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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=240B%3A11%3A4A00%3A400%3AA4CF%3AF0B%3A6454%3A3E80
miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2025-01-21T13:34:11Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
向坂逸郎
2018-04-30T08:40:02Z
<p>240B:11:4A00:400:A4CF:F0B:6454:3E80: /* 当局からの弾圧 */</p>
<hr />
<div>{{Infobox_経済学者<br />
<!-- 分野 --><br />
|地域 = [[日本]]の[[経済学者]]<br />
|時代 = <br />
|color = #B0C4DE <br />
<!-- 画像 --><br />
|image_name = <br />
|image_caption = <br />
<!-- 人物情報 --><br />
|名前 = 向坂逸郎<br />
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1897|2|6|死去}}<br />
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1897|2|6|1985|1|22}}<br />
|学派 = [[マルクス経済学]]([[労農派]])<br />
|研究分野 = <br />
|影響を受けた人物 = [[カール・マルクス]]<br />
|影響を与えた人物 = [[小島恒久]]<br />
|特記すべき概念 = [[社会主義協会]]を創設し[[日本社会党]]左派の理論的支柱となった<br />
|<br />
}}<br />
<br />
'''向坂 逸郎'''(さきさか いつろう、[[1897年]][[2月6日]] - [[1985年]][[1月22日]])は、[[日本]]の[[マルクス経済学]]者・[[社会主義]]思想家。[[九州大学]]教授・[[社会主義協会]]代表を歴任。<br />
<br />
== 来歴・人物 ==<br />
=== 学生時代 ===<br />
[[福岡県]][[大牟田市]]に[[会社員]]の息子として生まれる。弟に[[向坂正男]]がいる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%91%E5%9D%82%E6%AD%A3%E7%94%B7-1077742 デジタル版 日本人名大辞典+Plus]</ref>。[[福岡県立八女中学校]](1年夏から3年夏までは[[北海道庁立小樽中学校]]に転校<ref>{{Cite book |和書 |author=向坂逸郎 |year=1972 |title=わが資本論 |publisher=[[新潮社]] |series=[[新潮選書]] }}</ref>。)、[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]を経て、1921年に[[東京大学|東京帝国大学]](現[[東京大学]])[[経済学部]]を卒業すると、東大の助手となった。第五高等学校に在学中、[[ドイツ語]]の勉強のために、[[カール・マルクス]]の著作を読んだことから[[マルクス主義]]に傾倒するようになったという。<br />
<br />
=== ドイツ留学と結婚 ===<br />
[[1922年]]11月より[[1925年]]5月まで[[ドイツ]]・[[ベルリン]]に留学。留学中はマルクス主義関係の著作を読むことに専念、この時期にマルクス主義の世界観をほぼ確立した。当時のドイツは[[第一次世界大戦]]後の猛烈な[[インフレーション]]により[[マルク (通貨)|マルク]]が暴落しており、向坂は外貨でマルクス主義に関する貴重な書物を大量に買い集めることが出来た。向坂がマルクス主義文献の収集家となった基礎はこのときに築かれたと言ってよい。これより先、1922年10月嶺ゆきと婚約、帰国後の1925年6月、[[土屋喬雄]]夫妻を仲人役に結婚した。<br />
<br />
=== 九州帝国大学教授に ===<br />
ドイツから帰国すると、[[九州帝国大学]](現[[九州大学]])助教授に任命され、1926年には教授に昇進した。また、雑誌『[[労農]]』の[[同人]]および論客としても知られ、日本を代表するマルクス経済学者の一人となった。<br />
<br />
=== 当局からの弾圧 ===<br />
