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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=240D%3A0%3ADF0D%3A3A00%3AD85A%3AFA6D%3A2485%3ADB02 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-19T08:36:11Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 ジョン (イングランド王) 2018-08-11T02:27:10Z <p>240D:0:DF0D:3A00:D85A:FA6D:2485:DB02: 脚注をつけて序文を修正。マグナカルタの節も、脚注に基づいて加筆。</p> <hr /> <div>{{複数の問題<br /> |出典の明記=2017年10月18日 (水) 15:11 (UTC)<br /> |参照方法=2017年10月18日 (水) 15:11 (UTC)<br /> |ソートキー=人1216年没<br /> }}<br /> {{基礎情報 君主<br /> | 人名 = ジョン<br /> | 各国語表記 = John<br /> | 君主号 = [[イングランド王]]<br /> | 画像 = John of England (John Lackland).jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 在位 = [[1199年]][[4月6日]] - [[1216年]][[10月18日]]/[[10月19日|19日]]<br /> | 戴冠日 = <br /> | 別号 = [[アイルランド卿]]<br /> | 全名 = <br /> | 出生日 = [[1167年]][[12月24日]]<br /> | 生地 = {{ENG927}} [[オックスフォード]]<br /> | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1167|12|24|1216|10|18}}<br /> | 没地 = {{ENG927}} [[ニューアーク=オン=トレント]]<br /> | 埋葬日 =  <br /> | 埋葬地 = {{ENG927}} [[ウスター大聖堂]]<br /> | 継承者 = <br /> | 継承形式 = <br /> | 配偶者1 = [[イザベル・オブ・グロスター]]<br /> | 配偶者2 = [[イザベラ・オブ・アングレーム]]<br /> | 子女 = [[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]&lt;br/&gt;[[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]](コーンウォール伯)&lt;br/&gt;[[ジョーン・オブ・イングランド (1210-1238)|ジョーン]](スコットランド王妃)&lt;br/&gt;[[イザベラ・オブ・イングランド|イザベラ]](神聖ローマ皇后)&lt;br/&gt;[[エリナー・オブ・レスター|エリナー]]<br /> | 王家 = [[File:Royal Arms of England.svg|15px]] [[プランタジネット朝|プランタジネット家]]<br /> | 王朝 = [[プランタジネット朝]](アンジュー朝)<br /> | 王室歌 = <br /> | 父親 = [[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]<br /> | 母親 = [[アリエノール・ダキテーヌ]]<br /> }}<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;ジョン&#039;&#039;&#039;(John, King of England、[[1167年]][[12月24日]] - [[1216年]][[10月18日]]または[[10月19日|19日]])は、[[プランタジネット朝]](アンジュー朝)第3代[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド王|王]](在位:[[1199年]] - 1216年)。同朝の初代王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]と[[アリエノール・ダキテーヌ]]の末子。あだ名は&#039;&#039;&#039;欠地王&#039;&#039;&#039;(けっちおう、John Lackland)で、出生時に父ヘンリー2世から[[領地]]を与えられなかったことに由来する&lt;ref name=&quot;Kban&quot;&gt;「[https://kotobank.jp/word/ジョン%28王%29-1550160 ジョン(王)とは]」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より。コトバンク、2018年8月10日閲覧。&lt;/ref&gt;(領地を大幅に失ったため&#039;&#039;&#039;失地王&#039;&#039;&#039;との日本語表記もあるが、Lacklandの訳語としては正しくない)。失政に次ぐ失政で国内[[諸侯]]の怒りを招き、王の権限を制限する&#039;&#039;&#039;マグナ・カルタ&#039;&#039;&#039;への合意を余儀なくされた&lt;ref name=&quot;Kban&quot; /&gt;。