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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=240B%3A11%3A4A00%3A400%3A90C6%3A6F91%3AD7EB%3ACAEC miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2025-01-15T06:48:56Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 プルタルコス 2018-06-28T10:08:30Z <p>240B:11:4A00:400:90C6:6F91:D7EB:CAEC: /* 対比列伝 */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Philosopher or priest of Delphi - Archaeological Museum of Delphi.jpg|150px|thumb|プルタルコス像]]<br /> &#039;&#039;&#039;プルタルコス&#039;&#039;&#039;({{lang-el-short|Πλούταρχος}}、[[ラテン語|羅]]:Plutarchus、[[46年]]から[[48年]]頃 - [[127年]]頃)は、[[ローマ帝国|帝政ローマ]]の[[ギリシア人]]著述家。著作に『[[対比列伝]]』(英雄伝)などがある。英語名の&#039;&#039;&#039;プルターク&#039;&#039;&#039;(Plutarch {{IPA-en|ˈpluːtɑrk|}})でも知られる。<br /> <br /> == 略歴 ==<br /> [[ボイオティア]]にある[[カイロネイア]]の名門出身。[[アテナイ]]で[[数学]]と[[自然哲学]]を学び、ギリシャ本土と[[アナトリア半島|小アジア]]の[[サルディス]]、[[古代エジプト|エジプト]]の[[アレクサンドリア]]に赴き、カイロネイアの使節として[[ローマ]]にも度々滞在した。生涯を故郷で過ごし、市民と親しく付き合い、ローマからの客をもてなしたので、家は大いに賑わったとされる。一方では、[[デルポイ|デルフォイ神殿]]の神官と交流を持ち、神託を推奨した。<br /> <br /> &lt;!--豊かな教養と堅実な思想が特徴。--&gt;思想的には[[アカデメイア派]]に属し、その他[[ストア派]]や[[逍遙学派|ペリパトス派]]の考え方も取り入れていた。<br /> <br /> == 著作 ==<br /> 著作活動は熱心で、[[3世紀]]頃に編纂されたプルタルコス著作目録によれば、『対比列伝』(英雄伝)をはじめ、227もの書物が挙げられている。<br /> <br /> 『対比列伝』は1人の人物を記述した単独伝記4編と、古代ギリシアの人物と[[古代ローマ]]の人物を対比した対比列伝22編からなる。対比列伝では、[[アテナイ]]の王[[テーセウス]]と[[王政ローマ]]を建国した[[ロームルス]]、[[スパルタ]]の律法者[[リュクルゴス]]とローマの古王[[王政ローマ#ヌマ|ヌマ]]、[[アレクサンドロス3世]](大王)と[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]、などが対比されている。<br /> <br /> この『対比列伝』は[[16世紀]]に[[ジャック・アミヨ]]による仏訳がなされ、その仏語版から17世紀のサー・トマス・ノースが訳した英語版を参考に[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]は『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』、『[[アントニーとクレオパトラ]]』、『[[コリオレイナス]]』などの[[ローマ]]史劇を執筆したとされる&lt;ref&gt;トマス・ノース英訳版『プルターク英雄伝』(塚田孝雄編、龍渓書舎、1993年)は高価な特製本2冊組で刊行。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 『倫理論集(モラリア)』は政治・宗教・哲学などについて論じた随想集であり、[[随筆|エッセー]]の起源であるとされる。のちに[[モンテーニュ]]や[[ラブレー]]などのルネサンス期の[[フランス文学]]や、[[ラ・ロシュフーコー]]など17、18世紀のフランス[[モラリスト]]に、大いなる影響があった。<br /> <br /> == 日本語訳 ==<br /> === 対比列伝 ===<br /> * 『英雄伝』全6巻(予定)、[[柳沼重剛]]・城江良和訳、[[京都大学学術出版会]]〈西洋古典叢書〉(2007年‐&lt;ref&gt;完結時期未定、2015年現在4冊目まで刊&lt;/ref&gt;)<br /> * 『プルターク英雄伝』全12巻、[[河野与一]]訳、[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉。初の原典完訳<br /> * 『プルタルコス英雄伝』全3巻、[[村川堅太郎]]編、[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、1996年。元版:筑摩書房『[[世界古典文学全集]]23 プルタルコス』<br /> * 『プルターク英雄伝』全8巻、[[鶴見祐輔]]訳、潮出版社〈潮文庫〉、1971年、のち新版。※英訳からの重訳版、抜粋版は、潮文学ライブラリー(全1巻、2000年)&lt;ref&gt;初刊は『プルターク英雄伝』全6巻、鶴見祐輔訳、改造社、1934年。&lt;/ref&gt;<br /> * 『プリューターク英雄伝』 [[沢田謙|澤田謙]]訳、[[講談社文芸文庫]]、2012年。訳者独自の視点での編訳本&lt;ref&gt;初刊は戦前1930年、様々な版で刊行された&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 倫理論集(モラリア) ===<br /> * 『モラリア』全14巻、[[戸塚七郎]]・[[松本仁助]]・伊藤照夫・瀬口昌久ほか訳<br /> *:京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉。1997年-2018年に刊行<br /> * 『倫理論集の話』(抜粋訳) 河野与一選訳、岩波書店。<br /> * 『モラリア』抜粋版は以下が刊。各・[[柳沼重剛]]訳(岩波文庫)<br /> ** 『饒舌について 他五篇』(1985年)<br /> ** 『愛をめぐる対話 他三篇』(1986年)<br /> ** 『食卓歓談集』(1987年) - 「酒席で哲学論議をしてもよいか」など33編。<br /> ** 『似て非なる友について 他三篇』(1988年)<br /> ** 『エジプト神[[イシス]]と[[オシリス]]の伝説について』(1996年)<br /> *『古代ホメロス論集』 [[内田次信]]訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2013年<br /> *:プルタルコス「ホメロスについて 1・2」/[[ヘラクレイトス]]「ホメロスの寓意」を収録<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Plutarch}}<br /> * {{SEP|plutarch|Plutarch}}<br /> <br /> {{Platonists}}<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ふるたるこす}}<br /> [[Category:1世紀の古代ローマ人]]<br /> [[Category:古代ローマの哲学者]]<br /> [[Category:古代ローマの文筆家]]<br /> [[Category:古代ローマの歴史家]]<br /> [[Category:1世紀から5世紀の学者]]<br /> [[Category:菜食主義者]]<br /> [[Category:40年代生]]<br /> [[Category:120年代没]]</div> 240B:11:4A00:400:90C6:6F91:D7EB:CAEC 岩倉使節団 2018-06-28T10:03:28Z <p>240B:11:4A00:400:90C6:6F91:D7EB:CAEC: /* 関連文献 */</p> <hr /> <div>[[画像:Iwakura mission.jpg|thumb|300px|左から[[木戸孝允]]、[[山口尚芳]]、[[岩倉具視]]、[[伊藤博文]]、[[大久保利通]]]]<br /> {{Wikisource|岩倉公実記}}<br /> &#039;&#039;&#039;岩倉使節団&#039;&#039;&#039;(いわくらしせつだん)とは、[[明治維新]]期の[[明治4年]][[11月12日 (旧暦)|11月12日]]([[1871年]][[12月23日]])から明治6年([[1873年]][[9月13日]])まで、日本から[[アメリカ合衆国]]、[[ヨーロッパ]]諸国に派遣された大使節団である。[[岩倉具視]]を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> ;背景<br /> 1870年7月に始まった[[北ドイツ連邦]][[プロイセン王国]]と[[フランス第二帝政|第二帝政フランス]]の間に[[普仏戦争]](1870年戦争)は、ドイツ側の連合国が1871年1月に統一され[[ドイツ帝国]]となり、4月には[[ビスマルク憲法]]が施行されたうえ、5月には終結していた。<br /> <br /> ただ、1870年10月に日本政府が北ドイツ連邦[[フランクフルト]]の印刷会社[[ベルンハルト・ドンドルフ|ドンドルフ・アンド・ナウマン社]]に注文した偽造通貨対策のための紙幣([[明治通宝]]と呼ばれる)は、使節団が出発した1871年11月にはまだ届かなかった。<br /> <br /> ;出発<br /> 明治4年(1871年)11月12日(陰暦)に{{仮リンク|太平洋郵船会社|label=米国太平洋郵船会社|en|Pacific Mail Steamship Company}}の蒸気船「{{仮リンク|SSアメリカ (1869年)|label=アメリカ|en|SS America (1869)}}」号で[[横浜港]]を出発し、[[太平洋]]を一路[[カリフォルニア州]] [[サンフランシスコ]]に向った。