[[1928年]]に[[治安維持法]]が改正されるなど[[社会主義]]、[[共産主義]]に対する弾圧が厳しくなると、マルクス主義者の向坂に対する風当たりも強くなり、1928年に[[九州大学|九州帝国大学]]教授を他の二教授とともに辞任させられた。その後東京に移った向坂は[[改造社]]の『マルクス・エンゲルス全集』の編纂と翻訳に携わった。同時に、1928年からの地代論争、1930年代の[[日本資本主義論争]]では、[[労農派]]の代表的論客として活躍した。向坂の地代論争での論文は『[[地代]]論研究』に、日本資本主義論争での論文は『日本資本主義の諸問題』にそれぞれまとめられている。<br />
<br />
[[1937年]]に第1次[[人民戦線事件]]に連座して逮捕・投獄される。保釈後も言論活動を封じられ、匿名でドイツ語書籍を翻訳するとともに、細々と農業で自給自足的に暮らした。厳しい監視下で、多くの社会主義者・共産主義者が生活のためもあり転向していく中で、彼もまた体制に積極的に抵抗することはできなかったが、それに媚びる言動はなかった。向坂の弟子である[[小島恒久]](『向坂逸郎 その人と思想』)らだけでなく向坂と思想を異にする[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]](自伝『昭和史と私』)なども、向坂の戦中の態度を肯定的に評価している。<br />
<br />
=== マルクス経済学者としての活動 ===<br />
日本の敗戦とともにマルクス主義研究と社会主義運動は再び可能になった。向坂は[[1946年]]「歴史的法則について」を発表し、日本の革命形態は[[平和革命]]であることをいちはやく主張した。また1946年には社会主義運動を続けるという条件のもとに、九州大学経済学部教授に復帰した。前期(4月-9月)は東京で過ごし後期(10月-3月)のみ福岡に滞在して授業をおこなうという勤務形態であったが、当時はそれが許された。マルクス経済学者としての主要な著書には『経済学方法論』([[河出書房]] [[1949年]])、『マルクス経済学の方法』([[岩波書店]] [[1959年]])、『マルクス経済学の基本問題』(岩波書店 [[1962年]])、『マルクス伝』([[新潮社]] 1962年)などがある。また、『[[資本論]]』([[1947年]])、『[[共産党宣言]]』([[大内兵衛]]と共訳 [[1951年]])などの翻訳を岩波文庫から刊行した。福岡(九州大学)と東京の双方で各種の研究会を主宰し、多くのマルクス主義研究者を養成した。これらの弟子や知人研究者の協力を得て『マルクス・エンゲルス選集』(新潮社 全12巻、別巻4巻 1956-1962年)を編集した。<br />
<br />
=== 左派社会党 ===<br />
1951年、[[山川均]]らとともに社会主義協会を創設し、[[日本社会党]]左派の理論的支柱となり、[[左社綱領]]の作成に携わったりした。1958年に山川が亡くなると、[[社会主義協会]]の中心人物となった向坂は[[日本労働組合総評議会|総評]]の[[太田薫]]・[[岩井章]]らとともに[[社会党再統一]]に対する批判を開始し、マスコミの注目を浴びるようになった。<br />
<br />
=== 三池闘争 ===<br />
向坂は大学での講義や言論活動の傍ら、社会党や労組の活動家を自宅に集めて『[[資本論]]』を講義したり、全国の勉強会に気軽に赴いて、労働者の教育に力を入れたために、次第に社会主義協会系の活動家の間で向坂はカリスマ的存在となった。特に、向坂が力を入れたのが福岡県の[[三井三池炭鉱]]での活動家育成で、[[1960年]]の[[三池闘争]]の中心となったのは向坂が育成した活動家たちであった。三池闘争は最終的に労働者側の全面敗北に終わったが、向坂の思想は社会主義活動家に大きな影響を与えるようになり、向坂自身も三井三池争議を神聖化するようになった。<br />
<br />
=== 構造改革論争 ===<br />
[[1960年代]]に社会党内で[[構造改革]]論争が起こると向坂は[[構造改革|構造改革論]]を「日和見主義」と批判し、佐々木派と組んで構造改革派に対する批判を開始し、[[佐々木更三]]の庇護の下に社会主義協会系の活動家を党内で増やして、社会党に対する発言権を強めていった。1967年、社会主義協会は太田派と向坂派に分裂する。しかし、党大会の代議員で多数を占めて社会党の運営にも大きな影響を与えたのは向坂派だったため、一般に社会主義協会と言えば向坂派を指すようになった。<br />
<br />
=== 社会党内での発言力増大 ===<br />
[[1970年代]]、末端の活動家を押さえた向坂派社会主義協会は社会党内で大きな発言権を有するようになった。1968年決定された「[[社会主義協会テーゼ]]」には向坂の意向が強く反映され、彼の社会主義思想の集大成ともいえるものであった。<br />
<br />
