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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=240B%3A11%3A4A00%3A400%3A54DE%3AA88F%3A4BA5%3A17FA miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-03T08:30:39Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 マックス・ヴェーバー 2018-07-18T10:03:33Z <p>240B:11:4A00:400:54DE:A88F:4BA5:17FA: /* 関連人物 */</p> <hr /> <div>{{Otheruses||ドイツの動物学者|マックス・カール・ヴィルヘルム・ヴェーバー}}<br /> {{Infobox_経済学者<br /> &lt;!-- 分野 --&gt;<br /> |地域 = [[ドイツ]]の[[社会学者]]・[[経済学者]] <br /> |時代 = <br /> |color = #B0C4DE <br /> &lt;!-- 画像 --&gt;<br /> |image_name = Max_Weber_1894.jpg<br /> |image_caption = 1894年のマックス・ヴェーバー<br /> &lt;!-- 人物情報 --&gt;<br /> |名前 = マックス・ヴェーバー&lt;br&gt;Max Weber<br /> |生年月日 = [[1864年]][[4月21日]]&lt;br&gt;{{PRU1803}}&lt;br&gt;[[File:Flagge Preußen - Provinz Sachsen.svg|border|25px]] [[:de:Provinz Sachsen|ザクセン県]] [[エアフルト]]<br /> |没年月日 = [[1920年]][[6月14日]](没56歳)&lt;br&gt;{{DEU1919}}&lt;br&gt;[[File:Flag of Bavaria (striped).svg|border|25px]] [[バイエルン州]] [[ミュンヘン]]<br /> |学派 = [[歴史学派]]<br /> |研究分野 = [[経済学]]を含む[[社会科学]]全般<br /> |影響を受けた人物 = <br /> |影響を与えた人物 = [[カール・ヤスパース]]、[[ルカーチ・ジェルジ]]、[[タルコット・パーソンズ]]<br /> |特記すべき概念 = [[唯物論]]への反証、社会科学におけるさまざまな方法論の整備<br /> |<br /> }}<br /> [[Image:Max Weber 1917.jpg|thumb|マックス・ヴェーバー(中央の人物)]]<br /> <br /> &#039;&#039;&#039;マックス・ヴェーバー&#039;&#039;&#039;(Max Weber、[[1864年]][[4月21日]] - [[1920年]][[6月14日]]&lt;ref&gt;{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/ウェーバー-33940 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-11 }}&lt;/ref&gt;)は、[[ドイツ]]の[[政治学者]]・[[社会学者]]・[[経済学者]]である。&#039;&#039;&#039;マックス・ウェーバー&#039;&#039;&#039;と表記されることもある(正式な名前はカール・エーミル・マクスィミーリアン・ヴェーバー (Karl Emil Maximilian Weber)。マックスはマクスィミーリアンの省略形である)。同じく[[社会学者]]・[[経済学者]]の[[アルフレート・ヴェーバー]]の兄である。<br /> <br /> 社会学の黎明期のコントやスペンサーに続く、第二世代の社会学者として[[エミール・デュルケーム]]、[[ゲオルグ・ジンメル]]などと並び称される。&lt;ref&gt;[[社会学]]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 略年譜 ==<br /> *1864年 [[プロイセン王国]][[エアフルト]]&lt;ref&gt;エアフルトは、[[宗教改革|宗教改革者]][[マルティン・ルター]]が大学生活を送り、卒業後、[[アウグスティヌス会]]の修道院に入って、真摯な修道生活を送ったところ。町中の至る所に大小さまざまな尖塔がある。中心の丘の上に、この町を象徴する大聖堂が聳え立っていて、宗教的な雰囲気を醸し出している。また、[[東独]]に属していたので、ソ連の宇宙飛行士の名を取って[[ユリ・ガガーリン]]環状路10・12番がヴェーバーの生まれた家跡の番地である。生家跡であることを示す金属製の案内板が取り付けられていて、マックスと弟アルフレットの名前が浮き彫りにされている。(長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 30-31ページ)&lt;/ref&gt;にて、父は政治家、母は上流階級出身の敬虔な[[プロテスタント]]の裕福な家庭に長男として生まれる。&lt;ref&gt;https://en.wikipedia.org/wiki/Max_Weber#Early_life_and_family_background&lt;/ref&gt;<br /> *1865年 2歳の時[[脳膜炎]]にかかり、華奢でひ弱な体に不釣り合いな大きい顔をしていた&lt;ref name=&quot;osabe1&quot;&gt;長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 30ページ&lt;/ref&gt;。<br /> *1869年 5歳の時、[[エルフルト]]から[[ベルリン]]のシャルロッテンブルグ・ライプニッツ・シュトラーセへ引っ越した。「家庭」から「社会」へ出た。並外れて早熟だった&lt;ref&gt;長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 39ページ&lt;/ref&gt;。<br /> *1876年 12歳の時、[[マキャベリ]]の『[[君主論]]』を読み、哲学書では、[[スピノザ]]、[[ショーペンハウエル]]、[[カント]]に進んだ。少年時代は、シャルロッテンブルクの家で読書に多くの時間を費やした&lt;ref name=&quot;osabe1&quot; /&gt;。<br /> *1879年 15歳の時、読むだけでなく資料を集め、それを元にして歴史論文「インドゲルマン諸国民における民族性格、民族発展、および民族史の考察」を書いた&lt;ref name=&quot;osabe1&quot; /&gt;。大学入学前に王立王妃アウグスタ・[[ギムナジウム]]で学ぶ。<br /> *1882年 18歳の時、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]等で法律学、経済史などを学ぶ。&lt;ref&gt;学制仲間と祝杯挙げる、浮かれ騒ぐ、そのうちに[[霙]](みぞれ)の道に滑って足の骨を折って入院などで、結局大学の講義を大して聞かないままハイデルブルクを去り、家帰ると母親ヘレーネにいきなり平手打ちを食うような状態であった。(長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 68-70ページ&lt;/ref&gt;。<br /> *1883年 19歳の時、[[シュトラスブルク]]&lt;ref&gt;[[アルザス地方]]の中心都市でフランス名ストラスブール、[[アルホンス・ドーテ]]の短編『[[最後の授業]]』で有名&lt;/ref&gt;にて予備役将校制度の志願兵として1年間の軍隊生活を送る&lt;ref&gt;プロイセンで高級官僚になるための道程としては大学生活の内一年間の兵役を済ませておかねばならなかった。そこでこれまで経験したことのないような屈辱と辛酸を味わった。しかし、身体は疲労困憊していても、頭脳は疲れていないので目が冴え[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]や[[ツルゲーネフ]]を読んだ。この一年志願兵の衛兵勤務ははなはだ金のかかるものだった。送金依頼の手紙二は軍隊生活の実態をときにはユーモアを交えて書き、シュトラスブルクの親戚の様子も報告する長文の手紙を書いた。(長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 76、80・82ページ)&lt;/ref&gt;。将校任官試験を最優等の成績で合格し、予備役将校の資格を持つ下士官に昇進した&lt;ref&gt;長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 90ページ&lt;/ref&gt;。 <br /> *1889年 「中世商事会社史」で博士の学位を取得、[[テオドール・モムゼン]]より、「わが子よ、汝我にかわりてこの槍を持て」という祝辞を送られる。<br /> *1892年 ベルリン大学の私講師となり、[[ローマ法]]と[[商法]]を講義。「東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態」(社会政策学会による農業労働者調査報告)。<br /> *1893年 マリアンネと結婚。<br /> *1894年 30歳で[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]の[[経済学]]正教授として招聘される。フライブルクの同僚には哲学者の[[ハインリヒ・リッケルト]]がいた。<br /> *1895年 フライブルク大学での教授就任講演「国民国家と経済政策」で賛否両論の大きな反響を引き起こす。<br /> *1896年 ハイデルベルク大学に招聘される。<br /> *1898年 実父との確執から神経を病み、大学を休職し[[サナトリウム]]で静養。<br /> *1903年 病気のため[[ハイデルベルク大学]]の教職を辞して名誉教授となる。<br /> *1904年 ようやく病気から癒え、新たな学問活動を再開。「[[プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神]]」を発表。[[セントルイス万国博覧会]]の際に開かれた学術会議への出席のためアメリカに旅行し、そのついでにアメリカの[[プロテスタント]]諸派を調査。[[ヴェルナー・ゾンバルト]]や[[エドガー・ヤッフェ]]らと共に、「社会科学・社会政策雑誌」(Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik)の編集に従事し始める。<br /> *1905年 [[第一次ロシア革命]]に際し、[[ロシア語]]を習得。<br /> *1906年 [[ネッカー川]]の畔の家に移り、知的サークルの中心的存在として、[[エルンスト・トレルチ]]や[[カール・ヤスパース]]らと交わる。ロシア革命に関する諸論文を執筆・公表。<br /> *1910年 「経済と社会」に含まれる諸論文の執筆を開始。<br /> *1911年 「世界宗教の経済倫理」の執筆を開始。<br /> *1914年 [[第一次世界大戦]]勃発。この大戦の引き金となった[[サラエボ事件|セルビア人青年によるオーストリア皇太子暗殺]]の報を聞いたとき、ヴェーバーはしばらくの間沈痛な面持ちで黙想した後、「神よ、われわれを地獄に落とす愚か者たちからわれわれを守りたまえ」と発した&lt;ref name=&quot;osabe2&quot;&gt;長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 22ページ&lt;/ref&gt;。活発に政治的発言を行うのと同時に、翌1915年にかけてハイデルベルクの陸軍野戦病院で軍役を行う。1日13時間ずつ、1年間に2日しか休みを取らなかった&lt;ref name=&quot;osabe2&quot; /&gt;。<br /> *1916年 「[[儒教]]と[[道教]]」「[[ヒンドゥー教]]と[[仏教]]」を発表。<br /> [[ファイル:Max Weber June 14 1920.jpg|200px|thumb|臨終の床に伏すヴェーバー]]<br /> *1917年 「古代[[ユダヤ教]]」を発表。軍務を退いた後、学問・研究に専心する傍ら「フランクフルト新聞」に、ヴェーバーが戦争を通じて見て取ったドイツ政府と議会システムの根本的な欠陥を指摘した政治論文を発表した。論文は4月から7月にかけて分載された。&lt;ref name=&quot;osabe3&quot;&gt;長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 23ページ&lt;/ref&gt;。