<br /> &lt;!--欠地王は幼年時のあだ名であり、成人後に与えられたものは直接関係しない。実際には、1185年に父ヘンリーより「アイルランド卿」の地位を与えられている。--&gt;<br /> <br /> == 概要 ==<br /> 兄である[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]が戦いに明け暮れ、長く[[イングランド王国|イングランド]]を留守にしたため、イングランド王の勢力を削ごうとする[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]にそそのかされて王位簒奪を夢見ていた。本来なら王位につく可能性は少なかったが、[[1199年]]にリチャード1世が中部フランスで戦死してから状況が一変する。リチャードは即位当初、弟[[ジョフロワ2世 (ブルターニュ公)|ジェフリー]](ジョフロワ、ジョンには兄にあたる)の遺児[[アルテュール1世 (ブルターニュ公)|アーサー]](アルテュール)を[[王太子]]になぞらえていた。しかしその後、アーサーはフィリップ2世に臣従してフランスの宮廷で育ち、さらにリチャードの臨終時にはまだ12歳であったため、リチャードは最終的に遺言でジョンを後継者に指名した。前王の重臣[[ヒューバート・ウォルター]]をはじめとする、フィリップ2世の干渉を憂慮したイングランド国内の諸侯もアーサーを排除し、結局ジョンがイングランド王位を継承した。<br /> <br /> 王位に就いたジョンは、フランス国内の領土をめぐってフィリップ2世をはじめとするフランスの諸侯と対立した。[[1203年]]、アーサーがジョン支持派に暗殺されると、アーサーの後見人を自負するフィリップ2世との全面戦争に突入するが、その戦いにことごとく敗れ、[[1214年]]までにフランスにおける領地をほとんど喪失した。また[[1208年]]には、ヒューバート・ウォルター亡き後に空位となっていた[[カンタベリー大司教]]の任命をめぐって、[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世_(ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]が推した{{仮リンク|スティーヴン・ラングトン|en|Stephen Langton}}を拒否するなど教皇と対立した。当初は多くの諸侯がジョンを支持したが、[[1209年]]に教皇はジョンを[[破門]]し、さらに教皇やラングトンの切り崩しが徐々に功を奏すると、ジョンは[[1213年]]に謝罪して教皇に屈した。その時、一旦イングランド全土を教皇に献上し、教皇から与えられる形で国王に返還された。<br /> <br /> こうした外交政策の失敗の後、[[軍役代納金]]・課税をめぐってイングランド国内の諸侯から反発を招き、[[1215年]]に国王が[[貴族]]や聖職者の権利を認めるという形で[[マグナ・カルタ]]が成立した。しかし、教皇インノケンティウス3世による王権侵害により、わずか2ヶ月で廃棄された。マグナ・カルタの廃棄宣言に不満を持つ貴族たちは、フィリップ2世の長男[[ルイ8世 (フランス王)|ルイ]]の支援を得て反乱を起こした。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> === 領地無し ===<br /> 父王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]は王妃[[アリエノール・ダキテーヌ|アリエノール(エレアノール)]]と不仲になり、幼少期に母親からの愛情を受けることが少なかった末子のジョンを最も愛した。[[1169年]]、ヘンリー2世はフランス王[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]との協約で、大陸の所領をジョン以外の3人の息子に分割した。当時まだ2歳にもならなかったジョンはその分与から除外され、父ヘンリー2世はジョンに“領地の無いやつ”(John the Lackland, [[フランス語]]ではJean sans terre)とあだ名をつけ憐れんだ。[[1173年]]、ジョンはモーリエンヌ伯の娘と婚約するが(この姫は後に亡くなり婚約は消滅)、その際ヘンリー2世は、征服して間もない[[アイルランド]]以外にも、大陸領土内の[[シノン城|シノン]]、ルーダン、ミルボーの3つの城を幼いジョンに与えようとして次男の[[若ヘンリー王]]の、また[[1184年]]には[[アキテーヌ公]]領を与えようとして三男[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]]の離反を招いた。[[1177年]]にジョンは10歳で[[アイルランド卿]]を継承するが、その後もアイルランドを統治出来なかった。[[1188年]]以降の父王と兄リチャードの争いでは、当初は父についていたが、兄の勝利が確実になると寝返って、父王を大いに失望させその死因になったとも言われる。<br /> <br /> [[1189年]]、[[イザベル・オブ・グロスター]]との婚姻によりグロスター伯領を継ぎ、さらに兄リチャード1世より[[ノッティンガム]]他6州を与えられた。<br /> <br /> === 陰謀 ===<br /> リチャード1世が[[第3回十字軍]]に出陣した際は、フランスに留まるよう指示されたが、勝手にイングランドに戻り留守中の統治に関与した。