかし]]作、[[徳間書店]]月刊アニメージュ)<br />
* [[まなびや]]([[小島あきら]]作、スクウェア・エニックス[[月刊ガンガンJOKER]])<br />
* [[みずたまリンドウ]]([[宗我部としのり]]作、[[メディアファクトリー]]) - 主人公達の通うのが「鎌倉浜高校(架空)」で、江ノ電も登場。<br />
* [[南鎌倉高校女子自転車部]]([[松本規之]]作、[[月刊コミックブレイド]]連載中)<br />
* [[ラヴァーズ・キス]]([[吉田秋生]]作、上記同名映画の原作。小学館別冊少女コミック)<br />
* [[ロイアルミストブレード]]([[大星由良]]作、委託市場ドットコム掲載中)<br />
* [[わ!]](小島あきら作、スクウェア・エニックス[[ガンガンONLINE]]→月刊ガンガンJOKER) - 上記のまなびやと同じ高校、世界観を共有している。<br />
<br />
=== ドラマ ===<br />
* [[青い瞳の聖ライフ]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列)- [[七里ヶ浜]]周辺がロケ地。<br />
* [[明日の約束]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]])<br />
* [[あなたには帰る家がある]]([[TBSテレビ|TBS]])<br />
* [[海まで5分]] (TBS系列)- 舞台は鎌倉の海近くという設定。<br />
<!-- * [[ウルトラマンティガ]](第46話「いざ鎌倉!」)- 登場怪獣が江ノ電の警笛の音を母親の声と勘違いして降りてきた。最後はティガが車両によって怪獣を誘導し、母親の元に帰した。 --><br />
* [[駅弁刑事・神保徳之助]]4 古都鎌倉殺人篇(TBS)<br />
* [[おいしいごはん 鎌倉・春日井米店]] ([[テレビ朝日]] / [[石原プロモーション]]) - 舞台は鎌倉の米屋という設定。<br />
* [[俺たちの朝]] ([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[江ノ島電鉄]]・[[極楽寺駅]]周辺が舞台となった。<br />
* [[顔で笑って]]([[TBSテレビ|TBS]] / [[大映テレビ]]) - 舞台は鎌倉市の私立病院(最寄り駅は[[北鎌倉駅]])。<br />
* [[最後から二番目の恋]](フジテレビ)<br />
:* [[続・最後から二番目の恋]](フジテレビ)- 続編。<br />
* [[さよならドビュッシー|さよならドビュッシー ~ピアニスト探偵 岬洋介~]](日本テレビ)<br />
* [[さわやか3組]]([[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]])- 2000年度放送分の舞台となった。<br />
* [[湘南探偵物語]]~鎌倉逗子、[[葉山]]~(テレビ朝日)<br />
* [[好きな人がいること]](フジテレビ)<br />
* [[ツバキ文具店#テレビドラマ|ツバキ文具店〜鎌倉代書屋物語〜]] ([[日本放送協会|NHK]])<br />
* [[鉄道警察官・清村公三郎]](8) [[鎌倉]]・[[江の島]]~追憶の殺人~<br />
* [[ナツコイ]] (TBS)<br />
* [[西村京太郎サスペンス]] [[十津川警部シリーズ]]48「[[江ノ電]]に消えた女〜十津川警部への挑戦状〜」 (TBS)<br />
* [[日本沈没]] (TBS) - 小野寺周二の家業が[[鶴岡八幡宮]]前の[[鎌倉彫]]屋との設定なのでしばしば登場。また、市内も地震で[[鎌倉大仏]]が陥没するなどの被害に遭う。<br />
* [[はぐれ刑事純情派]] 第13話(テレビ朝日)<br />
* [[花咲くあした]](NHK BSプレミアム)<br />
* [[花嫁のさけび]] (テレビ朝日)<br />
* [[ビブリア古書堂の事件手帖 (テレビドラマ)|ビブリア古書堂の事件手帖]](フジテレビ)- 上記小説のドラマ化。<br />
* [[緑川警部シリーズ]](TBS)<br />
* [[リバウンド (テレビドラマ)|リバウンド]](日本テレビ系列)- [[北鎌倉駅]]周辺がロケ地。<br />
<br />
=== アニメ ===<br />
* [[青い花 (漫画)|青い花]](2009年、監督 - [[カサヰケンイチ]]、制作 - [[ジェー・シー・スタッフ|J.C.STAFF]])- 上述の漫画のアニメ版。2009年7月より[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『NOISE』にて放送された。<br />
* [[亜人ちゃんは語りたい]](2017年、監督 - [[安藤良]]、制作 - [[A-1 Pictures]]) - 北鎌倉駅周辺や鎌倉駅付近、極楽寺駅、稲村ケ崎が登場するほか、江ノ電バスをモチーフとしたバスも登場する。<!--<br />
* [[あずきちゃん]](NHKアニメ)- 最終話「勇之助くん!さよならはいわないで」における、お別れ遠足の場所。--><br />
* [[うた∽かた]](2004年、監督 - [[後藤圭二]]、制作 - [[ハルフィルムメーカー]])([[UHFアニメ]]、地元局[[テレビ神奈川|tvk]]でも放送された) - 主人公は雪ノ下に居を構え、鎌倉女子学園(架空)に通う女子高生。由比ヶ浜(鎌倉花火大会、鎌倉プリンスホテル)や鎌倉駅(江ノ電。喫茶店「銀の鈴」、作中では「金の鈴」)、大町(「八雲神社」、作中では「九雲神社」)や鶴岡八幡宮をはじめ、登場する舞台は殆ど鎌倉市内である。<br />
* [[エルフェンリート]](2002年、監督 -神戸守、製作 - [[アームス]])(CS([[アニメシアターX|AT-X]]で放送及びUHFアニメ)- 上述の漫画のアニメ版。<br />
* [[きみの声をとどけたい]](2017年、監督 - 伊藤尚往、製作 - [[マッドハウス]]。[[東北新社]]配給のオリジナル作品) - 舞台の「日ノ坂町」が[[腰越]]をモデルとしており、[[腰越駅]]、腰越協栄会(駅前商店街)、腰越漁港、[[神奈川県立鎌倉高等学校|鎌倉高校]]などを元にした場所が登場しており、隣接する[[藤沢市]]の施設も登場している。<br />
* [[project575|GO!GO!575]](2014年、監督 - [[安斎剛文]]、制作 - レイ・デュース / [[C2C]]、2014年1月に、TOKYO-MXやtvkなどで放送された) - オープニングでは、若宮大路、鎌倉中央公園、#1では山ノ内の女子学園前の信号機、#2で池に落ちるシーンは鎌倉中央公園の上池と下池の間、お風呂は材木座の銭湯(清水湯)、帰路は水道路付近、#3では北鎌倉駅構内、小町のコーヒーショップ(イワタコーヒー)、下馬近くの大町踏切、#4では極楽寺駅前、ダンスシーンは鎌倉中央公園の生垣見本(庭園植物園内)、ラストは同公園の芝生広場の前が登場。個々の場所はそれぞれ離れているものの、鎌倉市内に実在する場所が随所に登場する。<br />
* [[Cosmic Baton Girl コメットさん☆]](2001年、監督 - [[神戸守]]、制作 - [[日本アニメーション]]、[[テレビ大阪]])<br />
* [[Just Because!]](2017年、監督 - [[小林敦]]、制作 - [[PINE JAM]]) - 2017年10月より[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]他で放送。#1では、深沢地域の常盤から手広にかけての実在する場所が随所に登場する。舞台の県立柏尾川高等学校は、[[神奈川県立深沢高等学校|深沢高校]]がモデルになっている。<br />
* [[侵略!イカ娘]](2010年、監督 - [[水島努]]、制作 - [[ディオメディア]]) - 上述の漫画のアニメ版。2010年10月より[[テレビ東京]]系で放送された。イカ娘が初めて上陸した海岸、海の家「れもん」周辺の風景描写に、由比ヶ浜近辺の風景が登場する。<br />
:*[[侵略!?イカ娘]](2011年、総監督 - 水島努、監督 - [[山本靖貴]]、制作 - ディオメディア) - 上記の第2期シリーズ。高徳院の鎌倉大仏が描かれている。<br />
* [[スクールランブル (アニメ)|スクールランブル]](2004年(第1期)、監督 - [[高松信司]]、制作 - [[スタジオコメット]]) - 上述の漫画のアニメ版。テレビ東京系で放送された。劇中の舞台は架空の「神奈川県矢神市」だが、第1期では江ノ電、第2期(2006年)では鎌倉大仏を模した場面が登場する。<br />
* [[セイクリッドセブン]](2011年、監督 - [[大橋誉志光]]、制作 - サンライズ、2011年7月より[[MBSテレビ|毎日放送]]を制作局として、関東地区では[[テレビ神奈川|tvk]]、[[テレビ埼玉|テレ玉]]などで放送された) - 企画段階から鎌倉観光フォーラムの働きかけで鎌倉市や由比ガ浜中央商店街、江ノ島電鉄(株)が製作に協力。劇中では、主人公の丹童子アルマの出身地が鎌倉市となっており、#8ではヒロインの藍羽ルリと鎌倉市内の実在する店舗等を巡っている。<br />
* [[千年女優]](2002年。監督 - 今敏、製作 - [[マッドハウス]])- [[大船撮影所]]をモデルとした銀映撮影所。江ノ電旧500型や七里ヶ浜海岸などが登場。<br />
* [[TARI TARI]](2012年、監督 - [[橋本昌和]]、制作 - [[ピーエーワークス|P.A.WORKS]]) - 2012年7月よりtvkなどで放送された。[[藤沢湘南フィルム・コミッション]]、藤沢市&江の島の皆様、[[江ノ電|江ノ島電鉄株式会社]]がエンディングの協力でクレジットされており、藤沢市江ノ島〜鎌倉市周辺を舞台にしている。鎌倉市内の描写としては、オープニングで坂ノ下の海岸付近を走るシーンや、#1では、江ノ島にある土産物店に住んでいる主人公・坂井和奏らが通学する「白浜坂高等学校」の最寄駅が、鎌倉高校前駅を模しており、駅からの通学路として七里ガ浜の住宅地、鎌倉駅西口旧駅舎時計台の前で宮本来夏が歌うシーンなどが描写されている。<br />
* [[ちびまる子ちゃん|ちびまる子ちゃん×桑田佳祐〜100万年の幸せ!! スペシャル〜]](2017年) - 『もしかして鎌倉?』の巻で鎌倉が出て来る<br />
* [[つり球]](2012年、監督 - [[中村健治 (アニメ演出家)|中村健治]]、制作 - [[A-1 Pictures]]、2012年4月より[[フジテレビ]]の[[ノイタミナ]]枠で放送された) - 江ノ島に引っ越してきた主人公・真田ユキらが通学する高校の最寄駅の名称が「江ノ電腰越東高校前」で鎌倉高校前駅を模している。<br />
* [[天空のエスカフローネ]](1996年、監督 - [[赤根和樹]]、製作 - [[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]、[[テレビ東京]]をキー局に放送されたアニメ) - ヒロインの実家が北鎌倉。江ノ電も登場。<br />
* [[ハナヤマタ]](2014年。監督 - [[いしづかあつこ]]、製作 - マッドハウス) - 上述の漫画のアニメ版。2014年7月よりテレビ東京などで放送された。<br />
* [[ふたりはプリキュア Splash Star]](2006年、監督 - [[小村敏明]]、製作 - [[東映アニメーション]])([[ABCテレビ|朝日放送]]・[[テレビ朝日]]系で放送されたアニメ) - 劇中の舞台は「海原市夕凪」だが、鎌倉高校前駅を模した駅や江ノ電、七里ヶ浜周辺を模した海岸等が登場する。<br />
* [[美鳥の日々]](2004年、監督 - [[小林常夫]]、製作 - [[ぴえろ]]) - アニメ版のみ湘南モノレールが登場する地域を舞台としている。<br />
* [[南鎌倉高校女子自転車部]](2017年、監督 - [[工藤進]]、制作 - [[ジェー・シー・スタッフ|J.C.STAFF]]、[[エー・シー・ジー・ティー|A.C.G.T]]) - 上述漫画のアニメ版。#1では、極楽寺駅から七里ガ浜近辺、#2では[[御霊神社 (鎌倉市)|御霊神社]]や[[佐助稲荷神社|佐助稲荷]]などが描かれ、タイトル通り鎌倉市の南側に当たる旧鎌倉地域から腰越地域のリアルな描写が随所に見られる。<br />
* [[無彩限のファントム・ワールド]](2016年、監督 - [[石原立也]]、製作 - [[京都アニメーション]]) - ホセア学院(学校)は京都府庁旧本館がモチーフで、必ずしも舞台の全てが鎌倉・藤沢地域とはなっていないが、オープニングでは由比ガ浜や腰越付近、本編でも(モノレールのカラーリングは異なるが)湘南モノレールの西鎌倉駅周辺の描写があり、繰り返し登場する学院の最寄駅・南金倉駅は、同線の湘南江の島駅(藤沢市)が基となっている。<br />
* [[老人Z]](1991年、監督 - [[北久保弘之]]、制作 - [[アナザープッシュピンプランニング|A.P.P.P.]]) - 劇場アニメ。ラストに向かうシーンで、湘南モノレールから高徳院清浄泉寺に向かうトンネル等が描かれている。<br />
<br />
=== ゲーム ===<br />
* [[うた詠み♪]](iOS用アプリ)- 当初は『うた詠み575』の名でリリースされたが、後に『うた詠み♪』にリニューアルした。<br />
* [[うた組み575]]([[セガゲームス|セガ]]のうた組みアクションゲーム)<br />
* [[シルバーレイン]]([[トミーウォーカー]]の[[プレイバイウェブ]]- PLのキャラクタは全て、鎌倉にある銀誓館学園の生徒か卒業生となる)<br />
* [[すぴぱら - Alice the magical conductor.]]([[minori]]のインタラクティブ・ノベル)<br />
* [[センチメンタルプレリュード]]([[インターチャネル]]の恋愛アドベンチャーゲーム)<br />
* [[装甲悪鬼村正]]([[ニトロプラス]]の18禁恋愛アドベンチャーゲーム)<br />
* [[超時空爆恋物語〜door☆pi☆chu〜]]([[PrimRose]]の18禁恋愛アドベンチャーゲーム)- 鎌倉を模した「釜蔵」が舞台。「くノ電(くノ一電鉄)」や「鳩岡八幡宮」が登場する。<br />
* [[電車でGO!]]旅情編 - [[江ノ島電鉄線|江ノ電]]を全線で運転できる。<br />
* [[NOëL]] 〜La neige〜(パイオニアLDC(現・[[ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン]])より発売されたプレイステーション(PS)向けゲーム)<br />
* [[姉、ちゃんとしようよっ!]]([[きゃんでぃそふと]]の18禁恋愛アドベンチャーゲーム)<br />
* [[遙かなる時空の中で3 運命の迷宮(ラビリンス)]]([[ルビーパーティー]]作の恋愛シミュレーションゲーム<br />
* [[Memories Offシリーズ]]([[KID (ゲームブランド)|KID]]作の恋愛アドベンチャーゲーム)- 江ノ電(ゲーム中ではシカ電)沿線を中心に、鎌倉・藤沢一帯が舞台となっている。<br />
<br />
=== 音楽 ===<br />
* 「[[青空の扉 〜THE DOOR FOR THE BLUE SKY〜#収録曲|紫陽花のうた]]」([[浜田省吾]])<br />
* 「縁切寺」([[グレープ (ユニット)|グレープ]] 作詞・作曲:[[さだまさし]])<br />
* 「[[大船音頭]]」<br />
* 「鎌倉」([[文部省唱歌]])<br />
: 作者の大和田建樹の歴史・景勝好みが影響している為4番に渡って歌ったと見られている。<br />
* 「鎌倉天気雨」 (emiko)<br />
: [[アニメ]]『うた∽かた』のイメージアルバム。「ずっとこの街で」「Only your friend」「Yell 〜あなたの隣で〜 '04 AUTUMN」「どんなにつらい事があったとしても '04 AUTUMN」「横顔」を収録。<br />
* 「[[KAMAKURA#Disc 1|鎌倉物語]]」「[[KAMAKURA#Disc 1|古戦場で濡れん坊は昭和のHero]]」「[[KAMAKURA#Disc 2|夕陽に別れを告げて]]」「[[希望の轍]]」「[[愛の言霊 〜Spiritual Message]]」「[[TSUNAMI#収録曲|通りゃんせ]]」「[[君こそスターだ/夢に消えたジュリア|君こそスターだ]]」([[サザンオールスターズ]]) - メインボーカリスト・[[桑田佳祐]]は[[鎌倉学園]]の出身。「鎌倉」をモチーフとしたアルバム『kamakura』は鎌倉にまつわる楽曲を多数収められ、ノスタルジックな作品としてファン層外からも人気を集めている。<br />
* 「サーフ ブンガク カマクラ」ASIAN KUNG-FU GENERATION - 藤沢から鎌倉までの江ノ電の駅名を冠した曲名の入ったアルバム全10曲。<br />
* 「さらば愛の日々」([[ヒデとロザンナ]]、[[ハイファイセット]])<br />
* 「せぷてんばぁ」([[クレイジーケンバンド]])<br />
* 「[[鉄道唱歌]]」(第1集東海道編 第6番〜第9番)<br />
* 「[[水の中のライオン#収録曲|花を飾って (Kamakura)]]」([[谷山浩子]])<br />
<br />
==== ミュージックビデオ ====<br />
* 「[[夏色]]」ゆず<br />
<br />
== 鎌倉市のキャラクター ==<br />
* 牛若にゃん丸、源ポン太、静姫 - 鎌倉市の[[かまくら]]3R推進キャラクター<br />
* 玉竜くん、タマナワくん、タマちゃん - [[玉縄城]]築城500年祭のマスコットキャラクター<br />
* 大船観音[[のんちゃん]] - [[大船観音寺]]のマスコットキャラクター<br />
* [[落ち武者のおちむん]] - 鎌倉市非公認キャラクター<br />
<br />
== ナンバープレート==<br />
鎌倉市は、横浜ナンバー([[神奈川運輸支局]])を割り当てられている。<br />
;横浜ナンバー割り当て地域<br />
*横浜市・鎌倉市・逗子市・横須賀市・三浦市・三浦郡(葉山町)<br />
バイクの場合は、[[江ノ電]]が描かれたご当地ナンバープレートが存在する。<br />
<br />
== その他 ==<br />
* 最寄りの[[日本の空港|空港]]は[[東京国際空港|羽田空港]]。大船駅から直通バスがある。<br />
* [[成田国際空港|成田空港]]への直通の列車がある。([[JR東日本E259系電車|E259系]][[成田エクスプレス]],[[JR東日本E217系電車|E217系]]快速)<br />
* 最寄りの[[新幹線]]駅は、[[新横浜駅]]。<br />
* [http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/koutsu/kankyotegata1.html 鎌倉フリー環境手形]は、地域の交通を自由に使える共通の切符。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Notelist}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|2}}<!-- 文献参照ページ --><br />
<!--<br />
== 参考文献 == |※実際に参考にした文献を一覧する節。<br />
--><br />
== 関連項目 ==<br />
{{Multimedia|鎌倉市の画像}}<br />
{{Sisterlinks<br />
|commons=鎌倉<br />
|commonscat=Kamakura,_Kanagawa<br />
|wikt=鎌倉<br />
|q=no<br />
|v=no<br />
|voy=Kamakura<br />
|d=Q200267<br />
}}<br />
{{See also|Category:鎌倉市}}<br />
* [[やぐら]]<br />
* [[鎌倉市指定景観重要建築物]] - 鎌倉市都市景観条例に基づき指定<br />
* [[鎌倉市内の寺院一覧]]<br />
* [[特別:Prefixindex/鎌倉|鎌倉で始まる記事一覧]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{osm box|r|2689445}}<br />
* [http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/ 鎌倉市公式サイト]<br />
* {{Twitter|kamakura_kankou|鎌倉市観光課}}<br />
* [http://www.kamakura-info.jp/ 鎌倉市観光協会]<br />
<br />
{{神奈川県の自治体}}<br />
{{鎌倉市の町・字}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:かまくらし}}<br />
[[Category:神奈川県の市町村]]<br />
[[Category:鎌倉市|*]]<br />
[[Category:世界歴史都市連盟]]</div>
103.226.44.10
5番街 (マンハッタン)
2018-07-30T03:42:51Z
<p>103.226.44.10: リンク ミュージアム・マイル</p>
<hr />
<div>{{redirect|5番街|その他の用法|五番街 (曖昧さ回避)}}<br />
{{Infobox street<br />
| name = 5番街<br />
| native_name =<br />
| marker_image = <br />
| image = Photograph of Fifth Avenue from the Metropolitan—New York City.jpg<br />
| image_size = 267px<br />
| caption = [[セントラル・パーク]]内東端にある[[メトロポリタン美術館]]前、[[マンハッタンの通りの一覧#81丁目|東81丁目]]界隈を走る[[ミュージアム・マイル (ニューヨーク)|ミュージアム・マイル]] (5番街)の北方向の眺め<br />
| other_name = Fifth Avenue<br />
| former_names =<br />
| postal_code =<br />
| addresses =<br />
| length_m =<br />
| length_ft =<br />
| length_mi =6.197<br />
| length_km =12<br />
| length_ref =<br />
| width =<br />
| location =<br />
| client =<br />
| maint = [[:en:New York City Department of Transportation|NYCDOT]]<br />
| coordinates = <br />
| direction_a = 南<br />
| terminus_a = [[ワシントン・スクエア公園]]<br />
| direction_b = 北<br />
| terminus_b = [[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]地区の[[マンハッタンの通りの一覧#143丁目|143丁目]]<br />
| junction =<br />
| commissioning_date =1811年<br />
| construction_start_date =<br />
| completion_date = <br />
| inauguration_date = <!-- {{Start date|YYYY|MM|DD}} --><br />
| demolition_date =<br />
| north =<br />
| south =<br />
| east = [[ユニヴァーシティ・プレイス]] ([[:en:University Place (Manhattan)|en]], [[14丁目 (マンハッタン)|14丁目]]より南)<br>[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]] (14-[[23丁目 (マンハッタン)|23丁目]]<ref>[[ロウアー・マンハッタン]]の[[マディソン・スクエア]]ないし同パーク南西端にある、[[22丁目 (マンハッタン)|東22丁目]]の高層ビル フラットアイアン・ビルディング ([[:en:Flatiron Building|en]]) 及び[[23丁目 (マンハッタン)|東23丁目]]を挟んだ広場フラットアイアン・プラザ (Flatiron Plaza) 界隈に至ると、ブロードウェイはそこから北西方向に向う。[[マンハッタンの通りの一覧#24丁目から26丁目|西24]]-[[マンハッタンの通りの一覧#24丁目から26丁目|西25丁目]]の間で5番街と交差し、ブロードウェイは今度は5番街の東側から西側を南北に並走する通りに変わる。その先、さらに北西方向に伸び、[[6番街 (マンハッタン)|6番街]]を越えブロードウェイと[[7番街 (マンハッタン)|7番街]]とが交差する地点が[[タイムズ・スクエア]]になる。</ref>)<br>[[マディソン街]] (23丁目より北)<br />
| west = [[6番街 (マンハッタン)|6番街]] ([[59丁目 (マンハッタン)|59丁目]]より南)<br>[[セントラル・パーク]]内のイースト・ドライブ (59-[[110丁目 (マンハッタン)|110丁目]])<br>[[レノックス・アヴェニュー]] ([[:en:Lenox Avenue|en]], 110丁目より北<ref>6番街、セントラル・パーク内のイースト・ドライブ、レノックス・アヴェニュー (別名[[マルコムX]]・[[ブールバール|ブールバード]]) と、これら3つの通りは、5番街の西側を南北に並走する一続きの通りになる。</ref>)<br />
| map_type = United States Manhattan<br />
}}<br />
<br />
'''5番街'''(ごばんがい、{{読み仮名|{{lang|en|Fifth Avenue}}|フィフス・アヴェニュー}}、{{lang|en|5th Avenue}}とも表記)は、[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]][[ニューヨーク市]][[マンハッタン]][[行政区 (ニューヨーク市)|区]]を南北に縦断する「[[アヴェニュー]]」と呼ばれる通り。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[セントラル・パーク]]を眺望できる高級マンションや歴史的な大邸宅が立ち並び、ニューヨークの裕福さの象徴である。また、特に[[34丁目]]と[[59丁目]]の間は、[[ロンドン]]の[[オックスフォード・ストリート|オックスフォード通り]]や[[パリ]]の[[シャンゼリゼ通り]]、[[ミラノ]]の[[モンテナポレオーネ通り]] ([[:en:Via Monte Napoleone|en]]) と並んで世界最高級の商店街の1つである。[[ファイル:Street sign at corner of Fifth Avenue and E 57th Street in NYC.jpg|right|thumb|5番街を示す街路表示]]<br />
<br />
毎年[[香港]]の[[銅鑼湾]]やパリのシャンゼリゼ通りなどと並んで世界で最も賃貸価格の高い通りの1つとして格付けされる。「世界一高価な通り」の称号は毎年の通貨変動と地域の経済条件によって変化するものの、1990年代の半ばから数年間、49丁目と[[57丁目]]の間の1平方フィートあたりの賃貸価格は世界第2位だった。<br />
<br />
== 通り界隈 ==<br />
[[グリニッジ・ヴィレッジ]]の[[ワシントン・スクエア公園]]を起点とし、[[ミッドタウン]]を通過、[[プラザホテル]]の建つ[[59丁目]]からは、[[セントラル・パーク]]の東沿いを北上し、[[ハーレム川]]に突き当たる[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]地区142丁目が北端となる。以降の交通は[[マディソン・アベニュー橋|マジソン街橋]]を通り[[ブロンクス区]]に流れる。<br />
<br />
全線に渡りほぼ直線で、自動車の交通は北から南へ4-8車線の一方通行である。全長約12kmで、128[[街区|ブロック]]に及ぶ。<br />
<br />
南から順に、<br />
*[[グリニッジ・ヴィレッジ]]<br />
*[[チェルシー (ニューヨーク)|チェルシー]]<br />
*[[ミッドタウン]]<br />
*[[アッパー・イースト・サイド]]<br />
*[[スパニッシュ・ハーレム]]<br />
*[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]<br />
と呼ばれる地域を通過し、雰囲気や町並みは各所で多様である。[[ファイル:Fifth Avenue NYC looking so.jpg|thumb|right|早朝の5番街で38丁目から南を見る]]<br />
<br />
セントラルパークの北端である[[110丁目]]以北、ハーレム地区には[[貧困層]]も多く治安も良好とは言い難い時期が続いたが、近年では高級化([[ジェントリフィケーション]])の波がさらに北へと進行している。<br />
<br />
ミッドタウン以南の5番街は、しばしば各種[[パレード]]の会場となる。アッパー・イーストサイドとハーレムの5番街は、[[ニューヨークシティマラソン|ニューヨーク・シティマラソン]]のコースともなる。<br />
<br />
マンハッタンの住所表示は、この通りを境に東西に分けられる。例えば、南北に走る10丁目の通りであれば、5番街より西側は西10丁目、東側は東10丁目と呼ばれ、番地表示は5番街から遠ざかるに連れて数字が大きくなる。<br />
<br />
まさに、5番街がマンハッタンの中心を貫く[[メインストリート]]であることを意味している。<br />
<br />
=== 周辺 ===<br />
[[ファイル:Washington Square - Triumphal arch.jpg|thumb|right|起点の[[ワシントン・スクエア公園 ]]の[[ウェーバリー・プレイス]] ([[:en:Waverly Place|en]]) ]]<br />
ニューヨークの有名なビルの多くがこの5番街沿いの[[ミッドタウン]]と[[アッパー・イースト・サイド]]に位置する。特にミッドタウンには、[[エンパイア・ステート・ビルディング]]、[[ニューヨーク公共図書館]]、[[ロックフェラーセンター]]、[[セント・パトリック大聖堂 (ニューヨーク)|セント・パトリック大聖堂]]などニューヨークを代表する施設が多くある。<br />
<br />
また、[[セントラル・パーク]]東脇を走行する区間のうち82丁目から105丁目の約1マイルの区間は、1980年代から90年代にかけて[[メトロポリタン美術館]]、[[ホイットニー美術館]]、[[グッゲンハイム美術館]]、[[クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館]]など9館もの[[美術館]]・[[博物館]]が立地したため「'''[[ミュージアム・マイル (ニューヨーク)|ミュージアム・マイル]]''' (Museum Mile) 」の愛称で知られる。このミュージアム・マイルは元々、20世紀前半に多くの大邸宅が建てられたため「'''百万長者通り''' (Millionaire's Row) 」として知られ、ニューヨークの裕福層がこぞってセントラル・パークに面するこの通り沿いに転居した。<br />
<br />
このセントラルパークの東脇を通る区間は'''セントラルパーク・イースト'''とも呼ばれる。<br />
<br />
103丁目にニューヨーク医学会、98丁目に[[マウントサイナイ医科大学|シナイ山病院]]が位置している。<br />
<br />
[[34丁目 (マンハッタン)|34丁目]]から60丁目にかけては、<br />
*[[ティファニー]]<br />
*[[カルティエ]]<br />
*[[バーバリー]]<br />
*[[エルメネジルド・ゼニア]]<br />
*[[グッチ]]<br />
*[[ルイヴィトン]]<br />
*[[シャネル]]<br />
*[[ブルックス・ブラザーズ]]<br />
*[[プラダ]]<br />
*[[エルメス]]<br />
*[[サルヴァトーレ・フェラガモ]]<br />
*[[ミキモト]]<br />
*[[ブルガリ]]<br />
*[[エミリオ・プッチ]]<br />
*[[アルマーニ|アルマーニ・エクスチェンジ]]<br />
*[[コーチ]]<br />
*[[エスカーダ]]<br />
*[[ディオール|クリスチャン・ディオール]]<br />
*[[ヴィクトリアズ・シークレット]]<br />
*[[ラコステ]]<br />
*[[フェンディ]]<br />
*[[セフォラ]]<br />
*[[ヴェルサーチ]]<br />
*[[ケネス・コール]] ([[:en:Kenneth Cole (designer)|en]]) <br />
*[[サックス・フィフス・アベニュー]]<br />
*[[H.スターン]] ([[:en:H. Stern|en]]) <br />
*[[ハリー・ウィンストン]]<br />
*[[ヘンリ・ベンデル]] ([[:en:Henri Bendel|en]]) <br />
*[[エマニュエル・ウンガロ]]<br />
*[[ピーターフォックス]]<br />
*[[バナナ・リパブリック]]<br />
*[[ヒューゴ・ボス]]<br />
*[[バーグドーフ・グッドマン]] ([[:en:Bergdorf Goodman|en]]) <br />
などの高級[[ブティック]]ないし小売店が軒を連ねる。<br />
<br />
5番街の有名な老舗小売業者は、[[B.アルトマン・アンド・カンパニー]] ([[:en:B. Altman and Company|en]]) 、[[ボンウィット・テラー]] ([[:en:Bonwit Teller|en]]) 、[[ペック・アンド・ペック]] ([[:en:Peck & Peck|en]]) などである。5番街に拠点を置く高級百貨店チェーンとしては、上記サックス・フィフス・アベニューがある。<br />
<br />
5番街720番地には[[アバクロンビー&フィッチ]]の本店が位置し、東58丁目と東59丁目の間には、[[FAOシュワルツ]] ([[:en:FAO Schwarz|en]]) や[[Apple Store|アップル ・ストア]]の入り口で約10メートル四方のガラス製の立方体をした建物がある。<br />
<br />
== 日本語での呼称 ==<br />
マンハッタンの[[街区]]の多くは、南北に走る通りである「[[アヴェニュー]] (Avenue) 」と、東西に走る通りである「ストリート (Street) 」 とが、[[格子]]状([[碁盤の目]]状)に組み合わされて形成される。日本語では、これらをそれぞれ「-街」、「-丁目」と呼称するのが古くからの慣例となっていた。「5th Avenue」の対訳が「5番街」であるのは、このルールに従っている。<br />
<br />
[[1900年代]]前半のニューヨークに居住した作家・[[永井荷風]]は、著書の中でこれを「第五大通り」と称している<ref>永井荷風 『あめりか物語』 1908年刊 <br />
</ref>。<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[ジェローム・アベニュー]] ([[:en:Jerome Avenue|en]]) - [[ブロンクス区|ブロンクス]]でメインのショッピングストリート。5番街のほぼ北の延長線上に位置する。<br />
* [[クライスラー・フィフスアベニュー]] - アメリカの自動車会社[[クライスラー]]がかつて販売していた大型[[乗用車]]の車種名。本項の通り名に由来。<br />
* [[500 五番街|500 フィフス・アヴェニュー]] - マンハッタンの[[超高層建築物|超高層ビル]]。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<references /><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.at-newyork.com/newyork_play/new-york-shopping/ ニューヨークのショッピング・お土産ガイド]<br />
* [http://visit5thavenue.com/ Visit 5th Avenue.com]<br />
<br />
{{commons category|5th Avenue (Manhattan)}}<br />
{{NYC-stub}}<br />
<br />
{{マンハッタンの通り}}<br />
{{coord|40.774|N|73.966|W|display=title|source:dewiki}}<br />
{{デフォルトソート:5はんかい}}<br />
[[Category:5番街|*]]<br />
[[Category:マンハッタンの通り]]<br />
[[Category:商店街]]</div>
103.226.44.10
赤坂 (東京都港区)
2018-07-29T18:51:57Z
<p>103.226.44.10: /* 企業・法人 */あかさたな順に</p>
<hr />
<div>{{otheruses|東京都港区の町名|旧赤坂区の範囲を継承した「赤坂地区」|赤坂区#地理}}<br />
{{Pathnav|日本|東京都|[[港区 (東京都)|港区]]|'''赤坂'''|hide=y|frame=1}}<br />
{{Infobox settlement<br />
| name = 赤坂<br />
| settlement_type = [[町丁]]<br />
| image_skyline = Sotobori Road Akasaka.JPG| imagesize = 270px<br />
| image_caption = 赤坂見附付近<br />
| image_map = <br />
| map_caption = 赤坂の位置<br />
| pushpin_map = Japan Wards of Tokyo#<br />
| latd = 35 | latm = 40 | lats = 20.54 | latNS = N<br />
| longd = 139 | longm = 44 | longs = 11.54 | longEW = E<br />
| subdivision_type = [[国の一覧|国]]<br />
| subdivision_name = {{JPN}}<br />
| subdivision_type1 = [[都道府県]]<br />
| subdivision_name1 = [[File:Flag of Tokyo Prefecture.svg|border|25px]] [[東京都]]<br />
| subdivision_type2 = [[東京都区部|特別区]]<br />
| subdivision_name2 = [[File:Flag of Minato, Tokyo.svg|border|25px]] [[港区 (東京都)|港区]]<br />
| subdivision_type3 = 地区<br />
| subdivision_name3 = 赤坂地区<br />
| established_title1 = <!--- 設置 ---><br />
| established_date1 = <!--- 設置日 ---><br />
| area_footnotes = <ref name="menseki">{{Cite web|url=http://www.city.minato.tokyo.jp/toukeichousa/kuse/toke/jinko/kokusechosa/index.html|title=平成22年国勢調査による各総合支所管内別の町丁目別面積・昼夜人口等|publisher=港区|date=2015-02-19|accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
| area_total_km2 = 1.34<br />
| elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref>) ---><br />
| elevation_m = <!--- 標高 ---><br />
| population_as_of= [[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在<br />
| population_footnotes = <ref name="population">{{Cite web|url=http://www.city.minato.tokyo.jp/toukeichousa/kuse/toke/jinko/chocho/index.html|title=各月1日現在の各総合支所管内別の町丁目別人口・世帯数(平成14年~平成29年)|publisher=港区|date=2017-12-06|accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