「[[国家社会学の諸問題]]」(10月25日、ウィーン、未公表)、「[[職業としての学問]]」(11月7日、ミュンヘン)を講演。この講演内容の出版は1919年。<br /> *1918年 [[ウィーン大学]]に招聘される。敗戦を迎え、5月に新聞分載の政治論文を加筆し『新秩序ドイツの議会と政府』が刊行された&lt;ref name=&quot;osabe3&quot; /&gt;。<br /> *1919年 [[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]に招聘され、そこで「[[職業としての政治]]」(1月28日)を講演。この講演内容の出版は1919年。<br /> *1920年 [[ミュンヘン]]で[[スペインかぜ]]に因る肺炎のため死去。56歳。<br /> <br /> == 主な業績 ==<br /> ヴェーバーは、西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理は「合理性」であるとし、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放(die Entzauberung der Welt)」と捉え、それを比較宗教社会学の手法で明らかにしようとした。&lt;ref&gt;マックス・ヴェーバー、『宗教社会学論選』中の「宗教社会学論集 序言」「世界宗教の経済倫理 序論」など。&lt;/ref&gt;そうした研究のスタートが記念碑的な論文である「[[プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神]]」(1904年-1905年)である。この論文の中で、ヴェーバーは、西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、主としてカルヴィニズムにおける宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化であるとした。この論文は、大きな反響と論争を引き起こすことになったが、特に当時の[[マルクス主義]]における、「宗教は上部構造であって、下部構造である経済に規定される」という唯物論への反証としての意義があった。&lt;ref&gt;カール・レヴィット『ウェーバーとマルクス』&lt;/ref&gt;<br /> <br /> その後、この比較宗教社会学は、「世界宗教の経済倫理」という形で研究課題として一般化され、[[儒教]]と[[道教]]、[[ヒンドゥー教]]と[[仏教]]、古代[[ユダヤ教]]、の研究へと進んだ。しかし、原始[[キリスト教]]、[[カトリック教会|カトリック]]、[[イスラム教]]へと続き、プロテスタンティズムへ再度戻っていくという壮大な研究計画は、本人がインフルエンザで命を落としたことで未完に終わった。特に、イスラム教については、ほとんど手を付けることはなかった。<br /> <br /> [[画像:Max and Marianne Weber 1894.jpg|200px|thumb|妻マリアンネと(1894年)]]<br /> 一連の宗教社会学の論文と並んで、ヴェーバーが行っていたもう一つの大きな研究の流れは、「経済と社会」という論文集としてまとめられている。&lt;ref&gt;なお、「経済と社会」(Wirtschaft und Gesellschaft)という表題についても、ヴォルフガング・シュルフターは「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」(Die Wirtschaft und die gesellschaftliche Ordnung und Mächte)としている。マックス・ヴェーバー全集(Max-Weber-Gesamtausgabe)でも両方が併記されている。参照:http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/7kyotosympo.htm&lt;/ref&gt;これは、ヴェーバーが編集主幹となり、後に「社会経済学綱要」と名付けられた[[社会学]]・[[経済学]]の包括的な教科書に対し、1910年から寄稿された論文集である。この論文集も、最終的にはヴェーバー自身の手によって完成することはなかった。彼の没後、妻であったマリアンネ・ヴェーバーの手によって編纂・出版されたが、このマリアンネの編纂については、批判が多い。&lt;ref&gt;フリードリヒ・H・テンブルック、『マックス・ヴェーバーの業績』、未来社に収録の「『経済と社会』からの訣別 ――ヨハネス・ヴィンケルマン編集による、テクスト校訂上の説明付き『経済と社会』改訂第五版(テュービンゲン、一九七六年)に対する論評のために――」&lt;/ref&gt;その後、1956年と1976年にヨハネス・ヴィンケルマンによる再編纂版も出ているが、本来ヴェーバーが目指していたと思われる、あるべき全体構成については、今なお議論が続いている。&lt;ref&gt;折原浩、『日独ヴェーバー論争: 『経済と社会』(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて』;ウォルフガング・シュルフター、折原浩、『『経済と社会』再構成論の新展開―ヴェーバー研究の非神話化と『全集』版のゆくえ』&lt;/ref&gt;この「経済と社会」は、教科書的・体系的な[[社会学]]を構築しようとしたのと同時に、[[宗教社会学]]における「合理化」のテーマを、比較文明史・経済史における特殊・個別事例の巨大な集積に照らし合わせて検証していくケーススタディ(Kasuistik、決疑論)を行ったものとしても位置づけられよう。&lt;ref&gt;参照:http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/zuisou4.htm&lt;/ref&gt;また、「経済と社会」の中の「支配の諸類型」における、正当的支配の三つの純粋型、すなわち「[[合法的支配]]」「[[伝統的支配]]」「[[カリスマ的支配]]」は社会学や政治学の分野で広く受け入れられることとなった。<br /> <br /> また、ヴェーバーは、社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。特に、人間の内面から人間の[[社会的行為]]を理解しようとする「[[理解社会学]]」の提唱が挙げられる。さらには、純理論的にある類型的なモデルを設定し、現実のものとそれとの差異を比較するという「[[理念型]](Idealtypus)」も挙げられる。&lt;ref&gt;マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(Die &#039;Objektivität&#039; sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis)&lt;/ref&gt;また、政治的価値判断を含む、あらゆる価値判断を学問的研究から分離しようとする「[[価値自由]](Wertfreiheit)」の提唱も、大きな論争を引き起こした。&lt;ref&gt;マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(Die &#039;Objektivität&#039; sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis)&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ヴェーバーは、ハイデルベルクでの知的サークルを通じて、年長の法学者[[ゲオルグ・イェリネック]]、哲学者[[ヴィルヘルム・ヴィンデルバント]]、同世代の神学者[[エルンスト・トレルチ]]や哲学者[[ハインリヒ・リッケルト]]、さらには若年の哲学者[[カール・ヤスパース]]や哲学者[[ルカーチ・ジェルジ]](ゲオルク・ルカーチ)らと交わり、彼らに強い影響を与えた。また社会学者[[タルコット・パーソンズ]]もヴェーバーの著作を通じて強い影響を受けている。[[タルコット・パーソンズ]]がハイデルベルク留学中に師事した社会学者・経済学者の[[アルフレート・ヴェーバー]]は実弟である。<br /> <br /> 日本においては、[[丸山眞男]]や[[大塚久雄]]や[[川島武宜]]をはじめとして、多くの[[社会科学]]系の学者に強い影響を与えた。&lt;ref&gt;ヴォルフガング・シュヴェントカー、『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905-1995』&lt;/ref&gt;ヴェーバーの日本における受容は、日本が太平洋戦争で敗北したのは「[[合理主義]]」が欠けていたためであるという問題意識と&lt;ref&gt;丸山眞男、『日本の思想』&lt;/ref&gt;、社会科学における[[マルクス主義]]との対置という文脈、という2つの理由が大きかった。&lt;ref&gt;カール・レーヴィット(柴田治三郎ほか訳)『ウェーバーとマルクス』(未來社、1966年)&lt;/ref&gt;<br /> <br /> == 著書 ==<br /> * 『[[職業としての学問]]』(Wissenschaft als Beruf)(講演)<br /> * 『[[職業としての政治]]』(Politik als Beruf)(講演)<br /> *『宗教社会学論集』(Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie)<br /> ** 『[[プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神]]』(Die protestantische Ethik und der &#039;Geist&#039; des Kapitalismus)<br /> ** 『プロテスタンティズムの諸信団(ゼクテ)と資本主義の精神』(Die protestantische Sekten und der Geist des Kapitalismus)<br /> ** 『世界宗教の経済倫理』(Die Wirtschaftsethik der Weltreligionen)<br /> ** 『序論』(Einleitung)<br /> ** 『儒教と道教』(Konfuzianismus und Taoismus)<br /> ** 『中間考察』(Zwischenbetrachtung)<br /> ** 『ヒンドゥー教と仏教』(Hinduismus und Buddhismus)<br /> ** 『古代ユダヤ教』(Das antike Judentum)<br /> * 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(Die &#039;Objektivität&#039; sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis)<br /> * 『ロッシャーとクニース』(Roscher und Knies und die logischen Probleme der historischen Nationalökonomie)<br /> * 『アメリカ合衆国における教会とゼクテ』(&quot;Kirchen&quot; und &quot;Sekten&quot; in Nordamerika)<br /> * 『東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態』(Die Verhältnisse der Landarbeiter im ostelbischen Deutschland)<br /> * 『国民国家と経済政策』(Der Nationalstaat und die Volkswirtschaftspolitik)<br /> * 『新秩序ドイツの議会と政府』(Parlament und Regierung im neugeordneten Deutschland)<br /> * 『歴史学の方法』(Kritische Studien auf dem Gebiet der kulturwissenschaftlichen Logik)<br /> * 『古代社会経済史 古代農業事情』(Agrarverhaltnisse im Altertum)<br /> * 『理解社会学のカテゴリー』(Über einige Kategorien der verstehenden Soziologie)<br /> *『遺稿集 経済と社会』(Wirtschaft und Gesellschaft)(※「経済と社会」は遺稿なので、本来あるべき全体構成については、今なお議論されており確定していない。)&lt;br&gt; 以下は、邦訳出版された部分訳での題名の一部。