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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-06-20T01:49:24Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
ジミ・ヘンドリックス
2018-08-06T05:26:09Z
<p>27.139.215.32: /* ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス結成 */</p>
<hr />
<div>{{Redirect|ジミヘン|[[中崎タツヤ]]の漫画|じみへん}}<br />
<br />
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--><br />
| Name = Jimi Hendrix<br />ジミ・ヘンドリックス<br />
| Img = Jimi Hendrix 1967.png<br />
| Img_capt = [[オランダ]]のテレビ番組でプレイ中のジミ (1967年6月)<br/>[[File:Hendrix.svg|180px]]<br/>署名<br />
| Img_size = 220px<!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --><br />
| Landscape = <br />
| Background = solo_singer<br />
| Birth_name = Johnny Allen Hendrix、のちにJames Marshall Hendrix<br />
| Alias = Jimi Hendrix、ジミ・ヘン、ジミヘン<br />
| School_background = <br />
| Born = [[1942年]][[11月27日]]<br />
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1942|11|27|1970|9|18}}<br />{{ENG}}・[[ロンドン]]<br />
| Origin = {{USA1912}}<br/> [[ワシントン州]][[シアトル]]<br />
| Instrument = [[ギター]]<br />[[ヴォーカル]]<br />
| Genre = [[サイケデリック・ロック]]<br />[[ハードロック]]<br />[[ブルースロック]]<br />
| Occupation = [[ロック (音楽)|ロック]][[ミュージシャン]]<br />[[ギタリスト]]<br />[[シンガーソングライター]]<br />
| Years_active = [[1963年]] - [[1970年]]<br />
| Label = [[RSVP]]<br />[[トラック・レコード]]<br />[[バークリー・レコード]]<br />[[ポリドール・レコード|ポリドール]]<br />[[リプリーズ・レコード|リプリーズ]]<br />[[キャピトル・レコード|キャピトル]]<br />[[MCAレコード|MCA]]<br />[[レガシー・レコーディングス|レガシー]]<br />[[コロムビア・レコード|コロムビア]]<br />
| Production = <br />
| Associated_acts = [[ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス]]<br />[[スティーヴ・ウィンウッド]]<br />[[バンド・オブ・ジプシーズ]]<br />[[アイズレー・ブラザーズ]]<br />[[リトル・リチャード]]<br />[[ライトニン・ロッド]]<br />[[ジョニー・ウィンター]]<br />[[バーナード・パーディー]]<br />[[バディ・マイルズ]]<br />[[ジム・モリソン]]<br />
| Influences = [[チャック・ベリー]]<br />[[B.B.キング]]<br />[[エルモア・ジェイムズ]]など<br />
| URL = [http://www.jimihendrix.com/ www.jimihendrix.com]<br />
| Notable_instruments = {{unbulleted list|[[フェンダー・ストラトキャスター]]|[[ギブソン・フライングV]]}}<br />
}}<br />
<br />
'''ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス'''(James Marshall Hendrix、[[1942年]][[11月27日]] - [[1970年]][[9月18日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[ミュージシャン]]、[[シンガーソングライター]]。'''ジミ・ヘンドリックス'''(Jimi Hendrix)の名で親しまれ、[[日本]]では「'''ジミヘン'''」の[[略称]]で呼ばれることもある。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
[[ギタリスト]]として多くのミュージシャンに多大な影響を与えた[[ロック (音楽)|ロック]]ミュージックのパイオニアの一人。右利き用のギターを逆さまにして左利きの構えで演奏するスタイルで知られる。ギターを[[歯]]や[[背中]]で弾き、[[火]]を放ち、破壊する[[パフォーマンス]]でも有名。<br />
<br />
「[[ローリング・ストーン]]誌が選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第1位、2011年の改訂版でも第1位に選ばれている<ref>{{cite web |url=http://www.rollingstone.com/news/story/5937559/the_100_greatest_guitarists_of_all_time |title=The 100 Greatest Guitarists of All Time |date=2003-08-27 |publisher=[[Rolling Stone (magazine)|Rolling Stone]]|accessdate=2008-05-08}}</ref>。[[2008年]]5月に[[ブラジル]]の[[ヘヴィメタル|メタル]]専門誌『ROADIE CREW』が行った「HR/HM系ミュージシャンが選ぶギタリスト・ランキング」<ref>{{cite web |url=www.roadrunnerrecords.com/blabbermouth.net/news.aspx?mode=Article&newsitemID=97298 |title=Top Heavy Metal Musicians Select Favorite Guitarists Of All Time - May 19, 2008|accessdate=2010-11-19}}</ref>、『[[リットーミュージック|ギター・マガジン]]』2010年12月号の「ギター・マガジンが選ぶ! 史上最も偉大なギタリスト100人」で1位となっている。<br />
<br />
また、「ローリング・ストーン誌が選ぶ歴史上最も偉大な100組のスター」においては第6位に選ばれている。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
[[ファイル:Bertran Philander Ross Hendrix and Zenora "Nora" Rose Hendrix.jpg|thumb|160px|left|ジミ・ヘンドリックスの父方の祖父母(1912年以前)]]<br />
1942年、[[ワシントン州]][[シアトル]]に生まれる(デビューアルバムの裏には1945年生まれと記されている)。出生時の名前は、'''ジョニー・アレン・ヘンドリックス'''(Johnny Allen Hendrix)で、母ルシールによって名付けられた。父のアルことジェームズ・アレン・ヘンドリックスは、[[アフリカ系アメリカ人|アフリカ系]]の父親と[[アメリカ先住民|インディアン]]<!--「ネイティブ・アメリカン」は民族名ではありません-->の母親との間に生まれた[[ブラック・インディアン]]である。純血の[[チェロキー|チェロキー族]]だった父方の祖母ノラ・ヘンドリックスから、幼少期のヘンドリックスはチェロキー族の昔話を教えられたという。その影響はヘンドリックスの作る曲のそこかしこに見いだされる。ルシールは17歳でヘンドリックスを産んだが、遊び好きで家庭を顧みないところがあったといわれ、幼いヘンドリックスを置いて出奔し、数年後に亡くなっている。名曲「[[:en:Angel (Jimi Hendrix song)|Angel]]」は、亡きルシールが夢に現れたことから生まれたとされる<ref>{{cite web<br />
|url=http://www.djnoble.demon.co.uk/ints/CARLOSS.ANT.html |title=Carlos Santana on Jimi Hendrix |publisher=UniVibes |month=February | year=1995 |accessdate=2007-09-18}}</ref>。<br />
<br />
ヘンドリックスの誕生当時、アルは[[第二次世界大戦]]に招集され出征中だった。母ルシールが出奔してしまったため、ヘンドリックスはルシールの姉夫婦の元で育てられていたという。終戦後の[[1945年]]、帰国したアルがヘンドリックスを引き取り、父一人、息子一人の生活が始まった<ref group="注釈">アルとルシールの間にはもう一人の息子、レオン(ヘンドリックスの弟)がいる。</ref>。この頃、'''ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス'''と改名している(父アルの談話)。アルとルシールの折り合いが悪かった影響もあり、ヘンドリックスはたびたび祖母ノラ・ヘンドリックスの元に預けられていたという。ノラは[[インディアン居留地]](Reservation)に住んでおり、ヘンドリックスはノラからインディアンの昔話を聞かされるのと同時に、居留地で希望のない生活を送るインディアンたちの姿を目の当たりにしていたという(ヘンドリックスの談話)。「[[:en:I Don't Live Today|I Don't Live Today]](今日を生きられない)」はその体験から生まれたと言われている<ref>Room full of mirrors, c cross, hyperion, 2005, p. 33-41.</ref>。<br />
<br />
=== 音楽への傾倒 ===<br />
多くの[[ブルース]]や[[ロック (音楽)|ロック]]のミュージシャンと同様、ヘンドリックスも[[レコード]]などを聴いて、独学でギター演奏を学んだ(父アルの談話)。父アルは庭師の仕事をしていたが、生活は貧しかった。ヘンドリックスが15歳の頃ギターに興味を示したため、アルは当時のアパートの家主の息子から古い[[アコースティックギター]]を5ドルで買い取り、ヘンドリックスに与えた。これがギターとの最初の出会いだった<ref>{{cite book|last=Hendrix|first=James A.|title=My Son Jimi|publisher=AlJas Enterprises|year=1999}}</ref>。<br />
その後、シアトルの楽器店から初めてのエレクトリックギターを購入している(父アルの談話)。ヘンドリックスは、ブルースや[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、[[ロックンロール]]のレコードを聴いて練習する一方、テレビの[[アニメ]]などの[[バックグラウンドミュージック|BGM]]や[[効果音]]も熱心にコピーしていたという(ヘンドリックスの幼なじみの談話)。<br />
<br />
少年期のヘンドリックスはアマチュア・バンドで経験を積み、全米ナンバーワンバンドの座を得たこともあったという(父アルの談話<ref>「Esquire」1993年4月号。</ref>)。しかし自動車窃盗の罪で[[1961年]]5月2日逮捕された。その際、投獄されるのを回避するために[[アメリカ合衆国陸軍|陸軍]]に志願して入隊、精鋭部隊・[[第101空挺師団 (アメリカ軍)|第101空挺師団]]へと配属された。一緒に軍役についていた仲間の中に、後にバンド・オブ・ジプシーズを組む黒人ベーシストの[[ビリー・コックス]]がおり、軍隊内の[[クラブハウス]]で一緒に演奏することもあった<ref name="CoxAllmusic">{{cite web|url=http://www.allmusicguide.com/cg/amg.dll?p=amg&sql=11:hikzikn6bbf9~T1|title=Billy Cox. Biography|last=Prato|first=Greg|publisher=Allmusicguide.com|accessdate=2008-02-12}}</ref>。当時は[[ベトナム戦争]]が開戦したばかりの時期だったが、ヘンドリックスはベトナムの戦地に行っていない。しかし従軍の経験が[[ウッドストック・フェスティバル]]での「[[星条旗 (国歌)|The Star Spangled Banner]]」の演奏や、バンド・オブ・ジプシーズの「[[:en:Machine Gun (Jimi Hendrix song)|Machine Gun]]」の誕生につながったと言われている<ref>Live at the Fillmore East: Jimi Hendrix</ref>。<br />
<br />
やがてヘンドリックスは陸軍を除隊する。イギリス人の音楽記者[[クリス・ウェルチ]]が'70年代初頭に著した伝記などでは、パラシュートの降下訓練で負傷したため軍隊を除隊になった、という説明がなされている。[[2005年]]にアメリカ国内で公表された軍内部の記録によると、薬物、ギターにしか興味を示さない隊内部の劣等兵で、常に隊の規律を乱して問題視されていた<ref>[http://www.thesmokinggun.com/archive/0803051jimi1.html Documentazione relativa al periodo di Hendrix nell'esercito]</ref>。ヘンドリックスは早期に軍役を終えて音楽活動に移ろうと考え、軍隊で忌み嫌われる[[同性愛者]]を装うなど、故意に問題を起こしていたという説もある。<br />
<br />
最終階級は三等[[軍曹]]。<br />
<br />
除隊後に本格的に音楽活動を始めるが、当時は無名のバックミュージシャンだった。[[アイク&ティナ・ターナー]]や[[アイズレー・ブラザーズ]]など、数々の有名ミュージシャンのバックでプレイし、全米各地へのツアーにも同行していた。一時期は[[リトル・リチャード]]のツアーにバックメンバーで参加しており、音が大きく衣装やアクションが派手だったことから、リチャードに「俺より目立つな!」と怒られるほどだった(リチャードの談話)。<br />
<br />
=== ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス結成 ===<br />
<br />
[[ファイル:Jimi Hendrix Experience in Fenklup.png|thumb|210px|テレビ番組でのザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの演奏(1967年)]]<br />
[[1966年]]7月、[[アニマルズ]]のベーシストだった[[チャス・チャンドラー]]に見いだされ、9月に渡英する。チャンドラーにヘンドリックスの情報をもたらしたのは、[[キース・リチャーズ]]([[ローリング・ストーンズ]]のギタリスト)の恋人だった[[リンダ・キース]]である<ref>{{cite book|title=Through Gypsy Eyes| author=Kathy Etchingham and Andrew Crofts| publisher=Orion| year=1998}}</ref>。<br />
当時のヘンドリックスは単なるバックミュージシャンを脱し、自らのバンド「ジミー・ジェームズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズ」を率いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス1人だけだった。チャンドラーはヘンドリックスの演奏を初めて聴いた際、「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」と感じたという。チャンドラーに渡英を勧められ、ヘンドリックスはイギリスで自分のようなブルース系ミュージシャンが受け入れられるか不安だったらしく、イギリスの音楽シーンについて多くの質問を投げかけた。そして、自分と同系とみなしていたイギリス人ギタリストの[[エリック・クラプトン]]の名を挙げ「会わせてくれるか?」とチャンドラーに尋ねている。チャンドラーは「君の演奏を聴いたら彼(クラプトン)の方から会いに来るよ」と答えている(チャンドラーの談話<ref>クリス・ウェルチ著「ジミ・ヘンドリックスの伝説」</ref>)。<br />
<br />
[[ロンドン]]に於いて[[オーディション]]を行い、[[ノエル・レディング]]([[エレクトリックベース|ベース]])、[[ミッチ・ミッチェル]]([[ドラムセット|ドラムス]])と共に「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス([[:en:The Jimi Hendrix Experience|The Jimi Hendrix Experience]])」を結成。1966年10月から活動を始め、名前を'''ジェームズ'''(Jimmy)から、'''ジミ'''に変えた。イギリス国内でクラブ出演を重ねる一方、[[ポリドール・レコード|ポリドール]]系の[[トラックレコード]]からデビューシングル「[[:en:Hey Joe|Hey Joe]] / [[:en:Stone Free|Stone Free]]」をリリース。全英4位のヒットを記録しスターの座に上る。<br />
<br />
アメリカの伝統的なブルースをベースにしながら、それまで誰も聞いたことのなかった斬新なギターサウンドや卓越した演奏技術、そして圧倒的な[[インプロヴィゼーション]]能力を披露することにより、ヘンドリックスは一般の音楽ファンはもちろんプロのミュージシャン達にも大きな衝撃を与えた。渡英したばかりのヘンドリックスの演奏を初めて目の当たりにしたエリック・クラプトンは「誰もジミー(Jimmy)のようにギターを弾くことはできない」という言葉を残している。後年、[[ジェフ・ベック]]は、「(メジャーデビューしたばかりのヘンドリックスの演奏を聴いて)廃業を考えた」と語っている(英国BBCの音楽番組のインタビュー)。ヘンドリックスのステージには連日[[ビートルズ]]やストーンズなどのメンバーが顔を見せ、出演するクラブには長蛇の列ができたという<ref>[[ピーター・バラカン]]は「1966年末にレディ・ステディ・ゴー(テレビ番組)に出演したヘンドリックスを見て衝撃を受けた。1967年の正月にメロディ・メーカー(音楽誌)からヘンドリックスのライブの情報を知り、マーキークラブ(ロンドンのライブハウス)に出かけたら、開場前から観客が長蛇の列で、定員の3倍近くいたと思う。マーキーであんなのは後にも先にも見たことがない。中はぎゅうぎゅう詰めで動けない。ミリタリーファッションや演奏などヘンドリックスのライブには生涯最大級の衝撃を受けた」と語っている。「レコード・コレクターズ」1987年7月号。「ルーディーズ・クラブ」8号1992年。</ref>。<br />
<br />
[[ファイル:Jimi Hendrix 1967.jpg|thumb|left|280px|ストックホルムにて(1967年)]]<br />
[[1967年]]の夏、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは米カリフォルニア州[[モンタレー]](モントレーと表記される場合もあり、[[スイス]]の[[モントルー]]と混同している例があるので注意)で開催された世界初の本格的野外[[ロックフェスティバル]]、[[モンタレー・ポップ・フェスティバル]]に出演。これは同フェスティバルのイギリスでの世話役だった[[ポール・マッカートニー]](ビートルズ)が、「ジミを出さないフェスティバルなどありえない」と熱心に推挙したためと言われる。ヘンドリックスはモンタレーで、聴衆を圧倒する演奏とギター燃やしのパフォーマンスを炸裂させ、母国アメリカでも一気にスターダムにのし上がった。<br />
<br />
イギリスでデビューしたヘンドリックスだが、モンタレー出演などで母国アメリカで成功を収めた後は、アメリカを本拠として活動するようになった。全米をくまなくツアーする過密スケジュールの合間にスタジオでのレコーディングも続け、[[1968年]]にアルバム『エレクトリック・レディランド』をリリースした。<br />
<br />
[[ファイル:Jimi Hendrix experience 1968.jpg|thumb|180px|ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス(1968年)]]<br />
ヘンドリックスは演奏技術が高かっただけではなく、ギターを歯で弾いたり、あたかも男性器のように扱ったり<ref>ギターネックを片手でシゴいたり手首を下腹部に固定してギターの弦を弾きながら指をうねうねと大袈裟に動かしたりギターボディのボトムを股間に押し当てて痙攣など</ref>した末、床に叩き付けて火を放つなど、激しくセクシーなステージアクションも人気の要因だった。また、古い軍服を身につけ(ミリタリー・ファッション)、強くパーマをかけた独特のヘアスタイル(エレクトリック・ヘア)をトレードマークにするなど、ファッション面でも注目を集めた。そのため「ブラック・エルヴィス」(黒人の[[エルヴィス・プレスリー]])、「ワイルドマン」といった異名も生まれ、センセーショナルな扱いを受けることが多かった。しかし生身のヘンドリックスはシャイで礼儀正しい人物だったという証言も多い。[[マイルス・デイヴィス|マイルス・デイビス]]によれば、ヘンドリックスは世間のワイルドなイメージとは逆だったという<ref name="davis">『マイルス・デイビス自叙伝II』(マイルス・デイビス&クインシー・トループ著、中山康樹訳、宝島社文庫、ISBN 4-7966-1683-7)p.131, 153-154</ref>。<br />
<br />
黒人でありながら白人向けのロックスターとして売り出されたのも異例なことだった<ref>Billboard R&B charts 1967・1971</ref><ref name="soul-patrol.com">http://www.soul-patrol.com/funk/jh_bog.htm</ref>。<br />
白人の若者達にとって神のごとき[[アイドル]]となった一方、黒人の[[公民権運動]]が隆盛を見せていたアメリカでは、同じ黒人達から「裏切り者」と見なされる面もあった。そのため、黒人向けの音楽を主体としていた[[ラジオ局]]などでは、ヘンドリックスの曲は徹底的に無視された。さらには黒人運動家とそれをなだめたい白人政治家の両方が、黒人なのに白人に支持されているヘンドリックスの立場を利用したがっていたと言われる。ヘンドリックス自身はあまり政治的な人間ではなかったという論評が多いものの、暗殺された黒人指導者[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]のために寄付を行ったこともある。ヘンドリックスは同胞である黒人層に今ひとつ受け入れられないことに悩んでいた(ビリー・コックスの談話)が、マネージメント側はヘンドリックスをあくまでも白人向けロックスターとして売っていく方針だったといわれる。<br />