| population_total = 18481<br />
| population_density_km2 = auto<br />
| timezone1 = [[日本標準時]]<br />
| utc_offset1 = +9<br />
| postal_code_type = [[郵便番号]]<br />
| postal_code = 107-0052<ref name="postal">{{Cite web |url=http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?zip=1070052|title=郵便番号|publisher=[[日本郵便]] |accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
| area_code = 03<ref name="areacode">{{Cite web|url=http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/shigai_list.html|title=市外局番の一覧|publisher=総務省|accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
| registration_plate = [[東京運輸支局|品川]]<br />
| footnotes = <br />
}}<br />
'''赤坂'''(あかさか)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の町名または地区。<br />
<br />
== 赤坂(地域) ==<br />
{{see|赤坂区}}<br />
東京都港区のうち、旧[[赤坂区]]の範囲にあたる、赤坂総合支所(赤坂4-18-13、[[郵便番号]]:107-8516)の管轄下になる区域を赤坂地区と呼ぶ。赤坂一丁目 - 九丁目、[[北青山]]一丁目 - 三丁目、[[南青山]]一丁目 - 七丁目、[[元赤坂]]一丁目・二丁目が属する。<br />
<br />
=== 歴史 ===<br />
地名の由来は、[[紀伊国坂 (港区)|紀伊国坂]]と[[赤土]]が多い土壌に幾多の坂があることの二説ある。<br />
<br />
この赤坂の地は古くは『茜坂』と呼ばれていた。その名のとおり[[アカネ]]が群生していたとされている。<br />
<br />
[[1567年]]に人継村(ひとつぎむら)が開拓される。<br />
<br />
[[江戸時代]]に現在の元赤坂付近に町屋、[[武家屋敷]]が造られたのを皮切りに次第に市街化してゆく。<br />
<br />
[[明治|明治時代]]に入り、[[1878年]]の[[郡区町村編制法]]により、この地区は[[東京15区]]のひとつ、[[赤坂区]]の一部となった([[港区 (東京都)|港区]]の前身。その範囲はおおむね港区の北-西部。今日「赤坂」あるいは「[[青山 (東京都港区)|青山]]」を町名に含む地区)。かつて、多くの大名屋敷や[[旗本]]屋敷が存在した高台の地域は[[官吏]]や軍人、[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]家庭から成る都心部有数の邸宅街へと発展。それらの地域以外は庶民の[[住宅地|住宅街]]、個人[[商店]]、高級[[料亭]]、[[旅館]]などが密生していった。<br />
<br />
昭和30年代初頭から昭和55年頃までの赤坂は[[銀座]]と並ぶ高級な[[繁華街]]として栄華を極め、高級料亭、[[キャバレー]]、[[ナイトクラブ]]、ゴーゴークラブなどが多く集まっていた。[[欧米]]諸国の[[企業]]および[[大使館]]の駐在員や同じく欧米諸国の[[スチュワーデス]]が常宿していた高級ホテルが至近だった事、そして当時の東京と周辺には[[米軍住宅]]が多かった事、更に1[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]360-310円だった事もあいまって[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]を挟んだ[[永田町]]2丁目を含め[[レストラン]]シアターの[[ミカド (キャバレー)|ミカド]]、ナイトクラブの[[コパカバーナ]]、[[ニューラテンクォーター]]、[[中華料理]]の山王飯店、[[ロシア料理]]のマノス、ゴーゴークラブのムゲン、ビブロスなどには[[外国人]]客が多かった。また、[[アマンド]]やトップス&サクソンにはTBSやレコード会社に出入りする芸能人、ファッションモデル、文化人などが多く、街は華やかさを呈していた。<br />
<br />
==赤坂(町名) ==<br />
現行行政地名は赤坂一丁目から赤坂九丁目。[[郵便番号]]は107-0052<ref name="postal" />。<br />
<br />
=== 地理 ===<br />
赤坂地区の東端に位置し、[[千代田区]]([[霞が関]]・[[永田町]])との区境にあたる。[[赤坂駅 (東京都)|赤坂駅]]前には、[[TBSテレビ|TBS]]の本社があり、全国的に知名度も高い。[[赤坂見附駅]]周辺は[[骨董品店]]や[[ホテル]]などが多い。<br />
<br />
=== 歴史 ===<br />
[[1966年]]には[[住居表示]]が実施され、赤坂一丁目から赤坂九丁目、元赤坂一丁目・元赤坂二丁目が成立し<ref name="kokuji">1966年(昭和41年)11月30日自治省告示第176号「住居表示が実施された件」</ref>、[[1967年]]には赤坂葵町が[[虎ノ門]]二丁目となった。<br />
<br />
==== 町名の変遷 ====<br />
{| class="wikitable"<br />
|-<br />
!実施後<br />
!実施年月日<br />
!実施前(特記なければ各町丁ともその一部)<br />
|-<br />
|赤坂一丁目<br />
|rowspan="9"|[[1966年]][[7月1日]]<br />
|赤坂溜池町、赤坂田町七丁目、赤坂榎坂町、赤坂霊南坂町<br />
|-<br />
|赤坂二丁目<br />
|赤坂溜池町、赤坂田町五丁目(全域)、赤坂田町六丁目(全域)、赤坂田町七丁目、赤坂新町三丁目、赤坂福吉町、麻布谷町<br />
|-<br />
|赤坂三丁目<br />
|赤坂田町一丁目(全域)、赤坂田町二丁目(全域)、赤坂田町三丁目(全域)、赤坂田町四丁目(全域)、赤坂新町一丁目(全域)、赤坂新町二丁目(全域)、赤坂新町三丁目<br />
|-<br />
|赤坂四丁目<br />
|赤坂表町二丁目、赤坂表町三丁目、赤坂一ツ木町、赤坂丹後町(全域)<br />
|-<br />
|赤坂五丁目<br />
|赤坂新町三丁目、赤坂新町四丁目(全域)、赤坂一ツ木町<br />
|-<br />
|赤坂六丁目<br />
|赤坂新町五丁目、赤坂中ノ町(全域)、赤坂氷川町(全域)、赤坂福吉町<br />
|-<br />
|赤坂七丁目<br />
|赤坂表町三丁目、赤坂台町(全域)、赤坂新町五丁目<br />
|-<br />
|赤坂八丁目<br />
|赤坂表町四丁目(全域)、赤坂新坂町、赤坂檜町<br />
|-<br />
|赤坂九丁目<br />
|赤坂檜町<br />
|}<br />
==== 消滅した町名 ====<br />
住居表示上「赤坂」とつく町名である元赤坂一丁目・元赤坂二丁目と赤坂一丁目から赤坂九丁目は、[[1966年]]の住居表示実施により誕生した。これにより、この地に古くから続いていた町名が失われることになった。現在「赤坂」とつく町域を構成していた旧町名(港区発足直前の町名)を以下にすべて挙げる。<br />
<br />
なお、港区が誕生した[[1947年]]、旧赤坂区の町名にはすべて「赤坂」を冠する町名変更が行われた(例: 一ツ木町→赤坂一ツ木町、青山権田原町→赤坂青山権田原町、など。元赤坂町など一部例外あり)。この「赤坂」を冠する町名(以下のカッコ内の町名)は、住居表示実施まで続いた。<br />
<br />
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"><br />
* 葵町(赤坂葵町)<br />
* 青山権田原町(赤坂青山権田原町)<br />
* 青山六軒町(赤坂青山六軒町)<br />
* 一ツ木町(赤坂一ツ木町)<br />
* 榎坂町(赤坂榎坂町)<br />
* 表町(赤坂表町)<br />
* 新町(赤坂新町)<br />
* 新坂町(赤坂新坂町)<br />
* 台町(赤坂台町)<br />
* 田町(赤坂田町)<br />
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"><br />
* 溜池町(赤坂溜池町)<br />
* 丹後町(赤坂丹後町)<br />
* 伝馬町(赤坂伝馬町)<br />
* 中ノ町(赤坂中ノ町)<br />
* 氷川町(赤坂氷川町)<br />
* 桧町(赤坂桧町)<br />
* 福吉町(赤坂福吉町)<br />
* 元赤坂町<br />
* 霊南坂町(赤坂霊南坂町)<br />
</div>{{clear|left}}<br />
<br />
===== 溜池町 =====<br />
[[ファイル:100 views edo 048.jpg|200px|thumb|広重「[[名所江戸百景]]」に描かれた江戸末期の溜池。対岸に[[日枝神社 (千代田区)|山王社]]の森を望む。題にある『赤坂桐畑』は、赤坂田町6丁目あたり<ref name=matsukawa/>。桐は、溜池の補強のために成長が早い木として植えられていた<ref>[http://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/akasaka/?edo=akasaka-ezu 錦絵で楽しみ江戸の名所 赤坂]国立国会図書館]</ref>]]<br />
溜池は[[江戸城]][[外濠 (東京都)|外濠]]の一部を構成していた。元々水の湧く所であり、堤を作り水を溜めるようにしたためこの名がある。その形から別名ひょうたん池とも呼ばれた。[[神田上水]]、[[玉川上水]]が整備されるまではこの溜池の水を上水として利用していた。堤に印の[[エノキ|榎]]を植えたため、現在[[赤坂ツインタワー]]から[[駐日アメリカ合衆国大使館]]に上る坂道は榎坂と呼ばれる。<br />
<br />
[[宝永]]年間より断続的に埋め立てられた。明治21年に完全に埋め立てられて溜池町となった<ref name=matsukawa>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1458091/24 『三都花街めぐり』](誠文堂文庫) / 松川二郎著(誠文堂, 1932), p35</ref>。<br />
<br />
昭和初期から昭和40年代にかけてはこの周辺に輸入外車の販売店が集積するようになり、[[自動車]]街と呼ばれるようになった。溜池交差点から山王下までだけでも[[日本自動車]]([[フィアット]]、[[アウディ]]、[[アメリカン・モーターズ]])・[[ミツワ自動車|三和自動車]]([[パッカード]]、[[ポルシェ]])、[[東邦モーターズ]]([[オペル]]、[[オールズモビル (自動車)|オールズモビル]])、[[日英自動車]]([[MG (自動車)|MG]]や[[ポンティアック]])、[[安全自動車]]([[ダッジ]])、[[国際自動車商事]]([[ランチア]])、八洲自動車([[クライスラー]])などが軒を連ねていた。輸入車は当時の平均的[[日本人]]の生活水準からは極めて高価な存在で、購入するなど思いもつかなかった当時のカーマニアたちは[[カメラ]]片手に散策を楽しんだ。しかし、昭和50年代以降は[[オフィスビル]]化が進み、今は当時の面影を殆ど残していない。<br />
<br />
[[1966年]]の住居表示実施に伴う町丁名変更により赤坂一丁目と赤坂二丁目が誕生し、溜池町は消滅。今日、溜池交差点や[[東京地下鉄]][[溜池山王駅]]、[[都営バス]]([[都営バス渋谷営業所#都01系統(グリーンシャトル)・RH01・深夜01系統|都01系統]])溜池停留所などに名を残している。<br />
<br />
===== 一ツ木町 =====<br />
江戸時代には[[町奉行]]を務めた[[大岡忠相]]の屋敷があった。大岡邸内にあった豊川稲荷は現在も残り、盗難よけの御利益があるとされ信仰を集めている。[[戦前]]には[[近衛師団|近衛歩兵第二旅団]]司令部、[[近衛歩兵第3連隊|同歩兵第三連隊]]があり軍隊の街であった。[[1955年]]にラジオ東京(現・[[東京放送ホールディングス]])が一ツ木町に局舎を建設した(当初は[[TBSテレビ|テレビ部門]]のみ入居し、[[1962年]]に[[有楽町]]にあった[[TBSラジオ|ラジオ部門]]も赤坂に移転してきた)。歴史の項にもあるように江戸時代以前からの地名(人継→一ツ木)であったが、1966年の住居表示実施に伴う町名変更により赤坂四丁目と赤坂五丁目が誕生し<ref name="kokuji"/>、一ツ木町は消滅した。一ツ木通りに名を残す。<br />
<br />
===== 赤坂表町 =====<br />
寛永13年(1636)に[[徳川家康|家康]]入国以来、よく務めを果たしたとして南伝馬町の伝馬役3名に褒美として与えられた土地で、初めは赤坂新伝馬町と称し、その後表通りが表伝馬町、裏通りが裏伝馬町となり、明治5年(1872)に赤坂表1~4丁目、同44年(1911)に赤坂表町1〜4丁目となった<ref name=omote>[https://ja.monumen.to/spots/437 赤坂表町]赤坂地区旧町名由来板、港区赤坂地区総合支所協働推進課</ref>。明治時代には、1・2丁目の東半分の表通りは商店街として賑わい、3・4丁目は旧武家屋敷であり官公庁や華族などの邸宅地となった<ref name=omote/>。1966年に1丁目が元赤坂1丁目に、2丁目が元赤坂1丁目と赤坂4丁目に、3丁目が赤坂4・7丁目に、4丁目が赤坂8丁目に編入された。<br />
<br />
===== 赤坂田町 =====<br />
赤坂田町は古くは湿地帯で、その後田畑が発達したことから田町と命名された<ref name=tamachi>[https://www.city.minato.tokyo.jp/akasakamachitan/akasaka/koho/documents/akasakamitsukeeki.pdf 赤坂田町]赤坂地区旧町名由来版、港区赤坂地区総合支所協働推進課</ref>。家康入府以来の功により南伝馬町の御馬役に大縄地として賜り、島原の乱の翌1638年に町屋を取立て、城中の御能の拝見を許され、その際に酒菓を頂戴する特権も許された<ref>[http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8217970_po_30-2-09.pdf 交差の界隈性 : 現代東京における江戸の見附地と辻の役割]牛垣雄矢[他] (国際交通安全学会, 2005-08) </ref>。1760年(宝暦10年)には[[紺屋]]の物干場が設けられ、1817年(文化10年)には[[床屋|床店]]が見られ、低廉客向けの岡場所もできて人気を集めた<ref>[https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1310305100/1310305100100010/ht101400/?Word=%e8%b5%a4%e5%9d%82%e7%94%b0%e7%94%ba 新修港区史, p293-300]港区/デジタル港区史 </ref>。明治時代には1~4丁目(現・赤坂3丁目)は赤坂花柳界の中心地として賑わった<ref name=tamachi/>。1966年に赤坂田町1~7丁目が赤坂1~3丁目に変更された。[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]とみすじ通りの間を平行に走る650mの通りは「赤坂田町通り」と旧町名を残して呼ばれ、繁華街として賑わっていたが、1970年代に高級料亭がなくなると荒れた雰囲気となり、[[暴力団]]が関係する風俗店や飲食店、[[在日韓国・朝鮮人|韓国系]]のビル所有者やテナント料飲店が入居し、「ヤッカン通り」とも呼ばれるようになった<ref>[http://www.e-akasaka.com/contents/topic/topic_colu/column/column08.asp 第8回「ヤッカン通りと取り組むことになりました」]城所ひとみ、商店街振興組合エスプラナードアカサカ</ref>。その後道路整備工事が行われ、現在は「エスプラナード赤坂通り」という商店街になっている<ref>[http://www.e-akasaka.com/index.asp エスプラナード赤坂商店街振興組合]</ref>。<br />
<br />
<gallery mode="packed" caption="" heights="160"><br />
File:Found Photo - Japan - Tokyo - street view 2.tif (34176178551).jpg|[[1973年]]の赤坂見附立体交差点付近<br />
File:Streets near Akasaka-Mitsuke in Tokyo.jpg|[[永田町]]から赤坂見附立体交差を見る<br />
File:Akasaka Hitotsugi Street ,Tokyo-pref. - panoramio.jpg|一ツ木通り<br />
File:TBS headquarters 2013.JPG|[[東京放送ホールディングス|TBS]]放送センター<br />
</gallery><br />
<br />
== 世帯数と人口 ==<br />
[[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"></ref>。<br />
{| class="wikitable"<br />
![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]<br />
|-<br />
|赤坂一丁目<br />
|style="text-align:right"|288世帯<br />
|style="text-align:right"|615人<br />
|-<br />
|赤坂二丁目<br />
|style="text-align:right"|2,014世帯<br />
|style="text-align:right"|2,987人<br />
|-<br />
|赤坂三丁目<br />
|style="text-align:right"|223世帯<br />
|style="text-align:right"|305人<br />
|-<br />
|赤坂四丁目<br />
|style="text-align:right"|1,308世帯<br />
|style="text-align:right"|2,230人<br />
|-<br />
|赤坂五丁目<br />
|style="text-align:right"|514世帯<br />
|style="text-align:right"|882人<br />
|-<br />
|赤坂六丁目<br />
|style="text-align:right"|2,402世帯<br />
|style="text-align:right"|3,902人<br />
|-<br />
|赤坂七丁目<br />
|style="text-align:right"|1,562世帯<br />
|style="text-align:right"|2,571人<br />
|-<br />
|赤坂八丁目<br />
|style="text-align:right"|1,696世帯<br />
|style="text-align:right"|3,220人<br />
|-<br />
|赤坂九丁目<br />
|style="text-align:right"|1,214世帯<br />
|style="text-align:right"|1,769人<br />
|-<br />
|style="text-align:center"|計<br />
|style="text-align:right"|11,221世帯<br />
|style="text-align:right"|18,481人<br />
|}<br />
<br />
== 教育 ==<br />
かつて[[日本大学第三中学校・高等学校|日本大学第三高校]]がTBS[[赤坂サカス]]や[[国際新赤坂ビル]]周辺界隈にあったが<!--http://ktymtskz.my.coocan.jp/metro/chiyo.htm 参照-->、1976年に[[町田]]に移転。[[東京都立赤坂高等学校|都立赤坂高校]]は赤坂で創立されたが1957年に[[青山霊園]]傍の[[南青山]]に移転し2009年に閉校した。また、[[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]に面して隣接する[[永田町]]には1929年以来[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]]が所在する。<br />
; 高等学校<br />
* [[山脇学園中学校・高等学校|山脇学園高等学校]]<br />
; 中学校<br />
* [[山脇学園中学校・高等学校|山脇学園中学校]]<br />
* [[港区立赤坂中学校]]<br />
; 小学校<br />
* [[港区立赤坂小学校]]<br />
; 幼稚園<br />
* 港区立中之町幼稚園<br />
<br />
=== 小・中学校の学区 ===<br />
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school_1">{{Cite web|url=http://www.city.minato.tokyo.jp/gakkouuneishien/kodomo/gakko/tetsuzuki/tennyugaku/tetsuzuki/tsugakukuiki27.html|title=港区立小・中学校通学区域一覧表|publisher=港区|date=2015-04-01|accessdate=2018-01-07}}</ref><br />
{| class="wikitable"<br />
!丁目!!番地!!小学校!!中学校<br />
|-<br />
||赤坂一丁目||全域||rowspan=9|[[港区立赤坂小学校]]||rowspan=9|[[港区立赤坂中学校]]<br />
|-<br />
||赤坂二丁目||全域<br />
|-<br />
||赤坂三丁目||全域<br />
|-<br />
||赤坂四丁目||全域<br />
|-<br />
||赤坂五丁目||全域<br />
|-<br />
||赤坂六丁目||全域<br />
|-<br />
||赤坂七丁目||全域<br />
|-<br />
||赤坂八丁目||全域<br />
|-<br />
||赤坂九丁目||全域<br />
|}<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
* [[東京地下鉄]] [[赤坂駅 (東京都)|赤坂駅]](<span style="color:#009944">'''○'''</span>[[東京メトロ千代田線|千代田線]])<br />
* 東京地下鉄 [[赤坂見附駅]](<span style="color:orange">'''○'''</span>[[東京メトロ銀座線|銀座線]]、<span style="color:#e60012">'''○'''</span>[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]])<br />
* [[都営地下鉄]] [[六本木駅]](<span style="color: #b6007a">'''○'''</span>[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])<br />
* 東京地下鉄 [[溜池山王駅]](<span style="color:orange">'''○'''</span>銀座線、<span style="color:#339992">'''○'''</span>[[東京メトロ南北線|南北線]])- 出入口が設けられている。(所在地:[[永田町]])<br />
* 東京地下鉄 [[永田町駅]](<span style="color:#339992">'''○'''</span>南北線、<span style="color:#E5D100">'''○'''</span>[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]、<span style="color: #9b7cb6">'''○'''</span>[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]])- 出入口が設けられている。(所在地:永田町)<br />
* 東京地下鉄 [[乃木坂駅]](<span style="color:#009944">'''○'''</span>千代田線)- 出入口が設けられている。(所在地:[[南青山]])<br />
<br />
=== 路線バス ===<br />
* [[都営バス]]<br />
** [[都営バス渋谷営業所#都01系統、RH01系統、深夜01系統|都01]] 溜池<br />
** [[都営バス渋谷営業所#都01系統、RH01系統、深夜01系統|深夜01]] 溜池<br />
* [[ちぃばす]](コミュニティバス)<br />
** 赤坂ルート 赤坂小前、赤坂五丁目交番前、赤坂駅前、山王下、赤坂見附駅、豊川稲荷前、赤坂地区総合支所前、赤坂八丁目、山王病院前、乃木公園、赤坂六丁目<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* [[東京都道319号環状三号線]](環状三号線・[[外苑東通り]])<br />
* [[東京都道405号外濠環状線]]<br />
* [[東京都道412号霞ヶ関渋谷線]]<br />
* [[東京都道413号赤坂杉並線]](一ツ木通り・赤坂通り)<br />
* [[九郎九坂]]<br />
* [[首都高速道路]]・出入口<br />
** [[首都高速都心環状線]]<br />
<br />
== 施設 ==<br />
=== 公園 ===<br />
* [[高橋是清翁記念公園]] - 初代の赤坂区役所跡にあたる。<br />
* [[檜町公園]]<br />
* [[乃木神社 (東京都港区)|乃木公園]]<br />
<br />
=== 企業・法人 ===<br />
* [[アクセンチュア]]、[[アクセンチュア・テクノロジー・ソリューションズ]] - 日本法人本社所在地・[[赤坂インターシティ]]内<br />
* [[アパグループ]] - 本社所在地<br />
* [[安藤・間]] - 本社所在地<br />
* [[一休 (企業)|一休]] - 本社所在地・住友生命赤坂ビル<br />
* [[エスカーダ]]ジャパン - 日本法人本社所在地<br />
* [[NTTデータ・イントラマート ]] - 本社所在地・[[赤坂ツインタワー]]内<br />
* [[エピックレコードジャパン]](EPIC) - 本社所在地([[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|SME]]グループ、現在はソニー・ミュージックレーベルズ(本社は千代田区[[六番町 (千代田区)|六番町]])の一部門)<br />
* [[キューンミュージック]] (Ki/oon) - 本社所在地(SMEグループ、現在はソニー・ミュージックレーベルズ(本社は千代田区六番町)の一部門)<br />
* [[極洋]] - 本社所在地<br />
* [[国際石油開発帝石]] - 本社所在地・[[赤坂Bizタワー]]内<br />
* [[コナミホールディングス]] - 本社所在地・東京ミッドタウン内<br />
* [[小松製作所]] - 本社所在地<br />
* [[サンヨー食品]] - 本社所在地<br />
* [[ジャニーズ事務所]] - 本社所在地<br />
* [[スカパーJSAT]] - 本社所在地<br />
* [[双日]] - 本社所在地・新[[国際赤坂ビル]]内<br />
* [[ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル]] - 本社所在地(SMEグループ、現在はソニー・ミュージックレーベルズ(本社は千代田区六番町)の一部門)<br />
* [[ツムラ]] - 本社所在地・赤坂シグマタワービル内<br />
* [[東急エージェンシー]] - 本社所在地<br />
* [[東京エレクトロン]] - 本社所在地・赤坂Bizタワー内<br />
* [[東京スター銀行]] - 本店所在地<br />
* [[東京放送ホールディングス]](TBSHD) - 本社所在地(TBSグループ)<br />
** [[TBSテレビ]] - 本社所在地(TBSグループ)<br />
** [[TBSラジオ]] - 本社所在地(TBSグループ)<br />
** [[BS-TBS]] - 本社所在地(TBSグループ)<br />
* [[東北新社]] - 本社所在地<br />
* [[トムソン・ロイター]] - 日本法人・赤坂Bizタワー内<br />
* [[虎屋]] - 本社所在地<br />
* [[日本サブウェイ]] - 本社所在地・赤坂フローラルプラザビル内 ([[サントリー]]グループ)<br />
* [[日本貿易振興機構]](JETRO) - 本部所在地<br />
* [[バーニングプロダクション]] - 本社所在地<br />
* [[博報堂DYホールディングス]] - 本社所在地・赤坂Bizタワー内<br />
* [[ハラヤミュージックエンタープライズ]] - 本社所在地<br />
* [[BMB]] - 本社所在地<br />
* [[富士ゼロックス]] - 本社所在地・[[東京ミッドタウン]]<br />
* [[毎日放送]] - 東京支社・赤坂Bizタワー内<br />
<!-- * [[ヤフー (企業)|ヤフー]] - 本社所在地 (2009-16) →千代田区紀尾井町 --><br />
* [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]] - 本社所在地<br />
** [[EMIミュージック・ジャパン]] - 本社所在地・赤坂Bizタワー内(現在はユニバーサルミュージック本社赤坂オフィス)<br />
* [[ファーストリテイリング]] - 本社所在地・[[ミッドタウンタワー]]内<br />
* [[WOWOW]] - 本社所在地・赤坂パークビル内<br />
<br />
* [[幸福実現党]] - 本部所在地・ユートピア活動推進館内<br />
* [[新党改革]] - 本部所在地・オリエントニュー赤坂内<br />
<br />
=== 観光 ===<br />
[[File:Akasakaryoutei.JPG|thumb|180px|[[赤坂 (花街)]]、奥は[[国際赤坂ビル]]]]<br />
* [[赤坂サカス]]<br />
* [[赤坂ACTシアター]] - [[赤坂サカス]]内<br />
* [[赤坂Bizタワー]] - 赤坂サカス内<br />
* [[赤坂BLITZ]] - 赤坂サカス内<br />
* [[東京ミッドタウン]] - 旧[[防衛省|防衛庁]]・[[檜町駐屯地]]跡地<br />
* [[サントリー美術館]] - [[東京ミッドタウン]]内<br />
* [[氷川神社 (東京都港区赤坂)|氷川神社]]<br />
* [[乃木神社 (東京都港区)|乃木神社]]<br />
* [[赤坂 (花街)]]<br />
<br />
=== 大使館 ===<br />
* [[駐日アメリカ合衆国大使館|アメリカ合衆国大使館]]<br />
* [[駐日カナダ大使館|カナダ大使館]]<br />
<br />
== 赤坂を舞台・背景とした作品 ==<br />
=== 楽曲 ===<br />
* 「コモエスタ赤坂」(歌:[[ロス・インディオス]]&[[シルヴィア (歌手)|シルビア]]、作詞:西山隆史、作曲:浅野和典)<br />
* 「[[赤坂の夜は更けて/女の意地|赤坂の夜は更けて]]」(歌:[[西田佐知子]]、作詞:[[鈴木道明]]、作曲:G.Selden)<br />
* 「[[雨の赤坂]]」(歌:[[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]]、[[角川博]](カバー)、作詞:橋本淳、作曲:三原綱木)<br />
* 「めぐり逢い赤坂」(歌:[[新沼謙治]]・松原のぶえ、作詞:杉本真人、作曲:初信之介)<br />
* 「どうするの赤坂」(歌:[[山田邦子]]・[[高嶋政伸]]、作詞:山田邦子、作曲:高槻正裕)<br />
* 「赤坂ブルース」(歌:[[美川憲一]]、作詞:[[高畠じゅん子]]、作曲:[[中川博之]])<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
* 赤坂の姉妹より 夜の肌(1960年、[[東宝]]/[[東京映画]])<br />
* [[惑星ソラリス]](1972年)未来都市のシーンに赤坂見附の立体交差が登場する。<br />
* [[ゴジラvsモスラ]](1992年)<br />
* [[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]](2003年)<br />
<br />
=== ドラマ ===<br />
* [[ひよっこ (テレビドラマ)|ひよっこ]](2017年 [[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]])主人公の再就職先及び転居先が赤坂。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{commonscat|Akasaka, Tokyo}}<br />
* [[赤坂消防署発祥の地記念碑]](所在地:[[南青山]])<br />
* [[グランドプリンスホテル赤坂]](所在地:[[千代田区]][[紀尾井町]])<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/gaiyo/chimerekishi/01.html 赤坂(あかさか)]<br />
* [http://akasaka5.net/ 赤坂五通り商店街 公式Webサイト]<br />
* [http://www.e-akasaka.com/ エスプラナード赤坂商店街振興組合 公式Webサイト]<br />
* [https://www.city.minato.tokyo.jp/shibamadochou/jyuukyohyouji/documents/kyuusinntyoumei.pdf 港区町名旧新対照表 赤坂・元赤坂・元麻布(昭和41年7月1日住居表示実施)]港区役所<br />
<br />
{{Geographic Location<br />
|Centre = 赤坂<br />
|North = [[元赤坂]]<br />
|Northeast = [[永田町]] <br />
|East = [[霞が関]]<br />
|Southeast = [[虎ノ門]]<br />
|South = [[六本木]]<br />
|Southwest = <br />
|West = [[南青山]]<br />
|Northwest =<br />
|image =<br />
}}<br />
{{東京都港区の町名}}<br />
{{東京23区の地域}}<br />
{{TBSグループ}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:あかさか}}<br />
[[Category:東京都港区の町名]]<br />
[[Category:赤坂|*]]</div>
103.226.44.10
アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)
2018-07-28T15:46:35Z
<p>103.226.44.10: イートン中退</p>
<hr />
<div>{{政治家<br />
|人名 = 初代ウェリントン公爵<br />アーサー・ウェルズリー<br />
|各国語表記 = {{lang|en|Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington}}<br />
|画像 =Arthur Duke of Wellington.jpg<br />
|画像説明 = 1814年に描かれた肖像画([[トーマス・ローレンス (画家)|サー・トマス・ローレンス]]画)<br />
|国略称 ={{GBR}}<br />
|生年月日 = [[1769年]][[4月29日]]<br />
|出生地 = {{Flagcountry2|アイルランド王国}}、[[ダブリン]]<br />
|没年月日 = [[1852年]][[9月14日]] (83歳没)<br />
|死没地 = {{GBR3}}、[[イングランド]]、[[ケント (イングランド)|ケント]]州、{{仮リンク|ウェルマー|en|Walmer}}<br />
|出身校 = [[イートン校]](中退)、ピニロール陸軍士官学校<br />
|前職 = [[イギリス陸軍|陸軍]][[軍人]]<br />
|所属政党 = [[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]([[保守党 (イギリス)|保守党]])→[[クロスベンチャー|中立派]]<br />
|称号・勲章 = {{仮リンク|陸軍元帥 (イギリス)|label=陸軍元帥|en|Field marshal (United Kingdom)<!-- [[:ja:元帥 (イギリス)]] とリンク -->|FIXME=1}}、[[ガーター勲章]]勲爵士(KG)、[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス(GCB)、[[ロイヤル・ゲルフ勲章]]ナイト・グランド・クロス(GCH)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)、[[王立協会フェロー]](FRS) [[#栄典|他]]<br />
|親族(政治家) = [[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|初代ウェルズリー侯爵]](長兄)<br>{{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=2代ウェリントン公爵|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}(長男)<br>{{仮リンク|チャールズ・ウェルズリー (1808-1858)|label=チャールズ・ウェルズリー|en|Lord Charles Wellesley}}(次男)<br />
|配偶者 = {{仮リンク|キャサリン・ウェルズリー (ウェリントン公爵夫人)|label=キャサリン・パクナム|en|Catherine Wellesley, Duchess of Wellington}}<br />
|サイン = Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington Signature.svg<br />
|国旗 = GBR<br />
|職名 = [[イギリスの首相|首相]]<br />
|就任日 = [[1828年]][[1月22日]] - [[1830年]][[11月16日]]<br />[[1834年]][[11月14日]]<br />
|退任日 = [[1834年]][[12月10日]]<br />
|元首職 = 国王<br />
|元首 = [[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]<br />[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]<br />
|国旗2 = GBR<br />
|職名2 = [[外務・英連邦大臣|外務大臣]]<br />
|内閣2 = 第2次ウェリントン公爵内閣(兼任)<br />第1次[[ロバート・ピール|ピール]]内閣<br />
|就任日2 = [[1834年]][[11月14日]]<br />
|退任日2 = [[1835年]][[4月18日]]<br />
|国旗3 = GBR<br />
|職名3 = [[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]<br />
|内閣3 = 第2次ウェリントン公爵内閣(兼任)<br />
|就任日3 = [[1834年]][[11月14日]]<br />
|退任日3 = [[1834年]][[12月10日]]<br />
|国旗4 = GBR<br />
|職名4 = {{仮リンク|イギリス補給庁長官|label=補給庁長官|en|Master-General of the Ordnance}}<br />