<br /> **『[[社会学の基礎概念]]』<br /> **『経済行為の社会学的基礎範疇』<br /> **『支配の諸類型』<br /> **『経済と社会集団』<br /> **『種族的共同社会関係』<br /> **『宗教社会学』<br /> **『法社会学』<br /> **『権力と支配』<br /> **『[[支配の社会学]]』<br /> **『都市の類型学』<br /> **『国家社会学』<br /> **『音楽社会学』<br /> <br /> == 伝記・書簡集 ==<br /> * マリアンネ・ウェーバー『マックス・ウェーバー』([[大久保和郎]] 訳、みすず書房、新装版1987年) ISBN 4622019493<br /> * マリアンネ・ウェーバー『マックス・ウェーバー青年時代の手紙』([[阿閉吉男]]・佐藤自郎 訳(上・下、新訳版)、文化書房博文社、1995年)ISBN 4830107294、 ISBN 4622019493<br /> * バウムガルテン『マックス・ウェーバー:人と業績』([[生松敬三]] 訳、福村書店、1971年)<br /> * A・ミッツマン『鉄の檻 マックス・ウェーバー 一つの人間劇』([[安藤英治]] 訳、創文社、1975年) ISBN 4423800152<br /> * [[長部日出雄]]『二十世紀を見抜いた男 &lt;small&gt;マックス・ヴェーバー物語&lt;/small&gt;』(新潮社、2000年/新潮選書、2008年) ISBN 4106036088<br /> * 今野元『マックス・ヴェーバー ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(東京大学出版会、2007年)ISBN 9784130362306<br /> <br /> == 入門書 ==<br /> * 青山秀夫『マックス・ウェーバー』(岩波新書、1951年)。度々復刊<br /> * 安藤英治編『ウェーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(有斐閣新書、1977年) ISBN 4641087369 <br /> * [[折原浩]]『デュルケームとウェーバー』(三一書房、1981年)<br /> * 住谷一彦、小林純、山田正範『マックス=ヴェーバー』(清水書院、1987年) ISBN 4389410784<br /> * 徳永恂、厚東洋編『人間ウェーバー ― 人と政治と学問』(有斐閣、1995年) ISBN 4641058334<br /> * [[山之内靖]]『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書、1997年) ISBN 4004305039 <br /> * 安藤英治『マックス・ウェーバー』(講談社学術文庫、2003年) ISBN 4061595873<br /> * [[折原浩]]『ヴェーバー学の未来 「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』(未來社、2005年) ISBN 4624400577<br /> * [[牧野雅彦]]『マックス・ウェーバー入門』([[平凡社新書]]、2006年) ISBN 4582853102<br /> * [[仲正昌樹]]『マックス・ウェーバーを読む』([[講談社現代新書]]、2014年)ISBN 4062882795<br /> <br /> == 関連書籍 ==<br /> * [[タルコット・パーソンズ]](稲上毅・厚東洋輔訳)『社会的行為の構造』(木鐸社、1976年、原著初版1937年)<br /> * [[武藤光朗]]『社会科学におけるプロレタリアと実存 マルクスとウェーバー』(理想社 1950年)<br /> * 金子栄一『マックス・ウェーバー研究―比較研究としての社会学』([[創文社]]、1957年)<br /> * [[カール・レヴィット]]([[柴田治三郎]]ほか訳)『ウェーバーとマルクス』(未來社、1966年)<br /> * [[レイモン・アロン]]([[北川隆吉]]・[[宮島喬]]ほか訳)『社会学的思考の流れ II デュルケム パレート ウェーバー』([[法政大学出版局]]・叢書ウニベルシタス、1984年) ISBN 4588000535<br /> * Hartmut Lehmann, Guenther Roth eds., &#039;&#039;Weber&#039;s Protestant Ethic: origins, evidence, contexts&#039;&#039;(Cambridge University Press、1987).ISBN 0521558298<br /> * R・ベンディクス([[折原浩]]訳)『マックス・ウェーバー――その学問の包括的一肖像』(三一書房(上・下)、1987年-1988年) ISBN 4380872122 (初版は[[中央公論社]]、折原浩訳、一冊本、1966年)<br /> * [[折原浩]]『マックス・ウェーバー基礎研究序説』(未來社、1988年) ISBN 4624400305<br /> * W・J・モムゼン(安世舟・五十嵐一郎・[[田中浩 (政治学者)|田中浩]]訳)『マックス・ヴェーバーとドイツ政治I 1890-1920』(未來社、1993年) ISBN 4624300785<br /> * W・J・モムゼン(安世舟、五十嵐一郎、[[小林純]]、牧野雅彦訳)『マックス・ヴェーバーとドイツ政治II 1890-1920』(未來社、1994年) ISBN 4624300793<br /> * 牧野雅彦『ウェーバーの政治理論』(日本評論社、1993年)ISBN 4535580979<br /> * [[佐野誠]]『ヴェーバーとナチズムの間』([[名古屋大学出版会]]、1993年)ISBN 4815802114<br /> * W・J・モムゼン(中村貞二他訳)『マックス・ヴェーバー――社会・政治・歴史』(未來社、1994年)<br /> * W・J・モムゼン、J・オースターハメル、W・シュベントカー編(鈴木広・米沢和彦・嘉目克彦監訳)『マックス・ヴェーバーとその同時代人群像』([[ミネルヴァ書房]]、1994年) ISBN 4623023915<br /> * F・H・テンブルック([[住谷一彦]]・小林純・山田正範訳)『マックス・ヴェーバーの業績』(未來社、1997年) ISBN 4624011376<br /> * ヴォルフガング・シュルフター,[[折原浩]](鈴木宗徳・山口宏訳)『『経済と社会』再構成論の新展開――ヴェーバー研究の非神話化と『全集』版のゆくえ』(未來社、2000年) ISBN 4624400518<br /> * [[橋本努]]・[[橋本直人]]・[[矢野善郎]]編『マックス・ヴェーバーの新世紀――変容する日本社会と認識の転回』(未來社、2000年) ISBN 462440050X<br /> *フリードリッヒ・ヴィルヘルム・グラーフ編著『ヴェーバー・トレルチ・イェリネック――ハイデルベルクにおけるアングロサクソン研究の伝統』(フリードリッヒ・ヴィルヘルム・グラーフ他、聖学院大学出版会、2001年)ISBN 4915832457<br /> * [[羽入辰郎]]『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房、2002年)<br /> * [[犬飼裕一]]『マックス・ウェーバーにおける歴史科学の展開』(ミネルヴァ書房、2007年)ISBN 978-4623048915<br /> * [[雀部幸隆]]『公共善の政治学――ウェーバー政治思想の原理論的再構成』(未來社、2007年)ISBN 4624301056<br /> * [[佐野誠]]『ヴェーバーとリベラリズム――自由の精神と国家の形』(勁草書房、2007年)ISBN 9784326351404<br /> * [[橋本努]]・矢野善郎編『日本マックス・ウェーバー論争――プロ倫読解の現在』(ナカニシヤ出版、2008年)ISBN 9784779502736<br /> * W.=シュルフター、佐野誠・[[林隆也]]訳『マックス・ヴェーバーの研究戦略――マルクスとパーソンズの間』(風行社、2009年)ISBN 9784862580252<br /> *[[宇都宮京子]] 編集、[[小林純]] 編集、[[中野敏男]] 編集、[[水林彪]] 編集『マックス・ヴェーバー研究の現在: 資本主義・民主主義・福祉国家の変容の中で』(創文社、2016年)ISBN 978-4423800294<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commons|Max Weber}}<br /> * [[新カント派]]<br /> * [[宗教社会学]]<br /> * [[社会学]]<br /> * [[知識社会学]]<br /> * [[ドイツ民主党]]<br /> * [[文化科学]]<br /> * [[プロテスタンティズム]]<br /> * [[法社会学]]<br /> * [[暴力の独占]]<br /> * [[歴史社会学]]<br /> * [[歴史主義]]<br /> <br /> === 関連人物 ===<br /> * [[ゲオルク・イェリネック]]<br /> * [[ハインリヒ・リッケルト]]<br /> * [[ゲオルク・ルカーチ]]<br /> * [[エルンスト・トレルチ]]<br /> * [[フリードリヒ・マイネッケ]]<br /> * [[カール・シュミット]]<br /> * [[フリードリヒ・ナウマン]]<br /> * [[カール・マンハイム]]<br /> * [[大塚久雄]]<br /> * [[内田芳明]]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:うえは まつくす}}<br /> [[Category:ドイツの社会学者]]<br /> [[Category:ドイツの経済学者]]<br /> [[Category:ドイツの法学者]]<br /> [[Category:法社会学者]]<br /> [[Category:宗教学者]]<br /> [[Category:歴史哲学者]]<br /> [[Category:社会科学の哲学者]]<br /> [[Category:19世紀の社会科学者]]<br /> [[Category:19世紀の経済学者]]<br /> [[Category:歴史学派の人物]]<br /> [[Category:ルプレヒト・カール大学ハイデルベルクの教員]]<br /> [[Category:アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクの教員]]<br /> [[Category:マックス・ヴェーバーとその著作|*]]<br /> [[Category:スペインかぜ死亡者]]<br /> [[Category:エアフルト出身の人物]]<br /> [[Category:1864年生]]<br /> [[Category:1920年没]]</div> 240B:11:4A00:400:54DE:A88F:4BA5:17FA 頼山陽 2018-07-18T09:00:03Z <p>240B:11:4A00:400:54DE:A88F:4BA5:17FA: /* 著作 */</p> <hr /> <div>[[Image:Portrait of Rai Sanyo.jpg|thumb|250px|頼山陽像([[帆足杏雨]]筆 [[広瀬旭荘]]賛 [[京都大学総合博物館]]蔵]]<br /> [[画像:頼山陽3274.JPG|thumb|250px|right|書斎山紫水明處・京都市上京区]]<br /> [[画像:頼山陽署名「頼襄」.jpg|thumb|120px|right|頼山陽の署名「頼襄」]]<br /> &#039;&#039;&#039;頼 山陽&#039;&#039;&#039;(らい さんよう、[[安永 |安永]]9年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]([[1781年]][[1月21日]]) - [[天保]]3年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]([[1832年]][[10月16日]]))は、[[大阪|大坂]]生まれの[[江戸時代]]後期の[[歴史家]]、[[思想家]]、[[漢詩人]]、[[文人]]。幼名は&#039;&#039;&#039;久太郎&#039;&#039;&#039;(ひさたろう)、名は&#039;&#039;&#039;襄&#039;&#039;&#039;(のぼる)、字は&#039;&#039;&#039;子成&#039;&#039;&#039;。&#039;&#039;&#039;山陽&#039;&#039;&#039;、三十六峯外史と号した。主著に『[[日本外史]]』があり、これは[[幕末]]の[[尊皇攘夷運動]]に影響を与え、[[日本史]]上のベストセラーとなった。