<br />
ヘンドリックスが先輩ギタリストの[[ハウリン・ウルフ]](黒人)と共演した際、ウルフはヘンドリックスを「白人と組んで金儲けをしている裏切り者」となじった。ヘンドリックスはウルフの発言に黙って耐えていたという([[ジョニー・ウィンター]]の談話)。<br />
とはいえ、マイルス・デイビスのように存命中からヘンドリックスを高く評価していた黒人アーティストも存在する。<br />
<br />
=== エクスペリエンス解散とバンド・オブ・ジプシーズ結成 ===<br />
多くのロックバンドの例に漏れず、過密なスケジュールや精神的なプレッシャーにより、バンドや周辺の人間関係は悪化していった<ref>{{cite book |title=From The Benjamin Franklin Studios Part 1 |year=2008 |page=318 |author=Gary Gealdart & Steve Rodham}}</ref>。<br />
まず、ヘンドリックスの音楽面でのプロデューサーだったチャス・チャンドラーが、混乱した状況に嫌気がさして『エレクトリック・レディランド』のレコーディングが行われている時期にヘンドリックスの元を去る。マネージャーのマイケル・ジェフリー(アニマルズのマネージャーでもあった)が完全に実権を握ることになったが、ヘンドリックスとジェフリーの関係は微妙で、ヘンドリックスはジェフリーと直接話をするのを避けていたという証言がある(ジェフリーの秘書の談話)。<br />
<br />
その後、ノエル・レディングが音楽上の意見の相違により脱退。そのため、デビュー当初のザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとしての活動は、[[1969年]]6月までである。レディング本人は「ギャランティ支払いの内容を明確にするよう求めたため解雇された」と主張している場合もあれば、「自分の知らない間にジミが次のベーシストを選考していると記者から言われ嫌気が差し脱退した」などと述べている場合もある{{refnest|1999年[[英国放送協会|BBC]]制作のドキュメンタリー番組「ジミ・ヘンドリックス―神になったギタリスト―」(原題: The Man They Made God)<ref group="注釈">「ギャラに関し疑問を呈したのが問題視された」といった説明を述べている。</ref>}}。ヘンドリックスが多重録音に凝りだしレコーディングに長い時間をかけるようになったこと、気まぐれで時間にルーズであること(約束の時間にレコーディングスタジオに現れず、遊び歩いている)などに対し、レディングは常に批判的な意見を表明していた<ref>{{cite web |url=http://www.bobwyman.com/hendrix.html |title=Jimi Hendrix plays The Denver Pop Festival June 29, 1969|author=Bob Wyman|accessdate=2009-04-11}}</ref>。<br />
<br />
レディング脱退後、ヘンドリックスはミッチ・ミッチェルと、軍隊時代からの友人ビリー・コックス(ベース)と共に、「ジプシー・サンズ&レインボウズ」として活動を開始。エクスペリエンスがトリオ編成だったのに対し、コンガなどのパーカションやサイドギターも加え、ビッグバンド結成を狙っていた<ref>{{cite book |title=The Studio Log (2008 ed)|author=Gary Geldeart & Steve Rodham|year=2008|page=74}}</ref>。<br />
<br />
1969年8月に開催された[[ウッドストック・フェスティバル]]に、ヘンドリックスは「ジプシー・サンズ&レインボウズ」を従え最終出演者として登場<ref group="注釈">演奏を始める前のバンド紹介で、ヘンドリックスは「別名はバンド・オブ・ジプシーズだ」と述べている。</ref>。[[フィードバック奏法|フィードバック]]や[[アーミング]]などエレクトリックギターの特殊奏法の限りをつくして、アメリカの国歌「[[星条旗 (国歌)|The Star Spangled Banner]]」を演奏した。この際にヘンドリックスは、爆撃機が空爆を行い民衆が泣き叫び逃げまどう様子を音で再現しており、一般には[[ベトナム戦争]]の戦場の様子を現した演奏と言われている<ref group="注釈">[[ミック・ジャガー]]はウッドストックにおけるヘンドリックスの演奏を「'60年代で最高のロック・パフォーマンス」と評している。</ref>。<br />
<br />
ヘンドリックスが目指したビッグバンド形態は、マネージメント側がそれを望まなかったことや、ヘンドリックスが多人数をまとめあげるには経験不足だったと見られることもあって長続きせず、1969年10月にはビリー・コックス(ベース)、[[バディ・マイルス]](ドラムス)と、3人編成の「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成する(全員がアメリカ人の黒人)。1969年12月31日〜[[1970年]]1月1日にニューヨークの[[フィルモア・イースト]]で行われたデビューコンサートの模様はアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』等で聞くことができる。同コンサートにおける「Machine Gun」の演奏を聞いたマイルス・デイビスは「'''俺はこういう音楽がやりたかったんだ'''」と語った(ヘンドリックスの友人でバックコーラスなどを務めたゲットーファイターズの証言)。<br />
<br />
イギリス人の白人(ミッチェルとレディング)に代わり、ヘンドリックスがアメリカの黒人2人と組んだ画期的な[[ファンク]]ロックバンドだったバンド・オブ・ジプシーズだが、ヘンドリックスのマネージメント側は黒人だけのグループに難色を示した。[[マディソン・スクエア・ガーデン]]での大規模な公演が失敗に終わり(ヘンドリックスが出番の前に知人から強い[[ドラッグ]]を渡されて服用し、まともに演奏が出来なかったためと言われる)、ヘンドリックスとバディ・マイルスの音楽面での確執もあったとされ、バンド・オブ・ジプシーズは1970年初頭に解散と短命に終わった。マイルスは「バンド・オブ・ジプシーズのリーダーは自分であり、名称などは自分が発案した」と度々発言しており、ヘンドリックスとの主導権争いも存在していたと言われる。またマイルスは自発的に脱退したのではなく、ヘンドリックスがマイケル・ジェフリーに命じて解雇させたという証言もある(ジェフリーの秘書の談話)。<br />
<br />
当時の多くのロックミュージシャンと同様、ヘンドリックスも薬物(ドラッグ)依存の傾向があった(LSDやヘロインなどを常用していたという証言がある)<ref>{{cite book|title=Jimi Hendrix, Musician|author=Keith Shadwick|year=2003|publisher=[[Backbeat Books]]|page=240}}</ref>。<br />
1969年にはカナダのトロント空港で麻薬不法所持の疑いで逮捕されたものの、裁判の後に嫌疑不十分で無罪となっている<ref>http://www.hollywoodmostwanted.com/jimihendrix.shtml</ref>。<br />
代表曲「[[パープル・ヘイズ]](紫のけむり)」はドラッグソングとされる場合もあるが、ヘンドリックスは「あれは海底を歩いている夢を見たことから生まれた曲」などと反論している。<br />
<br />
=== バンド・オブ・ジプシーズ解散後 ===<br />
[[ファイル:JimiHendrix T.JPG|thumb|300px|シアトル郊外にあるジミ・ヘンドリックスの墓]]<br />
「バンド・オブ・ジプシーズ」解散後は、ミッチ・ミッチェルとビリー・コックスをバックに活動を再開。アメリカやヨーロッパ、ハワイなどでコンサートを開催している。また、ニューヨークに自身のスタジオ、[[エレクトリック・レディ・スタジオ]]を建設。1970年8月末にはイギリスの[[ワイト島]]で開かれたフェスティバルに出演したが、その後のヨーロッパ・ツアーではドラッグによる体調不良や、コックスが精神不安でアメリカに帰国してしまうなどのトラブルが続いた。<br />
<br />
この間、元エクスペリエンスのノエル・レディングや、元マネージャーのチャス・チャンドラー(元アニマルズのベーシスト)が、コックスの代わりにベーシストを務めるのではといった憶測も飛んでいた(レディングには実際にヘンドリックスからオファーが届いていたという説もある)。<br />
<br />
そういった騒動でツアーが中断した時期、ヘンドリックスはチャンドラーの家を訪ね、「再び僕のマネージメントとプロデュースをしてほしい」と伝えようとしていた(チャンドラーの談話)。<br />
<br />
同年9月18日未明(深夜から早朝)、[[モニカ・ダンネマン]]という女性とロンドンのホテルに滞在中に[[急逝]]。死亡時は27歳。デビューからわずか4年ほどでの死だった。<br />
<br />
死亡原因は、睡眠前に酒と[[バルビツール酸系]][[睡眠薬]]を併用し、睡眠中に[[嘔吐]]したことによる窒息死とされる<ref group="注釈">[[IMDb]]にはバルビツール・[[オーバードース]]と表記されている。</ref>。「自殺」等の憶測も飛んだが、現在では否定されている。<br />
<br />
故郷である米ワシントン州シアトルでの葬儀には、ミッチ・ミッチェル、ビリー・コックス、ノエル・レディングといったバンドメンバーに加え、マイルス・デイビスなどのミュージシャンが数多く参列し、はなむけのセッションが行われた。<br />
<br />
== 謎の死 ==<br />
ヘンドリックスの死には不可解な点が多いと言われている。死亡する際に一緒にいたモニカ・ダンネマンの言動に不審な点があり、死の真相は謎のままであると指摘する声もある<ref>{{cite book|last=Cross|first=C.|year= 2005|title=Room Full of Mirrors|page= 334}}</ref>(ヘンドリックスの様子がおかしいのにダンネマンはすぐ救急車を呼ばなかった、ヘンドリックスの肺や胃やベッド上の[[吐瀉物]]から多量のワインが検出された、検出されたワインの量に対し体内のアルコール濃度が低かった、等)。<br />
<br />
ヘンドリックスの死の直前、ヘンドリックスと同室にいたダンネマンから[[エリック・バードン]](アニマルズ)に「ジミの様子がおかしい」との電話がかかってきたという。バードンが「すぐ医者(救急車)を呼べ」と促したのに対し、ダンネマンは「部屋にドラッグがあるから呼べない」という旨の返事をしたという(バードンの談話)。<br />
<br />
ダンネマンは「救急車で病院に運ぶ際、ジミが窒息しないよう寝かせておくべきなのに、救急隊員がジミを椅子に座らせる体勢で移送したため窒息してしまった」などと述べている。しかし、ホテルの部屋を訪れた救急隊員は、「ホテルに到着した際、ヘンドリックスは既に呼吸停止の状態で、蘇生の可能性は低かった。病院へ移送する際、椅子に座らせるような体勢を取らせた事実はない」と述べている。また、運び込まれた病院の医師は、「ヘンドリックスは病院に到着した時点で既に死亡していた」と述べている。ダンネマンの証言は二転三転し、信憑性が乏しいという見方がある<ref>ヘレン・シャビロ著『エレクトリック・ジプシー』、トニー・ブラウン著『実録ジミヘン最後の日』など。</ref>。ダンネマンは[[1996年]]に車の中に排気ガスを引き込み自殺した。<br />
<br />
生前のヘンドリックスは[[マフィア]]の金づるになっていたという説があり、誘拐されたこともあると言われる([[ノエル・レディング]]や[[ジョン・マクダーモット]]などの著書に記述がある)。ヘンドリックスはマフィアの手で睡眠中に大量のワインを飲まされ、溺死のような形で窒息死させられたのではないかという説も存在する<ref>{{cite web|url=http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/music/article6719597.ece| title="Doctor who tried to save Jimi Hendrix says murder claim plausible", The Times, 20 July 2009 | location=London|accessdate=2009-11-23}}</ref>。<br />
<br />
元[[ローディー]]のジェームズ・タッピー・ライトは、自著「Rock Roadie」の中で「ジミのマネージャーだったマイケル・ジェフリーが『自分がヘンドリックスを殺した』と言った」と証言している。ノエル・レディングは自著の中で「ジェフリーは飛行機事故で死亡したことになっているが、実は事故機に搭乗しておらず、生存しているのではないか。死んだはずのジェフリーを見たという目撃談もある」などと述べている。<br />
<br />
== ミュージシャンとしての特徴 ==<br />
{{multiple image<br />
| direction = vertical<br />
| align = right<br />
| width =<br />
| footer = <br />
| image1 = Popiersie Jimi Hendrix ssj 20060914.jpg<br />
| width1 = 160<br />
| caption1 = ジミ・ヘンドリックスの胸像([[キェルツェ]])<br />
| image2 = Jimi Hendrix statue outside Dimbola Lodge.JPG<br />
| width2 = 160<br />
| caption2 = ジミ・ヘンドリックスの像([[ワイト島]])<br />
| image3 = Denis Bourez - Madame Tussauds, London (8747018021).jpg<br />
| width3 = 160<br />
| caption3 = ジミ・ヘンドリックスの蝋人形([[マダム・タッソー館]]・[[ロンドン]])<br />
}}<br />
ヘンドリックスは、エレクトリックギターの演奏家として非常に高い技術と表現力を備えていただけではなく、画期的な技法の考案によってエレクトリックギターという楽器の可能性をそれ以前とは比較にならないほど拡大したと評されている。またメジャーでの活動期間がわずか4年ほどであったにも関わらず、後世のギタリストに与えた影響が比類のないほど絶大であることも合わせ、多くのミュージシャンや評論家から'''史上最高のロックギタリスト'''と呼ばれている<ref>{{cite web|url=http://news.sky.com/skynews/Home/Sky-News-Archive/Article/200806412071472|title=Hendrix Voted World's Best Guitarist|publisher=[[Sky News]]|date=2002-08-07|accessdate=2009-04-11}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/news/hendrix-hits-top-note-again-as-best-guitarist-in-history-537325.html|title=Hendrix hits top note again as best guitarist in history|publisher=[[The Independent]]|date=2003-08-28|accessdate=2009-04-11}}</ref><ref>{{cite web | title = 100 Greatest Guitar Solos (11-20) | work = Guitar World | url = http://guitar.about.com/library/bl100greatest.htm | accessdate = 2008-03-05}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.rollingstone.com/news/story/5937559/the_100_greatest_guitarists_of_all_time |title=The 100 Greatest Guitarists of All Time |date=2003-08-27 |publisher=[[Rolling Stone (magazine)|Rolling Stone]]|accessdate=2008-05-08}}</ref>。<br />
<br />
ヘンドリックスはブルースとロックンロールを融合させ、[[クリーム (バンド)|クリーム]]、[[レッドツェッペリン]]らと並び、ハードロックの起源の一人と評されている。特にヘンドリックスは、大音量でディストーションの掛かった音の先駆けとなった<ref>''Blues'' CD, MCA, sleeve notes by Jeff Hannusch, p. 2.</ref><ref>A Film About Jimi Hendrix deluxe ed. DVD, Warner Bros. sp. feat: From The Ukelele to the Strat, Faye Pridgeon Interview.</ref>。<br />
<br />
一般的にヘンドリックスは[[ギタリスト]]として語られるが、演奏者として優れているだけではなく[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[レコーディング・エンジニア]]としても独特な才能を備えており、歌手としても表現力に富んでいる。また常に新しいサウンドを模索し[[ギター]]だけに執着しているわけではなかったと評されている<ref>{{cite book|author=Kincheloe, Joe L.; Horn, Raymond A.|url=http://books.google.co.uk/books?id=ZDRUDrFdSIsC&pg=PA848&dq=Jimi+Hendrix+widely+considered&ei=2vngSa6jHYy0yQTb3tCaDQ#PPA849,M1|title=The Praeger handbook of education and psychology|publisher=Greenwood Publishing Group|page=849|year=2008}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/261208/Jimi-Hendrix|title=Jimi Hendrix|publisher=[[Encyclopedia Britannica]]|accessdate=2009-04-11}}</ref>。<br />
<br />
奇抜なファッションや派手なステージアクション、機械によるサウンドエフェクトにばかり頼っているのでは…という批判もあったが、エリック・クラプトンは「みんなジミのことを語るときに、服装や髪型やステージアクションなど見た目のことばかり言うが、一度目をつぶって演奏に耳を傾けてみればいい。ジミがどれほど優れたミュージシャンであるか分かるはずだ」、あるいは「僕とジェフ・ベックが2人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大級の賛辞を送っている。ジェフ・ベックは「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」と語っている。ヘンドリックス自身「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と反論している<ref>チャールズR.クロス ルームフルミラー:伝記ジミヘンドリックス、2005</ref>。<br />
<br />
ヘンドリックスのプレイスタイルについては、型破りなアクションが取り上げられることも多いが、基本はあくまで[[ブルース]]や[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]に根差し、これにジャズのコードやスケールを加えたベーシックなものである<ref>{{cite web|url=http://www.allaboutjazz.com/php/news.php?id=22668|title=Jimi Hendrix's Influence on Jazz|publisher=All about Jazz.com|date=2008-09-05|accessdate=2009-04-11}}</ref><ref>{{cite book|title=Jimi Hendrix, Musician |first=Keith |last=Shadwick|publisher=Backbeat Books |year=2003|page= 39}}</ref>。<br />
ただし'''音の選び方やフレーズの展開は強烈に非凡なもの'''で、従来からのブルースやR&Bの枠に収まらないような画期的な内容だった<ref>{{cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/261208/Jimi-Hendrix|title=Jimi Hendrix|publisher=[[Encyclopedia Britannica]]|accessdate=2009-04-11}}</ref><ref>{{cite book|title=The Making of Are You Experienced |first=Sean |last=Egan|publisher=A Cappella books|year=2002|unused_data=|interview with Lonnie Youngblood}}</ref>。<br />
<br />
ヘンドリックスは非凡な[[インプロヴィゼーション]]能力によって、「Red House」や「Machine Gun」など、アドリブが曲の大部分を占める曲で、ライブごとに全く違ったアドリブを展開していった。これは、「指癖的な小さなフレーズ(リック)を沢山覚えておき、それらを組み合わせてアドリブを構築する」のではなく、「その瞬間に頭の中で鳴った(聞こえた)フレーズをギターで弾く」というアドリブのとり方を行っていたから、という説がある<ref>{{cite book|author=Bossy, Michel-André; Brothers, Thomas; McEnroe. John C. |url=http://books.google.co.uk/books?id=r0SOzr_0Ya4C&pg=PA85&dq=Jimi+Hendrix+widely+considered&ei=c_fgSeexJJS0zgTqlPm7DQ#PPA85,M1|title=Artists, Writers, and Musicians: An Encyclopedia of People Who Changed the World|publisher=Greenwood Publishing Group|page=85|year=2001}}</ref>。<br />
<br />
ヘンドリックスのソロ・プレイは、例えば後に登場してくる[[HR/HM|ハードロック/ヘヴィメタル]](HR/HM)系ギタリスト等と比べると特に速弾きとは言えず、運指もやや正確さに欠けるところがある。しかし、ギターという楽器が本来備えている音に加え、大音量に付随する電気的ノイズまで駆使し、刻々と音色を変化させながら、即興で感情の高まりを表現していく能力に関し、ヘンドリックスに対比できるギタリストは未だに存在しないという意見も存在する。HR/HM系ギタリスト等と比べると音の数こそ少ないが、緩急自在のフレージングと、タイム感のコントロールにより、聴き手に与えるスピード感は非常に高い。ライブ演奏が素晴らしかっただけではなく、スタジオ録音でも革命的と言えるような多彩なサウンドを生み出した。<br />
<br />