|内閣4 = [[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣<br />
|就任日4 = [[1819年]]<br />
|退任日4 = [[1827年]]<br />
|国旗5 = GBR<br />
|職名5 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員<br />
|選挙区5 = {{仮リンク|ライ選挙区|en|Rye (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD">[http://hansard.millbanksystems.com/people/sir-arthur-wellesley/ HANSARD 1803–2005]</ref><br />{{仮リンク|ミッチェル選挙区|en|Mitchell (UK Parliament constituency)}}<ref name="HANSARD"/><br />{{仮リンク|トラリー選挙区|en|Tralee (UK Parliament constituency)}}<br />
|就任日5 = [[1806年]][[4月1日]] - 1806年[[11月4日]]<ref name="HANSARD"/><br />[[1807年]][[1月15日]] - 1807年[[5月12日]]<ref name="HANSARD"/><br />1807年[[5月21日]]<br />
|退任日5 = 1807年[[7月27日]]<ref name="HANSARD"/><br />
|国旗6 = GBR<br />
|その他職歴1 = [[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員<br />
|就任日6 = [[1809年]][[9月4日]]<br />
|退任日6 = [[1852年]][[9月14日]]<ref name="HANSARD"/><br />
|国旗7 = GBR<br />
|その他職歴2 = {{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}<br />
|就任日7 = [[1807年]]<br />
|退任日7 = [[1809年]]<br />
}}<br />
'''初代[[ウェリントン公爵]]アーサー・ウェルズリー'''({{lang-en-short|'''Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[バス勲章|GCB]], [[ロイヤル・ゲルフ勲章|GCH]], [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[王立協会フェロー|FRS]]}}、[[1769年]][[4月29日]] - [[1852年]][[9月14日]])は、[[イギリス]]の[[軍人]]、[[政治家]]、[[貴族]]。<br />
<br />
[[ナポレオン戦争]]で軍功を重ね、最終的に[[1815年]]の[[ワーテルローの戦い]]では同い年の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]と会戦し、彼を打ち破った軍人として知られる。状況に応じた戦いを周到に行う名人だった<ref>「Engineers of Victory」Paul Kennedy p187</ref>。軍人としての最終階級は{{仮リンク|陸軍元帥 (イギリス)|label=陸軍元帥|en|Field marshal (United Kingdom)<!-- [[:ja:元帥 (イギリス)]] とリンク -->|FIXME=1}}。<br />
<br />
[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]([[保守党 (イギリス)|保守党]])の政治家としても活躍し、[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]と[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の治世中、二度にわたって[[イギリスの首相|首相]]を務めた(在職[[1828年]]-[[1830年]]、[[1834年]])。[[ヴィクトリア朝]]前期にも政界の長老として活躍した。<br />
<br />
「鉄の公爵」(Iron Duke)の異名をとる<ref name="ストローソン(1998)26">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.26</ref><ref name="トレヴェリアン(1975)74">[[#トレヴェリアン(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.74</ref>。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[アイルランド貴族]]の初代{{仮リンク|モーニントン伯爵|en|Earl of Mornington}}[[ギャレット・ウェズリー (初代モーニントン伯爵)|ギャレット・ウェズリー]]の三男として[[アイルランド王国]]首都[[ダブリン]]に生まれる(''[[#出生 (1769年)|→出生 (1769年)]]'')。[[イートン校]]に通った後、フランスの士官学校を卒業する(''[[#学業 (1781年-1787年)|→学業 (1781年-1787年)]]'')。[[1787年]]に[[イギリス陸軍]]に入隊(''[[#初期の軍歴 (1787年-1793年)|→初期の軍歴 (1787年-1793年)]]'')。[[1794年]]には[[フランス革命戦争]]の[[ベルギー]]・[[オランダ]]戦線でイギリス軍の退却作戦を支援して活躍した。これが初めての実戦経験となった(''[[#フランス革命戦争での初陣 (1794年-1795年)|→フランス革命戦争での初陣 (1794年-1795年)]]'')。<br />
<br />
[[1796年]]に[[イギリス東インド会社]]が支配する[[インド]]へ派遣され、同じ頃にインド総督となった兄[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|ウェルズリー侯爵]]のもと、インド征服戦争の指揮を執った。[[1799年]]の[[マイソール王国]]侵攻([[マイソール戦争#第4次マイソール戦争|第四次マイソール戦争]])、[[1803年]]の対[[マラータ同盟]]戦争([[第二次マラータ戦争]])などで戦功をあげた(''[[#インド征服戦争 (1796年-1805年)|→インド征服戦争 (1796年-1805年)]]'')。<br />
<br />
[[1805年]]にイギリスに帰国し、[[1806年]]4月には{{仮リンク|キャサリン・ウェルズリー (ウェリントン公爵夫人)|label=キャサリン・パクナム|en|Catherine Wellesley, Duchess of Wellington}}と結婚、また[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]候補として[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員選挙に出馬して当選し、政界進出を果たした。[[1807年]]には[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]内閣に{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}として入閣している(''[[#帰国・政界進出 (1805年-1808年)|→帰国・政界進出 (1805年-1808年)]]'')。<br />
<br />
[[イベリア半島]]において[[半島戦争]]が勃発すると、[[ナポレオン]]に抵抗する[[スペイン]]・[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の民衆を支援すべく、[[1808年]]7月にイギリス軍を率いてポルトガルに上陸し、8月にも{{仮リンク|ヴィメイロの戦い|en|Battle of Vimeiro}}でフランスのポルトガル遠征軍を撃破した(''[[#仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年)|→仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年)]]'')。<br />
<br />
こののち一旦帰国するが、入れ替わりにナポレオン本隊が半島に侵攻してスペイン全土を制圧、再びポルトガルに侵攻してきた。これを受けて[[1809年]]4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣され、5月の{{仮リンク|ドウロの戦い|en|Second Battle of Porto}}でフランス軍をスペインに押し戻す。さらに7月には{{仮リンク|タラベラの戦い|en|Battle of Talavera}}で勝利し、この戦功で「ウェリントン・オブ・タラベラ子爵」の爵位を与えられ、貴族に列した。[[1810年]]5月からのフランス軍のポルトガル再侵入も{{仮リンク|トレス・ヴェドラス線|en|Lines of Torres Vedras}}を作らせておいたのが功を奏し、[[1811年]]3月までにスペインに追い返すことができた(''[[#仏軍のポルトガル再侵攻を撃退 (1808年-1811年)|→仏軍のポルトガル再侵攻を撃退 (1808年-1811年)]]'')。<br />
<br />
同年5月からスペイン・ポルトガル国境地帯の要塞の攻略を目指し、[[1812年]]3月から4月にかけての{{仮リンク|バダホスの戦い (1812年)|label=バダホスの戦い|en|Siege of Badajoz (1812)}}の勝利でそれを達成した。その戦功で「ウェリントン伯爵」に叙される(''[[#スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年)|→スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年)]]'')。同年6月よりスペイン進行を開始し、7月に[[サラマンカの戦い]]でフランス軍を撃破したことで、8月には[[マドリード]]占領に成功した。この功績でウェリントン侯爵に叙された。しかしこの後[[ブルゴス]]攻略に失敗し、さらにフランス軍がマドリードに接近してきたため、全軍をポルトガルまで後退させた(''[[#スペイン進撃 (1812年-1813年)|→スペイン進撃 (1812年-1813年)]]'')。ポルトガルで越冬した後、[[1813年]]5月からスペイン再進行を開始し、6月の[[ビトリアの戦い]]でスペイン王[[ジョゼフ・ボナパルト]]率いるフランス軍を撃破した。この戦いで半島戦争のイギリス軍の優位は決定的となった。この戦功により[[元帥 (イギリス)|元帥]]に昇進した(''[[#スペイン再進撃 (1813年)|→スペイン再進撃 (1813年)]]'')。<br />
<br />
[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]失敗などでナポレオンが[[四面楚歌]]に陥ったのを受けて、1813年10月よりスペイン・フランス国境を越えてフランス領侵攻を開始した。1814年4月に[[トゥールーズ]]を攻略したところでナポレオンの退位の報に接した。これまでの戦功を労われて「ウェリントン公爵」に叙された。同年6月にイギリスに凱旋帰国。その際国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。同年7月には[[在フランスイギリス大使|フランス駐在イギリス公使]]に就任、さらに翌1815年には[[ウィーン会議]]で[[ロバート・ステュアート (カスルリー子爵)|カスルリー子爵]]外相が途中帰国した後の英国の全権代理を務めた(''[[#ナポレオン最初の失脚から復権まで (1813年-1815年)|→ナポレオン最初の失脚から復権まで (1813年-1815年)]]'')。<br />
<br />
ついでナポレオンが[[エルバ島]]を脱出して[[パリ]]に復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行する。1815年6月18日の[[ワーテルローの戦い]]では[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥率いる[[プロイセン王国|プロイセン]]軍と協力してナポレオン撃破に決定的な役割を果たし、その野望を最終的に打ち砕くに至った(''[[#ワーテルローの戦い (1815年)|→ワーテルローの戦い (1815年)]]'')。ナポレオン戦争後はフランス占領軍総司令官を務め、敗戦国に寛大な占領統治を行った。占領軍の撤収が完了した後の1818年12月にイギリスに帰国した(''[[#フランス占領軍総司令官 (1815年-1818年)|→フランス占領軍総司令官 (1815年-1818年)]]'')。<br />
<br />
帰国後は主に政界で活躍する。[[1819年]]に[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣の{{仮リンク|イギリス補給庁長官|label=補給庁長官|en|Master-General of the Ordnance}}に就任し、[[1827年]]2月まで在職する。1827年1月には軍職の{{仮リンク|イギリス陸軍総司令官|label=陸軍総司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}にも就任している。しかし保守的なウェリントン公爵は、閣内で[[ジョージ・カニング]]ら[[自由主義]]派閣僚と対立を深めており、1827年2月にリヴァプール伯爵が首相を辞職し、カニングがその後任となった際に[[カトリック教会|カトリック]]解放の方針に反発して辞職することとなった(''[[#リヴァプール伯爵内閣補給庁長官 (1818年-1827年)|→リヴァプール伯爵内閣補給庁長官 (1818年-1827年)]]'')。<br />
<br />
カニングの急死、続く[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|ゴドリッチ子爵]]内閣と国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の対立により、[[1828年]]1月にはウェリントン公爵に大命降下があった(''[[#首相就任までの経緯 (1827年-1828年)|→首相就任までの経緯 (1827年-1828年)]]'')。カトリック問題を棚上げすることでカニング派の入閣を取り付けて{{仮リンク|第1次ウェリントン公爵内閣|en|Wellington ministry}}の組閣に成功した。しかし自由主義的なカニング派と意見が合わず、1828年5月から6月にかけてカニング派閣僚に集団辞職された。もともとカトリック解放に慎重だったウェリントン公爵だが、頑迷ではなく、アイルランド・カトリックが議員に当選するという情勢の変化に応じて、[[1829年]]4月にはカトリック解放法案を可決させた。しかしこれにより党内の亀裂が深まり内閣の基盤は弱くなった。選挙法改正の機運が高まる中、野党の団結は進み、[[1830年]]11月にウェリントン公爵内閣は議会で敗北を喫し、総辞職を余儀なくされた。これによって半世紀ぶりの[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]への[[政権交代]]が起こった(''[[#第1次ウェリントン公爵内閣 (1828年-1830年)|→第1次ウェリントン公爵内閣 (1828年-1830年)]]'')。<br />
<br />
ホイッグ政権の間も野党トーリー党([[1834年]]頃から[[保守党 (イギリス)|保守党]]と改名)を党首として指導したが、{{仮リンク|保守党庶民院院内総務|label=同党庶民院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Commons 1834–1922}}[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]に党の実務を委ねることが多くなっていった。ホイッグ党政権が推し進める第一次選挙法改正を阻止しようとしたが、失敗している(''[[#野党党首として (1830年-1834年)|→野党党首として (1830年-1834年)]]'')。<br />
<br />
1834年11月にホイッグ政権の首相[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]が国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]と対立して解任された際に国王より大命を降下され、イタリア訪問中のピールが帰国するまでの暫定政権として{{仮リンク|第2次ウェリントン公爵内閣|en|Wellington caretaker ministry}}を組閣した。12月にピールが帰国するとただちに首相職を譲り、第1次ピール内閣の外務大臣に転じた。結局第1次ピール内閣は早期に倒閣され、メルバーン子爵政権に戻るもウェリントン公爵は一貫してピールを支え続けた(''[[#第2次ウェリントン公爵内閣とピールへの交代 (1834年-1835年)|→第2次ウェリントン公爵内閣とピールへの交代 (1834年-1835年)]]'')。<br />
<br />
[[1837年]]に即位した[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]からも厚い信任を寄せられていたが、[[1839年]]の[[寝室女官事件]]時の女王の説得には失敗した(''[[#ヴィクトリア女王の即位と寝室女官事件 (1837年-1839年)|→ヴィクトリア女王の即位と寝室女官事件 (1837年-1839年)]]'')。[[1841年]]成立の第2次ピール内閣には無任所大臣として入閣。[[1842年]]には軍職の陸軍総司令官職に再任され、[[1852年]]の死まで務めた。しかし[[シビリアン・コントロール]]を嫌うあまり、あらゆる軍制改革に反対して旧式の軍隊編成に固執した。これが[[クリミア戦争]]における英国将兵の死傷者数を増やしたことにつながったといわれる(''[[#晩年 (1839年-1852年)|→晩年 (1839年-1852年)]]'')。<br />
<br />
1852年9月に[[ケント (イングランド)|ケント]]の{{仮リンク|ウェルマー|en|Walmer}}で死去した(''[[#死去 (1852年)|→死去 (1852年)]]'')。<br />
{{-}}<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 出生 (1769年) ===<br />
[[1769年]]、[[アイルランド貴族]]初代{{仮リンク|モーニントン伯爵|en|Earl of Mornington}}[[ギャレット・ウェズリー (初代モーニントン伯爵)|ギャレット・ウェズリー]]の三男として生まれる<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148">[[#世界伝記大事典(1980,2)|世界伝記大事典(1980)世界編2巻]] p.148</ref><ref name="柘植(1995)17">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.17</ref>。母は初代ダンキャノン子爵{{仮リンク|アーサー・ヒル=トレヴァー (初代ダンキャノン子爵)|label=アーサー・ヒル=トレヴァー|en|Arthur Hill-Trevor, 1st Viscount Dungannon}}の娘アン<ref name="DNB">{{cite DNB |wstitle= Wellesley, Arthur |last= Lloyd |first= Ernest Marsh |authorlink= |volume= 60 |pages= |page= 170 }} 2013年1月9日閲覧</ref>。<br />
<br />
誕生日と生誕地については諸説あるが、1769年[[4月29日]]に[[アイルランド]]首都[[ダブリン]]のアッパー・メリオン・ストリート24番地に生まれたとする説が有力である{{#tag:ref|母アンによればアーサーの生誕日は1769年5月1日というが、看護婦によれば1769年3月6日ダンガノン城の生まれだという。ダブリンの聖ピーター教会のレジストリによれば4月30日にアーサーがそこで洗礼を受けたという。『Exshaw's Gentleman's Magazine』1769年5月号は4月29日にモーニントン伯爵に子が生まれたとしている。1769年5月2日から4日の『Dublin Gazette』は数日前にダブリンのアッパー・メリオン・ストリートでイベントがあったとしている。以上を総合的に判断してアーサーは1769年4月29日にダブリンのアッパー・メリオン・ストリート24番地にあったモーニントン伯爵家別邸で生まれたとする説が有力になっている<ref name="DNB"/>。|group=注釈}}。<br />
<br />
長兄にウェルズリー子爵の[[儀礼称号]]を持つ[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|リチャード]](後の第2代モーニントン伯爵・初代ウェルズリー侯爵)、次兄に{{仮リンク|ウィリアム・ウェルズリー=ポール (第3代モーニントン伯爵)|label=ウィリアム|en|William Wellesley-Pole, 3rd Earl of Mornington}}(後の第3代モーニントン伯爵)がいる。また後に弟として{{仮リンク|ヘンリー・ウェルズリー (初代カウリー男爵)|label=ヘンリー|en|Henry Wellesley, 1st Baron Cowley}}(後の初代{{仮リンク|カウリー男爵|en|Baron Cowley}})、妹として{{仮リンク|レディー・アン・スミス|label=アン|en|Lady Anne Smith}}(後の{{仮リンク|チャールズ・カリング・スミス|en|Charles Culling Smith}}夫人)が生まれた。<br />
<br />
=== 学業 (1781年-1787年) ===<br />
イングランド・ロンドンで初等教育を受けた後、[[1781年]]に名門[[パブリックスクール]]の[[イートン校]]に入学した。成績は並みだったが、血気盛んな学生で鳴らし、よく喧嘩した。後世にアーサーは「ワーテルローに勝利できたのはイートン校の運動場のおかげ」と評している<ref name="ストローソン(1998)34">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.34</ref>。<br />
<br />
父モーニントン伯爵の死で学費支払いに困窮した母アンの指示でイートン校を退学し、当時[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]領土だった[[ブリュッセル]]に移住し、[[1786年]]から乗馬学校に通うようになった<ref name="DNB"/><ref name="柘植(1995)17"/>。その後、フランス・[[アンジェ]]のピニロール陸軍士官学校に入学する<ref name="DNB"/>。この時にフランス語を習得する<ref name="DNB"/><ref name="柘植(1995)17"/>。<br />
<br />
=== 初期の軍歴 (1787年-1793年) ===<br />
18歳の時の[[1787年]]3月、陸軍{{仮リンク|イギリス陸軍第73歩兵連隊|label=第73歩兵連隊|en|73rd (Perthshire) Regiment of Foot}}に入隊した<ref>{{LondonGazette |issue= 12836 |startpage= 118 |date= 6 March 1787 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/><ref name="柘植(1995)17"/>。<br />
<br />
同年12月には{{仮リンク|イギリス陸軍第76歩兵連隊|label=第76歩兵連隊|en|76th Regiment of Foot}}の{{仮リンク|中尉 (イギリス軍)|label=中尉|en|Lieutenant (British Army and Royal Marines)}}となる<ref name="DNB"/>。1788年1月には{{仮リンク|イギリス陸軍第41歩兵連隊|label=第41歩兵連隊|en|41st (Welch) Regiment of Foot}}<ref>{{LondonGazette |issue= 12958 |startpage= 40 |date= 22 January 1788 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>、また同年{{仮リンク|イギリス陸軍第12王立槍騎兵連隊|label=第12軽竜騎兵連隊|en|12th Royal Lancers}}<ref name="DNB"/><ref>{{LondonGazette |issue= 13121 |startpage= 539 |date= 8 August 1789 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>、[[1791年]]6月には{{仮リンク|イギリス陸軍第58歩兵連隊|label=第58歩兵連隊|en|58th (Rutlandshire) Regiment of Foot}}<ref name="DNB"/>、同年9月に{{仮リンク|大尉 (イギリス)|en|Captain (British Army and Royal Marines)|label=大尉}}に昇進した<ref>{{LondonGazette |issue= 13347 |startpage= 542 |date= 27 September 1791 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。[[1792年]]には{{仮リンク|イギリス陸軍第18軽騎兵連隊|label=第18軽竜騎兵連隊|en|18th Royal Hussars}}に転属している<ref name="DNB"/><ref>{{LondonGazette |issue= 13488 |startpage= 976 |date= 25 December 1792 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。<br />
<br />
1787年11月から[[1793年]]3月にかけては[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]の[[ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル (初代バッキンガム侯爵)|バッキンガム侯爵]]や[[ジョン・フェイン (第10代ウェストモーランド伯爵)|ウェストモーランド伯爵]]の副官を務めた<ref name="DNB"/>。また[[1790年]]から[[1795年]]にかけては[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]議員にも選出され<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>、[[フランス第一共和政|革命フランス]]との開戦準備や、[[カトリック教会|カトリック教徒]]への[[参政権]]付与などを主張する<ref name="DNB"/>。<br />
<br />
このアイルランド滞在期に未来の妻{{仮リンク|キャサリン・ウェルズリー (ウェリントン公爵夫人)|label=キャサリン・パクナム|en|Catherine Wellesley, Duchess of Wellington}}({{仮リンク|エドワード・パクナム (第2代ロングフォード男爵)|label=第2代ロングフォード男爵|en|Edward Pakenham, 2nd Baron Longford}}の娘)に最初の求婚をしているが、キャサリンの兄であるトムが妹にはもっと地位の高い相手を見つけられると考えて反対したため、この時には断られた<ref name="ストローソン(1998)36">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.36</ref>。<br />
<br />
[[1793年]][[4月30日]]には兄モーニントン伯爵リチャードから借りた金で{{仮リンク|ウェリントン公爵連隊|label=第33歩兵連隊|en|Duke of Wellington's Regiment}}の{{仮リンク|少佐 (イギリス軍)|label=少佐|en|Major (United Kingdom)}}の階級を購入した<ref>{{LondonGazette |issue= 13542 |startpage= 555 |date= 29 June 1793 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref> <ref name="DNB"/>{{#tag:ref|当時イギリス陸軍の階級は中佐階級までは買い取ることができた。中佐以降は基本的に[[年功序列]]である<ref name="バーソープ(2001)3">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.3</ref>。|group=注釈}}。同年のうちに{{仮リンク|中佐 (イギリス軍)|label=中佐|en|Lieutenant colonel (United Kingdom)}}に昇進した<ref>{{LondonGazette |issue= 13596 |startpage= 1052 |date= 23 November 1793 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/>。<br />
<br />
=== フランス革命戦争での初陣 (1794年-1795年) ===<br />
[[File:Field Marshal Arthur Wellesley KG CCB GCH CoR 1st Duke of Wellington2.jpg|180px|thumb|26歳の頃のアーサー・ウェズリー中佐を描いた絵画。]]<br />
[[フランス革命]]に対する王政列強諸国の干渉を理由にフランス革命政府は[[1792年]]から[[フランス革命戦争]]を起こした。フランス革命軍は[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]連合軍を駆逐してオーストリア領土だった[[オランダ]]や[[ラインラント]]を制圧した<ref name="ストローソン(1998)36">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.36</ref>。これに対して英国首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]は列強諸国共同の外交交渉でフランス軍を占領地から撤退させようとしたが、フランス革命を阻止して[[ブルボン朝]]復古を図りたいオーストリアと、フランス革命阻止より自国の増強を図りたいプロイセン・[[ロシア帝国|ロシア]]で足並みがそろわず、その隙をついてフランス革命軍が侵攻を進め、[[1793年]]2月にはベルギー併合を狙ってイギリスとオランダに宣戦布告してくるに至った<ref name="ストローソン(1998)36">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.36</ref>。<br />
<br />
国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の次男[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク公爵フレデリック]]率いるイギリス軍がベルギーの[[フランドル]]に派遣されることとなった。アーサー率いる第33歩兵連隊も[[1794年]]6月からフランドルに赴き、ヨーク公爵の軍に合流した<ref name="ストローソン(1998)47">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.47</ref>。この戦いはイギリス軍の惨敗に終わるが、混乱状態の撤退戦の中でもアーサーの第33歩兵連隊は高い規律を保ったという。9月15日にボクステルでヨーク公爵の軍がフランス革命軍に攻撃された際にも第33歩兵連隊はフランス軍に一斉射撃を浴びせ続け、フランス革命軍の前進を遅らせ、友軍の撤退を助けた<ref name="ストローソン(1998)48">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.48</ref>。<br />
<br />
アーサーにとってはこの戦いが初めての実戦経験となった<ref name="DNB"/><ref name="柘植(1995)18">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.18</ref><ref name="ストローソン(1998)47">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.47</ref>。後にアーサーは「我々はオランダでの敗戦のおかげで自分たちの欠点を知り、これを教訓とすることができた」と語っている<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.47-48</ref>。<br />
<br />
[[1795年]]4月にイギリスへ帰国。敗戦に気落ちして軍を去る事も考えたアーサーだったが、再就職先が見つからなかったので結局軍に留まった<ref name="ストローソン(1998)49">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.49</ref>。同年5月には兄[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|モーニントン伯爵リチャード]]が家名のウェズリーを旧家名ウェルズリーに戻したのに合わせて、アーサーもウェルズリー姓となった<ref name="DNB"/><ref name="ストローソン(1998)72">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.72</ref>。<br />
{{-}}<br />
=== インド征服戦争 (1796年-1805年) ===<br />
[[1796年]]5月に{{仮リンク|大佐 (イギリス軍)|label=大佐|en|Colonel (United Kingdom)}}に昇進したアーサーは<ref>{{LondonGazette |issue= 13892 |startpage= 460 |date= 14 May 1796 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/>、6月に第33歩兵連隊とともに[[イギリス東インド会社]]が統治する[[インド]]に派遣された<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/><ref name="柘植(1995)18">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.18</ref><ref name="ストローソン(1998)49"/>。彼のインドに対する印象は悪く、兄に宛てた手紙の中で「現地人は[[ヒンズー教徒]]であれ、[[イスラム教徒]]であれ、品性の欠片もなく、温かみに欠け、容赦なき残虐行為を平気で行う。その膨大な人数に物を言わせてヨーロッパ人を襲撃しては殺害する」と書いている<ref name="ストローソン(1998)69">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.69</ref>。<br />
<br />
[[1798年]]5月からは兄モーニントン伯爵(彼は1799年にウェルズリー侯爵に叙される)が[[インド総督]]に任じられてインドに赴任してきた<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。弟ヘンリーも兄の秘書として同行しており、ウェルズリー家兄弟3人でインドの指導的地位に付いた形となる。3人は緊密に協力しあってインド統治にあたった<ref name="ストローソン(1998)72">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.72</ref>。<br />
<br />
この頃イギリス東インド会社領インドは、フランスと同盟するインド南部[[マイソール王国]]の君主[[ティプー・スルターン]]から圧迫を受けていた<ref name="浜渦(1999)71">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.71</ref>。兄モーニントン伯爵はこれに対抗すべく、征服戦争を開始する腹積もりだった<ref name="浜渦(1999)70">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.70</ref>。<br />
<br />
アーサー自身はいたずらに領土拡大を行うことには消極的だったが{{#tag:ref|この頃アーサーは「イギリスの支配地域が広がればそれだけ危険が増える。その国の公務員、あるいは略奪を働いてきた者たちの職を奪うことになり、それらの者たちを敵に回すばかりか、領土が広がるほど各所の防衛も手薄になっていく」と語っている<ref name="ストローソン(1998)95">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.95</ref>。|group=注釈}}、兄の決定には従順に従い、兄の下で軍人として存分に腕を振るうことになる<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。<br />
<br />
==== 第4次マイソール戦争 (1799年) ====<br />
[[イギリス海軍|イギリス王立海軍]][[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]提督の活躍でフランス革命軍[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]は失敗におわり、フランス軍がエジプトからマイソール王国に援軍を送る可能性はなくなった<ref name="ストローソン(1998)84">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.84</ref>。好機到来と見た兄モーニントン伯爵は[[1799年]]2月よりイギリス東インド会社軍にマイソール侵攻を開始させた([[マイソール戦争#第4次マイソール戦争|第4次マイソール戦争]])<ref name="ストローソン(1998)84">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.84</ref>。<br />
<br />
アーサー率いる第33歩兵連隊はその中心として活躍し、ティプーの立て籠る[[セリンガパタム]]要塞に対する最初の攻撃を敢行した。しかしアーサーは昼間まで待って偵察せずに夜間のうちに攻撃を敢行しようとしたことで、要塞までの道のサルタンペター林において、どこにいるか分からない敵から一方的に攻撃を食らって退却を余儀なくされた。この時の教訓で以降アーサーは昼間に十分に偵察を行うことを心がけるようになった<ref name="ストローソン(1998)84">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.84</ref>。<br />
<br />
5月のセリンガパタム要塞への再攻撃では{{仮リンク|サー・デヴィッド・バード (初代准男爵)|label=デヴィッド・バード|en|Sir David Baird, 1st Baronet}}の指揮下で戦ったが、今度は問題なくサルタンペター林を通過して総攻撃の末にセリンガパタム要塞を陥落させ、ティプーを討ち取ることができた<ref name="ストローソン(1998)85">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.85</ref>。<br />
<br />
==== マイソール統治とウォー盗賊団との戦い (1799年-1802年) ====<br />
