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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=240F%3AE2%3A4564%3A1%3A9871%3AFA3%3AA329%3AAACF miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2025-01-15T00:26:15Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 レナード・バーンスタイン 2018-08-15T08:02:46Z <p>240F:E2:4564:1:9871:FA3:A329:AACF: </p> <hr /> <div>{{参照方法|date=2010年6月}}<br /> {{Infobox Musician &lt;!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--&gt;<br /> | Name = レナード・バーンスタイン&lt;br/&gt;Leonard Bernstein<br /> | Img = Leonard Bernstein Allan Warren.jpg<br /> | Img_capt =<br /> | Img_size = &lt;!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --&gt;<br /> | Landscape = &lt;!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --&gt;<br /> | Background = classic<br /> | Birth_name = {{lang|en|Louis Bernstein}}<br /> | Alias = <br /> | Blood = &lt;!-- 個人のみ --&gt;<br /> | School_background = [[カーティス音楽院]]<br /> | Born = [[1918年]][[8月25日]]&lt;br/&gt;{{USA1912}}、[[マサチューセッツ州]][[ローレンス (マサチューセッツ州)|ローレンス]]<br /> | Died = {{死亡年月日と没年齢|1918|8|25|1990|10|14}}&lt;br/&gt;{{USA}}、[[ニューヨーク]]<br /> | Origin = <br /> | Instrument = [[指揮]]&lt;br/&gt;[[ピアノ]]<br /> | Genre = [[クラシック音楽]]<br /> | Occupation = [[指揮者]]&lt;br/&gt;[[ピアニスト]]&lt;br/&gt;[[作曲家]]<br /> | Years_active = [[1943年]] - [[1990年]]<br /> | Label = [[コロムビア・レコード|CBSレコード]]&lt;br/&gt;[[ドイツ・グラモフォン]]<br /> | Production = <br /> | Associated_acts = <br /> | Influences = <br /> | URL = http://www.leonardbernstein.com/<br /> | Notable_instruments = <br /> }}<br /> {{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}}<br /> &#039;&#039;&#039;レナード・バーンスタイン&#039;&#039;&#039; ({{Lang|en|Leonard Bernstein}}、[[1918年]][[8月25日]] - [[1990年]][[10月14日]])は、[[ユダヤ人|ユダヤ系]][[アメリカ合衆国|アメリカ人]]の[[作曲家]]、[[指揮者]]であり、[[ピアニスト]]としても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者になり、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]や[[ゲオルク・ショルティ]]と並んで、[[20世紀]]後半の[[クラシック音楽]]界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。妻は、[[チリ]]出身の[[俳優|女優]]・[[ピアニスト]]の、フェリシア・モンテアレグレ。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> バーンスタインは、[[ウクライナ]]系[[ユダヤ人]]移民の2世として、[[マサチューセッツ州]][[ローレンス (マサチューセッツ州)|ローレンス]]に生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔な[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた[[蓄音機]]の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。<br /> <br /> [[ボストン・ラテン・スクール]]を経て、[[ハーバード大学]]・[[カーティス音楽学校|カーティス音楽院]]で学ぶ。彼が指揮者を志したのは[[ディミトリ・ミトロプーロス]]の刺激だった。指揮では[[フリッツ・ライナー]]や[[セルゲイ・クーセヴィツキー]]に師事し、作曲は[[ウォルター・ピストン]]に師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、[[1943年]]夏に[[アルトゥール・ロジンスキ]]の指名により[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]の「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。