その後アメリカ大陸を横断し[[ワシントンD.C.]]を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後[[大西洋]]を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。<br /> <br /> [[File:LONDON ILLUSTR(1872) p1.063 WINDSOR CASTLE.jpg|thumb|left|[[ウィンザー城]] (1872年)]]使節団は[[キュナード・ライン|キュナード社]]の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスの[[リヴァプール]]に到着した。[[ロンドン]]から始まり、[[ブライトン]]、[[ポーツマス海軍基地]]、[[マンチェスター]]を経てスコットランドへ向かう。スコットランドでは[[グラスゴー]]、[[エディンバラ]]、さらには[[ハイランド地方]]にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻って[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]、[[ボルトン・アビー]]、[[ソルテア]]、[[ハリファクス (イングランド)|ハリファクス]]、[[シェフィールド]]、[[チャッツワース・ハウス]]、[[バーミンガム]]、[[ウスター]]、[[チェスター]]などを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日は[[ウィンザー城]]では[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]主催の官邸晩餐会に参加。<br /> <br /> ヨーロッパでの訪問国は、[[イギリス]](4か月)、[[フランス]](2か月)、[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ドイツ]](3週間、[[:de:Iwakura-Mission in Deutschland|独語版]])、[[ロシア]](2週間)、[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]、[[イタリア]]、[[オーストリア]]([[ウィーン万国博覧会]]を視察)、[[スイス]]の12か国に上る。帰途は、[[地中海]]から[[スエズ運河]]を通過し、[[紅海]]を経て[[アジア]]各地にある[[ヨーロッパ]]諸国の[[植民地]]([[セイロン]]、[[シンガポール]]、[[サイゴン]]、[[香港]]、[[上海]]等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。<br /> <br /> 当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「[[広島丸 (郵船)|ゴールデンエイジ]]」号で横浜港に帰着した。[[留守政府]]では朝鮮出兵を巡る[[征韓論]]が争われ、使節帰国後に[[明治六年政変]]となった。<br /> <br /> 元々[[大隈重信]]の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の[[文明開化]]に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて[[条約改正]]交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。<br /> <br /> 使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は[[髷]]と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の[[岩倉具定]]らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、[[シカゴ]]で断髪。以後は洋装に改めた。<br /> <br /> == 目的 ==<br /> #条約を結んでいる各国を訪問し、[[元首]]に国書を提出する&lt;ref&gt;アメリカでは[[ユリシーズ・グラント|グラント]]大統領、イギリスではヴィクトリア女王、フランスでは[[アドルフ・ティエール|ティエール]]大統領、ベルギーでは国王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]、オランダでは国王[[ウィレム3世 (オランダ王)|ウィレム3世]]、ドイツでは皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]と謁見した。