戦後、要塞攻略の最大の功労者であるバード少将を差し置いて、アーサーがセリンガパタム要塞の総督に任じられ、マイソール全域の統治にあたることになった<ref name="ストローソン(1998)85">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.85</ref>。アーサーは「公正、腐敗抑止、正直、約束の実行が統治の基本」と主張し、法律の整備と秩序の維持に努め、[[殖産興業]]を図った。また現地諸侯の権威を保障し、マイソール国民の雇用の創出にも励んだ<ref name="ストローソン(1998)95">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.95</ref>。<br />
<br />
一方この頃からインド南部で[[マラータ族]]の盗賊団首領{{仮リンク|ドゥーンディア・ウォー|en|Dhondia Wagh}}の略奪が激しくなっていた。ウォーはセリンガパタム要塞陥落の際にそこから脱出することに成功し、同じく要塞から脱出した他の元マイソール兵たちとともに盗賊団を作って各地で略奪を行っていた人物だった<ref name="ストローソン(1998)95">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.95</ref>。<br />
<br />
アーサーは1799年8月にウォー盗賊団討伐に出陣した<ref name="DNB"/>。ウォーの本拠地チテルドローグを攻め落とすことに成功したものの、この時にはウォーに逃げられた。逃げのびたウォーは[[1800年]]4月までに再び盗賊団を組織したため、アーサーが再度出陣し、同年9月までにはウォー盗賊団を[[インド半島]]の先まで追い詰めて、とうとうウォーを討ち取った<ref name="ストローソン(1998)95">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.95</ref>。<br />
<br />
[[1802年]]4月29日に{{仮リンク|少将 (イギリス軍)|label=少将|en|Major-general (United Kingdom)}}に昇進した<ref>{{LondonGazette |issue= 15478 |startpage= 467 |date= 8 May 1802 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/><ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。<br />
<br />
==== 第2次マラータ戦争 (1803年) ====<br />
[[File:Battle of Assaye2.jpg|250px|thumb|[[アサエの戦い]]を描いた絵画。指揮をとっている人物がアーサー・ウェルズリー少将。]]<br />
1799年の[[ブリュメールのクーデター|ブリュメール18日のクーデター]]でフランス[[第一統領]]の座についた[[ナポレオン・ボナパルト]]は、[[1802年]]3月にイギリスと[[アミアンの和約]]を締結したが、この休戦中もナポレオンはインドにおけるイギリスの覇権を覆そうと[[マラータ同盟]]の支援を行った<ref name="ストローソン(1998)112">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.112</ref>。<br />
<br />
これに対抗してインド総督である兄[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|ウェルズリー侯爵リチャード]]は次なる侵攻対象をマラータ同盟に定めた。再びアーサーがその実行役となった。[[1803年]]2月にセリンガパタムを立ち、[[プネー]]までの1000キロを2カ月で行軍した<ref name="DNB"/><ref name="ストローソン(1998)113">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.113</ref>。マラータ族に補給線を断ち切られることを警戒して牛を引き連れていったことが迅速な行軍を可能とした<ref name="ストローソン(1998)113">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.113</ref>。<br />
<br />
8月には同盟国[[ニザーム王国]]を脅かしていたマラータ族の[[アフマドナガル城]]を攻略した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.113-114</ref>。<br />
<br />
さらに9月にはマラータ族の中でも強力な諸侯である[[ボーンスレー家 (ナーグプル)|ボーンスレー家]]([[ラグージー・ボーンスレー2世]])と[[シンディア家]]([[ダウラト・ラーオ・シンディア]])と{{仮リンク|アサエ|en|Assaye}}で対峙した。マラータ側は5万人の兵と100基の大砲を持っており、対するイギリス軍は2歩兵連隊と1騎兵連隊の計7000人、大砲は20基しかなく圧倒的に不利な情勢であった。アーサーはこれだけ兵力差がある大軍を相手にするには側面をつくしかないと考えてカイトナ川渡河を敢行し、[[アサエの戦い]]においてボーンスレー軍、シンディア軍ともに撃破することに成功した<ref name="ストローソン(1998)118">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.118</ref>。<br />
<br />
11月にも{{仮リンク|アルガーオン|en|Argaon}}でボーンスレー軍、シンディア軍と再び対峙し、マラータ軍の砲撃でセポイが散り散りにされたが、アーサーは的確な指示で彼らを再招集し、また迂回させることで予定位置に集結させ、勝利することができた([[アルガーオンの戦い]])<ref name="ストローソン(1998)118">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.118</ref>。<br />
<br />
この一連の[[第二次マラータ戦争]]の勝利が鮮やかだったため、アーサーは一躍有名人となった<ref name="柘植(1995)17">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.17</ref>。1804年9月には[[バス勲章]]を授与され<ref name="DNB"/><ref name="LondonGazette1804">{{LondonGazette |issue= 15732 |startpage= 1069 |date= 28 August 1804 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>、「サー・アーサー・ウェルズリー」となった。<br />
<br />
しかし1804年中の[[ウィリアム・モンソン]]の[[コーター (インド)|コーター]]での敗戦([[ムクンドワラ峠の戦い]])、{{仮リンク|ジェラルド・レイク (初代レイク子爵)|en|Gerard Lake, 1st Viscount Lake|label=ジェラルド・レイク}}の[[バラトプル_(インド)|バラトプル]]攻略失敗([[バラトプル包囲戦]])で兄ウェルズリー侯爵の立場はなくなり、[[1805年]]に本国に召還された<ref name="浜渦(1999)74">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.74</ref>。弟であるサー・アーサーもこれを機にインドでの職を退くことにした<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 帰国・政界進出 (1805年-1808年)===<br />
[[File:Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington by Robert Home.jpg|180px|thumb|1804年のサー・アーサー・ウェルズリー少将。]]<br />
1805年9月にイギリスに帰国した<ref name="ストローソン(1998)121">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.121</ref>。<br />
<br />
フランス第一統領ナポレオンが[[地中海]]の覇権をイギリスから奪うべく[[マルタ島]]を狙い、これに反発したイギリス政府が1803年5月にフランスに宣戦布告したことで[[ナポレオン戦争]]が勃発していた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.109-110</ref>。アーサーも帰国して間もない1805年12月には第33歩兵連隊付き旅団長として[[エルベ川]]に出征したが、翌[[1806年]]2月には再帰国している<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.129/136</ref>。<br />
<br />
4月に{{仮リンク|キャサリン・ウェルズリー (ウェリントン公爵夫人)|label=キャサリン・パクナム|en|Catherine Wellesley, Duchess of Wellington}}に再び求婚し、今度は受け入れられた<ref name="ストローソン(1998)129">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.129</ref>。[[1807年]]初頭には長男{{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}を儲けた<ref name="ストローソン(1998)144">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.144</ref>。<br />
<br />
[[1806年]]4月には{{仮リンク|ライ (東サセックス)|label=ライ|en|Rye, East Sussex}}選挙区から出馬して[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]所属の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選し、政界進出を果たした<ref>{{LondonGazette |issue= 15908 |startpage= 449 |date= 8 April 1806 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/>。議員を務めながら、軍人の職務も引き続き果たした<ref name="ストローソン(1998)143">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.143</ref>。<br />
<br />
[[1807年]]春には[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]内閣が発足し、サー・アーサーはその{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}として入閣した<ref name="ストローソン(1998)144">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.144</ref>。またこの時[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]にも列せられた<ref name="LondonGazette1807">{{LondonGazette |issue = 16018 |date = 11 April 1807 |startpage = 1 |accessdate = 2013-01-27 }}</ref>。2年ほど在職するも、ナポレオン戦争従軍のために辞することになる<ref name="世界伝記大事典(1980,2)148"/>。<br />
<br />
[[1808年]][[4月25日]]に{{仮リンク|中将 (イギリス)|label=中将|en|Lieutenant-general (United Kingdom)}}に昇進した<ref>{{LondonGazette |issue= 16142 |startpage= 622 |date= 3 May 1808 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/>。<br />
{{-}}<br />
=== ナポレオン戦争 (1808年-1815年) ===<br />
==== 半島戦争勃発 ====<br />
1807年にポルトガル侵攻を決意したフランス皇帝ナポレオン(1804年に皇帝即位)は、スペイン宰相[[マヌエル・デ・ゴドイ]]との間にポルトガル分割とフランス軍のスペイン領通過を認める内容の[[フォンテーヌブロー条約 (1807年)|フォンテーヌブロー条約]]を締結したうえでポルトガル侵攻を開始し、同年12月にはポルトガル首都[[リスボン]]を占領した<ref name="松村(2006)143">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.143</ref>。さらに1808年にはスペイン王室を退位させて、ナポレオンの兄[[ジョゼフ・ボナパルト]]をスペイン王位に就けた<ref name="ストローソン(1998)144">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.144</ref><ref name="松村(2006)144">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.144</ref>。<br />
<br />
この一連のナポレオンの横暴に反発したスペイン民衆は、1808年5月以降、次々と武装蜂起し、[[イベリア半島]]全土を舞台にした[[半島戦争]]が勃発した。7月には[[ピエール・デュポン (軍人)|ピエール・デュポン]]将軍率いるフランス軍が[[バイレンの戦い]]でスペイン軍に敗れる事態となった<ref name="ストローソン(1998)152">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.152</ref><ref name="松村(2005)146">[[#松村(2005)|松村(2005)]] p.146</ref>。<br />
<br />
こうした状況を見て[[外務・英連邦大臣|イギリス外務大臣]][[ジョージ・カニング]]はポルトガルやスペインの蜂起を支援することを決定し、1808年7月にサー・アーサーを司令官とする9000人の王立陸軍をリスボンの北方にある[[モンデゴ川|モンデゴ湾]]に派遣した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.153-155</ref>。上陸にあたってサー・アーサーは部下たちに「ポルトガルは国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]陛下の盟邦であって、征服地ではない。略奪や強姦は許されない。違反者は厳罰に処す」と厳命しつつ、ポルトガル市民に対しては「我々はフランスの侵略者から諸君らを解放しにきた」と訴えた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.155-156</ref>。<br />
<br />
==== 仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年) ====<br />
1808年8月には全軍の揚陸を完了し、ポルトガル軍と合流して1万5000人の軍勢でもってフランス軍に占領された[[リスボン]]へ向けて進軍を開始した<ref name="ストローソン(1998)155">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.155</ref>。これに対してフランス軍ポルトガル遠征軍司令官[[ジャン=アンドシュ・ジュノー]]将軍は{{仮リンク|アンリ・フランソワ・ラボールド|fr|Henri-François Delaborde (général)}}将軍率いる4000人ほどの軍勢を迎撃に差し向けた。両軍は8月17日に{{仮リンク|ロリカの戦い|en|Battle of Roliça}}で激突したが、ライフル部隊を先行させることでラボールド軍を押し戻すことに成功した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.156-157</ref>。<br />
<br />
続いてジュノー将軍自らがポルトガル遠征軍の総兵力の三分の二を率いて出陣してきた。両軍は8月21日に{{仮リンク|ヴィメイロの戦い|en|Battle of Vimeiro}}で衝突したが、サー・アーサーの防御的な布陣が功を奏し、フランス軍に軽歩兵の狙撃と大砲の砲撃を食らわせ、さらに縦列で進軍してきたフランス軍に対して横列のイギリス軍が前面・側面から銃撃を浴びせかけることで敗走させることに成功した<ref name="ストローソン(1998)158">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.158</ref>。<br />
<br />
この敗北でジュノー将軍は、8月30日にイギリス・ポルトガル駐留軍総司令官{{仮リンク|サー・ヒュー・ダルリンプル (初代准男爵)|label=サー・ヒュー・ダルリンプル准男爵|en|Sir Hew Dalrymple, 1st Baronet, of High Mark}}将軍との間に{{仮リンク|シントラの和平|en|Convention of Sintra}}を締結した。これによりポルトガル駐留フランス軍はイギリス船に乗って海上からフランスまで撤退することになった<ref name="ストローソン(1998)159">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.159</ref><ref name="松村(2005)146"/>。しかしこの和平はイギリス国民から不評であり、サー・アーサーも徹底的にフランス軍と戦うことを希望していたために落胆したという<ref name="ストローソン(1998)160">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.160</ref>。<br />
<br />
またこの後、イギリスのポルトガル駐留軍総司令官となった{{仮リンク|ジョン・ムーア (イギリス陸軍将校)|label=サー・ジョン・ムーア|en|John Moore (British Army officer)}}将軍とも険悪な関係になったため、サー・アーサーはひとまず帰国することになった<ref name="ストローソン(1998)160"/>。<br />
<br />
==== 仏軍のポルトガル再侵攻を撃退 (1808年-1811年)====<br />
[[File:Francesco Bartolozzi - Invicto Wellington, Lusitânia Grata (1810).jpg|thumb|180px|1810年のウェリントン子爵中将を描いた{{仮リンク|フランチェスコ・バルトロッツィ|it|Francesco Bartolozzi}}の絵画]]<br />
[[1808年]]9月にムーア将軍率いる英軍がスペインへ進軍すると、同年11月にフランス軍もナポレオンの直接指揮のもとスペイン侵攻を再開し、12月には[[マドリード]]を再占領した。これに対して英軍はフランス軍との決戦を避け撤退した。英軍は[[アメリカ独立戦争]]敗北の教訓で大陸奥深くでの長期戦を避け、圧倒的な制海権を活用し、攻撃しては海岸まで撤退することを基本戦法としていたからだが、ナポレオンはイギリス軍の撤退を弱気と誤認し「イギリス軍はフランス軍と戦う資格がない」と豪語した<ref name="松村(2006)146-147">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.146-147</ref>。<br />
<br />
ナポレオンは翌[[1809年]]1月に本国の政治情勢やオーストリアの不穏な動きから[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]将軍に後を任せてパリに帰還した。入れ替わるようにサー・アーサーが同年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度ポルトガルに派遣された<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.166/168</ref>。サー・アーサー率いる英軍は、5月7日に[[オポルト]]南方の[[ドウロ川]]渡河を敢行してスールト将軍率いるフランス軍の不意を突き、{{仮リンク|ドウロの戦い|en|Second Battle of Porto}}でこれを破り、スールト軍をポルトガルから撤退させた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.173-174</ref>。<br />
<br />
続いて[[クロード・ヴィクトル=ペラン]]元帥率いるフランス軍2万3000人がポルトガル向けて進軍してきた。サー・アーサーは戦場をスペインに移してスペイン軍と合流のうえ、7月21日、スペインの[[タラベラ・デ・ラ・レイナ]]に結集していたヴィクトル軍に攻撃をかけた。撤退するヴィクトル軍をスペイン軍に追撃させたが、ヴィクトル軍はマドリード駐留部隊と合流して反転攻勢に転じ、スペイン軍を追い返した。これを受けてサー・アーサーはタラベラに守備布陣を敷いてフランス軍を待ち受け、7月28日の{{仮リンク|タラベラの戦い|en|Battle of Talavera}}で激戦の末にフランス軍を退けた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.175-176</ref>。<br />
<br />
サー・アーサーはこの戦功で'''ウェリントン・オブ・タラベラ子爵'''(Viscount Wellington of Talavera)、'''ドウロ・オブ・ウェルズリー男爵'''(Baron Douro of Wellesley)の爵位を与えられ、貴族に列した<ref name="LondonGazette1809">{{LondonGazette |issue= 16291 |startpage= 1342 |date= 22 August 1809 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/><ref name="ストローソン(1998)176">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.176</ref>。<br />
<br />
タラベラ戦後、ウェリントン子爵は軍をポルトガルに戻すとともにリスボン北方に極秘裏に{{仮リンク|トレス・ヴェドラス線|en|Lines of Torres Vedras}}を建設してフランス軍来襲に備えた。この防衛線の存在は自軍にも伏せられていた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.180/183</ref>。<br />
<br />
1809年10月にイギリス本国で[[スペンサー・パーシヴァル]]内閣が成立した。同内閣に外務大臣として入閣した兄ウェルズリー侯爵や半島戦争を重視する[[陸軍・植民地大臣]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]の後押しでウェリントン子爵のポルトガル駐留軍は3万人規模に増強された<ref name="ストローソン(1998)180">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.180</ref>。<br />
<br />
[[1810年]]5月より[[アンドレ・マッセナ]]元帥率いるフランス軍がポルトガル・スペイン国境の[[シウダ・ロドリーゴ]]と{{仮リンク|アルメイダ (ポルトガル)|label=アルメイダ|pt|Almeida}}の要塞に攻撃をかけてきた。両要塞が夏まで持ちこたえている間、南の防衛を固めつつ、小麦の収穫を素早く終わらせた。両要塞が陥落した後、{{仮リンク|ブサコ|pt|Serra do Buçaco}}まで後退して守備の布陣をとり、9月末の{{仮リンク|ブサコの戦い|en|Battle of Bussaco}}でフランス軍を退けた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.182-183</ref>。<br />
<br />
ブサコの戦いに勝利したものの、ウェリントン子爵は軍をトレス・ヴェドラス線まで後退させた。マッセナ元帥率いるフランス軍が追撃に出てきたが、トレス・ヴェドラス線の入り組んだ塹壕や大砲用の落とし穴が広がる光景を見てマッセナ元帥は愕然とし、「奴がこの山を築いたのか」と叫んだという<ref name="ストローソン(1998)183">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.183</ref>。結局マッセナ元帥の軍は4か月ほど粘ったものの、補給状態が壊滅的となり、1811年3月にはスペインに撤退していった<ref name="ストローソン(1998)184">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.184</ref>。<br />
{{-}}<br />
==== スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年) ====<br />
つづいてウェリントン子爵はスペイン進撃のため、ポルトガル・スペイン国境付近の要塞シウダ・ロドリーゴ、[[バダホス]]、アルメイダの奪還作戦を開始した。マッセナ元帥率いるフランス軍も急ピッチで再編成を済ませ、アルメイダを包囲する{{仮リンク|ブレント・スペンサー|en|Brent Spencer}}将軍率いる{{仮リンク|第1師団 (イギリス)|label=イギリス軍第1師団|en|1st Infantry Division (United Kingdom)}}に対して攻勢に出てきた。しかし1811年5月11日の{{仮リンク|フエンテス・デ・オニョーロの戦い|en|Battle of Fuentes de Oñoro}}の激戦の末にフランス軍を[[サラマンカ]]へ押し戻すことに成功した<ref name="ストローソン(1998)186">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.186</ref>。この勝利によりアルメイダ要塞を奪還したが、フランス軍の防衛部隊には撤退を許してしまった<ref name="ストローソン(1998)187">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.187</ref>。<br />
<br />
並行して{{仮リンク|ウィリアム・ベレスフォード (初代ベレスフォード子爵)|label=ウィリアム・ベレスフォード|en|William Beresford, 1st Viscount Beresford}}少将率いるイギリス・ポルトガル連合軍は{{仮リンク|第2次バダホス包囲戦 (1811)|en|Second Siege of Badajoz (1811)|label=バダホス要塞攻略}}を開始したが、スールト元帥率いるフランス軍が援軍に駆け付けてきて、両軍は5月16日に[[アルブエラの戦い]]で衝突した。ウェリントン子爵が戦場に間に合わず、また甚大な死傷者が出た激戦となった。スールトが退却した後、バダホス要塞の攻略を再開したが、損害が大きく結局ポルトガルまで撤退することを余儀なくされた<ref name="ストローソン(1998)187">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.187</ref>。<br />
<br />
[[1811年]]の冬の間、軍の増強・休息・補給の確保にあたり、シウダード・ロドリゴとバダホス攻略の準備を進めた<ref name="ストローソン(1998)188">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.188</ref>。1812年に入るとただちにシウダード・ロドリゴ攻略を目指して出陣し、1月9日には同市を占領し、[[オーギュスト・マルモン]]元帥率いるフランス軍を激戦の末に退けた<ref name="ストローソン(1998)196">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.196</ref>。<br />
<br />
この戦いの直後の1812年2月に'''ウェリントン伯爵'''(Earl of Wellington)に叙せられた<ref>{{LondonGazette |issue= 16576 |startpage= 335 |date= 18 February 1812 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。<br />
<br />
その後、バダホス再攻略を目指し、1812年3月から4月にかけて{{仮リンク|バダホスの戦い (1812年)|label=バダホスの戦い|en|Siege of Badajoz (1812)}}に及んだ。勝利してバダホス占領に成功したものの、やはり激戦となり、甚大な死傷者がでた。戦死者が大量に横たわる戦場を視察したウェリントン子爵は涙を流しながら「政府が工兵隊と地雷工兵隊をもっとたくさん送っていてくれたら、勇敢な兵士たちはもっと容易く敵の防衛拠点を制圧して任務を達成していたはずだ」と述べて政府批判したという<ref name="ストローソン(1998)197">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.197</ref>。<br />
<br />
==== スペイン進撃 (1812年-1813年) ====<br />
[[File:Wellington a Salamanca.jpg|thumb|250px|[[サラマンカの戦い]]の指揮を執るウェリントン伯爵中将]]<br />
ウェリントン伯爵は1812年6月13日より5万のイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍を率いて{{仮リンク|アゲダ川|es|Río Águeda}}を渡河し、スペイン進撃を開始した<ref name="ストローソン(1998)206">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.206</ref>。イギリス軍は[[サラマンカ]]に入り、フランス軍はドウロ川を挟んで対陣した<ref name="ストローソン(1998)206">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.206</ref>。<br />
<br />
7月22日、マルモン元帥率いるフランス軍が、イギリス軍右翼を包囲しようと動いた結果、フランス軍の防衛が手薄になるというチャンスが生まれた。この報告を受けた時、ウェリントン伯爵は食べていたチキンを放り捨てて自ら伝令となって義弟{{仮リンク|エドワード・パクナム|en|Edward Pakenham}}将軍のもとへ行き、彼が指揮する{{仮リンク|第3機械化師団 (イギリス)|label=第3師団|en|3rd Mechanised Division (United Kingdom)}}に攻勢をかけさせた<ref name="ストローソン(1998)207">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.207</ref>。<br />
<br />
こうしてはじまった[[サラマンカの戦い]]で、パクナム率いる第3師団は{{仮リンク|ジャン・ギヨーム・バルテルミー・トーミエール|fr|Jean Guillaume Barthélemy Thomières}}将軍率いるフランス軍師団を半壊させ、ウェリントン伯爵も{{仮リンク|第4歩兵師団 (イギリス)|label=第4師団|en|4th Infantry Division (United Kingdom)}}と{{仮リンク|第5歩兵師団 (イギリス)|label=第5師団|en|5th Infantry Division (United Kingdom)}}を率いてフランス軍中央に攻勢をかけ、{{仮リンク|アントワン・ルイ・ポポン|fr|Antoine Louis Popon}}のフランス軍歩兵部隊を潰走させ、{{仮リンク|ジョン・ル・マルシャン|en|John Le Marchant (British Army cavalry officer)}}率いるイギリス軍騎兵隊が追撃をかけてポポンの軍を壊滅させた<ref name="ストローソン(1998)208">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.208</ref>。負傷して戦線離脱したマルモン元帥に代わってフランス軍司令官となった{{仮リンク|ベルトラン・クローゼル|fr|Bertrand Clauzel}}将軍はウェリントン伯爵の攻撃の起点である丘陵を狙ったが、ウェリントン伯爵はそこに3個師団を予備として配置しており、これを撃退することができた。ただスペイン軍がトルメス・アルバ川の防衛の任を放棄していたため、フランス軍は全滅を免れて撤退に成功した<ref name="ストローソン(1998)208-209">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] pp.208-209</ref><br />
<br />
フランス軍の撤退を許したとはいえ、サラマンカの戦いはイギリスの鮮やかな勝利となった。フランス軍師団長の一人[[マクシミリアン・セバスチャン・フォア]]はウェリントン伯爵が守備戦だけでなく攻勢にも長けていた事に驚き、彼の用兵術を[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]のそれに例えて称賛した<ref name="ストローソン(1998)209">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.209</ref>。ウェリントン伯爵本人も後年自分の最大の大勝利の一つにこの戦いを入れている<ref name="ストローソン(1998)207">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.207</ref>。<br />
<br />
この戦いの勝利で1812年8月12日にスペイン首都[[マドリード]]を占領することに成功した<ref name="ストローソン(1998)210">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.210</ref>。この功績で'''ウェリントン侯爵'''(Marquess of Wellington)に叙せられた<ref>{{LondonGazette |issue= 16635 |startpage= 1643 |date= 15 August 1812 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。また9月にスペイン連合軍最高司令官に就任し、スペイン軍の指揮も正式に任せられた<ref name="ストローソン(1998)225">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.225</ref>。<br />
<br />
同月、マドリードから4個師団を率いて北上して[[ブルゴス]]市を包囲した。しかしブルゴスのフランス軍の守備は堅く落とすことができなかった。フランス軍がマドリードへの再攻勢を計画している事を知ると、ウェリントン侯爵は何のためらいもなく、マドリードを放棄して全軍をポルトガルまで撤退させた。これが半島戦争での最後の撤退だった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.216-217</ref>。この撤退は兵たちには不満が多かったものの、ポルトガルで越冬することによって兵士たちの生活環境の改善、軍再編成はしやすかった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] pp.216,229</ref>。<br />
<br />
1813年1月に{{仮リンク|ウェリントン公爵連隊|label=第33歩兵連隊|en|Duke of Wellington's Regiment}}連隊長改め{{仮リンク|王立近衛騎馬連隊 (イギリス)|label=王立近衛騎兵連隊|en|Royal Horse Guards}}連隊長に任じられ、3月には[[ガーター勲章]]を授与されている<ref>{{LondonGazette |issue= 16692 |startpage= 105 |date= 12 January 1813 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="LondonGazette1813">{{LondonGazette |issue= 16708 |startpage= 458 |date= 2 March 1813 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="DNB"/><ref name="ストローソン(1998)225">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.225</ref>。<br />
{{-}}<br />
==== スペイン再進撃 (1813年) ====<br />
[[File:Arthur Wellesley duca di Wellington a Vitoria.jpg|thumb|250px|[[ビトリアの戦い]]の指揮を執るウェリントン侯爵中将。]]<br />
ウェリントン侯爵は1813年2月にスペインへの再遠征を計画し、5月からそれを実行に移した。ポルトガルを発つにあたってウェリントン侯爵は2度とここには戻らないと宣言した<ref name="ストローソン(1998)230">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.230</ref>。この頃、ウェリントン侯爵の手元にはイギリス・ポルトガル軍8万人とスペイン軍2万人、スペイン不正規軍5万人の兵力があった<ref name="ストローソン(1998)228">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.228</ref>。<br />
<br />
6月13日に[[ビトリアの戦い]]でスペイン王[[ジョゼフ・ボナパルト]]とその軍事顧問[[ジャン=バティスト・ジュールダン]]元帥率いるフランス軍と対峙したが、補給面で圧倒的に有利なイギリス軍の圧勝に終わった。ジョゼフはウェリントン侯爵がフランス軍と本国の連絡線を断とうとしていることに気付き、[[パンプローナ]]に向けて後退していった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.231-232</ref><ref name="松村(2006)182">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.182</ref>。この戦いは半島戦争におけるイギリス軍の優勢を決定づけた戦いとなった<ref name="松村(2006)182"/>。イギリス軍はフランス軍が置き去りにしていった多くの戦利品を得ることができたが、その中にジュールダン元帥の指揮杖もあった。ウェリントン侯爵はこれを[[摂政皇太子]][[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ]]に献上した。それに対して摂政皇太子は「[[フランス元帥]]の指揮杖をもらった代わりにイギリス元帥の指揮杖をあげよう」という洒落た返事とともにウェリントン侯爵を[[元帥 (イギリス)|元帥]]に昇格させる辞令を下した<ref name="ストローソン(1998)233">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.233</ref>{{#tag:ref|この時のウェリントンの年齢は44歳であり、これは王室出身者を除いて史上最年少での元帥就任だった<ref name="バーソープ(2001)4">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.4</ref>。|group=注釈}}。<br />
<br />
一方ナポレオンは敗戦報告を受けて激怒し、ジュールダンを解任してスールト元帥を後任とした<ref name="ストローソン(1998)234">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.234</ref>。<br />