作曲面においても後にロックの[[スタンダード]]となる数多くの楽曲を残した(特に「Purple Haze」「[[リトル・ウィング|Little Wing]]」「Voodoo Child(Slight Return)」「Red House」「Fire」「Foxy Lady」などの曲は、多数のミュージシャンによって[[カバー]]されている)。<br />
<br />
ヘンドリックスはギターの音質を電気的に変化させる機材(いわゆる[[エフェクター]])を多用することで知られた。スタジオ録音はもちろんステージでもエフェクターを使用し、従来のギタリストでは考えられなかったほど音質に豊富なバリエーションをもたせている。主に使用していたのは音を歪ませる[[ファズ (音響機器)|ファズ]]、踏み加減で音質が連続的に変化する[[ワウペダル]]、音を波立たせる[[ユニヴァイブ]]といったものだった。ヘンドリックスは手に入れたエフェクターの可能性を探ろうと何時間も演奏を続け、そのエフェクターの設計者ですら想定していなかった斬新な音を引き出していた<ref>{{cite book |title=Jimi Hendrix, Musician |last=Shadwick |first=Keith |month=November | year=2003 |publisher=Hal Leonard |page=92 |isbn=0879307641}}</ref>。<br />
その結果ヘンドリックスの演奏の中には、どういう方法で出したのか今もって不明な、謎のサウンドが非常に多い<ref>{{cite book|last=Trynka|first=Paul|title=Rock Hardware|publisher=Hal Leonard|date=1996|pages=18|isbn=9780879304287|url=http://books.google.com/books?id=HDrIjd5FQ8QC&pg=RA19|accessdate=2010-02-05}}</ref>。<br />
これはスタジオ録音だけではなく、ライブでも同様である。エフェクターなどの電子機器設計の達人だった[[ロジャー・メイヤー]]が、ヘンドリックスのアドバイザーだったのも大きな意味を持っている。<br />
ただしヘンドリックスが存命の頃には「機械に頼っていて邪道」という評価もあった。<br />
<br />
ギタリストであると同時に歌手でもあるヘンドリックスだが、ずっと「自分は歌が下手だ」と卑下し続けていた。そんなヘンドリックスにとってのヒーローは、独特の歌唱法でフォーク/ロック界を席巻した[[ボブ・ディラン]]。ディランの歌を聴いたヘンドリックスは「これなら俺も歌えるかも知れない」と勇気づけられたという。ヘンドリックスはディランに大きな影響を受けており、「[[ライク・ア・ローリング・ストーン|Like a Rolling Stone]]」や「[[見張塔からずっと|All along the Watchtower]]」などをカバーしている。ヘンドリックスが「All Along the Watchtower」のカバーをシングル・ヒットさせたことを受け、ディランは「あの曲は俺が書いたが、権利の半分くらいはヘンドリックスのもの」と語っている<ref>ディランの伝記「ボブ・ディラン自伝」より。</ref>。またディランは、ヘンドリックスのアレンジに近い形で同曲を演奏したこともある。<br />
<br />
エリック・クラプトンは「ジミは『俺は歌が下手だ』と謙遜しているが、とんでもない。ギターだけではなく歌もとてもうまいよ」と述べている。<br />
<br />
ヘンドリックスは音楽の理論などに疎く楽譜もほとんど読めなかったと言われるが、ジャズ系ミュージシャンとの[[セッション]]でも引けを取ることはなかったと評されている。帝王マイルス・デイビスや[[ジョン・マクラフリン]](ギタリスト)に才能を絶賛されていたほか、マイルス作品の編曲などで知られる巨匠[[ギル・エヴァンス]]もヘンドリックスとの競演を熱望していた<ref>{{Cite book |title=Miles. The Autobiography|last=Davis|first=Miles|authorlink=Miles Davis|coauthors=with Quincy Troupe|location = New York |publisher = Simon & Schuster |year = 1989 |pages = 282–283 |isbn = 0 330 31382 7}}</ref> <ref>Davis, with Troupe (1989), ''Miles'', pp. 319–320; 374.</ref>。<br />
ギル・エヴァンスはヘンドリックスの死後、カバー・アルバム「The Gil Evans Orchestra Plays the Music of Jimi Hendrix」を発表。1988年に亡くなるまで、ステージでヘンドリックスの曲を演奏し続けた。エヴァンス曰く「ジミのアルバムを聴くと毎回新しい発見がある。彼が優れた作曲家だった証拠だよ」。<br />
<br />
=== ストラトの魔術師 ===<br />
{{multiple image<br />
| direction = horizontal<br />
| align = left<br />
| width =<br />
| footer = <br />
| image1 = Jimi hendrix woodstock.jpg<br />
| width1 = 180<br />
| caption1 = [[ウッドストック・フェスティバル]]で使用したフェンダー・ストラトキャスターギター<br />
| image2 = Jimi Hendrix's Flying V Gibson Guitar.jpg<br />
| width2 = 147<br />
| caption2 = ヘンドリックスの[[ギブソン・フライングV|フライングV]]ギター<br />
}}<br />
現在ではロックギターの代名詞的なモデルとなっている[[フェンダー・ストラトキャスター]]だが、ヘンドリックスが登場した頃には使用するミュージシャンもほとんどおらず、生産中止の噂もあった。しかし、ヘンドリックスが使用することによってストラトキャスターの人気が一気に上昇。特にストラトキャスターの[[トレモロ・ユニット#シンクロナイズド・トレモロ・ユニット|シンクロナイズド・トレモロ・ユニット]]による驚異的なサウンドマジック([[アーミング]])は、世界中のギタリストの度肝を抜いた<ref>{{cite web |url=http://www.modernguitars.com/archives/000039.html#tribute |title=Seven Fender Stratocaster Models That Pay Tribute to Jimi Hendrix |last=Wilson |first=Tom |work=Modern Guitars Magazine |date=2004-11-13 |accessdate=2007-09-23}}</ref>。<br />
ストラトキャスターの設計者である[[フレディ・タバレス]]は「[[ベンチャーズ]]や[[ザ・ビーチ・ボーイズ|ビーチ・ボーイズ]]のようなサウンドは予想していたが、ヘンドリックスのトレモロマジックは全くの想定外」と発言している('80年代のフェンダー・ジャパンのカタログでの談話)。また、フェンダー社の創業者である[[レオ・フェンダー]]が「あれ(トレモロ)はあんな風に使うものではない」と激怒したという逸話も残っている。<br />
<br />
ヘンドリックスのギターサウンドというと歪みきった大音響がイメージされる場合が多いが、「[[リトル・ウィング|Little Wing]]」などで知られるように、実際にはボリュームを絞ったクリーンなサウンドも多用している。ストラトの3つのピックアップを使い分け、ボリュームやトーンを頻繁に調整し、演奏中に音色を大きく変化させることも多かった。エリック・クラプトンが使って有名になった[[ハーフトーン]](ストラトのピックアップ切り替えスイッチを中間位置にすることで生じるフェイズサウンド)も、実際はヘンドリックスのほうがずっと早くから使用している(ヘンドリックスが考案したのではなく昔からある裏技だったらしい)。ボディやネックを叩いて弦を共鳴させ[[フィードバック奏法|フィードバック]]を起こしたり、トレモロユニットの[[スプリング]]を弾いて不思議な音を出したりと、ギターから発生するあらゆる音を演奏に利用していた<ref>{{Citation<br />
|last=Shapiro|first=Harry|last2=Glebbeek|first2=Caesar|title=Jimi Hendrix. Electric Gypsy|place=London|publisher=William Heinemann Ltd.|year=1990|pages=629–637|id=ISBN 0-434-69523-8}}</ref>。<br />
<br />
ヘンドリックスの存命中にストラトキャスターを使用するフォロワーはほとんどいなかったが、死後にはエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、[[リッチー・ブラックモア]]などがこぞって使い始めた。ヘンドリックス以降数多くの[[ロック (音楽)|ロック]]や[[ブルース]]や[[ジャズ]]などのギタリストがストラトを使用したことで、ストラトはギブソン・レスポールと並び、ソリッドボディのエレクトリックギターの代名詞的存在になった。<br />
<br />
ストラトキャスター以外にも、[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]の[[ギブソン・フライングV|フライングV]]や[[ギブソン・SG|SG]]、[[ギブソン・レスポール|レスポール]]を始め、様々なメーカーのギターを使用していた。[[ローディー]]だったエリック・バレットは「ジミがブルースを弾くときはいつもフライングアロー(フライングV)だった」と証言している。12弦アコースティックギター([[ゼマティス|トニー・ゼマイティス]]が、楽器製作を初めて間もない頃に製作したもの)で「Hear My Train a Comin'」を弾き語りする映像も残っているが、このギターはヘンドリックスの所有物ではなく、撮影に当たって用意されたものである。<br />
<br />
ヘンドリックスは、ギターの各弦を通常の音程から半音下げる[[調律|チューニング]]を多用していた。これはギターの音程をヘンドリックスの声域(音域)に合わせる目的と、[[チョーキング]]などの奏法をしやすくする目的と、両方の意味があるとされる<ref>{{cite web |year=2009 |accessdate=2009-07-30 |url=http://www.ratcliffe.co.za/articles/radius.shtml |title=Guitar Fretboard Radius |publisher=Alan Ratcliffe |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151104024937/http://www.ratcliffe.co.za/articles/radius.shtml |archivedate=2015年11月4日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。<br />
スタジオレコーディングの曲の中には、レギュラーチューニングも多い。ライブ音源の中には全音(1音)下げチューニングで演奏されている曲も確認できる(レコードやCDにする際、レコーディングエンジニアが音程を電気的に変化させている例もあるので注意)。<br />
<br />
=== 左利きの奏法 ===<br />
ヘンドリックスは右利き用の[[フェンダー・ストラトキャスター|ストラトキャスター]]を左右逆さまにして、右手で押弦し、左手で弦を弾いた。つまり左利きの奏法であり、一般的には左利きの人物と認識されている。弦は下に細い1弦、上に太い6弦と、左利き用の順番に張り替えてあった<ref group="注釈">[[アルバート・キング]]など、右利き用に弦を張ったギターを逆に持って弾くギタリストも存在する</ref>。左利きでありながら右利き用のギターを逆さまに使用することで、3つのコントロールノブが上側にくるため、演奏中に左手で自在にノブを操作し、音質を変化させるという独特の奏法を生み出すことができたという説もある。晩年は、左利き用のギブソン・フライングVを所有していたが、上手く使えないからとローディーだったエリック・バレットに譲っている。右利き用ギターをひっくり返して使用しているうちに、コントロール部が上に位置していないと上手く弾けなくなっていたらしい(バレットの談話)。バレットはそのギターを後に売却。現在はハードロックカフェに展示されている。<br />
<br />
ストラトキャスターはナットを左利き用に付け替えず、サドルの位置も右利き用の設定のままで使用していた。<br />
<br />
もっとも「ヘンドリックスは本来は右利きだったのではないか」という説も根強く囁かれている。その証拠として、食事や書字の際には右手を使っていたことが挙げられる。『エレクトリック・ジプシー』(ハリー・シャピロ&シーザー・グレビーク)や『ジミヘンドリックスの創作ノート』『天才ジミ・ヘンドリックス ギター革命児の真実』<ref>ISBN 978-4-401-61412-7</ref>(ジョン・マクダーモット、[[エディ・クレイマー]])など複数の伝記にその様子を写した写真が掲載され、「ジミは字を書く時は右利きだった」と記載されている。さらに父アルも、伝記映画や雑誌「エスクワイア」1993年4月号など複数の媒体において、一貫して「ジミは左利きにあこがれがあった」「ボールを投げる時は右手だった」などと証言している(同時に息子ジミがギターを始めた時に、右利きなのに左利きの弾き方をするので直そうとしたという逸話も紹介している)。あえて左手で弾くことで、普通とは違った音を出したかったのではないか、という説もある。以上の点から、少なくともギターは左利き、書字は右利きと、[[クロスドミナンス|変則的な利き手]]だったのではないかと推測される<ref>{{Citation |last=Shapiro |first=Harry |last2=Glebbeek |first2=Caesar |title=Jimi Hendrix. Electric Gypsy |place=London |publisher=William Heinemann Ltd. |year=1990 |pages=37–38 |id=ISBN 0-434-69523-8}}</ref>。<br />
<br />
ただしヘンドリックス本人は、1967年の『Beat Instrumental magazine』掲載の取材で「最初に(右利き用の)ギターを弾いた時、自分は左利きだから違和感を覚えた」と語っている。また、『天才ジミ・ヘンドリックス ギター革命児の真実』には、ヘンドリックスは右手でも左手でも書字が可能だったという記述もある。逆に『エレクトリック・ジプシー』では右利きの構えや、右利き用の弦の張り方でもギターを弾けたと記述されている。<br />
<br />
== 影響とエピソード ==<br />
[[画像:Hendrix Chord.svg|thumb|150px|ジミヘンコード]]<br />
数々のヒット曲を持つヘンドリックスの[[ビルボード]]最高位は、アルバムチャート([[Billboard 200]])で1位、シングルチャート([[Billboard Hot 100]])20位である。難解な音楽でファンが少なかったなどということはなく、むしろ当時のアメリカのロックミュージシャンの中で最も集客力のあるスターだった。ウッドストックのトリを務めたのも、そのためだと言われる。ただし、本来ヘンドリックスの出演は最終日(日曜日)の夜の予定だったのに、スケジュールが押して翌日(月曜日)の朝になってしまい、40万人とも言われた観客の大半は帰途についていた。日本人でウッドストックを観た数少ない一人であるギタリスト[[成毛滋]]も、ヘンドリックスのステージを観ずに会場を離れている。<br />
<br />
ヘンドリックスは、様々なジャンルのミュージシャンとセッションすることを好んだが、1960年代半ばのイギリスでは、そういった習慣(文化)があまり普及しておらず、イギリスでセッションの習慣を定着させたのはヘンドリックスである、という説も存在する([[ピート・タウンゼント]]の談話)。<br />
<br />
ヘンドリックスの代表曲である「[[パープル・ヘイズ]](邦題:紫のけむり)」で使用されている'''E7(#9)'''という[[和音|コード]]は、元々は[[ブルース]]や[[ジャズ]]などにおいて使用されていたものだが、ヘンドリックスの同曲の演奏によって「[[サイケデリック]]な響きのするコード」として有名になった。ミュージシャンなどの間では「ヘンドリックス・コード」(日本では「ジミヘンコード」)などと呼ばれることもある。<br />
<br />
モンタレー・ポップフェスティバルで成功を収めた直後、一時期[[モンキーズ]]の全米ツアーのオープニングアクト(前座)を務めたことがある<ref group="注釈">マネージャーだったマイケル・ジェフリーが勝手に契約してきたため、ヘンドリックスたちはモンキーズとの共演に困惑していたという。</ref>。しかしモンキーズとの客層の違いなどからステージでまったく受けず、ごく短期間で降板している<ref group="注釈">音楽面のマネージャーであるチャス・チャンドラーが「アメリカ革命の娘たちと名乗る団体から抗議(脅迫)された」という話をでっちあげ、うまく降板に持ち込んだという。</ref>。<br />
<br />
モンタレーの記録映像で有名なギター燃やしだが、それが初めてではなく、イギリスで既に何度も行っていた。ヘンドリックスが初めてギターに火を放ったのは、[[ウォーカーブラザーズ]]のツアーに前座として同行した際(1967年3月)。ギター燃やしを発案したのはヘンドリックス本人ではなく、知人の記者だったと言われている<ref>クリス・ウェルチ著「ジミ・ヘンドリックスの伝説」</ref>。<br />
<br />
「アメリカ国歌」のライブ演奏もウッドストックが初めてではない。「アメリカ国歌」には、多重録音を駆使したスタジオ録音バージョンも存在している。<br />
<br />
音楽に「ヘビー・メタル」という言葉が初めて使われたのは、ヘンドリックスの演奏に対してだという説がある。イギリスの新聞の記者が、ヘンドリックスのバンドの大音響に対し「ヘビー・メタル(重金属)」という比喩を使ったのだという(チャス・チャンドラーの談話、テレビ番組「神になったギタリスト・ジミ・ヘンドリックス」など)。<br />
<br />
ヘンドリックスに大きな影響を受け、ヘンドリックスそっくりの演奏をする「ヘンドリックス・フォロワー」と呼ばれるギタリストが存在する。[[ロビン・トロワー]]や[[ランディ・ハンセン]]、[[フランク・マリノ]]、[[ウリ・ジョン・ロート]]などが、ヘンドリックス・フォロワーの代表例と言われる。<br />
<br />
27歳で亡くなっているため、いわゆる「[[27クラブ]]」(27歳で死去した有名ミュージシャン達を指す)の代表的な一人とされることが多い。<br />
<br />
ヘンドリックスの映画は何度か制作されている。1973年に公開された「Jimi Hendrix」(ワーナーブラザーズ)は、ヘンドリックスのライブ演奏や関係者のインタビューなど、ドキュメンタリー的内容である<ref group="注釈">映画は日本未公開だがサントラレコード「天才ジミ・ヘンドリックスの生涯」が販売された。現在はDVDソフトが販売されている。</ref>。2000年に公開された「HENDRIX」(邦題は「炎のギタリストジミ・ヘンドリックス」、[[レオン・イチャソ]]監督)は、登場人物を俳優が演じる<ref group="注釈">ヘンドリックス役は[[ウッド・ハリス]]。</ref>伝記映画で、日本では一般公開されず、ビデオ(DVD)ソフトが販売された。2013年に公開された「Jimi:All Is by My Side」([[ジョン・リドリー]]監督)は、[[アウトキャスト]]の[[アンドレ・3000]]がヘンドリックスを演じた伝記映画で、日本では「[[JIMI:栄光への軌跡]]」と題され2015年に一般公開された。「炎のギタリストジミ・ヘンドリックス」や「Jimi:栄光への軌跡」では、ヘンドリックスの楽曲の使用許可が下りず<ref group="注釈">ヘンドリックスの楽曲の権利を持つエクスペリエンス・ヘンドリックスが許可を出さなかった。</ref>、劇中では「ヘイ・ジョー」などカバー曲しか使われない結果になっている。<br />
<br />
ヘンドリックスが、[[ニューヨーク]]の[[チェルシー・ホテル]]に宿泊していた際、別の客である老婆からボーイと間違われ、荷物を運んであげたことがあるという<ref>『ファビュラス・バーカー・ボーイズの地獄のアメリカ観光』</ref>。<br />
<br />
=== 3大ギタリストとの関係 ===<br />
[[File:Cream on Fanclub 1968 (2).png|thumb|210px|クリーム(1968年のテレビ番組)]]<br />
[[クリーム (バンド)|クリーム]]([[エリック・クラプトン]]、[[ジンジャー・ベイカー]]、[[ジャック・ブルース]]のバンド)の「Sunshine of Your Love」は、クリームのメンバー3人が、ヘンドリックスのステージを鑑賞した夜、ヘンドリックスの演奏に触発されて生まれたという<ref group="注釈">クリームのメンバーだった[[ジャック・ブルース]]と[[ジンジャー・ベイカー]]の談話。ブルース、ベイカー、[[ゲイリー・ムーア]]によるバンド結成時の鼎談から。</ref>。それを知っていたかどうかは不明だが、ヘンドリックスもこの曲を気に入っており、度々ステージで演奏していた。イギリスのテレビ番組「ルル・ショー」(生放送)にヘンドリックスが出演した際、司会の[[ルル (歌手、女優)|ルル]](女優、歌手)と「Hey Joe」をデュエットするという予定を無視し、解散したばかりのクリームに捧げるため同曲を演奏したのは有名(1969年1月)。<br />
<br />
ヘンドリックスとエリック・クラプトンは、度々セッションを行っていたが、ヘンドリックスから見ると、クラプトンのサイドギターの技術は芳しくなかったらしい。ヘンドリックスはクラプトンに対し「おまえはギターよりベースを弾いた方がいい」と面と向かって発言し、クラプトンが怒って帰ってしまうということもあったらしい(レディングの談話)。<br />
<br />
クリーム時代のエリック・クラプトンが生み出した[[ウーマントーン]]は、一般にギブソンの[[レスポール]]またはSGによるものと思われているが、ストラトキャスターのフロントピックアップによるものという説がある。ウーマントーンの代表曲「Sunshine of Your Love」のレコーディングはストラトキャスターで行われた、という証言も存在する。これが正しいとすれば、明らかにヘンドリックスの影響だろう。クラプトンは、ヘンドリックスと同じような“エレクトリックヘア”(チリチリのアフロヘア)にしたり、東洋風のヒラヒラした衣装([[キモノ]])を着用したりしていた時期があり、ヘンドリックスから強い影響を受けていたことが知られている。<br />
<br />
クラプトンは、[[デレク&ザ・ドミノス]]としてのアルバム『[[いとしのレイラ]]』(1970年)で、ヘンドリックスの代表的なバラード「[[リトル・ウィング|Little Wing]]」をカバー。その後もヘンドリックスのトリビュートアルバムに参加し、「Stone Free」をカバーしている。<br />
<br />
[[ジェフ・ベック・グループ]]が、初のアメリカ公演を行った際(1968年6月)、アンコールにヘンドリックスが登場し、ベックと共演したことがあるという。ベックは「ステージでジミと一緒に演奏していると、自分が歴史の一ページに立ち会っているんだというような深い感慨があった」と述べている。インタビューした記者に「若手ロックギタリストに最も大きな影響を及ぼしているのはヘンドリックスとあなた」と言われたベックは「本当か!」と驚喜したという。ヘンドリックスもベックのことを「イギリスで最高のギタリスト」と評したことがある。<br />