&lt;/ref&gt;<br /> #[[江戸時代]]後期に諸外国と結ばれた[[不平等条約]]の改正([[条約改正]])のための予備交渉<br /> #西洋文明の調査<br /> <br /> 使節団の主目的は友好親善、および欧米先進国の文物視察と調査であったが、各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていた。明治政府は旧幕府と締約された各種条約を新政府のものとに置き換えるべく明治初年度から順次交渉を続けていたが、[[1872年]][[7月1日]](明治5年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]])をもって欧米十五カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降1ヵ年の通告を持って条約を改正しうる取り決めであったので、明治政府はこの好機を捕えて不平等条約の改正を図ったのである&lt;ref&gt;{{Cite journal|和書|author=宮永孝 |title=アメリカにおける岩倉使節団 : 岩倉大使の条約改正交渉 |date=1992-01 |publisher=法政大学 |journal=社會勞働研究 |volume=38 |number=2 |naid=110000184475 |pages=43-93 |ref=harv}}&lt;/ref&gt;。だが、日本に近代的な法制度が整っていないことなどを理由に不成功に終わった。<br /> <br /> == 派遣使節団 ==<br /> 使節46名、随員18名、留学生43名。使節は[[薩長]]中心、書記官などは旧幕臣から選ばれた。<br /> === 使節 ===<br /> [[ファイル:Genichiro Fukuchi 3.jpg|200px|right|thumb|のちにジャーナリスト・文筆家として活躍し、[[立憲帝政党]]の開党にも参画した[[福地源一郎]]]]<br /> [[ファイル:Tadasu Hayashi.png|200px|right|thumb|のちに外交官[[林董]]として活躍し、1902年[[日英同盟]]締結時の駐英公使となった林董三郎]]<br /> [[ファイル:Kume Kunitake.jpg|200px|right|thumb|帰国後に『[[米欧回覧実記]]』を編集した[[久米邦武]]]]<br /> [[ファイル:Shinpachi Murata.jpg|200px|right|thumb|[[西南戦争]]に斃れた[[村田新八]]]]<br /> ; 特命全権大使<br /> * 岩倉具視<br /> ; 副使<br /> * [[木戸孝允]](桂小五郎)<br /> * [[大久保利通]]<br /> * [[伊藤博文]]<br /> * [[山口尚芳]]<br /> ; 一等書記官<br /> * [[田辺太一]]<br /> * [[何礼之]]<br /> * [[福地源一郎]]<br /> ; 二等書記官<br /> * [[渡辺洪基]]<br /> * [[小松済治]]<br /> * [[林董|林董三郎]]<br /> * [[長野桂次郎]](立石斧次郎)<br /> ; 三等書記官<br /> * [[川路寛堂]]<br /> ; 四等書記官<br /> * [[安藤太郎 (外交官)|安藤太郎]]<br /> * [[池田寛治|池田政懋]]<br /> ; 大使随行<br /> * [[久米邦武]]<br /> * [[中山信彬]]<br /> * [[内海忠勝]]<br /> * [[野村靖]]<br /> * [[五辻安仲]]<br /> ; 理事官<br /> * [[田中光顕]]<br /> * [[東久世通禧]]<br /> * [[山田顕義]]<br /> * [[佐々木高行|佐佐木高行]]<br /> * [[田中不二麿]]<br /> * [[肥田浜五郎|肥田為良]]<br /> ; 随行<br /> * [[村田新八]]<br /> * [[由利公正]]<br /> * [[原田一道]]<br /> * [[長與專齋]]<br /> * [[安場保和]]<br /> * [[若山儀一]]<br /> * [[阿部潜]]<br /> * [[沖守固]]<br /> * [[富田命保]]<br /> * [[杉山一成]]<br /> * [[吉雄永昌]]<br /> * [[中島永元]]<br /> * [[近藤鎮三]]<br /> * [[今村和郎]]<br /> * [[内村良蔵|内村公平]]<br /> * [[大島高任]]<br /> * [[瓜生震]]<br /> * [[岡内重俊]]<br /> * [[中野健明]]<br /> * [[平賀義質]]<br /> * [[長野文炳]]<br /> <br /> === 留学生 ===<br /> [[ファイル:Kaneko Kentaro 1-1.jpg|thumb|200px|金子堅太郎。写真は晩年のもので、留学当初は小学生。]]<br /> [[ファイル:First female study-abroad students.jpg|thumb|200px|新政府の米国留学女学生<br /> ----<br /> 左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。明治4年。