<br /> <br /> [[1943年]][[11月14日]]、病気のため指揮できなくなった大指揮者[[ブルーノ・ワルター]]の代役として[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団]](現・[[ニューヨーク・フィルハーモニック]])を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。<br /> * [[ロベルト・シューマン]]『[[マンフレッド (シューマン)|マンフレッド序曲]]』<br /> * [[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]](ハンガリー出身の作曲家、映画「[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]」の音楽などが代表作)『主題、変奏曲と終曲 Op.13a』<br /> * [[リヒャルト・シュトラウス]]『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』(チェロ:ジョゼフ・シュスター、ヴィオラ:ウィリアム・リンサー)<br /> * [[リヒャルト・ワーグナー]]『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』第1幕前奏曲<br /> <br /> [[1958年]]、アメリカ生まれの指揮者として史上初めて[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団]]の音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。[[CBSレコード]]と録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。<br /> <br /> [[1969年]]にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィル]]、[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団|イスラエル・フィル]]、[[バイエルン放送交響楽団]]、[[ロンドン交響楽団]]、[[フランス国立管弦楽団]]などに客演した。ことに同じユダヤ系作曲家である[[グスタフ・マーラー]]の交響曲の演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、[[テレビ]]放送でクラシック音楽や[[ジャズ]]についての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。[[マイケル・ティルソン・トーマス]]、[[小澤征爾]]、[[大植英次]]、[[佐渡裕]]など多くの弟子を世に送り出したことでも有名である。<br /> <br /> [[1985年]]8月に[[広島市|広島]]を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。[[1989年]]のクリスマスには、直前に起きた[[ベルリンの壁崩壊]]を受け、[[ベルリン]]で東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーで[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。また翌[[1990年]]6月にも、民主化された[[チェコスロバキア]]の[[プラハの春音楽祭]]で同曲を指揮した。<br /> <br /> これらのように音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。<br /> <br /> [[File:Leonard Bernstein Grave, Sunset, Green-Wood Cemetery.jpg|thumb|180px|バーンスタインの墓]]<br /> [[1990年]]6月には[[札幌市|札幌]]で[[パシフィック・ミュージック・フェスティバル]](PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、既にバーンスタインは病に冒されていた。同年[[8月19日]]の[[タングルウッド音楽祭]]における[[ボストン交響楽団]]との演奏([[ベンジャミン・ブリテン|ブリテン]]:「4つの海の間奏曲」、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]:[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番]])が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の[[10月14日]]に、[[肺癌]]のため[[ニューヨーク]]市内の自宅で逝去した。この年に[[高松宮殿下記念世界文化賞]]を受賞している。<br /> <br /> バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回([[1961年]]、[[1970年]]、[[1974年]]、[[1979年]])はニューヨーク・フィルを率いて。[[1985年]]には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。最後(1990年)はPMF、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、[[7月10日]]の演奏会に[[明仁|天皇]]が招待されていたことや、自作([[ウエスト・サイド物語|「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス]])を弟子の[[大植英次]]に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。