贈[[正四位]]&lt;ref&gt;[{{NDLDC|2945805/1}} 「叙任及辞令」『官報』1891年12月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 父の[[頼春水]]は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学し[[尾藤二洲]]や[[古賀精里]]らとともに[[朱子学]]の研究を進め、江戸堀北(現・[[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]江戸堀の[[金光教]]玉水教会付近)に私塾「青山社」を開いた。青山社の近隣には篠崎三島、[[篠崎小竹]]、後藤松陰、並河寒泉ら多くの文人や学者が居住していた。山陽はこの頃の安永9年(1780年)、同地で誕生。母は飯岡義斎の長女で歌人の[[頼梅シ|頼梅颸]]、その妹は尾藤二洲に嫁いでいる。<br /> <br /> [[天明]]元年([[1781年]])12月、父が[[広島藩]]の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町(現・[[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[袋町 (広島市)|袋町]])で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また[[歴史]]に深い興味を示した。[[天明]]8年([[1788年]])、広島藩学問所(現[[修道中学校・修道高等学校]])に入学&lt;ref&gt;世界大百科事典第2版 「頼山陽」の項&lt;/ref&gt;。その後春水が[[江戸]]在勤となったため学問所教官を務めていた叔父の[[頼杏坪]]に学び、[[寛政]]9年([[1797年]])には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年([[1800年]])9月、突如脱藩を企て上洛するも、追跡してきた杏坪によって京都で発見され、広島へ連れ戻され[[廃嫡]]のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。なお、『日本外史』の初稿が完成したのもこのときといわれる。謹慎を解かれたのち、[[文化 (元号)|文化]]2年([[1809年]])に広島藩学問所の助教に就任&lt;ref&gt;http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/raisanyoziseki.pdf&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;http://soutairoku.com/07_douzou/39_ra/rai_sannyou.html&lt;/ref&gt;。[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])に父の友人であった儒学者の[[菅茶山]]より招聘を受け[[廉塾]]の都講(塾頭)に就任した。<br /> <br /> ところが、その境遇にも満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年([[1811年]])に京都へ出奔し、洛中に居を構え開塾する。文化13年([[1816年]])、父・春水が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年([[1818年]])には九州旅行へ出向き、[[広瀬淡窓]]らの知遇を得ている。[[文政]]5年([[1822年]])上京区[[三本木 (京都市)|三本木]]に[[東山]]を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付けた。この居宅にて営々と著述を続け、文政9年([[1826年]])には代表作となる『日本外史』が完成し、文政10年([[1827年]])には[[江戸幕府]][[老中]]・[[松平定信]]に献上された。文政11年([[1828年]])には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」とした。<br /> <br /> 山陽の周辺には、京坂の文人が集まり、一種の[[サロン]]を形成した。その主要メンバーは、父・春水とも関係があった[[木村蒹葭堂]]と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者[[篠崎三島]]の養子・[[篠崎小竹|小竹]]、京都の蘭医[[小石元俊]]の子・[[小石元瑞|元瑞]]、大阪の[[南画]]家[[岡田米山人]]の子・[[岡田半江|半江]]、京都の[[浦上玉堂]]の子・[[浦上春琴|春琴]]、岡山の[[武元登々庵]]が挙げられる。さらに僧[[大含|雲華]]、仙台出身で長崎帰りの文人画家・[[菅井梅関]]・尾張出身の南画家・[[中林竹洞]]、やや年長の先輩格として陶工・[[青木木米]]、幕末の三筆として名高い[[貫名菘翁]]、そして遠く九州から文人画家・[[田能村竹田]]も加わり、彼らは盛んに詩文書画を制作した。<br /> <br /> また、その後も文筆業にたずさわり『[[日本政記]]』『[[通議]]』などの完成を急いだが、[[天保]]年間に入った51歳ごろから健康を害し[[喀血]]を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年(1832年)に死去。享年53。[[山田風太郎]]著『人間臨終図鑑』によれば山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであったという。また、遺稿とされる「南北朝正閏論」(『日本政記』所収)の自序にはこれを書く決意をしたのは9月12日の夜であったことを記している。京都[[円山公園 (京都府)|円山公園]]・[[長楽寺 (京都市)|長楽寺]]に葬られた。<br /> <br /> 最初の妻との子である長男が[[頼聿庵]]、京都で生まれた2人の子である次男が[[頼支峰]]と三男が[[頼三樹三郎]]。子孫の1人に中国文学者の[[頼惟勤]]がいる。<br /> <br /> == 創作活動について ==<br /> [[Image:Wintry Trees by Rai San&#039;yo.jpg|thumb|200px|「寒岩枯木図」 頼山陽筆 [[静嘉堂文庫]]蔵 1820年]]<br /> [[画像:中林竹洞画・頼山陽賛「山水図」.jpg|thumb|200px|[[中林竹洞]]画・頼山陽賛「山水図」1825年]]<br /> [[司馬遷]]の『[[史記]]』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。<br /> <br /> 『日本外史』は[[武家]]の時代史であるが、簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として[[軍記物語]]なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。言い換えれば、[[歴史小説|史伝小説]]の源流の一つとも言い得る。ただし簡明であるがゆえに巷間で広く読まれ、幕末・明治維新から、昭和戦前期まで、広く影響を与えた。<br /> <br /> なお山陽は[[詩吟]]・[[剣舞]]でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる[[川中島の戦い]]を描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名。同作品は死後刊行された『山陽詩鈔』(全8巻)に収められている。ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『[[日本楽府]]』(全1巻)がある。同書の第一は下記引用の詩に始まるが、易姓革命による秦、漢に代表される中華王朝の傾きに対比して、本朝の皇統の一貫に基づく国体の精華を強調している。<br /> {{Quotation|<br /> 日の出ずる処、日の没する処。&lt;br /&gt;<br /> 両頭の天子、皆天署扶桑鶏号いて、&lt;br /&gt;<br /> 朝已に盈つるも長安洛陽、天未だ曙けず。&lt;br /&gt;<br /> 贏は顚れ劉は蹶きて日没を趁い、&lt;br /&gt;<br /> 東海の一輪、旧に依りて出ず。<br /> }}<br /> <br /> == 著作 ==<br /> *『[[日本外史]]』 頼成一・[[頼惟勤]]訳注、[[岩波文庫]](上中下)、1977-81年-[[文語体]]での訳本。戦前版を子息が改訳<br /> *『[[日本の名著]]28 頼山陽』 頼惟勤責任編集、[[中央公論新社|中央公論社]]、1972年、新版・中公バックス、1984年<br /> *:「日本外史」の現代語訳(抜粋版)。新版の付録解説は中村真一郎。<br /> *『[[日本思想大系]]49 日本政記』 [[植手通有]]校註、[[岩波書店]]、1977年<br /> *『[[新日本古典文学大系]]66 頼山陽・[[菅茶山]]』 頼惟勤・直井文子校注、岩波書店、1990年 <br /> *『江戸詩人選集8 頼山陽 [[梁川星巌]]』 [[入谷仙介]]校注、岩波書店、1990年、復刊2001年<br /> *『頼山陽詩選』 [[揖斐高]]訳注・解説、岩波文庫、2012年<br /> **旧版『頼山陽詩抄』 頼成一・伊藤吉三訳註、岩波文庫-初版1944年、復刊1990年・1997年<br /> *『[[文人画]]粋編18 頼山陽』 松下英麿編・解説、中央公論社、1976年-大著、評伝解説は中村真一郎<br /> *『頼山陽 書画題跋評釈』 竹谷長二郎編、[[明治書院]] 1983年-大著<br /> <br /> == 伝記文献(近年) ==<br /> *『頼山陽とその時代』 [[中村真一郎]] 中央公論社、1971年。ほかに『昭和文学全集 22』(小学館)に抜粋収録。<br /> ** [[中公文庫]](上中下)、1976-77年、解説[[篠田一士]]<br /> ** [[ちくま学芸文庫]](上下)、2017年、解説揖斐高<br /> *『菅茶山と頼山陽』 [[富士川英郎]] [[平凡社東洋文庫]]、1971年。ワイド版2006年<br /> *『頼山陽 歴史への帰還者』 [[野口武彦]]、淡交社「日本の旅人」、1974年<br /> *『頼山陽「[[日本楽府]]」を読む (全3巻)』 [[渡部昇一]]、(各・新版、PHP研究所 2006年/PHP文庫 2013-15年)<br /> *『山紫水明 頼山陽の詩郷』 池田明子、渓水社、2010年-詩集解説<br /> *『頼山陽』 [[見延典子]]、[[徳間書店]](上下)、2007年、徳間文庫(上中下)、2011年-歴史小説<br /> *『すっぽらぽんのぽん』 見延典子、南々社、2000年-頼山陽の母・梅による「梅颸日記」の評伝<br /> *『頼山陽 雲か山か』 [[梶山季之]] [[光文社文庫]] 1987年。[[集英社]]、1974年-[[歴史小説]]<br /> *『明治維新の暁鐘 頼山陽 その人と志業』 安藤英男 [[東洋経済新報社]] 1972年<br /> *『考証・頼山陽』 安藤英男 名著刊行会 1982年<br /> *『頼山陽 人と思想』 [[安藤英男]] 白川書院 1975年 <br /> *『頼山陽選集』(全7巻) 安藤英男訳 近藤出版社  1982年-頼山陽の自筆原稿図版あり。 <br /> ** 『頼山陽伝』<br /> ** 『頼山陽詩集』<br /> ** 『頼山陽文集』<br /> ** 『頼山陽 日本政記』<br /> ** 『頼山陽 通議』<br /> ** 『頼山陽 日本外史』<br /> ** 『頼山陽品行論』<br /> *『頼山陽詩集』 安藤英男訳 白川書院 1977年-以下の3冊は旧版。<br /> *『頼山陽 通義』 安藤英男訳 白川書院 1976年 <br /> *『頼山陽 日本政記』 安藤英男訳 白川書院 1976年<br /> <br /> == 系譜 ==<br /> 頼山陽の先祖は、[[備後国]][[頼兼城]]主であった[[岡崎頼兼]]であったとされ、[[毛利氏]]による[[神辺城]]攻撃に参加しなかったために滅ぼされたとされる。頼兼城跡には「頼山陽先生遠祖頼兼城址」の石碑が建っている。<br /> &lt;pre&gt;<br /> 総兵衛正茂―彌七郎道喜―彌右衛門良皓―又十郎惟清―彌太郎惟完―久太郎―<br />                             春水  山陽<br /> &lt;/pre&gt;<br /> <br /> == その他 ==<br /> *[[眉山 (岐阜市)|眉山]]は山陽が[[美濃国|美濃]]の門人を訪ね、帰路西粟野の庄屋河野家に立ち寄った時に眉を引いたように優美な山容に感じて名付けたと言われている。<br /> *酒をこよなく愛した人物としても知られ、[[小西酒造|白雪]]・[[剣菱酒造|剣菱]]・[[男山 (酒造メーカー)|男山]]などの銘酒を詩歌や書簡の中で幾度となく称えている。