リチャード1世がドイツで幽閉されると、フランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]と提携しイングランド王位を狙ったが、重臣や諸侯の支持を得られず果たせなかった。<br /> <br /> この事件は、後世大きく脚色されてさまざまな物語が作られ、[[ロビン・フッド]]伝説にも取り入れられた。<br /> <br /> === 即位 ===<br /> [[画像:King_John.jpg|thumb|ジョン]]<br /> [[1194年]]にリチャード1世がイングランドに戻ると、一旦抵抗の姿勢を見せたものの、まもなく屈服し和解した。1199年に兄がアキテーヌで亡くなると、ジョンはすぐに[[ノルマンディー]]からイングランドに渡り、イングランド王として戴冠した。一方、一時は後継者とされていた甥の[[ブルターニュ公]][[アルテュール1世 (ブルターニュ公)|アルテュール]](アーサー)は[[アンジュー]]伯領を確保して王位を主張したが、[[ヒューバート・ウォルター]]を始めとするイングランドとノルマンディの諸侯は、フランス王と親しかったアルテュールよりジョンを支持した。リチャードの臨終に際し遺言を聞いた母のアリエノールも、アルテュールを押さえてジョンを支持している。<br /> <br /> === 大陸領土喪失 ===<br /> [[1200年]]にジョンはイザベル・オブ・グロスターと離婚、既に婚約者のいた[[イザベラ・オブ・アングレーム]]と再婚した。イザベラの婚約者[[ユーグ9世・ド・リュジニャン]]は封建主人であるフランス王にこれを訴えたため、[[1202年]]にフィリップ2世はジョンを法廷に呼び出した。イングランド王はフランス領においてフランス王の封建臣下であるが、これまで法廷に呼び出されたことはないためジョンは拒絶したが、フィリップ2世はこれを理由にジョンの全フランス領土を剥奪することを宣言し、ノルマンディー以外のこれらの領土をアルテュールに与えた。このため、フィリップ2世・アルテュール対ジョンの戦争となった。<br /> <br /> 当初ジョンは劣勢だったが、[[1203年]]にアルテュールがポワチエにいたアリエノールを捕らえようとした際、ジョンは迅速に対応して逆にアルテュールを捕らえた。幽閉されたアルテュールはまもなく消息不明となったため、人々はジョンがアルテュールを殺したと考え、[[ブルターニュ]]の諸侯はフランス王を頼ってジョンに反旗を翻した。ジョンはフランスにおける人望を既に失っており、フランス王の攻勢の前にノルマンディ・アンジュー・メーヌ・トゥレーヌ・ポワトゥーはほとんど抵抗せずに降伏した。わずかにアキテーヌの中心地である[[ガスコーニュ]]のみがジョンの下に残った。これは、元々アキテーヌは諸侯の力が強く、彼らは強力なフランス王より弱体化したイングランド王の支配を好んだためとされる。<br /> <br /> === 教皇との争い ===<br /> [[1205年]]に[[カンタベリー大司教]]ヒューバート・ウォルターが亡くなると、修道士達が選んだ候補とイングランド王と司教が推薦した候補とが共にローマへ行き、カンタベリー大司教の座を争ったが、教皇権の強化を狙っていた[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世_(ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]は両者とも認めず、代わりに枢機卿のラングトンを任命した。ジョンはこれを認めず、これを支持する司教たちを追放して教会領を没収したため、[[1207年]]にインノケンティウス3世はイングランドを聖務停止(interdict)とし、[[1209年]]にジョンを[[破門]]した&lt;ref name=&quot;Kban&quot; /&gt;。<br /> <br /> ジョンはこれを無視し、逆に没収した教会領の収入で軍備増強を図ったが、[[1213年]]になるとインノケンティウス3世はさらにフランス王のイングランド侵攻を支持し、これに呼応して諸侯の反乱が計画されたため、ジョンはイングランド及びアイルランドを教皇に寄進し教皇の封臣となり、聖ペテロ祭費とは別に年額千マルクを支払う事を約することにより、破門を解かれた。<br /> <br /> === ブーヴィーヌの戦い ===<br /> 大陸領土を失ったジョンは、[[ウェールズ]]・[[アイルランド]]・[[スコットランド王国|スコットランド]]への影響力の強化に努め、一時的に成果を挙げている。さらに、大陸領土奪回のために海軍を整備し、フランス王と対立する甥の[[神聖ローマ皇帝]][[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]や[[フランドル伯]][[フェラン (フランドル伯)|フェラン]]と提携を深めたが、大陸領土喪失による収入減に加え、軍事力強化を図ってイングランドに重税をかけたため、諸侯・庶民の不満は高まった。<br /> <br /> 一方、ジョンが教皇の封建臣下になったため、フランス王によるイングランド侵攻への教皇の支持は撤回された。フランス王は代わりに、かねてから反抗しているフランドル伯を攻めたが、イングランド海軍の援軍によりフランス王軍は船舶の大半を失って撤退した。<br /> <br /> 好機到来と考えたジョンはオットー4世らと謀って、フィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てた。