<br /> <br /> == エピソード ==<br /> === ヘビースモーカー ===<br /> ヘビースモーカーとしても有名で、14歳の時に[[煙草]]を覚えたという。煙草にまつわるエピソードも多く、[[1986年]](68歳の時)には米国の新聞紙面で「私は20歳代の半ばに[[肺気腫]]の兆候があると診断された。煙草をやめなければ35歳までに死ぬと言われた」と語ったことがある。著名な[[ミュンヘン]]の音楽評論家である[[ヨアヒム・カイザー]]の談話によれば、彼は1日に煙草を100本(5箱)と[[ウイスキー]]1本を飲む事を日課としていたという。また、晩年にアシスタントを務めた[[佐渡裕]]の著書によれば、しばしば「今日で禁煙するが、最後に1本だけ」と煙草に火をつけ、結局やめたことはなかったという。<br /> <br /> === カラヤン ===<br /> [[File:Bundesarchiv Bild 183-R92264, Herbert von Karajan.jpg|thumb|250px|ヘルベルト・フォン・カラヤン]]<br /> バーンスタインが[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]と初めて会ったのは[[1948年]]、彼がまだ30歳の時であった。音楽ファンから“ライバル”とみなされてきた2人だけに、おびただしい数に及ぶ比較などが行われ、2人に関連して語られるエピソードには脚色も多い。<br /> <br /> ウィーンでは、バーンスタインの演奏会の前後にカラヤンの演奏会が開かれることがよくあった。[[佐渡裕]]の話によれば、[[1988年]]秋のある日のこと、佐渡はバーンスタインの演奏会の翌日にあったカラヤンの演奏会の前売り券を購入した。自分の演奏会の翌日にカラヤンの演奏会があることを知ったバーンスタインは佐渡に「明日(カラヤンの演奏会に)行くのか?」と尋ね、佐渡が「行きます」と告白したところ「俺も連れてってくれよ」。佐渡とマネージャーが「あなたが行けば、マスコミがスキャンダラスに書き立てるから」と行くことを断念するよう説得したが、「俺はヤツの音楽は嫌いなんだけど、ヤツの顔が見たいんだ」。翌日、お忍びでカラヤンの演奏会場に出現したバーンスタインは、舞台裏で“めでたく”カラヤンと対面したという。<br /> <br /> カラヤンの伝記作者リチャード・オズボーンによれば、カラヤンは1988年4月5日、80歳の誕生日祝いのバースデー・カードをバーンスタインから受け取ったという。翌[[1989年]][[7月16日]]にカラヤンが死去した時、[[パリ]]の演奏会でこのニュースに接したバーンスタインは、彼のために2分間の黙祷を捧げ、2ヶ月後の[[9月16日]]にウィーン・フィルが開いたカラヤン追悼演奏会では、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[弦楽四重奏曲第16番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第16番]]の[[弦楽合奏]]版を指揮した。<br /> <br /> 特に若い頃は、お互いに相手の才能を認め合っていたと、オズボーンは記している。1958年にニューヨーク・フィルの客演にカラヤンを招聘したのもバーンスタインであった。カラヤンは11月13日から23日にかけて、合計8回の演奏会を指揮している。曲は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[交響曲第40番 (モーツァルト)|交響曲第40番]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]の「[[英雄の生涯]]」など。<br /> <br /> なお、カラヤンとバーンスタインの間に本当に確執があったかどうかであるが、少なくともバーンスタインは音楽ジャーナリストのエンリーコ・カスティリォーネとの対談においてこれを完全に否定している。そればかりか、カラヤンの亡くなる少し前、そうした噂を一挙に払拭するために同じ演奏会で指揮台を分け合うという合同演奏会の話をカラヤンが持ちかけたことがあったらしく、バーンスタインはこれをすぐに受け入れた。<br /> <br /> これを受けてカラヤンがバーンスタインに「[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]を指揮したいか」と尋ねたところ、バーンスタインは「ベルリン・フィルの音楽家は甘やかされすぎて、最早カラヤンを常任指揮者として望まなくなっている」という理由からウィーン・フィルでの演奏会を望んだ。カラヤンはこの選択を非常に喜んだという。二人はこの演奏会を心待ちにしていたが、カラヤンの死によって遂にこれは果たされることはなかった。<br /> <br /> カラヤンが没した翌夏、札幌でのパーティでバーンスタインに同席した音楽評論家クラウス・ガイテルによれば、バーンスタインは、[[ウィーン楽友協会|ウィーン・ムジークフェラインザール]]にカラヤンを訪ねた時のことを、カラヤンへの深い尊敬の念とともに語ったという。<br /> <br /> === トスカニーニ ===<br /> バーンスタインの若い頃、自宅で「[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]の指揮する」[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の「[[ロメオとジュリエット (ベルリオーズ)|ロメオとジュリエット]]」のレコードを聴いていたところ、ふと疑問に思う演奏箇所があったため、バーンスタインはその事を聞くためにトスカニーニの自宅を訪問し面会した。