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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=65.99.80.122 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-27T21:19:06Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 渤海 (国) 2018-08-04T18:36:56Z <p>65.99.80.122: /* 高句麗説支持者 */</p> <hr /> <div>&lt;!--{{独自研究}}{{出典の明記}} ノートでどの部分が問題かを明記して下さい。--&gt;<br /> {{参照方法|date=2015年6月}}<br /> {{基礎情報 過去の国<br /> |略名 = 渤海<br /> |日本語国名 = 渤海<br /> |公式国名 = 大震国&lt;br&gt;渤海<br /> |建国時期 = 698年<br /> |亡国時期 = 926年<br /> |次代1 = 遼<br /> |次旗1 =<br /> |次代2 = 後渤海<br /> |次旗2 = <br /> |次代3 = 高麗<br /> |次旗3 =<br /> |位置画像 = Balhae.svg|位置画像説明 = 渤海の最大領域<br /> |公用語 = [[ツングース諸語|靺鞨語]]&lt;ref name=&quot;渤海史&quot;/&gt;&lt;ref name=&quot;上田雄&quot;/&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=劉毅|authorlink=|date=1997-07|title=渤海国の族源について-中国・日本・朝鮮関連史料の考察-|series=国学院雑誌|publisher=[[國學院大學]]|isbn=|page=60|url=https://books.google.co.jp/books?redir_esc=y&amp;hl=ja&amp;id=DYeGAAAAIAAJ&amp;focus=searchwithinvolume&amp;q=%E5%8F%AF%E6%AF%92%E5%A4%AB}}劉毅([[遼寧大学]])は、「渤海国の風俗について、『[[新唐書]]』渤海伝に、「俗謂王曰可毒夫、曰聖王、曰基下。其命爲教。王之父曰老王、母太妃、妻貴妃、長子曰副王、諸子曰王子。」とあり、王を可毒夫と称する風俗のあることが知られる。この可毒夫と呼ぶ用語については、ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフ氏の研究によれば、可毒夫とはおそらく満州語の卡達拉(管理するの意味)や、ナーナイ語の凱泰(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろうという。また、この可毒夫を仏陀の対音であろうと説く学者もある。いずれにしても、可毒夫と呼ぶ用語が朝鮮についての歴史文献である両唐書の高句麗伝、百済伝、新羅伝には、見られないことは事実である。これこそ、渤海人の出自が高句麗人ではなかった反証であろう」と述べている。&lt;/ref&gt;<br /> |首都 = [[上京竜泉府]]ほか<br /> |宗教 =[[仏教]]、[[儒教]]、[[道教]]、[[巫俗]]<br /> |元首等肩書 = [[朝鮮の君主一覧#渤海|国王]]<br /> |元首等年代始1 = 698年<br /> |元首等年代終1 = 718年<br /> |元首等氏名1 = [[大祚栄]]<br /> |元首等年代始2 = 907年<br /> |元首等年代終2 = 928年<br /> |元首等氏名2 = [[大インセン|大諲譔]]<br /> |変遷1 = 建国<br /> |変遷年月日1 = 698年<br /> |変遷2 = 滅亡<br /> |変遷年月日2 = 928年<br /> |現在 = {{CHN}}&lt;br&gt;{{PRK}}&lt;br&gt;{{RUS}}<br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;渤海&#039;&#039;&#039;(ぼっかい、[[698年]]&lt;ref&gt;元来は[[700年]]建国説が有力であったが、鳥山喜一の研究により698年建国説が定説化している。&lt;/ref&gt; - [[926年]])は、現[[中国東北部]]から[[朝鮮半島]]北部、現[[ロシア]]の[[沿海地方]]にかけて、かつて存在した国家。[[大祚栄]]により建国され、周囲との交易で栄え、[[唐]]からも「&#039;&#039;&#039;海東の盛国&#039;&#039;&#039;」(『[[新唐書]]』)と呼ばれたが、最後は[[契丹]]([[遼]])によって滅ぼされた。<br /> <br /> 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』渤海靺鞨伝は「渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州。(渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州([[遼寧省]][[朝陽市]])へ移り住んだ。)」と記し&lt;ref&gt;{{Wikisourcelang|zh|舊唐書/卷199下#渤海靺鞨}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[井上秀雄]]|authorlink=|date=1976-01|title=東アジア民族史 2-正史東夷伝|series=[[東洋文庫]]283|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582802832|page=413|url=}}&lt;/ref&gt;、『[[新唐書]]』はより具体的に「渤海,本粟末靺鞨附高麗者,姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高(句)麗に付属していた。姓は大氏である。)と記しており&lt;ref&gt;{{Wikisourcelang|zh|新唐書/卷219#渤海}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[井上秀雄]]|authorlink=|date=1976-01|title=東アジア民族史 2-正史東夷伝|series=[[東洋文庫]]283|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582802832|page=425|url=}}&lt;/ref&gt;、高句麗に服属していた[[粟末靺鞨]]の出とある。<br /> <br /> 『[[大金国志]]』には、[[女直]]([[女真]])は[[しゅくしん|粛慎]]の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。<br /> <br /> 渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。<br /> <br /> 「[[渤海 (海域)|渤海]]」の名は本来、[[遼東半島]]と[[山東半島]]の内側にあり[[黄河]]が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王[[大祚栄]]が、この渤海の沿岸で現在の[[河北省]]南部にあたる[[渤海郡]]の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> [[File:History_of_Korea-Inter-country_Age-830_CE.gif|thumb|left|300px|[[高句麗]]の系統が[[新羅]](後の[[朝鮮民族]]の母体)と[[金 (王朝)|金]](後の[[満州族]]の母体)に分割され、渤海の系統が金に発展している。]]<br /> {{満州の歴史}}<br /> [[690年]]に即位した[[武則天]]が執政した時期は[[羈縻政策|羈縻支配]]地域に対する収奪が激しくなり、[[唐]]によって[[営州]]都督府の管轄下にあった松漠都督府(現在の[[遼寧省]][[朝陽市]])の支配地域に強制移住させられていた[[契丹]]が暴動を起こした。この混乱に乗じて、[[靺鞨|粟末靺鞨人]]は指導者[[乞乞仲象]]の指揮の下で[[高句麗]]の残党と共に、松漠都督府の支配下から脱出し、その後、彼の息子[[大祚栄]]の指導の下に高句麗の故地へ進出、東牟山([[吉林省]][[延辺朝鮮族自治州]][[敦化市]])に都城を築いて&#039;&#039;&#039;震国&#039;&#039;&#039;を建てた。「震」という国名は『[[易経]]』にある「帝は震より出ず」から付けたものであり、「[[東方]]」を意味することから渤海の支配層が中国的教養を持っていたことが窺える&lt;ref&gt;[[外山軍治]]・[[礪波護]]「隋唐世界帝国」『東洋の歴史5』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p358&lt;/ref&gt;。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に[[玄宗 (唐)|玄宗]]皇帝が即位すると、[[713年]]に唐に[[朝貢|入朝]]することにより、[[崔忻]]が[[冊封使]]として派遣され、大祚栄が「&#039;&#039;&#039;渤海郡王&#039;&#039;&#039;」に冊封された。<br /> <br /> 2代[[大武芸]]は仁安と言う独自の[[元号]]を用いて独立色を明確にし、唐と対立して一時[[山東半島]]の登州([[山東省]][[蓬莱市]])を占領したこともあった。また唐・[[新羅]]・[[黒水靺鞨]]と対抗するために[[日本]]へ使者を送っている。渤海国の高仁義率いる[[渤海使|渤海使節]]が[[神亀]]4年([[727年]])に到着し、翌年の神亀5年に京に入り、国書と貢物を奉呈したこと端緒として、この通交は渤海滅亡の[[延長 (元号)|延長]]4年([[926年]])まで続いた([[渤海使]]・[[遣渤海使]])。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、渤海国の[[毛皮]]&lt;ref&gt;[[源氏物語]]に[[クロテン|黒貂]]の毛皮を纏っている[[末摘花 (源氏物語)|女性]]の描写が見られる。&lt;/ref&gt;や[[朝鮮人参|人参]]、日本の[[絹|綾絹]]などが交易された。<br /> <br /> 大武芸が没するとその子[[大欽茂]]が即位し[[大興 (渤海)|大興]]と改元した。父武王の唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣(渤海時代を通じて132回)し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍の流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「&#039;&#039;&#039;渤海国王&#039;&#039;&#039;」と従来より高い地位を冊封している。この他旧国(東牟山)から[[上京竜泉府]](現在の[[黒竜江省]][[牡丹江市]])への遷都を実施し、五京を整備する等の地方行政制度を整備するなど唐制を積極的に採り入れるなどし、国力の発展が見られた。<br /> <br /> このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の[[大元義]]が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の[[大華ヨ|大華璵]]が即位するが短命に終わり、続いて[[大嵩リン|大嵩璘]]が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。大嵩璘は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩璘没後は[[大元瑜]]、[[大言義]]、[[大明忠]]と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して二十数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。<br /> <br /> 国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫[[大仁秀]]が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。唐は[[安史の乱]]後の混乱と地方に対する統制の弛緩のなかで周辺諸国に対する支配体制も弱体化していき、[[黒水都督府]]を9世紀初頭に解体した。大仁秀はその政治的空白を埋めるように、拂涅部・虞類部・鉄利部・越喜部を攻略、東平府・定理府・鉄利府・懐遠府・安遠府などの府州を設置した。また[[黒水部]]も影響下に入り、黒水部が独自に唐に入朝することはなくなった、その状態は渤海の滅亡直前まで続き、渤海は「海東の盛国」と称されるようになった。<br /> <br /> その子の[[大彝震]]の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く[[大虔晃]]、[[大玄錫]]の代まで保持されていた。<br /> <br /> 10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した[[大イカイ|大瑋瑎]]、それに続く[[大インセン|大諲譔]]の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西の[[シラムレン河]]流域において[[耶律阿保機]]によって建国された契丹国(のちの[[遼]])の侵攻を受け渤海は[[926年]]に滅亡、契丹は故地に[[東丹国]]を設置して支配した。渤海における唐の制度は、契丹が[[中原]]化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる[[両面官]]制度に影響を与えたといわれる。<br /> <br /> また東丹国の設置と縮小に伴い、数度にわたって遺民が[[#渤海国の継承国家|渤海再興]]を試みるが、契丹(遼)の支配強化によってすべて失敗に終わり、その都度多くは遼の保有する遼西や遼東の各地域へ移住させられ、または残留し、一部は高麗へ亡命し、一部は故地の北方へ戻った。黒水靺鞨(女真)が統合を果たしが建てた[[金 (王朝)|金]]王朝([[1115年]]~[[1234年]])において、旧領に残った渤海遺民は厚遇され、官職につく者や、王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼした[[元 (王朝)|元]]の代では、[[華北]]の渤海人は「[[漢人]]」として支配を受ける。その後、女真は[[満州|満洲]]として再び台頭するが、渤海の名称は[[東アジア史]]から姿を消した。<br /> <br /> == 政治 ==<br /> === 王権 ===<br /> === 中央統治機構 ===<br /> 地方統治機構に関しては[[唐]]の制度を模倣しており、『[[新唐書]]』の記載によれば三省・六部・一台・一院・一監・一局の行政機構が存在しており、名称こそ異なるが、唐の[[三省六部|三省]]を模倣した行政機構が設置されていた{{efn|&lt;blockquote&gt;<br /> 官有宣詔省,左相、左平章事、侍中、左常侍、諫議居之。中台省,右相、右平章事、内史、詔誥舎人居之。政堂省,大内相一人,居左右相上;左、右司政各一,居左右平章事之下,以比僕射;左、右允比二丞。左六司,忠、仁、義部各一卿,居司政下,支司爵、倉、膳部,部有郎中、員外;右六司,智、礼、信部,支司戎、計、水部,卿、郎准左:以比六官。中正台,大中正一,比御史大夫,居司政下;少正一。又有殿中寺、宗属寺,有大令。文籍院有監。令、監皆有少。太常、司賓、大農寺,寺有卿。司蔵、司膳寺,寺有令、丞。胄子監有監長。巷伯局有常侍等官。&lt;ref&gt;{{Wikisourcelang|zh|新唐書/卷219#渤海}}&lt;/ref&gt;(『[[新唐書]]』渤海伝)&lt;br /&gt;<br /> 官職(は次のようになっている)。宣詔省には左相(長官)・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに属す。中台省には右相・右平章事・内史・詔誥・舎人がこれに属す。政堂省では大内相一人が左右相の上に置かれ、(その下に)左右司政が各一人、左右平章事の下に配置される。これは(唐制の左右)僕射に相当する。左右允は(唐制の)二丞(左丞と右丞)に当たり、左(允)六司は忠・仁・義部(の三部を統率し)、おのおの一人の卿(長官)が配属され、これ(左右允)は司政の下に置かれた。その支司に爵・倉・膳(の三)部があって、(それぞれ)部(の長官)は郎中で、員外(郎)もあった。右(允)六司は智・礼・信(の三部を統率し)、その支司に戎・計・水(の三)部があり、(その長官)卿郎は左(允)に準ずるもので、(いずれも唐制の)六官(部)に相当する。中正台には大中正(長官)が一人置かれ、(これは唐制の)御史大夫に相当し、司政の下に配置され、少正一人が置かれた。また殿中寺・宗属寺には(それぞれ長官に当たる)大令がいた。文籍院(の長官)は監令といい、監にはすべて少(監)が属していた。太常(寺)・司賓(寺)・大農寺(の長官)は卿である。司蔵(寺)・司膳寺(の長官)は令で、(次官は)丞といった。胄子監(の長官)は監長といわれた。また、巷伯局には常侍(長官)等の官(名)があった&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[井上秀雄]]|authorlink=|date=1976-01|title=東アジア民族史 2-正史東夷伝|series=[[東洋文庫]]283|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582802832|page=441-442|url=}}&lt;/ref&gt;。&lt;/blockquote&gt;}}。しかし唐の制度をそのまま移植したのではなく、渤海の現状に基づき、機構を簡略化し、唐の二十四司を十二司に圧縮して編成しているのも特徴である。<br /> ;宣詔省:唐の[[門下省]]に相当し、中台省が提出した政令を審議した。長官は左相であり、品秩は正二品である。その下に左平章政事が置かれ、属官として侍中がいた。<br /> ;中台省:唐の[[中書省]]に相当し、政令の草案起草と修訂を担当した。長官は右相であり、品秩は正二品である。その下に右平章政事が置かれ、属官として内史がいた。<br /> ;政堂省:唐の[[尚書省]]に相当し、政令の執行を担当する行政機関の頂点に位置していた。長官は大内相であり、品秩は正二品の上位であった。助手として左右の司政が置かれ、左右平章事の下に位置していた。属官には左右のニ允がいた。下部に六部を設置し統括していた。<br /> ;忠部:唐の[[吏部]]に相当し、文官の採用・考課・勲封を職責としていた。<br /> ;仁部:唐の[[戸部 (六部)|戸部]]に相当し、土地・銭穀を職責としていた。<br /> ;義部:唐の[[礼部]]に相当し、儀礼・祭祀・貢挙を職責としていた。<br /> ;礼部:唐の[[刑部]]に相当し、最高司法機関を職責としていた。<br /> ;智部:唐の[[兵部]]に相当し、武官人事・地図作成・車馬武器の管理を職責としていた。<br /> ;信部:唐の[[工部 (六部)|工部]]に相当し、交通・水利・建築及び技術者の管理を職責としていた。<br /> ;中正台:唐の[[御史台]]に相当し、最高監察機構であった。長官を大中正と称し、唐の[[御史大夫]]に相当している。<br /> ;殿中寺:唐の[[殿中省]]に相当し、王室の衣食住や行幸などの生活諸般の管理を担当した。長官を大令と称し、唐の殿中監に相当する従三品であった。<br /> ;宗属寺:唐の[[宗正寺]]に相当し、王族の宗親族籍を初めとする事務管理を担当した。長官を大令と称し、唐の宗正卿に相当する従三品であった。<br /> ;文籍院:唐の[[秘書省]]に相当し、経籍・図書の管理を担当した。長官を文籍院監と称し、唐の秘書督に相当する従三品であった。[[日本]]に派遣された19次遣日大使の李承英の官名が「文籍院述作郎」とあり、唐の[[述作局]]に相当する「述作局」或いは「述作署」が設置されていたことが窺える。<br /> ;太常寺:唐でも同名の[[太常寺]]が存在している。礼楽・郊廟・社稷の管理を担当した。長官は太常卿と称され、正三品であった。<br /> ;司賓寺:唐の[[鴻臚寺]]に相当し、外交と周辺の少数民族関連業務を担当した。長官は司賓卿と称され、唐の鴻臚卿に相当する従三品であった。<br /> ;大農寺:唐の[[司農寺]]に相当し、農業及び営田、穀倉の事務・管理を担当した。長官は大農卿と称され、唐の司農卿に相当する従三品であった。<br /> ;司蔵寺:唐の[[太府寺]]に相当し、財務、貿易の事務・管理を担当した。長官は司蔵令と称され、唐の太府寺卿に相当する従三品であった。<br /> ;司膳寺:唐の[[光禄寺]]に相当し、王廷の酒食の担当した。長官は司膳令と称され、唐の光禄卿に相当する従三品であった。<br /> ;冑子監:唐の[[国子監]]に相当し、渤海国内の教育を担当した。長官は冑子監長と称され、唐の祭酒に相当した。<br /> <br /> === 地方統治機構 ===<br /> [[Image:Map of Bohai (渤海國).jpg|thumb|300px|渤海の行政区分]]<br /> 全国は5京(首都)15府62州の行政区分に分けられ、京の下に府、府の下に州が置かれた。<br /> <br /> *[[上京竜泉府]](現在の中国[[黒竜江省]][[牡丹江市]][[寧安市]]渤海鎮東京城) - 首都。龍州・湖州・渤州を管轄。<br /> **竜州 - 府治が設けられた。<br /> **湖州 - 忽汗海(現在の[[鏡泊湖]])付近とされている。<br /> **渤州 - 牡丹江市南部の城址に比定されている。管轄県は貢珍県のみが現在に伝わっている。<br /> *[[東京竜原府]]([[吉林省]][[琿春市]]八連城に比定) - 周囲16km、南北3.5km、東西4.5kmの方形で37カ所の宮殿を擁していた。[[沃沮]]の故地に設けられ、上京府の東南に位置し「柵城府」とも言った。慶州・塩州・穆州・賀州を管轄。<br /> **慶州 - 府治が設けられ、龍原・永安・烏山・壁谷・熊山・白楊の6県を管轄。<br /> **塩州 - 現在の[[ポシャット湾|ポシェット湾岸]]の[[クラスキノ]]南方の城址に比定され、日本への出発港が設けられていた。下部に海陽・接海・格川・龍川の4県を管轄。<br /> **穆州 - 府の南方120里に位置し、会農・水岐・順化・美県の4県を管轄。<br /> **賀州 - 位置は不明であるが、洪賀・送誠・吉理・石山の各県を管轄。<br /> *[[中京顕徳府]](吉林省[[和竜市]]) - 上京府の南方に位置した。盧州・顕州・鉄州・湯州・栄州・興州の6州を管轄。<br /> **顕州 - 府治が設けられ、金徳・常楽・永豊・鶏山・長寧の5県を管轄。<br /> **盧州 - 中京府の東方130里に位置し、稲の産地として史書に記録がある。下部に山陽・杉盧(さんろ)・漢陽・白巖・霜巖の5県を管轄。<br /> **鉄州 - 中京府の西北100里に位置し、位城・河端・蒼山・龍珍の4県を管轄。<br /> **湯州 - 中京府の西北100里に位置し、霊峰・常豊・白石・均谷・嘉利の5県を管轄。<br /> **栄州 - 中京府の東北150里に位置し、崇山・{{lang|zh|潙}}水・緑城の3県を管轄。<br /> **興州 - 中京府の西南300里に位置し、盛吉・蒜山(さんざん)・鉄山の3県を管轄。<br /> *[[南京南海府]]([[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]][[咸興市]]付近) - [[沃沮]]の故地に設けられ、渤海の南端に位置し、沃州・晴州・椒州の3州を管轄。<br /> **沃州 - 府治が設けられ、沃沮・鷲巖(じゅがん)・龍山・浜海・昇平・霊泉の6県を管轄。<br /> **晴州 - 南京府の西北120里に位置し、天晴・神陽・蓮池・狼山・仙巖の5県を管轄。<br /> **椒州 - 南京府の西南200里に位置し、椒山・貊嶺・{{lang|zh|澌}}泉・尖山・巖淵の5県を管轄。<br /> *[[西京鴨緑府]](吉林省[[臨江市]]) - [[高句麗]]の故地に設けられ、「若忽州」とも称された。神州・桓州・豊州・正州の4州を管轄。<br /> **神州 - 府治が設けられ、神鹿・神化・剣門の3県を管轄。<br /> **桓州 - 西京府の西南200里に位置し、桓都・神郷・淇水の3県を管轄。<br /> **豊州 - 西京府の東北210里に位置し、州府は[[吉林省]][[安図県]]の仰臉山城に比定されている。下部に安豊・渤恪・隰壌・硤石の4県を管轄。<br /> **正州 - [[富爾河]]の流域に位置し、東那県らを管轄。<br /> <br /> ;長嶺府:[[高句麗]]の故地に設けられ、営州道の要所に位置した。現在の[[樺甸市]]の蘇密城を府城とし、瑕州、河州の2州が設けられた。<br /> :瑕州が府治であり、河州は現在の[[梅河口市]]に比定されている。<br /> ;扶余府:[[夫余]]の故地に設けられ、扶州、仙州が設けられていた。<br /> :扶州は府治が設けられ扶余、布多、顕義、鵲川の4県を管轄していた。<br /> :仙州は強師、新安、漁谷の3県を管轄していた。<br /> ;{{lang|zh|鄚}}頡府:夫余の故地に設けられ、{{lang|zh|鄚}}州、高州が設けられていた。<br /> :{{lang|zh|鄚}}州は府治が設けられ、現在の[[昌図県]]の八面城に比定されており、粤喜、万安の2県を管轄していた。<br /> :高州に関しての領県については記録が残っていない。<br /> ;定理府:[[挹婁]]の故地に設けられ、定州、潘州が設けられていた。<br /> :定州は府治が設けられ、現在の[[依蘭県]]城に比定され、定理、平邱、巖城、慕美、安夷の5県を管轄していた。<br /> :潘州は潘水、安定、保山、能利の4県を管轄していた。<br /> ;安辺府:挹婁の故地に設けられ、現在の[[双鴨山市]][[宝清県]]、[[富錦市]]一帯に比定され、安州、瓊州(けいしゅう)を管轄していた。<br /> :安州は府治が設けられていたが、瓊州同様詳細については不明である。<br /> ;[[率賓府]]:率賓の故地に設けられ、綏芬河流域に位置し、華州、益州、建州が設けられていた。<br /> :華州は府治が設けられ、現在の黒竜江省[[東寧県]]大城子に比定されている。<br /> :建州は現在の[[ウスリースク]](双城子)に比定されている。<br /> ;東平府:[[払涅靺鞨|拂涅]]の故地に設けられ、伊州、蒙州、沱州、黒州、比州が設けられていた。<br /> :蒙州が現在の[[寧城県]]に比定されていたこと以外、詳細は不明である。<br /> ;鉄利府:[[鉄利靺鞨|鉄利]]の故地に設けられ、現在の[[ウスリー江]]以東の日本海沿岸部に比定されている。<br /> :下部に広州、汾州、蒲州、海州、義州、帰州の6州は設けられていたが、詳細は不明である。<br /> ;安遠府:[[越喜靺鞨|越喜]]の故地に設けられ、率賓州の北、[[興凱湖]]の東に位置し、寧州、{{lang|zh|郿}}州、慕州、常州の4州が設けられていた。<br /> :寧州が府治であったが、それ以外に関しては不明である。<br /> ;懐遠府:越喜の故地に設けられ、安遠府の北、鉄利府の南に位置し、達州、越州、懐州、紀州、富州、美州、福州、邪州、芝州の9州が設けられていた。<br /> :達州は懐福、豹山、乳水などを管轄していた。<br /> :富州は富寿、新興、優富などを管轄していた。<br /> :美州は山河、黒河、麓河などを管轄していた。<br /> ;独奏州:独奏州とは府に統括されず、京師に直接上奏できる州である。<br /> :渤海では郢州、銅州、{{lang|zh|涑}}州が独奏州として記録に残り、王室に直属していた。<br /> :郢州は延慶、白巖の2県を統括していた。<br /> :銅州は上京の南、現在の[[ハルバ嶺]]一帯に比定され、花山県などを管轄していた。<br /> :{{lang|zh|涑}}州は現在の[[吉林市]]付近に比定されている。<br /> <br /> 上記州以外に『[[遼史]]』に記録されている集州(奉集県を管轄)、麓州(麓郡、麓波、雲山の3県を管轄)を加えることで62州となり、『[[新唐書]]』に記載される62州に合致する。しかし前記の地方統治機構は渤海存続期間において絶対的な制度ではなく、『遼史』の地理志に「安寧郡」や「龍河郡」という記録もあり、渤海前期には見られなかった「郡」が出現していることからも明らかである。このほか政治・軍事上の理由から唐制に倣い[[節度使]]を設けている。『[[遼史]]』太祖紀・下に節度使来朝の記録があり、節度使存在の傍証といえる。<br /> <br /> === 軍事制度 ===<br /> 渤海では唐制の16衛に倣い左右猛賁、左右熊衛、左右羆衛、南左右衛、北左右衛の10衛が中央に設けられていた。また地方には[[府兵制]]が確立されていたと考えられている。しかし渤海後期になると、府兵制が次第に崩壊し、左右の神策軍、左右三軍が設置された。これらは唐の[[北衙六軍]]との関連が認められ、渤海王室が設置した常備軍であった。<br /> <br /> [[唐]]の軍事制度を模倣したものであることは『[[新唐書]]』の記載によれば、以下の通りである。<br /> <br /> {{quotation|{{lang|zh-Hant|其武員有左右猛賁、熊衛、羆衛,南左右衛,北左右衛,各大將軍一、將軍一。大抵憲象中國制度如此。<br /> 〈(渤海の)武員には、左右の猛賁(衛)熊衛・羆衛と、南左(衛)・(南)右衛と北左(衛)・(北)右衛(の十衛)があり、それぞれ大将軍一人、将軍一人が置かれた。(渤海の官制の)手本がたいてい中国の制度に倣ったものであるというのは、かこくごとしである&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[井上秀雄]]|authorlink=|date=1976-01|title=東アジア民族史 2-正史東夷伝|series=[[東洋文庫]]283|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582802832|page=444|url=}}&lt;/ref&gt;。〉}}|『[[新唐書]]』渤海伝}}<br /> {{Wikisourcelang|zh|新唐書/卷219#渤海}}<br /> <br /> === 司法制度 ===<br /> 渤海の司法制度に関しては、[[唐]]の[[文宗 (唐)|文宗]]の時代に[[大彝震]]の治世には法律の運用面で国内が安定していた事を示す史料があり、渤海は法律面でも整備が進んでいた事の傍証となっている。[[律令]][[格式]]は他の統治方式同様に唐制を模倣したものと考えられている。<br /> <br /> 司法機関としては中正台、礼部、大理寺が任務に当った。<br /> ;中正台:渤海最高の監察機関であり、長官の大中正は官民の監督の他、王室内部の粛清や、礼部、大理寺と重要案件を審議する権限を有していた。<br /> ;礼部:渤海最高の司法機関であり、徒隷、勾覆、関禁の政令を職責としていた。<br /> ;大理寺:渤海最高の裁判機関であり、訴訟を担当すると共に、礼部とともに裁判員の人選を行っていた。<br /> <br /> == 対外関係 ==<br /> === 交通 ===<br /> ==== 陸上交通 ====<br /> 陸上交通は上京府を通信に全国の京・府・州・県に放射状に道路が整備されていた。その交通路は現在の道路、鉄道に沿ったものと考えられている。またこれらの中央からの道路以外にも、5京と旧国の間にも道路が整備されていた。<br /> <br /> 道路の中で最も重要なのは「営州道」と称されるものである。これは渤海から[[唐]]に向かう朝貢使などが使用するものであり、[[営州]](現在の[[朝陽市]])であり、唐が東北地区を支配する要所とされていた地域であり、燕郡城(現在の[[義県]])、[[安東都護府]](現在の[[遼陽市]])、新城(現在の[[撫順市]]付近)、長嶺府(現在の[[樺甸市]]付近の蘇密城)を経て上京に至る1200km弱のルートである。<br /> <br /> [[新羅]]への交通は南京府を中心とする「新羅道」が存在していた。『[[三国史記]]』地理志には「新羅の泉井郡より柵城府に至る、凡そ三十九駅」との記載があり、泉井郡(現在の[[江原道 (北)|江原道]]の[[元山市]])より柵城府、則ち上京府までの道路の整備状況をうかがい知ることが出来る。この他[[契丹]]との交通には扶余府を起点とする「契丹道」が設けられていた。<br /> <br /> ==== 水上交通 ====<br /> 渤海の海上交通は[[唐]]、[[新羅]]、[[日本]]への通交に利用されていた。唐への交通は『[[新唐書]]』地理志に登州より渤海への交通路が記録されており、登州(現在の[[蓬莱市]])を起点に亀歆島(現在の[[砣磯島]])を経て烏湖海(現在の[[渤海海峡]])を渡り、更に烏骨江(現在の[[愛河 (丹東市)|愛河]])を遡上し西京府に至る「朝貢道」と称される道程が示されている。<br /> <br /> 新羅への海上交通であるが、南海府の吐号浦(現在の[[鏡城郡]])から[[朝鮮半島]]の東沿岸を南下するルートと、西京府から[[鴨緑江]]に沿って海上に進み、更に朝鮮半島西沿岸を南下するというルートが存在していた。しかし王都から距離のある西ルートは東ルートほど活発に利用されることはなかったようである。<br /> <br /> 日本への海上交通は「日本道」とよばれるものである。起点は上京府を基点とし陸路塩州(現在の[[クラスキノ]])に至りそこから海上を進むというものである。