<br />
ベックは1980年代半ば、ヘンドリックスの演奏で有名な「Wild Thing」(オリジナルは[[ザ・トロッグス]])を、ヘンドリックス風のアレンジでレコーディングしている(珍しく、ベックがリードボーカルを務めた)。また、ヘンドリックスの[[トリビュート・アルバム]]で「Manic Depression」などをカバーしている。コンサートのアンコールで、ミッチ・ミッチェル、ノエル・レディング(いずれも、元エクスペリエンス)とトリオで演奏したこともある。<br />
<br />
ある時ヘンドリックスがベックに対して「お前のブルースは気持ち悪いから、エレクトロニカやクロスオーバーな音楽をやったほうがいい」とアドバイスしたという。その影響で現在のベックの演奏スタイルが確立したという説がある。<br />
<br />
エリック・クラプトンとジェフ・ベックはヘンドリックスと友人だったとされるが(クラプトンやベックの談話)、ジミー・ペイジはニュー・ヤードバーズ(後の[[レッド・ツェッペリン]])立ち上げの時期で忙しく、ヘンドリックスのステージを観る機会が一度もなく、会うことも出来なかったという。ただし、ペイジがレッド・ツェッペリンのアメリカ公演の合間にニューヨークのクラブへ出向いた際、偶然同じ店に来ていたヘンドリックスと同じテーブルに着いたことがある。その時のヘンドリックスは完全に酩酊状態で、まともに話をすることも出来なかった。ヘンドリックスは、あまり酒が強くなかったらしい(ビリー・コックスの談話)。結局、ペイジが生前のヘンドリックスと会えたのはその時だけだった(ペイジ本人の談話)。<br />
<br />
=== ローリング・ストーンズとの関係 ===<br />
渡英後間もない時期のヘンドリックスと最も親しかったのは、[[ブライアン・ジョーンズ]](ローリング・ストーンズの初期リーダー、ギタリスト)だったと言われ、ヘンドリックスがイギリスのミュージックシーンで人脈を築くのを助けたほか、アメリカへの逆上陸となったモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967年)では、ヘンドリックスを観客に紹介する役も買って出ている。この時期、ジョーンズは[[ミック・ジャガー]]([[ローリング・ストーンズ]]のボーカル)達と仲違いし、ストーンズ内で孤立し初めていた。ヘンドリックスはジャガー達に憤っていたらしく、自身のステージにジャガーと[[マリアンヌ・フェイスフル]](女優兼歌手、当時のジャガーの恋人)が顔を出した際に2人の間に割り込んで座り、フェイスフルに「この後、俺と付き合えよ」と聞こえよがしに発言。隣のジャガーは、ヘンドリックスの挑発的な言葉に気づかない振りをしたため、その場で喧嘩になるようなことはなかった。ジョーンズが1969年7月に急逝した後、ヘンドリックスは追悼の意を込めて「Lovers」を制作している。<br />
<br />
とはいえ、ミック・ジャガーはヘンドリックスへの敬慕の念を常々表明しており、ヘンドリックスの死後に制作された伝記映画『Jimi Hendrix』(1973年)に登場しインタビューに答えている。1980年代末のソロ活動の際には「Red House」や「Foxy Lady」といったヘンドリックスの曲をステージで披露し、大きな話題を呼んだ。また、ジャガーは「俺はジミと一緒にレコーディングしたことがある。どこかにそのテープが残っているはずだ」と述べている。<br />
<br />
ヘンドリックスが初めて手にしたストラトキャスターは、元々はキース・リチャーズのものだったという説がある。ヘンドリックスをチャス・チャンドラーに紹介したリンダ・キースがリチャーズの恋人だったため、リチャーズが所有していたストラトをリンダがヘンドリックスに渡したというのだが、諸説あり真偽は不明。ストラトは高価なギターだったために、無名時代のヘンドリックスには手が届かなかったと言われている。<br />
<br />
ミック・ジャガーの実弟のクリス・ジャガーは、'60年代にミュージシャン向けの衣料店を経営しており、古い軍服などを販売していた。渡英したヘンドリックスがそれらの衣装を気に入って着用したことが、いわゆるミリタリーファッションの起爆剤になったという(クリス・ジャガーの談話)。<br />
<br />
=== ビートルズとの関係 ===<br />
[[ファイル:Experience Music Project, Science Fiction Museum, Seattle -Jimi Hendrix (9447228870).jpg|thumb|250px|ヘンドリックスのステージセット([[:en:EMP Museum|EMP ミュージアム]]・シアトル)]]<br />
ビートルズのポール・マッカートニーはヘンドリックスを非常に高く評価しており、ヘンドリックスの生前から「ジミは絶対にギターのエース」「ジミを出さなければ(モンタレー・ポップフェスティバルは)フェスティバルにならないよ」などと語っている。ヘンドリックスの死後も「[[エドワード・ヴァン・ヘイレン]]はグレートだ。でも僕にとっては、ジミが永遠のナンバーワンだよ」と語っている。<br />
<br />
ビートルズのアルバム「[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]」が発売されて数日後、ポール・マッカートニーがヘンドリックスのコンサートに出かけたところ、ヘンドリックスは1曲目に同アルバムのタイトル曲「サージェント・ペパーズ」を演奏し、マッカートニーを大いに喜ばせた。マッカートニーは「ビートルズの『サージェント・ペパーズ』が金曜日に発売されて、そのたった2日後の日曜日に、ジミはそれをステージで演奏したんだ。あの曲を初めてライブ演奏したのは、ビートルズではなくジミなんだよ。演奏は例の調子で、ギューン!バーン!と素晴らしかった」と語っている。近年のマッカートニーは自身のコンサートでこのエピソードをたびたび語り、その後にヘンドリックスの「Foxy Lady」などを演奏するのが[[お約束]]になっている。<br />
<br />
[[ジョン・レノン]]は「ジミはロックの指導者、革新者で、この時代における最も影響力を持った人間の一人だった。完全に独創的だった」と語ったという(カーティス・ナイト著「ロックギターの革命児ジミ・ヘンドリックス」)。<br />
<br />
キャシー・エッチンガム(ヘンドリックスが渡英したばかりの頃の恋人)がクラブのロビーで電話していたところ、ほかの男と話していると勘違いしたヘンドリックスが怒り、エッチンガムをこづき回した。するとジョン・レノンとポール・マッカートニーが偶然その場に通りかかり、ヘンドリックスをエッチンガムから引き離して「どうしたんだ、ジミ」と落ち着かせたという。エッチンガムは「あのときのジョンとポールは[[ジェームズ・ボンド]]みたいだったわ」と語っている。<br />
<br />
=== ザ・フーとの関係 ===<br />
モンタレー・ポップ・フェスティバル(1967年6月)には、ヘンドリックスと同様に楽器破壊パフォーマンスを売りにしていた[[ザ・フー]]も出演している。主催者は、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーを連続してステージに登場させようとしたため、両バンドは大いに困惑した。先に出演した方が、観客に与える衝撃度が確実に高いからだ。フーの[[ピート・タウンゼント]]はヘンドリックスに「君は天才ミュージシャンだが、俺達には楽器破壊の芸しかない。先に演奏させてほしい」と懇願したという(タウンゼントの談話)。両バンドの話はまとまらず<ref group="注釈">ヘンドリックスがドラッグの影響でタウンゼントの話を聞けなかったためと言われる。</ref>、主催者側の[[ジョン・フィリップス (音楽家)|ジョン・フィリップス]]([[ママス&パパス]])がコインを投げ、その裏表で出演順を決定することになった。結果、ザ・フーが先、ヘンドリックス達は後という出演順になっている。ヘンドリックスがギターに火をつけたとき、[[キャス・エリオット]]([[ママス&パパス]])は「ギターを壊すのはあなたの専売特許だったんじゃないの?」とタウンゼントに話しかけたが、タウンゼントは「昔はそうだったが、今はジミのものだ」と答えたという。<br />
<br />
タウンゼントはヘンドリックスのギターに惚れ込み、ヘンドリックスの渡英後間もない時期には可能な限りステージに通い詰めていた(タウンゼント本人の談話)。ヘンドリックスが出演しているクラブにタウンゼントが出向いた際、出入り口でジェフ・ベックと擦れ違い「あいつ(ヘンドリックス)、お前の技をパクってるぜ」と言われたというエピソードがある。実際に演奏を聞いてみたところ、「俺のトレードマークに変化が加わっていた」とタウンゼントは驚いたという。<br />
<br />
ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとザ・フーは、宣伝担当エージェントが共通で、しばしば同じステージに立ったりしていた。イギリスでは、ザ・フーの方が先にデビューしていたため、ヘンドリックスがザ・フーの前座として出演することもあった。ピート・タウンゼントは「ジミから『ザ・フーのみんなにはとても世話になった』と丁重に礼を言われたことがある。だが、本当の友人になることができないうちに、彼は死んでしまった」と、残念そうに語っている。<br />
<br />
=== フランク・ザッパとの関係 ===<br />
[[1968年]]のマイアミ・ポップ・フェスティバルでヘンドリックスが燃やしたギターは、裏方スタッフが拾って持ち帰り、[[フランク・ザッパ]]の家に宿泊させてもらった際に謝礼として進呈した。ザッパはこれを直してしばらくステージで使用していた。インストゥルメンタル曲「Sexual Harassment in the Workplace」(アルバム『ギター』収録)などで、その音色を聴くことが出来る。この通称[[ヘンドリックス・ストラト]]は、ザッパの死後に息子の[[ドゥイージル・ザッパ]]がオークションに出品し、話題になった<ref>{{cite book<br />
|title=Frank Zappa: The Negative Dialectics of Poodle Play |first=Ben |last=Watson |year=1996<br />
|publisher=St. Martin's Press |page=88 |isbn=0312141246}}</ref>。<br />
<br />
他のミュージシャンに対して辛辣な発言をすることが多いザッパだが、ヘンドリックスのことは賞賛している。よく知られている発言としては「今のメジャーシーンでまともな音楽をやっているのはヘンドリックスと[[キャプテン・ビーフハート]]くらいだね」というものがある。その反面「彼のステージを観た際、スピーカーの真ん前にいたために気分が悪くなった。なぜあそこまで大音量にするのか理解できない」とも述べている。<br />
<br />
ザッパの1968年のアルバム『We're Only in It for the Money』のジャケット(ビートルズの『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』のパロディ)には、ヘンドリックスと思われる人物が写っている。<br />
<br />
=== マイルス・デイヴィスとの関係 ===<br />
[[File:Jimi Hendrix (7592653380).jpg|thumb|210px|ブルック・ストリートにあるヘンドリックスの記念額(ロンドン)]]<br />
ジャズ界の帝王[[マイルス・デイヴィス]]は、ヘンドリックスの才能を絶賛しており、ヘンドリックスの死後に「あれほど音感のいい人間は滅多にいるものじゃない」と語っている。デイヴィスがヘンドリックスを自宅に招いてセッションをした際、ヘンドリックスが譜面を読めずコード(和音)の名前も知らないためデイヴィスがピアノで音を聞かせると、ヘンドリックスは即座に反応してギター演奏で返して来たという。<br />
<br />
また、デイヴィスは自身のバンドのギタリストに対し、「ジミ・ヘンドリックスのように弾くんだ」と常々指示していた。バンドに参加していたギタリストの[[ジョン・マクラフリン]]や[[マイク・スターン]]が、いわゆるジャズ的な演奏をしても決して満足せず、ロック風な演奏をすると「それだ!」と喜んだという逸話もある。ヘンドリックスと同年代のマクラフリンは、ヘンドリックスと度々セッションを行っており、後に「ジミは後年の全てのギタリストに影響を与えた。私もジミに何らかの影響を与えられたのだろうか(自分では何とも言えない)」と述べている。スターンはヘンドリックスより若く、ヘンドリックスの影響を大きく受けたジャズギタリストとして知られる。<br />
<br />
デイヴィスは、当時の妻だった[[:en:Betty Davis|ベティ・デイヴィス]](黒人の歌手兼女優、同名の白人ハリウッド女優とは別人)の紹介もあってヘンドリクスの音楽を早い時期からチェックしており、その後、ヘンドリックスのマネージャーを通して交流が始まった。<ref name=davis />。ヘンドリックスの側もマイルスの音楽に興味を持っていたが故のことであった。ヘンドリックスとベティ・デイヴィスはある時から[[不倫]]関係にあったと言われており、それがデイヴィス夫妻が離婚する原因の一つとなった<ref name=davis />。しかし、デイヴィスはその後もヘンドリックスの音楽的才能に惚れ込み共演を望んでいた<ref name=davis />。<br />
<br />
デイヴィスのバンドの[[ベーシスト]]だった[[デイヴ・ホランド]](ヘンドリックスとも度々セッションを行っていた)によると、ヘンドリックスとデイヴィスのレコーディングの仕方は非常に良く似ている面があったらしい(デイヴィスの自伝より)。デイヴィスによると、両者は互いに影響をあたえあう関係で、デイヴィス自身のトランペットプレイやワウワウミュートを使ったプレイもそれによるという。また、いわゆる「[[電化マイルス]]」という方向性は、ヘンドリックスの影響によるものという論評も存在する。<br />
<br />
ヘンドリックスとデイヴィスは、共同でアルバムを制作する寸前の段階まで何度か進みかけたが、一度目はデイヴィス側が高額のギャラを要求したため流れた。二度目は、デイヴィスとヘンドリックスが出演した70年のワイト島の音楽フェスティバルの後にロンドンで行われる予定であったが、デイヴィス側が渋滞に引っかかり時間に間に合わなかったために流れた。三度目はギル・エヴァンスを加えた三人でニューヨークで録音をする予定であったが、その直前にヘンドリックスが死亡してしまい、結局具体的な形での共作は実現しなかった。<br />
<br />
デイヴィスはヘンドリックスの葬儀に参列したが、「牧師がジミの名前を何度も間違えると言う不始末をやらかした」と語っており、それに強い怒りを覚えたとも加えている。デイヴィスが他者の葬儀に参列することはめったになかったと言われている(「マイルス・デイヴィス自叙伝」より)。<br />
<br />
=== ギル・エヴァンスとの関係 ===<br />
1970年初頭、[[レコード・プラント・スタジオ]]において[[ギル・エヴァンス]]がアルバム''Gil Evans''(のちに''[[:en:Blues in Orbit (Gil Evans album)|Blues in Orbit]]''として発売)をミキシング中に、ヘンドリクスが訪ねて来て自己紹介をした<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=[[中山康樹]] |authorlink= |coauthors= |translator= |year=2014 |title=マイルス・デイヴィスとジミ・ヘンドリックス : 風に消えたメアリー |publisher=[[イースト・プレス]] |page=171 |id= |isbn= |quote= }}</ref>。ギル・エヴァンスも、ヘンドリックスの才能を高く評価し、自分のオーケストラのソリストに起用することを考えた<ref>ギル・エヴァンス『プレイズ・ジミ・ヘンドリックス』日本盤CD(BVCJ-38088)ライナーノーツ(瀬川昌久)</ref>。そのための正式なミーティングも1970年9月21日に予定していたが、ヘンドリックスはその1週間前に亡くなった。1974年、エヴァンスは、オーケストラ参加者らと共にヘンドリックスの曲にアレンジを施し、『[[プレイズ・ジミ・ヘンドリックス]]』を発表した。後年、[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]がアルバム『[[ナッシング・ライク・ザ・サン]]』でヘンドリックスの「[[リトル・ウィング|Little Wing]]」をカバーした時も、エヴァンスが編曲を担当した。「Stone Free」、「[[空より高く]]」などの楽曲群は、彼のオーケストラの主要レパートリーとして、晩年まで演奏された。<br />
<br />
=== レス・ポールとの関係 ===<br />
[[File:ElectricLadyStudioA.jpg|thumb|180px|[[:en:Electric Lady Studios|エレクトリック・レディ・スタジオ]]([[ニューヨーク市]])<br/>ヘンドリックスによって1970年に建てられた。]]<br />
ギタリストであり[[エンジニア]]でもあった[[レス・ポール]]は、1960年代前半の無名時代のヘンドリックスの演奏を間近で聴いたことがあるという。ヘンドリックスが、[[ニューヨーク]]のクラブでオーディションを受けていた時のことらしい。後に、[[エレクトリック・レディ・スタジオ]]を開設した際、ヘンドリックスは業界の大先輩であるポールに挨拶の電話をかけたという。受けたポールが「君のことが気にかかって、ずいぶん探したんだよ」と語ると、ヘンドリックスは「レス・ポールさんがそんな近くで見ていたのに気付かなかったなんて」と恐縮していたという(ポールの談話)。<br />
<br />
=== ジャニス・ジョプリンとの関係 ===<br />
短期間だが、恋愛関係にあったと報道された。<br />
<br />
=== 関係者のその後 ===<br />
マネージメントを行っていたマイケル・ジェフリーは1973年に飛行機事故で死去。ヘンドリックスを見い出した[[チャス・チャンドラー]]は1996年に死去。ベースのノエル・レディングは2003年に死去。バンド・オブ・ジプシーズのドラマーだったバディ・マイルスは2008年2月に死去。エクスペリエンスのドラマーだったミッチ・ミッチェルは、2008年にシアトルで行なわれたヘンドリックストリビュートのイベントに参加したが、同年の11月、米国オレゴン州ポートランドのホテルで死去した。ヘンドリックスが亡くなる際に同室にいた女性[[モニカ・ダンネマン]]は、ジミヘン・フォロワーとして知られるドイツ人ギタリストの[[ウリ・ジョン・ロート]]と後に結婚したが、1996年に自殺している。<br />
<br />
ヘンドリックスの父アル・ヘンドリックスは、息子ジミが成人して家を出てから日系二世の女性アヤコ(アヤコ・ジューン・フジタ)と再婚。ヘンドリックスは、自分と同じ東洋系(ヘンドリックスの父方の祖母は[[インディアン]])の女性が義母になったことを非常に喜んでいたという。ヘンドリックスは、義母アヤコに「1970年のハワイのコンサートの後で日本に行く予定だよ、日本に行くのが楽しみなんだ、日本はどんなところなの」と語っていたという(アヤコの談話。アヤコはアメリカ生まれだが、第二次大戦前に日本に留学した経験があるという)。ヘンドリックスが言っていた通り、日本でもヘンドリックスのコンサートを含むフェスティバル(富士オデッセイ)の計画が進んでいたが、実現していない。ヘンドリックスが来日することは一度もなかった(一部で「米軍在籍時代のヘンドリックスが一兵卒として来日しているのでは」という説もあるが、その事実はない)。ヘンドリックスは[[キモノ]](着物を模した東洋風の衣装)を好んで着用し、ステージに鯉のぼりをあげる<ref group="注釈">1970年のハワイのコンサートで確認できる。</ref>など、日本に対して親しみを感じていたらしい。<br />
<br />
== ディスコグラフィ ==<br />
{{see|ジミ・ヘンドリックスの作品}}<br />
* [[アー・ユー・エクスペリエンスト?]] - ''[[:w:Are You Experienced|Are You Experienced]]'' (Track 613 001)''(1967年)<br />
* [[アクシス:ボールド・アズ・ラヴ]] - ''[[:w:Axis: Bold as Love|Axis: Bold as Love]]'' (Track 613 003)''(1967年)<br />
* [[スマッシュ・ヒッツ]] - ''[[:w:Smash Hits (album)|Smash Hits]]''(イギリス版 Track 613 004)''(1968年)<br />
* [[エレクトリック・レディランド]] - ''[[:w:Electric Ladyland|Electric Ladyland]]'' (Track 613 008-009)''(1968年)<br />
* [[バンド・オブ・ジプシーズ]] - ''[[:w:Band of Gypsys|Band of Gypsys]]'' (Track 2406 002)''(1970年)<br />
<br />
=== 原盤権の行方 ===<br />
[[File:Jimi Hendrix Walk of Fame.jpg|thumb|210px|ヘンドリックスのスター([[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]])]]<br />
ヘンドリックスの音源の権利は、ヘンドリックスが遺言を残していないこと、マネージャーのマイケル・ジェフリーが事故死したこと、ヘンドリックスが各所にジャム音源を残していたことなどから混乱。ヘンドリックス自身はレコードデビュー後わずか4年ほどしか活動していないにも関わらず、正規版と海賊版を含め膨大な数のレコード(CD)が市場に出回ることになった。しかし裁判の末、1990年代半ばにヘンドリックスの遺族に権利があると確定(それ以前はヘンドリックスと親交のあったミュージシャン、[[アラン・ダグラス]]が権利を持っていた)。ヘンドリックスの父アル・ヘンドリックス達により[[EXPERIENCE HENDRIX]]という会社が設立され、ヘンドリックスの音源を管理することになり現在に至っている。アルは2002年に亡くなったため、娘の[[ジェイニー・ヘンドリックス]]がEXPERIENCE HENDRIXの代表になっている。ただしジェイニーはアルの後妻アヤコの連れ子で、ヘンドリックスとは義理の兄妹である。つまりヘンドリックスとジェイニーには血のつながりは全くない。<br />
<br />
無名時代のヘンドリックスは様々なレコード会社やエージェントと契約を取り交わしており(多くはその場の雰囲気に流され軽い気持ちで契約書にサインしていたらしい)、生前から権利が混乱していた。特にPPXレコードというインディーズレーベルが「ヘンドリックスは当社の契約ミュージシャンである」として本格的に法廷闘争を仕掛けてきたため、解決策としてヘンドリックスのアルバム1枚の権利をPPX側に与えることになった。そのために制作されたのがヘンドリックスの生前唯一の正規ライブアルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』である。こうした経緯に加え、十分な制作時間を与えられなかったこともあり、ヘンドリックスは同アルバムの仕上がりに満足していなかったらしい。<br />
<br />
EXPERIENCE HENDRIXの販売権を獲得した[[MCAレコード]](日本では[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルビクター]])から再発盤や新規企画盤のCDが発売される際、「オリジナル録音テープを元にリマスターした」と宣伝されたが、一説に一部のオリジナルテープはEXPERIENCE HENDRIXの手に渡っていないといわれ、部分的にはレコード等から音を起こしているのではとの噂も存在する(一部の曲にレコードの[[針音]](スクラッチノイズ)と思われる雑音があるため)。<br />