60年代末から70年代前半にかけて日本経済の発展は著しく、共産党や新左翼諸派の勢力が拡大した。こうしたなかで無党派の活動家は社会党系であり理論を有する社会主義協会に引き寄せられた。共産党勢力の伸張は官公労で顕著であり、労組幹部はこれに対抗するものとして社会主義協会系活動家を積極的に育成した。こうして60年代末に大きく落ち込んだ社会党の党勢は、向坂派社会主義協会の伸張にともない70年代前半から中期にかけて一定の回復を示した<ref>[[石川真澄]]は、1969年衆議院総選挙での社会党の低落は、当時の一時的な要因(ソ連の「[[プラハの春]]」弾圧、[[新左翼]]運動の暴力化、中国の[[文化大革命]])により、旧来の支持者の中から大量の棄権が出たことが原因であり、構造的な要因とはいえず、棄権した旧支持者もしばらくの様子見をしたにすぎないと見ている。にもかかわらず次の1972年総選挙では社会党は前回失った票の約半分しか取り戻せず、大量の支持者の離脱が確定したことこそが真に重要であり、社会党の党勢自体が大きく落ち込み、回復したという見方に反論している(『データ戦後政治史』岩波新書、1984年)</ref>。<br />
<br />
しかし向坂は、1960年代後半から[[ソビエト連邦|ソ連]]などの社会主義国に急速に接近し、[[プラハの春|チェコスロバキア侵攻]](1968年)や[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]](1980年)を支持した。雑誌のインタビューでは、「[[プロレタリア独裁]]の下では政府に反対する言論表現の自由は絶対にない。日本に社会主義政権が誕生すれば、非武装中立を見直す」と、社会主義政権下での言論の自由を否定するだけでなく、社会党の党是であった護憲・[[非武装中立]]政策は資本主義の間だけのことであって、社会党政権になれば直ちに社会主義憲法に改訂、軍備を持って[[ワルシャワ条約機構]]に加入する事を示唆する発言をした<ref>『[[諸君!]]』1977年7月号『マルクスよりもマルクス』(インタビュアーは[[田原総一朗]])</ref>。彼の弟子たちはソ連や[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]などに招待されて友好訪問を繰り返し、「社会主義の優位性」を讃美した。また戦前の[[労農派]]マルクス主義を重視するあまり戦後の[[高度経済成長]]による日本社会の変化を無視した側面があった。そのため向坂派社会主義協会が社会党内で勢いを振るったことは、社会党の長期低落傾向を克服することにはならず、基本的にはむしろ促進したとする意見もある。さらにこの頃、向坂派社会主義協会の若い活動家たちは若干の「前進」を過信し、古参社会党員と摩擦を深めることも多かった。<br />
<br />
=== 協会規制に抗して ===<br />
[[1974年]]、向坂と手を切った佐々木更三や[[江田三郎]]らが「7人委員会」を結成して反協会の姿勢を明らかにすると、向坂らはこれに強く反発した。<br />
<br />
[[1977年]]2月の党大会では社会主義協会系の活動家たちが副委員長の江田三郎に暴言を浴びせ、糾弾する事態に発展した。江田は同年に社会党を離党して[[社会民主連合|社会市民連合]]を結成したが、間もなく急死した。社会主義協会は社会党内で急速に孤立した。<br />
<br />
=== 理論研究集団に ===<br />
こうした動向は、労使協調路線への転換を模索していた総評に向坂派社会主義協会を押さえ込むことを決断させた。社会党、社会主義協会とも総評の調停を受け入れ、1977年秋の党大会で社会主義協会規制が決定された。この大会では2月大会と勢力が逆転し、協会系活動家が激しく罵倒された。<br />
<br />
[[1978年]]の社会主義協会第11回大会(総会)では、社会主義協会は理論研究集団に徹し、政治活動はおこなわないことを認めた。<br />
<br />
=== 晩年 ===<br />
[[東郷健]]との対談(『[[週刊ポスト]]』[[1978年]]新年号)で、向坂は「ソヴィエト社会主義社会になれば、お前の病気(オカマ)は治ってしまう」「こんな変な人間を連れて来るなら、もう[[小学館]]の取材には一切応じない」等の暴言を吐き、激怒した東郷は中座した<ref>[[2002年]]、東郷の半生記『常識を超えて-オカマの道、七〇年』([[ポット出版]])出版記念パーティーの席上、[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]総合企画室長(当時)の[[保坂展人]]は、党を代表して向坂の発言を取り消し、謝罪した。また社会主義協会も、論文『セクシュアルマイノリティと人権』([[宮崎留美子]])を機関誌『社会主義』同年9月号に掲載し、向坂の差別発言を自己批判している。</ref>。[[関西学院大学]]で[[池内信行]]の薫陶を受けた東郷曰く、自らは百坪超の豪邸に住まい、都心のアパート家賃の相場さえ知らない向坂は、全く[[ブルジョワジー|ブルジョア]]にしか見えなかったという。<br />
<br />