しかし、レコード室を管理していたトスカニーニの息子が外出しており、「疑問点に関しては後ほど手紙で答えよう」ということになった。ところが、バーンスタインが帰宅後、聴いていたレコードをよく見ると演奏者はトスカニーニではなく[[シャルル・ミュンシュ]]であった。慌てたバーンスタインは早速己の勘違いを謝罪する手紙を書き、それを出そうとしたところトスカニーニからの返事が届いた。恐る恐るその手紙を見ると、「君の指摘を受けてレコードを聴き直してみたが、私の解釈は間違っていないと思う。しかし、それが万全なものであるとも限らないはずだ。貴重な忠告をありがとう」と綴られていた。<br /> <br /> === フルトヴェングラー ===<br /> [[1950年]]、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]が[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団|アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団]]に客演した際、ちょうどアムステルダムに仕事で滞在していたバーンスタインはフルトヴェングラーの演奏会を聴きに行き、特に[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]]に呪縛された。演奏会終了後、楽屋を訪ねようとしたが、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の協力者とされているフルトヴェングラーをユダヤ人のバーンスタインが訪問するというのは政治的にも非常に危険なことだと彼のエージェントに止められたため(当日演奏会場の外では、フルトヴェングラーが第二次世界大戦中ドイツに留まったことを非難するデモが行われていた)、断念せざるをえなかった。そしてついにこの二人の天才的な芸術家が個人的な面識を持つチャンスは永遠に失われたのであった。フルトヴェングラーの死後、バーンスタインはフルトヴェングラーの日記を読む機会があり、アムステルダムでのフルトヴェングラーの演奏会の数日後、バーンスタインの演奏会をフルトヴェングラーが聴きに行き、この若いアメリカの指揮者に完全に魅了された、とあった。演奏会後にバーンスタインに会おうとしたが、やはり政治的な問題もあり、自分は人見知りする性質なので諦めたと書かれていた。<br /> <br /> === チェリビダッケ ===<br /> 同業の指揮者に対する辛辣な批判で知られる[[セルジュ・チェリビダッケ]]の矛先は、当然バーンスタインにも向けられていた。バーンスタインは「自分の世界とは無縁」である、と語った。しかし、バーンスタインが1990年に亡くなった時、ちょうど来日していたチェリビダッケは、バーンスタインについて「彼と私は長年書簡を交わしてきた。彼は真の天才だった。彼は亡くなるにはあまりにも早すぎた」と、その死を悼んだと言われている。<br /> <br /> === カルロス・クライバー ===<br /> 12歳下である[[カルロス・クライバー]]をバーンスタインは深く尊敬しており、クライバーの指揮した[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]の「[[ラ・ボエーム (プッチーニ)|ラ・ボエーム]]」を「最も美しい聴体験の一つ」と語っているほどであった。クライバーは、[[1992年]]1月1日にバーンスタインが果たせなかったウィーン・フィルとの[[ニューイヤーコンサート]]の指揮を代行している。しかし、同年3月のウィーン・フィル創立150周年記念来日公演はクライバーの急病によりキャンセルされ、[[ジュゼッペ・シノーポリ]]が来日した。<br /> <br /> === 共産主義への傾倒 ===<br /> バーンスタインに限らず、当時のアメリカの多くの芸術家は政治的傾向として[[共産主義]]に傾倒していた。バーンスタインは熱心な[[民主党 (アメリカ)|民主党]]支持者であり、[[ジョン・F・ケネディ]]大統領を理想の政治家として尊敬していた。<br /> <br /> <br /> === 同性愛 ===<br /> バーンスタインは師匠の[[ディミトリ・ミトロプーロス|ミトロプーロス]]と同じく、[[同性愛]]傾向も有していた。彼は1951年に結婚したフェリシア夫人との間に3児をもうけ、病床に伏した夫人がガンだと判明すると献身的に看護するなど(フェリシアは1978年に死去。晩年のバーンスタインには大きな精神的打撃を与えたことを彼の周囲の人々は回想している)、妻を深く愛していたが、その一方で自らの同性愛傾向を隠さなかったのも事実であり、男性と必要以上に親密に振る舞うことも多かった。たまりかねたフェリシアが「もう男といちゃつくのはやめて!」と訴えると、バーンスタイン自身は平然と「なに言っているんだい? 芸術家ってのは[[ホミンテルン]]([[同性愛|ホモ]]+[[コミンテルン]])なんだぜ」と答えたという。また、[[ファーリー・グレンジャー]]は[[2007年]]に出版した[[自伝]]のなかで、バーンスタインとの恋愛関係について告白している。<br /> <br /> === 最後のコンサート ===<br /> {{出典の明記|section=1|date=2011年12月|ソートキー=人1990年没}}<br /> 最後の指揮となったボストンでのコンサートは体力の消耗が激しく、最初の「[[ピーター・グライムズ]] 4つの海の間奏曲」は何とか終えたものの、最後のベートーヴェンの交響曲第7番になると目に見えて動きが悪くなった。第3楽章では腕が上がらなくなったが、コンサートマスターとアイコンタクトをとりながら体力を蓄え、第4楽章までを終えた。その後打ち上げのパーテイーもそこそこに、ニューヨークに飛んで帰り、すべてのコンサートをキャンセルして引退宣言を行った。