海路は大まかに3ルートに分類することが出来る。その一つが「筑紫路」であり、塩州を出発した船は朝鮮半島東沿岸を南下し、[[対馬海峡]]を経て筑紫の大津浦(現在の[[福岡県|福岡]])に至るルートである。当時の日本朝廷は外交を管轄する大宰府を筑前に設置していたため、[[渤海使]]に対しこのルートの使用を指定していたが、距離が長くまた難破の危険が大きいルートであった。第2のルートが「南海路」と称されるルートである。南海府の吐号浦を起点とし、朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を渡り筑紫に至るルートであるが、[[776年]]に暴風雨により使節の乗った船団が遭難、120余名の死者を出してからは使用されていない。第3のルートが「北路」であり、塩州を出発した後、[[日本海]]を一気に東南に渡海し、[[能登国|能登]]、[[加賀国|加賀]]、[[越前国|越前]]、[[佐渡国|佐渡]]に至るルートである。当初は航海知識の欠如から海難事故が発生したが、その後は晩秋から初冬にかけて大陸から流れる西北風を利用し、翌年の夏の東南風を利用しての航海術が確立したことから海難事故も大幅に減少し、また航海日数の短縮も実現した。<br /> <br /> === 外交 ===<br /> ==== 唐との関係 ====<br /> [[大祚栄]]が震国を建国した当初は、[[武則天]]が[[四夷|夷狄]]から収奪する方策を執っていたため[[唐]]と対立していた。そのため当初は[[突厥]]や[[新羅]]との通好による唐の牽制を外交方針の基本にしていたが、唐の[[中宗 (唐)|中宗]]が即位すると、{{lang|zh-tw|張行芨}}を派遣・招慰し両国の関係改善の転機をもたらした。大祚栄もこの招慰を受け入れ、王子を唐に入侍させ、唐に従属する政治的地位を確認した。[[713年]]には唐は大祚栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」に封じ、同時に渤海は[[羈縻政策|羈縻]]体制下に入る、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として唐の滅亡までこの関係は維持された。<br /> <br /> 招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。大祚栄の嫡子であった[[大門芸]]が派遣されたのが初見であるが、渤海からの質子は単なる人質としてではなく、皇帝の謁見、賜宴を受け、時には皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席するなどの待遇を受け、また唐にて客死した場合は位階の追贈や物品の下賜を受けるなどの良好な待遇を受けている。これは渤海との関係が良好であったためと考えられる。<br /> <br /> この他渤海は唐の藩属として定期的に方物を献上し[[朝貢]]を行っていた。朝貢の際には「土貢」を献上すると同時に国内状況を奏上していた。この他、元旦や各節句に「賀正使」と献礼の使節を派遣した。これらの使節はほぼ毎年の派遣が記録に残されており、また1年に2~3度も使節派遣を行っていることが知られており、渤海は自治政権を確立すると同時に、羈縻体制下での外交関係を継続していた。<br /> <br /> なお唐滅亡後は、渤海は[[中原]]王朝との外交関係を継続している。<br /> <br /> ==== 突厥との関係 ====<br /> [[698年]]の渤海(当時は「震」)建国当初は[[東突厥]]の躍進期に当たっており、[[営州]]の反乱の後、東突厥第二可汗国の第2代[[阿史那默啜]]は[[唐]]を支援し[[契丹]]を攻撃するなど、東北アジアに於ける軍事的に優勢な地位を占めていた。建国間もない不安定な渤海は、唐による侵攻に備え、使者を東突厥に派遣しその支持を獲得している。その代償として渤海は東突厥の属国としての地位を甘受することになり、東突厥から派遣される[[吐屯]](トゥドゥン)により渤海は統制と貢賦の権限を与えられることになった。<br /> <br /> その後唐との関係が改善され、唐が[[大祚栄]]を冊封するに至ると東突厥との関係が疎遠となったが、[[大武芸]]が即位し唐と対立した際、東突厥の支援を得られなかった事で関係悪化は確定的となり、唐との和解と同時に東突厥と断交している。<br /> <br /> [[734年]]、東突厥は渤海に使者を派遣し、[[契丹]]と[[奚]]の挟撃を打診されるが、渤海はこの要求を拒否、更に使者を抑留し唐に移送し処理を委任するという行動に出て東突厥との関係悪化は決定的なものとなった。その後、東突厥は内紛と唐との闘争により急速に勢力を衰退させ、渤海との紛争を起こす余力は無くなり、[[745年]]に[[回鶻|{{lang|zh-tw|回紇}}]]により東突厥は滅亡した。<br /> <br /> ==== 契丹との関係 ====<br /> 渤海建国に当たっては[[営州]]の反乱と[[契丹]]の反唐活動により、[[大祚栄]]が独立する契機を生じたことから、両者には特別な関係が存在していたと推測される。[[720年]]に[[唐]]が渤海に対し契丹及び[[奚]]への攻撃を打診した際に、唐の冊封体制下の渤海は出兵の義務を有していたにもかかわらず、これを拒否していることからも推測されるものである。<br /> <br /> しかし唐との関係が改善されるに反比例し、渤海と契丹の関係は冷却化の一途を辿った。それは渤海後期に扶余府一帯に契丹の侵入を防ぐべく常備軍を駐留させた記録からも窺えるものである。当然渤海は契丹人の反逆者の亡命を受け入れるようになり、契丹王室の轄底が渤海へ亡命した記録などもある。それでも『[[新唐書]]』で渤海の風俗を「高麗、契丹と略等し」と表現されるように文化的な親密さは相当なものであり、両者の経済的、文化的な交流は持続され、それは契丹道と称される重要な対外交通路の地位を占めていた。<br /> <br /> 渤海末年、渤海の勢力は衰退し、[[926年]]には契丹人による国家、[[遼]]により滅ぼされ、その故地には[[東丹国]]が建国された。<br /> <br /> ==== 新羅との関係 ====<br /> [[ファイル:Largest Area of Balhe.jpeg|300px|thumb|最大領域時代の渤海国と新羅]]<br /> [[698年]]に震国が建国された際に[[新羅]]はかつての[[百済]]全土及び[[高句麗]]の一部を領有すると共に、北進政策を採用して渤海の安定を脅かすようになった。またその渤海は[[唐]]と対立しており、唐の脅威を抑え、同時に新羅の北進を牽制するため新羅に接近する政策を採用した。当初は新羅の藩屏と称し、新羅の五品の官職である[[新羅#官位制度|{{lang|ko|大阿飡}}]]を授位されている。しかしその後渤海と唐の関係が好転するに従い、渤海と新羅の関係は変質し、[[大武芸]]の時代になると高句麗の故地の回収が目標となり両国関係は緊張、それは[[721年]]に新羅が北辺に長城を築城したことに現れている。<br /> <br /> 渤海と唐が「[[登州の役]]」で対立した際、新羅は唐の出兵の求めに応じ渤海を攻撃したが、悪天候に阻まれ新羅軍は大損害を蒙っている。この出来事は新羅の北進政策を抑制すると共に、唐と新羅の対立を政治的に解消させる効果をももたらした。新羅はこの功績により唐から寧海大使の地位を与えられ、{{lang|zk|浿江}}以南の高句麗の故地統治を正式に承認させることに成功したが、同時に渤海を牽制する役割をも担うこととなり、渤海と新羅は厳然と対立することとなった。<br /> <br /> 新羅との対立という状況に際し、渤海は日本と通好することで新羅を背後から牽制することを画策した。[[安史の乱]]に際し、渤海は日本と共同して新羅挟撃を計画したが、これは[[藤原仲麻呂の乱]]により計画が頓挫したことで、軍事的解決の姿勢を放棄し、以降は政治的解決を模索するようになる。新羅側から[[790年]]に[[新羅#官位制度|{{lang|ko|一吉飡}}]](7品)の[[伯魚]]を、[[812年]]に[[新羅#官位制度|{{lang|ko|級飡}}]](9品)の[[崇正]]を渤海に派遣していることは、政治的な安定を模索した結果であり、新羅道の発展を創出することになる。<br /> <br /> この良好な関係も、[[大仁秀]]が即位して渤海の領土拡張を目指すようになると、再び両国の均衡は崩壊することになる。[[826年]]には新羅の[[憲徳王]]が{{lang|ko|浿江}}に300里の長城を築城したことからも情勢の変化を読み取ることができる。<br /> <br /> 次に両国の関係が好転するのは10世紀の[[契丹]]の勃興という外的要因による。渤海は契丹に対抗すべく新羅との和解を図る。しかし当時の新羅は国勢が衰退し、既に[[後三国時代|後三国]]の時代に入っており、軍事的に渤海を支援し契丹に対抗する力は無く、そればかりか渤海の苦境に乗じ{{lang|ko|浿江}}以北への侵攻を行った。新羅は一面で渤海に同調するそぶりを見せ、反面[[遼]]に使者を送り方物を献じるという二面性の外交を展開した。遼が王都の忽汗城を包囲した際には、新羅は渤海に出兵し、更にこの軍功により[[耶律阿保機]]により褒賞を受けている。<br /> <br /> 新羅と渤海は没交渉であり、史料上では全時代を通じて新羅から渤海へ2回の使節の派遣が確認されるだけであるが、韓国では記録が逸失したに過ぎないという主張もあるが、[[李成市]]は「そうした解釈の余地はほとんどない」として以下の2つの理由を挙げている<br /> # 『[[新唐書]]』巻二二〇・東夷伝・新羅、『[[太平広記]]』巻四八一・新羅条の長人記事([[渤海 (国)#新羅人の渤海認識]])は、8世紀から9世紀の新羅・渤海国境付近の政策と新羅人の渤海人に対する[[イメージ]]を象徴しており、渤海人に対する異形のイメージと新羅が渤海国境付近に強大な軍事施設である西北の浿江鎮典、東北の関門を設置したことから、新羅と渤海に頻繁な交渉を推定することはできない&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=420}}&lt;/ref&gt;。<br /> # 渤海衰退期から新羅と渤海の国境付近で靺鞨族が出没・交易を求めた歴史があり、[[886年]]に渤海所属の2つの部族が新羅の北鎮に対して、直接の接触を避けながら、文字を記した木片を持って通交を申し出る事件があり{{efn|&lt;blockquote&gt;<br /> 北鎭奏 狄國人入鎭 以片木掛樹而歸 遂取以獻 其木書十五字云 寶露國與黑水國人 共向新羅國和通&lt;ref&gt;{{Wikisourcelang|zh|三國史記/卷11}}&lt;/ref&gt;(『[[三国史記]]』巻十一・新羅本紀・憲康王十二年条)&lt;br /&gt;<br /> 北鎮奏す、「狄国人、鎮に入り、片木を以て樹に掛けて帰る。遂に取り以て献ず」と。其の木、一五字を書して云う、「宝露国と黒水国人、共に新羅国に向きて和通せんとす」と&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=426}}&lt;/ref&gt;&lt;/blockquote&gt;}}、日常的な交渉があるならば、このような形式の申し出は有り得ず、新羅と渤海の没交渉を反映しており&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=421}}&lt;/ref&gt;、敵対する新羅国境付近の靺鞨族を管理・統制することは渤海の国家存立に係る事案であり、[[濊]]族(後の靺鞨族)は古来より魚類・毛皮を遥か中国内陸部まで齎す遠隔交易を生業とする狩猟・漁労の民であり、渤海の対外交易は、これらを生業にする靺鞨族の交易を国家的に編成したのであり、靺鞨族を包摂・統合した渤海王権は新羅と隣接する靺鞨族の他地域との交易を管理・統制することは政治的安定とって必須であり、従って、渤海滅亡後に高麗と旧渤海人と過剰な交渉が[[金朝|金]]の建国まで展開されるなど渤海衰退期からの新羅と渤海国境付近の交渉活発化は、渤海の衰退・滅亡によってもたらされた現象であることが推察される&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=421}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 渤海の存続期間全体を俯瞰するに、渤海と新羅の両国は対立の歴史と捉える事が可能である。<br /> <br /> ===== 新羅人の渤海認識 =====<br /> [[田中俊明 (朝鮮史)|田中俊明]]や[[李成市]]や[[古畑徹]]によると、[[8世紀]]の[[唐]]の記録には、[[新羅|新羅人]]が新羅の東北境の住民である[[渤海人]]のことを、黒毛で身を覆い、人を食らう長人、ととらえていたことをうかがわせる記述があり、この[[異人|異人視]]は、渤海・新羅両国の没交渉からくる恐怖感であり、それだけの[[異国|異域]]であったことの証左であり、新羅の辺境であり、渤海の辺境地帯でもある地域住民に対して、これだけの[[異国|異域観]]がみられることは、渤海・新羅両国の乖離した意識は明確であり、渤海・新羅の同族意識はうかがいようもないと、指摘している&lt;ref&gt;[[田中俊明 (朝鮮史)|田中俊明]]「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』[[岩波講座]]、[[1999年]]、ISBN 978-4000108294 p156&lt;/ref&gt;。長人記事とは、『[[新唐書]]』巻二二〇・東夷伝・新羅、『[[太平広記]]』巻四八一・新羅条の以下の記事である&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[古畑徹]]|date=1988|title=後期新羅・渤海の統合意識と境域観|publisher=[[朝鮮史研究会]] 36巻|url=https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=220&amp;file_id=26&amp;file_no=1|}}p49&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{quotation|{{lang|zh-Hant|新羅、弁韓苗裔也。居漢樂浪地、橫千里、縱三千里、東拒長人、東南日本、西百濟、南瀕海、北高麗。(中略)長人者、人類長三丈、鋸牙鉤爪、黑毛覆身、不火食、噬禽獸、或搏人以食、得婦人、以治衣服。其國連山數十里、有峽、固以鐵闔、號關門、新羅常屯弩士數千守之。<br /> 〈新羅(中略)東は長人を拒つ。(中略)長人なる者は、人の類にして長三丈、鋸牙鉤爪、黒毛もて身を覆う。火食せず、禽獣を噬う。或いは人を搏え以て食らう。婦人を得て、以て衣服を治めしむ。其の国、連山数十里、峡あり。固むるに鉄闔を以てし、関門と号す。新羅、常に弩士数千を屯し之を守る&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=381}}&lt;/ref&gt;。〉}}|『[[新唐書]]』巻二二〇・東夷伝・新羅}}<br /> {{Wikisourcelang|zh|新唐書/卷220#新羅}}<br /> <br /> {{quotation|{{lang|zh-Hant|新羅國,東南與日本鄰,東與長人國接。長人身三丈,鋸牙鉤爪,不火食,逐禽獸而食之,時亦食人。裸其軀,黑毛覆之。其境限以連山數千里,中有山峽,固以鐵門,謂之鐵關。常使弓弩數千守之,由是不過。<br /> 〈新羅国(中略)東(北)は長人国と接す。長人の身は三丈、鋸牙鉤爪、火食せず。禽獣を逐いて之を食らう、時に亦た人を食らう。其の軀を裸にし、黒毛もて之を覆う。其(新羅)の境限は連山数千(十)里を以てす。中ごろ山峡有り、固むるに鉄門を以てし、之を鉄関(鉄闔)と謂う。常に弓弩数千をして之を守らしむ、是に由りて過ぎず&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=420}}&lt;/ref&gt;。〉}}|『[[太平広記]]』巻四八一・新羅条}}<br /> {{Wikisourcelang|zh|太平廣記/卷第481#新羅}}<br /> <br /> [[李成市]]は、「関門」或いは「鉄関城」は新羅東北の[[井泉郡]]に位置しており、そこには「炭項関門」乃至は「鉄関城」という軍事施設があり、そこに隣接する東の集団は渤海領域民以外にはあり得ず、長人は井泉郡以北の渤海人とみて間違いなく、長人は新羅辺境の軍事的緊張に密接に関係しており、長人の異形、食人描写からみて、長人が恐怖の対象となっており、長人の人間とは異なる身体的特徴、食人描写、人間の女性を捕らえて衣服を作らせるという記事は異形異類の伝承であり、一般的に異民族は、人間と異なる身体的特徴をもつ異形とされ、敵対者は或いは自らの理解を越えた[[コスモロジー]]を持つ人は、人間でなく[[動物]]或いは[[妖怪]]の類であることが指摘され&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=400-401}}&lt;/ref&gt;、[[18世紀]]の『[[択里志]]』は朝鮮半島東北について以下記しており、朝鮮半島東北の厳しい自然環境は、飲食・衣類の欠乏に及んでおり人々は犬の毛皮をまとっており、長人記事の「黒毛もて身を覆う」や「婦人を得て、以て衣服を治めしむ」内容は、18世紀に至っても衣服の類が欠乏していた朝鮮半島東北部の実情を仮託して創作されたとみなすこともでき、長人は、朝鮮半島東北の人々の習俗に根ざし、日常的な没交渉と軍事的緊張が加味されて醸成された新羅人の幻影の所産であり、「新羅人にとって国境を接する渤海人とは、異形であり、恐怖の対象」「渤海人を恐怖の対象とするにいたった両者の長期間にわたる没交渉と軍事的緊張が、こうした説話の醸成に深くかかわっていた」と指摘している&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=402}}&lt;/ref&gt;。<br /> {{quotation|{{lang|zh-Hant|<br /> 〈以北、山川危険にして、風俗勁悍なり、土寒く地痩せ、穀は惟だ粟麦のみ、粳稲少なく、綿絮無し、土人は狗皮を以て冬を禦ぐ、性飢寒を堪えること一に女真の如し、山に貂參饒く、民は貂參を以て南商の綿布と換え、方に衣袴を得んとす、然るに富厚に非ざる者は能わざる也&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=402}}&lt;/ref&gt;。〉}}|『[[択里志]]』}}<br /> <br /> ==== {{lang|zh-tw|回紇}}との関係 ====<br /> [[回鶻|{{lang|zh-tw|回紇}}]](ウイグル)は[[鉄勒]]諸部の一つであり、[[バイカル湖]]南方で遊牧を中心に生活していた。8世紀半ばに[[東突厥]]を滅ぼし、また[[唐]]を支援して[[安史の乱]]を平定するなどの軍事活動を行うと同時に、経済活動も活発に行われ、渤海とは経済・文化方面での交流が行われていた。{{lang|zh-tw|回紇}}商人の足跡は上京府以外にも、率賓府のような辺境地域でも遺物から認められ、古ウスリーク城からは[[突厥文字]]が刻字された{{lang|zh-tw|回紇人}}の遺跡が、[[沿海州]]の[[チャピゴウ河]]岸の渤海寺院跡から出土した[[景教]]の陶牌からも{{lang|zh-tw|回紇人}}の渤海に於ける活動を示している。しかしその文化・経済交流も[[840年]]に[[回鶻]]({{lang|zh-tw|回紇}})の政権崩壊により消滅した。<br /> <br /> ==== 黒水靺鞨との関係 ====<br /> 渤海建国当初は[[黒水部|黒水靺鞨諸部]]は独立した勢力を有しており、また[[唐]]との対立と、周辺諸部に対する支配強化を推し進める渤海は黒水靺鞨に対し懐柔策を採用した。当初は[[突厥]]の支配を受けていた黒水靺鞨であるが、次第に突厥の支配を脱し唐へ帰属する路線への転換を図った。[[722年]]に首長の[[倪属利稽]]が朝見し、勃利州刺史に冊封され黒水府を設置するに至ると、唐と黒水靺鞨による渤海挟撃を危惧した[[大武芸]]は黒水靺鞨に出兵している。<br /> <br /> [[大欽茂]]が即位すると唐との大幅な関係改善が見られ、必然的に黒水靺鞨との緊張状態の緩和を見るに至った。[[大仁秀]]の時代になると、渤海により海北諸部の討伐が行われ、黒水靺鞨は渤海に服属し、独自に唐に朝見を行うことはなくなったが、渤海の統治に対する反乱が発生し、黒水靺鞨中心部に渤海の行政機構を設置し、直接統治を行う事は最後まで実現しなかった。<br /> <br /> 渤海末期の9世紀になると、黒水靺鞨は[[新羅]]との連盟を模索するなど自立の道を探るようになり、また渤海の衰退により黒水靺鞨に対する統治が弱体化したことで、最終的には渤海の従属的地位を脱し、[[924年]]には[[後唐]]に使節を送るようになった。<br /> <br /> ==== 日本との関係 ====<br /> {{main|渤海使|遣渤海使}}<br /> <br /> 渤海と[[日本]]の関係は当初は[[新羅]]を牽制するための軍事的性格が強く、[[唐]]に対抗するため[[奈良時代]]から日本に接触した。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は[[黒水部]]は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。[[727年]]、渤海は高仁義ら&lt;ref&gt;高仁義を筆頭とする24名を派遣している。『続日本紀』727年(神亀4年)9月庚寅の条&lt;/ref&gt;を日本に派遣し日本との通好を企画する。この初めての渤海使は、日本に到着した時、当時の日本で[[蝦夷]]と呼ばれていた人々によって殺害され、生き残った高斉徳他8名が出羽国海岸に漂流し、翌年[[聖武天皇]]に拝謁した。この年[[引田虫麻呂]]ら62名を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は[[926年]]渤海滅亡時までの200年間継続した。<br /> [[日本海]]側の、[[金沢市|金沢]]、[[敦賀市|敦賀]]、[[秋田城]]などからは渤海との交流を示す遺物が発掘されている。<br /> <br /> 当時の[[東アジア]]では、[[中国]]を親とする周辺諸国である日本と渤海は舅甥関係にあり、「[[おじ]]」が「[[おい]]」より上位となり、従来日本と渤海のどちらが「おじ」「おい」であるのか議論がわかれていたが、[[石井正敏]]は、『[[続日本紀]]』『[[新唐書]]』の記述を分析し、日本が「おじ」に当たると結論したが、韓国や北朝鮮の研究者が「日本がおじ」と認めることはまずあり得ないと指摘している&lt;ref&gt;『[[日本経済新聞]]』2004年7月17日「渤海 ベール外す古代王国 なぜ滅亡、民族構成は…」&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 経済 ==<br /> === 農業 ===<br /> 農業では考古学の成果より渤海全域での鉄器の使用、牛耕の利用が確認されている。これらの農器具を利用し、渤海では五穀と称される[[麻]]、[[黍]](もちきび)、[[稷]](きび)、[[ムギ|麦]]、[[菽]]が広く栽培されていた。これ以外に忽汗水流域の荏([[えごま]])、盧城の稲、丸都の李、楽游の梨など各地で特徴ある作物が栽培されていたことが知られている。また前後時代の記録を見ると葵菜の栽培や、渤海の使節が来日した際に[[渤海人]]の好む大韮を用意した記録からも、様々な野菜が栽培されていたことを窺い知る事が出来る。また、渤海の在った時代は有数の[[満州]]南部が温暖だった時期であり、この事も農業に寄与した。<br /> <br /> === 牧畜業 ===<br /> 渤海では馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていたことが知られている。また豚、牛、羊などの飼育も盛んであり、それらは渤海人の墳墓の中からそれらの骨が発掘されることからも十分に窺える。<br /> <br /> === 漁業 ===<br /> 渤海の漁業は相当の技術発展を遂げており、[[唐]]へ奉献した方物の中に「鯨魚睛」と称される鯨の眼球が含まれていたことから規模の大きい捕鯨までを可能とする段階に達していた。また各地の特産品として{{lang|zh-tw|湄沱湖}}(現在の[[興凱湖]])の{{lang|zh-tw|鯽}}(フナ)や、忽汗海(現在の[[鏡泊湖]])の「{{lang|zh-tw|湖鯽}}」などが記録に残っており、この他文昌魚(鯉の一種)、鰉魚([[チョウザメ]])、鮭([[サケ|鮭]])、斑魚、鯔魚などが記録に残っている。<br /> <br /> === 冶金業 ===<br /> 渤海の在った地域は鉄を豊富に産出する地域であり、全域から多数の鉄製農具が出土しており、かなり冶金手工業が発展していたと考えられる。<br /> <br /> === 狩猟業 ===<br /> [[唐]]への[[朝貢]]記録には鷹、鶻が進貢されており、特に[[海東青]]は鷹狩りの珍品とされ、貴重な貢者として唐へ献上されていた。他にも太白山(現在の[[長白山]])の兎や扶余の鹿などは特産品として『[[新唐書]]』に記録されている。また[[日本]]との関係で重要な地位をしめたものが貂である。日本の貴族間で珍重された貂皮は当時の日本における最先端ファッションとして受け入れられていた。<br /> <br /> === 紡績業 ===<br /> ===手工業===<br /> === 商業 ===<br /> 商品経済が発展していく中で渤海では貨幣が使用されていたと考えられている(極少数枚ながら[[開元通宝]]が出土している&lt;ref&gt;『古銭新典』P265&lt;/ref&gt;)。それは[[大武芸]]が日本に送った国書の中で「皮幣」の文字を使用していること、[[873年]]に日本で貿易を行った際に、賜銭を得て日本の物産を購入していること、滅亡に際して[[耶律阿保機]]が「獲る所の器、幣」を将士に分け与えたことからも物々交換の段階を超え、貨幣が流通していた事を示すものと考えられている。<br /> <br /> === 貿易 ===<br /> == 文化 ==<br /> 「国を挙げて内属し、子を遣わして来朝し、命を祗みて章を奉り、礼違う者なし」 (『[[白氏文集]]』巻52「渤海王子加官制」)というように、 渤海は[[唐]]に臣従して&lt;ref name=Masashi&gt;[[酒寄雅志]]「渤海の遣唐使」専修大学東アジア世界史研究センター年報第4号2010年3月&lt;/ref&gt;、何度となく使者を送り、それに付随して留学生を唐へ送り文化を吸収させ、持ち帰らせた。この事により渤海の上層部は[[儒教]]的な教養を得、それを元に国政に当たったと思われる。[[738年]]には、『[[唐礼]]』、『[[三国志]]』、『[[晋書]]』、『[[十六国春秋]]』の書写を唐に願い出るなど、「渤海は晏寧にして遠く華風を慕う」(『[[文苑英華]]』巻471「渤海王大彝震に与うる書」)ように、渤海が唐文化に対する強い憧憬を持ち、官司制や地方行政組織、首都上京のように唐の[[長安|長安城]]を真似た都城の建設など、唐の制度に倣った律令国家の建設が推進された&lt;ref name=Masashi/&gt;。また、[[773年]]には、「中華の文物を慕う」(『[[冊府元亀]]』巻41・寛怒)あまり渤海の[[人質]]が[[皇帝]]の[[袞竜]]を盗む事件が起こる&lt;ref name=Masashi/&gt;。宗教的には[[仏教]]の信奉が篤く、首都上京の遺跡からは多くの寺・仏教関係の建物が発見されている。渤海文化は唐の影響が非常に強いが、[[靺鞨]]文化の継承もされており、他には[[高句麗]]文化の影響も窺える、三つの文化から独自の文化を作り出している。<br /> <br /> 前述したように[[日本]]との通使も行われており、初期は[[新羅]]・[[唐]]に対する軍事的な牽制の意味合いが強かったが後半になると儀礼的・商業的な意味合いが強くなっていった。実態は別として渤海からの使節を日本は[[朝貢]]であると認識しており、日本側は渤海側の使者を大いに歓待をしており、この財政的負担がふくらんだために後期では12年に1回と回数の制限も行われている([[遣渤海使]])。また、その際に日本との文化交流が積極的に行われている。一例として[[菅原道真]]と渤海の使者との間で[[漢詩]]の応酬が行われたとの記録がある&lt;ref&gt;[[礪波護]]、[[武田幸男]]「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』[[中央公論社]]、[[1997年]]、ISBN 978-4124034066 p405「支配階層は中国文化に親しみ、漢字・漢文を駆使し、儒教や中国の故事来歴につうじていた。とくに渤海後期に日本にきた使節たちは、日本の文人と好んで[[詩賦]]をうたいかわした。日本であまれた漢詩集『[[文華秀麗集]]』などに、王孝廉・釈仁貞らがつくった、優れた[[詩篇]]が残されている。」&lt;/ref&gt;。なお、首都上京は、中央に宮殿、周りに城壁、周囲16kmと、ほぼ[[平城京]]と同じ規模である&lt;ref name=Masashi2/&gt;。[[井上和人]]は、この都の衛星写真を分析し、平城京造営と同じ物差しを使っているという見解を示した&lt;ref name=Masashi2&gt;[[酒寄雅志]]『[http://megalodon.jp/2016-0817-1622-00/www.nihonkaigaku.org/library/university/i041001-t8.html 早稲田大学オープンカレッジ秋期講座 「渤海と古代の日本」]』&lt;/ref&gt;。したがって、首都上京は、長らく中国の[[長安]]を真似たものだと思われていたが、平城京の造営は[[710年]]、首都上京は[[755年]]なので、[[727年]]に初めて来日した[[渤海使]]が日本から都造りを学んだ可能性がある&lt;ref name=Masashi2/&gt;。<br /> <br /> === 教育制度 ===<br /> 渤海の教育制度は唐制に倣ったものであったと推察される。日本に派遣された[[渤海使]]の随員のなかに大小さまざまな録事官が設けられており、また渤海滅亡後に建国された[[東丹国]]に広く博士や助教が設置されていたことから、これら官職に類似するものが渤海にも設置され、それは唐制に類似するものであったことを窺わせる。<br /> <br /> また上流階級では女子に対する教育も実施されていた。これは貞恵公主や貞孝公主の墓碑に「女師」の文字があることから推察されている。<br /> <br /> これらの教育制度により育成された人材は、一部が唐に留学し、[[科挙]]に及第する者を輩出するなど、相当な教育水準を有していたと考えられる。<br /> <br /> === 言語と文字 ===<br /> 渤海国の[[公用語]]は初め[[ツングース諸語|靺鞨語]]が使用されていた&lt;ref name=&quot;上田雄&quot;&gt;{{Cite book|和書|author=[[上田雄]]|authorlink=|date=2001-12-27|title=渤海使の研究|series=|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750315072|page=126|url=https://books.google.com/books?id=rT8zAQAAIAAJ&amp;q=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%95%E3%80%80%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E8%AA%9E&amp;dq=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%95%E3%80%80%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E8%AA%9E&amp;hl=ja&amp;sa=X&amp;redir_esc=y}}「『可毒夫』について、朱国忱・魏国忠の『渤海史』では『ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフの研究によれば、“可毒夫”とはおそらく満州語の“卡達拉カダラ”(管理するの意)やナーナイ語の“凱泰カイタイ”と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う」と紹介している。(同書二四八頁及び注31)また[[石井正敏]]は可毒夫とは『[[仏陀]]の[[対音]]であろう([[稲葉岩吉]]『増訂満州発達史』)とする見解もあるが、あるいは全くの憶測に過ぎないが、原語で「[[大王]]」のごとき意味をもっていたものではなかろうか。識者のご教示をまちたい。』と、している(『日本渤海関係史の研究』第二部第二章の注31)。」&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 『[[新唐書]]』渤海伝には以下の記事がある。<br /> {{quotation|{{lang|zh-Hant|俗謂王曰「可毒夫」,曰「聖王」,曰「基下」。其命爲「教」。<br /> 〈俗称では王(を名付けて)可毒夫、あるいは聖主、あるいは基下といった。(王の)命令を教という&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[井上秀雄]]|authorlink=|date=1976-01|title=東アジア民族史 2-正史東夷伝|series=[[東洋文庫]]283|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582802832|page=441|url=}}&lt;/ref&gt;。〉