<br />
[[2009年]][[9月18日]]、EXPERIENCE HENDRIXの販売権を[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|米国ソニー・ミュージックエンタテインメント]]が獲得したことを発表。[[2010年]][[1月1日]]よりSMEに移行した。これにより、日本盤は2010年3月より[[ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル]]を通じて、スタジオ・アルバムとライブ・アルバムは完全生産限定、ベスト・アルバムはレギュラー形態でリリースされた<ref>[http://www.sme.co.jp/pressrelease/images/20090918.pdf#search='ジミ・ヘンドリックス' ジミ・ヘンドリックス・カタログ獲得!]</ref>。<br />
また、セッション、セパレート盤、ライヴ、スタジオ・セッションなどのブートレックも販売されている。<br />
公式のアルバムやカーティス・ナイトのセッションもある。<br />
<br />
== 有名語録 ==<br />
[[画像:Jimihendrix-signatur.svg|thumb|220px|ジミ・ヘンドリックスのサイン]]<br />
{{ウィキポータルリンク|音楽|[[画像:Xmms.png|45px|Portal:音楽]]}}<br />
「[[愛国心]]を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな!」<br />
<br />
「ブルースは簡単に弾ける。だが、感じるのは難しい」<ref>http://www.brainyquote.com/quotes/jimi_hendrix_195403</ref><br />
<br />
「愛の力が、力への愛を超えたとき、世界に平和が訪れる」<br />
<br />
「Stay beautiful. Stay YOU」<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Reflist|group=注釈}}<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist|3}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commons&cat|Jimi_Hendrix|Jimi_Hendrix}}<br />
*[http://www.jimihendrix.com/ Jimi Hendrix official website]<br />
*[http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Arch/SR/jimihendrix/index.html Sony Music Online Japan : ジミ・ヘンドリックス]<br />
<br />
{{ジミ・ヘンドリックス|state=expanded}}<br />
{{ウッドストック・フェスティバル}}<br />
{{Normdaten}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:へんとりつくす しみ}}<br />
[[Category:ジミ・ヘンドリックス|*]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国のロック・ミュージシャン]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国のロック・ギタリスト]]<br />
[[Category:アメリカ合衆国の男性シンガーソングライター]]<br />
[[Category:ヒッピー・ムーブメント]]<br />
[[Category:ドラッグ・カルチャーの人物]]<br />
[[Category:アメリカ先住民のミュージシャン]]<br />
[[Category:リードギタリスト]]<br />
[[Category:アフリカ系アメリカ人のミュージシャン]]<br />
[[Category:ブルース・ミュージシャン]]<br />
[[Category:ロックの殿堂入りの人物]]<br />
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br />
[[Category:シアトル出身の人物]]<br />
[[Category:事故死した人物]]<br />
[[Category:1942年生]]<br />
[[Category:1970年没]]</div>
27.139.215.32
星野一義
2018-05-19T09:03:26Z
<p>27.139.215.32: /* 2輪時代 */</p>
<hr />
<div>{{F1ドライバー<br />
| 氏名 = 星野一義<br />
| Image = Kazuyoshi Hoshino 2010 Formula Nippon Motegi (May).jpg<br />
| image-size = 200px<br />
| 説明 = <br />
| フルネーム = <br />
| 国籍 = {{JPN}}<br />
| 出身地 = 同・[[静岡県]][[安倍郡]][[玉川村 (静岡県)|玉川村]]<br />
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1947|7|1}}<br />
| 所属チーム = '76 [[ティレル]]<br>'77 [[コジマエンジニアリング|コジマ]]<br />
| 活動時期 = 1976-1977<br />
| 出走回数 = 2<br />
| 優勝回数 = 0<br />
| 通算獲得ポイント = 0<br />
| 表彰台(3位以内)回数 = 0<br />
| ポールポジション = 0<br />
| ファステストラップ= 0<br />
| F1デビュー戦 = [[1976年F1世界選手権イン・ジャパン|1976年日本GP]]<br />
| 初勝利 =<br />
| 最終勝利 =<br />
| 最終戦 = [[1977年日本グランプリ (4輪)|1977年日本GP]]<br />
| タイトル =<br />
}}<br />
'''星野 一義'''(ほしの かずよし、[[1947年]][[7月1日]] - )は、元レーシングドライバーで、現在は株式会社[[ホシノインパル]]代表取締役社長。[[静岡県]][[安倍郡]][[玉川村 (静岡県)|玉川村]](現・[[静岡市]][[葵区]])出身。血液型:A型。現役時代は「'''日本一速い男'''」と呼ばれた。<br />
<br />
レーシングドライバーの[[星野一樹]]は長男。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
=== 2輪時代 ===<br />
星野の生家は生菓子の製造・販売業を営んでいて、比較的裕福だったという。野球少年だった星野少年は、父・又平が道楽で何台も自動車を所有していたこともあり、乗り物好きでもあった。中学生の時には無免許にも関わらず、父親から[[オートバイ]]を買ってもらい、それを乗り回したり改造したりしていたという<ref group="注釈">免許がなく、公道を走れない事もあり、リヤカーに[[モトクロッサー]]を積んでコースと家を行き来している姿を廃品回収を手伝う勤労少年だと思われ、通りすがりのおばさんに誉められたという逸話も残っている。</ref>。また、[[オートバイ (雑誌)|オートバイ]]や[[モーターサイクリスト]]などの[[オートバイ雑誌|バイク雑誌]]を読み漁っては、[[マン島TTレース]]や[[ロードレース世界選手権|WGP]]に参戦していた[[北野元]]や[[高橋国光]]が駆る[[ホンダ・レーシング|ホンダ]]のマシンに思いを馳せていた<ref name=":0">[http://www.as-web.jp/supergt/96108?all 星野一義の夢、かなう。ホンダRC166で鈴鹿をデモラン「本当にすごかった!」] AUTO SPORT Web 2017年3月4日</ref>。<br />
<br />
東海大学第一高等学校(現・[[東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部|東海大学付属翔洋高等学校]])を1年生の1学期が終わったところで中退すると、しばらくは静岡市内のオートバイ販売店で働くが、程なく当時東海大学に通っていた兄・幸雄を頼って神奈川に移り、[[川崎重工業|カワサキ]]ワークスライダーだった[[安良岡健]]に弟子入りを志願。安良岡の同僚だった[[三橋実]]が率いるカワサキ系[[モトクロス]]チーム「カワサキ・コンバット」に入る。この頃、後に一緒にホシノインパルを立ち上げることになる金子豊<ref>金子もカワサキ系モトクロスライダーだった</ref>と出会っている。[[1967年]]に由起子夫人<ref>金子豊の妹</ref>と結婚。[[1968年]]には同じカワサキ系の「神戸木の実レーシング」([[片山義美]]が主宰)に移籍して[[全日本モトクロス選手権]]の90 cc・125 cc両クラスでチャンピオンを獲得。タイトル獲得のご褒美として[[MFJ]]からヨーロッパ視察旅行を与えられた。<br />
<br />
=== 4輪時代 ===<br />
しかしモトクロスの危険度の高さに見合った年収が得られないことに不満を感じ<ref group="注釈">とはいえ公務員の平均年収が100万円に満たなかった時代、星野は年収200万円を超えていたと言われている。</ref>、一度は[[オートレース]]への転向を考えた<ref group="注釈">あるオートレーサーがインタビューで年収1,000万と語っていたため。現在でもオートレーサー年収は、超一流クラスのGPレーサー以外では対抗できないと言われている。</ref>。だが翌[[1969年]]にモトクロス仲間の[[歳森康師]]の推薦で[[日産自動車]]の[[ワークス・チーム|ワークス]]ドライバーのテストを受け合格したのを機に二輪の世界から引退。東京・大森にあった日産の宣伝部の契約ドライバー(俗に「[[大森ワークス]]」と呼ばれる)となり、主に当時「[[マイナーツーリング]]」と呼ばれた[[富士スピードウェイ]]での[[ツーリングカー]]レースなどで活躍することになる。<br />
<br />
[[1974年]]には大森ワークスの先輩(リーダー)である[[鈴木誠一 (レーサー)|鈴木誠一]]と折半で、マーチF3のシャシーを購入<ref>元は[[桑島正美]]の車両だった。</ref>し、FJ1300に参戦。エンジンは、鈴木たちが設立した東名自動車(現・[[東名パワード]])のチューンしたもの。星野はFJ1300のデビュー戦で優勝。<br />
<br />
[[1975年]]に[[ヒーローズレーシング]]に加入。[[全日本F2000選手権]]に参戦し、チャンピオンを獲得する。<br />
<br />
[[1976年]]に富士スピードウェイで行われた[[1976年F1世界選手権イン・ジャパン|F1世界選手権イン・ジャパン]]に、[[ヒーローズレーシング]]からスポット参戦。旧型のマシン([[ティレル・007]])を駆り大雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、スペアタイヤが底をつきリタイヤした(正確にはタイヤ自体は残っていたが、それを装着するホイールの予備がなかった)。以後、[[全日本F2選手権]]や[[富士グランチャンピオンレース|富士GCシリーズ]]、[[全日本ツーリングカー選手権]]([[全日本ツーリングカー選手権 (1985年-1993年)|JTC]]および[[全日本ツーリングカー選手権 (1994年-1998年)|JTCC]])においてチャンピオンの常連となり、レースファンから「日本一速い男」と呼ばれるようになる。<br />
<br />
[[1977年]]、[[1977年日本グランプリ (4輪)|F1日本GP]]に[[コジマエンジニアリング]]KE009にて参戦 11位完走<br />
<br />
[[1978年]]、海外初遠征となるルーアンと[[ドニントン・パーク]]で行われたヨーロッパF2選手権にスポット参戦するが(マシンは[[ノバエンジニアリング|ノバ]]532P・[[BMW]])、2戦ともリタイヤに終わる。<br />
<br />
[[1980年]]には自らのレース参戦資金を稼ぎ出す目的で、金子豊と共に[[ホシノインパル]]を設立。[[1983年]]には自らのレーシングチームとして「ホシノ・レーシング」を設立して[[全日本F2選手権]]に参戦をする。<br />
<br />
[[1983年]]にはイギリスの[[ドニントン・パーク]]で行われたヨーロッパF2選手権シリーズ 第8戦にスポット参戦(マシンは[[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]832・BMW)、[[ブリヂストン]]勢最上位となる4位入賞。<br />
<br />
[[1985年]]に富士スピードウェイで行なわれた[[WEC-JAPAN]]では、悪天候によりライバルたちがためらう中を果敢にアタックし優勝。日本人として初の世界選手権レース制覇となった。<br />
<br />
[[1987年]]には[[ホンダF1]]のテストドライバーになった他、スポンサー持込などの条件付きでベネトンなどのF1の有力チームのシートに誘われることも多かったというが、「プロのドライバーはお金を貰って走るもの。だからこちらからたとえ1円でも払ってまで乗りたくはなかった。」という考えで、F1のレギュラーシートを得ることはなかった。<br />
<br />
しかし海外でも活躍し、[[1990年のル・マン24時間レース]]に[[日産・R90CP]]で出場し5位入賞、[[1998年のル・マン24時間レース]]には[[日産・R390]]で出場し、日本人ドライバートリオによる初の3位表彰台に輝いた。他にも[[1992年]]には[[林義正]]・[[水野和敏]]の指揮で[[デイトナ24時間レース]]に[[日産・R91CP]]で出場し、2位を9周引き離して完全優勝するなどの実績を挙げている。このレースでは他にも[[ファステストラップ]]1分38秒495や、24時間の平均速度181.923km/hなど、数多くの記録を塗り替えた。<br />
<br />
1990年代に入ると全日本ツーリングカー選手権や[[全日本GT選手権]]に[[カルソニックカンセイ|カルソニック]]カラーの[[日産・スカイライン|スカイライン]]GT-Rで参戦し数多くのチャンピオンを獲得、「カルソニックの星野」のイメージが強くなるが、[[全日本F3000選手権]]でも活躍をつづけた。<br />
<br />
[[1997年]]シーズン開幕直前に持病の腰痛の悪化の為、国内トップフォーミュラ([[フォーミュラ・ニッポン]])からの引退を発表。以後も全日本GT選手権に参戦を続けるが、[[2002年]]8月に現役ドライバー引退を発表した。<br />
<br />
=== 引退後 ===<br />
引退後は全日本GT(現・[[SUPER GT]])と[[フォーミュラ・ニッポン]]に参戦する自身のチーム「チームインパル」の監督を務める。また、ニスモフェスティバルなどの自動車のイベントでのデモラン走行や日産の新型車(主に[[日産・フェアレディZ|フェアレディZ]]や[[日産・スカイライン|スカイライン]]、[[日産・GT-R|GT-R]]など)のテストドライブなどで雑誌やメディアに姿を見せることも少なくない。<br />
<br />
== 評価 ==<br />
*星野は1970年代半ばから「日本一速い男」と呼ばれるようになったが、これは必ずしも褒め言葉ではない面もあった。一方に「日本一強い男」とでも呼ぶべき[[高原敬武]]がいたためである。星野はベテラン勢を差し置いて[[ポールポジション]]を獲得するのだが、最終的には高原が勝利を得てチャンピオンになるというパターンが続いていたのだ。速さで星野、強さで高原というのが、1970年代半ばの日本レース界だった。<br />
*[[エディ・アーバイン]]や[[ジョニー・ハーバート]]など、[[全日本F3000選手権]]に参戦経験があるF1ドライバーから一目置かれている。中でもアーバインはF1初優勝を飾った[[1999年]][[オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]の記者会見の席上で「日本にはカズヨシ・ホシノというバカっ速いドライバーがいて、とてもかなわなかった」「今ここに自分がいられるのはホシノのおかげ」と発言したことがあり、その時同席していたやはり日本での経験が長い[[ハインツ=ハラルド・フレンツェン]]もそれに同意するという一幕があった。<br />
*1980年代半ばに何度も全日本タイトルを奪っていた[[中嶋悟]]は「僕がいくら実績を挙げても、相変わらず“日本一速い男”が別にいるんだよね」とボヤいていたことがある。1990年代に入るとアーバインやハーバートフレンツェン、ペドロ・デ・ラ・ロサ、高木虎之介、服部尚貴、中野信治、ラルフ・シューマッハ、本山哲など中年期に達した星野より明らかに速い若手も登場していたのだが、相変わらず「日本一速い男」の称号は星野のものであり、「何とかしてほしい」と嘆く関係者もいたようだ。中嶋悟などタイム的には星野と遜色ないドライバーがいたのは事実だが、星野は勝利に対する執念が他の日本人ドライバーと比べて人一倍強く、そういったレースに対する姿勢の面も含めての“日本一速い男”であるという声のほうが多いようである。<br />
*タイヤテストに関する能力は非常に高く評価されており、[[ブリヂストン]]の[[浜島裕英]]は星野を「[[ミハエル・シューマッハ]]、[[デビッド・クルサード]]と並んで極めて高い評価能力を持つ」と評している。ただ浜島によれば、星野とシューマッハは「前がかなり食いついていないと(=フロントタイヤのグリップが高くないと)だめなドライバー」なため、普通のドライバーが同じタイヤを使うと「みんな[[オーバーステア]]になってしまって乗れないと思う」とのこと<ref>『[[GRAND PRIX SPECIAL]]』([[ソニー・マガジンズ]])2008年2月号 p.97</ref>。また、当時の全日本F3000で「ブリヂストンタイヤが最大限に機能するスリップアングルを出すのが一番巧かったのは星野だ」とも浜島裕英は語っている。<br />
*チーム監督となってからも熱血漢である。レース中、納得できないことがあれば、テーブルを叩いたり、物を投げたり、テレビカメラに当たり散らすなど「日本一熱い監督」と言われている。その一方、自チームの選手に当り散らしたり、説教をするようなことはほとんどないと言われる。これは、かつて自身がドライバー時代、結果を求めて攻めに行った結果、クラッシュしたり順位を落としたりしたことが多々あり、その度に周囲からのバッシングに晒されたり、そっとしておいてほしいのに周囲から構われるといった、レーシングドライバーをやったことがある人間しかわからない辛い経験をしてきたからである。後述するが、星野は外面で見る豪放磊落さと打って変わって、内面ではレーシングドライバーの中でも特にナイーブな性格で、このような辛い経験でただでさえレース結果に落胆しているところに追い打ちをかけるように心を痛めることが多かった。故に、競り合ったためにクラッシュやリタイアをした選手に対しては、マスメディアなどの取材攻勢から守る、取材に対して「(レースの結果は)選手のせい」などと責任を被せることをしない、等、ドライバーを最大限擁護する行動をしている<ref>[Racing on 特集:星野一義 がむしゃらフォーミュラ編 ISBN 4779620015]</ref>。<br />
<br />
== 性格・嗜好 ==<br />
*[[ヘビースモーカー]]として有名で、ピット内は禁煙にもかかわらず、よく[[たばこ]]を吸っていたという。銘柄は[[スポンサー]]を長年務めていた銘柄である[[キャビン (たばこ)|キャビン]]。あるレースでは、レースカーの車内にまで持ち込もうとしたところを、スタッフやチームメイトの[[本山哲]]に制止されたという逸話もある。だが、2009年10月でたばこをやめて2年になることが明らかになった。<br />
*F3000でシーケンシャル・シフトが普及してからも星野は従来のHパターンシフトにこだわり、ギアボックスを換装していた。更に、シフトアップ時のフリッピング(アクセルを一瞬戻すことによるロス)を減らすため、当時は珍しかったシフトカット装置<ref group="注釈">ボタンを押している間だけエンジンの点火がカットされるため、アクセルを踏みっぱなしでもシフトアップが可能な装置。</ref>を独自に装着していた。<br />
*一見豪放な性格に見える星野だが実際には神経の細い部分もあり、現役時代レース当日になると緊張のため食事が喉を通らず、レース直前の食事を[[バナナ]]一本のみで済ませることも多かったという。ヒーローズレーシングで中嶋悟とチームメイトだった時代、ドライバーズサロンで昼食を食べている中嶋の姿を見て「レース前なのによくそんなに食べられるな」と思わず声をかけたこともある。現役中は水曜日から全身に湿疹が出て、月曜日には完治するというのが15年続いた。<br />
*中嶋悟がレギュラードライバーとしてF1に参戦していた時は、悔しさから暫くF1を観ることはなかった。<br />
*ライバルレーサーの強さを認めると率直にそれを評価することが多い。その例を挙げる。<br />
**1990年のインタビューで前年のF3000王者の[[小河等]]を「最終的には、小河(等)ちゃんのあのアクセルワークだよ。あの冷静さ、あのハンドリング」と小河のドライビングスタイルについてこれ以上ない評価をしている。<ref>「[[Racing On]]」 No.86、p.90、武集書房、1990年。</ref>また「僕のあとは小河クンしかいないよ」とも語っていたという。<ref>「Racing On」 No.100、p.54、武集書房、1991年。</ref><br />
**1993年、[[スポーツランドSUGO]]でのF3000レースの予選中、馬の背コーナーをとんでもない速さで駆け抜けていくハインツ=ハラルド・フレンツェンに衝撃を受け、ピットに戻るとフレンツェンのもとに駆け寄り「お前はこんなところでくすぶってないで早くF1に行け」と言いに行った(星野がライバルを褒めに出向くのは極めて異例)。フレンツェンは翌年[[ザウバー]]からF1デビューを果たした。<br />
**1995年、F3000第9戦富士でトップを独走し、トラブルもなかったにも関わらず、終盤になって[[高木虎之介]]にストレートであっさりかわされ2位に終わる。完敗した星野はレース後の記者会見で監督の中嶋悟に「もう[[ティレル|タイレル]](ティレル)でもどこでもいいから向こう(F1)にやっちゃってよ」と漏らした。なお、星野は翌年限りでフォーミュラから引退し、高木は1998年にそのティレルからF1デビューを果たした。<br />
*プライベートでは[[ゴルフ]]好きだが、熱くなりやすい性格のせいか「すぐに[[クラブ (ゴルフ用具)|ゴルフクラブ]]を叩き折ってしまう」という。酷い時には「スタート前にクラブを2本叩き折って、キャディーに怖がられたため謝ってチップをあげた」こともあるといい、そのせいか本人曰く「遊んでもらえる友達がいなくなっちゃった」とのこと<ref name=as160117>[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=2&no=70571 星野監督の“神伝説”を亜久里監督が暴露] - オートスポーツ・2016年1月17日</ref>。一方で[[イップス]]持ちでもある<ref name=as160117 />。<br />
<br />
== 人間関係 ==<br />
*[[萩原光]]の師匠で、萩原が事故死した時は大変なショックを受けた。また他に[[本山哲]]や[[近藤真彦]]のレーサーとしての師匠でもある。<br />
*現・[[シアトルマリナーズ]]の[[イチロー]]はレーサー時代からの星野のファンであり、イチローの依頼で星野が経営するホシノインパル製のカスタマイズカー[[日産・マーチ|マーチ]]や[[日産・シーマ|シーマ]]、[[日産・スカイラインクーペ|スカイラインクーペ]]を作ったことがあり、特にマーチやスカイラインクーペは現在もイチローがアメリカで乗っているほどである。<br />