<br /> ( 中川右介『巨匠たちのラストコンサート』文春新書 636)<br /> <br /> == 指揮活動 ==<br /> [[Image:Leonard Bernstein NYWTS 1945.jpg|210px|thumb|レナード・バーンスタイン(1945年)]]<br /> [[Image:Bernstein with TV Camera.jpg|thumb|200px|right|ニューヨーク・フィルを指揮するバーンスタイン(1958年)]]<br /> [[File:Leonard Bernstein 1971.jpg|210px|thumb|レナード・バーンスタイン(1971年)]]<br /> レナード・バーンスタインの指揮活動は、大きく分けて3つの時期に大別することができる。<br /> * [[1943年]]-[[1958年]] デビュー・コンサートから[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]常任指揮者就任まで<br /> * [[1958年]]-[[1969年]] [[ニューヨーク・フィルハーモニック]]常任指揮者時代<br /> * [[1969年]]-[[1990年]] ニューヨーク・フィル常任指揮者辞任から晩年まで<br /> バーンスタインが25歳で指揮活動を始めた時期、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]国内で活動していた指揮者はほとんどが他国から移住してきた人たち(トスカニーニ、[[ブルーノ・ワルター|ワルター]]、[[ピエール・モントゥー|モントゥー]]、[[ユージン・オーマンディ|オーマンディ]]など)であり、[[ブルーノ・ワルター]]のように[[第二次世界大戦]]の難を逃れてきた人も多かった。「アメリカ生まれ・アメリカ育ち」の指揮者はほとんどいなかったため、バーンスタインはすぐにアメリカ・クラシック音楽界の期待の星となる。当時は録音技術もモノラルしかなかったため、バーンスタインの最初期録音は比較的少ないが、彼は早くから幅広いレパートリーを手中に収めていたことが分かる。[[1953年]]12月、35歳のバーンスタインはアメリカ人指揮者として初めて[[ミラノ]]・[[スカラ座]]の客演指揮に招かれ、[[ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニ]]のオペラ『[[メデア (オペラ)|メデア]]』を指揮した。[[1950年代]]前半の時期、若手指揮者として最も目覚ましい躍進を見せていたのが、バーンスタインと[[イタリア]]の[[グィード・カンテッリ|グィド・カンテルリ]]の2人だった。<br /> <br /> [[1954年]]11月18日、バーンスタインは[[CBS]]のテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演し、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]の解説を行った。これが一連の教育番組『青少年コンサート』(Young People’s Concert)の出発点となる。ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任の前年、39歳だった[[1957年]]に彼の代表作『[[ウエスト・サイド物語]]』が生み出された。<br /> <br /> ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者時代は、バーンスタインの主要レパートリーは[[CBSレコード]](現在の[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])が独占契約で録音していた。『青少年コンサート』もこの時期の活動で大きな位置を占めている。同オーケストラの常任指揮者の職務にあった時期、バーンスタインは自らの「補助指揮者」の育成にも尽力した。ここから[[小澤征爾]]、[[クラウディオ・アバド]]、[[ズデニェク・コシュラー]]などの指揮者が育っていった。しかし、この時期は作曲にあてる時間がほとんど取れず、主な作品は[[1963年]]作曲の[[交響曲第3番 (バーンスタイン)|交響曲第3番]]『カディッシュ』と[[1965年]]作曲の宗教合唱曲『チチェスター詩篇』ぐらいしかない。わざわざ「作曲の時間を取るため」[[1964年]]-[[1965年]]のシーズンは休みを取ったほどである。[[1966年]]にバーンスタインは初めて[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィルハーモニー]]の客演指揮に招かれ、このオーケストラとの良好な関係は終生にわたって続いた。<br /> <br /> [[1969年]]を最後にバーンスタインがニューヨーク・フィル常任指揮者のポスト辞任を希望した理由は「作曲の時間を取るため」だった。作曲の分野では『ウエスト・サイド物語』を上回る作品を生み出したいという願いは満たされなかったが、バーンスタインは“世界一の客演指揮者”として高い人気を集めた。[[1970年代]]半ばには[[CBSレコード]]との独占録音契約を離れ、[[ドイツ・グラモフォン]]および[[EMI]]と録音契約を交わして、かつて録音していたレパートリーの再録音を中心に、ヨーロッパとアメリカの様々なオーケストラとの多彩な録音に着手した。このうちEMIとの契約は短期に終了したが、グラモフォンとの関係はその後専属となり、バーンスタインの最期のコンサートのライブ録音まで続くこととなる。[[CBSレコード]]時代の旧録音と、EMI・グラモフォン時代の新録音の間では、溌剌とした前者を好む者、後者に指揮者としての円熟を感じる者など、当然のことながら評価は人によりまた曲によりまちまちである。<br /> <br /> グラモフォンでの録音の多くが、当初から商品化を想定したライブ・レコーディングで行われたのも、当時としては画期的であった。同時に[[ユニテル]]や放送局による映像収録も積極的に行われるようになる。