}}|『[[新唐書]]』渤海伝}}<br /> {{Wikisourcelang|zh|新唐書/卷219#渤海}}<br /> <br /> [[アレクセイ・オクラドニコフ]]の弟子の[[ロシア科学アカデミー]]のエ・ヴェ・シャフクノフ({{lang-en|Ernst Vladimirovich Shavkunov}}、{{lang-ru|Эрнст Владимирович Шавкунов}})の研究によれば、[[渤海語]]で王をいう“可毒夫”は「おそらく[[満州語]]の“卡達拉”([[満州語]]: {{ManchuSibeUnicode|ᡴᠠᡩᠠᠯᠠᠮᠪᡳ}}、kadalambi、カダラ:管理するの意)や、[[ナナイ語|ナーナイ語]]の“凱泰”(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう」としている。また、[[渤海人]]と[[靺鞨|靺鞨人]]の名前の最後に“蒙”の字がついていることがあるが(烏借芝蒙、己珍蒙、慕思蒙など)、これは靺鞨語の重要な膠着語尾の一つを示しており、ツングース語系の各民族は氏族を“木昆”“謀克”と称しているが、“蒙”の音が“木”や“謀”の音と近いことを考えると、この“蒙”の音はその人が属する氏族を表す音節であろうと推測できると述べている&lt;ref name=&quot;渤海史&quot;&gt;{{Cite book|和書|author=[[朱国忱]]・[[魏国忠]]|authorlink=|date=1996-01|title=渤海史|series=|publisher=[[東方書店]]|isbn=978-4497954589|page=248|url=}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> しかしその後、言語の唐風化が進んで次第に[[漢語]]が公用語となった&lt;ref&gt;[[酒寄雅志]]、2010年度第6 回日本海学講座『渤海と古代の日本』p6、「渤海使の応接には、漢文学に優れた者が任ぜられた。外交使節が詩宴の席で漢詩を詠むことは、国家の威信を懸けた『闘筆』の場であり、それには当代随一の文人が当たった。その代表者が菅原道真であり、応接した渤海大使裴頲は、『七歩あるくごとに詩を一篇賦す』とされた人であった。こうした外交の場で話されていたのは漢語、つまり中国語である。渤海は多民族国家なので、国家を統一していくときに共通語として漢字と漢語が使われたのだろう。従って、日本側の通訳は皆、中国に行ったことがある人が充てられていた。」&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> その他、渤海国に属する[[高句麗|高麗人]]、[[突厥|突厥人]]、[[契丹|契丹人]]、[[室韋|室韋人]]、[[回鶻|{{lang|zh-tw|回紇人}}]]などはそのまま自己の言語を使用していた&lt;ref&gt;朱国忱・魏国忠(訳:佐伯有清・浜田耕策)『渤海史』p247&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、表記文字としては当時の[[東アジア]]で一般的であった[[漢字]]を利用していたとされる。上京遺跡から出土した文字瓦には、漢字を簡略化した渤海独自の文字が記録されているが、独自の文字はあまり使用されなかったと考えられている&lt;ref&gt;『通古斯族系的興起』P174&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 渤海の姓氏 ===<br /> 渤海の[[姓氏]]は、王家の大氏を含めて57姓であり、渤海の姓氏の構造は、まず渤海王族の大氏、その次は[[中原]]から流れた[[漢族]]の[[豪族]]右姓、さらに[[靺鞨]]と一部の[[高句麗]][[貴族]]の右姓、最後に[[漢化]]した靺鞨[[平民]]と高句麗平民と中原から流れた漢族平民の庶姓からなり、渤海の姓氏は靺鞨、高句麗、漢族の姓氏からなる&lt;ref&gt;{{Harvnb|姜成山|2014}}、p40&lt;/ref&gt;。後期になると、[[渤海人]]特有の姓名は消え、[[中国|中国風]]の姓名へと統一される&lt;ref&gt;{{Harvnb|姜成山|2014}}、p40&lt;/ref&gt;。渤海人の姓名には、形容美、[[叡智]]への[[祈願]]、徳性美への追求、[[福禄寿]]への憧憬、[[儒学]]・[[仏教]]への尊崇がみられ、中国の影響を受けている&lt;ref&gt;{{Harvnb|姜成山|2014}}、p40&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 渤海の首領 ===<br /> 9世紀以降の[[渤海使]]は105人の人員で構成され、841年の「渤海国中台省牒」の写しによれば、105人の内訳は、使頭1人(政堂省左允・賀福延)、嗣使1人(王宝璋)、判官2人(高文暄、烏孝慎)、録事3人(高文宣、高平信、安寛喜)、訳語2人(季節憲、高鷹順)、史生2人(王禄昇、李朝清)、天文生1人(晋昇堂)、大首領65人、梢工28人である。渤海使の圧倒的多数を占める首領とは、渤海の在地社会に支配者として君臨する靺鞨諸族の首長のことであり、渤海王権は靺鞨諸族の首長を包摂、国家的に再編成することにより、渤海の国家集権的支配を可能とし、渤海は靺鞨諸族の首長を制度的組織化し、日本外交に恒常的に参画させた&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=418}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 『[[延喜式]]』大蔵省賜蕃客例条に規定される渤海使の構成員と回賜品は、渤海王([[絹]]30疋、[[絁]]30疋、[[糸]]300絇、[[綿]]300屯)、大使(絹10疋、絁20疋、糸50絇、綿100屯)、副使(絁20疋、糸30絇、綿各70屯)、判官(絁各15疋、糸各20絇、綿各50屯)、録事(絁各10疋、綿各30屯)、訳語(絁各5疋、綿各20屯)、史生(絁各5疋、綿各20屯)、首領(絁各5疋、綿各20屯)であり、首領たちは渤海使として来日すると回賜品が与えられ、分量は渤海に対する回賜総量の半分を占めた&lt;ref&gt;{{Harvnb|李|1998|p=418}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 歴史論争:渤海の歴史帰属をめぐる問題 ==<br /> &lt;!--<br /> 中国と韓国の間で渤海の歴史的地位を巡る論争が存在します。ここでは歴史論争が存在する事実のみを記載し、各国の歴史観については東北工程や南北国時代論への誘導を行い、歴史論争に関する記述や、論争を行わない方向での編集をお願いします。当該節に関しては中立性を保つ観点から出典についても敢えて記載していませんので、必要な場合は関係項目の加筆で対応をお願いします。また当該節に関する記述の変更に関してはノートでの議論をお読みになり、事前の議論をお願いします。<br /> <br /> 若欲编辑此内容,敬请事先阅读该项目之讨论页。获得讨论页的合意,始得能编辑此内容。<br /> <br /> 이 내용을 편집하고 싶을 경우,노트의 내용을 사전에 확인해 주십시오.노트에서 합의를 얻어서 처음으로 편집할 수 있습니다.<br /> --&gt;<br /> <br /> {{see also|東北工程|南北国時代}}<br /> <br /> 渤海の歴史的地位を巡っては近年になり[[朝鮮民族]]の王朝、あるいは[[中国]]の[[少数民族]]による地方政権と看做すかによって[[大韓民国]]及び[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]と[[中華人民共和国|中国]]の間で歴史論争が発生している。中国側の歴史観については&#039;&#039;&#039;[[東北工程]]&#039;&#039;&#039;を、韓国における歴史観については&#039;&#039;&#039;[[南北国時代]]&#039;&#039;&#039;をそれぞれ参照されたい。<br /> <br /> 韓国、北朝鮮は渤海は[[高句麗]]を継承して成立した朝鮮民族系の政権であり、[[新羅]]と対立し「[[南北国時代]]」を形成したとし歴史教育を行っている。これに対し中国は、渤海は高句麗同様に[[中原]]王朝より冊封を受けた中国の少数民族による地方政権であるという歴史観を呈示し、両者の間で大きな歴史論争を惹起している。<br /> <br /> 897年に唐に対して渤海の[[大封裔]]が渤海の席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐が許可しなかったことを感謝して、新羅の[[崔致遠]]が作成した新羅王([[孝恭王]])から唐皇帝へ宛てた公式文書である国書には 「渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている&lt;ref&gt;{{Harvnb|石井|2001|p=172}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{quotation|{{lang|zh-Hant|臣某言:臣得當蕃宿衛院狀報,去乾寧四年七月內,渤海賀正王子大封裔進狀,請許渤海居新羅之上。伏奉敕旨:「國名先後,比不因強弱而稱;朝制等威,今豈以盛衰而改。宜仍舊貫,准此宣示」者。綸飛漢詔,繩舉周班。積薪之愁嘆既銷,集木之憂兢轉切。惟天照膽,何地容身。(中謝)臣聞《禮》貴不忘其本,是戒浮虛;《書》稱克慎厥猷,唯防僭越。苟不循其涯分,乃自掇其悔尤。臣謹按渤海之源流也,句驪未滅之時,本為疣贅部落。靺鞨之屬,實繁有徒,是名粟末小蕃,嘗逐句驪內徙。其首領乞四羽及大祚榮等,至武后臨朝之際,自營州作孽而逃,輒據荒丘,始稱振國。時有句驪遺燼,勿吉雜流,梟音則嘯聚白山,鴟義則喧張黑水。始與契丹濟惡,旋與突厥通謀。萬里耨苗,累拒渡遼之轍;十年食葚,晚陳降漢之旗。初建邑居,來憑鄰援,其酋長大祚榮始授臣蕃第五品大阿餐之秩;先天二年方受大朝寵命,封為渤海郡王。邇來漸見辜恩,遽聞抗禮。臣蕃絳、灌同列,所不忍言;廉、藺用和,以為前誡。而渤海汰之沙礫,區以雲泥,莫慎守中,唯圖犯上,恥為牛後,覬作龍頭;妄有陳論,初無畏忌,豈拘儀於隔座,實昧禮於降階。伏惟陛下居高[剖毖,懷]遠孔昭,念臣蕃之驥或羸而可稱,牛雖瘠而非怯;察彼虜之鷹飽腹而高飏,鼠有體而恣貪。永許同事梯航,不令倒置冠屨。聞魯府之仍舊,驗周命之惟新。抑且名位不同,等衰斯在,臣國受秦官極品,彼蕃假周禮夏卿。而乃近至先朝,驟沾優寵。戎狄不可厭也,堯舜其猶病諸,遂攀滕國之爭,自取葛王之誚。向非皇帝陛下英襟獨斷,神筆橫批,則必槿花鄉廉讓自沉,楛矢國毒痛益盛。今者遠綏南越,漢文之深意融春;罷省東曹,魏祖之嘉言同曉。自此八裔絕躁求之望,萬邦無妄動之徒。確守成規,靜銷紛競。臣伏限統戎海徼,不獲奔詣天朝。<br /> <br /> 〈渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった&lt;ref&gt;{{Harvnb|石井|2001|p=171}}&lt;/ref&gt;。〉}}|『謝不許北國居上表』}}<br /> {{Wikisourcelang|zh|謝不許北國居上表}}<br /> <br /> [[ロシア]]の歴史学界から渤海に関する正式見解が出されたのは、[[アレクセイ・オクラドニコフ]]の『シベリアの古代文化』([[加藤九祚]]、[[加藤晋平]]訳、[[講談社]]、[[1974年]])においてである&lt;ref&gt;{{Harvnb|姜成山|2014}}、p4&lt;/ref&gt;。そこでは、「渤海を極東地方諸種族の歴史における彼ら自身の最初の階級社会、つまり、最初の国家」であり、その民族と国家は[[靺鞨|靺鞨族]]であるとした。そして靺鞨族は、元来[[起源]]を異にし[[言語]]も異にするさまざまな種族の集合体であったが、数千年を経て[[渤海人]]として[[単一民族]]を形成したとした&lt;ref&gt;{{Harvnb|姜成山|2014}}、p4&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[酒寄雅志]]|authorlink=|date=2001-03|title=渤海と古代の日本|series=|publisher=[[校倉書房]]|isbn=978-4751731703|page=16|url=https://books.google.com/books?id=iiIRAQAAMAAJ&amp;q=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%95&amp;dq=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%95&amp;hl=ja&amp;sa=X&amp;redir_esc=y}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 中国の学界では、大祚栄の父とされる乞乞仲象が靺鞨人の名前であることを靺鞨説の根拠としており&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=|authorlink=|date=|title=천재학습백과 초등 사회 5-2|series=|publisher=|isbn=|page=|url=https://terms.naver.com/entry.nhn?docId=3557456&amp;cid=58584&amp;categoryId=58684&amp;mobile}}&lt;/ref&gt;、朱国忱・魏国忠は「乞乞仲象は明らかに靺鞨人本来の姓氏の名である」と述べており&lt;ref&gt;{{Harvnb|朱・魏|1996|p=18}}&lt;/ref&gt;、日本の[[鳥山喜一]]も「それにしても前引の[[五代会要]]のいうように乞乞仲象を名とするにしろ、この『新唐書』の如く、乞乞を姓、仲象を名とするにしても、高句麗化していたものとしては、この[[胡|胡名]]はどうかと思われる&lt;ref&gt;{{Harvnb|鳥山|1968|p=31}}&lt;/ref&gt;」と述べている。<br /> <br /> これらの各国の歴史観は現代の政治情勢と関連し、渤海を自国に有利な歴史観で理解しようとする政治的立場との密接な関係が存在しているためと考えられる。日本では戦前は「渤海建国者およびその出自集団、換言するならば主体民族については、粟末あるいは白山靺鞨の差こそあれ、大勢は靺鞨人の国家&lt;ref&gt;{{Harvnb|酒寄|2001|p=19}}&lt;/ref&gt;」と考えていたが、現在では渤海を[[靺鞨|靺鞨人]]と高句麗の遺民からなる国家であるとする説が一般的である&lt;ref&gt;森安孝夫1982年、森田悌1993年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 靺鞨説支持者 ===<br /> : &lt;!--&#039;&#039;ここには靺鞨説支持者の意見を書いてください。&#039;&#039;--&gt;<br /> ;石井正敏<br /> [[石井正敏]]は、渤海の建国前後状況を「およそ次のように理解されている」として、「七世紀の末、かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人の大祚栄は、高句麗滅亡後強制的に移住させられていた唐の営州から一族を率いて東方へ逃れた。唐は追討軍を差し向けたが、軍略に長じた祚栄は靺鞨人やかつて高句麗に属していた人々を率いて迎え討ち、ついに今日の吉林省敦化市付近を根拠地として独立し、震(振)国と号して自立を宣言した。(後略)」として、「以上が渤海建国前後の状況の通説であり、筆者もおよそこのように理解している」「大勢としては、通説のように考えてよいと思う&lt;ref&gt;{{Harvnb|石井|2001|p=14}}&lt;/ref&gt;」と述べており、「渤海は、西暦六九八年に高句麗の遺民大祚栄を中心として、現在の中国の東北地方に建設され、九二六年契丹に滅ぼされるまで存続した、主に靺鞨種族より成る国&lt;ref&gt;{{Harvnb|石井|2001|p=429}}&lt;/ref&gt;」「渤海は、かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人である大祚栄によって六九八年に建国&lt;ref&gt;{{Harvnb|石井|2001|p=551}}&lt;/ref&gt;」「渤海の建国者大祚栄は靺鞨人であるが、かつて高句麗領内に居住しており、自立後は高句麗人も彼のもとに集まった&lt;ref&gt;{{Harvnb|月刊しにか|1998|p=24}}&lt;/ref&gt;」「7世紀の末、かつて高句麗に属していた靺鞨人の大祚栄&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[石井正敏]]|date=2002|title=古代アジアの交流|publisher=|url=http://www.chuo-u.ac.jp/usr/kairou/programs/2002/2002_03/|}}&lt;/ref&gt;」「渤海は、かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人である大祚栄によって六九八年に建国され、祚栄は七一三年に唐から冊封された&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|author=[[石井正敏]]|date=1992-07|title=古代アジアの交流|series=アジアのなかの日本史2|publisher=[[東京大学出版会]]|url=|page=325}}&lt;/ref&gt;」「大祚栄(あるいは父の乞乞仲象も)が粟末靺鞨人であることは間違いないと思われる。しかしその一方で『高麗別種』あるいは『附高麗者』とされている。すなわちこれらの表現するところは大祚栄をはじめとする王族はかつて高句麗に所属していた靺鞨人、いわば高句麗系靺鞨人(靺鞨系高句麗人)であったということ&lt;ref&gt;{{Harvnb|石井|2001|p=126-127}}&lt;/ref&gt;」そして、大祚栄が『高麗別種』・『附高麗者』というのは、[[日野開三郎]]が主張している「その附隷の関係が一般の者より格別親密であったために相違なく、…その親密な附隷関係を通して彼等が事実上高句麗人化していたためでなければならぬ&lt;ref&gt;{{Cite news|author=[[日野開三郎]]|date=|title=日野開三郎東洋史学論集八巻|series=|publisher=[[三一書房]]|url=|accessdate=|page=486}}&lt;/ref&gt;」という理解でまず間違いない、と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|石井|2001|p=127}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;森安孝夫<br /> [[森安孝夫]]は、大舎利乞乞仲象が保有していた舎利という官職が「父の方が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が知られていない称号をもっている点を考え合わせると、やはり、高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当かと思われる&lt;ref&gt;{{Harvnb|森安|1982|p=73}}&lt;/ref&gt;」「その建国の立役者となった乞四比羽が純粋の靺鞨人、大舎利乞乞仲象と大祚栄が高句麗の強い影響を蒙ってはいたもののやはり靺鞨人と考えられること、さらにその初期の本拠となった地方が、従来より靺鞨(勿吉)人の住地であったこと等よりみても、その基盤となった民族が靺鞨人であったことは当然考えられよう&lt;ref&gt;{{Harvnb|森安|1982|p=73}}&lt;/ref&gt;」「渤海の建国とはツングース系民族国家の建設、言いかえれば高句麗国の再興をはかったものであって、その中核となり、後の支配層となった王族大氏に代表される旧高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人&lt;ref&gt;{{Harvnb|森安|1982|p=74}}&lt;/ref&gt;」「渤海の支配階級を形成していたのが、大氏に代表される旧高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人&lt;ref&gt;{{Harvnb|森安|1982|p=74}}&lt;/ref&gt;」「大祚栄の出身については異論が多いが、かつての高句麗国時代から高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当と思われる&lt;ref&gt;{{Kotobank|大祚栄|2=日本大百科全書}}&lt;/ref&gt;」と述べている。<br /> <br /> ;浜田耕策<br /> [[浜田耕策]]は、大祚栄を冊封するために渤海に派遣された唐の冊封使の[[崔忻]]の使命を「宣労靺鞨使」と命じたこと、『旧唐書』は「渤海靺鞨大祚栄」と始まり、大祚栄の所属を「渤海靺鞨」とし、『[[冊府元亀]]』外臣部・継襲二では「渤海靺鞨」とあり、『冊府元亀』帝王部・来遠、外臣部・褒異、七一八年二月では「靺鞨渤海郡王大祚栄」と記録されていること、『新唐書』も大祚栄を高句麗に付属した粟末靺鞨人とみており、新旧両唐書ともに大祚栄の政治・文化的所属を高句麗に隷属した靺鞨人と記録していることなど、唐は大祚栄及び渤海を靺鞨諸族のなかの一つの大種族とみていたこと、大祚栄を靺鞨人とみるのは中国史料だけでなく、797年に渤海の席次を新羅よりも上位にして欲しいと唐に要請したのに対し、唐はこれを却下し、旧来のごとくせよと命じたことに関して新羅の[[崔致遠]]が作成し、新羅王([[孝恭王]])から唐へ贈られた国書の『謝不許北国居上表』も大祚栄を高句麗の内部に移住した粟末靺鞨と回顧していることなどを根拠に「崔致遠がこの上表文のなかで粟末靺鞨族の者とみなすことで、渤海は唐の文化に遅れて浸透した、いわば文化度が低いと主張していることを差し引いても、おそらくこれらの記録の言うように、渤海王家の大氏は靺鞨族のなかでも粟末部の出自であろう」と述べており&lt;ref&gt;{{Harvnb|浜田|2000|p=16-17}}&lt;/ref&gt;、「建国は靺鞨諸族を統治していた高句麗の滅亡に始まる。建国の運動は粟末靺鞨の首領のひとり乞乞仲象とその子の大祚栄を中心とした勢力&lt;ref&gt;{{Harvnb|浜田|2000|p=12}}&lt;/ref&gt;」「高句麗の末期、その中央部にあって高句麗に付属していた粟末靺鞨族の有力な部族の首領(舎利)であった乞乞仲象&lt;ref&gt;{{Harvnb|浜田|2000|p=12}}&lt;/ref&gt;」「粟末靺鞨族は首領の乞乞仲象と乞四比羽らに率いられ&lt;ref&gt;{{Harvnb|浜田|2000|p=13}}&lt;/ref&gt;」と述べている。<br /> <br /> ;藤井一二<br /> [[藤井一二]]は、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」が大祚栄を渤海靺鞨、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者」が渤海を粟末靺鞨とするのは『旧唐書』が大祚栄の出自、『新唐書』が渤海の領域の由来を説明しており、唐は黒水靺鞨の南の渤海郡の領域を黒水と区別した呼称であり、「渤海靺鞨」は渤海郡王が領域とする靺鞨或いは靺鞨の中の渤海郡領域とみる認識が存在しており&lt;ref&gt;{{Harvnb|藤井|2010|p=60}}&lt;/ref&gt;、「渤海靺鞨」の「靺鞨」は『新唐書』の「粟末靺鞨」を指すとみるのが至当であり、粟末靺鞨を主体に建国された「震国」=「渤海郡王」領域に対して「渤海靺鞨」として表示したものであり&lt;ref&gt;{{Harvnb|藤井|2010|p=60}}&lt;/ref&gt;、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者」を「渤海はもと粟末靺鞨の地であり高句麗に属した」と解釈すれば、渤海は粟末靺鞨を主体に建国され、その粟末靺鞨はかつて高句麗の支配下にあったことを意味する&lt;ref&gt;{{Harvnb|藤井|2010|p=60}}&lt;/ref&gt;。『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」は「A(国)、(本)B之別種也」は、「高句麗‥夫余別種」(『後漢書』東夷伝七五・高句麗条)、「突厥者‥蓋匈奴之別種」(『周書』列伝四二異域下・突厥条)、「日本国者、倭国之別種也」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷・日本国条)、「室韋、契丹別種」(『新唐書』列伝一四四上、北狄・室韋条)のように「Aは本来、Bの別種(別の種類)」であり、それは系譜の別の種類と解釈され、「A」国の「B」国からの派生を示しており&lt;ref&gt;{{Harvnb|藤井|2010|p=61}}&lt;/ref&gt;、『新唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」において高句麗の別種としたのは個人ではなく国としての渤海靺鞨と解釈され、高句麗は多様な種族を包括し構成された国であるため、、高句麗建国と領域拡張過程において、[[貊]]・[[夫余]]・[[沃沮]]・[[狗茶]]・[[蓋馬]]などが包摂され、従って高句麗を同一民族・種族による国家とみるのは適当ではなく、貊・夫余・沃沮・狗茶・蓋馬などを含めて高句麗人と表記したものであり、高句麗の645年の安市城における唐との戦い、654年の契丹との戦い、655年の新羅との戦いに際して高句麗と靺鞨が連合軍を結成しており&lt;ref&gt;{{Harvnb|藤井|2010|p=62}}&lt;/ref&gt;、靺鞨人の一部が高句麗領に編入されていたことは確実であり、唐から渤海郡王を冊立された段階では、渤海領には高句麗時代に北で隣接した粟末靺鞨が組み込まれており、「本高麗別種」は「渤海靺鞨はかつて高句麗を構成した一種族によって建国されたとの意味であり、また『本‥別種』は、歴史的な系譜として『‥国から分岐した一種類』(‥国の系譜を引く別の種類)として理解すべきもの」と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|藤井|2010|p=62-63}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;津田左右吉<br /> [[津田左右吉]]は、「祚栄が営州を脱し契丹に入り、かくて遠く東方に来れるは何等かの縁故が其の地方にありし故なるべし。此の地方は『勿吉考』の終に述べしが如く隋書に所謂白山部なるべく思はるるが、祚栄が太白山の東北に来りて居城を築きしは此の地方が彼の故郷なるが故にして、彼は白山部の靺鞨なるにはあらざるか。こはもとより一片の想像に過ぎざるも、上に述べしが如く白山部の靺鞨が高麗の滅亡と共に唐に入れりとせられ、而して唐はかかる夷民を営州に置くが慣例なりしより見れば、初め高麗に属し、後に営州に住せし祚栄を以て白山部の靺鞨なりとするは故なきにあらざるなり。彼が靺鞨にして高麗人ならざるは、高句麗の遺民の営州に置かれしこと無きにても推知せらる。旧唐書に『高麗別種』といへるは、高麗に役隷し其の滅亡と共に唐に降りしものなるが故にして、従ってまた其の白山部に属せしを暗示するものの如し。(『別種』の語は支那の史籍に於いて塞外民族の由来を説くに当り慣用せらるる語法にして杜撰なるもの多ければ必ずしも之に拘泥するを得ずと雖も、かく解すれば極めて恰好の説明たるなり。また新唐書渤海伝には『渤海本粟末靺鞨、附高麗者』とあれど果して信ずべしや否や疑なき能はず。なお同伝には舎利乞乞仲象とあるが、地理志なる安東都護府の属州に舎利州ありてそが靺鞨の部落名なるが如く思はるれば、乞乞仲象の故郷は此の舎利州ならんかとも推せらるれど確信し難く、且つ舎利州の位置も知る能はず)&lt;ref&gt;{{Cite news|author=[[津田左右吉]]|date=1964|title=津田左右吉全集12|series=|publisher=[[岩波書店]]|url=|accessdate=|page=92-93}}&lt;/ref&gt;」「而して旧唐書に『白山部素附於高麗、因收平壤後、部眾多入於中國』と見え、新唐書にも同じ記事あれば、概ね高句麗に隷属せしなるべく、此の関係は隋代もしくは魏代よりして既に然りしならんか。されば隋・唐の高句麗戦役に当りて麗軍に参加せし靺鞨の多数は此の部のものなりしに似たり&lt;ref&gt;{{Cite news|author=[[津田左右吉]]|date=1964|title=津田左右吉全集12|series=|publisher=[[岩波書店]]|url=|accessdate=|page=86}}&lt;/ref&gt;」として、「靺鞨人たる祚栄&lt;ref&gt;{{Cite news|author=[[津田左右吉]]|date=1964|title=津田左右吉全集12|series=|publisher=[[岩波書店]]|url=|accessdate=|page=89}}&lt;/ref&gt;」と記している。<br /> <br /> ;和田清<br /> [[和田清]]は、『旧唐書』と『新唐書』の渤海に関する史料的価値は「旧唐書の価値は新唐書のそれよりも遥に低いようである」と評しており&lt;ref&gt;{{Harvnb|和田|1954|p=421}}&lt;/ref&gt;、『旧唐書』の記事は[[冊府元亀]]の記事と一致しているが、唐との交渉の一面だけでありそれ以外は何も伝えておらず、しかし『新唐書』は『旧唐書』にはない『新唐書』にのみある記事が極めて多く、それは唐の遣渤海史[[張建章]]の手記『渤海国記』を利用しているためであり&lt;ref&gt;{{Harvnb|和田|1954|p=3}}&lt;/ref&gt;、「それは大抵渤海国内の内情に関することのみである。例えば、渤海内部に行われた歴代国王の[[諡号]]や[[年号]]や、何王の時どの地方が経略されたとか、もしくは国内の行政区割・官制や地方の名産のこと等がこれである。これによって始めて我々は渤海の国情の大略を察知することが出来る」として&lt;ref&gt;{{Harvnb|和田|1954|p=3}}&lt;/ref&gt;、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」は矛盾しているようにみえるが、「渤海が高句麗の余類を以て唐初の擾乱に乗じて起こったことは疑問のないことで、だからこそその日本に朝貢するや、自ら『高麗の旧居を復し、夫余の遺俗を有つ』といい、自らも高麗国王と称し、我が国でもこれを待つに高麗国王を以てした」のであるが&lt;ref&gt;{{Harvnb|和田|1954|p=5}}&lt;/ref&gt;、「しかし高麗の別種といってその同類とはいはなかった。この時高麗の遺族は遼東の安東都護府の管下にあつて遼西の朝暘(営州)に居たのは寧ろ靺鞨の余類であった。そうして渤海の国祖はその遼西の朝暘から起こったのである。そうして見れば、『新唐書』に明白に『本粟末靺鞨附高麗者』とあるのがやはり正しいのではないか」と述べており、それは『新唐書』が渤海自らの消息を伝へているとみられるためであり、この場合「両唐書の所伝は必ずしも矛盾ではない。『本粟末靺鞨附高麗者』が即ち『本高麗別種也』と解釈出来るからである」と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|和田|1954|p=5}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;鳥山喜一<br /> [[鳥山喜一]]は、『旧唐書』「大祚榮者、高麗別種也」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨、附高麗者姓大氏」の記事は「静かにに考えると、これは相背反し、相矛盾するものではなく」、新旧唐書はいずれも渤海が靺鞨族の国であるとしており、「『旧唐書』は大祚栄すくなくとも大氏という渤海の建設者を出した家系の説明に重点を置いたものであり、新唐書はむしろ渤海国の民族的組成面に力点をおき、支配者の家系はこれを従的に取扱ったものと見られはしまいか」として&lt;ref&gt;{{Harvnb|鳥山|1968|p=27-30}}&lt;/ref&gt;、『旧唐書』「高麗別種」から導かれる帰結は「大祚栄はもとより純粋な高句麗人ではなく、靺鞨族の出身であったが、高句麗との関係-その版籍にあったのは、その父祖にも泝るもので、そういう環境に育った人物と想定させることとなろう」と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|鳥山|1968|p=27-30}}&lt;/ref&gt;。この場合、大祚栄が[[李尽忠]]の反乱に乗じて、遼西から遼河へ東走するときに、その根拠地を求めるならば、自らの故地になることは自然の情であり、大祚栄が太白山([[白頭山]])の東北から来て居城を築いた根拠地が元々は白山靺鞨の住地だったことから「彼の故郷なるが故にして、彼は白山部の靺鞨なるにはあらざるか」「わたくしは大祚栄はもと白山靺鞨の出身で、古く高句麗に服事していた家の出身であったと推定する」、高句麗滅亡後に白山部は粟末部の支配におかれたのではないか、『旧唐書』「高麗の別種」と『新唐書』「高麗に附せしもの」は「高句麗への服事関係が古くからあったと見ることにも関連して、白山部というものを強く押し出させることになりはしまいか」と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|鳥山|1968|p=27-30}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;稲葉岩吉<br /> [[稲葉岩吉]]は、「渤海の始祖は、乞乞仲象といった。この乞乞は、『[[女直]]』の初音であると考える。乞四比羽の乞四亦た然り、同じくChi-Chi,Chi-suで、[[粛慎]]よりの音転とみてよいものと思う。かつてわたくしは、東鑑の異体文字の頭一字を二字に分解しChi-Chi,Chu-Chuとなし、それは女直(女真)であるとしたが、新唐書が、乞四比羽にのみ靺鞨の酋としているのは当たらない、乞乞仲象も同一種人であったのである。