晩年、側近の学者たちが次々と西欧型[[社会民主主義]]に転向して彼の下を去っていくなか、向坂は社会主義協会の団結を維持することに苦慮した。その中で[[1983年]]、向坂訳『資本論』の下訳者[[岡崎次郎]]が著書『マルクスに凭れて六十年』で、訳はほぼ岡崎自身のもので、向坂はほとんど手を加えていないこと、にもかかわらず印税は当初折半で、関係の悪化から岡崎が権利を放棄し、結局全額が向坂の収入になったことなど、その経緯が暴露された。<ref>岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年』、青土社、p.186-196</ref><br />
<br />
1985年1月22日、87歳で死去。<br />
<br />
==エピソード==<br />
向坂はソ連の[[ソビエト共産党マルクス・レーニン主義研究所|マルクス・レーニン主義研究所]]の研究員が驚嘆するほどのマルクス主義文献の収集家でもあった。収集した文献や資料は死後、[[法政大学]][[大原社会問題研究所]]に寄贈された。右派の[[谷沢永一]]や[[渡部昇一]]も「マルクス主義文献の収集家としてはトップクラス」と高く評価している<ref>渡部は『知的生活の方法』([[講談社]]〔[[講談社現代新書]]〕)で、「私有財産を否定する主義を奉じる人がその主義に関する文献を収集・所有して喜んでいるなど矛盾ではないかという声もあるが、私はそういう見方をしない。この蔵書こそが向坂氏の知力の源泉である」と書き、その例証として「社会党内部で、『[[構造改革]]』や『[[江田ビジョン]]』が、向坂氏に『テもなくひねられ』([[上之郷利昭]])たのも、また、[[日本共産党|共産党]]と果しのない論争を続けながらも・・・見解の相違で済んでいるのも、その背後には、誰にも負けない量と質を誇るマルクス主義関係の文献が手許にあるからである」と書いている。</ref>。<br />
<br />
なお、向坂を支え続けた夫人・ゆきは、[[2007年]]6月21日102歳で死去した。向坂逸郎が[[1952年]]に購入し、資本論学習会などの会場に使われた中野区鷺宮の自宅建物は、ゆき夫人健在中は居住を続けるという条件で蔵書寄贈と同時に法政大学に寄贈された。夫人逝去後の[[2009年]]12月から[[2010年]]1月にかけて取り壊され、跡地には法政大学向坂逸郎記念国際交流会館が建設された。2010年10月18日竣工記念式典が開催された。向坂夫妻には子女がおらず、向坂逸郎の[[著作権]]は、ゆき夫人の生前生活上の世話をおこなっていた[[和気誠]]が、夫人の[[遺言]]により継承・管理している。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
<div class="references-small"><references /></div><br />
<br />
==関連事項==<br />
*[[社会主義協会]]<br />
*[[社会主義協会テーゼ]]<br />
*[[労農派]]<br />
*[[日本資本主義論争]]<br />
*[[日本炭鉱労働組合]](炭労)<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*坂本守『向坂逸郎・ゆき 叛骨の昭和史』[[西日本新聞社]]、1982年。<br />
*[[上野建一]]・[[石河康国]]ほか『山川均・向坂逸郎外伝 労農派 1925-1985』(上・下)社会主義協会、2002・2004年。<br />
*[[小島恒久]]『向坂逸郎 その人と思想』[[えるむ書房]] 2005年 <br />
*[[佐藤優 (作家)|佐藤優]]・[[山崎耕一郎]]『マルクスと日本人』[[明石書店]] 2015年<br />
*石河康国『向坂逸郎評伝』上巻1897~1950、下巻1951~1985[[社会評論社]] 2018年<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.geocities.jp/roudousyaundou/ 労働者運動資料室]<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:さきさかいつろう}}<br />
[[Category:日本の経済学者]]<br />
[[Category:マルクシアン経済学者]]<br />
[[Category:戦前日本の学者]]<br />
[[Category:労農派の人物]]<br />
[[Category:日本社会党の人物]]<br />
[[Category:九州大学の教員]]<br />
[[Category:人民戦線事件の人物]]<br />
[[Category:東京大学出身の人物]]<br />
[[Category:熊本大学出身の人物]]<br />
[[Category:福岡県出身の人物]]<br />
[[Category:1897年生]]<br />
[[Category:1985年没]]</div>
240B:11:4A00:400:A4CF:F0B:6454:3E80
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