ジョンがフランス南部に進撃し、同時にドイツ・フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというもので、[[1214年]]に入るとジョンは[[アキテーヌ地域圏|ギュイエンヌ]]から侵攻し、[[ポワチエ]]・[[アンジュー]]を回復したが、オットー4世はドイツ諸侯の動員に手間どり進軍が遅れた。この間にフィリップ2世は[[ルイ8世 (フランス王)|王太子ルイ]]を南部に派遣したため、ジョンは戦線を支えきれずギュイエンヌに撤退した。こうして、南部の負担が少なくなったフィリップ2世率いるフランス王軍と皇帝連合軍が1214年[[7月27日]]にフランドルのブービーヌで会戦し、数で劣るフランス軍が皇帝連合軍を打ち破った([[ブーヴィーヌの戦い]])。<br /> <br /> これによりフィリップ2世の優位は確定し、ジョンは占領地を全て放棄して撤退を余儀なくされた。連合軍に参加したフランドル伯・ブローニュ伯は捕虜となり、オットー4世は[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]に皇帝位を奪われることになる。<br /> <br /> === マグナ・カルタ ===<br /> ブーヴィーヌの惨敗でイングランドに戻ったジョンを待っていたのは、国内[[諸侯]]の反発だった。ジョンは戦費捻出のため議会を通さずに(国王特権で)[[臨時課税]]を乱発しており、苛政への不満が鬱積していたのである。強圧を持ってこれを抑えようとしたジョンに対して諸侯は結束して反抗し、内戦状態となった。戦いが起こるとジョンを見限る者が多く、支持を失って[[ロンドン]]を制圧されたジョンは、以前から突き付けられていた諸侯の要求事項を受け入れざるを得ないと決意。[[1215年]]6月15日、[[ラニーミード]]にて行われた調印で、国王の[[徴税|徴税権]]の制限や[[法の支配]]などが明記された[[大憲章]][[マグナ・カルタ]]が制定された。<br /> <br /> 保身のためマグナ・カルタへの合意を余儀なくされたジョンだが、すぐに不服を[[ローマ教皇]]に訴えて、[[イノケンティウス3世]]に無効破棄を宣言してもらうなど反撃に転じ、再び圧政と恣意的重税を行うようになった&lt;ref name=&quot;Henry&quot;&gt;川瀬進 「[https://www.tokuyama-u.ac.jp/local/eco_academy/ronso_pdf/ronso76/ronso76_kawase.pdf ヘンリー3世治世時における行政改革]」『徳山大学論叢』第76号、1-4頁。2018年8月10日閲覧。&lt;/ref&gt;。これに憤慨した諸侯たちが再び蜂起して、またもジョンとの間で[[内乱]]となり、諸侯が[[ルイ8世 (フランス王)|フランス王太子ルイ]]に援軍を求めて招聘したことで[[第一次バロン戦争]]が勃発。ジョンは一旦ロンドンから撤退してルイの軍隊と戦いを繰り広げたが、そのさ中に[[赤痢]]に罹って[[1216年]]10月19日に病没した&lt;ref name=&quot;Henry&quot; /&gt;。<br /> <br /> ジョン当人の死去により戦争理由が無くなると、諸侯は[[ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)|ウィリアム・マーシャル]]を[[摂政]]に立てたうえで、王位を9歳のヘンリー(ジョンの息子)に継承させた&lt;ref name=&quot;Henry&quot; /&gt;。同年11月、マグナ・カルタはイングランド王に即位した息子[[ヘンリー3世]]の名前であらためて発行された。<br /> <br /> == 妻と子供 ==<br /> 最初の妻[[イザベル・オブ・グロスター]]との間に子供はなく、[[1200年]]に離婚した。王妃とは認められなかった。<br /> <br /> 2度目の妻[[イザベラ・オブ・アングレーム]]との間に2男3女をもうけた。イザベラはジョンと死別後、かつての婚約者ユーグ9世の息子ユーグ10世と再婚した。<br /> * [[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]](1207年 - 1272年) - イングランド王 <br /> * [[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]](1209年 - 1272年) - コーンウォール伯<br /> * [[ジョーン・オブ・イングランド (1210-1238)|ジョーン]](1210年 - 1238年) - [[スコットランド]]王[[アレグザンダー2世 (スコットランド王)|アレグザンダー2世]]妃<br /> * [[イザベラ・オブ・イングランド|イザベラ]](1214年 - 1241年) - [[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]后<br /> * [[エリナー・オブ・レスター|エリナー]](1215年 - 1275年) - [[ペンブルック伯]][[ウィリアム・マーシャル (第2代ペンブルック伯)|ウィリアム・マーシャル]]と結婚、後に[[シモン・ド・モンフォール]]と再婚<br /> <br /> 他に庶子が多数記録されている。<br /> ==系図==<br /> {{イングランド王室プランタジネット朝}}<br /> <br /> == 評価 ==<br /> 無能・暴虐・陰謀好き・裏切り者・恥知らずと評され、大陸領土喪失・甥殺しによる信望の喪失・教皇への屈服とイングランドの寄進・重税・諸侯の反乱と失政が続き、唯一評価されるのは「強制されてマグナ・カルタを認めイギリスの民主主義の発展に貢献した」ことのみと、在位当時から後世の評価まで徹頭徹尾評判の悪い王である。