それは、仲象の子祚栄を同じく靺鞨といっているので判る&lt;ref&gt;{{Harvnb|稲葉|1936|p=109}}&lt;/ref&gt;」「新唐書渤海列伝の書き出しに、『渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏』といい、他書も略は同一であるが、わたくしは、この大氏は、靺鞨の訳字であり、靺鞨大氏は、いわゆる[[畳語|疊言]]であるとする。靺鞨は、[[梵語]]のマハ(Makha、大の意)に相当し、かれら女真の種類は、巨酋をば、マハ即ち大人といった、それ故に祚栄を指してマハ祚栄と呼び、マハの部衆であるから、当時の支那人は、靺鞨々々と指称したのである。マハなる尊称の佛名よりであることは、釈教東伝の既に悠久なりしを証示し、[[北魏]]の昔にも遡り得べく、渤海では、遂に君主を可毒夫といった、可毒夫はクトクトの対音で、蒙古の{{仮リンク|呼圖克圖|zh|呼圖克圖}}のごとし。かくて多くの寺院関係の遺物の、東京古城より見出されるのは、毫も怪むに当たらない。かの清の太祖[[ヌルハチ]]を、朝鮮で、建州衛馬法大人と認めたということなどを思い合わせると、一層興味があろう。故に、わたくしは、大祚栄は、女真人の巨酋であって、この巨酋を中心として渤海国は成立したものと考える&lt;ref&gt;{{Harvnb|稲葉|1936|p=109}}&lt;/ref&gt;」「旧唐書を見ると、『大祚榮者、本高麗別種』とし、新書は、『渤海本粟末靺鞨附高麗者』とし、五代会要また同一の文字を掲げ、記事は、不一致ながら、建国者の出自に、高句麗の色彩の附著していることは、注意すべきである。つまり、唐の勢力のいかようがであるかを體認した長白山以東の種人即ち女直の大人たちは、叛旗を上げ、之に高麗の亡人が馳せ加わったという姿である&lt;ref&gt;{{Harvnb|稲葉|1936|p=109-110}}&lt;/ref&gt;」「渤海の主権者及び支配階級は、[[松花江|松花]][[黒龍江|黒龍]]両江の女直人をもって占めていたらしいが、その文化は、幾分、高麗人に占められていた&lt;ref&gt;{{Harvnb|稲葉|1936|p=112}}&lt;/ref&gt;」と述べている。<br /> <br /> ;小川裕人<br /> [[小川裕人]]は、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚栄者、高麗別種也」としているが、『[[唐会要]]』巻九六渤海には「渤海渤海靺鞨、本高麗別種、後徙居營州、其王姓大氏、名祚榮、先天中封渤海郡王、子武藝」とあり&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=184}}&lt;/ref&gt;、『[[五代会要]]』巻三十には「渤海本號靺鞨、蓋高麗之別種也」とあり、『[[新五代史]]』四夷附録はこれに従い、『[[宋会要]]』は「渤海本高麗之別種」として『[[宋史]]』はこれに従っているが、これら史書の『旧唐書』は[[後晋]]時代に成り、『唐会要』は[[宋]]初に成り、『五代会要』『新五代史』が宋時代に成り、『唐会要』は唐代に一部が編纂されたが([[徳宗 (唐)|徳宗]]の時に[[蘇冕]]が四十巻を編纂、[[武宗 (唐)|武宗]]の時に[[崔鉉]]が続四十巻を編纂、[[建隆]]の時に[[王溥]]が百巻を成した)、しかし『唐会要』渤海の本文は貞元八年閏十二月から始まっており&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=184}}&lt;/ref&gt;、したがってこの部分は崔鉉が徳宗貞元年間以後の記事を集めて成したものと考えられ、蘇冕の書には渤海はなく、『唐会要』渤海の序も蘇冕のものではなく、崔鉉か王溥により成ったものであり、したがって中国において渤海大祚栄を高句麗の別種としたのは、唐末以後のこととなり、日本の遣唐使は交通安全のため、渤海経由で中国に往復することが多く、日本の遣唐使などの渤海に対する知識が中国において指導的地位を占めたことが推測され&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=187}}&lt;/ref&gt;、中国人が渤海を高句麗の別種と考えるになったのは、日本の遣唐使などが渤海経由で中国に行くようになって以後であり、『旧唐書』『唐会要』における編纂物の序ではなく、当時の名称を正確に伝えていると推測される『冊府元亀』は、高句麗と渤海は明らかに区別され、最後まで渤海は靺鞨或いは渤海としており、この時に唐より渤海へ派遣された崔忻が、大祚栄を冊封するために渤海に派遣された唐の冊封使の崔忻の使命を「勅持節宣労靺鞨使鴻臚卿崔忻」としており、当時の唐人が渤海を靺鞨と称していたことは確実であり&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=190}}&lt;/ref&gt;、『唐書』渤海伝は「睿宗先天二年、遣郎將崔訢往冊拜祚榮爲左驍衛員外大將軍、渤海郡王、仍以其所統爲忽汗州、加授忽汗州都督」としており、続いて「自是始去靺鞨號、専称渤海」とあり、『[[文献通考]]』『[[三国遺事]]』所引の通典もこれを記しているが&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=190}}&lt;/ref&gt;、当時渤海は唐よりの封號「渤海郡王」と称して、靺鞨を附称しなかったことは、神亀四年に始めて通交した時の日本史料にみられることから明らかであり、渤海人は先天二年その渤海郡王封ぜられた頃から後は、単に渤海と號して靺鞨とはいわず、開元年間に至るまで靺鞨と称したのは渤海人ではなく唐人であったと考えられ&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=190}}&lt;/ref&gt;、『冊府元亀』巻九七の朝貢開元九年十一月の條には「渤海郡靺鞨大首領、鉄利大首領、拂涅大首領、契丹蕃郎将倶来朝、並拜折衝、放還蕃」とあり、鉄利や拂涅と共に来朝した渤海を靺鞨とせず、渤海郡靺鞨と記したのを始として同十年十一月の條には「渤海遺其大臣味勅計来朝、並献鷹」とあり、同十二年二月の條には「渤海靺鞨遣其臣加作慶」とあり、同十三年正月の條には「渤海遣大首領烏借芝蒙」とし同十四年には再び渤海靺鞨と記し、その後開元年間にはこの称を以て記し時に渤海とのみ記したものもあるが、天宝以後は大体は渤海とのみ記し、靺鞨の文字を附したものはほとんどなく、このことから唐人は渤海を最初は靺鞨と称したが、その後に渤海郡靺鞨、そして靺鞨または渤海と呼ぶに至り、唐人の渤海に対する名称変遷は、『冊府元亀』巻九七一開元二年二月の條に「是月拂涅靺鞨首領失異蒙、越喜大首領烏施可蒙、鉄利部落大首領闥許離等来朝」とある拂涅・鉄利・越喜などの靺鞨諸族の朝貢は、開元二年二月が始めであり、その後開元年間屢に来朝し、開元元年頃にある靺鞨の称が、他の靺鞨諸族の来朝した同二年以後なく、渤海の名称変遷は他の靺鞨諸族の来朝と関連しており、唐人は他の靺鞨諸族と渤海を区別する必要上から渤海郡靺鞨と記し、次いで渤海或いは渤海靺鞨と称するに至ったと考えられ&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=191}&lt;/ref&gt;、『冊府元亀』巻九七四の褒異開元七年六月の條に「靺鞨渤海郡王大祚栄卒」とあり、『冊府元亀』巻九七一の朝貢開元九年十一月の條に「渤海郡靺鞨大首領」とあるのは、名称変遷の過渡をなすものと考えられ、そして『新唐書』は粟末靺鞨の高句麗に属したものとし、『文献通考』もまた同様であるが、『新唐書』『文献通考』記事が根拠のないものとは考えられないから、粟末靺鞨もその中に在ったと推測され、大祚栄の建国の地が、白山部の故地であり&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=192}}&lt;/ref&gt;、「靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之」とあるから靺鞨もまた渤海靺鞨の中に含まれていたとみるべきであり、「祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之」とあるように、大祚栄の部下に高句麗遺衆が多くいたことは疑いなく、しかしこれが靺鞨と称されていたことをみると、靺鞨諸族がその主要分子であったとみるのが妥当であり&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=194-195}}&lt;/ref&gt;、「渤海国建国者の主要分子が、靺鞨族であっても、少しも支障ないのである&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=184}}&lt;/ref&gt;」「渤海国の治者階級は粟末・白山両靺鞨より成る所謂渤海靺鞨に高句麗の遺衆の混じったものがその主要分子を成し、之に[[漢人]]分子の幾分かが文化的指導者或は担当者として加入して居たと見られる&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=193}}&lt;/ref&gt;」「隋初から靺鞨七部の中に数えられた粟末・白山両部に属するを主要分子として成った所謂渤海靺鞨に高句麗の遺衆を加えたもの&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=197}}&lt;/ref&gt;」と述べている。さらに靺鞨人は最初唐に服していただけでなく、高句麗にも服し、高句麗軍の主要部として、唐に抗したことが『唐史』に記されているから、高句麗も靺鞨も唐に対する関係は同様で渤海が実は高句麗人であったなら、唐に対し靺鞨と偽称しても利益はなく、『冊府元亀』巻九六四には「玄宗先天二年二月拜高麗大首領高定伝為特進、是月封靺鞨大祚栄為渤海郡王」とあり、靺鞨大祚栄と同じく、高句麗人高定伝にも特進という称号を授与されており、若い大祚栄が実は高句麗人であったなら自ら高句麗人と称しても不利益になる情勢ではなく、大祚栄が実は高句麗人であるのを、靺鞨人と偽称したとの憶測は深入り過ぎているとみるべき、と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=188}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;新妻利久<br /> [[新妻利久]]は、『旧唐書』に「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。萬歲通天年、契丹李盡忠反叛、祚榮與靺鞨乞四比羽各領亡命東奔、保阻以自固。盡忠既死、則天命右玉鈐衛大將軍李楷固率兵討其餘黨、先破斬乞四比羽、又度天門嶺以迫祚榮。祚榮合高麗、靺鞨之衆以拒楷固;王師大敗、楷固脫身而還。屬契丹及奚盡降突厥、道路阻絕、則天不能討、祚榮遂率其衆東保桂婁之故地、據東牟山、築城以居之。祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之。聖曆中、自立爲振國王、遣使通於突厥。其地在營州之東二千里、南與新羅相接。越熹靺鞨東北至黑水靺鞨、地方二千里、編戶十余萬、勝兵數萬人。風俗瑟高麗及契丹同、頗有文字及書記」とあり、『新唐書』は「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁之東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹。築城郭以居、高麗逋殘稍歸之。萬歲通天中、契丹盡忠殺營州都督趙翽反、有舍利乞乞仲象者、與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走、度遼水、保太白山之東北、阻奧婁河、樹壁自固。武后封乞四比羽爲許國公、乞乞仲象爲震國公、赦其罪。比羽不受命、后詔玉鈐衛大將軍李楷固、中郎將索仇擊斬之。是時仲象已死、其子祚榮引殘痍遁去、楷固窮躡、度天門嶺。祚榮因高麗、靺鞨兵拒楷固、楷固敗還。於是契丹附突厥、王師道絕、不克討。祚榮即並比羽之衆、恃荒遠、乃建國、自號震國王」とあって『旧唐書』より詳細であり、「両書の記事によって、渤海建国の祖は大祚栄で、その民族は靺鞨と高句麗の遺民とであったことが知られる。又大祚栄父子は靺鞨一方の豪酋で、その祖は早くから高句麗に服属していたことも知られる。これが旧唐書に、『高麗之別種』と記され、新唐書に『附高麗者姓大氏』と記された所以」であり、「乞乞仲象と共に一方の首領として唐軍と戦ったが、戦利あらずして唐軍に降参し、そのために、乞四比羽及び部民の靺鞨人と共に、営州に徒されたことが知られるし、又営州に徒されて唐の監視下に置かれたことによって、靺鞨族中でも有力な豪酋であったことが推想できる」と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|新妻|1969|p=15-17}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 高句麗説支持者 ===<br /> : &lt;!--&#039;&#039;ここには高句麗説支持者の意見を書いてください。&#039;&#039;--&gt;<br /> ;白鳥庫吉<br /> [[白鳥庫吉]]は、昭和8年10月の講演「渤海国について」において、「当時高句麗の遺衆が靺鞨族と通謀し、朝陽から東に走って国を建てた。元来高句麗は久しく支那文化を容れて来ている。靺鞨はこれに反して野蛮人といってよい。併し武勇である。そこで高句麗の遺臣は靺鞨族を利用して之と結んでその国の興復を計り、それが成功した。その中心人物が大祚栄で、旧唐書のいふ通り高句麗人であらう。新唐書に見える舎利乞乞仲象は乞四比羽と同じく靺鞨の酋長と思はれる」と述べており、また「唐の徳宗の貞元年間に出来た『[[梵語雑名]]』に、高麗と書いて[[悉曇文字]]でムクリ(Mokuri)と音を出し、漢字畝倶梨と当てている。従来これは高句麗とのみ考へていたため、どうしても分からなかったが、これは高句麗の故地にそのまま拠った渤海のことを指せるもので、渤海は靺鞨即ち勿吉の後裔であるからである。この勿吉または靺鞨が訛って発音され、[[漠北]]の民族を通って、『梵語雑名』の編者に聞えたときに、 Mokuriとなっていたものであらう。それは渤海の王室即ち治者階級は、大祚栄の率い来れる高句麗人の一味であり、被治者たる庶民は、勿吉の後裔たる靺鞨人であったからである。支那の方に於いては、公式に国家としては、渤海と呼んでいたであらうが、普通の人は常に高(句)麗と呼んでいたことであらう。何となれば渤海国は高句麗の故地に、高句麗人の大祚栄が建てた国であるからである」と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|鳥山|1968|p=25-26}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 白鳥庫吉の高句麗説の根拠は以下である。<br /> <br /> #日本へ来朝した使者の多くは、高句麗人や漢人の姓を有し、満州人の姓を有する者が少ない。<br /> #唐貞元年間に作られた『梵語雑名』には、高句麗をMokuriとしているが、これは渤海のことである。<br /> #渤海王と日本との間で往復した国書に渤海王を「高麗国王」と記したものがある。<br /> <br /> 対して[[小川裕人]]は以下のように反論している。<br /> <br /> #渤海には高句麗人がある程度存在したのは確かであるから、それらが対外交渉の時に活躍したと見ることもでき、『{{仮リンク|松漠記聞|zh|松漠記聞}}』に「其王旧以大為姓、右姓曰、高・張・楊・賓・烏・李、不過数種、部曲・奴婢無姓者、皆従其主」とあり、渤海貴族に高句麗人の姓や漢人の姓が居たことを伝えており、[[阿骨打]]が渤海人懐柔のために用いたスローガンは「女直渤海本同一家」(『[[金史]]』巻二)であり、それは渤海人懐柔に過ぎなかったかもしれないが、「そのために『女直渤海本同一家』という語を必要としたということは、当時でも女直人と渤海人は懸隔のある種族ではなく、言語的にも外観的にも同一視できる程度のものであり、このことから渤海人を女真系種族から区別すべき理由はな」く、さらに遼では拂涅靺鞨の後身の[[烏惹]]の酋長が[[烏昭度]]・[[烏昭慶]]という烏姓を称したことが有るように、また金初期に生女直人までが競って漢名を称したこともあり、靺鞨人が高句麗人や漢人に倣い、高句麗人や漢人の姓を称したこともあり得、渤海人が高句麗人や漢人の姓を称したとしても高句麗の遺臣と考える必要はない&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=184}}&lt;/ref&gt;。<br /> #『梵語雑名』に高句麗と書いてMokuriと読むことを、Mokuriとはmot-kit(勿吉)の最後のtがrに変化したものであるとして、渤海(=勿吉)が高句麗の根拠としたが、[[岩佐精一郎]]が[[突厥碑文]]にあるBokliと[[テオフィラクトゥス]]の突厥人から得た所伝にあるmoukriは共に高句麗を指していると指摘しており、高句麗をBokli或いはmoukriとしたのは突厥碑文によると渤海出現以前であり、MokuriはBokli・moukriと同語と考えられるからmot-kit(勿吉)の転音ではなく、moはBoと同じく貊、kriはkliと同じく高句麗の「句麗」と充て、貊人の句麗=貊句麗と考えるのが妥当である&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=185}}&lt;/ref&gt;。<br /> #渤海の第4回目の遣使における「高麗国王」は前回の遣使の際の先例と違うことを諭した詰問により、日本が渤海を高句麗の後継と信じているのを知って、調子に合わせたに過ぎない&lt;ref&gt;{{Harvnb|小川|1939|p=185}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また[[赤羽目匡由]]は、「渤海王が高句麗を継承した国の王である事実を、『高麗国王』自称から読み取るのは、白鳥氏が王族及び支配階級が高句麗人であった事実を読み取るのと同様に、決め手に欠く。政治的意図で『高麗国王』を自称したとみることも十分に可能だからである」と指摘している&lt;ref&gt;{{Harvnb|赤羽目|2011|p=208}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;三上次男<br /> [[三上次男]]は、戦後間もない頃には「純乎たる満州王朝」「渤海の王族大氏の出自には二説があり、池内([[池内宏]])博士は靺鞨族とせられ、白鳥([[白鳥庫吉]])博士は高句麗人とせられた。鳥山([[鳥山喜一]])教授は両博士の説の長所をとられ、大氏は純粋の高句麗人でないにしても、恐らく父祖以来高句麗に帰附してその教養の中に生長した靺鞨族の出身者でなからうかと推測されている。姑く鳥山教授の説に賛したい&lt;ref&gt;{{Cite news|author=[[三上次男]]|date=1941-11|title=金室完顔部氏の始祖説話について|series=|publisher=[[史学雑誌]]第五十二編 第十一号|url=|accessdate=|page=1286}}&lt;/ref&gt;」としていたが、瓦や仏像等の考古の分析から、次第に渤海と高句麗との共通性を主張するようになり&lt;ref&gt;{{Harvnb|酒寄|2001|p=19}}&lt;/ref&gt;、727年に日本に使者を送った大武芸の国書に「武芸は忝いことには多くの国をつかさどり、また身にあまることですが諸藩をすべました。そうして高句麗の旧土を復興し、夫余の遺俗のある国を建てました」とあることと、759年の大欽茂の使のたずさえた国書に「高麗王大欽茂」とあることを根拠にして、「渤海国の建国に至るまでの歴史的経緯や建国者の大祚栄がが高句麗人と考えられていたこと&lt;ref&gt;{{Harvnb|三上|1990|p=120}}&lt;/ref&gt;」「この文辞のなかには、明瞭に渤海は高句麗の後継国であるという意がふくまれている&lt;ref&gt;{{Harvnb|三上|1990|p=120}}&lt;/ref&gt;」「初期の渤海国王が、建国の目的を高句麗の復興にあるようにいい、あるいは渤海国王みずからが『高麗王』を称したのは、決してたんなるわが国に対する外交上の措置にとどまるものではなく、高句麗の後継者としての現実的な意識にもとづいてのこと&lt;ref&gt;{{Harvnb|三上|1990|p=121}}&lt;/ref&gt;」「当時のわが国が、渤海の使者を『高麗使』とよび(そのころ、渤海国という呼び名が通用していたにもかかわらず)、あるいは七六一年渤海国に遣された使者を『遣高麗使』と称したのは、わが国でも高句麗の継承国としての渤海の地位を認めていたからであろう&lt;ref&gt;{{Harvnb|三上|1990|p=121}}&lt;/ref&gt;」「渤海国の王族が高句麗の後継者としての意識を持っていたことは、前節に述べたところによって明らかになったであろう&lt;ref&gt;{{Harvnb|三上|1990|p=121}}&lt;/ref&gt;」と述べている。<br /> <br /> ;松井等<br /> [[松井等]]は、「渤海の始祖大祚栄は高句麗人なりき&lt;ref&gt;{{Cite news|author=[[松井等]]|date=|title=渤海国の疆域|series=|publisher=満洲歴史地理第一巻|url=|accessdate=|page=}}&lt;/ref&gt;」と述べているが、理由や根拠は触れていない&lt;ref&gt;{{Harvnb|鳥山|1968|p=25}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;上田雄<br /> [[上田雄]]は、共同研究者の[[孫栄健]]の「大祚栄の出自について」の見解である「従来は靺鞨を一つの民族的な呼称として捉えていたが、これは民族名というよりも、中国から見た、その東北部一帯に居住する者全体を呼ぶ呼称であって、実際にはいくつかの民族に分かれており、だからこそ、その居住地や特性を冠して、黒水靺鞨とか粟末靺鞨とかいう名を与えていたのである。そして同じ靺鞨という名で呼ばれている部族の中には大きく分けて狩猟民族系と農業民族系とがあり、前者はツングース系の狩猟民族(例・黒水靺鞨)、後者は夫余・高句麗系の農耕民族で、これが粟末靺鞨と呼ばれた存在であり、渤海の支配者層を形成していた」「靺鞨人というのは、中国から見て東北方の地域に割拠する非常に廣い範囲の住民を指す総称で、その中にはいろいろな民族が包括されているので、靺鞨族という特定の民族は存在しない。そして大祚栄の出自とされる粟末靺鞨は高句麗を構成していた同族である昔の夫余人であるから、大祚栄は高句麗別種の粟末靺鞨人、すなわち夫余系の朝鮮族である」という考えを紹介して&lt;ref&gt;{{Harvnb|上田|2001|p=51-52}}&lt;/ref&gt;、大祚栄は高句麗別種の粟末靺鞨人、夫余系の朝鮮族であるということが理解できるのではないか、渤海王は夫余系高句麗人(高麗別種)の家系だったのである、と述べており、この地域に高句麗系民族による国家である渤海が成立したことにより、支配者層は夫余・高句麗系がほぼ独占したが、「版図内には支配者層の高句麗系民族に数倍するツングース系の狩猟民族の、いわゆる靺鞨族が存在したため、高句麗族が靺鞨族を支配して建てた国である、と見られたのはもっともなこと」であり、渤海の民族構成は「夫余・高句麗系の農業系民族と、ツングース系の狩猟系民族とに大別され、人口的には後者の方が多かったと推定されるのである」と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|上田|2001|p=121-125}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === その他支持者(契丹説、不明説) ===<br /> : &lt;!--&#039;&#039;ここにはその他の支持者の意見を書いてください。&#039;&#039;--&gt;<br /> <br /> ;鳥山喜一<br /> [[鳥山喜一]]は、『旧唐書』には大祚栄の父とされる乞乞仲象の名前は出てこないこと、乞乞仲象は[[胡|胡名]]であるが、大祚栄は漢名であることなどを理由に乞乞仲象と大祚栄は父子関係にないそれぞれ別個の存在という立場であり、乞乞仲象の舎利は『[[遼史]]』巻一一六国語解から、契丹族において、権威的な頭飾を欲した民が、牛駝十頭・馬百疋を納める代償として得られた官称であることが分かり、乞乞仲象は「恐らく契丹系の豪民で、舎利として優越な地位を有していたものであったと見られないか。それが契丹の乱に乗じて起こったので特に人種別をいわず、乞四比羽をいうのに、靺鞨と註することとしたのであろう」として、乞乞仲象は契丹人であるが、大祚栄は白山靺鞨であり、高句麗に隷属し、漢名の大氏を名乗る家系に属していた、と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|鳥山|1968|p=31-32}}&lt;/ref&gt;。これについて[[森安孝夫]]は、「舎利を契丹の官職名とみなして大舎利乞乞仲象を契丹人となし、これと大祚栄をまったくの別人と考える説には賛成できない」と述べており&lt;ref&gt;{{Harvnb|森安|1982|p=73}}&lt;/ref&gt;、その理由を「中国史料には靺鞨にも舎利なる語を含む官名の存在を示すものがあるし、また渤海の建国に、異民族である契丹人が指導的な役割を果たしたとは、この場合は考えにくい」として、「大舎利乞乞仲象と大祚栄とはおそらくは父子であり、(中略)父の方が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が知られていない称号をもっている点を考え合わせると、やはり、高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当」と述べている&lt;ref&gt;{{Harvnb|森安|1982|p=73}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> {{quotation|{{lang|zh-Hant|萬歳通天中,契丹盡忠殺営州都督趙文翽反,有舎利乞乞仲象者,與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走,度遼水,保太白山之東北,阻奥婁河,樹壁自固&lt;ref&gt;{{Wikisourcelang|zh|新唐書/卷219#渤海}}&lt;/ref&gt;。」(『[[新唐書]]』渤海伝)&lt;br /&gt;<br /> 〈万歳通天(六九六)年間に、契丹の(李)尽忠は営州都督の趙文翽に反逆して彼を殺した。(この乱に乗じた)舎利の乞乞仲象は、靺鞨の酋長の乞四比羽や高(句)麗の遺民たちとともに東に移り、遼水(遼河)を渡って、太白山(長白山)の東北を確保した。この地は奥婁河(牡丹江)に遮られ、壁を築き、守りをしっかり固めていた&lt;ref name=&quot;井上&quot;/&gt;。〉}}}}<br /> <br /> ;井上秀雄<br /> [[井上秀雄]]は、『[[新唐書]]』渤海伝に、乞乞仲象は舎利という[[官職]]を保有していたと記されており、かかる事実から「舎利は『五代会要』巻三十渤海上に『有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也』とあるので、官名であることがわかる。また『遼史』巻一一六国語解は『契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利。』と記し、舎利とは、権力の誇示ができる頭巾を欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られた官名であったことがわかる。したがって乞乞仲象は、契丹系の豪族であったといえるだろう」と述べている&lt;ref name=&quot;井上&quot;&gt;{{Cite book|和書|author=[[井上秀雄]]|authorlink=|date=1976-01|title=東アジア民族史 2-正史東夷伝|series=[[東洋文庫]]283|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582802832|page=426|url=}}&lt;/ref&gt;。しかし契丹説については批判的見解がある(上述)。<br /> <br /> ;鈴木靖民<br /> [[鈴木靖民]]は、「粟末靺鞨の首長の乞乞仲象が、六六八年に滅んだ高句麗の遺民たちとともに、六九六年、遼東半島営州で起こった、契丹人で松漠都督の李尽忠・帰誠刺史の孫万栄たちの反乱に乗じて東走し、則天武后の配下の唐軍を撃退して、六九八年、吉林省敦化市に政権を立てて、振国(震国)と称した。その根拠地はと東牟山といい、のち『旧国』とも呼ばれたが、粟末の居住地であり、多分、乞乞仲象の出身地であったであろう&lt;ref&gt;{{Harvnb|月刊しにか|1998|p=13}}&lt;/ref&gt;」「彼(大祚栄)は乞乞仲象と同一人とも、子とも、あるいは契丹系とも考えられ、出自が明らかでない&lt;ref&gt;{{Harvnb|月刊しにか|1998|p=14}}&lt;/ref&gt;」「大祚栄は、もと高麗(高句麗)の別種とされ(『旧唐書』渤海伝)、あるいは粟末靺鞨の高麗に属したものといわれ(『新唐書』渤海伝)、これが渤海は靺鞨人の国か否かの属族問題の議論のもととなっている。両書の伝えるところから、彼は靺鞨人であっても、彼、ないしその政権が高句麗に深い関係を有していたとみなされたことは疑いない&lt;ref&gt;{{Harvnb|月刊しにか|1998|p=14}}&lt;/ref&gt;」と述べている。<br /> <br /> ;古畑徹<br /> [[古畑徹]]は、「最大公約数を取り、高句麗遺民で、出自は高句麗人か粟末靺鞨人かは不明、という理解に留めておきたい。そもそも王家の種族系統など、その国家の種族系統とは無関係で、これを争うこと自体ナンセンスである&lt;ref&gt;{{Harvnb|古畑|2017|p=32}}&lt;/ref&gt;」「高句麗系であろうか、靺鞨系であろうか。あるいは朝鮮民族につながる国家であろうか、それとも漢族や満族などの中国の諸民族につながる国家であろうか。私はこのどれでもなく、またどれでもあると考える。渤海が複数の種族によって構成された多種族国家であることは、いうまでもない&lt;ref&gt;{{Harvnb|古畑|2017|p=34}}&lt;/ref&gt;」「どの種族も渤海史という舞台の上で主役を務めたのであり、そうした主役たちがそれぞれのあり方のもとに活動する多種族国家として渤海を捉えるべき&lt;ref&gt;{{Harvnb|古畑|2017|p=34}}&lt;/ref&gt;」と述べている。<br /> <br /> == 渤海史主要年表 ==<br /> * [[668年]] [[唐の高句麗出兵|唐により高句麗が滅亡]]、[[平壌]]に&#039;&#039;&#039;[[安東都護府]]&#039;&#039;&#039;を設置。[[高句麗]]遺民は[[満州|満洲]]の営州に強制連行される。<br /> * [[671年]] [[唐・新羅戦争]]始まる<br /> * [[697年]] [[契丹]]・李尽忠の乱。[[靺鞨]]の[[乞乞仲象]]、[[乞四比羽]]らが東走。[[唐]]、安東都護府を廃止。<br /> * [[698年]] [[大祚栄]]、&#039;&#039;&#039;震国&#039;&#039;&#039;建国<br /> * [[705年]] [[大門芸]]が唐に入侍。唐による[[侍御史]]を震国に派遣。安東都護府復活。<br /> * [[713年]] 唐、大祚栄に渤海郡王に冊封<br /> * [[719年]] 大祚栄死去。[[大武芸]]即位<br /> * [[721年]] [[新羅]]による東北国境での長城建設<br /> * [[722年]] [[黒水靺鞨]]が渤海領を通過して唐に遣使<br /> * [[725年]] 唐により黒水靺鞨に&#039;&#039;&#039;黒水府&#039;&#039;&#039;が設置される<br /> * [[726年]] 大武芸の弟・大門芸、唐に亡命<br /> * [[727年]] 渤海、高仁義らを[[日本]]に派遣。[[蝦夷地]]に漂着したため高仁義等多数が殺害され、残った者が高斉徳に率いられ入京<br /> * [[728年]] 日本、[[遣渤海使|送渤海使]]を派遣<br /> * [[732年]] 渤海の将・張文休、水軍を率いて山東の蓬莱港を占領<br /> * [[733年]] 唐、大門芸に命じて渤海を攻撃させるが、大雪のため失敗<br /> * [[738年]] 大武芸卒、[[大欽茂]]即位<br /> * [[739年]] 遣唐判官・[[平群広成]]、[[渤海使]]とともに帰国<br /> * [[746年]] [[渤海人]]及び鉄利人1100人出羽国に漂着<br /> * [[749年]] この頃、旧国より[[中京顕徳府]]に遷都<br /> * [[755年]] この頃、中京顕徳府から[[上京龍泉府]]に遷都<br /> * [[762年]] 唐により大欽茂を渤海国王に冊封<br /> * [[774年]] [[大興 (渤海)|大興]]から[[宝暦 (渤海)|宝暦]]に改元<br /> * [[777年]] 日本の舞女11人を唐に献上<br /> * [[779年]] 渤海人通事、日本の朝廷で鉄利人と席を争う<br /> * [[785年]] 上京龍泉府から[[東京龍原府]]に遷都<br /> * [[790年]] 新羅、伯魚を渤海に派遣<br /> * [[793年]] 大欽茂卒。弟・[[大元義]]が即位するが廃位され、嫡孫が即位。都を東京龍原府から上京龍泉府に戻す。