<br /> *文人達の集まる琴会([[古琴|七絃琴]]を愉しむ会)にたびたび足を運んだが、自身は[[琵琶#平家琵琶|平曲]]を嗜んだ。<br /> [[File:頼山陽墓.JPG|thumb|頼山陽の墓・京都市東山区長楽寺(2012年3月28日撮影)]]<br /> *[[大塩平八郎]]に大きな影響を与えたといわれる。<br /> <br /> == 関連施設 ==<br /> * [[頼山陽史跡資料館]] - 広島市中区袋町の旧居。山陽が脱藩により、幽閉された家。国の史跡に指定されている「頼山陽居室」がある。<br /> * 山紫水明處 - 京都市[[上京区]][[三本木通|東三本木]]の書斎。<br /> * 頼惟清旧宅 - 広島県[[竹原市]]にある祖父・頼惟清が紺屋を営んでいた家。父・春水が幼少期に暮らしており、山陽も何度か訪れ詩を残している。<br /> * [[山陽文徳殿]] - 没後100年祭を契機に建設。広島市南区比治山。<br /> * 山陽生誕200周年を記念し1980年に、初の銅像が広島県竹原市に建立された。<br /> * 大阪市の玉水記念館([[金光教]]玉水教会内)に、頼山陽生誕地の碑がある。<br /> * [[雨宮の渡し]] - [[川中島の戦い]]にまつわる史跡として、頼山陽の漢詩碑が建立された。[[長野県]][[千曲市]]雨宮。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}} <br /> {{reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> *[[青木木米]]<br /> *[[修道中学校・修道高等学校の人物一覧]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Rai San&#039;yo}}<br /> {{Wikiquote}}<br /> * [http://www.geocities.jp/darabojp/family-mokuji.html 家系の整理・頼家]<br /> * [http://www.ccv.ne.jp/home/raisanyo/index.htm 頼山陽史跡資料館] <br /> * [http://www.kyoto-ga.jp/kyononiwa/2009/09/teien002.html 山紫水明処(頼山陽書斎)] 財団法人京都市都市緑化協会<br /> <br /> {{Japanese-history-stub}}<br /> {{Writer-stub}}<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:らい さんよう}}<br /> [[Category:頼山陽|*]]<br /> [[Category:江戸時代の儒学者]]<br /> [[Category:江戸時代の歴史家]]<br /> [[Category:19世紀の学者]]<br /> [[Category:江戸時代の思想家]]<br /> [[Category:日本の漢詩人]]<br /> [[Category:江戸時代の文人]]<br /> [[Category:江戸時代の画家]]<br /> [[Category:19世紀の美術家]]<br /> [[Category:廃嫡された人物]]<br /> [[Category:広島市の歴史]]<br /> [[Category:修道中学校・修道高等学校出身の人物]]<br /> [[Category:摂津国の人物]]<br /> [[Category:広島藩の人物]]<br /> [[Category:頼氏|さんよう]]<br /> [[Category:1781年生]]<br /> [[Category:1832年没]]</div> 240B:11:4A00:400:54DE:A88F:4BA5:17FA 極東国際軍事裁判 2018-07-18T06:42:45Z <p>240B:11:4A00:400:54DE:A88F:4BA5:17FA: /* 関連作品 */</p> <hr /> <div>[[ファイル:International Military Tribunal Ichigaya Court.jpg|thumb|300px|裁判所が置かれた[[市谷|市ヶ谷]]の旧[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]講堂]]<br /> [[ファイル:IMTFE court chamber.jpg|thumb|300px|公判中の法廷内]]<br /> &#039;&#039;&#039;極東国際軍事裁判&#039;&#039;&#039;(きょくとうこくさいぐんじさいばん、{{lang-en|The International Military Tribunal for the Far East}})とは、[[第二次世界大戦]]で[[日本の降伏|日本が降伏]]した後の[[1946年]]([[昭和]]21年)[[5月3日]]から[[1948年]]([[昭和]]23年)[[11月12日]]にかけて行われた、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]が「[[戦争犯罪人]]」として指定した日本の指導者などを裁いた[[一審制]]の[[軍事裁判]]のことである。&#039;&#039;&#039;東京裁判&#039;&#039;&#039;(とうきょうさいばん)とも称される。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> この裁判は連合国によって[[東京]]に設置された極東国際軍事法廷により、[[東条英機]]元首相を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した&lt;ref name=&quot;近代デジタルライブラリー検事側総合 起訴状&quot;&gt;{{Cite book|和書|id={{近代デジタルライブラリー|1079047}}|title=極東国際軍事裁判公判記録. 第1 検事側総合篇}}、極東高裁裁判起訴状。24項&lt;/ref&gt;「侵略戦争」を起こす「[[共同謀議]]」を「[[1928年]](昭和3年)1月1日から[[1945年]](昭和20年)9月2日」にかけて&lt;ref name=&quot;近代デジタルライブラリー検事側総合 起訴状&quot;/&gt; 行ったとして、[[平和に対する罪]](A級犯罪)、[[人道に対する罪]](C級犯罪)および通常の[[戦争犯罪]](B級犯罪)の容疑で裁いたものである。「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告人は7名、人道に対する罪で起訴された被告人はいない。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が[[死刑]]となった。日本政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した[[日本国との平和条約]]第11条によりこのthe judgments&lt;ref&gt;日本外務省の訳 [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/09.html] では「裁判」&lt;/ref&gt; を受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している&lt;ref name=&quot;外務省 見解&quot;&gt;[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/09.html 問7.極東国際軍事裁判に対して、日本政府はどのように考えていますか。]&lt;/ref&gt;。詳細は[[日本国との平和条約第11条の解釈]]参照。<br /> <br /> == 戦犯裁判までの経緯 ==<br /> {{see also|ニュルンベルク裁判#前史|国際軍事裁判所憲章}}<br /> === アメリカの対日政策 ===<br /> ==== 裁判方式 ====<br /> [[1944年]]8月から終戦以降の政策方針と[[敗戦国]]の[[戦争犯罪人]]の取り扱いについて議論された。[[ヘンリー・モーゲンソー]]財務長官は[[ナチス]]指導者の即決処刑を主張し、他方、[[ヘンリー・スティムソン]]陸軍長官は「文明的な裁判」による懲罰を主張した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=45}}。アメリカの新聞はモーゲンソーの即決処刑論を猛攻撃し、ルーズベルト大統領も裁判方式を支持することとなった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=45}}。スティムソンは裁判は「報復」の対極にあるとみなしていた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=46}}。<br /> <br /> ==== 国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会 ====<br /> アメリカ対日政策を検討する機関として1944年12月に国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が設立された&lt;ref name=&quot;kenseiSFE&quot;&gt;国立国会図書館憲政資料室「[https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/SWNCC-SANACC.php Records of the State-War-Navy Coordinating Committee, 1944-1949国務・陸軍・海軍三省(国務・陸軍・海軍・空軍四省)調整委員会文書(当館収集分)]」&lt;/ref&gt;。さらにその下位組織[[極東小委員会]](Subcommittee for the Far East,SFE)が1945年1月に設立され、日本と朝鮮の占領政策案が作成された&lt;ref name=kenseiSFE/&gt;{{sfn|日暮吉延|2008|pp=54}}。戦犯裁判方式にするか、指導者の処刑方式かの検討もなされ、1945年8月9日報告書(SFE106)では対独政策を踏襲し、「共同謀議」の起訴を満州事変までさかのぼること、日本にはドイツのような組織的迫害の行為はなかったので[[人道に対する罪]]を問責しても無駄であると報告された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=54}}。8月13日の会議では日本に対しても平和に対する罪、人道に対する罪の責任者を含めることが合意され、8月24日のSWNCC57/1で占領軍が直接逮捕をし、容疑者が自殺で殉教者になることを防ぐ、連合国間の対等性を保障し各国が首席判事を出すこと、判決の権限はマッカーサーにあるとされた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=55}}。<br /> <br /> ==== 連合国戦争犯罪委員会による対日勧告 ====<br /> また、1943年10月20日に17カ国が共同で設立した[[連合国戦争犯罪委員会]](UNWCC)は戦争犯罪の証拠調査を担当する機関であったが、終戦期には政策提言などを行うようになっており、オーストラリア代表ライト卿が対日政策勧告を提言し、1945年8月8日には[[極東太平洋特別委員会]]を設置し、委員長には[[中華民国]]の駐英大使[[顧維鈞]]が就任し、8月29日に対日勧告が採択された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=56}}。<br /> <br /> ==== SWNCC57/3指令 ====<br /> [[アメリカ統合参謀本部]]がJCS1512、またアメリカ合衆国内の日本占領問題を討議する[[国務・陸軍・海軍調整委員会]]が[[1945年]][[10月2日]]にSWNCC57/3指令をマッカーサーに対して発し、日本における戦犯裁判所の設置準備が開始された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=60}}。<br /> <br /> しかし、[[ダグラス・マッカーサー]]はこうした「国際裁判」には否定的で、「57/3指令を公表すれば、日本政府がダメージを受けて直接軍政をせざるをえない、東条英機を裁く権限を自分に与えるよう1945年10月7日の陸軍宛電報でのべ、アメリカ単独法廷を主張し、ハーグ条約で対米戦争を裁くことによって「戦争の犯罪化」に反対した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=62}}。