1979〜81年に発表された[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の交響曲全集と序曲集・弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)および『ミサ・ソレムニス』は、[[マクシミリアン・シェル]]とバーンスタインによる楽曲解説を含む[[オーストリア放送協会]]ら制作のTVミニシリーズ『ベートーヴェン/バーンスタイン』と並行して録音されたものである。<br /> <br /> この時期、[[1979年]][[10月4日]]・[[10月5日|5日]]に[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]と1度限りの共演が行われた。曲目は、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番]]で、バーンスタインの没後[[1992年]]に、放送用のライブ録音音源から商品としてリリースされた。これをバーンスタインの代表作とする熱心な聴き手も今なお多い。<br /> <br /> 情熱的できびきびした音楽作りが魅力でもあったバーンスタインは、晩年にはゆったりとした重厚な表現を好むようになる。時には極めて主観的な演奏を展開し、楽譜から表現しうる限界といえるほどの感情移入も厭わなかった。彼が最も愛した3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そして[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団|イスラエル・フィル]]であった。<br /> <br /> [[2000年]]10月、バーンスタインの没後10年目にニューヨーク・フィルの「自主制作盤」として「バーンスタイン・ライブ」(Bernstein Live)という10枚組のCDが発売された。中には正規の録音が残されなかった珍しいレパートリーも見出され([[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]『[[神々の黄昏 (楽劇)|神々の黄昏]]』、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の[[交響曲第6番 (ブルックナー)|交響曲第6番]]など)、[[ヴィルヘルム・ケンプ]]([[ピアノ]])との[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第3番]]、[[ジャクリーヌ・デュ・プレ]]([[チェロ]])との[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]]などの珍しい共演も正式な録音として発売された。<br /> <br /> == 主要作品 ==<br /> * [[交響曲]]<br /> **[[交響曲第1番 (バーンスタイン)|第1番『エレミア』]] (&#039;&#039;Symphony No.1 &quot;Jeremiah&quot;&#039;&#039;) ([[1942年]])<br /> **[[交響曲第2番 (バーンスタイン)|第2番『不安の時代』]](ピアノと管弦楽のための) (&#039;&#039;Symphony No.2 &quot;The age of anxiety&quot;&#039;&#039;) ([[1947年]]-[[1949年]]/[[1965年]]改訂)<br /> **[[交響曲第3番 (バーンスタイン)|第3番『カディッシュ』]](管弦楽、混声合唱、少年合唱、話者とソプラノ独唱のための) (&#039;&#039;Symphony No.3 &quot;Kaddish&quot;&#039;&#039;) ([[1963年]]/[[1977年]]改訂)<br /> * [[バレエ]]『[[ファンシー・フリー]]』 (&#039;&#039;Fancy Free&#039;&#039;) ([[1944年]])<br /> * [[ミュージカル]]『[[オン・ザ・タウン]]』 (&#039;&#039;On the Town&#039;&#039;) ([[1944年]]初演)<br /> * ミュージカル『[[ワンダフル・タウン (1953年のミュージカル)|ワンダフル・タウン]]』(&#039;&#039;Wonderful Town&#039;&#039;) ([[1953年]]初演)<br /> * ミュージカル『[[ウエスト・サイド物語]]』 (&#039;&#039;West Side Story&#039;&#039;) ([[1957年]]初演)<br /> * ミュージカル『[[キャンディード]]』 (&#039;&#039;Candide&#039;&#039;) ([[1956年]]初演/[[1989年]]最終改訂)<br /> * [[オペラ]]『[[タヒチ島の騒動]]』 (&#039;&#039;Trouble in Tahiti&#039;&#039;) ([[1952年]])<br /> *: この作品は後年に大幅な拡大改訂が施され、オペラ『静かな場所』 (&#039;&#039;A Quiet Place&#039;&#039;)となった。