<br />
ウェリントン侯爵は7月からスペイン国内に残された二つのフランス軍要塞、[[サン・セバスティアン]]と[[パンプローナ]]の攻略を開始したが、スールト元帥はこの英軍の分散を利用して[[ロンセスバーリェス]]と[[マヤ峠]]に攻勢をかけて英軍を追い、さらにパンプローナを包囲する英軍を襲撃してその補給物資を鹵獲しようとした。ウェリントン侯爵はスールト軍が[[レサカ]]を強襲すると予想して準備していたのでこの動きには裏をかかれた形だった<ref name="ストローソン(1998)240">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.240</ref>。<br />
<br />
だがウェリントン侯爵はすぐにパンプローナ北方に全軍を終結させて防衛体制を整えると{{仮リンク|ソラウレンの戦い|en|Battle of Sorauren}}で得意の守備戦に持ち込んだ。スールト元帥がサン・セバスティアン要塞救出のための行軍中に誤ってウェリントンの本陣に突っ込んだことが功を奏し、フランス軍を徹底的に叩くことに成功した。他のフランス軍もイギリス軍から補給物資を鹵獲することに失敗してフランス本国へ敗走していった。余裕の出来たイギリス軍は、この後8月から10月にかけてサン・セバスティアンとパンプローナをじっくり攻略した<ref name="ストローソン(1998)242">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.242</ref>。<br />
<br />
ここにフランス軍はイベリア半島から完全に駆逐されたのだった。<br />
{{-}}<br />
==== ナポレオン最初の失脚から復権まで (1813年-1815年) ====<br />
[[File:DelarocheNapoleon.jpg|thumb|180px|1814年4月、[[フォンテーヌブロー]]の[[ナポレオン]]を描いた絵画([[ポール・ドラローシュ]]画)]]<br />
ナポレオンの情勢は半島戦争以外でも壊滅的になっていた。彼が万全を期して1812年6月に開始した[[1812年ロシア戦役|ロシア侵攻]]は同年末までに破滅的な失敗に終わり、この情勢を見た[[プロイセン王国]]はロシアと同盟を組んでナポレオンに反旗を翻した<ref name="ストローソン(1998)226">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.226</ref><ref name="本池(1993)169-170">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.169-170</ref>。[[オーストリア帝国]]もビトリアの戦いでのイギリス軍の勝利を見て、ナポレオンと距離をとるようになり、1813年8月に至ってロシア・プロイセンと同盟してフランスに宣戦布告した<ref name="ストローソン(1998)238">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.238</ref><ref name="本池(1993)175-176">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.175-176</ref>。10月の[[ライプツィヒの戦い]]でフランス軍が同盟軍に敗れた結果、[[ライン同盟]]諸国の大半もナポレオンから離反するに至った<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.239-240</ref><ref name="本池(1993)175-178">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.175-178</ref>。<br />
<br />
いよいよナポレオンに止めを刺す時が来たと判断したウェリントン侯爵は、1813年10月にスペイン・フランス国境の[[ビダソア川]]を確保し、11月からフランス侵攻を開始した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.243-244</ref>。[[バイヨンヌ]]を包囲しようとしたが、これを恐れたスールト率いるフランス軍は[[トゥールーズ]]に撤退した<ref name="ストローソン(1998)243">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.243</ref><ref name="松村(2006)191-192">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.191-192</ref>。ウェリントン侯爵は[[ボルドー]]を占領し、さらにトゥールーズへ向けて進軍した<ref name="松村(2006)192">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.192</ref>。<br />
<br />
一方ロシア・プロイセン・オーストリア同盟軍も東からフランス侵攻を開始し、1814年3月末にはロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]率いる同盟軍が[[パリ]]に入城した<ref>[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.182-190</ref>。同盟軍の占領下で[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]を首班とする臨時フランス政府が樹立され、4月2日には[[護憲元老院|元老院]]がナポレオン廃位を決定した。パリに戻れなくなり、[[フォンテーヌブロー]]に留まっていたナポレオンも4月4日には退位を受け入れた<ref name="ストローソン(1998)245">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.245</ref><ref name="本池(1993)191-192">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.191-192</ref>。<br />
[[File:Arthur Wellesley - Lawrence 1814-15.jpg|thumb|180px|left|1814年から1815年頃に書かれたウェリントン公爵元帥の肖像画([[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]画)]]<br />
一方ウェリントン侯爵の軍は4月10日にトゥールーズを攻略したが、翌11日にナポレオン側と同盟国側の交渉でナポレオンの無条件退位が正式に決まり、12日にウェリントン侯爵にもその情報が伝わった<ref>[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.193-194</ref>。これを聞いたウェリントン侯爵は「いい時期だ」と述べて喜び<ref name="ストローソン(1998)245">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.245</ref>、同日のうちにフランス軍のスールト元帥との間に現地の停戦協定を結んだ<ref name="松村(2006)194">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.194</ref>。<br />
<br />
ウェリントン侯爵は本国からこれまでの戦功を労われ、5月3日に'''ウェリントン公爵'''(Duke of Wellington)に叙せられた<ref>{{LondonGazette |issue= 16894 |startpage= 936 |date=3 May 1814 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="ストローソン(1998)245"/>。<br />
<br />
[[王政復古]]してフランス王位についた[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]は、5月30日にも同盟軍と[[パリ条約 (1814年)|パリ条約]]を締結し、これによりフランス領土の範囲は[[1792年]]時の状態に戻ることになった<ref name="ストローソン(1998)252">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.252</ref><ref name="本池(1993)194">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.194</ref><ref name="松村(2006)194">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.194</ref>。またフランスとオランダの[[植民地]]の多くをイギリスが獲得した<ref name="本池(1993)194"/>。<br />
<br />
ウェリントン公爵は、6月にイギリスに帰国したが、帰国するやただちに[[在フランスイギリス大使|駐フランス・イギリス大使]]に任じられてパリに派遣されることになった<ref>{{LondonGazette |issue= 16915 |startpage= 1389 |date= 9 July 1814 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="ストローソン(1998)249">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.249</ref>。この任命はウェリントン公爵が若かりし頃にフランスの陸軍士官学校を卒業しており、フランス語とフランス旧体制[[アンシャン・レジーム]]の機微に通じていたので、政府から[[フランス復古王政]]と交渉しやすい人物と目されていたためと見られる。もっとも、かねてよりフランス軍との対決姿勢を強めていたウェリントン公爵自身は、この任命を不可思議に思っていたという<ref name="ストローソン(1998)250">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.250</ref>。<br />
<br />
1814年末から開催されたオーストリア外相の[[メッテルニヒ]]を議長とする[[ウィーン会議]]にウェリントン公爵も参加した<ref name="世界伝記大事典(1980,2)149">[[#世界伝記大事典(1980,2)|世界伝記大事典(1980)世界編2巻]] p.149</ref>。イギリス代表は外相[[ロバート・ステュアート (カスルリー子爵)|カスルリー子爵]]だったが、彼は1815年2月に本国に帰国したため、以降はウェリントン公爵がその代理としてイギリス代表となった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.253-254</ref>。しかし会議そのものは、ロシアがポーランド、プロイセンがザクセンの領有権を主張して譲らなかったために紛糾し、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄される状況になった<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.252-253</ref>。ウェリントン公爵もこの状況にあきれ果てたという<ref name="柘植(1995)23-24">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.23-24</ref>。<br />
<br />
そのあいだイギリス軍に監視されながら[[エルバ島]]の小領主をしていたナポレオンは、ルイ16世の弟のルイ18世がフランスの民心を得られない状況を見て、いまフランスに戻れば政権を取り戻せると判断し、エルバ島を脱出して{{仮リンク|ゴルフ=ジュアン|fr|Golfe-Juan}}に上陸した。ナポレオンは、復古王政を「反人民の[[封建主義]]体制」と批判し、皇帝政府に復帰することをフランス軍やフランス人民に訴えた。警戒したルイ18世は[[ミシェル・ネイ]]元帥をナポレオン捕縛に派遣したが、ネイ元帥は途中でナポレオンに寝返った。他のフランス軍将軍たちも続々とナポレオンに寝返ったため、ナポレオンは無血でパリを奪還することに成功した<ref>[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.199-202</ref><ref>[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.195-202</ref>。<br />
<br />
この報告を聞いたウィーン会議出席中の各国首脳は、反ナポレオンで再び団結し、1815年3月12日にナポレオン排除を決議した<ref name="ストローソン(1998)266">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.266</ref><ref name="本池(1993)204">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.204</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
==== ワーテルローの戦い (1815年) ====<br />
[[File:Hillingford - Wellington and Blucher Meeting Before the Battle of Waterloo.jpg|thumb|180px|作戦会議を行うウェリントン公爵元帥とプロイセン軍の[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥({{仮リンク|ロバート・アレクサンダー・ヒリングフォード|en|Robert Alexander Hillingford}}画)]]<br />
ウェリントン公爵はオランダ領ベルギーで同盟軍の指揮を執ることになった。ウィーンを発つ前にロシア皇帝アレクサンドル1世から「世界をもう一度救うのは貴官だ」と激励された<ref name="ストローソン(1998)268">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.268</ref>。<br />
<br />
1815年4月4日に[[ブリュッセル]]に到着したウェリントン公爵は9万5000人のイギリス・オランダ・ハノーヴァー・ブラウンシュヴァイク連合軍を指揮し、[[モンス]]から海岸にかけて布陣した<ref name="ストローソン(1998)269">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.269</ref><ref name="柘植(1995)26">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.26</ref><ref name="本池(1993)215">[[#本池(1993)|本池(1993)]] p.215</ref><ref name="松村(2006)196">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.196</ref>。訓練が未熟な部隊も多かったものの、ウェリントン公爵の名声や気配りはこの雑多な多国籍軍の共同作業を可能とした<ref name="ストローソン(1998)272">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.272</ref>。さらに[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]元帥率いるプロイセン・ルクセンブルク連合軍12万人ほどが[[アルデンヌ]]から[[シャルルロワ]]にかけて布陣していた<ref name="本池(1993)215"/><ref name="松村(2006)196"/>。一方ナポレオンがパリでかき集めた兵力は58万人ほどで、そのうち12万4000人を自らの直属の野戦軍にした<ref name="松村(2006)196"/>。<br />
<br />
ナポレオン率いるフランス軍主力は6月11日にパリを発ち、6月14日には[[シャルルロワ]]付近に到着した<ref name="松村(2006)197">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.197</ref>。ウェリントン公爵はフランス軍がシャルルロワを攻撃すると見せかけて西側の進路をとると予想し、6月15日夕方、隷下の[[ウィレム2世 (オランダ王)|オラニエ公ウィレム]]と{{仮リンク|ローランド・ヒル (初代ヒル子爵)|label=ヒル卿|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}に指示を出して、{{仮リンク|ヘラールツベルヘン|nl|Geraardsbergen}}から{{仮リンク|ニーヴェル|fr|Nivelles}}に至る地域に素早く展開できるよう準備を開始させた<ref name="ストローソン(1998)274">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.274</ref>。同日夜10時頃、フランス軍主力がシャルルロワに進軍したことを知ったウェリントン公爵は、ニーヴェルと[[カトル・ブラ]]に軍を終結させるよう指示し直し、その後予定通りに{{仮リンク|シャルロッテ・レノックス (リッチモンド公爵夫人)|label=リッチモンド公爵夫人|en|Charlotte Lennox, Duchess of Richmond}}主催の{{仮リンク|リッチモンド公爵夫人の舞踏会|label=舞踏会|en|Duchess of Richmond's ball}}に出席した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.274-275</ref>。<br />
<br />
その舞踏会のさなか、フランス軍主力がカトル・ブラに進軍したとの報告を受けたウェリントン公爵は、{{仮リンク|チャールズ・レノックス (第4代リッチモンド公爵)|label=リッチモンド公爵|en|Charles Lennox, 4th Duke of Richmond}}に対して「ナポレオンにはしてやられました。24時間進軍してこちらへ向かってきています。カトル・ブラでナポレオンを迎え撃つことはできないでしょう。恐らくここで戦うことになります」と述べて地図上で[[ワーテルロー]]を指さしたという<ref name="ストローソン(1998)272">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.272</ref>。<br />
<br />
6月16日、ナポレオンは[[リニーの戦い]]でフランス軍主力をプロイセン軍と戦わせながら、[[ミシェル・ネイ]]元帥率いるフランス軍の一部を交通の要衝[[カトル・ブラ]]に差し向けた。そこを占領することで西側面からもプロイセン軍に攻勢をかけようとしたのだが、カトル・ブラを守る現地イギリス軍旅団は持ちこたえ、同日夕方にはウェリントン公爵率いるイギリス軍主力がカトル・ブラに到着し、ネイ軍を撃退した([[カトル・ブラの戦い]])<ref name="松村(2006)198">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.198</ref><ref name="柘植(1995)28">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.28</ref>。<br />
<br />
一方リニーの戦いに敗れたプロイセン軍は、[[ワーヴル]]まで撤退した(ただしネイ軍がカトル・ブラを占領できなかったためプロイセン軍も決定的打撃は受けずにすんだ)<ref name="ストローソン(1998)276">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.276</ref><ref name="本池(1993)215"/><ref name="松村(2006)198"/>。<br />
[[File:Wellington at Waterloo Hillingford.jpg|thumb|250px|left|ワーテルローの戦いで指揮を執るウェリントン公爵元帥(ヒリングフォード画)]]<br />
プロイセン軍の撤退を知ったウェリントン公爵は「ご老体が惨敗したか」と冷やかに述べたという。ウェリントン公爵は73歳になっても前線で指揮をとろうとするブリュッヘル元帥に否定的であったという<ref name="柘植(1995)28">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.28</ref>。<br />
<br />
プロイセン軍が撤退した以上、英軍がカトル・ブラに留まる意味もなく、ウェリントン公爵は6月16日から17日にかけて戦術的後退を行ったが、ナポレオン軍主力が追跡してきた。これを知ったウェリントン公爵はプロイセン軍のブリュッヘル元帥に[[ワーテルロー]]付近への集結を求める伝令を送った。もしプロイセン軍が来られないようであればウェリントン公爵としてはブリュッセルも放棄して後退を続けるつもりであった<ref name="柘植(1995)29">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.29</ref>。だがブリュッヘル元帥からの返答はすぐにもワーテルローへ向かうというものだった<ref name="柘植(1995)30">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.30</ref>。これを信じたウェリントン公爵は後退を中止し、[[ワーテルロー]]付近で守備布陣を固めた<ref name="松村(2006)199">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.199</ref>。<br />
<br />
6月17日は午後2時頃から豪雨となった<ref name="柘植(1995)29"/>。ナポレオンは砲兵の運用のため地面の安定を待って[[6月18日]]午後1時まで本格的な攻撃をかけなかった<ref name="松村(2006)199"/><ref name="ストローソン(1998)282">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.282</ref>。この隙にブリュッヘル率いるプロイセン軍がワーテルローに接近することが可能となった。ナポレオンは「プロイセン軍は到着まで二日はかかる」と考えており、プロイセン軍を追撃している[[エマニュエル・ド・グルーシー]]元帥の軍を呼び戻すべきとのスールト元帥の進言も却下している<ref name="ストローソン(1998)282-283">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.282-283</ref>。<br />
<br />
6月18日午後1時半から[[ジャン=バティスト・ドルーエ (エルロン伯爵)|デルロン伯爵]]率いるフランス軍第1軍団がイギリス軍中央に攻勢をかけてきた。{{仮リンク|トーマス・ピクトン|label=ピクトン|en|Thomas Picton}}中将の第5師団が迎え撃ったが、激戦となり、ピクトン中将も戦死した<ref name="ストローソン(1998)282-283">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.282-283</ref>。<br />
<br />
ウェリントン公爵は{{仮リンク|エドワード・サマセット|label=サマセット卿|en|Lord Edward Somerset}}少将率いる近衛騎兵旅団と{{仮リンク|ウィリアム・ポンソンビー (イギリス陸軍)|label=サー・ウィリアム・ポンソンビー|en|William Ponsonby (British Army officer)}}少将率いる連合騎兵旅団を応援に送ることとした。ウェリントン公爵は「紳士たちよ、王室の部隊の名誉のためだ」と叫んで彼らを鼓舞した<ref name="ストローソン(1998)284">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.284</ref>。出撃した両騎兵旅団はデルロン軍を退けたが、追撃で深追いし過ぎたため大きな打撃をこうむり、ポンソンビー少将も戦死した<ref name="ストローソン(1998)284">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.284</ref><ref name="柘植(1995)35">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.35</ref>。<br />
<br />
つづいて午後4時にネイ元帥がフランス重騎兵連隊を率いてイギリス軍中央に突撃をかけてきた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.277/285</ref>。しかしイギリス陸軍は[[14世紀]]の[[クレシーの戦い]]の教訓で日頃から騎兵単独突撃に対して[[陣形|方陣]]を組んで突破を阻止する訓練を受けていた<ref>[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.199-200</ref>。そのため冷静に横一列になって射撃を浴びせかけ、精強なフランス騎兵を次々と討ち取ることができた<ref name="ストローソン(1998)285">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.285</ref>。ウェリントン公爵は、愛馬[[コペンハーゲン (軍馬)|コペンハーゲン]]を駆ってあちこちの部隊を回り、「あと少しだ。プロイセン軍が到着すれば戦争は終わる」と兵士たちを励ました<ref name="ストローソン(1998)285">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.285</ref>。<br />
[[File:Blucher Wellington i Napoleon (1815).jpg|thumb|250px|ナポレオンを処分するウェリントン公爵元帥とプロイセン軍の[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]元帥の風刺画]]<br />
騎兵単独突撃を断念したネイ元帥は午後6時、歩兵・騎兵・砲兵を適切に活用して{{仮リンク|ラ・エー・サント|en|La Haye Sainte}}を攻略、これによって英軍の守備陣形が崩されそうになった。ネイ元帥はイギリス軍を一気に突き崩すため、ナポレオンに増援を要請したが、ナポレオンは接近してきたプロイセン軍の方を警戒しており、唯一手元に残る兵力の[[古参近衛隊|近衛隊]]を{{仮リンク|ジョルジュ・ムートン|label=ロバウ伯爵|fr|Georges Mouton}}率いる第6軍団支援に送った<ref name="ストローソン(1998)286">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.286</ref><ref name="松村(2006)199">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.199</ref>。その結果ネイ軍の攻撃は不徹底に終わった。ウェリントン公爵は弱体化した部分の指揮を自ら執って、適切に援軍を送って補強し、危機を回避した<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.277/286</ref>。<br />
<br />
午後7時頃になってようやくナポレオンはラ・エー・サントに近衛隊投入を決定した。ウェリントン公爵は近衛第1連隊にこれを食い止めさせている間、第52連隊にフランス近衛隊の側面を突かせ、近衛隊を敗走に追い込んだ<ref name="ストローソン(1998)287">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287</ref>。フランス軍最強の近衛隊の撤退でフランス軍主力に動揺が走った<ref name="ストローソン(1998)287">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287</ref>。さらにプロイセン軍もロバウ軍を撃破して、ラ・エー・サントに押し寄せてきた<ref name="松村(2006)200">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.200</ref><ref name="ストローソン(1998)287">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287</ref>。<br />
<br />
ウェリントン公爵はフランス軍が崩壊し始めたのを見逃さず、「始めたことは最後までやり遂げよう(In for a Penny In for a Pound)」という号令のもと全軍を前進させた<ref name="ストローソン(1998)287">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287</ref>。<br />
<br />
ナポレオンは手元に残されていた最後の近衛隊部隊を投入しつつ、総崩れになって敗走してくるフランス兵たちに檄を飛ばしたが、無駄な努力に終わった。結局ナポレオンも戦場を放棄してシャルルロワへ逃げていった。フランス軍の追撃はプロイセン軍が行った<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.287-288</ref>。<br />
<br />
こうしてワーテルローの戦いは同盟軍の勝利に終わったが、この戦いは同盟軍側にも甚大な数の戦死者を出していた。ウェリントン公爵軍は1万5000人、ブリュッヘル軍は7000人が戦死している(フランス軍は2万3000人)<ref name="松村(2006)201">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.201</ref>。翌19日に戦死者リストを見せられたウェリントン公爵は涙を流しながら「敗戦のときの気持ちは私には分からないが、これほど多くの戦友を失って得た勝利ほど悲しいことはない」と軍医に語っている<ref name="ストローソン(1998)288">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.288</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== フランス占領軍総司令官 (1815年-1818年) ===<br />
ナポレオンはパリまで逃げ戻ったが、ナポレオンを支持する者はもうほとんどなく、フランス議会から退位を要求された。同盟軍がパリに接近してくるに及んで、ナポレオンはイギリス軍に投降した。イギリス政府の決定でナポレオンは[[セント・ヘレナ島]]に流刑となった。ルイ18世がパリに帰還し、復古王政が再開された。また[[パリ条約 (1815年)|第二次パリ条約]]が締結されてフランスは莫大な賠償金を課され、フランス領土は[[1790年]]時の領土まで削減されることになった<ref name="松村(2006)201">[[#松村(2006)|松村(2006)]] p.201</ref>。<br />
<br />
フランス占領軍の総司令官に就任したウェリントン公爵は本国の外相[[ロバート・ステュアート (カスルリー子爵)|カスルリー子爵]]と協力して、復讐に燃えるロシア、プロイセン、オーストリアの主張を抑えて寛大な占領統治を行った。ロシアが求める[[イエナ橋]]の爆破も退けた。15万人もの占領軍は多すぎるとして縮小することも提案している。ロシア軍、プロイセン軍、オーストリア軍はフランス国民から激しい略奪を行ったが、イギリス軍はウェイリントン公爵の指揮下に規律を保ち、略奪を行わなかった<ref name="ストローソン(1998)306">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.306</ref>。<br />
<br />
また「変節者」「裏切り者」であっても[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]や[[ジョゼフ・フーシェ|フーシェ]]は閣僚の地位に留まらせるようルイ18世の説得にあたった<ref name="ストローソン(1998)310">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.310</ref>。一方でルイ18世に復讐で逮捕された[[ミシェル・ネイ]]元帥の助命嘆願はしなかった。その結果ネイは銃殺刑に処された<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.307-308</ref><br />
<br />
1818年秋[[アーヘン会議 (1818年)|アーヘン会議]]が開催され、ウェリントン公爵は外相カスルリー子爵とともにイギリス代表として出席した<ref name="ストローソン(1998)311">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.311</ref>。この会議でウェリントン公爵は[[ベアリングス銀行]]からフランス政府への融資を取り付け、フランス政府の賠償金支払いの当てを作り、その結果会議は11月末までにフランス占領軍を撤収させることを決議した<ref name="ストローソン(1998)311">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.311</ref>。<br />
<br />
こうしてウェリントン公爵も1818年12月にはイギリスへ帰国することとなった<ref name="ストローソン(1998)311">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.311</ref>。<br />
{{-}}<br />
=== リヴァプール伯爵内閣補給庁長官 (1818年-1827年) ===<br />
[[File:His Grace the Duke of Wellington.jpg|180px|thumb|1820年頃のウェリントン公爵]]<br />
帰国後、ただちに[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]内閣の{{仮リンク|イギリス補給庁長官|label=補給庁長官|en|Master-General of the Ordnance}}に就任した<ref>{{LondonGazette |issue= 17434 |startpage= 2325 |date= 26 December 1818 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref><ref name="ストローソン(1998)311">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.311</ref>。<br />
<br />
この時代、イギリス陸軍に関する管理機構は錯綜しており、補給庁は陸軍の武器弾薬や軍用コートの補給を所管する役所だった(食料と輸送は大蔵省の管轄)<ref name="ストローソン(1998)312">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.312</ref>。[[1827年]]までという長きにわたってこの閣僚職に在職したウェリントン公爵だったが、特筆される様な業績はなかった<ref name="ストローソン(1998)312">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.312</ref>。<br />
<br />
1822年8月に盟友である外務大臣カスルリー子爵が自殺し、[[ジョージ・カニング]]がその後任となった。この人事はウェリントン公爵が国王[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]に推挙した結果だった<ref name="ストローソン(1998)321">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.321</ref>。カニングはトーリー党内の[[自由主義]]派であり<ref name="トレヴェリアン(1975)120">[[#トレヴェリアン(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.120</ref>、保守的なウェリントン公爵は彼に好感を持っていなかった(カスルリーとカニングが犬猿の仲だったこともある)が、反政府派に対抗するためには彼の入閣が不可欠と考えていた<ref name="ストローソン(1998)321"/>。<br />
<br />
だがカニングの入閣により閣内の亀裂は深まった。とりわけウェリントン公爵と[[大法官]]{{仮リンク|ジョン・スコット (初代エルドン伯爵)|label=エルドン伯爵|en|John Scott, 1st Earl of Eldon}}の保守的な見解が、カニングや[[ウィリアム・ハスキソン]]の自由主義的見解と頻繁に衝突するようになった。首相リヴァプール首相や内務大臣[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]、[[陸軍・植民地大臣]][[ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)|バサースト伯爵]]は中間的な立場を取ることが多かった<ref name="君塚(1999)50">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.50</ref><ref name="トレヴェリアン(1975)120">[[#トレヴェリアン(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.120</ref>。<br />
<br />
とりわけ対立が深刻化したのが[[カトリック解放]]問題だった。これは[[イングランド国教会]]信徒にしか公務就任が認められていない現状に対してカトリックの公務就任を認めるべきか否かという問題であった。この問題ではカニング、ハスキソンがカトリック解放を支持する一方、ピールがカトリック解放に強く反対した。ウェリントン公爵もカトリック解放反対の立場だったが、閣内分裂を恐れ、この問題ではバサースト伯爵とともに閣内融和に努めている<ref name="君塚(1999)50"/>。<br />
<br />
1827年1月に{{仮リンク|イギリス陸軍総司令官|label=陸軍総司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク・オールバニ公爵]]が[[薨去]]すると、ウェリントン公爵が補給庁長官在任のまま軍職の陸軍最高司令官を兼務した<ref>{{LondonGazette |issue= 18327 |startpage= 153 |date= 23 January 1827 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>。彼はこの地位に付いたことを非常に喜んだという<ref name="ストローソン(1998)327">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.327</ref>。<br />
<br />
1827年2月17日にリヴァプール伯爵が[[脳卒中]]で倒れ、後任の首相を決める必要に迫られた。[[リチャード・テンプル=グレンヴィル (初代バッキンガム=シャンドス公爵)|バッキンガム=シャンドス公爵]]や[[ヘンリー・ペラム=クリントン (第4代ニューカッスル公爵)|ニューカッスル公爵]]などカトリック解放に慎重な貴族たちは後任の首相にウェリントン公爵を推したものの、当のウェリントン公爵には首相になる意思がなく、国王ジョージ4世から次期首相について下問された際に「私はカニングかピールに大命を与えるべきと考えますが、首相選定は陛下が果たされるべき責務です」と奉答している<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.50-51</ref>。<br />
<br />