GHQ参謀第二部部長ウィロビーによれば、マッカーサーが東京裁判に反対したのは[[南北戦争]]で南部に怨恨が根深く残ったことを知っていたからとのべている{{sfn|日暮吉延|2008|pp=62}}。<br /> <br /> スティムソン、マクロイ陸軍次官補らはマッカーサーの提言を採用せず、57/3指令の国際裁判方針を固守した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=63}}。<br /> <br /> === イギリス ===<br /> イギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともとイギリスは、1944年9月以来、ドイツ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。イギリスは、裁判方式は長期化するし、またドイツに宣伝の機会を与えるし、伝統的な戦犯裁判は各国で行えばよいという考えだった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=64}}。結局英国は、1945年5月に、ドイツ指導者の国際裁判に同意した。ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。のち、イギリス連邦政府自治省および[[イギリス連邦]]自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、イギリスは1945年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=68}}。<br /> <br /> ===中華民国===<br /> [[中華民国]]国民政府では、[[カイロ会談]]直前の1943年10月、[[孫文]]の長男[[孫科]]が重慶の英字紙[[ナショナル・ヘラルド]]で天皇および天皇崇拝を一掃せよと論じた&lt;ref&gt;重慶ナショナル・ヘラルド「ミカドは去るべし」1943年10月11, 12,13日&lt;/ref&gt;&lt;ref name=siro/&gt;。その後重慶に設置された[[連合国戦争犯罪委員会]]極東小委員会はアメリカ、イギリス、中華民国、オランダで構成され、日本人戦犯リストを選定した&lt;ref name=siro&gt;城山英巳「[http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/44230/1/SocioScience_20_Shiroyama.pdf 国民政府「対日戦犯リスト」と蒋介石の意向-天皇の訴追回避と米国の影響に関する研究]」ソシオサイエンス Vol. 20 2014年3月早稲田大学大学院社会科学研究科&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 1945年6月に作成された「侵戦以来敵国主要罪犯調査票」では、「[[昭和天皇|日皇裕仁]]」をはじめとする「陸軍罪犯」173人、「海軍罪犯」13人、「政治罪犯」41人、「特殊罪犯」20人が選定された&lt;ref&gt;「侵戦以来敵国主要罪犯調査票」(機密、軍令部第2庁第1処)「日本軍事犯案巻」『外交部档案』 0200101170004,台北,国史館。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=siro/&gt;。7月17日、国民参政会は、天皇を戦争犯罪人として指名し、天皇制度廃止を主張したが、国民政府は米国の方針と合わせて、訴追しないとした&lt;ref&gt;「敵人罪行調査」外交部档案0200101170010,台北,国史館。&lt;/ref&gt;&lt;ref name=siro/&gt;。<br /> <br /> 1945年9月の「日本主要戦争罪犯名単」では178人が選定され&lt;ref&gt;「日本主要戦犯名単」『外交部档案』 0200101170003,台北,国史館。&lt;/ref&gt;、その後「日本侵華主要罪犯」として[[本庄繁]]、[[土肥原賢二]]、[[谷寿夫]](第6師団長)、[[橋本欣五郎]]、[[板垣征四郎]]、[[畑俊六]](中国派遣軍総司令官)、[[東条英機]]、[[和知鷹二]](太原特務機関長)、[[影佐禎昭]](中国派遣軍総司令部)、[[酒井隆]](第23軍司令官)、[[磯谷廉介]](香港総督)、[[喜多誠一]](第1方面軍司令官)の12人、さらに1946年1月に「第2批日本主要戦犯名単」として、[[南次郎]]、[[荒木貞夫]]、[[平沼騏一郎]],[[阿部信行]]、[[米内光政]],[[小磯国昭]],[[嶋田繁太郎]],[[広田弘毅]],[[松岡洋右]],[[東郷茂徳]],[[梅津美治郎]],[[松井石根]],[[寺内寿一]],[[牟田口廉也]],[[河辺正三]],[[谷正之]],[[山田乙三]],[[有田 八郎]],[[青木一男]],[[末次信正]],[[西尾寿造]]ら21人、合計33人の戦犯名簿をGHQに提出した&lt;ref name=siro/&gt;。またBC級戦犯は83人が選定され、極東小委員会は1947年3月までに日本軍人戦犯合計3147人を選定し、このうち中国政府が指名したものは2523人にのぼった&lt;ref name=siro/&gt;。<br /> <br /> 1945年12月23日には中央憲兵司令部天津情報組駐東北情報員[[李箕山]]の「日本再起防止 共同管制政策」では天皇に退位を求め、万世一系の皇統思想をひっくり返すと主張した&lt;ref&gt;「日本再起防止 共同管制政策」「戦後対日政策」档案(1944年3月17日~ 47年9 月11日)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=siro/&gt;。また1946年から1948年の文書「日本天皇世系問題」では天皇は日本の侵略的軍国主義の精神的基礎であるため排除を求めた&lt;ref&gt;「天皇制度存廃問題」『日本天皇世系問題』1946年10月25日~ 48年10月29日)収蔵&lt;/ref&gt;&lt;ref name=siro/&gt;。<br /> <br /> === 国際検察局の設置 ===<br /> [[1945年]]([[昭和]]20年)[[12月6日]]、アメリカ代表検事[[ジョセフ・キーナン]]が来日する{{sfn|日暮吉延|2008|pp=86}}。翌7日、マッカーサーは事後法批判の回避、早期開廷、東条内閣閣僚の起訴をキーナンに命じた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=86}}。翌[[1945年]]([[昭和]]20年)[[12月8日]]、GHQの一局として[[国際検察局]](IPS)が設置された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=86}}。<br /> <br /> === 国際軍事裁判所憲章と特別宣言 ===<br /> {{See|国際軍事裁判所憲章}}<br /> [[1946年]]([[昭和]]21年)[[1月19日]]、ニュルンベルク裁判の根拠となった[[国際軍事裁判所憲章]]を参照して[[極東国際軍事裁判所条例]](極東国際軍事裁判所憲章)が定められた&lt;ref name=&quot;外務省&quot;&gt;[http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/page22_002286.html 歴史問題Q&amp;A 関連資料 極東国際軍事裁判(「東京裁判」)について]&lt;/ref&gt;(1946年[[4月26日]]一部改正)。<br /> <br /> 同[[1946年]]([[昭和]]21年)[[1月19日]]、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言を発した&lt;ref name=&quot;外務省&quot;/&gt;。この宣言は、[[ポツダム宣言]]および降伏文書、1945年12月26日の{{仮リンク|モスクワ会議 (1945年)|en|Moscow Conference (1945)&lt;!-- [[:ja:モスクワ三国外相会議]] とリンク --&gt;|label=モスクワ会議|FIXME=1}}によってマッカーサーに対してアメリカ・イギリス・ソ連、そして中華民国から付与された、日本政府が降伏条件を実施するために連合国軍最高司令官が一切の命令を行うという権限に基づく&lt;ref&gt;{{Cite book|和書|id={{近代デジタルライブラリー|1079047}}|title=極東国際軍事裁判公判記録. 第1 検事側総合篇}}、極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === フランス ===<br /> アメリカ国務省は1945年末にフランス政府に対し判事と検察官を指名するよう要請したが、フランスが悠長であったため翌1946年1月22日に催促した&lt;ref name=&quot;ooka&quot;&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書2012.p122-4&lt;/ref&gt;。フランスははじめインドシナ高等弁務官のダルジャンリューの意見もあり、パリ大学のジャン・エスカラを選んだ&lt;ref name=ooka/&gt;。エスカラは1920年代に蒋介石中華民国の法律顧問をつとめたこともあったが、要請を断り、他の学者を紹介するにとどめた&lt;ref name=ooka/&gt;。一方、第二機甲師団陸軍准将ポール・ジロー・ド・ラングラードらが政府に対して派遣する法律家は植民地での経験があるものがよいと提言し、マダガスカルや西アフリカの控訴院判事を歴任したアンリ・アンビュルジュが指名された&lt;ref name=ooka/&gt;。しかしアンビュルジュも出発直前になって固辞し、アンリ・ベルナールが指名された&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書2012.p128&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 日本の裁判対策 ===<br /> 終戦後、日本では自主裁判も構想されたが、[[美山要蔵]]の日記にもあるように残虐行為の実行者のみが裁判の対象となってしまい、戦犯裁判は戦勝国による「勝者の裁き」であるとの覚悟があったとされる{{sfn|日暮吉延|2008|pp=148}}。<br /> <br /> [[1945年]][[10月3日]]、[[東久邇宮内閣]]は「戦争責任に関する応答要領(案)」を作成し{{sfn|日暮吉延|2008|pp=149}}、その後[[11月5日]]終戦連絡幹事会は「戦争責任に関する応答要領」を作成し、天皇を追及から守ること、国家弁護と個人弁護を同時に追求すると書かれた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=150}}。<br /> <br /> 外務省外局[[終戦連絡中央事務局]]主任の[[中村豊一]]は[[1945年]][[11月20日]]、戦犯裁判対策を提言し、弁護団、資料提供、臨時戦争犯罪人関係調査委員会の設置、戦争犯罪人審理対策委員会を提言したが、外務省は政府指導になるという理由で却下した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=148}}。<br /> <br /> その後、[[吉田茂]]が12月に法務審議室を設置した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=151}}。1946年2月には[[内外法政研究会]]が発足し、[[高柳賢三]]、[[田岡良一]]、[[石橋湛山]]らが戦争犯罪人の法的根拠や開戦責任などについての研究報告をおこなった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=154}}。<br /> <br /> == 裁判 ==<br /> === 国際検察局から執行委員会へ ===<br /> [[1946年]]([[昭和]]21年)[[2月2日]]、イギリス代表検事が来日する{{sfn|日暮吉延|2008|pp=95}}。[[2月13日]]に [[ジョセフ・キーナン]]アメリカ合衆国代表検事がアメリカ以外の検事は参与であるとの通達を出すと、イギリス、英連邦検事はこれに反発し、3月2日に各国検事をメンバーとした執行委員会が設立される{{sfn|日暮吉延|2008|pp=96-97}}。<br /> <br /> ;執行委員会一覧<br /> * [[ジョセフ・キーナン]](アメリカ合衆国派遣) - 首席検察官<br /> * [[アーサー・S・コミンズ・カー]](グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣) - 次席検察官<br /> * S・A・ゴルンスキー(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)<br /> * アラン・ジェームス・マンスフィールド(オーストラリア連邦派遣)<br /> * [[ロナルド・ヘンリー・クイリアム]](ニュージーランド派遣)- 裁判の進め方や未訴追戦犯の拘留が長い事に抗議し、1947年末に帰国している{{sfn|林博文|2013|pp=57-58}}。