([[1983年]])<br /> * クラリネット・ソナタ (&#039;&#039;Sonata for Clarinet and Piano&#039;&#039;) ([[1942年]])<br /> * 5つの子供の歌『私は音楽が嫌い』 (&#039;&#039;I Hate Music&#039;&#039;) ([[1943年]])<br /> * 合唱曲『[[チチェスター詩篇]]』 (&#039;&#039;Chichester Psalms&#039;&#039;) ([[1965年]])<br /> * 歌手と演奏家、踊り手のための[[ミサ曲 (バーンスタイン)|ミサ曲]] (&#039;&#039;Mass - A theatre piece for singers, dancers, and players&#039;&#039;) ([[1971年]])<br /> * 合唱曲『ソングフェスト』 (&#039;&#039;Songfest&#039;&#039;) ([[1977年]])<br /> * 前奏曲、フーガとリフ (&#039;&#039;Prelude, fugue and riffs&#039;&#039;) ([[1949年]]/[[1952年]]改訂)<br /> * 映画『[[波止場 (映画)|波止場]]』 (&#039;&#039;On the Waterfront&#039;&#039;)の音楽 ([[1954年]])<br /> * [[セレナード (バーンスタイン)|セレナード]] (&#039;&#039;Serenade&#039;&#039;) ([[1954年]])<br /> * バレエ『ディバック』 (&#039;&#039;Dybbuk&#039;&#039;) ([[1974年]])<br /> * 政治的序曲『[[スラヴァ!]]』 (&#039;&#039;Slava! A Political Overture&#039;&#039;) ([[1977年]])<br /> * オーケストラのための[[ディヴェルティメント (バーンスタイン)|ディヴェルティメント]] (&#039;&#039;Divertimento for Orchestra&#039;&#039;) ([[1980年]])<br /> * ハリル (&#039;&#039;Halil&#039;&#039;) ([[1981年]])<br /> * ピアノ曲『タッチズ』(コラール、8つの変奏とフーガ) (&#039;&#039;Touches - Chorale, Eight Variations and Coda&#039;&#039;) ([[1981年]])<br /> * アリアとバルカロール(メゾ・ソプラノ、バリトンと4手ピアノのための) (&#039;&#039;Arias and Barcarolles&#039;&#039;) ([[1988年]])<br /> <br /> === バーンスタインの作品の特徴 ===<br /> [[File:Tony&amp;MariaWestSideStory.jpg|thumb|150px|ウェスト・サイド物語]]<br /> 初期はブロードウェイ・ミュージカルで音楽活動の基盤を築き、その分野では早くから人気作曲家になっていた。<br /> <br /> いっぽうでシリアス・ミュージックの作曲家としては、交響曲第1番『エレミア』、交響曲第3番『カディッシュ』など、[[ユダヤ教]]の影響を受けた宗教的作品を数多く残している。それらは宗教的なメッセージを孕みながら決して難解ではなく、むしろ時に啓蒙的な作風であるのが特徴と言える。現代の「信仰の危機」というテーマを、ローマ・カトリックの典礼文を下敷きに、ミュージカルシアター作品として書き上げた『ミサ』は、大衆性と宗教的モティーフとの両面を統合した点で、作曲家バーンスタインを象徴する作品である。<br /> <br /> 作風はひとことで言えば「折衷的」なスタイルで書かれたものが多い。1つの作品の中で、ジャズやクラシックなどの様々な音楽の要素を巧みに織り交ぜることで、彼の生前には批判が多かった点の1つだった。しかし現代にあっては、むしろ多様な表現様式の融合は音楽の潮流ともなっており、「ウェスト・サイド物語」「キャンディード」といったもともとミュージカルシアターのために書かれた作品がミラノ・スカラ座をはじめトップクラスの歌劇場で上演されるようになったのも、バーンスタインの作品への再評価の動きの表れである。<br /> <br /> == 受賞歴 ==<br /> === アカデミー賞 ===<br /> ;ノミネート<br /> :[[第27回アカデミー賞|1955年]] [[アカデミー作曲賞|アカデミードラマ・コメディ音楽賞]]:『[[波止場 (映画)|波止場]]』<br /> <br /> ==バーンスタイン自身の著書==<br /> * 『音楽のよろこび』(&#039;&#039;The Joy of Music&#039;&#039;, 1959年) <br /> ** [[吉田秀和]]訳、[[音楽之友社]]、1966年、のち新版<br /> * 『青少年コンサート』(&#039;&#039;Leonard Bernstein&#039;s Young People&#039;s Concerts&#039;&#039;, 1962年)<br /> ** 『青少年コンサート 音楽鑑賞の新しい試み』、岡野弁訳、全音楽譜出版社、1976年<br /> * 『音楽の無限の多様性』(&#039;&#039;The Infinite Variery of Music&#039;&#039;, 1966年)<br /> ** 『バーンスタイン音楽を語る』、岡野弁訳、[[全音楽譜出版社]]、1972年、新版1990年、1998年<br /> * 『答えのない質問』(&#039;&#039;The Unanswered Question&#039;&#039;, 1976年) 当時の初版には、画期的なサンプル・レコード盤がついていた。<br /> ** [[和田旦]]訳、[[みすず書房]]、1978年、新版1991年。1973年度[[ハーバード大学|ハーヴァード大学]]詩学講座<br /> * 『発見』(&#039;&#039;Findings&#039;&#039;, 1982年)<br /> ** 『バーンスタイン わが音楽的人生』、岡野弁訳、[[作品社]]、2012年<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * ハンフリー・バートン『バーンスタインの生涯』、棚橋志行訳、[[福武書店]](上・下)、1994年<br /> **新版・青土社(上・下)、2018年、上巻:ISBN 479177065X/下巻:ISBN 4791770668。没後初めての本格的な伝記。