カニングとピールはともに相手の内閣で閣僚になる事を拒否していたため、国王としてはどちらかを切らねばならなかった。国王はカニングに組閣の大命を与えた<ref name="君塚(1999)51">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.51</ref>。<br />
<br />
これによりピールをはじめとしたカトリック解放反対派閣僚たちは閣僚職を辞した。カニングはウェリントン公爵だけでも閣内に留めようと説得を続けたが、ウェリントン公爵は「カトリック問題を慎重に取り扱うというリヴァプール内閣の方針を貴官が踏襲するならば留まってもいいが、貴官にその意思はないことは明白である。党を分裂させる恐れのある内閣には参加できない」と述べて入閣を拒否し、補給庁長官職と陸軍総司令官職を辞した<ref name="君塚(1999)52">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.52</ref><ref name="ストローソン(1998)327"/>。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 首相就任までの経緯 (1827年-1828年)===<br />
トーリー党守旧派から協力を拒否されたカニングはホイッグ党の[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]派と連立を組んで組閣した。これによりトーリー党、ホイッグ党双方が党分裂状態になった<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.52-53</ref>。<br />
<br />
しかしカニングは首相就任4カ月にして病死。国王ジョージ4世はこの時にはウェリントン公爵を召集することなく、[[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|ゴドリッチ子爵]]に大命を与えている<ref name="君塚(1999)52">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.52</ref>。ウェリントン公爵はゴドリッチ子爵内閣にも入閣しなかったが、軍職の陸軍総司令官職への復帰は了承している<ref name="ストローソン(1998)327">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.327</ref>。<br />
<br />
国王はカトリック解放派やホイッグ党から閣僚を入れ過ぎることに反対する立場だったので、内閣のお目付役としてトーリー党守旧派の{{仮リンク|ジョン・チャールズ・ヘリス|en|John Charles Herries}}を蔵相として入閣させていた<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.53-54</ref>。そのためゴドリッチ子爵内閣はすぐにも閣内不一致となった。国王とゴドリッチ子爵の対立も深まり、1828年1月8日には内閣総辞職に追い込まれた<ref name="君塚(1999)55">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.55</ref>。<br />
<br />
1月9日に国王はウェリントン公爵を召集して組閣の大命を下した。ウェリントン公爵は即答せず、各方面との組閣交渉の時間を頂いて退下した<ref name="君塚(1999)56">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.56</ref>。<br />
<br />
ウェリントン公爵はまずカニング内閣に参加していたホイッグ党ランズダウン侯爵派に入閣を要請したが、彼らはウェリントン公爵の反カトリック解放の立場に反発して入閣を拒否した。つづいてハスキソン率いるカニング派(トーリー党内自由主義派・カトリック解放派)に協力を要請したが、彼らはカトリック解放問題を棚上げにするという条件で入閣を了承した。これによって組閣の見通しが立った<ref name="君塚(1999)56">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.56</ref>。<br />
<br />
=== 第1次ウェリントン公爵内閣 (1828年-1830年)===<br />
[[File:1st Duke of Wellington 1831.jpg|180px|thumb|1830年から1831年頃に描かれた{{仮リンク|ジョン・ジャクソン (画家)|label=ジョン・ジャクソン|en|John Jackson (painter)}}の肖像画。]]<br />
[[1828年]][[1月20日]]に大命を拝受し、22日に{{仮リンク|第1次ウェリントン公爵内閣|en|Wellington ministry}}を成立させた<ref name="君塚(1999)56">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.56</ref>。この際に陸軍総司令官職は辞した<ref name="ストローソン(1998)328">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.328</ref>。<br />
<br />
ウェリントン公爵の内閣にはハスキソン、[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]、[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]など多くのカニング派閣僚が参加していたが、彼らは5月から6月にかけて[[腐敗選挙区]]削減問題で内務大臣ピールと対立を深め、一斉に辞職してしまった<ref name="君塚(1999)56">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.56</ref>。このためにウェリントン公爵内閣は早々に政権基盤が不安定になった。<br />
<br />
一方野党ホイッグ党はランズダウン侯爵派と再統一して、カトリック問題などで与党に対する攻勢を強めてきた。また1828年7月には[[アイルランド]]独立を目指すアイルランド・カトリックの[[ダニエル・オコンネル]]が庶民院議員に当選するも国教徒でないことを理由に議場に入る事を認められず、カトリック解放の機運が高まった<ref name="君塚(1999)57">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.57</ref>。<br />
<br />
ウェリントン公爵は頑迷なカトリック解放反対派というわけではなく、この頃にはカトリックへの譲歩も考えるようになっていた。ピールや国王を説得のうえ、[[1829年]]3月にカトリック解放法案を議会に提出、4月に可決させた。これによって17世紀以来議会から締め出されていたカトリックに庶民院議員の道が開けた。だがカトリック解放に反対する{{仮リンク|ウルトラ・トーリー|en|Ultra-Tories}}が事実上トーリー党から離反してしまい、これが裏目に出てウェリントン公爵の政治基盤は強化されるどころか弱体化した<ref name="君塚(1999)57">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.57</ref>。<br />
<br />
またカトリック問題が落ち着いたのも束の間で、今度は選挙法改正の機運が高まっていき、ホイッグ党若手議員のリーダーである[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]が腐敗選挙区廃止と大都市の議席増を内容とする選挙法改正法案を議会に提出してきた。なんとか同法案を否決に追い込んだものの、これによって逆にホイッグ党の反政府団結力は強くなった<ref name="君塚(1999)57">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.57</ref>。<br />
<br />
[[1830年]][[6月26日]]にジョージ4世が[[崩御]]し、その弟である[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]が新国王に即位したこともホイッグ党にとって有利な材料となった。ジョージ4世はホイッグ党やホイッグ党党首[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]のことを嫌っていたが、ウィリアム4世はグレイ伯爵と交友があり、ホイッグ党に対しても比較的好意的だったのである<ref name="君塚(1999)57-58">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.57-58</ref>。<br />
<br />
当時のイギリスの慣例で新国王の即位に伴って{{仮リンク|1830年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1830}}が行われたが、トーリー党が250議席、野党(ホイッグ、カニング派、ウルトラ・トーリー)が196議席、無所属・所属不明が212議席という結果になった。一応多数派を得たトーリー党だったが、野党の団結は進み、11月2日にウェリントン公爵が「選挙法改正は行わない」と議会で明言したことにより、政府打倒の機運は最高潮に達した。この空気に呑まれてもともと選挙法改正に反対していたウルトラ・トーリーまでもが倒閣に協力した<ref name="君塚(1999)58">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.58</ref>。<br />
<br />
その結果、11月15日には政府提出の王室費に関する法案に反対するホイッグ党の動議が233対204で可決される事態となり、ウェリントン公爵は総辞職を余儀なくされた。ここに半世紀にわたったトーリー党政権は倒れ、グレイ伯爵を首班とするホイッグ党政権が誕生するに至った<ref name="君塚(1999)58-59">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.58-59</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 野党党首として (1830年-1834年)===<br />
[[File:The Duke of Wellington and Sir Robert Peel 1844.jpg|thumb|200px|ウェリントン公爵と[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]を描いた絵画]]<br />
以降ウェリントン公爵は1834年まで野党としてのトーリー党を指導したが、この頃から党の実務を庶民院トーリー党の指導者[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]に委ねるようになった<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。ただ自由主義的なピールは党内に敵が多かったので、当面はウェリントン公爵が党首として睨みを利かせる必要があった。またピールに実務を委ねるようになったとはいっても、しばしば政治への意欲を取り戻しては、貴族院からトーリー党を指導してピールの党指導を掣肘した<ref name="ブレイク(1979)46"/>。<br />
<br />
改革に燃えるグレイ伯爵政権はまず選挙法改正を目指したが、ウェリントン公爵率いるトーリー党はその反対運動に全力をあげた。1831年の{{仮リンク|1831年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1831}}のホイッグ党の大勝で選挙法改正の大勢を覆しがたくなっても、貴族院で法案を修正して骨抜きにすることは諦めなかった<ref name="横越(1960)122">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.122</ref>。<br />
<br />
1832年5月、選挙法改正法案の審議の際に政府が敗北したことでグレイ伯爵が総辞職を表明し、ウィリアム4世はウェリントン公爵に組閣の大命を与えた。だが選挙法改正反対論者が首相に就任することへの世論の反発は激しく、裕福な中産階級が中心となって納税拒否や銀行預金一斉引き出しといった形で抵抗運動が起こった。恐慌に発展することを恐れた[[イングランド銀行]]理事がウェリントン公爵に組閣を断念するよう説得に現れるほどの事態となった。結局ウェリントン公爵は組閣を断念し、グレイ伯爵が再組閣することになった<ref>[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.124/149-150</ref>。この一件以来、ウェリントン公爵は「二度と首相はやらない」と公言するようになった<ref name="ブレイク(1979)46">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.46</ref>。<br />
<br />
結局、選挙法改正問題は、選挙法改正法案に賛成する貴族院議員を新たに任命すべきというホイッグ党の要求をウィリアム4世がしぶしぶ受け入れたことで、ウェリントン公爵ら貴族院トーリー党が抵抗を諦め、1832年6月に第1次選挙法改正が達成されるという結果となった<ref name="横越(1960)124-125">[[#横越(1960)|横越(1960)]] p.124-125</ref>。<br />
<br />
ホイッグ党はこの選挙法改正をはじめとして政治改革を多数行ったものの、それによってホイッグ党内の亀裂も徐々に深まり、[[1834年]]5月には[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿]](後のダービー伯爵)らが閣僚職を辞し、ホイッグ党から離党して[[ダービー派]]を形成する事態となった<ref name="君塚(1999)62">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.62</ref>。求心力低下を抑えがたくなったグレイ伯爵は7月に辞職し、後任に[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]が就任したが、メルバーン子爵は人事案をめぐって国王ウィリアム4世と対立し、11月にも罷免された<ref name="君塚(1999)62-63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.62-63</ref>。<br />
<br />
=== 第2次ウェリントン公爵内閣とピールへの交代 (1834年-1835年) ===<br />
この後、ウィリアム4世は[[保守党 (イギリス)|保守党]](1834年前後からトーリー党は保守党という名称を使用するようになる)党首ウェリントン公爵に組閣の大命を与えた。ウェリントン公爵は首相にはならないと公言していたから、{{仮リンク|保守党庶民院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Commons 1834–1922}}のピールに大命を与えるべきことを上奏した<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。<br />
<br />
ただこの時ピールはイタリア旅行中であったため、彼が帰国するまでの暫定として首相を務めることは了解し、{{仮リンク|第2次ウェリントン公爵内閣|en|Wellington caretaker ministry}}を発足させた<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。この暫定政権の間にウェリントン公爵は国王ウィリアム4世や保守党幹部たちにピールを売り込み、ピールが首相・保守党党首としてスムーズにスタートを切れるよう尽力した<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。<br />
<br />
12月にピールが帰国するとただちに首相職を辞し、首相・保守党党首の座をピールに譲った。そして第1次ピール内閣に[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]・[[貴族院院内総務]]として入閣した。だが、野党であるホイッグ党、{{仮リンク|急進派 (イギリス)|label=急進派|en|Radicals (UK)}}、オコンネル派(アイルランド議員)の連携でピール内閣は1835年4月にも総辞職に追い込まれ、ホイッグ党のメルバーン子爵が政権に返り咲いた<ref name="君塚(1999)63">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.63</ref>。<br />
{{-}}<br />
=== ヴィクトリア女王の即位と寝室女官事件 (1837年-1839年) ===<br />
[[File:Winterhalter - Queen Victoria 1843.jpg|thumb|180px|若き日の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]を描いた絵画]]<br />
[[1837年]]6月20日にウィリアム4世が崩御し、その姪である18歳の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]が女王に即位した<ref name="君塚(1999)65">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.65</ref>。同日開かれたヴィクトリア女王最初の[[枢密院 (イギリス)|枢密院会議]]にはウェリントン公爵も出席していたが、彼はその時の光景を「彼女はその肉体で自らの椅子を満たし、その精神で部屋全体を満たしていた」と表現している<ref name="ワイントラウブ(1993)上158">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.158</ref>。<br />
<br />
即位当初の女王は首相メルバーン子爵を偏愛したが、メルバーン子爵は妥協的関係にあった保守党や急進派の離反で求心力を落としていき、[[1839年]][[5月7日]]に女王に辞表を提出した。この際にメルバーン子爵は保守党貴族院・院内総務であるウェリントン公爵を後任の首相に推挙した<ref name="君塚(1999)68">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.68</ref>。<br />
<br />
女王はその助言に従って[[5月8日]]にウェリントン公爵を召集したが、彼は「70過ぎの自分には首相の大任は務まりません。庶民院への影響力もありません」と拝辞し、代わりにピールに大命を与えるべきことを上奏した<ref name="君塚(1999)69">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.69</ref><ref name="ワイントラウブ(1993)上194">[[#ワイントラウブ(1993)上|ワイントラウブ(1993) 上巻]] p.194</ref>。またこの際女王はウェリントン公爵に「今後もメルバーン卿に諮問してよいか」と下問している。野党党首が宮廷で個人的に君主の相談役になるなど前代未聞であったが、ウェリントン公爵は女王の気持ちも察してこれを了承した(彼はメルバーンも一廉の議会政治家なのでメルバーン自身が拝辞するだろうと考えていたようである)<ref name="君塚(1999)69">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.69</ref>。<br />
<br />
だが同日午後に召集されたピールは大命を拝受しつつもメルバーン子爵が女王の相談役になることには反対し、女王の不興を買った。さらにその翌日にピールはホイッグ党議員の妻が大半を占める寝室女官をはじめとした女官の一部を保守党の議員の妻に入れ替える宮廷女官人事案を女王に提出したが、女王は女官の人事は女王の私的人事と称してこれに強く反対し、ピールと女王の間で激しい政治闘争が発生した<ref name="君塚(1999)69-70">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.69-70</ref>。<br />
<br />
ウェリントン公爵はなんとか二人の仲を取り持とうと尽力したものの、二人はお互い引く様子を見せなかった。結局ウェリントン公爵はピールに大命を拝辞することを勧め、ピールはメルバーン子爵が引き続き首相を務めることに同意するに至った<ref name="君塚(1999)71">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.71</ref>。ウェリントン公爵もメルバーン子爵になるべく協力することを約束することになった<ref name="君塚(1999)72">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.72</ref><br />
<br />
この事件は[[寝室女官事件]]と呼ばれる。<br />
{{-}}<br />
=== 晩年 (1839年-1852年) ===<br />
[[File:Duke of Wellington Photo.jpg|180px|thumb|1844年のウェリントン公爵の写真]]<br />
[[File:Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington by Alfred, Count D'Orsay.jpg|180px|thumb|晩年のウェリントン公の肖像画({{仮リンク|アルフレッド・ド・オルセー|fr|Alfred d'Orsay}}画)]]<br />
寝室女官事件によりもうしばらく政権を担当することになったメルバーン子爵だったが、1841年の{{仮リンク|1841年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1841}}でホイッグ党が保守党に敗れた結果、1841年8月に召集された新議会で敗北し、総辞職に追い込まれた<ref name="君塚(1999)74">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.74</ref>。<br />
<br />
同年9月にも第2次ピール内閣が発足し、ウェリントン公爵は無任所大臣として入閣した<ref name="ストローソン(1998)334">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.334</ref>。1845年12月に[[穀物法]]廃止問題が浮上すると当初ウェリントン公爵は穀物法廃止に反対したが、最終的には「善き政府こそが穀物法や諸政策などより重要なものであり、サー・ロバート・ピールが女王と公共の信頼を得てその責務に耐え、またこれを全うできる力を持つ限り、彼は支持されてしかるべきである」と論じて支持した。穀物法廃止法案が庶民院を通過した後の貴族院第2読会において「君主と庶民院なくしては何も実現できない」と貴族院議員たちに支持すべきことを訴え、法案の貴族院通過に貢献した<ref>[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.106-107</ref>。<br />
<br />
穀物法廃止後、保守党はピールら自由貿易派と[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿]](後のダービー伯爵)ら保護貿易派に分裂したが、ウェリントン公爵はそのどちらにも参加せず、保守党貴族院院内総務の地位をスタンリー卿に譲ると自身は[[クロスベンチャー|中立派]]の席に座った<ref name="君塚(1999)95">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.95</ref>。<br />
<br />
貴族院に巨大な影響力を持つウェリントン公爵はピール内閣崩壊後に成立したホイッグ党政権の[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル卿]]内閣からも頼りにされ、王室を通じてたびたび協力を要請された。ウェリントン公爵の支持のおかげでラッセル内閣は[[航海条例]]廃止法案をはじめとする改革法案を貴族院通過させることができた<ref name="君塚(1999)95-96">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.95-96</ref>。<br />
<br />
一方陸軍においては1842年に再び陸軍総司令官に就任し<ref>{{LondonGazette |issue= 20130 |startpage= 2217 |date= 16 August 1842 |accessdate= 2013年1月27日 }}</ref>、死去する1852年まで務めた<ref name="ストローソン(1998)334">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.334</ref>。ただこの頃にはウェリントン公爵はだいぶ老衰しており、耳も遠くなっていたという。かつて盟友であったプロイセンの[[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル|ブリュッヘル]]が当時72歳という高齢でワーテルロー会戦の指揮を取っていたことを揶揄したウェリントン公爵も、自身の能力の衰えには分不相応な要職に就いていたのは皮肉である。子孫である{{仮リンク|ジェラルド・ウェルズリー (第7代ウェリントン公爵)|label=第7代ウェリントン公爵|en|Gerald Wellesley, 7th Duke of Wellington}}によれば「陸軍総司令部への出勤は一苦労だった。馬から降りる姿は痛ましい以外の何物でもなかった。やっとデスクに付くと小言と居眠りだけで一日を過ごした」という状態だったといい、彼は「晩年に陸軍総司令官の職務を引き受けたことは彼の人生の最大の誤りだった」と評している<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.334-335</ref>。<br />
<br />
このころ陸軍について正規兵の不足などが問題視されていたが、保守的なウェリントン公爵はあらゆる軍制改革に慎重だった。それによって軍隊の統帥権が国王から陸軍大臣に移り、軍隊が議会のものになってしまうことを恐れたためである<ref name="ストローソン(1998)342">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.342</ref>。その結果、イギリス陸軍の抱えた問題点は旧態依然としたまま残ってしまうことになる。それでも当時の中国やインド、ビルマ、アフガニスタンを(半)植民地化するには十分であったものの、ヨーロッパ列強の正規軍としては劣弱であることが[[クリミア戦争]]で証明される形となった<ref name="ストローソン(1998)341">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.341</ref>。<br />
{{-}}<br />
<br />
=== 死去 (1852年) ===<br />
[[1852年]][[9月14日]]に[[ケント (イングランド)|ケント]]の{{仮リンク|ウェルマー|en|Walmer}}の城で死去。83年の生涯だった。葬儀は11月18日に[[セント・ポール大聖堂]]で行われた<ref>{{LondonGazette |issue= 21381 |startpage= 3079 |date= 16 November 1852|accessdate= 2013年1月27日 }}</ref> <ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.343-344</ref>。<br />
<br />
死の11日ほど前に友人に「戦争するということと生きていくことは同じことだ。それは知らないことを知ろうと努めること、つまり丘の向こうにあるものを知ろうとすることだからだ」という言葉を残した<ref name="ストローソン(1998)343">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.343</ref>。<br />
<br />
==ギャラリー==<br />
{{Gallery<br />
|lines=3<br />
|File:Duke of Wellington statue, Princes Street Edinburgh.jpg|[[スコットランド]]・[[エジンバラ]]にあるウェリントン公爵と愛馬[[コペンハーゲン (軍馬)|コペンハーゲン]]の像<br />
|File:Statue of the Duke of Wellington, Royal Exchange, London EC3 - geograph.org.uk - 1706525.jpg|ロンドン・{{仮リンク|王立証券取引所|en|Royal Exchange, London}}前にあるウェリントン公爵と愛馬コペンハーゲン像。<br />
|File:Statue of Duke of Wellington in the Great Hall of the Guildhall - geograph.org.uk - 1229353.jpg|ロンドン・{{仮リンク|ギルドホール (ロンドン)|label=ギルドホール|en|Guildhall, London}}の大ホールにあるウェリントン公爵像。<br />
|File:WellingtonNorwich.jpg|{{仮リンク|ノリッジ大聖堂|en|Norwich Cathedral}}にあるウェリントン公爵像<br />
|File:Wellington Piccadilly Gardens Manchester.jpg|[[マンチェスター]]・{{仮リンク|ピカデリー・ガーデンズ|en|Piccadilly Gardens}}にあるウェリントン公爵像<br />
|File:Tomb Wellington.jpg|[[ロンドン]]・[[セント・ポール大聖堂]]のウェリントン公爵の墓<br />
|File:Wellington Arch, London.JPG|ロンドン・[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]にある{{仮リンク|ウェリントン・アーチ|en|Wellington Arch}}<br />
|File:Ireland - Dublin - Phoenix Park - Wellington Monument.jpg|[[アイルランド]]・[[ダブリン]]にある{{仮リンク|ウェリントン記念碑|en|Wellington Monument, Dublin}}<br />
|File:The Wellington - Wellington Street, London (6447092453) (2).jpg|ウェリントン公爵の名を冠したロンドンの老舗[[パブ]]「ザ・ウェリントン」<br />
}}<br />
{{-}}<br />
<br />
== 人物・評価 ==<br />
=== 軍人として ===<br />
[[File:The Duke of Wellington on Copenhagen (1818) by Thomas Lawrence.jpg|180px|thumb|ウェリントン公爵と愛馬[[コペンハーゲン (軍馬)|コペンハーゲン]]を描いた肖像画([[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]画)。]]<br />
補給線を伸ばしすぎないように後退して防備を固め、守備戦で敵を撃退することが多かった将軍である。「偉大な将軍の資質は、後退が必要な時にその事実を認めて実行する勇気があることだ」と語った<ref name="ストローソン(1998)184">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.184</ref>。<br />
<br />
ウェリントン公爵はナポレオンと違い、自らの戦勝や功績を大げさに語ることがなかった。ワーテルローの戦いの勝因も「ナポレオンが戦術らしい戦術を使わなかった。フランス軍が従来通り縦隊で進軍してきて従来通り撃退されただけ。それでも苦しい戦いだった。あと少しで負けるところだった」と謙虚な説明をしていた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.288-289</ref>。年老いたウェリントン公爵が[[ハイド・パーク]]を歩行中、身体を支えてくれた通りすがりの人にお礼を述べた際、その通行人は「この世で最も偉大な人物に手を差し伸べられる日が来るとは思いませんでしたよ」と述べたが、それに対してウェリントン公爵は「馬鹿げたことを言いなさんな」と答えたという<ref name="ストローソン(1998)314">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.314</ref>。<br />
<br />
常にイギリス紳士たる自覚を持ち、敗者に対しても寛容であった<ref name="柘植(1995)42">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.42</ref>。その精神はインドの征服地や敗戦国フランスに対しても発揮された。ウェリントン公爵は「戦争が終結したら全ての敵意を忘れねばならない。敵を許さなければ戦争は永遠に続く。大英帝国の政策が些細な悪感情に影響されることがあってはならない」と語っている<ref name="ストローソン(1998)119">[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.119</ref>。<br />
<br />
しばしば略奪を働く隷下の兵士たちを「酒を飲むために応募した人間の屑」と呼ぶことがあった<ref name="トレヴェリアン(1975)79">[[#トレヴェリアン(1975)|トレヴェリアン(1975)]] p.79</ref>。一方彼らの勇敢さはウェリントン公爵も認めるところであり、「粗暴だが勇敢で任務に忠実な兵士たちは、軍事的教養以外にも大事なものを持っている紳士たちに指揮されることによって戦場で大きな力を発揮する」と主張していた<ref>[[#ストローソン(1998)|ストローソン(1998)]] p.197-198</ref>。<br />
<br />
ただウェリントン公爵の隷下の指揮官たちは軍事教育をほとんど受けておらず、ウェリントンも彼らの能力をあまり高く評価していなかった<ref name="バーソープ(2001)6">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.6</ref>。そのためワーテルローの戦いにおいても、彼自身が[[旅団]]・[[大隊]]ランクにまで直に命令を発していた<ref name="バーソープ(2001)8">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.8</ref>。<br />
<br />
戦場ではあまり派手な軍服は着たがらず、全体的に控えめな格好をしていることが多かった<ref name="バーソープ(2001)47">[[#バーソープ(2001)|バーソープ(2001)]] p.47</ref>。<br />
<br />
ナポレオン戦争後の後半生は政界での活動が多くなったが、ウェリントン公爵自身は軍務の方を愛しており、政治家や民間人と付き合うのは好きではなかったという<ref name="世界伝記大事典(1980,2)149-150">[[#世界伝記大事典(1980,2)|世界伝記大事典(1980)世界編2巻]] p.149-150</ref>。<br />
{{-}}<br />
=== 政治家として ===<br />
[[File:The Duke of Wellington (1839) by George Hayter.jpg|180px|thumb|1839年に描かれたウェリントン公爵の肖像画({{仮リンク|ジョージ・ハイター|en|George Hayter}}画)]]<br />
政治家としては時代の進歩的理念に同調できなかった政治感覚の鈍い人物と評価されることが多いが、それは彼が政治以外の場での功績によって政界の中枢となった軍人首相であり、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]での議会政治家としての経験が足りなかったことに起因している<ref name="小松(1983)417">[[#小松(1983)|小松(1983)]] p.417</ref>。<br />
<br />
しかし政治家としては色々と利点も備えていた。まずナポレオンを倒した英雄として各方面から広く人望があったことである。特に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]は彼を困らせようとは決してしなかった<ref name="小松(1983)417"/>。その貴族院への絶大な影響力により、王室や時の政府(トーリー・ホイッグ問わず)からも長く頼りにされ続けた<ref name="君塚(1999)95-96">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.95-96</ref>。また[[ロバート・ピール]]という改革に前向きな補佐役を有していたため、保守的ながらも改革に対して常に後ろ向きというわけではなかった<ref name="小松(1983)418">[[#小松(1983)|小松(1983)]] p.418</ref>。<br />
<br />
政治思想面では国制護持を重視していた<ref name="君塚(1999)106">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.106</ref>。とりわけ貴族院の権限を低下させられる事態と<ref name="君塚(1999)107">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.107</ref>、軍隊の統帥権が王から陸軍大臣に移ることで軍隊が議会のものになってしまう事態を極度に恐れた<ref name="ストローソン(1998)342"/>。その立場から君主と庶民院が承認した法案については貴族院も通過できるよう取り計らうことを心がけていた(貴族院改革の動きが発生しないよう)。第一次選挙法改正も穀物法廃止も彼のこの妥協精神によって実現できたものだった<ref name="君塚(1999)107"/>。統帥権に関してはあらゆる軍制改革を拒否することによって統帥権を君主に留まらせたため、軍の弱体化も招いた<ref name="ストローソン(1998)342"/>。常に大衆の革命を恐れており、大衆を憎んでいた。1830年代には「私は大衆が嫌いだ。私は悪い時期、嫌な光景が大衆によって作り出されてきたのをこれまでに何度も見た」と側近に漏らしている<ref name="君塚(1999)106">[[#君塚(1999)|君塚(1999)]] p.106</ref>。<br />
<br />
筆まめな人物であり、膨大な量の書簡を残している。書簡を本として編纂し出版したこともある。また議会演説集も出版している<ref name="世界伝記大事典(1980,2)150">[[#世界伝記大事典(1980,2)|世界伝記大事典(1980)世界編2巻]] p.150</ref>。<br />
{{-}}<br />
== その他 ==<br />
[[File:Wfm duke of wellington.jpg|180px|thumb|カラーコーンを載せられるグラスゴーのウェリントン公爵像]]<br />
*足首の上までの長さのブーツを愛用していた。これは彼のトレードマークの一つとなり、[[ウェリントン・ブーツ]]という言葉が広まった<ref name="朝倉(1996)133">[[#朝倉(1996)|朝倉・三浦(1996)]] p.133</ref>。<br />
*鷲鼻からノージーとあだ名されていた<ref name="朝倉(1996)133">[[#朝倉(1996)|朝倉・三浦(1996)]] p.133</ref>。この特徴的な顔のおかげで、(写真が登場する以前の時代の人物としては珍しいことだが)人々からよく顔を認知されていたという<ref name="世界伝記大事典(1980,2)150"/>。<br />
*彼の父や兄がマスターを務めていた[[フリーメイソン]]の第494トリム・ロッジに所属していた。このロッジ以外のメイソンの会合には参加しなかった<ref>{{Cite web |url= http://freemasonry.bcy.ca/biography/wellington_d/wellington_d.html |title=Duke of Wellington |accessdate= 2015-9-4 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。<br />