*レースを始めるきっかけとなったのは、[[鈴木忠男]]([[SP忠男レーシング]]チーム監督/モトクロス全日本チャンピオン)選手出場のモトクロスレース観戦があったからと言われている。Mr.BIKE(BG)の対談で本人が答えた。現在でも[[鈴木忠男]]とは信頼関係を持っている。<br />
<br />
== エピソード ==<br />
*[[1982年]]には[[日産・シルビア]]RS([[日産・FJエンジン|FJ20型]]エンジン搭載)のテレビCMに出演。ここでも「日本一速い男」と紹介されている。<br />
*1980年代後半、[[全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権|全日本耐久選手権]]、全日本ツーリングカー選手権で日産ワークスに在籍したまま、全日本F2/F3000選手権ではホンダからワークスエンジンの供給を受けていた時期があり、そのため当時は[[グループC]]、[[グループA]]のレースのときは日産車で、F2/F3000のときは中立の意味でメルセデスベンツでサーキット入りしていた。ちなみにホンダからF2エンジンの供給を受けることが内定した1984年暮れ、星野は日産ワークスからの離脱を覚悟し<ref group="注釈">フリーの中嶋悟はF2はホンダ、グループCではトヨタから参戦していたが、日産ワークス所属のドライバーは国内他社のマシン・エンジンでのレース参戦も禁じられていた(BMWなど外国メーカーのマシンやエンジンを購入してプライベーターとして参戦する場合はOK)。</ref>、銀座の日産本社に挨拶に出向いたが[[ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル]](NISMO)側が星野の能力を惜しんだことに加え<ref group="注釈">当時すでにNISMOの社内ではル・マン24時間レース参戦に向けた準備が始まっており、星野はエースドライバーとしての起用が有力視されていた。</ref>、当時ホンダと日産は直接レースで対決することがなかった<ref group="注釈">ホンダはフォーミュラカー路線が基本だったのに対し、日産はグループCを中心に活動していたため。全日本ツーリングカー選手権には両社とも参戦していたが、参戦クラスが異なっていたため直接対決はなかった。</ref>ことなどが理由となり残留が決まった。また、[[2008年]]時点で星野率いる[[IMPUL]]はフォーミュラ・ニッポンに[[トヨタ]]エンジンで参戦しているが、こちらも日産が同クラスに参戦していない事を理由に特に問題視はされていない。ただし、星野との結びつきが強いだけにNISMOのテクニカルスポンサードを受けており、IMPULのマシンにはトヨタとNISMOのステッカーが貼ってあるという奇妙な事態になっている。<br />
*1985年のWEC-JAPANでは、豪雨と霧のためスタートが3時間遅れるほどの悪天候のため海外のワークス勢がしり込みして棄権するチームが続出する中、星野がドライバー交替もせず1人で後続を引き離し独走し優勝を果たし、日本人ドライバーとして、初の世界選手権優勝者となる。レース後の記者会見では、その時のはっきりしないレース運営や姿勢があやふやな日本のモータースポーツ界に対して怒りを露にしている。<br />
*雑誌のコラムで「今まで凄かった車は?」の問いに「日産の[[グループC]]カー」と答え「'''1,000馬力も出たら危ない'''」と語った。当時は毎レースの予選終了後にチームメイトの[[長谷見昌弘]]と顔を合わせ、'''「お互い無事でよかった」'''と安堵し、Cカーカテゴリーが消滅した際は'''「もうこれで死ななくて済む」'''と2人でホッしたという。<br />
*1990年代初頭の全日本F3000のレースで、若手レーサーのミスに巻き込まれて星野がリタイヤに追い込まれた。「星野さんに謝りに行ったほうがいい」と周囲に言われてその若手が星野のモーターホームに向かうと、窓ガラスに拳状のヒビが入っており、星野の怒りの大きさにおののいたそのレーサーはその場から退散したという。<br />
*[[1990年]]10月、F1の[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]チームから、直前に[[ヘリコプター]]事故で右腕を切断した[[アレッサンドロ・ナニーニ]]の代役としてF1[[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]にスポット参戦しないかという正式なオファーがあり、その条件として2,000万円を用意すれば乗れたのだが、先述の通り「プロのレーシングドライバーは金を貰って乗るものであって、それがF1であろうとも自分からたとえ1円でも払って乗りたくはない」という主義を貫いたため、この話は[[ロベルト・モレノ]]へと流れてしまった(結果モレノは2位表彰台獲得、ベネトン1-2フィニッシュ)。この件に関連して、[[2003年]]の日本グランプリ金曜フリー走行にて、愛弟子である本山哲が[[ジョーダン・グランプリ|ジョーダン]]F1のテストドライブが出来る事になり、その場に星野も立ち合ったが感動のあまり、「俺はベネトンから2,000万円で乗らないか、と言われて断ったが、(こんなにF1が凄いのなら)やはり金払ってでも乗ればよかった」と語った。<br />
*[[1996年]]、他力本願ながらシリーズチャンピオン獲得の可能性を残していた雨の富士スピードウェイでのフォーミュラ・ニッポン最終戦において、クラッチトラブルによりピットに帰ってきてリタイアした際に、ヘルメットを床に叩き付けて悔しがる姿がテレビ中継に映った。その後、星野にヘルメットを供給していた[[アライヘルメット]]の工場を訪れ、「(ヘルメットに八つ当たりして)申し訳ありませんでした」と謝罪したという。結果として、このレースが星野の国内トップフォーミュラ引退レースとなった。<br />
*[[2001年]]3月にはスピード違反で[[免許停止]]処分を受けたため全日本GT選手権に出場できなくなり、急遽[[服部尚貴]]が星野の代わりにレースに参戦したことがあった。またこの時、免停講習を受ける星野の姿が[[写真週刊誌]]に掲載され、世間の話題を呼んだ。<br />
*マシン開発が激化の一途を辿っていたグループCのマシンの走行テストを富士スピードウェイで行っていた際、突然リアウイングが最終コーナーで加速した途端にへし折れ、コントロールを失ったマシンが空中に浮かんだ格好で数回転スピンし、コンクリートウォールに激突して停止したことがある。幸運にも怪我一つなく救出されたが、さすがの星野も事故後はその恐怖から30分以上全身の激しい震えが止まらなかったという。当時日産はグループCカーとして[[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]や[[ローラ・カーズ|ローラ]]等外部コンストラクターのシャシーを使用していたが、外部メーカー製パーツの品質管理の難しさを痛感した日産はこの事故を契機にパーツの内製比率を増し、最終的に日産・R91CPにて主要パーツを完全自社製とすることになる。<br />
*引退した際にはエディー・アーバインが'''「星野さんの引退によって日本のモータースポーツが下火になったと聞いている。これは寂しい事だよね」'''と発言するなど、引退を惜しむコメントが多数寄せられた。<br />
*1998年の[[ル・マン24時間レース]]へ参戦する際、[[THE ALFEE]]が星野のパーソナルスポンサーとして就くことになった。その際、乗車する日産・R390-GT1のリアタイヤ前方カウルに"THE ALFEE [[EMIミュージック・ジャパン|TOSHIBA EMI]]"のロゴが貼り付けられた。本来数ヶ月掛かるスポンサー契約をほんの一週間程度で済ませたといわれている。翌年は星野のレーシングスーツにTHE ALFEEのロゴが貼られた。<br />
*2012年2月の鈴鹿サーキットモータースポーツファン感謝デーにおいて「1980年代末期、日産の承諾を得た上でホンダのF1用エンジン開発にテストドライバーとして参加していた」事を明らかにしている。また、この時のデモランにおいて星野はウィリアムズ・ホンダのマシンに乗り中嶋ドライブのロータス・ホンダと共演している。<br />
*[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]「生ダラKART GP」出演時、[[とんねるず]]の[[石橋貴明]]から「'''やじお'''」と呼ばれていた。<br />
*[[2017年]]の鈴鹿サーキットモータースポーツファン感謝デーにて、中学生の頃からの憧れであったマン島TTレース参戦マシン、[[ホンダ・レーシング|ホンダ]]・RC166とRC164のデモランを担当した<ref name=":0" />。星野は過去の同イベントにて度々バイクに乗せてほしいと発言しており<ref group="注釈">前述の2012年のイベントの際も、[[ケビン・シュワンツ]]や[[ワイン・ガードナー]]のWGPマシンを間近で見ながら「俺も乗ってみたい」「俺は元レーシングライダーだったんだぞ」と発言している。</ref>、また北野元に対しても「(RCに)乗りたい」と訴え続けていたといい、中学生時代からの40年越しの夢が叶った星野は、走行中に涙を浮かべていたという<ref>[http://web.motormagazine.co.jp/_ct/17050034 星野一義とホンダRC166が夢の競演!【モータースポーツファン感謝デー】in 鈴鹿サーキット] webモーターマガジン 2017年3月10日</ref>。<br />
<br />
==レース戦績==<br />
===全日本F2000選手権/全日本F2選手権/全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン===<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"<br />
! 年<br />
! 所属チーム<br />
! 1<br />
! 2<br />
! 3<br />
! 4<br />
! 5<br />
! 6<br />
! 7<br />
! 8<br />
! 9<br />
! 10<br />
! 11<br />
! 順位<br />
! ポイント<br />
|-<br />
! [[1974年の全日本F2000選手権|1974年]]<br />
! [[コジマエンジニアリング]]<br />
|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br />
|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br />
|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>3</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
! 5位<br />
! 10<br />
|-<br />
! [[1975年の全日本F2000選手権|1975年]]<br />
! [[ビクトリーサークルクラブ]]<br />
|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>1</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''1位'''<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''59'''<br />
|-<br />
! [[1976年の全日本F2000選手権|1976年]]<br />
!rowspan="7"| [[ヒーローズレーシング|ヒーローズレーシングコーポレーション]]<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>DNS</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
! 4位<br />
! 40<br />
|-<br />
! [[1977年の全日本F2000選手権|1977年]]<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>1</small><br />
|[[MINEサーキット|NIS]]<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>2</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''1位'''<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''90 (102)'''<br />
|-<br />
! [[1978年の全日本F2選手権|1978年]]<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>1</small><br />
|[[MINEサーキット|NIS]]<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>12</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''1位'''<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''76'''<br />
|-<br />
! [[1979年の全日本F2選手権|1979年]]<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|[[MINEサーキット|NIS]]<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>10</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| '''''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>6</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>1</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''2位'''<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''78 (79)'''<br />
|-<br />
! [[1980年の全日本F2選手権|1980年]]<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[MINEサーキット|NIS]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>4</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>1</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''2位'''<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''65'''<br />
|-<br />
! [[1981年の全日本F2選手権|1981年]]<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>10</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''2位'''<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''48'''<br />
|-<br />
! [[1982年の全日本F2選手権|1982年]]<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>2</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''2位'''<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''55'''<br />
|-<br />
! [[1983年の全日本F2選手権|1983年]]<br />
!rowspan="5"| [[ホシノインパル|ホシノレーシング]]<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>4</small><br />
|bgcolor="#000000" style="color: #FFFFFF"| '''[[富士スピードウェイ|<span style="color:white;">FSW</span>]]'''<br /><small>DSQ</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| '''[[MINEサーキット|NIS]]'''<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>3</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''2位'''<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''79 (89)'''<br />
|-<br />
! [[1984年の全日本F2選手権|1984年]]<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[MINEサーキット|NIS]]''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''3位'''<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''95 (103)'''<br />
|-<br />
! [[1985年の全日本F2選手権|1985年]]<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>10</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[MINEサーキット|NIS]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>DNS</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>11</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>14</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>DNS</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
! 4位<br />
! 51<br />
|-<br />
! [[1986年の全日本F2選手権|1986年]]<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[MINEサーキット|NIS]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>1</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''2位'''<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''87'''<br />
|-<br />
! [[1987年の全日本F3000選手権|1987年]]<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>10</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[MINEサーキット|NIS]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>6</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>2</small><br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''1位'''<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''132'''<br />
|-<br />
! [[1988年の全日本F3000選手権|1988年]]<br />
!rowspan="5"| [[ホシノインパル|CABIN RACING TEAM WITH IMPUL]]<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[MINEサーキット|NIS]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| ''[[スポーツランドSUGO|SUG]]''<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>1</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''2位'''<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|'''43'''<br />
|-<br />
! [[1989年の全日本F3000選手権|1989年]]<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[MINEサーキット|NIS]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| ''[[スポーツランドSUGO|SUG]]''<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''3位'''<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''22'''<br />
|-<br />
! [[1990年の全日本F3000選手権|1990年]]<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[MINEサーキット|NIS]]<br /><small>4</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>16</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| ''[[富士スピードウェイ|FSW]]''<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>1</small><br />
|<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''1位'''<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''58 (63)'''<br />
|-<br />
! [[1991年の全日本F3000選手権|1991年]]<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| ''[[オートポリス|AUT]]''<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>C</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>Ret</small><br />
! 4位<br />
! 24<br />
|-<br />