姓名はいずれも当時のもの、数字はかぞえ歳 &lt;small&gt;&lt;ref name=girls&gt;各学生の概歴は以下の通り:&lt;br /&gt;上田てい:上田悌子(うえだ ていこ)、満14歳、旧幕臣・上田畯の娘、後に医師・桂川甫純と結婚、没年不詳。&lt;br /&gt;吉益りょう:吉益亮子(よします りょうこ)、満14歳、旧幕臣・吉益正雄の娘、1885年以前に死去。&lt;br /&gt;永井しげ:[[瓜生繁子|永井繁子]](ながい しげこ)、満8歳、旧幕臣・益田鷹之助の娘(旧幕臣・永井久太郎の養女)。&lt;br /&gt;津田うめ:[[津田梅子]](つだ うめこ)、満6歳、旧幕臣・[[津田仙]]の娘。&lt;br /&gt;[[山川捨松]](やまかわ すてまつ)、満11歳、会津藩の国家老・山川尚江重固の娘。 &lt;/ref&gt;。&lt;/small&gt;]]<br /> 留学生のほとんどは士族だが、[[清水谷公考]]、[[坊城俊章]]、万里小路正秀([[万里小路正房]]八男)、武者小路実世([[武者小路実篤]]の父)、錦小路頼言は公家出身。<br /> ;イギリス留学<br /> *[[中江兆民]]<br /> *[[鍋島直大]]<br /> *[[百武兼行]]<br /> *[[前田利嗣]]<br /> *[[毛利元敏]]<br /> ;イギリス・フランス留学<br /> *[[前田利同]]<br /> ;アメリカ留学<br /> *[[金子堅太郎]]<br /> *[[團琢磨]]<br /> *[[牧野伸顕]]<br /> *[[黒田長知]]<br /> *[[鳥居忠文]]<br /> *[[津田梅子]]<br /> *[[山川捨松]]<br /> *[[永井繁子]]<br /> *[[吉川重吉]]<br /> *[[木戸孝正]]<br /> *[[日下義雄]]<br /> *[[山脇正勝]]<br /> *[[高木貞作]]<br /> *[[三岡丈夫]]<br /> ;ドイツ留学<br /> *[[平田東助]]<br /> *[[武者小路実世]]<br /> ;ロシア留学<br /> *[[清水谷公考]]<br /> *[[万里小路正秀]]<br /> ;留学<br /> *[[大村純熈]]<br /> *[[朝永甚次郎]]<br /> *[[長岡治三郎]]<br /> *[[坊城俊章]]<br /> *[[錦小路頼言]]<br /> <br /> === 随員 ===<br /> [[ファイル:Jo Niijima.jpg|200px|right|thumb|のちに[[同志社英学校]]をひらき[[キリスト教]]の伝道に生涯をささげた[[新島襄]]]]<br /> ;随員<br /> *[[新島襄]](通訳)<br /> *[[岩倉具綱]]<br /> *[[大久保利和]]<br /> *[[牧野伸顕]]<br /> *[[山縣伊三郎]]<br /> *[[山口俊太郎]]<br /> *[[吉井友実|吉井幸輔]]<br /> *[[吉原重俊]](大原令之助)<br /> *[[畠山義成]](杉浦弘蔵)<br /> ほか。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[日本史の出来事一覧]]<br /> *[[明治の人物一覧]]<br /> *[[殖産興業]]<br /> *[[富国強兵]]<br /> <br /> == 関連文献 ==<br /> {{参照方法|date=2017年11月|section=1}}<br /> *[[久米邦武]]編著『[[米欧回覧実記]]』 (明治11年刊、5冊組で全100巻、博聞社 [[1878年]])<br /> **※復刻版 『特命全権大使米欧回覧実記』(全5巻 宗高書房 [[1975年]])<br /> *[[田中彰 (歴史学者)|田中彰]]校注 『米欧回覧実記』 [[岩波文庫]](全5巻)、初版1977-82年/[[岩波書店]](単行判5巻組)、1985年<br /> *『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』[[水沢周|水澤周]]訳注、[[慶應義塾大学出版会]]、2005年 (単行判5巻組)    <br /> **普及版 『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』 ※[[選書]]判(全5巻+別巻総索引)、2008年。企画:米欧亜回覧の会<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;〔専門的な編著・単著〕&#039;&#039;&#039;<br /> *久米美術館編 『岩倉使節団関係 久米邦武文書 3』 [[吉川弘文館]]、2001年<br /> **久米美術館編 『特命全権大使 「米欧回覧実記」銅板画集』 1985年<br /> **久米美術館編 『銅鐫にみる文明のフォルム &lt;small&gt;「米欧回覧実記」挿絵銅版画とその時代展」資料集&lt;/small&gt;』 2006年<br /> *田中彰 『岩倉使節団の歴史的研究』 [[岩波書店]]、2002年<br /> *[[イアン・ニッシュ]]編/[[麻田貞雄]]ほか訳 『欧米から見た岩倉使節団』&lt;br&gt; [[ミネルヴァ書房]] [MINERVA日本史ライブラリー12] 、2002年<br /> *[[芳賀徹]]編 『岩倉使節団の比較文化史的研究』 思文閣出版、2003年<br /> *米欧回覧の会編 『岩倉使節団の再発見』 思文閣出版、2003年<br /> *米欧亜回覧の会編 『世界の中の日本の役割を考える &lt;small&gt;岩倉使節団を出発点として&lt;/small&gt;』 &lt;br&gt; 芳賀徹・[[松本健一]]・[[齋藤希史]]ほか多数、[[慶應義塾大学出版会]]、2009年<br /> *田中彰・高田誠二編著 『「米欧回覧実記」の学際的研究』 [[北海道大学]]図書刊行会、1993年<br /> *[[西川長夫]]・松宮秀治編 『「米欧回覧実記」を読む 1870年代の世界と日本』 法律文化社、1995年<br /> *岩倉翔子編著 『岩倉使節団とイタリア』 [[京都大学学術出版会]]、1997年<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;〔一般向けの書籍〕&#039;&#039;&#039; <br /> *[[田中彰 (歴史学者)|田中彰]] 『岩倉使節団 「米欧回覧実記」』([[岩波現代文庫]](改訂版)、2002年)。初刊は[[講談社現代新書]] 1977年<br /> **『[[明治維新]]と西洋文明 岩倉使節団は何を見たか』([[岩波新書]]、2003年)<br /> **『「脱亜」の明治維新 岩倉使節団を追う旅から』([[NHK出版|日本放送出版協会]][[[NHKブックス]]]、1984年)。[[オンデマンド]]版2003年<br /> *[[大久保喬樹]]編訳 『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』([[角川ソフィア文庫]]、2018年)<br /> *[[宮永孝]] 『アメリカの岩倉使節団』([[筑摩書房]][ちくまライブラリー]、1992年)<br /> **『白い崖の国をたずねて 岩倉使節団の旅 [[木戸孝允]]のみたイギリス』([[集英社]]、1997年)<br /> *[[古川薫]] 『新・米欧回覧 歴史紀行 岩倉使節団の旅を追う』(毎日新聞社、1993年)<br /> *[[萩原延壽]] 『岩倉使節団 遠い崖9-[[アーネスト・サトウ]]日記抄』 ([[朝日新聞社]]、2000年/[[朝日新聞出版|朝日文庫]] 2008年)<br /> * [[泉三郎]] 『誇り高き日本人 国の命運を背負った岩倉使節団の物語』 ([[PHP]]、2008年/「岩倉使節団 誇り高き男たちの物語」 祥伝社黄金文庫、2012年)<br /> **『堂々たる日本人 知られざる岩倉使節団』 ([[祥伝社]]、1996年/祥伝社黄金文庫、2004年) <br /> **『岩倉使節団という冒険』 ([[文春新書]] 2004年)<br /> **『写真・絵図で甦る堂々たる日本人 この国のかたちを創った岩倉使節団「米欧回覧」の旅』 (祥伝社、[[2001年]])<br /> * [[高田誠二]] 『維新の科学精神 「米欧回覧実記」の見た産業技術』 ([[朝日選書]]、1995年)<br /> *高田誠二 『久米邦武 史学の眼鏡で浮世の景を』 ([[ミネルヴァ書房]]〈日本評伝選〉、2007年)<br /> *芳賀徹 ほか 『岩倉使節団の西洋見聞 &lt;small&gt;~「米欧回覧実記」を読む~&lt;/small&gt;』 (「NHK市民大学」[[日本放送出版協会]]、1990年)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Iwakura Mission}}<br /> {{Wikisource-inline|岩倉公実記}}<br /> *[https://web.archive.org/web/20080612212025/http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/iwakurashisetsudannmonnjo.html 国立国会図書館 憲政資料室 岩倉使節団文書(MF:国立公文書館蔵)]<br /> * [http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=40006071 特命全権大使米欧回覧実記 / 久米邦武編,博聞社,明治11年10月]([[近代デジタルライブラリー]])<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:いわくらしせつたん}}<br /> [[Category:岩倉使節団の人物|*]]<br /> [[Category:明治維新]]<br /> [[Category:明治時代の外交]]<br /> [[Category:日本の条約改正]]<br /> [[Category:欧米に渡った日本の使節団]]<br /> [[Category:1871年の日本]]<br /> [[Category:1872年の日本]]<br /> [[Category:1873年の日本]]</div> 240B:11:4A00:400:90C6:6F91:D7EB:CAEC
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