近年ではその反動から、[[イギリス海軍|海軍]]の育成や[[リヴァプール]]の建設、イングランドにおける司法・行政の発展。スコットランド・ウェールズ・アイルランドへの支配の道筋を付けたという点で再評価する声も出てはいるが、&lt;!--この段階では直接支配について言及する必要は無い実際にジョンがこの三国を直接支配したことはない。ただ、[[アイルランド卿]]のイングランド王兼任、それも自称に成功したのみで、--&gt;イングランド史上最悪の君主という暗君の評価は覆りそうもない。<br /> 兄リチャードの十字軍遠征、その帰途に虜囚となったことによる身代金、と莫大な出費が嵩んだ後に即位したことも困難な治世の原因となった。<br /> <br /> == 逸話 ==<br /> *「ジョンの評判が悪かったため、以降のイングランド王・イギリス王でジョンを名乗ったものはいない」という通説がある。[[プランタジネット朝]]以降ジョンという名の&#039;&#039;&#039;王子&#039;&#039;&#039;は何人もいるが([[ランカスター家]]の祖も[[ジョン・オブ・ゴーント]]、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の息子・[[ジョン (イギリス王子)|ジョン]]など)、&#039;&#039;&#039;事実として「ジョン2世王」は存在しない&#039;&#039;&#039;。さらに、当時は長子に親の名を付ける習慣があったにもかかわらず、ジョンの息子[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]が長子をジョンと名づけず、[[エドワード懺悔王]]にちなんで[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード]]と名づけたのは、諸侯の強いジョンへの抵抗感を考慮したためであり、また[[テューダー朝]]以降に付けられなくなったのは、やはり人気がないからとも考えられる。<br /> <br /> *あだ名のLacklandは、元々幼いころ領地をもらえなかったことから付いたものだったが、対仏戦争の敗北で広大な大陸領土を失ったため、人々の記憶に残ることになった。このため日本語では「失地王」とも訳される。&lt;!--誤訳と書かれていますが、高校生の世界史教科書や参考書にも掲載されている仇名ですし、完全な誤訳と言って良いものでしょうか?--&gt;<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[プランタジネット朝]]<br /> *[[アイルランド卿]]<br /> *[[マグナ・カルタ]]<br /> *[[リヴァプール]]<br /> *[[暗君]]<br /> *[[ジョン王 (シェイクスピア)]]<br /> *[[リバーワールド]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{commons|John of England}}<br /> *[http://freepages.genealogy.rootsweb.com/~wjhonson/Royals/john%20i%20of%20england.jpg Graphic of family tree of the children of John]<br /> *{{Find A Grave|1953|King John}}<br /> <br /> {{イングランド王|1199年 - 1216年}}<br /> {{ノルマンディー公|1199年 - 1204年}}<br /> {{先代次代|メーヌ伯|1199年 - 1203年|[[リチャード1世 (イングランド王)|リシャール]]| }}<br /> {{先代次代|[[アキテーヌ公]]|1199年 - 1216年&lt;br/&gt;&lt;small&gt;[[アリエノール・ダキテーヌ|アリエノール]]と共同統治&lt;/small&gt;&lt;br/&gt;&lt;small&gt;(1199年 - 1204年)&lt;/small&gt;|[[リチャード1世 (イングランド王)|リシャール1世]]|[[ヘンリー3世 (イングランド王)|アンリ2世]]}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:しよん}}<br /> [[Category:イングランドの君主]]<br /> [[Category:ノルマンディー公]]<br /> [[Category:アキテーヌ公]]<br /> [[Category:ポワティエ伯]]<br /> [[Category:メーヌ伯]]<br /> [[Category:モルタン伯]]<br /> [[Category:グロスター伯]]<br /> [[Category:プランタジネット家]]<br /> [[Category:ヘンリー2世の子女]]<br /> [[Category:カトリック教会に破門された人物]]<br /> [[Category:法制史に関する人物]]<br /> [[Category:オックスフォード出身の人物]]<br /> [[Category:1167年生]]<br /> [[Category:1216年没]]</div> 240D:0:DF0D:3A00:D85A:FA6D:2485:DB02
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