! [[1992年の全日本F3000選手権|1992年]]<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>DNS</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[オートポリス|AUT]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>7</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>12</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"| ''[[富士スピードウェイ|FSW]]''<br /><small>13</small><br />
! 12位<br />
! 10<br />
|-<br />
! [[1993年の全日本F3000選手権|1993年]]<br />
!rowspan="3"| [[ホシノインパル|NISSEKI IMPUL RACING TEAM]]<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[オートポリス|AUT]]<br /><small>C</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>C</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''1位'''<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''32'''<br />
|-<br />
! [[1994年の全日本F3000選手権|1994年]]<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>7</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>15</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>4</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>6</small><br />
|<br />
! 8位<br />
! 6<br />
|-<br />
! [[1995年の全日本F3000選手権|1995年]]<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>11</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>C</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>6</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[十勝スピードウェイ|TOK]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| ''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]''<br /><small>4</small><br />
|<br />
|<br />
! 4位<br />
! 20<br />
|-<br />
! [[1996年のフォーミュラ・ニッポン|1996年]]<br />
! [[ホシノインパル|カルソニック RACING TEAM with IMPUL]]<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[十勝スピードウェイ|TOK]]<br /><small>4</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"| '''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''3位'''<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''31'''<br />
|}<br />
<br />
=== フォーミュラ1世界選手権 ===<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"<br />
! 年<br />
! 所属チーム<br />
! シャシー<br />
! 1<br />
! 2<br />
! 3<br />
! 4<br />
! 5<br />
! 6<br />
! 7<br />
! 8<br />
! 9<br />
! 10<br />
! 11<br />
! 12<br />
! 13<br />
! 14<br />
! 15<br />
! 16<br />
! 17<br />
! WDC<br />
! ポイント<br />
|-<br />
! [[1976年のF1世界選手権|1976年]]<br />
! [[ティレル]]/[[ヒーローズレーシング|ヒーローズ]]<br />
! [[ティレル・007|007]]<br />
<br />
| [[1976年ブラジルグランプリ|BRA]]<br />
| [[1976年南アフリカグランプリ|RSA]]<br />
| [[1976年アメリカ西グランプリ|USW]]<br />
| [[1976年スペイングランプリ|ESP]]<br />
| [[1976年ベルギーグランプリ|BEL]]<br />
| [[1976年モナコグランプリ|MON]]<br />
| [[1976年スウェーデングランプリ|SWE]]<br />
| [[1976年フランスグランプリ|FRA]]<br />
| [[1976年イギリスグランプリ|GBR]]<br />
| [[1976年ドイツグランプリ|GER]]<br />
| [[1976年オーストリアグランプリ|AUT]]<br />
| [[1976年オランダグランプリ|NED]]<br />
| [[1976年イタリアグランプリ|ITA]]<br />
| [[1976年カナダグランプリ|CAN]]<br />
| [[1976年アメリカグランプリ|USA]]<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[1976年F1世界選手権イン・ジャパン|JPN]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
! NC<br>(43位)<br />
! 0<br />
|-<br />
! [[1977年のF1世界選手権|1977年]]<br />
! [[コジマエンジニアリング|コジマ]]/[[ヒーローズレーシング|ヒーローズ]]<br />
! [[コジマ・KE009|KE009]]<br />
<br />
| [[1977年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br />
| [[1977年ブラジルグランプリ|BRA]]<br />
| [[1977年南アフリカグランプリ|RSA]]<br />
| [[1977年アメリカ西グランプリ|USW]]<br />
| [[1977年スペイングランプリ|ESP]]<br />
| [[1977年モナコグランプリ|MON]]<br />
| [[1977年ベルギーグランプリ|BEL]]<br />
| [[1977年スウェーデングランプリ|SWE]]<br />
| [[1977年フランスグランプリ|FRA]]<br />
| [[1977年イギリスグランプリ|GBR]]<br />
| [[1977年ドイツグランプリ|GER]]<br />
| [[1977年オーストリアグランプリ|AUT]]<br />
| [[1977年オランダグランプリ|NED]]<br />
| [[1977年イタリアグランプリ|ITA]]<br />
| [[1977年アメリカグランプリ|USA]]<br />
| [[1977年カナダグランプリ|CAN]]<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[1977年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>11</small><br />
! NC<br>(37位)<br />
! 0<br />
|-<br />
|}<br />
([[Template:F1 driver results legend 2|key]])<br />
<br />
=== 全日本耐久選手権/全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権 ===<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"<br />
|-<br />
! 年<br />
! 所属チーム<br />
! 使用車両<br />
! クラス<br />
! 1<br />
! 2<br />
! 3<br />
! 4<br />
! 5<br />
! 6<br />
! 7<br />
! 順位<br />
! ポイント<br />
|-<br />
! [[1983年の全日本耐久選手権|1983年]]<br />
!rowspan="7"| [[ホシノインパル|ホシノレーシング]]<br />
!rowspan="3"| [[マーチ・83G|シルビアターボCニチラ<br />(マーチ・83G)]]<br />
!C1<br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FUJ]]<br><small>7</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
!NC<br />
!0<br />
|-<br />
! [[1984年の全日本耐久選手権|1984年]]<br />
!C1<br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>13</small><br />
|[[筑波サーキット|TSU]]<br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>12</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
!NC<br />
!0<br />
|-<br />
!rowspan="2"| [[1985年の全日本耐久選手権|1985年]]<br />
!C1<br />
|bgcolor="#DFDFDF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
!rowspan="2"|15位<br />
!rowspan="2"|35<br />
|-<br />
![[マーチ・85G|シルビアターボCニチラ<br />(マーチ・85G)]]<br />
!C1<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|'''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|-<br />
! [[1986年の全日本耐久選手権|1986年]]<br />
![[マーチ・86G|日産・R86V]]<br />
!C1<br />
|bgcolor="#FFFFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>DNS</small><br />
|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br />
|bgcolor="#EFCFFF"|'''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|'''[[鈴鹿サーキット|SUZ]]'''<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>10</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
!47位<br />
!1<br />
|-<br />
!rowspan="2"| [[1987年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権|1987年]]<br />
![[マーチ・87G|日産・R87E]]<br />
!rowspan="2"|C1<br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>6</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>16</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
!rowspan="2"|30位<br />
!rowspan="2"|9<br />
|-<br />
![[マーチ・86G|日産・R86V]]<br />
|<br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>8</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|-<br />
! [[1988年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権|1988年]]<br />
!rowspan="6"| [[ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル]]<br />
!rowspan="2"| [[日産・R88C]]<br />
!C1<br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>6</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>7</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>9</small><br />
|<br />
!18位<br />
!20<br />
|-<br />
!rowspan="2"| [[1989年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権|1989年]]<br />
!rowspan="2"|C1<br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>6</small><br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
!rowspan="2"|27位<br />
!rowspan="2"|6<br />
|-<br />
![[日産・R89C]]<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>DNS</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|<br />
|-<br />
! [[1990年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権|1990年]]<br />
![[日産・R90CP]]<br />
!C1<br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>4</small><br />
|bgcolor="#FFFFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>C</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>4</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>2</small><br />
|<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''3位'''<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''67'''<br />
|-<br />
! [[1991年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権|1991年]]<br />
![[日産・R91CP]]<br />
!C1<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>11</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''1位'''<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''87'''<br />
|-<br />
! [[1992年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権|1992年]]<br />
![[日産・R92CP]]<br />
!C1<br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>9</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''[[富士スピードウェイ|FSW]]'''<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''[[MINEサーキット|MIN]]'''<br /><small>1</small><br />
|<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''1位'''<br />
|bgcolor="#FFFFBF"|'''103'''<br />
|}<br />
<br />
=== 全日本GT選手権 ===<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"<br />
|-<br />
! 年<br />
! 所属チーム<br />
! 使用車両<br />
! クラス<br />
! 1<br />
! 2<br />
! 3<br />
! 4<br />
! 5<br />
! 6<br />
! 7<br />
! 8<br />
! 順位<br />
! ポイント<br />
|-<br />
! [[1995年の全日本GT選手権|1995年]]<br />
! [[ホシノインパル|HOSHINO RACING]]<br />
!rowspan="8"| [[日産・スカイラインGT-R]]<br />
!GT1<br />
|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small></small><br />
|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small></small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"|[[仙台ハイランド|SEN]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>7</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"|[[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>3</small><br />
|<br />
|<br />
! 14位<br />
! 19<br />
|-<br />
! [[1996年の全日本GT選手権|1996年]]<br />
!rowspan="7"| [[ホシノインパル|TEAM IMPUL]]<br />
!GT500<br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>8</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[仙台ハイランド|SEN]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|[[富士スピードウェイ|MIN]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>Ret</small><br />
|<br />
|<br />
! 4位<br />
! 54<br />
|-<br />
! [[1997年の全日本GT選手権|1997年]]<br />
!GT500<br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>Ret</small><br />
|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[仙台ハイランド|SEN]]<br /><small>15</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>4</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>6</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>14</small><br />
|<br />
|<br />
! 13位<br />
! 16<br />
|-<br />
! [[1998年の全日本GT選手権|1998年]]<br />
!GT500<br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>11</small><br />
|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[仙台ハイランド|SEN]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#DFDFDF"|[[ツインリンクもてぎ|TRM]]<br /><small>2</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>7</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>4</small><br />
|<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''3位'''<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''49'''<br />
|-<br />
! [[1999年の全日本GT選手権|1999年]]<br />
!GT500<br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>10</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>6</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[岡山国際サーキット|TAI]]<br /><small>10</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[ツインリンクもてぎ|TRM]]<br /><small>7</small><br />
|<br />
! 7位<br />
! 40<br />
|-<br />
! [[2000年の全日本GT選手権|2000年]]<br />
!GT500<br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[ツインリンクもてぎ|TRM]]<br /><small>17</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>5</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[岡山国際サーキット|TAI]]<br /><small>6</small><br />