<br /> * ヘンリー・グラタン・ノーラン(カナダ派遣)<br /> * [[向哲濬]](中華民国派遣)<br /> * ロベル・L・オネト(フランス共和国派遣)<br /> * W・G・F・ボルゲルホフ・マルデル(オランダ王国派遣)<br /> * ゴビンダ・メノン(インド派遣)<br /> * ペドロ・ロペス(アメリカ領フィリピン派遣)<br /> <br /> === 被告人の選定 ===<br /> [[1946年]]1月、被告の選定にあたってイギリスはニュルンベルク裁判と同様に知名度を基準に10人を指名した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=100}}。執行委員会の4月4日会議では29名が選ばれるが、4月8日には[[石原莞爾]]、[[真崎甚三郎]]、[[田村浩]]が除外された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=104-106}}。4月13日にはソ連検事が来日したが、ソ連側は天皇訴追を求めなかった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=99}}。そのかわり4月17日、ソ連は[[鮎川義介]]、[[重光葵]]、[[梅津美治郎]]、[[富永恭次]]、[[藤原銀次郎]]の起訴を提案し、そのうち重光と梅津が追加され、被告28名が確定した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=108}}。<br /> <br /> ;被告人一覧<br /> {{main|A級戦犯#極東国際軍事裁判に起訴された被告人}}<br /> &lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em&quot;&gt;<br /> * [[荒木貞夫]]<br /> * [[板垣征四郎]]<br /> * [[梅津美治郎]]<br /> * [[大川周明]]<br /> * [[大島浩]]<br /> * [[岡敬純]]<br /> * [[賀屋興宣]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em&quot;&gt;<br /> * [[木戸幸一]]<br /> * [[木村兵太郎]]<br /> * [[小磯國昭]]<br /> * [[佐藤賢了]]<br /> * [[重光葵]]<br /> * [[嶋田繁太郎]]<br /> * [[白鳥敏夫]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em&quot;&gt;<br /> * [[鈴木貞一]]<br /> * [[東郷茂徳]]<br /> * [[東條英機]]<br /> * [[土肥原賢二]]<br /> * [[永野修身]]<br /> * [[橋本欣五郎]]<br /> * [[畑俊六]]<br /> &lt;/div&gt;&lt;div style=&quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em&quot;&gt;<br /> * [[平沼騏一郎]]<br /> * [[広田弘毅]]<br /> * [[星野直樹]]<br /> * [[松井石根]]<br /> * [[松岡洋右]]<br /> * [[南次郎]]<br /> * [[武藤章]]<br /> &lt;/div&gt;{{clear|left}}<br /> <br /> ===起訴状の作成過程===<br /> [[1946年]][[4月5日]]の執行委員会でイギリスの[[アーサー・S・コミンズ・カー]]検事は起訴状案を発表、そのなかで「平和に対する罪」の[[共同謀議]]を、1931年〜1945年の「全般的共同謀議」と4つの時期におよぶ個別的共同謀議(満州事変、日中戦争、三国同盟、全連合国に対する戦争)の5つに分割した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=111}}。また平和に対する罪では死刑を求刑できないので、通例の戦争犯罪である公戦法違反で裁くべきであると主張した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=112}}。<br /> <br /> ==== 訴因「殺人」と「人道に対する罪」 ====<br /> 極東国際軍事裁判独自の[[訴因]]に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである{{sfn|日暮吉延|2008|pp=113}}。これによって「[[人道に対する罪]]」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる{{sfn|日暮吉延|2008|pp=113}}。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる{{sfn|日暮吉延|2008|pp=113}}。このような起訴方針についてオランダ、中華民国、フィリピンは「アングロサクソン色が強すぎる」として批判し、中国側検事の[[向哲濬]](浚)は、[[南京事件]]の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での日本軍による行為を追加させた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=113}}。<br /> <br /> [[ニュルンベルク裁判]]の基本法である[[国際軍事裁判所憲章]]で初めて規定された「[[人道に対する罪]]」が[[南京事件]]について適用されたと誤解されていることもあるが、[[南京事件]]について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=26,118}}。[[南京事件]]は訴因のうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=116}}。<br /> {{Main|人道に対する罪}}<br /> <br /> ==== 昭和天皇の訴追問題 ====<br /> オーストラリアなど連合国の中には[[昭和天皇]]の訴追に対して積極的な国もあった{{sfn|林博文|2013|pp=56}}。[[白豪主義]]を[[国是]]としていたオーストラリアは、[[人種差別]]感情に基づく対日恐怖および対日嫌悪の感情が強い上に、差別していた対象の日本軍から[[日本のオーストラリア空襲|繰り返し本土への攻撃]]を受けたこともあり、日本への懲罰に最も熱心だった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=65}}。また太平洋への覇権・利権獲得のためには、日本を徹底的に無力化することで自国の安全を確保しようとしていた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=66}}。エヴァット外相は1945年9月10日、「天皇を含めて日本人戦犯全員を撲滅することがオーストラリアの責務」と述べている。1945年8月14日に[[連合国戦争犯罪委員会]](UNWCC)で昭和天皇を戦犯に加えるかどうかが協議されたが、アメリカ政府は戦犯に加えるべきではないという意見を伝達した{{sfn|林博史|2004|pp=65}}。1946年1月、オーストラリア代表は昭和天皇を含めた46人の戦犯リストを提出したが、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ニュージーランドはこのリストを決定するための証拠は委員会の所在地ロンドンに無いとして反対し、このリストは[[対日理事会]]と[[国際検察局]]に参考として送られるにとどまった{{sfn|林博史|2004|pp=67}}。8月17日には、イギリスから占領コストの削減の観点から、天皇起訴は政治的誤りとする意見がオーストラリアに届いていたが、オーストラリアは日本の旧体制を完全に破壊するためには天皇を有罪にしなければならないとの立場を貫き{{sfn|日暮吉延|2008|pp=67}}、10月にはUNWCCへの採択を迫ったが、米英に阻止された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=72}}。<br /> <br /> アメリカ陸軍省でも天皇起訴論と不起訴論の対立があったが、マッカーサーによる天皇との会見を経て、天皇の不可欠性が重視され、さらに[[1946年]][[1月25日]]、マッカーサーはアイゼンハワー参謀総長宛電報において、天皇起訴の場合は、占領軍の大幅増強が必要と主張した。このようなアメリカの立場からすると、オーストラリアの積極的起訴論は邪魔なものでしかなかった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=73}}。なお、オーストラリア同様イギリス連邦の構成国であるニュージーランドは捜査の結果次第では天皇を起訴すべしとしていたが、GHQによる天皇利用については冷静な対応をとるべきとカール・ベレンセン駐米大使はピーター・フレイザー首相に進言、首相は同意した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=73}}。またソ連は天皇問題を提起しないことをソ連共産党中央委員会が決定した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=99}}&lt;ref&gt;アレクセイ・キリチェンコ「東京裁判へのクレムリン秘密指令」『正論』2005年7月号&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1946年]][[4月3日]]、最高意思決定機関である[[極東委員会]](FEC)はFEC007/3政策決定により、「了解事項」として天皇不起訴が合意され、「戦争犯罪人としての起訴から日本国天皇を免除する」ことが合意された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=74}}。4月8日、オーストラリア代表の検事マンスフィールドは天皇訴追を正式に提議したが却下され、以降天皇の訴追は行われなかった{{sfn|林博史|2004|pp=67}}。<br /> <br /> 海軍から改組した[[第二復員省]]では、裁判開廷の半年前から昭和天皇の訴追回避と量刑減刑を目的に旧[[軍令部]]のスタッフを中心に、秘密裏の裁判対策が行われ、総長だった[[永野修身]]以下の幹部たちと想定問答を制作している。また、BC級戦犯に関係する捕虜処刑等では軍中央への責任が天皇訴追につながりかねない為、現場司令官で責任をとどめる[[弁護]]方針の策定などが成された。さらに、陸軍が戦争の首謀者である事にする方針に掲げられていた。[[1946年]][[3月6日]]にはGHQとの事前折衝にあたっていた[[米内光政]]に、マッカーサーの意向として天皇訴追回避と、東條以下陸軍の責任を重く問う旨が伝えられたという。また、敗戦時の首相である[[鈴木貫太郎]]を弁護側証人として出廷させる動きもあったが、天皇への訴追を恐れた周囲の反対で、立ち消えとなっている&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/national/update/1210/TKY200812100191.html 終戦時の鈴木首相証言、幻に 天皇へ波及恐れ 東京裁判]{{リンク切れ|date=2017年12月}} アサヒコム&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> なお[[昭和天皇]]は「私が退位し全[[責任]]を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる&lt;ref&gt;木戸幸一日記、8月29日付。“戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思し召しあり。聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、……その結果民主的国家組織等の論を呼起すの虞れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊るゝ要あるべしと奉答す。”