<br /> * [[798年]] 唐により[[大嵩リン|大嵩璘]]を渤海国王に冊封<br /> * [[809年]] 唐により[[大元瑜]]を渤海国王に冊封<br /> * [[810年]] 日本からの最後の第15次[[遣渤海使]]<br /> * [[812年]] 新羅が崇正を派遣<br /> * [[813年]] 唐により[[大言義]]を渤海国王に冊封<br /> * [[818年]] 唐により[[大仁秀]]を渤海国王に冊封<br /> * [[821年]] 王文矩を日本に派遣<br /> * [[826年]] 新羅、渤海との国境に長城を築く<br /> * [[830年]] 大仁秀卒、[[大彝震]]が即位。[[咸和 (渤海)|咸和]]と改元。<br /> * [[833年]] 賀守謙を[[幽州]]盧龍節度使に派遣。唐により張建章の渤海遣使。<br /> * [[853年]] 張建章が幽州に戻り『渤海記』を著す<br /> * [[860年]] 李居正を日本に派遣<br /> * [[906年]] 宰相の烏炤度を唐に遣使。その子の光賛、賓貢に及第。<br /> * [[907年]] 唐滅亡。<br /> * [[911年]] 大光賛を[[後梁]]に派遣<br /> * [[918年]] [[遼]]に使節を派遣<br /> * [[919年]] 最後の渤海使を日本に派遣<br /> * [[924年]] 渤海軍、契丹軍占領中の遼東に反攻<br /> * [[925年]] 契丹軍、渤海の扶余府に侵攻。礼部卿の大和釣ら100戸を率いて高麗に投ず<br /> * [[926年]] 契丹軍、上京龍泉府を攻略。渤海滅亡。契丹、渤海故地に[[東丹国]]設置。<br /> * [[928年]] 東丹国、遼陽に遷都<br /> * [[929年]] 東丹国使、来日<br /> * [[930年]] 日本との通交が絶える。以降、東丹国が史料から消滅。<br /> <br /> == 渤海王 ==<br /> [[ファイル:Bokkai.png|350px|thumb|渤海王系図]]<br /> {{main|渤海王の一覧}}<br /> <br /> == 渤海国の継承国家 ==<br /> *皇帝を称したもの<br /> **[[興遼]] 1029年 - 1030年<br /> **[[大渤海]](大元)1116年<br /> *王を称したもの<br /> **後渤海<br /> ***渤海([[後渤海|復興]])928年 - 976年<br /> ***渤海([[大光顕]]の勢力)930年 - 934年<br /> ***渤海([[渤海 (再興)|再興]])989年 - 1018年<br /> **[[定安]] 938年 - 1003年<br /> **[[兀惹]](烏舎城渤海)981年 - 996年以後<br /> *その他、渤海遺民によるもの<br /> **[[大鸞河]]の勢力 979年 - 984年<br /> *[[契丹]]によって渤海の故地に設置されたもの<br /> **[[東丹国|東丹]] 926年 - 930年<br /> *渤海国の王室である大氏の後裔を自称したもの(したがって、これらは民族として繋がっているという意味ではない)<br /> **[[金 (王朝)|金]] 1115年 - 1234年<br /> <br /> == 渤海の元号 ==<br /> &lt;!--*[[天統 (渤海)|天統]][[698年]]-[[719年]]--&gt;<br /> *[[仁安 (渤海)|仁安]] : [[720年]]-[[738年]]<br /> *[[大興 (渤海)|大興]] : 738年-[[794年]]<br /> *[[宝暦 (渤海)|宝暦]] : [[774年]]-?年(大興の一時期を改元使用)<br /> *[[中興 (渤海)|中興]] : 794年<br /> *[[正暦 (渤海)|正暦]] : [[795年]]-[[809年]]<br /> *[[永徳 (渤海)|永徳]] : 809年-[[813年]]<br /> *[[朱雀 (渤海)|朱雀]] : 813年-[[817年]]<br /> *[[太始 (渤海)|太始]] : [[818年]]<br /> *[[建興 (渤海)|建興]] : [[819年]]-[[831年]]<br /> *[[咸和 (渤海)|咸和]] : 831年-[[857年]]<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|3}}<br /> <br /> == 注釈 ==<br /> {{notelist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * {{Cite book|和書|author=[[石井正敏]]|date=2001|title=日本渤海関係史の研究|publisher=[[吉川弘文館]]|url=|ref={{Harvid|石井|2001}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[鳥山喜一]]|date=1968|title=渤海史上の諸問題|publisher=[[風間書房]]|url=|ref={{Harvid|鳥山|1968}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[上田雄]]|date=2004|title=渤海国|series=講談社学術文庫|publisher=[[講談社]]|url=|ref={{Harvid|上田|2004}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[上田雄]]|authorlink=|date=2001-12|title=渤海使の研究|series=|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-475031507|ref={{Harvid|上田|2001}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[朱栄憲]]ほか|date=1979|title=渤海文化|series=|publisher=[[雄山閣出版]]|url=|ref={{Harvid|朱|1979}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[関口明]]|date=1995|title=渡嶋蝦夷と粛慎・渤海 日本古代の伝承と東アジア|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|url=|ref={{Harvid|関口|1955}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[津田左右吉]]|date=1939|title=渤海史考|series=|publisher=[[商務印書館]]|url=|ref={{Harvid|津田|1939}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[浜田耕策]]|date=2000|title=渤海国興亡史|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|url=|ref={{Harvid|浜田|2000}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[三上次男]]|date=1990|title=高句麗と渤海|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|url=|ref={{Harvid|三上|1990}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[森公章]]|date=1990|title=「白村江」以後|series=|publisher=[[講談社]]|url=|ref={{Harvid|森|1998}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[吉田孝]]|date=1997|title=日本の誕生|series=|publisher=[[岩波書店]]|url=|ref={{Harvid|吉田|1997}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[高凱軍]]|date=2006|title=通古斯族系的興起|series=|publisher=[[中華書局]]|url=|ref={{Harvid|吉田|2006}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=朱国忱・魏国忠(訳:[[佐伯有清]]・[[浜田耕策]])|date=1996|title=渤海史|series=|publisher=[[東方書店]]|url=|ref={{Harvid|朱・魏|1996}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[森安孝夫]]|date=1982|title=渤海から契丹へ|series=東アジア世界における日本古代史講座7|publisher=[[学生社]]|url=|ref={{Harvid|森安|1982}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[森田悌]]|date=1993|title=渤海の首領について|series=弘前大学國史研究94号|publisher=[[弘前大学國史研究会]]|url=http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3100/1/HirodaiKokushi_94_1.pdf pdf|ref={{Harvid|森田|1993}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[鈴木靖民]]・[[金子修一]]・[[石見清裕]]・[[浜田久美子]]編【執筆者】[[赤羽目匡由]]・伊藤さやか・河辺隆宏・河野保博・窪田藍・河内春人・近藤剛・澤本光弘・鄭淳一・鄭東俊・中野高行・[[廣瀬憲雄]]・堀井佳代子・皆川雅樹・村上史郎|date=2014|title=訳註 日本古代の外交文書|series=|publisher=[[八木書店]]|url=http://www.books-yagi.co.jp/pub/cgi-bin/newbooks.cgi?cmd=d&amp;kn=20&amp;ks=978-4-8406-2601-9f|ref={{Harvid|鈴木|2014}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[姜成山]]|date=2014|title=渤海王国の社会と国家|publisher=桜美林大学大学院 国際学研究科|url=https://www.obirin.ac.jp/postgraduate/graduate_course/international_studies/thesis/dissertation/7fl2960000079aa5-att/2014s_jiang_3.pdf|<br /> ref={{Harvid|姜成山|2014}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[李成市]]|authorlink=|date=1998-03-25|title=古代東アジアの民族と国家|series=|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000029032||ref={{Harvid|李|1998}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=|authorlink=|date=1998-09|title=特集 渤海国|series=月刊しにか|publisher=[[大修館書店]]|isbn=||ref={{Harvid|月刊しにか|1998}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[酒寄雅志]]|authorlink=|date=2001-03|title=渤海と古代の日本|series=|publisher=[[校倉書房]]|isbn=978-4751731703|page=16|url=|ref={{Harvid|酒寄|2001}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[新妻利久]]|authorlink=|date=1969|title=渤渤海国史及び日本との国交史の研究|series=|publisher=[[東京電気大学出版局]]|ASIN=B000J9GXE|ref={{Harvid|新妻|1969}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[赤羽目匡由]]|authorlink=|date=2011|title=渤海王国の政治と社会|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|ASIN=|ref={{Harvid|赤羽目|2011}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[古畑徹]]|authorlink=|date=2017-12|title=渤海国とは何か|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642058582|ref={{Harvid|古畑|2017}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[和田清]]|authorlink=|date=1954-03|title=渤海国地理考|series=東洋学報36|publisher=[[東洋文庫]]|isbn=|ref={{Harvid|和田|1954}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[藤井一二]]|authorlink=|date=2010-04|title=天平の渤海交流|series=塙選書110|publisher=[[塙書房]]|isbn=|ref={{Harvid|藤井|2010}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[稲葉岩吉]]|authorlink=|date=1936-02|title=金靜庵氏著渤海國志長篇を讀みて|series=青丘学叢23|publisher=[[大阪屋号書店]]|isbn=|ref={{Harvid|稲葉|1936}}}}<br /> * {{Cite book|和書|author=[[小川裕人]]|authorlink=|date=1939-01|title=所謂渤海靺鞨に就いて|series=史学雑誌|publisher=[[史学会]]|isbn=|ref={{Harvid|小川|1939}}}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Colbegin}}<br /> * [[クラスキノ土城]]<br /> * [[城山子山城]]<br /> * [[大祚榮 (テレビドラマ)]]<br /> * [[日羅関係]]<br /> * [[日朝関係史]]<br /> * [[渤海国論争]]<br /> * [[満州族]]<br /> {{Colend}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commons|Category:ButHoi|渤海 (国)}}<br /> <br /> === 日本語 ===<br /> *[http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kairou/ 青の回廊~環日本海交流と加賀・能登のルーツ~] - 石川新情報書府<br /> <br /> ==== 日本で作成された漢籍 ====<br /> *[http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/dainihonsi/dns238.htm#01 大日本史 諸蕃列傳 渤海上][http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/dainihonsi/dns239.htm#01 渤海下](漢文)<br /> <br /> === 中国語 ===<br /> *[http://www.hlj.xinhuanet.com/ljtj/2005-05/08/content_4186575.htm 追憶海東盛國](中国語)<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ほつかい}}<br /> [[Category:渤海国|*]]<br /> [[Category:ツングース]]</div> 65.99.80.122 FNNスーパーニュースアンカー 2018-06-22T11:50:10Z <p>65.99.80.122: </p> <hr /> <div>{{基礎情報 テレビ番組<br /> |番組名 = FNNスーパーニュースアンカー<br /> |画像 =<br /> |画像説明 =<br /> |ジャンル = [[帯番組]] / [[報道番組]]<br /> |放送時間 = 平日 16:48 - 19:00<br /> |放送分 = 132<br /> |放送枠 =<br /> |放送期間 = [[2006年]][[4月3日]] - [[2015年]][[3月27日]]<br /> |放送回数 =<br /> |放送国 = {{JPN}}<br /> |制作局 = [[関西テレビ放送|関西テレビ]]<br /> |企画 =<br /> |製作総指揮 =<br /> |監督 =<br /> |演出 =<br /> |原作 =<br /> |脚本 =<br /> |プロデューサー = 中村隆郎&lt;ref&gt;[http://moritasouken.com/sC2891.HTML 森田実の言わねばならぬ 平和・自立・調和の日本をつくるために【324】]&lt;/ref&gt;<br /> |出演者 = [[岡安譲]]&lt;br /&gt;[[村西利恵]]&lt;br /&gt;[[林弘典]]&lt;br /&gt;[[坂元龍斗]]&lt;br /&gt;[[堀田篤]]&lt;br /&gt;[[吉原功兼]]&lt;br/&gt;[[山本悠美子]]&lt;br /&gt;[[関純子]]&lt;br/&gt;ほか [[#出演者|出演者]]欄を参照<br /> |音声 = [[ステレオ放送]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2011年8月1日より実施。それ以前は[[モノラル放送]]またはモノステレオ放送を実施した。&lt;/ref&gt;<br /> |字幕 =<br /> |データ放送 = 実施<br /> |OPテーマ = [[柏木広樹]]&lt;br /&gt;「PRECIOUS TIME」<br /> |EDテーマ = 同上<br /> |外部リンク = http://www.ktv.co.jp/anchor/<br /> |外部リンク名 = 番組公式Webサイト<br /> |番組名1 = 放送開始から2007年9月まで<br /> |放送時間1 = 平日 16:55 - 19:00<br /> |放送分1 = 125<br /> |放送枠1 =<br /> |放送期間1 = [[2006年]][[4月3日]] - [[2007年]][[9月28日]]<br /> |放送回数1 =<br /> |番組名2 = 2007年10月から2011年3月まで<br /> |放送時間2 = 平日 16:53 - 19:00<br /> |放送分2 = 127<br /> |放送枠2 =<br /> |放送期間2 = [[2007年]][[10月1日]] - [[2011年]][[3月10日]]<br /> |放送回数2 =<br /> |番組名3 = 2011年4月から番組終了まで<br /> |放送時間3 = 平日 16:48 - 19:00<br /> |放送分3 = 132<br /> |放送枠3 =<br /> |放送期間3 = [[2011年]][[4月4日]] - [[2015年]][[3月27日]]<br /> |放送回数3 =<br /> |特記事項 =<br /> }}<br /> 『&#039;&#039;&#039;FNNスーパーニュースアンカー&#039;&#039;&#039;』(エフエヌエヌ スーパーニュース アンカー、[[英語|英称]]:&#039;&#039;FNN SUPER NEWS ANCHOR&#039;&#039;)は、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]で[[2006年]][[4月3日]]から[[2015年]][[3月27日]]まで放送されていた[[平日]][[夕|夕方]]の[[報道番組|ニュース番組]]である。<br /> <br /> 本番組の週末版の関西ローカル枠についても触れる。{{Main2|番組全体|FNNスーパーニュースWEEKEND}}<br /> <br /> == 番組概要 ==<br /> 関西テレビは、2005年4月に平日夕方枠の報道番組の編成で『[[FNNスーパーニュースほっとKANSAI]]』の17時台において、[[キー局]]である[[フジテレビジョン|フジテレビ]]から『[[FNNスーパーニュース]]』の17時台を同時ネット形式で内包させて放送していた。<br /> しかし、視聴率争いにおいて他局と比較し平均視聴率が2~3%前後とかなりの苦戦を強いられたため、前の放送時間枠に放送されていた[[ワイドショー|情報番組]]の『[[2時ワクッ!]]』を終了させ、ニュース番組と情報番組を統合する事で、当番組を関西ローカル枠として17時台(第1部)・18時台(第2部)の2部構成に変更することを前提に、2006年2月13日番組開始を発表&lt;ref&gt;[http://web.archive.org/web/20070811225832/http://www.sponichi.co.jp/osaka/ente/200602/14/ente190202.html 関テレ・山本アナ「2時間NEWS」でキャスター復帰 スポーツニッポン 2006年2月14日付(アーカイブデータ)]&lt;/ref&gt;。4月3日、アンカーの放送を開始した。新聞のテレビ欄では「[N]アンカー」と表記されていた。<br /> また、番組は開始時は4:3のサイドカットだったが、2007年以降はハイビジョン制作。 地上波デジタル放送では、関西地方における完全移行(2011年7月24日)の前から、番組に連動したニュース・情報を第2部にのみデータ放送で配信している。<br /> 2015年3月17日放送分にて、番組が2015年3月27日をもって終了することを正式に発表し、後番組として情報番組『[[みんなのニュース ワンダー|ゆうがたLIVE ワンダー]]』を開始&lt;ref&gt;{{Cite web |date = |url = http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1447602.html |title = 槙原敬之が視聴率低迷の関テレ「社歌」を作詞・作曲 |publisher = 日刊スポーツ |accessdate = 2015-3-16}}&lt;/ref&gt;した。<br /> <br /> === 視聴率 ===<br /> 番組開始後の2006年4月は4~8%台にて推移していたが、7月に入って10.6%を計上する日があった&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2006-7-29 |url = https://web.archive.org/web/20061027140625/http://www.sankei-kansai.com/03_kikaku/tv/tv02.htm |title = ■特集・企画 / 夕方にかける 関西情報番組夏の陣 <中>関テレ、独自取材ニュース中心 毎日は4時間枠で再攻勢 |publisher = 産経新聞(関西版) |accessdate = 2016-1-20}}&lt;/ref&gt;。しかし、[[裏番組]]の[[テコ入れ#テレビ|テコ入れ]]後の『[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]』([[MBSテレビ|毎日放送]])、2009年に『[[かんさい情報ネットten.]]』([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])がスタート以降、2010年は何とか持ちこたえていた&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2010年12月1日の視聴率12~13%、占拠率が32%弱だった。尚、同日の「ちちんぷいぷい」は7%強だった。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite press release |title = 平成22年 新春社長記者会見 |publisher = 関西テレビ |date = 2010-1-28 |url = http://www.ktv.jp/info/press/100128.html |accessdate = 2016-1-21}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{cite video |people = |date = 2010-12-27 |title = 関西テレビ、スーパーニュースアンカー水曜日を語る。 |url = http://aoyamashigeharu.tv/ct83.html |format= |medium = インターネット動画 |language = 日本語 |publisher = 株式会社独立総合研究所 |location = |archiveurl = |archivedat e= |accessdate = 2016-1-21 |time = |id= |isbn= |oclc= |quote= |ref= }}&lt;/ref&gt;が、徐々に視聴率争いで後塵を拝して行った&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2014年6月25日、8月6日放送分の青山のコーナーにて「[[慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話|河野談話]]」(6月25日)、「[[朝日新聞#慰安婦「強制連行」報道|朝日新聞 慰安婦記事取消し]]」(8月6日)の解説を行ったが、青山への反響が非常に大きかったのに、番組の時間帯視聴率が低い事に対し嘆いていた。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2014-6-27 |url = http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/1428141fb10584bef65fb4dec079bc2c |title = もはや |publisher = 青山繁晴個人ブログ |accessdate = 2016-1-21}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2014-8-9 |url = http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/6d7596ca7db2f0f2609ae1d21d93fce0 |title = まさかの無関心が予言する、マスメディアの未来 |publisher = 青山繁晴個人ブログ |accessdate = 2016-1-21}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 番組の歴史 ==<br /> === 番組誕生から(2006年4月 - 2012年9月) ===<br /> * 2006年4月3日に番組がスタート。番組の顔となる[[アンカーマン]]は、関西テレビアナウンサーの山本を起用。コメンテーターは山本が出演していた『2時ワクッ!』のコメンテーターが多数を占めた。(住田、青山、室井、金村、玉岡)<br /> * 番組内容は、第1部は一部全国ニュースである、政治・経済・社会、地元関西以外重要なニュース・生活問題など最新のニュースやプロ野球(主に在阪球団)の話題も取り上げる。キャスターと各曜日のコメンテーター&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;第1部のみコメンテーターが出演し、コメンテーターの顔触れは放送期間によって異なる。&lt;/ref&gt;が議論したり、キャスターが長期取材の成果を報告したりすることも多かった&lt;ref&gt;{{Cite web |date = 2006-7-29 |url = https://web.archive.org/web/20061027140625/http://www.sankei-kansai.com/03_kikaku/tv/tv02.htm |title = ■特集・企画 / 夕方にかける 関西情報番組夏の陣 <中>関テレ、独自取材ニュース中心 毎日は4時間枠で再攻勢 |publisher = 産経新聞(関西版) |accessdate = 2016-1-20}}&lt;/ref&gt;。当初は芸能情報も伝えていたが、2009年以降は廃止された&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;廃止以後、2009年4月から関西テレビの平日午後のワイドショー枠が復活し『[[あっぷ&amp;UP!|アップ&amp;UP!]]』が開始された&lt;/ref&gt;。第2部は、前身の『ほっとKANSAI』からほぼ変わらず、関西地方のローカルニュース・スポーツニュース・天気予報で構成されていた。<br /> * 2007年10月1日にコメンテーターが月曜:奥野、火曜:国定に変更、金曜:岩上が降板し、森田が新たに加入。<br /> * 2008年7月に裏番組であった、『[[ムーブ!]]』([[ABCテレビ|朝日放送]])に出演していた宮崎が加入した。『2時ワクッ!』と同曜日と同様、山本・宮崎・金村が並ぶラインナップになった。<br /> * 2009年4月1日、玉岡が金曜 → 木曜 → 月曜と担当曜日変更になった。以降、同じ日に出演するコメンテーターが原則として2名に制限。また、水曜日のみレギュラーコメンテーターが、青山だけになった&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2012年10月のリニューアル以後月曜の須田、当時準レギュラーの有本が1人で務めた放送回もあり。&lt;/ref&gt;。<br /> * 2012年2月13日から約1ヶ月間、山本が取材を目的に[[東日本大震災]]被災地域である、[[福島県]]・[[宮城県]]・[[岩手県]]内のへ連日滞在。山本は、当番組のスタジオへ出演しない代わりに、17時台の特別企画「雨ニモマケズをさがして -山本浩之 被災地を歩く-」にのみ取材先からの生中継で登場している。その関係で、同日から震災発生1周年直前(3月9日=金曜日)の放送までは、サブキャスターの豊田と岡安が担当曜日を変えずにアンカーマン代理を務めた。<br /> <br /> === 番組リニューアル(2012年10月 - 2013年9月) ===<br /> * 2012年10月1日放送分より大幅リニューアルを実施。番組開始以来初めてスタジオセット、テロップ、テーマソングを一新した。レギュラーコメンテーターのうち、月曜日にはこれまで不定期で出演していた須田、火曜日には鈴木へ変更した。&lt;br /&gt;また、山本がリニューアルの番組宣伝のため、関西テレビ社屋をバックに山本の頭を光らせた「関西の夕方がもっと輝きだす。」ポスター、[[泉佐野市]]の[[犬鳴山 (大阪府)|犬鳴山]]「行者の滝」にて[[滝行]]に挑戦したCMを作成&lt;ref&gt;[http://dogatch.jp/news/etc/11036 関西テレビの顔『スーパーニュースアンカー』イメージCM完成!山本浩之アナが苦行!?]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.hontele.com/120927/#/page4/ ホンテーレ201号(2012年9月27日発行)P4、5]&lt;/ref&gt;。<br /> * 2013年3月31日付で山本は関西テレビを退社し、[[フリーアナウンサー]]に転身。しかし、当番組では引き続きアンカーマンを継続&lt;ref&gt;[http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2021849/full/ 関テレ・山本浩之アナが3月末退職 フリー転身後も『スーパーニュースアンカー』は継続](『[[オリコン|ORICON STYLE]]』2013年2月20日付記事)&lt;/ref&gt;。<br /> * 2013年7月23日、山本が1年契約の半年を残して、「世代交代」などを理由に番組を降板する事を発表。後継アンカーマンとして岡安が就任する事が発表された&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130723/wlf13072317170011-n1.htm ヤマヒロ「アンカー」9月で卒業 ABC、MBSのラジオ局争奪戦決着!?(産経WEST 2012年7月23日)]&lt;/ref&gt; &lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;その後、12月27日にアンカーの裏番組である『[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]』([[MBSテレビ|毎日放送]])の新司会者への起用が発表となる&lt;/ref&gt;。