*ウェリントン公爵の部下の兵士にトマス・アトキンスという勇敢な兵士がおり、彼に感銘を受けていたウェリントン公爵は国務大臣を務めていた頃、陸軍法規に兵士代表として「トマス・アトキンス」の名前を記載した。これがきっかけとなり、イギリス兵のことを「{{仮リンク|トミー・アトキンス|label=トマス・アトキンス(トミー・アトキンス)|en|Tommy Atkins}}」、もしくは「トミー」と呼ぶ習慣が生まれた<ref name="朝倉(1996)133">[[#朝倉(1996)|朝倉・三浦(1996)]] p.133</ref>。<br />
*1971年から1990年まで[[イングランド銀行]]が発行していた「シリーズD」の5[[スターリング・ポンド|ポンド]]紙幣の裏面に肖像が使用されていた<ref name="柘植(1995)24">[[#柘植(1995)|柘植(1995)]] p.24</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.bankofengland.co.uk/banknotes/Pages/denom_guide/nonflash/5-seriesd.aspx |title= Withdrawn Banknotes Reference Guide: £5 Series D (Pictoral Series) |publisher= [[イングランド銀行|Bank of England]] |language= 英語 |accessdate=2013-01-27}}</ref>。<br />
*ウェリントン公爵は1830年9月15日に、世界で最初の実用的な[[蒸気機関車]]による[[鉄道]]として開通した[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]の開業式に首相として出席した。首相にとって政敵ともいえる[[ウィリアム・ハスキソン]]は鉄道の実現に向けて貢献した人物でやはり開業式に出席し、記念列車で首相に同乗した。途中駅で機関車の給水のために停車した際に、係員の制止を聞かずに来賓たちは線路上に降りて談笑を始め、ハスキソンは首相と和解して今後の協力を約し握手をしていたとされる。しかし後続列車が進入してきて逃げ遅れたハスキソンは轢かれて命を落としてしまった。以降の儀式の中止も検討されたが、ウェリントン公爵が[[マンチェスター]]を訪れないのは困ると説得され、結局予定通りとされている<ref>[[#水島(2004)|水島(2004)]] p.160-167</ref>。<br />
*2013年現在、[[グラスゴー]]市内にはウェリントン公爵の[[騎馬像]]が存在する。この騎馬像は、市民から[[カラーコーン]]を載せられるなど、しばしばイタズラの対象とされていること、また、それを許容する文化が形成されるなど市民に親しまれる存在となっている<ref>{{Cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3003272|title=彫像へのいたずらは「文化」、市民が死守 スコットランド|work=AFP|publisher=フランス通信社|date=2013-11-14|accessdate=2013-11-15}}</ref>。<br />
<br />
== 栄典 ==<br />
=== イギリス ===<br />
<div style="float:left; width:50%"><br />
==== 爵位 ====<br />
すべて[[連合王国貴族]]。<br />
* ウェリントンのドゥロ男爵 - 1809年9月4日<ref name="Doyle">[[File:PD-icon.svg|12px| ]] {{cite encyclopedia |editor-first= James William Edmund |editor-last= Doyle |editor-link= :en:James William Edmund Doyle |encyclopedia= The Official Baronage of England: Showing the Succession, Dignities, and Offices of Every Peer from 1066 to 1885 |title= WELLINGTON. |url = http://archive.org/stream/officialbaronag02doylgoog#page/n636/mode/2up |accessdate = 2013-2-10 |language = 英語 |edition = |year = 1886 |publisher = [[:en:Longmans|Longmans]] |volume = 3 |location = [[ロンドン|London]] |pages = 615-620 }}</ref><ref name="Cokayne">[[File:PD-icon.svg|12px| ]] {{cite encyclopedia |editor-first= George Edward |editor-last= Cokayne |editor-link= :en:George Cokayne |encyclopedia= [[:en:The Complete Peerage|The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain, and the United Kingdom Extant, Extinct, or Dormant]] |title= WELLINGTON. |url= http://archive.org/stream/completepeerage00cokagoog#page/n89/mode/2up |accessdate= 2013-2-10 |language= 英語 |edition= 1 |year= 1898 |publisher= [[:en:George Bell & Sons|George Bell & Sons]] |volume= 8 |location= [[ロンドン|London]] |pages= 80-83 }}</ref><br />
* タラヴェラおよびウェリントンのウェリントン子爵 - 1809年9月4日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* ウェリントン伯爵 – 1812年2月<!--18日--><ref name="Doyle" /><!--28日--><ref name="Cokayne" /><br />
* ウェリントン侯爵 – 1812年<!--8月12日--><ref name="Doyle" /><!--10月3日--><ref name="Cokayne" /><br />
* ドゥロ侯爵 – 1814年5月<!--3日--><ref name="Doyle" /><!--11日--><ref name="Cokayne" /><br />
* [[ウェリントン公爵]] – 1814年5月<!--3日--><ref name="Doyle" /><!--11日--><ref name="Cokayne" /><br />
</div><div style="float:left;"><br />
<br />
==== 勲位・名誉職など ====<br />
* [[バス勲章]]ナイト・コンパニオン - 1804年9月1日<ref name="LondonGazette1804" /><ref name="Doyle" />(1815年1月2日、バス勲章の制度改正<ref>{{LondonGazette |issue= 16972 |startpage= 17 |date= 4 January 1815 |accessdate = 2013-02-14 }}</ref>に伴い同ナイト・グランド・クロス<ref>{{LondonGazette |issue= 16972 |startpage= 18 |date= 4 January 1815 |accessdate = 2013-02-14 }}</ref><ref name="Doyle" />)<br />
* イギリス[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]] - 1807年4月8日<ref name="LondonGazette1807" /><ref name="Doyle" /><br />
* {{仮リンク|枢密院 (アイルランド)|en|Privy Council of Ireland|label=アイルランド枢密顧問官}} - 1807年4月21日<ref name="Doyle" /><br />
* [[ガーター勲章]] 騎士 - 1813年3月4日<ref name="LondonGazette1813" /><ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* 半島戦争の[[従軍記章]]([[:en:Army Gold Medal|Army Gold Medal]])<br />
* {{仮リンク|ハンプシャー州統監|en|Lord Lieutenant of Hampshire}}および{{仮リンク|ハンプシャー主席治安判事|en|Custos Rotulorum of Hampshire|label=主席治安判事}} - 1820年12月19日<ref name="Doyle" />〜1852年<ref name="Cokayne" /><br />
* [[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]の[[戴冠式]]における[[大司馬 (イングランド)|イングランド大司馬]] - 1821年7月19日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{仮リンク|ロンドン塔管理長官|en|Constable of the Tower}}・{{仮リンク|タワーハムレッツ統監|en|Lord Lieutenant of the Tower Hamlets}} - 1826年12月29日<ref name="Doyle" />〜1852年<ref name="Cokayne" /><br />
* [[ドーヴァー城]]管理長官・{{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}} - 1829年1月20日<ref name="Doyle" />〜1852年<ref name="Cokayne" /><br />
* [[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の戴冠式におけるイングランド大司馬 - 1831年9月8日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* [[オックスフォード大学]] 総長 - 1834年1月29日<ref name="Doyle" />〜1852年<ref name="Cokayne" /><br />
* [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王の戴冠式におけるイングランド大司馬 - 1838年6月28日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* [[イギリス土木学会|土木技術者協会]] 名誉会員<br />
* [[王立協会]] [[王立協会フェロー|フェロー]] - 1847年11月25日<ref>{{FRS |code = NA6604 |title = Wellesley; Arthur (1769 - 1852); 1st Duke of Wellington |accessdate = 2013-2-14 }}</ref><br />
</div>{{clear}}<br />
=== 外国 ===<br />
<div style="float:left; width:50%"><br />
==== 爵位 ====<br />
* {{Flagcountry2|ポルトガル王国|1707}}: ヴィメイロ伯爵 - 1811年10月18日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flag2|スペイン|1785}}: {{仮リンク|シウダード・ロドリゴ公爵|es|Ducado de Ciudad Rodrigo}}、一級[[グランデ]] - 1812年1月<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flagcountry2|ポルトガル王国|1707}}: トレシュ・ベドラシュ侯爵 - 1812年<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flagcountry2|ポルトガル王国|1707}}: [[ヴィトーリア公爵]] 1812年12月18日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{flagicon image|Flag of the Netherlands.svg}} [[ネーデルラント連合王国|オランダ]]: {{仮リンク|ワーテルロー公|nl|Prins van Waterloo}} 1815年7月18日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
</div><div style="float:left;"><br />
==== 勲章 ====<br />
* {{Flagcountry2|ポルトガル王国|1707}}: {{仮リンク|塔および剣勲章|pt|Ordem Militar da Torre e Espada, do Valor, Lealdade e Mérito}} 大十字騎士 - 1811年10月18日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flag2|スペイン|1785}}: {{仮リンク|聖フェルナンド桂冠十字章|es|Cruz Laureada de San Fernando}} 大十字騎士 - 1812年4月11日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flag2|スペイン|1785}}: [[金羊毛騎士団|金羊毛勲章]] 騎士 - 1812年8月7日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{flagicon image|Flag of the Habsburg Monarchy.svg}} [[オーストリア帝国|オーストリア]]: [[マリア・テレジア軍事勲章]] 大十字騎士 - 1814年2月5日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{flag|Sweden}}: {{仮リンク|剣勲章|sv|Svärdsorden}} 大十字騎士 - 1814年2月5日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
*{{Flagcountry2|ロシア帝国}}: {{仮リンク|聖ゲオルギー勲章|ru|Орден Святого Георгия}} 大十字騎士 - 1814年3月4日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flagcountry2|プロイセン王国|1803}}: {{仮リンク|黒鷲勲章|de|Schwarzer Adlerorden}} 大十字騎士 - 1814年3月4日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{flagicon image|Flag of the Netherlands.svg}} [[ネーデルラント連合王国|オランダ]]: {{仮リンク|ヴィレム軍事勲章|nl|Militaire Willems-Orde}} 大十字騎士 - 1815年4月30日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{flag|Denmark}}: [[象勲章]] 騎士 - 1815年7月<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{flagicon image|Flagge Königreich Sachsen (1815-1918).svg}} [[ザクセン王国|ザクセン]]: [[:de:Hausorden der Rautenkrone|Hausorden der Rautenkrone]] 騎士 - 1815年7月27日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{flagicon image|Banner of Baden (3^2).svg}} [[バーデン (領邦)|バーデン]]: [[:de:Hausorden der Treue|Hausorden der Treue]] 騎士 - 1815年7月<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flagcountry2|サルデーニャ王国|1782}}: [[聖アヌンツィアータ騎士団|聖アヌンツィアータ勲章]] 騎士 1815年7月<ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flagcountry2|フランス王国|1814}}: {{仮リンク|聖霊勲章|fr|Ordre du Saint-Esprit}} 騎士 - 1815年11月27日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{flagicon image|Flag of Hanover 1837-1866.svg}} [[ハノーファー王国|ハノーファー]]: {{仮リンク|ロイヤル・ゲルフ勲章|en|Royal Guelphic Order}} 大十字騎士 - 1816年3月<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flag2|スペイン|1785}}: {{仮リンク|聖ヘルメネギルド勲章|es|Real y Militar Orden de San Hermenegildo}} 大十字騎士 - 1817年<!--2月1日--><ref name="Doyle" /><!--9月1日--><ref name="Cokayne" /><br />
*{{Flagcountry2|両シチリア王国}}: {{仮リンク|聖ジェナーロ勲章|it|Insigne e reale ordine di San Gennaro}} 騎士 - 1817年7月16日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
*{{Flagcountry2|両シチリア王国}}: {{仮リンク|聖フェルディナンドおよび功労勲章|it|Reale ordine di San Ferdinando e del merito}} 騎士 - 1817年7月16日<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
<br />
* {{flagicon image|Flag of Bavaria (striped).svg}} [[バイエルン王国|バイエルン]]: {{仮リンク|マックスヨーゼフ軍事勲章|de|Militär-Max-Joseph-Orden}} 大十字騎士<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flag2|スペイン|1785}}: {{仮リンク|カルロス3世勲章|es|Orden de Carlos III}} 騎士 <ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flagcountry2|プロイセン王国|1803}}: {{仮リンク|赤鷲勲章|de|Roter Adlerorden}} 大十字騎士<br />
* {{Flagcountry2|ロシア帝国}}: {{仮リンク|聖アレクサンドル・ネフスキー勲章|ru|Орден Святого Александра Невского}} 騎士<ref name="Cokayne" /><br />
* {{Flagcountry2|ロシア帝国}}: {{仮リンク|聖アンドレイ勲章|ru|Орден Святого апостола Андрея Первозванного}} 騎士<ref name="Doyle" /><ref name="Cokayne" /><br />
* {{flagicon image|Banner of Baden (3^2).svg}} [[バーデン (領邦)|バーデン]]: {{仮リンク|ツェーリング獅子勲章|de|Orden vom Zähringer Löwen}}<ref name="Cokayne" /><br />
* {{flagicon image|Flagge Großherzogtum Hessen ohne Wappen.svg}} [[ヘッセン大公国|ヘッセン]]: {{仮リンク|金獅子勲章|de|Hausorden vom Goldenen Löwen}}<ref name="Cokayne" /><br />
* {{flagicon image|Flagge Königreich Württemberg.svg}} [[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク]]: {{仮リンク|軍事功労勲章 (ヴュルテンベルク)|de|Militärverdienstorden (Württemberg)|label=軍事功労勲章}}<ref name="Cokayne" /><br />
</div>{{clear}}<br />
<br />
== 家族 ==<br />
1806年に第2代{{仮リンク|ロングフォード男爵|en| Baron Longford}}{{仮リンク|エドワード・パクナム (第2代ロングフォード男爵)|label=エドワード・パクナム|en|Edward Pakenham, 2nd Baron Longford}}の娘{{仮リンク|キャサリン・ウェルズリー (ウェリントン公爵夫人)|label=キャサリン・パクナム|en|Catherine Wellesley, Duchess of Wellington}}と結婚し、彼女との間に以下の2子を儲けた<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10256.htm#i102559 |title= Field Marshal Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington |accessdate= 2014-1-22 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。<br />
<br />
*第1子(長男)第2代ウェリントン公爵{{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・リチャード・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}(1807-1884):政治家<br />
*第2子(次男){{仮リンク|チャールズ・ウェルズリー (1808-1858)|label=チャールズ・ウェルズリー卿|en|Lord Charles Wellesley}}(1808-1858):政治家<br />
{{-}}<br />
== ウェリントン公爵を演じた人物 ==<br />
*[[ジュリアン・グローヴァー]]:『[[ヴィクトリア女王 世紀の愛]]』([[2009年]]、[[イギリス]]映画)<ref name="IMDb">[http://www.imdb.com/character/ch0028220/ IMDb]</ref><br />
*{{仮リンク|カエタノ・マルティネス・デ・イルホ|es|Cayetano Martínez de Irujo}}:『[[宮廷画家ゴヤは見た]]』([[2006年]]、[[スペイン]]、[[アメリカ]]映画)<ref name="IMDb"/><br />
*[[ヒュー・フレイザー (俳優)|ヒュー・フレイザー]]:『[[炎の英雄 シャープ]]』([[1993年]]-[[1997年]]、[[ITV (イギリス)|ITV]]制作のテレビドラマ)<ref>[http://www.sharpefilm.com/ SharpeFilm.com]</ref>{{refnest|group="注釈"|ヒュー・フレイザーが演じるのはウェリントン卿となった第3話Sharpe's Company以降で、それより前はデビッド・トゥルートンが演じている。}}<br />
*[[ローレンス・オリヴィエ]]:『{{仮リンク|レディ・カロライン|en|Lady Caroline Lamb (film)}}』([[1972年]]、アメリカ映画)<ref name="IMDb"/><br />
*[[クリストファー・プラマー]]:『[[ワーテルロー (映画)|ワーテルロー]]』([[1970年]]、[[イタリア]]、[[ソ連]]映画)<ref name="IMDb"/><br />
*[[ジョン・ネヴィル (俳優)|ジョン・ネヴィル]]:『{{仮リンク|勇将ジェラールの冒険|en|The Adventures of Gerard}}』(1970年、イギリス映画)<ref name="IMDb"/><br />
*[[トリン・サッチャー]]:『{{仮リンク|奇跡 (映画)|label=奇跡|en|The Miracle (1959 film)}}』([[1959年]]、アメリカ映画)<ref name="IMDb"/><br />
*{{仮リンク|ヴァルデマール・ライトゲープ|de|Waldemar Leitgeb}}:『[[ロスチャイルド家 (映画)|ロスチャイルド家]]』([[1940年]]、[[ナチス・ドイツ]]映画)<ref name="IMDb"/><br />
*{{仮リンク|ジェームス・デール|en|James Dale<!-- 曖昧さ回避ページ -->|FIXME=1}}:『{{仮リンク|ヴィクトリア女王 (映画)|label=ヴィクトリア女王|en|Victoria the Great}}』([[1937年]]、イギリス映画)<ref name="IMDb"/><br />
*[[ジョージ・アーリス]]:『{{仮リンク|風雲の欧羅巴|en|The Iron Duke (film)}}』([[1934年]]、イギリス映画)<ref name="IMDb"/><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{reflist|group=注釈|1}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{reflist|colwidth=30em}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*{{Cite book|和書|author=[[朝倉治彦]]、[[三浦一郎]]|date=1996年(平成8年)|title=世界人物逸話大事典|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4040319001|ref=朝倉(1996)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[小松春雄]]|date=1983年(昭和58年)|title=イギリス政党史研究 エドマンド・バークの政党論を中心に|publisher=[[中央大学出版部]]|asin=B000J7DG3M|ref=小松(1983)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ストローソン]]|date=1998年(平成10年)|title=公爵(ウエリントン)と皇帝(ナポレオン)|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4105371012|ref=ストローソン(1998)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[柘植久慶]]|date=1995年(平成7年)|title=名将たちの決断|series=[[中公文庫]]|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4122024694|ref=柘植(1995)}}<br />
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=G.M.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}|translator=[[大野真弓]]|date=1975年(昭和50年)|title=イギリス史 3|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020370|ref=トレヴェリアン(1975)}}<br />
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|マイケル・バーソープ|en|Michael Barthorp}}|translator=[[堀和子]]|date=2001年(平成13年)|title=ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4105371012|ref=バーソープ(2001)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[浜渦哲雄]]|date=1999年(平成11年)|title=大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120029370|ref=浜渦(1999)}}<br />
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[早川崇]]|date=1979年(昭和54年)|title=英国保守党史 ピールからチャーチルまで|publisher=[[労働法令協会]]|asin=B000J73JSE|ref=ブレイク(1979)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[松村劭]]|date=2006年(平成18年)|title=ナポレオン戦争全史|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562039531|ref=松村(2006)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[水島とほる]]|title=蒸気機関車誕生物語|publisher=[[グランプリ出版]]|date=2004年(平成16年)|edition=初版|isbn=978-4876872596|ref=水島(2004)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[本池立]]|date=1993年(平成5年)|title=ナポレオン 革命と戦争|publisher=[[世界書院]]|isbn=978-4792721114|ref=本池(1993)}}<br />
*{{Cite book|和書|author=[[横越英一]]|date=1960年(昭和35年)|title=近代政党史研究|publisher=[[勁草書房]]|asin=B000JAPE20|ref=横越(1960)}}<br />
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|スタンリー・ワイントラウブ|en|Stanley Weintraub}}|date=2007年(平成19年)|title=ヴィクトリア女王〈上〉|translator=[[平岡緑]]|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120022340|ref=ワイントラウブ(1993)上}}<br />
*{{Cite book|和書|date=1980年(昭和55年)|title=世界伝記大事典〈世界編 2〉ウイーオ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7XCOU|ref=世界伝記大事典(1980,2)}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[イギリスの首相の一覧]]<br />
* [[ワーテルローの戦い]]<br />
* [[ウェリントンの勝利]]<br />
* [[ナポレオン・ボナパルト]]<br />
* [[アプスリー・ハウス]] - [[ウェリントン公爵]]家の[[タウンハウス (イギリス)|タウンハウス]]<br />
* [[ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル]]<br />
* [[ロバート・ピール]]<br />
* [[:en:Hippodrome Wellington|ヴェリントン競馬場]](英語版) - ベルギーの都市オステンドの競馬場。ウェリントン公の名から命名された。<br />
* [[ウェリントン]] - [[ニュージーランド]]の首都。ウェリントン公の名から命名された。<br />
** [[:en:HMNZS Wellington]]<br />
* [[:en:HMS Wellington]] <br />
* [[:en:HMS Duke of Wellington]]<br />
* [[:en:HMS Iron Duke]]<br />
** {{仮リンク|アイアン・デューク (装甲艦)|en|HMS Iron Duke (1870)}} - {{仮リンク|オーディシャス級装甲艦|en|Audacious-class ironclad}}3番艦<br />
** [[アイアン・デューク (戦艦)]] - [[アイアン・デューク級戦艦]]1番艦<br />
** {{仮リンク|アイアン・デューク (フリゲート)|en|HMS Iron Duke (F234)}} - [[23型フリゲート]]5番艦<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington|初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー}}<br />
{{Wikisource author|Arthur Wellesley}}<br />
{{Wikiquotelang|en|Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington}}<br />
* {{Hansard-contribs| sir-arthur-wellesley| Sir Arthur Wellesley }} {{en icon}}<br />
* {{UK National Archives ID}}<br />
* [http://www.number10.gov.uk/past-prime-ministers/arthur-wellesley-1st-duke-of-wellington/ Arthur Wellesley 1st Duke of Wellington] {{en icon}} ''[[ダウニング街10番地]]''<br />
* {{NPG name | id=04752 |name=Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington (1769-1852) }}<br />
* [http://blackwatch.napoleonicmedals.org/Wellington/Wellington.htm MEDALLIONS OF THE NAPOLEONIC ERA>Wellington] {{en icon}} - ナポレオン時代のメダル集のうち、ウェリントン公に関するもの<br />
* [http://www.histoire-empire.org/articles/congres_de_vienne/acte_du_congres_de_vienne_01.htm Acte du Congrès de Vienne du 9 juin 1815] {{fr icon}} - ウィーン会議議定書。ウェリントン公の名がその全称号とともに記載<br />
* {{Internet Archive author|name=Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington}}<br />
* {{Gutenberg author|5951}}<br />
{{start box}}<br />
{{s-par|ie}}<br />
{{S-bef| before = {{仮リンク|ウィリアム・ウェルズリー=ポール (第3代モーリントン伯爵)|label=ウィリアム・ウェルズリー=ポール|en|William Wellesley-Pole, 3rd Earl of Mornington}}<br>{{仮リンク|ジョン・ポメロイ (政治家)|label=ジョン・ポメロイ|en|John Pomeroy (politician)}}}}<br />
{{s-ttl| title = {{仮リンク|トリム選挙区|en|Trim (Parliament of Ireland constituency)}}選出[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員<br />
| years = 1790年–1797年<br><small>同一選挙区同時当選者<br>{{仮リンク|ジョン・ポメロイ (政治家)|label=ジョン・ポメロイ|en|John Pomeroy (politician)}}(1790–1791)<br>{{仮リンク|クロットワーリー・ロウリー (初代ラングフォード男爵)|label=クロットワーリー・ロウリー|en|Clotworthy Rowley, 1st Baron Langford}} 1791–1795<br>{{仮リンク|ヘンリー・ウェルズリー (初代カウリー男爵)|label=ヘンリー・ウェルズリー|en|Henry Wellesley, 1st Baron Cowley}} 1795<br>[[ウィリアム・クロスビー]] 1795–1797</small>}}<br />
{{s-aft| after = {{仮リンク|チチェスター・フォーテスキュー (1750-1820)|label=チチェスター・フォーテスキュー|en|Chichester Fortescue (1750–1820)}}<br>[[ウィリアム・クロスビー]] }}<br />
{{s-par|uk1801}}<br />
{{S-bef| before = [[トマス・デイヴィス・ラム]]<br>{{仮リンク|チャールズ・タルボット (第2代準男爵)|label=チャールズ・タルボット|en|Sir Charles Talbot, 2nd Baronet}}}}<br />
{{s-ttl| title = {{仮リンク|ライ選挙区|en|Rye (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員<br />
| years = {{仮リンク|1806年イギリス総選挙|label=1806年|en|United Kingdom general election, 1806}}<br><small>同一選挙区同時当選者<br>{{仮リンク|チャールズ・タルボット (第2代準男爵)|label=チャールズ・タルボット|en|Sir Charles Talbot, 2nd Baronet}}</small>}}<br />
{{s-aft| after = [[パトリック・クラウフォード・ブルース]]<br>{{仮リンク|マイケル・アンジェロ・タイラー|en|Michael Angelo Taylor}}}}<br />
{{s-break}}<br />
{{S-bef| before = {{仮リンク|サミュエル・ボッディントン|en|Samuel Boddington}} }}<br />
{{s-ttl| title = {{仮リンク|トラリー選挙区|en|Tralee (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員<br />
| years = 1807年5月 - 1807年7月}}<br />
{{s-aft| after = {{仮リンク|エヴァン・フォークス|en|Evan Foulkes}}}}<br />
{{s-break}}<br />
{{S-bef| before ={{仮リンク|クリストファー・ホーキンズ (初代準男爵)|label=クリストファー・ホーキンズ|en|Sir Christopher Hawkins, 1st Baronet}}<br>{{仮リンク|フレデリック・ウィリアム・トレンチ|en|Frederick William Trench}}}}<br />