<br /> * CDジャーナル・ムック「対決! カラヤン vs. バーンスタイン」音楽出版社編、1997年、ISBN 4900340065<br /> *「写真集 レナード・バーンスタイン」(原題 &#039;&#039;Bernstein Remembered&#039;&#039;)、アルファベータ社、1996年、ISBN 4871984982<br /> * ウィリアム・ウェストブルック・バートン編『バーンスタインの思い出』、山田治生訳、[[音楽之友社]]、1997年、ISBN 4276217229<br /> * ジョナサン・コット『レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー』<br /> *: 山田治生訳、アルファベータ・ブックス、2013年、ISBN 4871985806<br /> * バートン・バーンスタイン『バーンスタイン その音楽と家族』、須加葉子訳、[[新潮社]]、1986年、ISBN 4105193015、実弟の著書。<br /> * レナード・バーンスタイン/エンリーコ・カスティリォーネ『バーンスタイン 音楽を生きる』<br /> *: [[西本晃二]]監訳、笠羽映子訳、[[青土社]]、1999年、新版2018年、ISBN 4791770676<br /> * Peter Gradenwitz: &#039;&#039;Leonard Bernstein: 1918–1990; unendliche Vielfalt eines Musikers.&#039;&#039; Atlantis, Zürich 1995, ISBN 3-254-00174-5<br /> * Joan Peyser: &#039;&#039;Leonard Bernstein: die Biographie eines Musikgenies.&#039;&#039; Heyne, München 1991, ISBN 3-453-04626-9<br /> * Barry Seldes: &#039;&#039;Leonard Bernstein : the political life of an American musician&#039;&#039; Berkeley, Calif. [u.a.] : Univ. of California Press, 2009, ISBN 978-0-520-25764-1<br /> * Klaus Geitel: &#039;&#039;Die Kunst, Leonard Bernstein zu sein.&#039;&#039; from Booklet of &#039;&#039;Leonard Bernstein The Symphony Edition.&#039;&#039; Sony Music 2010<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.leonardbernstein.com レナード・バーンスタイン公式サイト(英語)]<br /> * [http://www.klassikakzente.de/leonardbernstein Biografie und Diskografie] bei &quot;KlassikAkzente&quot; (Auswahl, mit Klangbeispielen in [[RealAudio]])<br /> <br /> {{イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督}}<br /> {{ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督}}<br /> {{ロンドン交響楽団 首席指揮者}}<br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:はあんすたいん れなあと}}<br /> [[Category:アメリカ合衆国の指揮者]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の作曲家]]<br /> [[Category:近現代の作曲家]]<br /> [[Category:ミュージカルの作曲家]]<br /> [[Category:オペラ作曲家]]<br /> [[Category:ユダヤ人の作曲家]]<br /> [[Category:ユダヤ人の指揮者]]<br /> [[Category:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]<br /> [[Category:ロンドン交響楽団]]<br /> [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]]<br /> [[Category:高松宮殿下記念世界文化賞受賞者]]<br /> [[Category:グラミー賞受賞者]]<br /> [[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国出身のLGBTの音楽家]]<br /> [[Category:両性愛の人物]]<br /> [[Category:カーティス音楽学校出身の人物]]<br /> [[Category:ハーバード大学出身の人物]]<br /> [[Category:イスラエルの外国人]]<br /> [[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]]<br /> [[Category:ウクライナ系アメリカ人]]<br /> [[Category:マサチューセッツ州エセックス郡出身の人物]]<br /> [[Category:1918年生]]<br /> [[Category:1990年没]]</div> 240F:E2:4564:1:9871:FA3:A329:AACF
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