&lt;br /&gt;なお、山本の出演最終週の2013年9月23日~27日には、東日本大震災および[[阪神・淡路大震災]]の被災地を再び取材した成果を「山本浩之 伝え切れない被災地 - 雨ニモマケズをさがして 2013 -」として連日放送した&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/info/press/130920.html プレスリリース:山本浩之 伝え切れない被災地 -雨ニモマケズをさがして 2013-]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === アンカーマン交代(2013年10月 - 2014年12月) ===<br /> * 2013年9月30日からは、番組開始当初からのサブキャスターを務めてきた岡安が、メインキャスターに昇格&lt;ref&gt;[http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/07/23/0006184695.shtml 山本浩之アナ 報道番組を9月に卒業](『[[デイリースポーツ]]』[[2013年]][[7月23日]]付記事)&lt;/ref&gt;。同時に番組テロップもリニューアルされ、キャッチフレーズとして「見やす!、聞きやす!、分かりやす!のおかやす!です」を掲げている&lt;ref&gt;[http://www.yoheishimada.com/news.html フォトグラファー 島田洋平 OfficialWebサイト]&lt;/ref&gt;。また、番組宣伝用CMでは、今までのアンカーの壁を打ち砕き、各曜日のコメンテーターに岡安が挑戦すると演出されている&lt;ref&gt;[http://www.hontele.com/130926/#/page3/ ホンテーレ238号(2013年9月26日発行)P2、3]&lt;/ref&gt;。<br /> * 2014年4月1日放送分より、準レギュラーだった有本が火曜に、火曜に出演していた鈴木と同じ曜日に不定期出演していた中江が金曜のレギュラーコメンテーターへ昇格&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/ktv/ann/cafe/okayasu/140328.html 岡安譲のsweetsのススメ:告知ブログ]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 放送枠再編による番組終了(2015年1月 - 2015年3月) ===<br /> * 2015年1月29日に行われた、新春社長記者会見にて、2015年の春改編で2013年秋から産休に入っていた前の時間枠『[[ハピくるっ!]]』の進行役だった藤本景子が総合司会を務める『ゆうがたLIVE ワンダー』を開始を開始することが発表された&lt;ref&gt;{{Cite news |title= 関テレ藤本景子アナ 産休から4月復帰|newspaper= デイリースポーツ|date= 2015-01-29|author= |url= http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2015/01/29/0007698686.shtml|accessdate=2015-02-10}}&lt;/ref&gt;。それに伴い、岡安と村西が『ワンダー』のニュースパートキャスターの起用と片平が『ワンダー』の気象情報を担当することも発表された&lt;ref&gt;{{Cite web | date=2015-1-29 | url=http://www.oricon.co.jp/news/2047909/full/ | title=関西テレビ藤本アナ、4月より3時間ワイド番組の司会で復帰 | publisher=[[オリコン#.E3.83.9D.E3.83.BC.E3.82.BF.E3.83.AB.E3.82.B5.E3.82.A4.E3.83.88|ORICON STYLE]] | accessdate=2015-1-31}}&lt;/ref&gt;。しかし、会見発表内容で放送時間の拡大や『アンカー』のキャスター継続起用は発表されたが、『アンカー』自体の改題や番組終了等の発表は特にされなかった。&lt;br /&gt;会見発表以後、木曜コメンテーターの宮崎がレギュラー出演している、『ザ・ボイス そこまで言うか!』(ニッポン放送)の2015年2月24日放送分のオープニングトークにて関西テレビの公式発表前に『アンカー』が番組終了する旨を発言。&lt;br /&gt;発言後、同じ『ザ・ボイス』にも出演している青山が宮崎からの着電を受けた事と3月16日に行われる関西テレビ2015年春の改編発表記者会見で情報オープンされる旨を自身のブログエントリーを発信して&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;宮崎は翌週の『ザ・ボイス』2015年3月3日放送分のオープニングトークトークにて番組終了のフライング発言を詫びを行った&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://shiaoyama.com/essay/detail.php?id=41 青山繁晴の道すがらエッセイ/On the road 深く淡く生きる(ふかく・あわく・いきる…これも、自作のささやかな銘のひとつです) 2015-03-17 12:20:03]&lt;/ref&gt;、同年3月17日の自身のブログのエントリーにて見解と1月時点でコメンテーターには番組終了の旨の通知があった事実を改めて発表した&lt;ref&gt;[http://shiaoyama.com/essay/detail.php?id=58 間違いなく、お別れです 青山繁晴の道すがらエッセイ/On the road 深く淡く生きる(ふかく・あわく・いきる…これも、自作のささやかな銘のひとつです) 2015-02-26 01:00:02]&lt;/ref&gt;。また、FNNキー局のフジテレビが『スーパーニュース』の終了に伴い、新たに『[[みんなのニュース]]』の開始を発表。『スーパーニュース』の呼称が付随する番組は3月27日にて終了される事が発表された&lt;ref&gt;{{Cite web | date=2015-2-20 | url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1436656.html | title=フジが夕方ニュース一新 3時間超生放送 | publisher=[[日刊スポーツ]] | accessdate=2015-2-20}}&lt;/ref&gt;。&lt;br /&gt;その後、関西テレビ2015年春の改編発表にて正式に3月27日にて『アンカー』の番組終了が発表され&lt;ref&gt;{{Cite press release |title = 3月30日からスタート! 平日夕方3時間の生放送でおくる『ゆうがたLIVE ワンダー』(月~金 午後3:50~7:00)の会見が行われました。 |publisher = 関西テレビ放送株式会社 |date = 2015-3-17 |url = http://www.ktv.jp/info/press/150317_02.html |accessdate = 2017-3-21}}&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;{{Cite news |title = 「私は橋下さんと仲良くします!」…関テレ新報道番組で藤本景子アナ |newspaper= 産経新聞 関西版|date= 2015-03-16|author= |url = http://www.sankei.com/west/news/150316/wst1503160061-n1.html|accessdate = 2017-03-21}}&lt;/ref&gt;、3月27日の放送を持って9年に渡る番組の歴史に幕を降ろした&lt;ref&gt;[http://gol-go.com/kanemura/2015/03/page/13/ 金村義明ブログ 中国菜オイル 2015年3月25日]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://gol-go.com/kanemura/2015/03/page/11/ 金村義明ブログ ニュースアンカー 2015年3月26日]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 主なコーナー ==<br /> === 17時台コーナー ===<br /> :放送終了時点(解説の一部は番組公式Webサイトより一部抜粋)<br /> ; 月曜日<br /> * 須田慎一郎のニュースな裏話(ウラバナ)<br /> : 須田のレギュラー後の2012年10月から放送開始、進行は村西が行う。社会的な事件や経済、労働弱者等の事案に対して、須田が取材した上でスタジオで解説し&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;須田自身がロケに赴く放送回もある。&lt;/ref&gt;、解説の最後にはキーワードとなる言葉をフリップで提示する。<br /> <br /> ; 火曜日<br /> * ニュースの熱点<br /> : 2014年4月から開始された有本のコーナー。日本国内や世界中のホットな話題から日常の身近な話題を掘り下げるコーナーである。初回放送時以降、各月頭に有本の解説やインタビューを元にした解説を行う&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;9月30日の放送回では10月7日に放送する予定だった[[2014年香港反政府デモ]]の情勢が変わり、アンカースタッフの打診を受け、放送予定を入替え。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[https://www.facebook.com/kaori.arimoto.9/posts/653266934787383 有本香Facebook 2014年9月29日23:42]&lt;/ref&gt;。しかし、その他の放送分についてはVTRメインの進行になっている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;毎回テーマを決めて解説すると関テレ報道部の作業が過酷になっていく事について有本が言及している。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[https://twitter.com/arimoto_kaori/status/463694087330086912 有本香ツイート 2014年5月6日23:57]&lt;/ref&gt;。<br /> * あんかー! ザ・ワールド<br /> : 2014年8月末に開始されたVTRコーナー。関西に訪れた外国人の視点から見ると日本はどう見えるかを探る事をコンセプトに、9月を除いた月末に放送されている。<br /> : テーマソング曲(トランプス・ディスコのテーマ)、コーナーロゴ、[[愛川欽也|コーナー冒頭の挨拶]]、VTR振りは全て、フジテレビで制作されていた『[[なるほど!ザ・ワールド]]』のオマージュである。<br /> ; 月曜日・火曜日<br /> * でぃすカバっ!<br /> : 2014年4月から開始されたVTRコーナーで、“街で発見”をテーマに、面白いヒトや珍しいモノを紹介する。コーナーのキャラクター「でぃすカバ」くんが、街で見つけた発見ポイントに登場して解説する。また、このコーナーは両曜日共通して、毎週放送されるコーナーではない。<br /> ; 水曜日<br /> * 青山のニュースDEズバリ!<br /> : 青山が、前アンカーマンであった山本とレギュラー参加(出演)した『2時ワクッ!』にて放送していたニュース解説を番組スタート時にコーナー化&lt;ref&gt;[http://www.youtube.com/watch?v=BfxhhwFVRGk ニッポン放送 2013/06/16(前半)青山繁晴・水道橋博士ニッポンを考えナイト]&lt;/ref&gt;。国際情勢から政治・事件・社会問題に至るまで、様々ニュースを独自取材を基に解説する。進行は村西が行う。現在、放送されているレギュラーコーナーの中で番組唯一放送開始から放送されているコーナーでもある。前半・後半にキーワードを設けて、最後に問題のカギを提案する。ゲストを交えてのトークバトル(鼎談とも言われる)も行なわれることもある(近々は、[[内閣総理大臣]]就任前後の[[安倍晋三]]、[[石破茂]]当時:[[自由民主党 (日本)|自民党]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;安倍は内閣総理大臣就任前の2012年12月19日、就任1年後の2013年12月18日放送分、石破は2013年11月20日放送分に出演&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/c6596f6f7d4033888e1794997d5c2086 ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ これです]&lt;/ref&gt;[[自由民主党幹事長|幹事長]]、現:[[内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域担当)|地方創生担当大臣]]、後述の渡辺謙や出演当時[[大阪府知事]]だった[[橋下徹]][[大阪市長]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2010年4月7日放送分&lt;/ref&gt;、[[野中広務]]元[[官房長官]]&lt;ref&gt;[http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/ff30ab0e845e196d29b0169162d86246 ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ みなさんにお知らせしたいこと]&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この回のみ木曜アンカーの宮崎と一緒の出演&lt;/ref&gt;等)。また、青山の仕事のスケジュールの都合(※独研の仕事で世界各国への出張、各種国際会議、国際学会への参加や講演会開講([[サンノゼ]]、硫黄島周辺海域等))またはプライベート(身内の不幸、自身の病気等)の関係上&lt;ref&gt;[http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/c3da784635ce96433c03407b4294265b ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ あす6月22日のアンカー]&lt;/ref&gt;、関西テレビ本社へ番組参加(出演)出来ない場合、関西テレビ東京支社([[時事通信社|時事通信]]ビル)から中継を結んだり&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;石破の時は東京・永田町の[[国会記者会館]]の[[フジニュースネットワーク|FNN]]ブースから中継。&lt;/ref&gt;、2011年以前はコーナーを丸ごとの事前収録や青山が取材ロケの形を取ってきた。しかし、2011年以降は、青山が欠席の場合は休止になっている。その際はタイトルもなく特集という形で1つのニュースについて青山の代わりに出演したゲストコメンテーター2人と共に深く掘り下げるコーナーになっている。<br /> : 2014年2月6日放送分にてニュースDEズバリの派生として視聴者から質問に対してニュースDEズバリ内で解説する、『&#039;&#039;&#039;青山繁晴がギモンをズバリ!&#039;&#039;&#039;』(略称:ギモズバ)がスタート。FAXとE-Mailにて質問を受付け、2ヶ月に1回ペースで行っている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2007年4月時点でも、別コーナー化せず質問を募集していたが、その後質問の募集のテロップは表示されなくなった※メールアドレスは別だがFAX番号は現在と一緒&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;番組内での告知はされているが、番組Webサイトにはメールアドレス、FAX番号の記載が無い&lt;/ref&gt;。<br /> ; 木曜日<br /> * リアル<br /> : 山本が降板する以前に放送していた木曜企画のコーナータイトルを変更。また、このコーナーの文字起しが番組オフィシャルWebに掲載されてる&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/anchor/feature/ リアルバックナンバー]&lt;/ref&gt;。<br /> * 金村のスゴイで!プロ野球<br /> : 金村が吉原を相手に、放送時点で注目されるスポーツの話題&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;プロ野球シーズン中は原則として、[[阪神タイガース]]を中心に解説&lt;/ref&gt;で金村が感銘を受けたトピックやVTRについては、金村が目の前に置かれたボタンを押すと、「スゴイで!」というアタック音とともに金村の前で「スゴイで!」と書かれた札が立つ趣向になっている。また、[[セ・リーグ|セントラル・リーグ]]や[[読売ジャイアンツ|読売ジャイアンツ(巨人)]]の話題を扱う場合、宮崎が金村やキャスター陣に促されながら巨人ファンとしての見解を披露する。<br /> : ※当コーナーは、プロ野球のオフシーズンにも毎週編成&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;[[オリックス・バファローズ]]、[[メジャーリーグ]]の話題を中心に、4本のトピックスを扱うことを想定している(スタジオモニターにもトピックスを4分割のマルチ画面で表示)。&lt;/ref&gt; &lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;年末年始から春季キャンプ序盤までの放送では、金村と(親交の深い)プロ野球選手、監督、コーチ等による対談のVTRを数週に分けて流すなどの工夫を凝らしている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ; 金曜日<br /> * ニュースを暴け! 鈴木哲夫の永田町取材ノート<br /> : 2014年4月4日から開始された鈴木のコーナーで、進行は山本悠美子が行う。3月まで出演していた火曜では、フリップを用いてその週に独自に取材した事柄を解説するスタイルだったが、曜日移動に伴いコーナー化。<br /> : 取材VTRを元に、政局や政治の流れがどの様に動いていくかを解説していくコーナーである。解説の最後には、キーワードとなる言葉をフリップで掲示する。&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2014年7月25日の放送では、関西テレビ東京支社と中継を繋ぎ[[菅義偉]][[内閣官房長官|官房長官]]のインタビューをコーナーとして初めて行った。&lt;/ref&gt;<br /> * みなさま、ご昭和願います。<br /> : 関と田辺佳史ディレクター(放送映画製作所)(※このコーナーでは番頭と言う役回り)が「昭和は遠くなりにけり」と言うキャッチフレーズの元、今も輝く昭和の魅力がある物や場所を取材するVTRコーナーである。<br /> : ※毎週放送されるコーナーではない<br /> * 片平敦の週末お天気<br /> : 気象予報士の片平が関西地方の週末のお天気を解説する。<br /> <br /> === 18時台コーナー ===<br /> :放送終了時点(解説の一部は番組公式Webサイトより一部抜粋)<br /> ; 各曜日共通<br /> * すぽらば<br /> : 関西に重点を置いたスポーツ情報を取り上げる。この時間にフジテレビで放送されている「ニュース総ざらい」の任意ネット枠は非ネット&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;フジテレビにて「スポーツの力」のコーナーがあった時は、オリンピックやサッカーワールドカップ開催時の場合、権利の関係上コーナー内でがネットされた。&lt;/ref&gt;。<br /> * 片平さんのお天気ナビ <br /> : 天気予報本編で季節の話題や時々視聴者からのお便りをこのコーナーで取り上げる。<br /> : BGMは「[[夜空ノムコウ]]」。コーナー前には片平が「出てこい!片平君2号!」もしくは「明日の(週末の)ポイントはこちら」といい、天気のポイントを書いたボードを持ったCG(通称:片平君2号)を出し、天気のポイントを、ダジャレを交えてワンポイントコメントで言うダジャレコーナーがある&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/ktv/ann/cafe/okayasu/140418.html 岡安譲のsweetsのススメ 片平さんについて]&lt;/ref&gt;。<br /> * アンカーのおともだち<br /> : 2014年4月から始まったコーナーで、関西圏の動物園、水族園で飼育されている物から身近な動物たちを紹介するコーナーである。&lt;ref&gt;[http://www.hontele.com/140501/#/page5/ ホンテーレ262号(2014年5月27日発行)P5]&lt;/ref&gt;<br /> : コーナー開始と伴に、エンディングが無くなりコーナー直前に提供クレジットが流れ、コーナー終了とともにステーションブレイク無しで次の番組が始まる構成に変更された。<br /> ; 金曜日<br /> * 金曜日のギモン<br /> : 「ほっとKANSAI」時代から継続されているコーナーで「今話題になっているアレって何?」「よく目にするアレって何?」…など、身の回りにある「なぜ?」に答える。<br /> <br /> === 過去のコーナー ===<br /> ; 月 - 木曜日<br /> * Entarteiment Anchor(エンタメアンカー)<br /> ホットな芸能情報を2、3本VTRを流すコーナーである。進行は村西が担当。フジテレビのスーパーニュースにて当時コーナーとして存在していた、文化芸能部の映像を使う訳では無く、芸能人のイベントやインタビュー等の取材は関西近郊で行われた物だけ放送される。<br /> ; 月曜日<br /> * 走れ!コーケン → それいけ龍斗 <br /> : 関西テレビの若手男性アナウンサーによる生中継コーナーで、番組開始から2012年3月まで放送。タイトルの「コーケン」「龍斗」は、いずれも担当アナウンサー(吉原 → 坂元)の名前にちなんでいる。番組開始から2011年3月までは、スポーツアナウンサーでもある吉原が担当。吉原が[[2006 FIFAワールドカップ]]の取材に赴いた期間中には、このタイトルで連日ドイツからの生中継を実施していた。<br /> : 2011年4月からは、吉原に代わって坂元が担当するとともに、タイトルを「それいけ龍斗」に変更。同年8月8日~12日には、「夏休み特別企画」として、火曜日 - 金曜日にも当コーナーを特別に設けた&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;コーナーとは別に、現在でも中継コーナーを結ぶ時が稀にあるが、その場合は林が担当。&lt;/ref&gt;。<br /> ; 火曜日<br /> * 伊藤・国定のゴールドアンカー<br /> : 伊藤・国定が出演していた期間に放送された経済特集。田辺佳史ディレクター(放送映画製作所)(※放送上の肩書は「特派員」)によるVTR取材を基に、経済ジャーナリストの伊藤とエコノミストの國定が、各々の目線で身近な経済問題を解説した。さらに、フリップに自らキーワードを記したうえで、問題の解決や今後の発展に向けた提言を披露していた。<br /> * アンカーズ・アイ<br /> : 番組独自の目線で世相を斬るVTR特集である。2012年9月まで月曜日。その当時のコメンテーター内田が取材する映像を流して解説することもあった。火曜移転後は現コメンテーターの鈴木がその役割を担った。2013年9月24日の放送で終了。<br /> * ソクメン!<br /> : アンカーズ・アイ終了の翌週の2013年10月1日からは、フィールドキャスターの坂元の進行&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;坂元が現場取材中は林が担当。&lt;/ref&gt;によるニュースの見方を側面から見ようとする追跡取材企画。<br /> : 2014年4月のリニューアルと伴に、コーナー終了。<br /> * Trend maruche(トレンドマルシェ)<br /> : 2012年10月1日から放送開始。村西の冠コーナーで、トレンドの最前線としてグルメ、スイーツ、ファッション等を取材し、鮮度のいい情報をマルシェ(市場)のように届ける。また、取り上げる場所は関西圏内に限らず、日本海沿岸の地域も紹介している。<br /> : 2014年4月のリニューアルと伴に、コーナー終了。<br /> * WORLD NEWS HEADLINES<br /> : 自称国際情報通の豊田が世界の様々な出来事のVTRを解説するコーナーである。2013年10月のリニューアルと伴に、コーナー終了。<br /> ; 木曜日<br /> * めっちゃ知りたい<br /> : 宮崎がコメンタリーを担当するコーナー。めまぐるしく動く日々のニュースを追う中で、気になるニュースを様々な角度から見つめていた。また、ニュースを深く掘り下げるための独自取材も敢行していた。<br /> * 木曜企画<br /> : 岡安、村西が担当するコーナー(岡安はサブキャスター)。複雑な人間模様の裏にある心理。ブームの裏の裏にあるもの…。そんな社会の“すき間”に潜む問題を、トリオ50(山本アナ・宮崎哲弥・金村義明。2012年3月以前は&quot;トリオ40&quot;)と共に鋭く考察する。 2013年10月の山本降板以降は、コーナータイトルを「リアル」と改称しコーナー続行。<br /> ; 金曜日<br /> * トピックス → アンカートピックス<br /> : 最新の芸能ニュース、エンターテイメント情報を扱っていた。隔週金曜には「密着エンタッ!」を放送していた。旬な芸能人やブレイク前のアーティストをいち早く密着取材するなどしていたが、2009年3月31日に芸能ニュースや「密着エンタッ!」が廃止され、変わり種のニュースを採り上げる「アンカートピックス」に変更された。取材映像には、山本浩之をモチーフにした人形が毎回登場していた。しかし、17時台の特集が長引くことが多かったことから、[[2010年]][[3月29日]]からは、「アンカートピックス」が廃止になり、変り種のニュースを伝えるための時間となった。また、17時台特集が長引いた場合、このコーナーはカットされていた。しかし、変り種ニュースの部分ものちに廃止されている。ただし、コーナーが早く終わった上で速報ニュースが入らなければ1本紹介されることもある。その変り種ニュースは大抵本家の「にゅ~すクリップ」でも紹介されている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2009年3月以前に、このコーナーで[[訃報]]を伝えていた際には、CM前ジングルが通常とは違う、[[ピアノ]][[編曲|アレンジ]]のものに変更されていた。&lt;/ref&gt;。<br /> * あんたがアンカー<br /> : 放送週に起きた様々なニュースから幾つか、街角の人々それぞれが「アンカー」になり切ってコメントを寄せたVTRを最初に放送。その後で、放送週から気になった1つのニュースについて、岡安が解説していた&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;ただし、話が脱線したり、岡安がコスプレを披露したりすることもあった。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;当初は、[[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]の[[武田鉄矢]]の声で「あんたが大将」をモジったタイトルコールに使用。その後は、コーナー名の名付け親である、豊田がタイトルコールも担当。また、このコーナーでは[[番組宣伝]]で、有名人が担当することもあった。&lt;/ref&gt;。<br /> * 豊田の“ことのは&quot;<br /> : 2013年10月4日から放送開始。直近のニュースで気になった言葉について、豊田がアナウンサーの立場で表記や使い方や意味を詳しく解説する。2014年4月のリニューアルと伴に、コーナー終了。<br /> * 純金の皿<br /> : 2013年10月1日からの番組リニューアルで開始した、関西テレビ女性アナウンサー最年長である関のコーナー。関西の「食の掘り出し物」を金の皿乗せて、ご当地グルメや独自の調理法、食べ方、或いは行楽情報を紹介する中継コーナーである。また、関の代わりに山本悠美子が中継を担当することもある。<br /> : 2014年4月のリニューアルに伴い、コーナー終了。関はそのまま新コーナー「みなさま、ご昭和願います」のリポーター担当。<br /> <br /> == タイムテーブル ==<br /> 原則、放送時間は16:48 - 19:00であった。大事件が発生した場合などは17時台の内容を14:00・15:00・15:55開始に繰り上げとなる場合と、『FNNスーパーニュース』や『[[フジニュースネットワーク#特別番組|FNN]][[報道特別番組]]』を優先するため17時台が繰り上げる場合がある。<br /> <br /> ;放送終了時点<br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> !colspan=&quot;3&quot; style=&quot;background-color: beige&quot; | 第1部『&#039;&#039;&#039;スーパーニュースアンカー&#039;&#039;&#039;』<br /> |-<br /> ! 時刻 !! 内容 !! 備考<br /> |-<br /> | 16:48.00 || オープニング || 関西ローカルパート。&lt;br /&gt;岡安、村西が着席しているコメンテーターの隣に立って挨拶。&lt;br&gt;岡安がアンカーマン就任間もない、2013年10月頃は関西テレビが所在する、扇町周辺の空撮をバックにタイトルイン → キャスター2人の挨拶だった。<br /> |-<br /> ||| (国内外の)最新ニュース || <br /> |-<br /> ||| 17時台特集 || <br /> |-<br /> | 17:45頃 || トピックス || 水曜については、青山のコーナーが長引きコーナー自体が存在しない事がある&lt;ref name=&quot;lastest&quot;&gt;[http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/fa6d284ec1226141f8881a86a3159b0e ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ-その「1分間」はどうやって生み出されたか]&lt;/ref&gt;。&lt;br /&gt;関西テレビでタイガース戦の中継がある場合は、この時間帯で試合開催球場の放送ブースと中継を結ぶ。&lt;br /&gt;[[2014 FIFAワールドカップ]]期間は、スポらばで扱う同じ話題をここでも放送する。<br /> |-<br /> | 17:52.30 || 17時台エンディング || 18時台特集の予告、コメンテーターの出演はここまで。<br /> |-<br /> !colspan=&quot;3&quot; style=&quot;background-color: beige&quot; | 第2部『&#039;&#039;&#039;FNNスーパーニュースアンカー&#039;&#039;&#039;』<br /> |-<br /> ! 時刻 !! 内容 !! 備考<br /> |-<br /> | 17:54.00 || 全国ニュース || 『FNNスーパーニュース』を内包。<br /> |-<br /> | 18:15.00 || オープニング・関西のニュース1 || 関西ローカルパート。<br /> |-<br /> | 18:22.00 || 18時台特集 || <br /> |-<br /> | 18:35.00 || スポらば || この枠でのフジテレビ任意枠は非ネット。&lt;br /&gt;2014 FIFAワールドカップ期間は、フジテレビのトレすぽの映像を使用。トレスポのナレーションが入る場合と、関西テレビで差し替えの場合あり。<br /> |-<br /> | 18:45.00 || 関西のニュース2|| <br /> |-<br /> | 18:52.00 || 片平さんのお天気ナビ || <br /> |-<br /> | 18:55.00 || 18時台エンディング ||片平さんのお天気ナビに続きそのまま、岡安の一言が入り、そのままCMに入る<br /> |-<br /> | 18:59.00 || アンカーのおともだち ||[[コマーシャルメッセージ#CMの種類|ステーションブレイク]]無しで次の番組に繋ぐ。<br /> |}<br /> <br /> == 出演者 ==<br /> ;放送終了時点<br /> :特記事項が無い者は全員関西テレビアナウンサー。<br /> <br /> === キャスター ===<br /> ; メインキャスター(アンカーマン)<br /> * [[岡安譲]](月 - 金曜日) 2013年10月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2006年4月から2012年9月まで水 - 金曜日のサブキャスター、2012年10月から2013年9月まで木・金曜日のサブキャスターを担当。