|bgcolor="#FFFFBF"|[[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>1</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>3</small><br />
|<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''3位'''<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''66'''<br />
|-<br />
! [[2001年の全日本GT選手権|2001年]]<br />
!GT500<br />
|[[岡山国際サーキット|TAI]]<br />
|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br />
|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>7</small><br />
|bgcolor="#FFDF9F"|[[ツインリンクもてぎ|TRM]]<br /><small>3</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br /><small>11</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[MINEサーキット|MIN]]<br /><small>5</small><br />
|<br />
! 13位<br />
! 24<br />
|-<br />
! [[2002年の全日本GT選手権|2002年]]<br />
!GT500<br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[岡山国際サーキット|TAI]]<br /><small>14</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|bgcolor="#DFFFDF"|[[スポーツランドSUGO|SUG]]<br /><small>8</small><br />
|bgcolor="#CFCFFF"|[[セパン・インターナショナル・サーキット|SEP]]<br /><small>14</small><br />
|bgcolor="#EFCFFF"|[[富士スピードウェイ|FSW]]<br /><small>Ret</small><br />
|[[ツインリンクもてぎ|TRM]]<br />
|[[MINEサーキット|MIN]]<br />
|[[鈴鹿サーキット|SUZ]]<br />
! 24位<br />
! 3<br />
|}<br />
<br />
=== 全日本ツーリングカー選手権 ===<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"<br />
! 年<br />
! 所属チーム<br />
! 使用車両<br />
! 1<br />
! 2<br />
! 3<br />
! 4<br />
! 5<br />
! 6<br />
! 7<br />
! 8<br />
! 9<br />
! 10<br />
! 11<br />
! 12<br />
! 13<br />
! 14<br />
! 15<br />
! 16<br />
! 17<br />
! 18<br />
! 順位<br />
! ポイント<br />
|-<br />
! [[1994年の全日本ツーリングカー選手権|1994年]]<br />
! [[NISMO]]<br />
!rowspan="4"| [[日産・プリメーラ]]<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[オートポリス|AUT1]]<br />{{small|3}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[オートポリス|AUT2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[スポーツランドSUGO|SUG1]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[スポーツランドSUGO|SUG2]]<br />{{small|3}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[十勝スピードウェイ|TOK1]]<br />{{small|7}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[十勝スピードウェイ|TOK2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[鈴鹿サーキット|SUZ1]]<br />{{small|3}}<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ2]]<br />{{small|20}}<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN1]]<br />{{small|16}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[岡山国際サーキット|TAI1]]<br />{{small|4}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[岡山国際サーキット|TAI2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[筑波サーキット|TSU1]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[筑波サーキット|TSU2]]<br />{{small|DNS}}<br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[仙台ハイランド|SEN1]]<br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[仙台ハイランド|SEN2]]<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW1]]<br />{{small|1}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW2]]<br />{{small|Ret}}<br />
! 8位<br />
! 53<br />
|-<br />
! [[1995年の全日本ツーリングカー選手権|1995年]]<br />
! [[ホシノインパル|HOSHINO RACING]]<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW1]]<br />{{small|6}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW2]]<br />{{small|6}}<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[スポーツランドSUGO|SUG1]]<br />{{small|24}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[スポーツランドSUGO|SUG2]]<br />{{small|6}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[十勝スピードウェイ|TOK1]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[十勝スピードウェイ|TOK2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| [[鈴鹿サーキット|SUZ1]]<br />{{small|3}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ2]]<br />{{small|2}}<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN1]]<br />{{small|14}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[岡山国際サーキット|TAI1]]<br />{{small|2}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[岡山国際サーキット|TAI2]]<br />{{small|2}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[仙台ハイランド|SEN1]]<br />{{small|6}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[仙台ハイランド|SEN2]]<br />{{small|5}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW1]]<br />{{small|2}}<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW2]]<br />{{small|1}}<br />
|<br />
|<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''3位'''<br />
|bgcolor="#FFDF9F"|'''98'''<br />
|-<br />
! [[1996年の全日本ツーリングカー選手権|1996年]]<br />
! [[ホシノインパル|TEAM IMPUL]]<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW1]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[スポーツランドSUGO|SUG1]]<br />{{small|5}}<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[スポーツランドSUGO|SUG2]]<br />{{small|16}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ1]]<br />{{small|9}}<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ2]]<br />{{small|17}}<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[MINEサーキット|MIN1]]<br />{{small|1}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[MINEサーキット|MIN2]]<br />{{small|2}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[仙台ハイランド|SEN1]]<br />{{small|4}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[仙台ハイランド|SEN2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[十勝スピードウェイ|TOK1]]<br />{{small|10}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[十勝スピードウェイ|TOK2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW1]]<br />{{small|5}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW2]]<br />{{small|2}}<br />
|<br />
|<br />
|<br />
|<br />
! 6位<br />
! 61<br />
|-<br />
! [[1997年の全日本ツーリングカー選手権|1997年]]<br />
! [[NISMO]]<br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW1]]<br />{{small|C}}<br />
|bgcolor="#FFFFFF"| [[富士スピードウェイ|FSW2]]<br />{{small|C}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[岡山国際サーキット|TAI1]]<br />{{small|6}}<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[岡山国際サーキット|TAI2]]<br />{{small|14}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[スポーツランドSUGO|SUG1]]<br />{{small|2}}<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[スポーツランドSUGO|SUG2]]<br />{{small|1}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ1]]<br />{{small|2}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[鈴鹿サーキット|SUZ2]]<br />{{small|6}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[MINEサーキット|MIN1]]<br />{{small|4}}<br />
|bgcolor="#CFCFFF"| [[MINEサーキット|MIN2]]<br />{{small|11}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[仙台ハイランド|SEN1]]<br />{{small|2}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[仙台ハイランド|SEN2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#DFDFDF"| [[十勝スピードウェイ|TOK1]]<br />{{small|3}}<br />
|bgcolor="#EFCFFF"| [[十勝スピードウェイ|TOK2]]<br />{{small|Ret}}<br />
|bgcolor="#DFFFDF"| [[富士スピードウェイ|FSW1]]<br />{{small|8}}<br />
|bgcolor="#FFFFBF"| [[富士スピードウェイ|FSW2]]<br />{{small|1}}<br />
|<br />
|<br />
! 4位<br />
! 95<br />
|}<br />
<br />
=== ル・マン24時間レース ===<br />
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%"<br />
|-<br />
! 年<br />
! チーム<br />
! コ・ドライバー<br />
! 車<br />
! クラス<br />
! 周回<br />
! 総合順位<br />
! クラス順位<br />
|-<br />
! [[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[NISMO]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[松本恵二]]<br>{{flagicon|JPN}} [[鈴木亜久里]]<br />
|align="left"| [[マーチ・86G|日産・R86V]]<br />
| C1<br />
| 64<br />
| DNF<br />
| DNF<br />
|-<br />
! [[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[NISMO]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[高橋健二]]<br>{{flagicon|JPN}} [[松本恵二]]<br />
|align="left"| [[マーチ・87G|日産・R87E]]<br />
| C1<br />
| 181<br />
| DNF<br />
| DNF<br />
|-<br />
! [[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[NISMO]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[和田孝夫]]<br>{{flagicon|JPN}} [[鈴木亜久里]]<br />
|align="left"| [[日産・R88C]]<br />
| C1<br />
| 286<br />
| DNF<br />
| DNF<br />
|-<br />
! [[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[NISMO]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[長谷見昌弘]]<br>{{flagicon|JPN}} [[鈴木利男]]<br />
|align="left"| [[日産・R89C]]<br />
| C1<br />
| 167<br />
| DNF<br />
| DNF<br />
|-<br />
! [[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[NISMO]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[長谷見昌弘]]<br>{{flagicon|JPN}} [[鈴木利男]]<br />
|align="left"| [[日産・R90CP]]<br />
| C1<br />
| 348<br />
| 5位<br />
| 5位<br />
|-<br />
! [[1995年のル・マン24時間レース|1995年]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[NISMO]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[影山正彦]]<br>{{flagicon|JPN}} [[鈴木利男]]<br />
|align="left"| [[日産・スカイラインGT-R|日産 NISMO・GT-R LM]]<br />
| GT1<br />
| 157<br />
| DNF<br />
| DNF<br />
|-<br />
! [[1996年のル・マン24時間レース|1996年]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[NISMO]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[長谷見昌弘]]<br>{{flagicon|JPN}} [[鈴木利男]]<br />
|align="left"| [[日産・スカイラインGT-R|日産 NISMO・GT-R LM]]<br />
| GT1<br />
| 307<br />
| 15位<br />
| 10位<br />
|-<br />
! [[1997年のル・マン24時間レース|1997年]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[NISMO]]<br>{{flagicon|GBR}} [[トム・ウォーキンショー|TWR]]<br />
|align="left"| {{flagicon|FRA}} [[エリック・コマス]]<br>{{flagicon|JPN}} [[影山正彦]]<br />
|align="left"| [[日産・R390|日産・R390 GT1]]<br />
| GT1<br />
| 294<br />
| 12位<br />
| 5位<br />
|-<br />
! [[1998年のル・マン24時間レース|1998年]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[NISMO]]<br>{{flagicon|GBR}} [[トム・ウォーキンショー|TWR]]<br />
|align="left"| {{flagicon|JPN}} [[影山正彦]]<br>{{flagicon|JPN}} [[鈴木亜久里]]<br />
|align="left"| [[日産・R390|日産・R390 GT1]]<br />
| GT1<br />
| 347<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| '''3位'''<br />
|bgcolor="#FFDF9F"| '''3位'''<br />
|}<br />
<br />
== 主な出演CM ==<br />
*[[ペンタックス|旭光学工業]] カメラ PENTAX ME(1978年)<br />
*[[日産自動車]](1982年 [[日産・シルビア|S110型シルビアRS]])(1996年 「この瞬間が日産車だね」[[日産・スカイラインGT-R|R33型スカイラインGT-R]])<br />
*日本ラジヱーター ※現[[カルソニックカンセイ]](1985年 グループCカー)<br />
*[[アライヘルメット]](1987年)<br />
*[[日本たばこ産業]](1988~91年 CABIN)<br />
*[[JXTGエネルギー|日本石油]](1993年)<br />
*[[ブリヂストン]](1990年代前半 女優の[[菊池桃子]]と共演)<br />
<br />
== 注釈 ==<br />
{{Reflist|group="注釈"}}<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[モータースポーツ]]<br />
*[[日本人ドライバー一覧]]<br />
*[[F1ドライバーの一覧]]<br />
*[[鈴木誠一 (レーサー)|鈴木誠一]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.impul.co.jp/ ホシノインパル]<br />
<br />
{{フォーミュラ・ニッポン歴代チャンピオン}}<br />
{{全日本ツーリングカー選手権歴代チャンピオン}}<br />
{{全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権歴代チャンピオン}}<br />
{{レイトンハウス}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:ほしの かすよし}}<br />
[[Category:日本のドライバー]]<br />
[[Category:日本のF1ドライバー]]<br />
[[Category:鈴鹿1000km勝者]]<br />
[[Category:デイトナ24時間勝者]]<br />
[[Category:レーシングチームのオーナー]]<br />
[[Category:静岡市出身の人物]]<br />
[[Category:1947年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
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