{{s-ttl| title = {{仮リンク|ミッチェル選挙区|en|Mitchell (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員<br />
| years = 1807年<br><small>同一選挙区同時当選者<br>{{仮リンク|ヘンリー・カニンガム・モントゴメリー (初代準男爵)|label=ヘンリー・モントゴメリー|en|Sir Henry Conyngham Montgomery, 1st Baronet}}</small>}}<br />
{{s-aft| after = {{仮リンク|エドワード・ルーソン=ゴア|en|Edward Leveson-Gower}}<br>[[ジョージ・ゴールウェイ・ミルズ]]}}<br />
{{s-break}}<br />
{{S-bef| before = {{仮リンク|イザック・コリー|en|Isaac Corry}}<br>{{仮リンク|ジョン・ドイル (初代準男爵)|label=ジョン・ドイル|en|Sir John Doyle, 1st Baronet}} }}<br />
{{s-ttl| title = {{仮リンク|ワイト島ニューポート選挙区|en|Newport (Isle of Wight) (UK Parliament constituency)}}<br>選出庶民院議員<br />
| years = 1807年–1809年<br><small>同一選挙区同時当選者<br>[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]</small> }}<br />
{{s-aft| after = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]<br>[[レオナード・トマス。ウォーズリー=ホルムス (第9代準男爵)|レオナード・ウォーズリー=ホルムス]] }}<br />
{{s-off}}<br />
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}| years = [[1807年]]-[[1809年]]| before = {{仮リンク|ウィリアム・エリオット|en|William Elliot (MP)}}| after = {{仮リンク|ロバート・デュンダス (第2代メルヴィル子爵)|label=ロバート・デュンダス|en|Robert Dundas, 2nd Viscount Melville}}}}<br />
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|イギリス補給庁長官|label=補給庁長官|en|Master-General of the Ordnance}}| years = [[1819年]]-[[1827年]]| before =[[ヘンリー・フィップス (初代マルグレーブ伯爵)|初代マルグレーブ伯爵]]| after = {{仮リンク|ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)|label=初代アングルシー侯爵|en|Henry Paget, 1st Marquess of Anglesey}}}}<br />
{{s-bef | rows = 2 | before = [[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|初代ゴドリッチ子爵]]}}<br />
{{s-ttl<br />
| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]<br />
| years = [[1828年]][[1月22日]] – [[1830年]][[11月16日]]<br />
}}<br />
{{s-aft| rows = 2 | after = [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|第2代グレイ伯爵]]}}<br />
{{s-ttl<br />
| title = {{flagicon|UK}} [[貴族院院内総務]]<br />
| years = [[1828年]] – [[1830年]]<br />
}}<br />
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 首相| years = [[1834年]]| before = [[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|第2代メルバーン子爵]]| after = [[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]}}<br />
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]| years = [[1834年]]| before = [[ジョン・ポンソンビー (第4代ベスボロー伯爵)|ダンカノン子爵]]| after = {{仮リンク|ヘンリー・ゴールバーン|en|Henry Goulburn}}}}<br />
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[陸軍・植民地大臣]]| years = [[1834年]]| before ={{仮リンク|トーマス・スプリング・ライス (初代モンティーグル・オブ・ブランドン男爵)|label=トーマス・スプリング・ライス|en|Thomas Spring Rice, 1st Baron Monteagle of Brandon}}| after = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|第4代アバディーン伯爵]]}}<br />
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[外務・英連邦大臣|外務大臣]]| years = [[1834年]] - [[1835年]]| before =[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]| after = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|第3代パーマストン子爵]]}}<br />
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 貴族院院内総務| years = [[1834年]] - [[1835年]]| before =[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|第2代メルバーン子爵]]| after = [[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|第2代メルバーン子爵]]}}<br />
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 貴族院院内総務| years = [[1841年]] - [[1846年]]| before =[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|第2代メルバーン子爵]]| after = [[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|第3代ランズダウン侯爵]]}}<br />
{{s-ppo}}<br />
{{s-new|creation}}<br />
{{s-ttl|title=[[保守党 (イギリス)|イギリス保守党]]党首|years=[[1828年]] – [[1834年]]}}<br />
{{s-aft|after=[[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]}}<br />
{{s-new|creation}}<br />
{{s-ttl|title={{仮リンク|保守党貴族院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Lords 1834–present}}|years=[[1828年]] – [[1846年]]}}<br />
{{s-aft|after==[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー卿]]}}<br />
{{s-dip}}<br />
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[在フランスイギリス大使|在フランス大使]]| years = [[1814年]]-[[1815年]]| before = {{仮リンク|チャールズ・ウイットワース (初代ウィットワース伯爵)|label=ウィットワース・オブ・ニューポート・プラット卿|en|Charles Whitworth, 1st Earl Whitworth}}| after = {{仮リンク|チャールズ・スチュアート (初代スチュアート・ド・ローゼイ男爵)|label=サー・チャールズ・スチュアート|en|Charles Stuart, 1st Baron Stuart de Rothesay}}}}<br />
{{s-mil}}<br />
{{Succession box| title = [[File:Flag of the British Army.svg|23px]] {{仮リンク|ウェリントン公爵連隊|label=第33歩兵連隊|en|Duke of Wellington's Regiment}}連隊長| years = [[1806年]]-[[1813年]]| before = [[チャールズ・コーンウォリス|初代コーンウォリス侯爵]]| after = {{仮リンク|ジョン・コープ・シェルブルック|label=サー・ジョン・コープ・シェルブルック|en|John Coape Sherbrooke}}}}<br />
{{Succession box| title = [[File:Flag of the British Army.svg|23px]] {{仮リンク|王立近衛騎馬連隊 (イギリス)|label=王立近衛騎兵連隊|en|Royal Horse Guards}}連隊長| years = [[1813年]]-[[1827年]]| before = [[ヒュー・パーシー (第2代ノーサンバーランド公爵)|第2代ノーサンバーランド公爵]]| after = [[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|カンバーランド公爵]]}}<br />
{{Succession box| title = [[File:Flag of the British Army.svg|23px]] [[プリマス]]総督| years = [[1819年]]-[[1827年]]| before = {{仮リンク|チャールズ・レノックス (第4代リッチモンド公爵)|label=第4代リッチモンド公爵|en|Charles Lennox, 4th Duke of Richmond}}| after = {{仮リンク|ウィリアム・ハーコート (第3代ハーコート伯爵)|label=第3代ハーコート伯爵|en|William Harcourt, 3rd Earl Harcourt}}}}<br />
{{Succession box| title = [[File:Flag of the British Army.svg|23px]] {{仮リンク|イギリス陸軍最高司令官|label=陸軍最高司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}| years = [[1827年]]-[[1828年]]| before = [[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク・オールバニ公爵]]| after = {{仮リンク|ローランド・ヒル (初代ヒル子爵)|label=初代ヒル子爵|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}}}<br />
{{Succession box| title = [[File:Flag of the British Army.svg|23px]] [[グレナディアガーズ]]連隊長| years = [[1827年]]-[[1852年]]| before = [[ウィリアム・フレデリック (グロスター=エディンバラ公)|グロスター=エディンバラ公爵]]| after = [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]}}<br />
{{Succession box| title = [[File:Flag of the British Army.svg|23px]] {{仮リンク|イギリス陸軍最高司令官|label=陸軍最高司令官|en|Commander-in-Chief of the Forces}}| years = [[1842年]]-[[1852年]]| before = {{仮リンク|ローランド・ヒル (初代ヒル子爵)|label=初代ヒル子爵|en|Rowland Hill, 1st Viscount Hill}}| after = [[ヘンリー・ハーディング (初代ハーディング子爵)|初代ハーディング子爵]]}}<br />
{{s-aca}}<br />
{{Succession box| title = [[File:Oxford University Coat Of Arms.svg|23px]] [[オックスフォード大学]]学長| years = [[1834年]]-[[1852年]]| before = [[ウィリアム・グレンヴィル|初代グレンヴィル男爵]]| after = [[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵]]}}<br />
{{s-hon}}<br />
{{S-bef|before=[[ジェームズ・ハリス (初代マームズベリー伯爵)|初代マームズベリー伯爵]]}}<br />
{{s-ttl|title=[[File:Flag of Hampshire.svg|23px]] {{仮リンク|ハンプシャー知事|en|Lord Lieutenant of Hampshire}}|years=[[1820年]] - [[1852年]]}}<br />
{{s-aft|after=[[ジョン・ポーレット (第14代ウィンチェスター侯爵)|第14代ウィンチェスター侯爵]]}}<br />
{{S-bef|before=[[フランシス・ロードン=ヘイスティングズ (初代ヘイスティングズ侯爵)|初代ヘイスティングズ侯爵]]}}<br />
{{s-ttl|title={{仮リンク|ロンドン塔管理長官|en|Constable of the Tower}}<br />{{仮リンク|タワーハムレッツ・ロンドン特別区知事|en|Lord Lieutenant of the Tower Hamlets}}|years=[[1827年]] - [[1852年]]}}<br />
{{s-aft|after={{仮リンク|ステープルトン・コットン (初代コンバーミア子爵)|label=初代コンバーミア子爵|en|Stapleton Cotton, 1st Viscount Combermere}}}}<br />
{{S-bef|before=[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|第2代リヴァプール伯爵]]}}<br />
{{s-ttl|title=[[File:Lord Warden Cinque Ports (Lord Boyce).svg|23px]] {{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}}|years=[[1829年]] - [[1852年]]}}<br />
{{s-aft|after=[[ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)|初代ダルハウジー侯爵]]}}<br />
{{s-reg|uk}}<br />
{{s-new|rows=6|creation}}<br />
{{s-ttl|title=[[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|23px]] 初代[[ウェリントン公爵]]|years=[[1814年]] – [[1852年]]}}<br />
{{s-aft|rows=6|after={{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}}}}<br />
{{s-ttl|title=[[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|23px]] 初代ドゥロ侯爵|years=[[1814年]] – [[1852年]]}}<br />
{{s-break}}<br />
{{s-ttl|title=[[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|23px]] 初代ウェリントン侯爵|years=[[1812年]] – [[1852年]]}}<br />
{{s-break}}<br />
{{s-ttl|title=[[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|23px]] 初代ウェリントン伯爵|years=[[1812年]] – [[1852年]]}}<br />
{{s-break}}<br />
{{s-ttl|title=[[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|23px]] 初代ウェリントン子爵|years=[[1809年]] – [[1852年]]}}<br />
{{s-break}}<br />
{{s-ttl|title=[[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|23px]] 初代ドゥロ男爵|years=[[1809年]] – [[1852年]]}}<br />
{{s-reg|pt}}<br />
{{s-new|creation}}<br />
{{s-ttl|title=[[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|23px]] 初代[[ヴィトーリア公爵]]|years=[[1812年]] – [[1852年]]}}<br />
{{s-aft|after={{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}}}<br />
{{s-reg|es}}<br />
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{{s-ttl|title=[[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|23px]] 初代{{仮リンク|シウダ・ロドリゴ公爵|es|Ducado de Ciudad Rodrigo}}|years=[[1812年]] – [[1852年]]}}<br />
{{s-aft|after={{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}}}<br />
{{s-reg|nl}}<br />
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{{s-ttl|title=[[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|23px]] 初代{{仮リンク|ワーテルロー公爵|nl|Prins van Waterloo}}|years=[[1815年]] – [[1852年]]}}<br />
{{s-aft|after={{仮リンク|アーサー・ウェルズリー (第2代ウェリントン公爵)|label=アーサー・ウェルズリー|en|Arthur Richard Wellesley, 2nd Duke of Wellington}}}}<br />
{{End box}}<br />
{{イギリスの首相}}<br />
{{イギリスの外務大臣}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{Good article}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:うえりんとんこうしやく01 うえるすり ああさあ}}<br />
[[Category:イギリスの首相]]<br />
[[Category:イギリスの外務大臣]]<br />
[[Category:イギリスの内務大臣]]<br />
[[Category:イングランド選出のイギリス庶民院議員]]<br />
[[Category:アイルランド選出のイギリス庶民院議員]]<!--アイルランドから選出されたこともある--><br />
[[Category:アイルランド庶民院議員]]<br />
[[Category:イギリス・トーリー党の政治家]]<br />
[[Category:イギリス保守党の政治家]]<br />
[[Category:イギリスの枢密顧問官]]<br />
[[Category:イギリス陸軍の軍人]]<br />
[[Category:イギリスの元帥]]<br />
[[Category:イギリスのフリーメイソン]]<br />
[[Category:王立協会フェロー]]<br />
[[Category:ウェリントン公|ああさあ]]<br />
[[Category:シウダ・ロドリゴ公|ああさあ]]<br />
[[Category:ヴィトーリア公|ああさあ]]<br />
[[Category:ワーテルロー公|ああさあ]]<br />
[[Category:ガーター勲章]]<br />
[[Category:バス勲章]]<br />
[[Category:金羊毛騎士団員]]<br />
[[Category:赤鷲勲章受章者]]<br />
[[Category:聖アンドレイ勲章受章者]]<br />
[[Category:聖アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者]]<br />
[[Category:聖ゲオルギー勲章受章者]]<br />
[[Category:ウェルズリー家|ああさあ]]<br />
[[Category:ナポレオン戦争の人物]]<br />
[[Category:イギリス・ポンド紙幣の人物]]<br />
[[Category:オックスフォード大学の教員]]<br />
[[Category:在フランスイギリス大使]]<br />
[[Category:ヴィクトリア朝の人物]]<br />
[[Category:イートン・カレッジ出身の人物]]<br />
[[Category:ダブリン出身の人物]]<br />
[[Category:1769年生]]<br />
[[Category:1852年没]]</div>
103.226.44.10
中央三井信託銀行
2018-06-16T13:01:56Z
<p>103.226.44.10: /* 旧三井信託銀行 */補足</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 会社<br />
|社名=中央三井信託銀行株式会社<br />
|英文社名=The Chuo Mitsui Trust and Banking Company, Limited<br />
|ロゴ=[[ファイル:Chuo Mitsui Trust and Banking Logo.svg|250px]]<br />
|画像=[[ファイル:Mitsui Trust Hldg Head Office.jpg|200px]]<br />
|画像説明=本店ビル(旧:中央信託銀行新本店として建築計画され、合併後の2000年11月に竣工)<br />
|種類=[[株式会社]]<br />
|市場情報=非上場<br />
|略称=<br />
|国籍={{JPN}}<br />
|郵便番号=105-8574<br />
|本社所在地=[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝 (東京都港区)|芝]]三丁目33番1号<br />
|設立=[[1962年]][[5月]](中央信託銀行)<br />
|業種=銀行業<br />
|事業内容=信託銀行業ほか<br />
|代表者=<br />
|統一金融機関コード = 0291<br />
|SWIFTコード = MTRBJPJT<br />
|資本金=3,791億97百万円<br />(2008年3月31日現在)<br />
|発行済株式総数=15億2,383万3,141株<br />(2008年6月30日現在)<br />
|売上高=<br />
|営業利益=<br />
|純利益=単体664億67百万円<br />連結646億57百万円<br />(2008年3月期)<br />
|純資産=単体7,381億20百万円<br />連結7,432億45百万円<br />(2008年3月31日現在)<br />
|総資産=単体13兆6,739億17百万円<br />連結14兆2,331億14百万円<br />(2008年3月31日現在)<br />
|従業員数=単体6,371人、連結8,828人<br />(2009年3月31日現在)<br />
|社員平均年収=<br />
|決算期=3月31日<br />
|主要株主=[[三井住友トラスト・ホールディングス]]株式会社 100%<br />
|主要子会社=[[中央三井カード]]株式会社<br />[[中央三井信不動産]]株式会社<br>[[東京証券代行]]株式会社<br />
|関係する人物=<br />
|外部リンク=http://www.chuomitsui.co.jp/<br />
|特記事項=<br />
}}<br />
{{基礎情報 銀行<br />
|銀行 = 中央三井信託銀行<br />
|英名 = <br />
|英項名 = <br />
|統一金融機関コード = <br />
|SWIFTコード = <br />
|代表者種別 = <br />
|氏名 = <br />
|店舗数 = '''67'''店(2007年3月31日現在)<br />
|従業員数 = <br />
|資本金 = <br />
|総資産 =<br />
|貸出金残高 =<br />
|預金残高 =(信託財産残高:7兆4,327億円)<br />
|設立日 = <br />
|郵便番号 = <br />
|所在地 = <br />
|外部リンク = <br />
|特記事項 =<br />
}}<br />
[[ファイル:Chuo Mitsui Trust Senri-Chuo.JPG|thumb|right|200px|店舗の一例<br/>コンサルプラザ千里中央駅前([[大阪府]][[豊中市]])]]<br />
'''中央三井信託銀行株式会社'''(ちゅうおうみついしんたくぎんこう、[[英語|英称]]:''The Chuo Mitsui Trust and Banking Company, Limited.''、略称:''CMTB'')は、[[三井住友トラスト・ホールディングス]]傘下で、かつて存在した[[信託銀行]]。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[2000年]]に[[中央信託銀行]]が[[三井信託銀行]]を[[合併 (企業)|合併]]して発足した。<br />
<br />
三井信託社長の[[古沢煕一郎]]が会長空席のまま初代代表取締役社長に就任、3つ併存していた[[勘定系システム]]も旧三井信託のもので一本化、また[[三井グループ]]の背景も業務上有利に進行し、主導権を握っているのは三井側である。(中央三井の持株会社は設立当時、"'''三井'''トラスト・ホールディングス株式会社"という社名であったことにも反映されている。その後、「中央三井」のブランドが中央三井信託銀行発足から年月を経るなかで確立されてきた経緯を反映して'''中央三井'''トラスト・ホールディングス株式会社に社名変更している)。<br />
<br />
中央信託銀行時代の[[1998年]]11月、経営破綻した[[北海道拓殖銀行]]の本州地区の営業を譲り受けた(店舗数にして59店舗)。店舗の大半は整理統合され、住友信託銀行へ合併される直前の時点で存在したのは旧拓銀同士の統合店舗である[[石神井]]支店(東京都)と[[杉戸町|杉戸]]支店(埼玉県)のみであった。拓銀譲受後の[[1998年]]12月に[[日本債券信用銀行]]との経営統合交渉に入るとの報道<ref>[[日経BP]]net 1998年12月15日[http://www.nikkeibp.co.jp/archives/047/47173.html]</ref>や、[[特別危機管理銀行]]入り後の[[日本長期信用銀行]]のスポンサー入札に参加するなどの動きがあった。<br />
<br />
4大[[メガバンク]]の傘下に入ることを選んだ他の信託銀行と異なり、[[住友信託銀行]]と同じく単独による生き残りか更なる合従連衡を模索。[[2001年]]6月に旧[[さくら銀行]]信託子会社である「さくら信託銀行」株式を[[三井住友銀行]]より譲渡され、三井アセット信託銀行(後の[[中央三井アセット信託銀行]])に社名変更。[[2002年]]2月、[[金融持株会社]]である[[三井トラスト・ホールディングス]]の発足にあわせ中央三井信託と三井アセット信託を子会社化した。<br />
<br />
年金等の受託資産(マスタートラスト)業務は[[中央三井アセット信託銀行]]へ移管され、その他の信託銀行業務(法人営業、[[リテール]]、[[不動産]]、証券代行等)を中央三井信託銀行が担当していた。2002年9月[[日本トラスティ・サービス信託銀行]]に出資し、マスタートラストは、[[住友信託銀行]]と[[りそな銀行]]の陣営に参加していた。また、[[2009年]]9月21日(同年9月20日設定分)を以て貸付信託の募集を停止した<ref>[http://www.chuomitsui.co.jp/topics/pdf/080926_big.pdf 「貸付信託」の募集取り止めについて]</ref>。<br />
<br />
[[失われた10年]]における[[不良債権]]処理のため、1999年までに三井信託が約4000億円、中央信託が約1500億円(拓銀資産の譲受が主因)の[[公的資金]]が[[優先株]]形式で注入された(三井トラストホールディングス発足時に[[株式交換]])。本来10年後の2009年7月までに全株買い戻す計画が[[世界金融危機]]による株式評価損などで赤字決算となり達成出来なかったため、同年8月3日付けで残りの優先株2003億円分が[[普通株式]]に強制転換され、[[整理回収機構]](金融庁)が中央三井トラストホールディングスの筆頭株主となった([[業務改善命令]]を発令)。これは破綻状態にはない都市銀行・信託銀行では初の事態であった。<br />
<br />
== システム統合 ==<br />
中央三井信託銀行発足時には、旧三井信託(MYTRUST)、旧中央信託の2つのシステム(従前からの中央信託のシステム(C-BEST)と旧北海道拓殖から引き継いだ支店のシステム)の3つが併存するという状況であった。通帳にはそれぞれ●(三井信託店舗)、■(中央信託店舗)、★(拓銀店舗)の識別マークが付され、各店にはそれぞれ対応したATMが用意されたが、対応したATMでないと通帳記入ができないなど取引上の制限があった。[[2002年]]1月、旧中央信託と旧三井信託の勘定系システムを統合、同年5月に拓銀のシステムも三井信託のシステムに統合し、同社のシステム統合は完了した。<br />
<br />
== 沿革 ==<br />
=== 旧中央信託銀行 ===<br />
* 1962年<br />
**5月 - [[東海銀行]]、[[第一銀行]]、日本証券代行及び[[日本興業銀行]]をバックボーンとして、'''中央信託銀行株式会社'''が設立される。<br />
**12月 - 東海銀行ならびに第一信託銀行より信託部門を、日本証券代行より証券代行部門をそれぞれ譲り受ける。<br />
* 1998年10月 - 北海道拓殖銀行(経営破綻)の本州地区の営業を譲り受ける。<br />
<br />
=== 旧三井信託銀行 ===<br />
[[ファイル:Mitsui main building01s3200.jpg|thumb|right|200px|日本橋営業部(旧:三井信託銀行本店)[[三井本館]]]]<br />
* 1924年3月25日 - '''三井信託株式会社'''として設立。取締役社長に[[米山梅吉]]。<br />
* 1948年8月 - 信託銀行に転換、'''東京信託銀行株式会社'''に商号変更。<br />
* 1952年6月 - 同年4月の財閥商号・商標使用禁止令の解除に伴い、'''三井信託銀行株式会社'''に商号変更。<br />
<br />
=== 合併以後 ===<br />
* 2000年4月 - 中央信託銀行を存続会社として合併、'''中央三井信託銀行株式会社'''となる。<br />
* 2001年6月29日 - さくら信託銀行の全株式を三井住友銀行より取得、完全子会社化。<br />
* 2002年<br />
**2月1日 - あらたに設立された三井トラスト・ホールディングス株式会社の完全子会社となったうえで、同社にさくら信託銀行(同日三井アセット信託銀行に商号変更)の全株式を譲渡。<br />
**3月 - 吸収分割の方法で、ホールセール部門を三井アセット信託銀行へ移管。<br />
* 2007年10月1日 - 中央三井信託銀行傘下の中央三井アセットマネジメントおよび中央三井キャピタルが、持ち株会社の三井トラスト・ホールディングスの直接子会社となる。ブランド名を中央三井に統一することも決定しており、[[持株会社]]は'''[[中央三井トラスト・ホールディングス]]'''(グループ名は、'''中央三井トラスト・グループ''')、既存の三井アセット信託銀行は'''[[中央三井アセット信託銀行]]'''へ名称変更。<br />
* 2011年<br />
**2月1日 - [[住友信託銀行]]との経営統合に先駆け、同行とのATM相互間出金手数料無料提携を開始<ref>{{PDFlink|[http://www.chuomitsui.co.jp/topics/pdf/1101_atmkaiho.pdf 住友信託銀行とのATM相互開放について]|中央三井信託銀行「その他のお知らせ」:2011年1月24日}}</ref>。<br />
**4月1日 - 親会社の中央三井トラスト・ホールディングスが、株式交換形式により[[住友信託銀行]]を子会社化し、'''[[三井住友トラスト・ホールディングス]]'''に改称。<br />
* 2012年<br />
**3月1日 - 完全子会社のCMTBエクイティインベストメンツ株式会社を吸収合併<ref>[http://www.chuomitsui.co.jp/topics/pdf/120117-4_release.pdf 子会社の合併に関するお知らせ] 中央三井信託銀行株式会社・平成24年1月27日</ref>。<br />
**3月30日 - ビジネスローン・不動産担保ローンの事業を行う完全子会社の中央三井ファイナンスサービス株式会社を、[[ローンスター|ローン・スター・ファンドグループ]]の株式会社KFキャピタルに譲渡<ref>[http://www.chuomitsui.co.jp/topics/pdf/120327_release.pdf 子会社株式の譲渡に関するお知らせ] 中央三井信託銀行株式会社・平成24年3月27日</ref>。<br />
**4月1日 - 中央三井アセット信託銀行と共に、住友信託銀行に吸収され、解散(住信が'''[[三井住友信託銀行]]'''となる)。本店窓口は、同社の芝営業部へ移行。<br />
<br />
== ATMサービス ==<br />
=== ICキャッシュカード ===<br />
[[生体認証]]は、指認証に対応していた。従来、5年間の有効期限が設けられていたが、[[2010年]]8月2日以降に発行されたカードについては有効期限が設けられない。<br />
<br />
=== ゆうちょ銀行との入出金提携 ===<br />
[[ゆうちょ銀行]]ATMでのカード入出金については、手数料体系自体は自社ATMに準じており、平日日中の引き出しが無料・預け入れは終日無料となる。取扱時間が一般支店よりも一部延長(コンサルプラザに設置されたATM稼動時間帯体系に順ずる)されて実施されている。<br />
<br />
=== 住友信託銀行ATMとの相互開放 ===<br />
[[2011年]][[4月1日]]付で、同行の親会社である[[中央三井トラスト・ホールディングス]]が[[住友信託銀行]]との経営統合により『[[三井住友トラスト・ホールディングス]]』への衣替えに先立ち、同年[[2月1日]]より、同行ATMと住友信託銀行との相互利用手数料無料提携を開始した。<br />
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== インターネットバンキング ==<br />
一般的なインターネットバンキングは、申込書などの書面を利用して申し込むケースが大半だが、当社の「中央三井信託ダイレクト」の場合、キャッシュカードを発行した上で、ホームページからのみ申し込むことで、利用者カードが送付されることで利用可能となっていた。<br />
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== キャラクター ==<br />
* 旧中央信託銀行は、オリジナルキャラクターとしてくまの「たっくん」を使用し、通帳デザインや販促用ぬいぐるみ等に使用していた。一方の旧三井信託銀行は、長年広告媒体向けに[[漫画家]][[黒鉄ヒロシ]]がデザインしたペンギンを使用していた。<br />
* 合併後しばらくは、旧中央信託の「たっくん」を継続使用した後、2004年頃よりイメージキャラクターとして俳優の[[役所広司]]を起用した(「'''次のメインバンクは、信託です。'''」)。<br />
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== 備考 ==<br />
* 旧三井信託は他の大手銀行(都銀・長銀・信託)が1990年代前半までに行名表記を毛筆体から[[コーポレート・アイデンティティ|CI]]導入による[[ゴシック体]]等へ更新された中、旧中央信託と合併する2000年3月まで毛筆表記であった。<br />
* 積立預金「夢物語」は、旧中央信託が旧拓銀から名称を継承したものであった。<br />
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== 提供番組 ==<br />
* [[ソロモン流]]([[テレビ東京]]系)<br />
* [[真相報道 バンキシャ!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列)<br />
* [[THE・サンデー]] → [[THE・サンデー NEXT]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列)<br />
* [[いい旅・夢気分]]([[テレビ東京]]系)<br />
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== 関連項目 ==<br />
* [[東海東京証券]]<br />
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== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}<br />
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== 外部リンク ==<br />
* [http://www.chuomitsui.co.jp/ 中央三井信託銀行]<br />
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{{三井グループ}}<br />
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{{DEFAULTSORT:ちゆうおうみついしんたくきんこう}}<br />
[[Category:かつて存在した日本の信託銀行|ちゆうおうみつい]]<br />
[[Category:三井グループ]]<br />
[[Category:三井住友トラスト・ホールディングス|廃 ちゆうおうみついしんたくきんこう]]<br />
[[Category:かつて存在した東京都の企業]]<br />
[[Category:三井住友信託銀行]]<br />
[[Category:1962年設立の銀行]]</div>
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