&lt;/ref&gt;<br /> ; サブキャスター(アシスタント)<br /> * [[村西利恵]](月 - 金曜日) 2006年4月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2014年9月第4週は岡安が夏季休暇取得のため、初めてメインキャスターを代行。&lt;/ref&gt;<br /> * [[林弘典]](月曜日) 2013年10月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2012年10月からは木・金曜日のスタジオキャスター、2013年9月までフィールドキャスターを担当。また、他中継コーナーも担当。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;異常気象発生時に[[気象予報士]]として解説担当経験もある。『あっぷ&amp;UP!』の司会を務めていた2010年10月から2011年3月まで『FNNスーパーニュースWEEKEND』にのみ出演。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2013年迄は、アンカーマン不在時の代理は男性サブキャスター。過去のその際に林・吉原はサブキャスター代理経験がある。&lt;/ref&gt;<br /> * [[坂元龍斗]](火曜日) 2013年10月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2011年9月まで月曜日の中継コーナー「それいけ龍斗」リポーター、2011年10月から2012年9月までスポーツキャスターを、2013年9月までスタジオキャスターを月 - 水曜日担当。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;また、2012年10月以降フィールドキャスターも兼ねる。&lt;/ref&gt;<br /> * [[堀田篤]](水・金曜日) 2013年10月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2008年10月から2009年3月まで水 - 金曜日のスポーツキャスター、2009年4月から2012年9月まで月 - 金曜日のスポーツキャスター、2012年10月から2013年9月まで水曜日のサブキャスターを担当。&lt;/ref&gt;<br /> * [[吉原功兼]](木曜日) 2013年10月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2011年3月までフィールドキャスターを担当。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2013年迄は、アンカーマン不在時の代理は男性サブキャスター。過去のその際に林・吉原はサブキャスター代理経験がある。&lt;/ref&gt;<br /> * [[山本悠美子]](金曜日) 2008年10月 - 2009年3月、2014年4月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2011年以降、夏季休暇やスポットで休んだ村西の代行キャスターを経験あり。&lt;/ref&gt;<br /> ; キャスター<br /> * [[関純子]](「それではみなさんご昭和願います」リポーター) 2013年10月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;平日夕方のローカルワイドニュース番組へのレギュラー出演は、『[[アタック600]]』で天気キャスターを務めて以来。&lt;/ref&gt;<br /> ; スポーツキャスター<br /> * [[新実彰平]](月・火曜日) 2012年10月1日 - 2015年3月<br /> * [[中島めぐみ (アナウンサー)|中島めぐみ]](水 - 金曜日) 2012年10月3日 - 2015年3月<br /> ; お天気キャスター<br /> * [[片平敦]](気象予報士)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;通常は18時台のみの出演だが、異常気象発生時若しくは金曜のみ17時台にも週末の天気のコーナーがあるため出演した。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;[[2014年]][[4月]]に持病の[[腰]][[椎間板ヘルニア]][[坐骨神経痛]]の治療・手術で入院により西口が代わりに担当。&lt;/ref&gt;<br /> ; ナレーション<br /> * [[大阪テレビタレントビューロー|川﨑英吏子]][http://www.ttb.co.jp/tdb/tdb.cgi?mod=data&amp;N=2111](月 - 水曜日) 2006年4月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;番組放送中の生ナレーション担当。&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/ktv/ann/cafe/muranishi/200708.html 村西利恵ブログ cafe:Rie&#039;s Closet 『ドレッシング』2007年8月28日]&lt;/ref&gt;<br /> * [[大島榎奈]](木・金曜日) 2006年4月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;番組放送中の生ナレーション担当。&lt;/ref&gt; <br /> * 林弘典(月・火曜日)<br /> * [[豊田康雄]](水 - 金曜日)2014年4月 - 2015年3月&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2006年4月から2013年9月まで月・火曜日のサブキャスター、2013年10月 - 2014年3月までは「豊田の“ことのは”」進行・解説を担当。&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === コメンテーター ===<br /> ; いずれも17:54までの出演<br /> * 月曜日:[[須田慎一郎]](ジャーナリスト)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;レギュラーコメンテーター就任前は、水曜日コメンテーター青山の代役や金曜日コメンテーター森田の代役で不定期出演していた。&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;須田単独の出演歴も有り。&lt;/ref&gt;、以下『不定期コメンテーター』項目記載の1名<br /> * 火曜日:[[有本香]]([[ジャーナリスト]])&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2012年10月9日からの出演、準レギュラー時は主に火曜日の出演。月曜、青山の代役の水曜※前曜日の鈴木と一緒に出演、森田の代役の金曜に単独若しくは萱野orサニーとの出演歴も有り&lt;/ref&gt;、以下『不定期コメンテーター』項目記載の1名<br /> * 水曜日:[[青山繁晴]]([[独立総合研究所]] 社長)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;番組開始から2007年上半期位まで肩書きが『国際戦略[[アナリスト]]』であった。&lt;/ref&gt;<br /> * 木曜日:[[宮崎哲弥]]([[評論家]])、[[金村義明]]([[野球解説者]])<br /> * 金曜日:[[鈴木哲夫]]([[政治部記者|政治ジャーナリスト]]、元[[日本BS放送|BS11]]報道局長)、[[中江有里]]([[俳優|女優]]、[[脚本家]])&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2012年10月2日から、準レギュラー時は主に火曜日の出演。&lt;/ref&gt;<br /> ; 不定期出演コメンテーター<br /> 2014年4月1日リニューアル以降の不定期出演者<br /> * 橋口怜([[弁護士]])&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;suda&quot;&gt;主に月曜日の出演&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2012年10月1日からの出演&lt;/ref&gt;<br /> * [[釈徹宗]]([[僧侶]]・[[宗教学者]])&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;suda&quot;/&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2012年10月8日からの出演&lt;/ref&gt;<br /> * [[堀江信彦]]([[編集者|雑誌編集者]]・[[実業家]])&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;suda&quot;/&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2012年11月5日からの出演&lt;/ref&gt;<br /> * [[わかぎゑふ]]([[劇作家]]・[[演出家]])&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2014年3月までは、金曜の準レギュラー。4月以降は月曜に出演&lt;/ref&gt;<br /> * [[サニー・フランシス]]([[ラジオパーソナリティ]]・DJ)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;4月1日以降は、火曜日に出演&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2014年3月までは、金曜の準レギュラー&lt;/ref&gt;<br /> * [[萱野稔人]]([[津田塾大学]]教授)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;4月以降は、火曜日に出演&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;以前は主に火曜準レギュラーだった有本、金曜の前レギュラーだった森田との出演&lt;/ref&gt;<br /> * [[安美佳]]([[ファッションモデル|モデル]])&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;主に鈴木が出演する、火曜、金曜日の出演&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;aoyama&quot;&gt;リニューアル前は、水曜日コメンテーター青山の代役&lt;/ref&gt;<br /> * [[和田秀樹]]([[精神科医]])&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;aomori&quot;&gt;リニューアル前から主に、水曜日コメンテーター青山、金曜日コメンテーター森田の代役&lt;/ref&gt;<br /> * [[藤井聡]]([[京都大学]] 大学院教授)&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;suda&quot;/&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;fujii&quot;&gt;2014年9月8日から出演。&lt;/ref&gt;<br /> 2014年4月リニューアル前の不定期出演コメンテーター<br /> * [[島村洋子]]([[小説家|作家]])&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;suda&quot;/&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;aoyama&quot;/&gt;<br /> * [[飯田泰之]]([[エコノミスト]])&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;主に金曜日の出演&lt;/ref&gt;<br /> * [[茂山宗彦]]([[狂言師]])&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;リニューアル以前は、金曜日の森田と共演&lt;/ref&gt;<br /> * [[松原聡]]([[東洋大学]] [[経済学部]]教授)&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;aoyama&quot;/&gt;<br /> * [[田中秀征]]([[福山大学]] 客員教授)&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;aomori&quot;/&gt;<br /> * [[李英和]]([[関西大学]] 教授)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;北朝鮮拉致事件被害者のニュース解説で出演&lt;/ref&gt;<br /> 2012年9月リニューアル以前の不定期出演<br /> * [[村田晃嗣]]([[同志社大学|同志社大]] [[法学部]]教授)&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;aoyama&quot;/&gt;<br /> * [[太田房江]](当時:前[[大阪府知事]])&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;水曜日コメンテーター室井の代役&lt;/ref&gt;<br /> * 金井啓子([[近畿大学]] 准教授)&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;ito&quot;&gt;火曜日コメンテーター伊藤洋一の代役&lt;/ref&gt;<br /> * [[東谷暁]](ジャーナリスト)&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;aoyama&quot;/&gt;<br /> ほか<br /> <br /> == 過去の出演者 ==<br /> ;放送終了時点<br /> :特記事項が無い者は全員関西テレビ所属のアナウンサー。<br /> ; アンカーマン<br /> * [[山本浩之 (アナウンサー)|山本浩之]] 番組開始から、フリーアナウンサー転身後の2013年9月27日放送分まで担当。<br /> ; スポーツキャスター<br /> * [[山本貴司]] (水泳選手 → 近大水泳部監督) 金曜日、 2006年4月7日 - 10月27日&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;水泳に専念するため降板&lt;/ref&gt;<br /> * [[堀あかり]] (元タレント) 月 - 水曜日、 2006年4月3日 - 2008年9月24日&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;降板後、この番組でスポーツキャスターを務めたことがきっかけでJRA所属の[[池添謙一]]と結婚している。&lt;/ref&gt;<br /> * [[川島陽子]] (タレント) 木・金曜日、2006年4月5日 - 2008年9月26日<br /> ; コメンテーター<br /> * [[家田荘子]]([[作家]]、[[高野山真言宗]][[僧侶]]) 火曜日、2006年4月4日 - 2007年9月25日 隔週担当。<br /> * [[江川達也]](漫画家)火曜日、2006年4月4日 - 2007年9月25日 隔週担当。<br /> * [[岩上安身]]([[ジャーナリスト]]、[[ノンフィクション作家]]、[[タレント]]) 金曜日、2006年4月7日 - 2007年9月28日<br /> * [[大西ユカリ]]([[歌手]]、[[俳優|女優]]) 木曜日、2006年4月6日 - 2007年9月27日<br /> * [[蟹瀬誠一]](ジャーナリスト、[[明治大学]][[教授]]) 木曜日、2006年4月6日 - 2008年6月26日<br /> * [[室井佑月]]([[小説家]]、[[随筆家]]、タレント) 水曜日、2006年4月5日 - 2009年3月25日<br /> * [[倉田真由美]]([[漫画家]]) 金曜日、2007年12月7日 - 2009年3月27日<br /> * [[ピーコ]](タレント、[[ファッション]][[評論家]]、[[シャンソン]][[歌手]]) 月曜日、2006年4月3日 - 2009年3月23日<br /> * [[奥野史子]](スポーツコメンテーター) 月曜日、2007年10月1日 - 2009年3月23日<br /> * [[住田裕子]]([[弁護士]]) 火曜日、2006年4月4日 - 2009年3月24日、隔週担当。<br /> * [[内田誠]](ジャーナリスト) 月曜日、2006年4月3日 - 2012年9月24日 <br /> * [[玉岡かおる]](作家) 金曜日 → 木曜日 → 月曜日、2006年4月7日 - 2012年9月24日<br /> * [[伊藤洋一]](ジャーナリスト、住信基礎研究所主席研究員) 火曜日、2006年4月4日 - 2012年9月25日<br /> * [[國定浩一]](大阪学院大学教授) 火曜日、2007年10月2日 - 2012年9月25日<br /> * [[織田信成 (フィギュアスケート選手)|織田信成]](元・男子プロ[[フィギュアスケート]]選手) [[ソチオリンピック]](2014年)の開催期間中、スポーツコメンテーターを務めた&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140123/wlf14012320210022-n1.htm トークでも4回転! 織田信成さん、関テレ「アンカー」でスポーツコメンテーター初挑戦](『[[産経新聞|産経ニュースwest]]』2014年1月23日付記事)&lt;/ref&gt;。<br /> * [[森田実]](政治評論家) 金曜日、2007年10月5日 - 2014年3月28日<br /> ; コメンテーター出演状況<br /> {|class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center; margin:0 auto&quot;<br /> |+<br /> !colspan=2|期間||colspan=2|月曜日!!colspan=2|火曜日!!colspan=2|水曜日!!colspan=3|木曜日!!colspan=2|金曜日<br /> |-<br /> !2006.4.3!!2007.8.31<br /> |rowspan=2|ピーコ||rowspan=6|内田||家田&lt;br /&gt;or住田||rowspan=6|伊藤||rowspan=5|青山||rowspan=5|室井||rowspan=4|蟹瀬||rowspan=2|大西||rowspan=8|金村||rowspan=2|岩上||rowspan=2|玉岡<br /> |-<br /> !2007.9.3!!2007.9.28<br /> |rowspan=4|住田&lt;br /&gt;國定<br /> |-<br /> !2007.10.1!!2007.11<br /> |rowspan=3|奥野&lt;br /&gt;ピーコ||rowspan=3|玉岡||rowspan=5|森田||サニー (?)<br /> |-<br /> !2007.12!!2008.6<br /> |rowspan=2|倉田<br /> |-<br /> !2008.7!!2009.3.27<br /> |宮崎<br /> |-<br /> !2009.3.30!!2012.9.28<br /> |玉岡||國定||rowspan=3 colspan=&quot;2&quot;|青山||rowspan=3 colspan=&quot;2&quot;|宮崎||rowspan=2|サニー&lt;br /&gt;or&lt;br /&gt;茂山&lt;br /&gt;or&lt;br /&gt;わかぎ<br /> |-<br /> !2012.10.2!!2014.3.28<br /> |rowspan=2|須田||rowspan=2|橋口&lt;br /&gt;or&lt;br /&gt;釈&lt;br /&gt;or&lt;br /&gt;堀江||鈴木||中江&lt;br /&gt;or有本&lt;br /&gt;or安<br /> |-<br /> !2014.4.1!!2015.3.27<br /> |有本||サニー&lt;br /&gt;or萱野||鈴木||中江<br /> |}<br /> <br /> == スペシャル ==<br /> ; 番組開始2年目の2007年からは、[[阪神・淡路大震災]]が発生した[[1月17日]]の直前(主に1月第2週の[[日曜日]]または[[成人の日]])に、震災の教訓を踏まえた防災・地震関連の特別番組を放送している。<br /> * 2006年9月14日 24:35 - 「アンカースペシャル 格差社会に物申す」<br /> : 山本浩之、村西利恵、岩上安身、[[片山さつき]]、[[仙谷由人]]、[[塩川鉄也]]、宮崎哲弥、[[南部靖之]]、小嶌典明(大阪大学教授)、 脇田滋(龍谷大学教授)、[[雨宮処凛]]が出演。<br /> * 2006年12月25日 15:45 - 17:50 スーパーニュースアンカー 年末スペシャル2006<br /> : 山本浩之、村西利恵、ピーコ、内田誠、青山繁晴、金村義明、玉岡かおる、[[村上信五]]、[[渋谷すばる]]、[[安田章大]]([[関ジャニ∞]])、功刀丈弘が出演。 <br /> * 2007年6月5日 24:35 - 「アンカースペシャル 漂流するテレビ 第1回」&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;literacy&quot;&gt;この企画は、同局製作の[[発掘!あるある大事典|発掘!あるある大事典II]]における捏造問題発覚後、関西テレビが進めている報道(メディア)リテラシー向上活動の一環として行われた。&lt;/ref&gt;<br /> : 山本浩之、[[田原総一朗]]、宮崎哲弥、[[吉岡忍]]、[[大谷昭宏]]、[[崔洋一]]、玉岡かおる、[[山田美保子]]、[[鶴間政行]]が出演。<br /> * 2007年[[6月16日]] 18:00 - 「スーパーニュースアンカー スペシャル 青山繁晴のナマでもズバリ!」&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;literacy&quot;&gt;この企画は、同局製作の[[発掘!あるある大事典|発掘!あるある大事典II]]における捏造問題発覚後、関西テレビが進めている報道(メディア)リテラシー向上活動の一環として行われた。&lt;/ref&gt;<br /> : 青山繁晴と山本浩之、村西利恵が出演。抽選で選ばれた320人の視聴者による関西テレビ・なんでもアリーナでのトークショーが行われた。<br /> * 2007年[[7月4日]] 24:55 - 「アンカースペシャル 事故調査-JR福知山線脱線事故・最終報告書から見えるもの-」<br /> : 山本浩之、事件発生時に現場から全国中継を担当した岡安譲、玉岡かおるらが出演。<br /> * 2007年[[7月29日]] 「[[FNNスーパー選挙王]]」(関西地区選挙速報)<br /> : 山本浩之、村西利恵、青山繁晴、江川達也、豊田康雄、林弘典、吉原功兼、岡安譲等が出演。<br /> * 2007年[[10月28日]] 24:25 - 「アンカースペシャル 漂流するテレビ 第2回」&lt;ref group=&quot;注&quot; name=&quot;literacy&quot;&gt;この企画は、同局製作の[[発掘!あるある大事典|発掘!あるある大事典II]]における捏造問題発覚後、関西テレビが進めている報道(メディア)リテラシー向上活動の一環として行われた。&lt;/ref&gt;<br /> : 山本浩之、大谷昭宏、宮崎哲弥、吉岡忍、[[佐藤孝吉]]、[[森達也]]、室井佑月が出演。<br /> * 2007年[[12月24日]] 16:15 - 「2007総決算 スーパーニュースアンカースペシャル」<br /> : 山本浩之、村西利恵、豊田康雄、岡安譲、吉原功兼、内田誠、ピーコ、奥野史子、江川達也、青山繁晴、金村義明が出演。また、[[テレビ西日本]]から中継をつないで[[東国原英夫]][[宮崎県知事一覧|宮崎県知事]](当時)が、VTRで菅義偉[[総務大臣]](当時)が出演。<br /> * 2008年2月26日 24:50 - 「スーパーニュースアンカースペシャル 産科医療のこれから -安心なお産のために-」<br /> * 2009年1月17日 14:25 - 「スーパーニュースアンカースペシャル 巨大地震&quot;孤立&quot;を生きるには -阪神大震災から14年-」<br /> * 2009年3月29日 25:25 - 「アンカーSP緊急討論! ニッポンの政治を刷新せよ」<br /> : 山本浩之、青山繁晴、宮崎哲弥、森田実、[[鴻池祥肇]]、[[世耕弘成]]、[[福山哲郎]]、[[穀田恵二]]が出演。<br /> * 2009年8月30日 19:58 - 「[[FNNスーパー選挙2009 審判の日]] ANCHOR SPECIAL」<br /> : 山本浩之、村西利恵、青山繁晴、森田実、[[メッセンジャー黒田|黒田有]]([[メッセンジャー_(お笑いコンビ)|メッセンジャー]])&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;アンカーマンの山本と[[プライスバラエティ ナンボDEなんぼ|ナンボDEなんぼ]]に共演していたための出演。&lt;/ref&gt;、[[伊藤惇夫]]、豊田康雄、岡安譲等が出演。<br /> * 2010年7月11日 19:58 - 「[[FNN踊る大選挙戦]] ANCHOR SPECIAL」<br /> : 山本浩之、村西利恵、青山繁晴、森田実、[[平野貞夫]]&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;関西テレビ東京支社から中継。&lt;/ref&gt;、豊田康雄、岡安譲等が出演。<br /> * 2010年12月26日 16:00 - 「アンカースペシャル2010 青山繁晴×宮崎哲弥×森田実がズバリ! こんな日本に誰がした?」<br /> : 山本浩之、村西利恵、青山繁晴、宮崎哲弥、森田実、[[原口一博]]、[[白眞勲]]が出演。<br /> * 2011年9月10日 9:55 - 「スーパーニュースアンカースペシャル 2つの被災地から~東日本大震災6ヶ月~」<br /> : 山本浩之、村西利恵、前田典子、河田恵昭、伊永勉等が出演。<br /> * 2012年1月14日 9:55 - 「スーパーニュースアンカースペシャル 巨大地震を生き抜く~関西に迫るM9.0~」<br /> : 山本浩之、村西利恵、前田典子、河田恵昭、伊永勉等が出演。<br /> * 2012年9月29日 11:15 - 11:45 「この秋リニューアル!スーパーニュースアンカー〜ニュースの裏側大公開SP」&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;リニューアル開始前に番宣番組として放送。&lt;/ref&gt;<br /> : 山本浩之、村西利恵、青山繁晴、須田慎一郎、鈴木哲夫、宮崎哲弥、金村義明、森田実、岡安譲、新実彰平、[[藤本景子]]、葉加瀬太郎、柏木広樹が出演。&lt;br /&gt;※レポーターとして[[山里亮太]]と中島めぐみが担当。<br /> * 2012年12月16日 19:58 - 「[[FNN総選挙2012 ニッポンの決意 JAPAN&#039;S DECISION|FNN総選挙2012 ニッポンの決意]] ANCHOR SPECIAL」<br /> : 山本浩之、村西利恵、青山繁晴、宮崎哲弥、森田実、豊田康雄、岡安譲、堀田篤等が出演。<br /> * 2013年[[1月14日]] 15:48 - 「スーパーニュースアンカースペシャル 都市を襲う波 ー巨大地震を生き抜くー」<br /> : 山本浩之、村西利恵、室﨑益輝、伊永勉等が出演。<br /> * 2013年3月29日 15:48 - 「開幕戦はカンテーレ!!アンカーとタイガース開幕戦が合体スペシャル」<br /> : 2013年のセントラル・リーグ開幕戦に当たる東京ヤクルトスワローズVS阪神タイガース(神宮球場)を関西ローカルで中継するとともに、開幕戦直前の球場の様子を随所で紹介(中継自体はスペシャルの終了後も19:00 - 20:54に放送)。当日は金曜日だったため、「あんたがアンカー」では試合中継の舞台裏を取り上げた。なお、同月31日付で関西テレビを退社した山本にとっては、このスペシャルが同社アナウンサーとしての最終出演番組になった。<br /> * 2013年7月21日 19:58 - 「[[FNN参院選 真夏の決断2013]] ANCHOR SPECIAL」<br /> : 山本浩之、村西利恵、青山繁晴、宮崎哲弥、森田実、豊田康雄、岡安譲等が出演。<br /> * 2013年12月25日 16:48 - 「スーパーニュースアンカーSP 激動のニッポンはどうなる?」<br /> : 岡安譲、村西利恵、青山繁晴、宮崎哲弥、金村義明、世耕弘成が出演。<br /> * 2014年1月13日 15:48 - 「スーパーニュースアンカースペシャル 揺れる大都市~巨大地震を生き抜く~」<br /> : 岡安譲、村西利恵、室﨑益輝、伊永勉が出演。中島めぐみがVTRのみの出演。<br /> * 2014年12月14日 19:58 - 翌0:00「[[FNN衆院選2014 THE SENKYO 〜ニッポンをしゃべり倒す!〜]] ANCHOR SPECIAL」&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/senkyo/index.html FNN衆院選2014 THE SENKYO ~ニッポンをしゃべり倒す!~ 関西テレビ放送 KTV]&lt;/ref&gt;&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;岡安メイン昇格後、初めての選挙特番であり、コメンテーターの青山が特別解説としてMCと並んで選挙情勢を解説した&lt;/ref&gt;<br /> : 岡安譲、村西利恵、青山繁晴、宮崎哲弥、森田実、中江有里、豊田康雄、林弘典、坂元龍斗、吉原功兼、堀田篤、新実彰平等が出演。<br /> * 2014年12月24日 15:55 - 17:54「スーパーニュースアンカー 年末SP」&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/newyear/anchor/index.html スーパーニュースアンカー 年末SP 関西テレビ放送 KTV]&lt;/ref&gt;<br /> : 岡安譲、村西利恵、青山繁晴、宮崎哲弥、金村義明、堀田篤が出演。<br /> * 2015年1月17日 15:00 - 17:00「スーパーニュースアンカースペシャル 震災20年を見つめて」&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/shinsai20/index.html 阪神・淡路大震災特別番組 2015年1月17日(土)]&lt;/ref&gt;<br /> : 岡安譲、村西利恵、伊永勉、[[河田恵昭]]が出演。<br /> <br /> === 放送時間の変更 ===<br /> &lt;div class=&quot;NavFrame&quot; style=&quot;clear:both; border:0&quot;&gt;<br /> &lt;div class=&quot;NavHead&quot; style=&quot;text-align:left&quot;&gt;放送時間変更の例&lt;/div&gt;<br /> &lt;div class=&quot;NavContent&quot; style=&quot;text-align:left&quot;&gt;<br /> ; 2006年<br /> * [[7月21日]]は18:00から[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|プロ野球オールスターゲーム]]第1戦の中継が組まれていたため、1時間早い15:55からの放送だった。<br /> ; 2007年<br /> * 9月14日は[[FIFA女子ワールドカップ]]「[[サッカー日本女子代表|日本]]VS[[サッカーアルゼンチン女子代表|アルゼンチン]]」中継が17:50から放送されたため、15:59開始に繰り上げられた。<br /> * 9月24日から9月28日の5日間は片平敦が夏休みのため、『FNNスピーク(関西ローカルパート)』担当の[[田中摩弥|田中まや]]が代わりに天気予報を担当し、その週の金曜日(9月28日)に田中まやがダジャレを披露した。<br /> * 9月25日は18時台の放送をすべてFNNスーパーニュースに変更されたため、『スーパーニュースANCHOR』がスタートしてからは初めて「スポーツの力」が放送された(数分間、田中による「お天気ナビ」が挿入された)。<br /> * 10月1日から放送時間が、2分早くなり、16:53に変更された(キー局・フジテレビの『スーパーニュース第1部』(任意ネット)が繰り上がったことに合わせたもの)。これにより、今まであった山本によるジャンクションがなくなった。ジャンクションは先にフジテレビから『FNNスーパーニュース』を放送するときのみ復活する。<br /> * 10月30日は[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]「[[中日ドラゴンズ|中日vs]][[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]」中継が18:00から放送されるため、通常より54分繰り上げの15:59からの放送になった。<br /> ; 2008年<br /> * 7月31日の放送は「マツダオールスターゲーム2008・第1戦」のために16:53から放送された。<br /> * 8月1日の放送は福田改造内閣組閣情報を放送するため、15:57から『アンカー』を、16:53から『FNNスーパーニュース』を放送した。『FNNスーパーニュース』の放送中に10分間だけ関西のニュース、スポらば、片平さんのお天気ナビが挿入された。<br /> * 9月22日から9月24日の3日間は片平敦が夏休みのため、『FNNスピーク(関西ローカルパート)』担当の田中まやが代わりに天気予報を担当した。その週の水曜日9月24日に田中まやがダジャレを披露する予定だったが麻生太郎内閣誕生のニュースに伴い中止になった。<br /> * 9月24日は麻生内閣誕生のニュースに伴い、18時台は13分間のみ大阪から放送され、18:30からは天気予報を含めてフジテレビから放送された。<br /> * 10月1日から、毎週水曜日の16:53のオープニングシーンで、スタジオからの映像が入った直後に提供クレジットが挿入されていた。<br /> ; 2009年<br /> * 4月1日から、17時台の終わりと東京からの『スーパーニュース』との間に、90秒間の[[ステーションブレイク]]が挿入されるようになった。<br /> * 8月26日から9月1日の5日間は片平敦が病気療養中のため、『FNNスピーク(関西ローカルパート)』担当の西口が代わりに天気予報を担当した。<br /> * 10月12日から10月16日の5日間は片平敦が夏休みのため、『FNNスピーク(関西ローカルパート)』担当の西口が代わりに天気予報を担当した。<br /> ; 2010年<br /> * 5月3日から5月5日の3日間は17:54開始となった。関西テレビが17時台にニュース枠を設置後、初めて休止した。以降も祝日の放送が不定期に17:54開始となる日があった。<br /> ; 2011年<br /> * 3月11日の放送は[[東日本大震災]]に関する特別番組のため休止。以後、4月1日まで特別編成で放送。<br /> ** 3月14日 - 3月18日: 『FNNスピーク』と『FNNスーパーニュース』の時間拡大により休止。<br /> ** [[3月21日]] - [[3月25日]]: 『FNNスーパーニュース』が16:00(21日のみ16:30)から放送したため、15:00(21日のみ15:30)からの放送となり、18時台は18:40から大阪で放送した。<br /> ** 3月28日 - 4月1日: 『FNNスーパーニュース』が16:53から全国ネットで放送したため、15:55に繰り上げて放送。18時台は28日から18:15開始に繰り上げ。<br /> * 4月4日から放送時間を5分繰り上げ16:48開始になった。<br /> * 7月18日は16:30 - 16:53に東京から『スーパーニュース』を放送したため、16:53からの放送となった。<br /> * 9月5日は台風12号に伴う豪雨災害が奈良・和歌山で発生したことに伴い、16:18から前倒しで放送された。<br /> ; 2012年<br /> * 7月11日は[[キリンチャレンジカップ|キリンチャレンジカップ2012]]「[[サッカー女子日本代表|なでしこジャパン]]VS[[サッカーオーストラリア女子代表|オーストラリア女子代表]]」中継が16:53から放送されるため、15:52からのFNN枠より(アンカーとしては16:20から)開始の繰り上げ・短縮放送となった。<br /> * 7月16日は『FNNスーパーニュース』が16:50(その他の一部地域は16:53)から全国ネットで放送するため、アンカーとしては18:15からの関西ローカルパートのみとなった。<br /> * 7月23日はプロ野球オールスターゲーム第3戦の中継が組まれていたため、1時間早い15:48からの放送となった。<br /> * 7月30日は[[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]]中継が17:30から放送されるため15:48 - 17:30(内FNN枠は16:53 - 17:15)の放送となった。<br /> * 12月24日をもって2012年の放送は終了した。なお、12月26日(本来ならば、青山の年内最後出演予定日だった。)は当初関西テレビでは『ドラマ・GTO』の一挙集中再放送を予定していたが、12月16日に行なわれた衆議院総選挙の結果を受けて第二次安倍内閣の組閣人事&amp;新閣僚記者会見が行なわれることになったため、番組予定を変更し、17:00 - 18:00にFNN報道特別番組扱い・フジテレビ報道センターの制作で安倍第二次内閣の組閣情報などをネットして伝えた。この年は年末の特番の放送はなかった。<br /> ; 2013年<br /> * 7月22日はプロ野球オールスターゲーム第3戦の中継が組まれていたため1時間早い15:48からの放送となった。<br /> * 7月25日は17:00 - 21:49までサッカー[[東アジアカップ]]2013女子「日本対北朝鮮」&amp;男子「日本対オーストラリア」のみどころと試合中継のため番組を休止し、16:30 - 17:00に「FNNニュース」として、前半は東京から全国ニュース、後半は関西のニュースと天気を伝えた。<br /> ; 2014年<br /> * 8月20日に[[広島県]][[広島市]][[安佐南区]]、[[安佐北区]]にて[[平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害|局地的集中豪雨]]に伴う土砂崩れが発生。その為、FNN報道特番として、『FNNスーパーニュース』の放送時間拡大に伴い、15:54に繰り上げての放送となった。&lt;ref&gt;[http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/d2d23a0da97e4188e9367953491ded3b ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ 急告その2]&lt;/ref&gt;<br /> * 11月10日は[[日米野球]]壮行試合、[[野球日本代表|侍ジャパン]]VS[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ソフトバンク]]・北海道日本ハム連合チームの中継が組まれていたため、中継に合わせ番組放送開始がフジテレビと同じ時刻の16:50-17:50の放送時間となった。番組内容も18時台の内容に準拠。&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;<br /> <br /> == スタッフ ==<br /> * プロデューサー: 中村隆郎&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;報道局 報道番組部部次長&lt;/ref&gt;(17時台担当)、江口茂&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;報道局 報道部部次長&lt;/ref&gt;(18時台担当)&lt;ref&gt;[http://mag.sendenkaigi.com/kouhou/201410/method-to-be-interviewed-on-television/003481.php 商品開発秘話や世界的な技術にも注目、『スーパーニュースアンカー』プロデューサーに聞く 2014年10月号 広報会議]&lt;/ref&gt;<br /> * 製作著作: 関西テレビ<br /> <br /> === 過去のスタッフ ===<br /> * プロデューサー: 山口泰弘&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;『[[FNS27時間テレビ (2011年)|FNS27時間テレビ めちゃ2デジッてるッ! 笑顔になれなきゃテレビじゃないじゃ?ん!!]]』の「歌へた笑顔プロジェクト」に制作部ディレクター、事業局事業部の社員と出演し3位に入る。&lt;/ref&gt;、萩原守&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/info/press/111125.html 関西テレビプレスリリース 弁護士(司法修習生)の採用について]&lt;/ref&gt;、文倉大志、城戸隆宏(18時台担当)&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/mikata/contents/101219.html テレビのミカタ ニュース番組のできるまで番組内容紹介]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 放送時間 ==<br /> {|class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:center; margin:0 auto&quot;<br /> |-<br /> !colspan=2 rowspan=2|期間!!cospan=3|放送時間([[日本標準時|JST]])<br /> |-<br /> !月曜日 - 金曜日<br /> |-<br /> !2006.4.3!!2007.9.28<br /> |16:55 - 19:00(125分)<br /> |-<br /> !2007.10.1!!2011.3.10<br /> |16:53 - 19:00(127分)※<br /> |-<br /> !2011.4.4!!2015.3.27<br /> |16:48 - 19:00(132分)<br /> |}<br /> <br /> == 演出 ==<br /> === タイトルロゴ ===<br /> {{色}}<br /> * 初代:2006年4月3日 - 2012年9月28日<br /> **左詰めで「{{Colors|white|red|&#039;&#039;スーパーニュースアンカー&#039;&#039;}}」と書かれた赤い直線上に「{{Color|blue|&#039;&#039;&#039;A N C H O R&#039;&#039;&#039;}}」の文字。「A」は他のアルファベットと比べて若干大きい。<br /> **18時台OPは直線に書かれている番組タイトルに「{{Colors|white|red|&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;FNN&#039;&#039;&#039;&#039;&#039;}}」が付く。<br /> * 2代目: 2012年10月1日 - 2013年9月27日<br /> **フォントカラーがブルー一色では無く、2色のブルー「{{Color|#00FFFF|&#039;&#039;&#039;A N C H O R&#039;&#039;&#039;}}」の文字に変更<br /> * 3代目: 2013年9月30日 - 2015年3月27日<br /> **ロゴのフォントは先代と同じだが色がピンクで「{{Color|#FF00FF|&#039;&#039;&#039;A N C H O R&#039;&#039;&#039;}}」の文字に変更。18時台OPでもFNNの表記がなくなった。<br /> <br /> === オープニングCG ===<br /> * 初代:2006年4月3日 - 2009年5月29日<br /> * 2代目:2009年6月1日 - 2012年9月28日&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;この代から、オープニングが簡略化されるようになった。水曜日のオープニングに挿入されていた提供クレジットは、最初のCMに入る直前に移動した。その後、提供クレジットはすべて曜日最初のニュースの後に変更。&lt;/ref&gt;<br /> * 3代目:2012年10月1日 - 2013年9月27日<br /> * 4代目:2013年9月30日 - 2015年3月27日<br /> <br /> === 番組テーマ曲 ===<br /> * 2006年4月3日 - 2012年9月28日:「Beyond the Sunset」 - [[葉加瀬太郎]]プロデュース(葉加瀬太郎・石坂慶彦共同作曲、石坂慶彦編曲)、功刀丈弘演奏<br /> : 2006年[[5月9日]]の放送では[[心斎橋]][[CLUB QUATTRO]]から、12月8日の放送ではこの番組のスタジオで、2人が生演奏を披露した。このテーマ曲は12月6日に発売されたアルバム『Beyond the Sunset』に収録されている。2007年4月6日の放送ではエンディングにて功刀が[[又兵衛桜]]の下で演奏した。また、番組最終回の2015年3月27日のエンディングは「Beyond the Sunset」が流れ番組キャスターが挨拶を行った。<br /> * 2012年10月1日 - 2015年3月27日:「PRECIOUS TIME」- 作曲:葉加瀬太郎、編曲:[[鳥山雄司]] 演奏:[[柏木広樹]](チェロ)<br /> : 10月17日から関西テレビの携帯サイト「ケータイdeカンテ-レ」にて配信開始&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;配信開始時には先着200名限定で無料で配信された。&lt;/ref&gt;。また、[[11月12日]]の放送にて、柏木が生演奏を行い葉加瀬と出演し自身と柏木のCDのPRを行った。<br /> <br /> === スタジオセット ===<br /> * 初代:2006年4月3日 - 2012年9月28日<br /> * 2代目:2012年10月1日 - 2015年3月27日<br /> <br /> == 週末版 ==<br /> * ニューススタジオ(選挙前やニューススタジオが改修工事などで使用できない場合は報道センター)からローカルニュースと天気予報を伝えていた。<br /> ; キャスター<br /> * 坂元龍斗(土曜)<br /> * 林弘典(日曜)<br /> ; タイムテーブル<br /> {| class=&quot;wikitable&quot; style=&quot;text-align:reft; margin:0 auto&quot;<br /> |-<br /> !colspan=&quot;3&quot; style=&quot;background-color: beige&quot; | 『&#039;&#039;&#039;FNNスーパーニュースWEEKEND&#039;&#039;&#039;』<br /> |-<br /> ! 時刻 !! 内容 !! 備考<br /> |-<br /> | 17:30.00 || ヘッドライン・全国ニュース || 全国ニュースパート。<br /> |-<br /> | || WEEKEND SPORTS || <br /> |-<br /> |   || WEEKEND FLASH ||<br /> |-<br /> | 17:48頃 || ローカルニュース || 関西ローカルパート。全国ニュースで放送された関西エリアのニュースも、重大であれば再度放送することがある。<br /> |-<br /> |17:53.00 || お天気コーナー || <br /> |-<br /> |    || エンディング ||<br /> |-<br /> |    || ENDクレジット || ENDクレジットはフジテレビで使われているデザインをベースに自社で製作したものを、エンディングテーマ曲は「&#039;&#039;&#039;FNNスーパーニュースKANSAI&#039;&#039;&#039;」と同じものを使用。<br /> |}<br /> <br /> == 関西テレビ歴代の夕方ローカルニュース番組 ==<br /> * 1978年10月2日 - 1984年9月28日 『[[アタック630]]』(平日)<br /> * 1984年10月1日 - 1997年3月29日 『[[アタック600]]』(平日 → 月曜日 - 土曜日)<br /> ** 1986年4月6日 - 1997年3月30日 『[[アタック530]]』(日曜日)<br /> * 1997年3月31日 - 1998年3月27日 『[[アタック ザ・ヒューマン]]』(平日)<br /> * 1998年3月30日 - 2001年4月1日 『[[FNNスーパーニュースKANSAI]]』<br /> * 2001年[[4月2日]] - 2006年3月31日 『[[FNNスーパーニュースほっとKANSAI|FNNスーパーニュースほっとカンサイ]]』 → 『FNNスーパーニュースほっとKANSAI』(平日)<br /> ** 2001年[[4月7日]] - 2015年3月29日 『[[FNNスーパーニュースWEEKEND]]』(週末)<br /> * 2006年4月3日 - 2015年3月27日 『FNNスーパーニュースアンカー』(平日)<br /> * 2015年3月30日 - 2017年3月24日『[[みんなのニュース ワンダー|ゆうがたLIVE ワンダー]]』(平日)→ 『みんなのニュース ワンダー』<br /> ** 2015年4月4日 - 2018年4月1日『[[FNNみんなのニュースweekend]]』(週末)<br /> * 2017年3月27日 - 現在『[[みんなのニュース 報道ランナー]]』→『報道ランナー』(平日)<br /> ** 2018年4月7日 - 『[[プライムニュース イブニング]]』(週末)<br /> <br /> == 制作上の問題 ==<br /> === 「インタビュー映像偽装」問題 ===<br /> 当番組では、「大阪市役所に勤務する複数の職員が、公務時間外である深夜・早朝に、[[アルバイト]]として[[新大阪駅]]で[[東海道新幹線]]に関する土木作業へ従事している」&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;現行の[[地方公務員法]]第38条では、地方公務員が任命権者(勤務する地方公共団体の首長)の許可を得ないまま、在職中に報酬の支払いを伴う事業や事務を兼業することを禁止している。&lt;/ref&gt;という内部告発者からの情報を基に、2012年11月に告発者本人へのインタビューを実施。関西テレビ本社の会議室内で、報道局の記者・カメラマンと制作会社のスタッフから成る取材クルーが、匿名を条件にインタビュー映像を収録した。その際に、告発者が「自分の体が(映像に)全く映らないようにしてほしい」と要望したため、制作会社に所属する撮影スタッフの後姿をカメラマンが撮影。撮影後の編集で後姿にモザイク処理を施した映像に、ピンマイクから収録した告発者本人の音声を乗せたうえで、同月30日第2部(18時台)の「アンカー特集」で放送した。<br /> <br /> しかし、放送された映像の表現に疑問を抱いた取材スタッフが、放送の数日後に報道局の幹部へ相談。報道局では内部調査を実施したうえで、インタビュアーを務めた記者を、口頭による厳重注意に処した&lt;ref&gt;[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130313/ent13031309170005-n1.htm 『あるある問題』の関テレが報道映像を偽装 匿名インタビューの人物入れ替え]2013年3月13日 msn産経ニュース&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 関西テレビでは、以上の問題に関する一部メディアでの報道を受けて、2013年3月13日付で視聴者への謝罪と今後の再発防止に向けた声明を発表。当該表現については、「事実ではないことをでっち上げて伝える『ねつ造』や、事前に示し合わせて相手に作為的に行なわせる『やらせ』には当たらない」としながらも「内部告発者を保護するためとはいえ、不適切な映像表現であった」との見解を示した。同日放送の当番組でも、アンカーマンの山本がこの声明を紹介するとともに、視聴者へ謝罪している。<br /> <br /> これに対して、[[放送倫理・番組向上機構|放送倫理・番組向上機構(BPO)]]の放送倫理検証委員会では、「取材・制作の手法にも、放送後の対応にも、放送倫理上の問題があることは明らか」として2013年4月から以上の問題を審議&lt;ref&gt;[http://www.bpo.gr.jp/?p=6450&amp;meta_key=2013 放送倫理・番組向上機構 第70回放送倫理検証委員会議事概要]&lt;/ref&gt;。同年8月2日付で公表された委員会決定(第16号)では、「テレビを信じてモザイク映像の放送を容認している視聴者の信頼を裏切るような『許されない映像』が放送されたことに問題の本質がある」と指摘したうえで、「(1)社内でのチェックが機能せず問題のインタビュー映像を放送してしまったこと(2)問題が発覚してから(新聞報道で判明するまで)3ヶ月余りにわたって(1)の問題を視聴者に伝えなかったことが放送倫理に違反する」との見解を示している&lt;ref name=&quot;gisou&quot;&gt;[http://www.bpo.gr.jp/?p=6629&amp;meta_key=2013 放送倫理・番組向上機構 放送倫理検証委員会 委員会決定:関西テレビ『スーパーニュースアンカー』「インタビュー映像偽装」に関する意見]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 関西テレビでは、上記の決定を受けて、2013年8月9日に改めて社内関係者への処分を決定。報道局長を減給、報道局専任部長およびインタビューを担当した記者を譴責に処した。また、報道担当の取締役が、役員報酬の一部を自主的に返上している&lt;ref&gt;[http://www.ktv.jp/info/130809.html 関西テレビ放送2013年8月9日付プレスリリース「報道番組における処分について」]&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20130809-OYT1T00923.htm 虚偽映像放送の関西テレビ、報道局長を減給]2013年8月9日 讀賣新聞&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 東大阪市による土地購入についての報道をめぐる訴訟 ===<br /> 当番組では2012年5月29日の放送で、「[[大阪府]][[東大阪市]]が2011年に市内の土地を[[消防署]]出張所用地として購入した際に、その土地を所有する消防団団長の男性に対して、土地代とは別に移転補償費を支払った」と報道。「消防団団長に不自然な“補償”?」という字幕や、「工事関係者」と称する人物による「(移転補償費に通常の)10倍近い金額が付いているような感じがする」という証言などを交えて紹介した。<br /> <br /> 消防団長側はこの報道に対して、「東大阪市が購入した出張所用地は、団長が役員を務める建設会社の所有地であるため、移転補償費は団長本人ではなく会社に支払われた」「移転補償費は、複数の専門家による鑑定によって適正に算出したもので、敷地内の土や鋼材を撤去する費用に充てた」と指摘。「土地の売買で違法な利益を得たかのように報じられたことで、名誉を傷つけられた」として、関西テレビに慰謝料などの支払いと謝罪放送を求める[[民事訴訟]]を[[大阪地方裁判所]]に起こした。<br /> <br /> 大阪地方裁判所では、この訴訟について、2013年7月16日付で和解を勧告。関西テレビが消防団長に対して「(上記の報道によって)誤った印象、憶測を与え、名誉を著しく傷つけたことを陳謝する」と謝罪するとともに、団長に解決金を支払うことで合意に達した&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/national/update/0807/OSK201308060181.html 関テレ、消防団長と和解 土地買収巡る報道で解決金]2013年8月7日 讀賣新聞&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130807-OYT1T00253.htm?from=blist 土地購入報道の訴訟、関テレ和解・・・解決金支払い]2013年8月7日 讀賣新聞&lt;/ref&gt;。ちなみに当番組では、和解決定後の同月18日放送分エンディングで、アンカーマンの山本が「(上記の報道について)事実と異なる部分があった」と謝罪している&lt;ref&gt;[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201308/2013080700418 関西テレビ、誤報で和解=土地売買めぐる報道で - 大阪地裁]時事通信2013年8月7日付配信記事&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 第23回参議院議員通常選挙関連の特集における特定候補者への集中的な報道 ===<br /> 当番組では、[[第23回参議院議員通常選挙]]公示前([[2013年]][[6月10日]])の放送で、改正[[公職選挙法]](同年[[4月19日]])の適用によって同選挙から条件付きで解禁される[[インターネット選挙運動]]を特集。同選挙へ[[自民党]]から[[比例代表]]候補として出馬を表明していた太田房江(元大阪府知事)が、およそ2分間出演した&lt;ref&gt;同選挙で[[参議院議員]]に初当選&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> BPOでは、上記選挙への立候補予定者から太田だけをこの特集へ出演させたことについて、「選挙の公平公正を害する」と指摘。[[2013年]][[9月13日]]には、放送倫理上の問題を指摘された他局の案件とともに、放送倫理検証委員会で審議を開始することを発表した&lt;ref&gt;[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/09/13/kiji/K20130913006612111.html]2013年9月13日 スポーツニッポン&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 特記事項 ==<br /> * 水曜アンカーコメンテーターの青山は、水曜アンカー、自身のコーナーの視聴が日本全国、[[在外日本人]]から[[YouTube]] 等の[[動画共有サービス]]にて多いので、著作権違反を承知の上、多くの人に見て貰う事を優先し、動画共有サービスで視聴する事を勧めている&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;2011年11月7日、『[http://live.nicovideo.jp/watch/lv68793458 青山繁晴の地獄の果てまで生ニコニコ]』にて青山がハゲの話題を頻繁に取り上げていることに対する回答。&lt;/ref&gt;。それと同時に、ニュースDEズバリのコーナーを幾らか視聴料を払ってでも配信するように提案を行っており、何度も関西テレビと交渉していると明かしていたが、結局の所、番組終了時点で実現はされる事は無かった&lt;ref&gt;[http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/ffdf1e59f427cffc41edd1bc1b37c850 青山繁晴の道すがらエッセイ-ネットを活かして生きる、すべてのひとへ]&lt;/ref&gt;。<br /> * 2012年1月以降、青山はアンカーの放送翌日に番組参加(出演)している『ザ・ボイス そこまで言うか!』(ニッポン放送)&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;水曜、木曜のコメンテータである青山、宮崎がレギュラー参加(出演)、月曜、火曜のコメンテーターである須田、有本が代理出演する番組である。ザ・ボイスの中でもアンカーの話題は何度も取り上げられる。&lt;/ref&gt;にて番組で話した内容の話題に取り上げ、かつニュースDEズバリにて時間が足りず話す事が出来なかった部分、また新たに得た情報について、ザ・ボイスの番組内で補足を行っていた&lt;ref group=&quot;注&quot;&gt;「[[青山繁晴]]」を参照。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === ニュースDEズバリの付随内容 ===<br /> * 2006年11月17日の放送では、映画『[[硫黄島からの手紙]]』の主役で[[栗林忠道]]中将を演じた主役の[[渡辺謙]]の生出演を各局競合の中で実現。番組では当時、栗林中将から日本本土で暮らす家族に宛てた愛情溢れる手紙や、大本営に打電した決別電報を遺族の自宅から初めて借り受けスタジオで実物を紹介した。その後、12月9日に青山が[[産業経済新聞社|産経新聞]]・フジテレビ([[フジサンケイグループ]])共同所有の取材用ジェット機[[セスナ サイテーション|セスナ501サイテーション]]「オーロラ」号に搭乗し、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]に入り取材し&lt;ref&gt;青山繁晴 「ぼくらの祖国」 [[扶桑社]]、2011年、160~165頁&lt;/ref&gt;、翌週の12月13日のニュースDEズバリのコーナーで放送した。それから約5年後の2011年8月17日の放送で映画『[[シャンハイ (映画)|シャンハイ]]』でタナカ大佐役で出演した渡辺が再び生出演し、前アンカーマンの山本と青山との生対談が行なわれた&lt;ref&gt;[http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/424b42c87b3a5245b6e2552006d3522d ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ-長すぎる書き込み(1/2)]&lt;/ref&gt;。<br /> * 2009年12月14日放送分において山本が[[小沢一郎]]民主党幹事長(当時)に対する苦言を呈したことから降板させられたという噂が広まったが、青山のブログのエントリーにて山本の忌引休暇を取った理由が語られており、この噂を完全に否定している。山本は17日放送分より復帰している&lt;ref&gt;[http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/3aca14f96c87114d85a9a21fd0a27300 ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ- 最後に決めるのは誰か]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 脚注・出典 ==<br /> === 注釈 ===<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2|group=&quot;注&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[KTVニュース]]([[年末年始]]のみ、夕方ニュース)<br /> * [[関西テレビ番組一覧]]<br /> * [[FNNスーパーニュース]](フジテレビ)<br /> * FNNスーパーニュースWEEKEND(フジテレビ)<br /> * [[ザ・ボイス そこまで言うか!]]([[ニッポン放送]])<br /> * [[飯田浩司のOK! Cozy up!]](ニッポン放送)<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://web.archive.org/web/20141006073257/http://www.ktv.jp/anchor/index.html FNNスーパーニュースアンカー(ウェブアーカイブ)]<br /> * {{Facebook|ktvgimon}}(関西テレビ 金曜日のギモン)<br /> * {{Twitter|gimon_ktv|ギモン隊}}(金曜のギモン)<br /> <br /> {{前後番組<br /> |放送局= [[関西テレビ放送|関西テレビ]]<br /> |放送枠= [[平日]]17時台の[[KTVニュース]]<br /> |番組名= スーパーニュースアンカー&lt;br /&gt;(本番組より関西テレビ制作)<br /> |前番組= [[FNNスーパーニュース|スーパーニュース]]&lt;br /&gt;(本番組まで[[フジテレビジョン|フジテレビ]]制作)<br /> |次番組= [[みんなのニュース ワンダー|ゆうがたLIVE ワンダー&lt;br /&gt;↓&lt;/br /&gt;みんなのニュース ワンダー]]<br /> |2放送局= 関西テレビ<br /> |2放送枠= 平日18時台のKTVニュース<br /> |2番組名= FNNスーパーニュースアンカー<br /> |2前番組= [[FNNスーパーニュースほっとKANSAI]]<br /> |2次番組= ゆうがたLIVE ワンダー&lt;br /&gt;↓&lt;/br /&gt;みんなのニュース ワンダー<br /> }}<br /> {{大阪府内テレビ局の夕方ニュース番組}}<br /> {{DEFAULTSORT:えふえぬえぬすうはあにゆうすあんかあ}}<br /> [[Category:2006年のテレビ番組 (日本)]]<br /> [[Category:FNNスーパーニュース|すうはあにゆうすあんかあ]]<br /> [[Category:関西テレビの帯番組の歴史]]<br /> [[Category:近畿地方のテレビのニュース・報道番組の歴史]]</div> 65.99.80.122
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