&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 起訴状の提出 ===<br /> 起訴状の提出は[[1946年]][[4月29日]](4月29日は[[昭和天皇]]の誕生日)に行われた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=114}}。<br /> <br /> 極東国際軍事裁判において訴因は55項目であったが、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の三種類にわかれた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=116}}。判決では最終的に10項目の訴因にまとめられた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=243}}。<br /> <br /> === 裁判官・判事 ===<br /> * [[ウィリアム・ウェブ|ウィリアム・ウェッブ]](オーストラリア連邦派遣) - 裁判長。連邦最高裁判所判事&lt;ref&gt;以下、経歴は日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,228頁&lt;/ref&gt;。<br /> * [[:en:Myron C. Cramer|マイロン・C・クレマー]]少将(アメリカ合衆国派遣)- 陸軍省法務総監。[[:en:John Patrick Higgins|ジョン・パトリック・ヒギンズ]]から交代。<br /> * [[:en:William Donald Patrick, Lord Patrick|ウィリアム・パトリック]](グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣)- スコットランド刑事上級裁判所判事<br /> * [[イワン・M・ザリヤノフ]]少将(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)- 最高裁判所判事。陸大法学部長- 法廷の公用語である英語を使用できなかった&lt;ref&gt;レーリンクによる。「レーリンク判事の東京裁判」1996年。大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書2012.p126&lt;/ref&gt;。<br /> * [[アンリー・ベルナール]](フランス共和国派遣)- 軍事法廷主席検事 - 法廷公用語である英語を十分使用できなかった&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書2012.p125&lt;/ref&gt;。後述のパール判事やレーリンク判事とは別の考え方で7人の死刑に反対した&lt;ref&gt;ベルト・レーリンク『レーリンク判事の東京裁判―歴史的証言と展望 』1996年&lt;/ref&gt;。<br /> * [[梅汝コウ|梅汝璈]](中華民国派遣) - 立法院委員長代理。[[イェール大学]]ロー・スクール学位取得者だが、[[法曹]]経験はなかった。<br /> * [[ベルト・レーリンク]](オランダ王国派遣) - ユトレヒト司法裁判所判事。自らの個別意見書の発表は、パールが「反対意見」を公表すると主張した副産物であったとした&lt;ref&gt;ベルト・レーリンク『レーリンク判事の東京裁判―歴史的証言と展望 』1996年&lt;/ref&gt;。<br /> * [[:en:Edward Stuart McDougall|エドワード・スチュワート・マクドゥガル]](カナダ派遣)- ケベック州裁判所判事。<br /> * [[:en:Erima Harvey Northcroft|エリマ・ハーベー・ノースクロフト]](ニュージーランド派遣)- 最高裁判所判事。<br /> * [[ラダ・ビノード・パール]](インド派遣) - カルカッタ高等裁判所判事。判事の中では唯一の国際法の専門家であった{{dubious|date=2015-12}}。東京裁判では[[平和に対する罪]]と[[人道に対する罪]]とが[[事後法]]にあたるとして全員無罪を主張。<br /> * [[:en:Delfín Jaranilla|デルフィン・ハラニーリャ]](フィリピン派遣) - 司法長官。最高裁判所判事。日本の戦争責任追及の急先鋒で、被告全員の死刑を主張&lt;ref&gt;[[永井均 (歴史学者)|永井均]]「日本・フィリピン関係史における戦争犯罪問題――フィリピンの東京裁判参加をめぐって」池端雪浦、リディア・N・ユー・ホセ編『近現代日本・フィリピン関係史』岩波書店、2004年。[http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/wakai1.html#_edn17 和解と忘却 戦争の記憶をめぐる日本・フィリピン関係の光と影(1)中野聡](『思想』2005年12月号所収論文増補)&lt;/ref&gt;。日本軍の捕虜として[[バターン死の行進]]を経験&lt;ref&gt;[http://www.osg.gov.ph/index.php/-assistant-sollicitors-general/fsolgens/112-delfin-j-jaranilla]、フィリピン法務次官局の経歴、2013年4月29日閲覧、アーカイブ[https://web.archive.org/web/20130430071628/http://www.osg.gov.ph/index.php/-assistant-sollicitors-general/fsolgens/112-delfin-j-jaranilla] 2015年12月17日閲覧&lt;/ref&gt;。弁護側は被害者側による客観性の欠如を理由に忌避を申し立てたが、却下された&lt;ref&gt;Robert Cryer, Neil Boister ed.『Documents on the Tokyo International Military Tribunal: Charter, Indictment, and Judgments, Volume 1』 Oxford University Press, p.LV ISBN 0199541922&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ===弁護団の結成===<br /> GHQは1945年11月には戦犯容疑者が非公式で弁護人を探すことを許可していた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=156}}。<br /> <br /> ;日本人弁護団<br /> 日本人弁護団は、団長を[[鵜澤總明]]弁護士とし、副団長[[清瀬一郎]]、林逸郎、穂積重威、[[瀧川政次郎]]、[[高柳賢三]]、[[三宅正太郎]](早期辞任)、[[小野清一郎]]らが参加した「極東国際軍事裁判日本弁護団」が結成された&lt;ref name=&quot;外務省&quot;/&gt;。しかし、日本人弁護団内部では、自衛戦争論で国家弁護をはかる鵜澤派(清瀬、林ら)と個人弁護を図る派(高柳、穂積、三宅)らがおり、さらに国家弁護派内部でも鵜澤派と清瀬派の対立などがあった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=26、157-161}}。日本人弁護団の正式結成は開廷翌日の[[1946年]][[5月4日]]であった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=161}}。<br /> <br /> ;アメリカ人弁護団<br /> ニュルンベルク裁判では弁護人はドイツ人しか許されなかったが{{sfn|日暮吉延|2008|pp=26、161}}、東京裁判ではアメリカ人弁護人も任命された。[[日暮吉延]]によればこれは「勝者による報復」批判を免れるためだった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=161-163}}。<br /> <br /> [[1946年]]([[昭和]]21年)[[4月1日]]に結成されたアメリカ人弁護団団長は海軍大佐ビヴァリー・コールマン(横浜裁判の裁判長)。弁護人としては海軍大佐ジョン・ガイダーほか六名であった。しかしコールマンが主席弁護人を置くようマッカーサーに求めたところ、受理されず、コールマンらは辞職する。変わって陸軍少佐フランクリン・ウォレン、陸軍少佐[[ベン・ブルース・ブレイクニー]]らが派遣され、新橋の[[第一ホテル]]を宿舎とした{{sfn|日暮吉延|2008|pp=26、165}}。<br /> <br /> *陸軍少佐フランクリン・ウォレン(土肥原、岡、平沼担当)<br /> *陸軍少佐[[ベン・ブルース・ブレイクニー]](日本語を解した。東郷・梅津担当)<br /> *[[ジョージ山岡]](日本語を解した。東郷担当)<br /> *[[ウィリアム・ローガン]](木戸担当)<br /> *[[オーウェン・カニンガム]](大島浩担当)<br /> *陸軍中尉[[アリスティディス・ラザラス]](畑担当)<br /> *[[デイヴィッド・スミス]](広田担当)<br /> *[[ローレンス・マクマナス]](荒木担当)<br /> *予備海軍大佐[[リチャード・ハリス (軍人・弁護士)|リチャード・ハリス]](日本語が達者であり、弁護部管理主任も務めた。橋本担当)<br /> *[[ジョージ・ウィリアムズ]]{{要曖昧さ回避|date=2018年2月}}(星野担当)<br /> *[[フロイド・マタイス]](板垣、松井担当)<br /> *[[マイケル・レヴィン]](賀屋興宣、鈴木担当)<br /> *[[ジョゼフ・ハワード]](木村担当)<br /> *[[アルフレッド・ブルックス]](小磯、南、大川担当)<br /> *[[ロジャー・コール]](武藤担当)<br /> *[[ジェイムズ・フリーマン]](佐藤担当)<br /> *陸軍大尉[[ジョージ・A・ファーネス]](重光担当)<br /> *[[エドワード・マクダーモット]](嶋田担当)<br /> *[[チャールズ・コードル]](白鳥担当)<br /> *[[ジョージ・ブルウェット]](東條担当)<br /> <br /> === 開廷 ===<br /> [[1946年]][[5月3日]]午前11時20分、[[市谷|市ヶ谷]]の旧[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]の講堂において裁判が開廷した。27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった[[日本政府]]が支出した。<br /> <br /> [[ファイル:IMTFE.jpg|thumb|220px|right|ウィリアム・F・ウェッブ裁判長]]<br /> [[ファイル:IMTFE judges.jpg|thumb|220px|right|判事席]]<br /> [[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]のうち、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[中華民国]]、[[フランス]]、[[オランダ]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]の7か国と、[[イギリス連邦]]内の自治領であった[[オーストラリア]]&lt;ref&gt;1901年の連邦成立で実質的には独立している&lt;/ref&gt;、[[ニュージーランド]]、[[カナダ]]&lt;ref&gt;1926年に独自外交権を取得&lt;/ref&gt;、そして当時独立のためのプロセスが進行中だった[[インド]]&lt;ref&gt;裁判開始時点では[[イギリス領インド帝国]]であったが裁判中の1947年に[[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]]として事実上の独立&lt;/ref&gt; と[[フィリピン]]&lt;ref&gt;裁判開始時点では[[アメリカ領フィリピン]]の独立準備政府である[[フィリピン・コモンウェルス]]。裁判中の1946年7月4日に独立し、第三共和国政府となっている。&lt;/ref&gt; が判事を派遣した。<br /> <br /> 同日午後、[[大川周明]]被告が前に座っている[[東条英機]]の頭をたたき、翌日に病院に移送された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=122}}。<br /> <br /> === 罪状認否 ===<br /> [[1946年]][[5月6日]]、大川をのぞく被告全員が無罪を主張した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=122}}。この罪状認否手続きで無罪を主張するのは普通のことだが、毎日新聞記者はラジオで「傲然たる態度」と罵倒し、読売新聞記者も同様の罵倒をした{{sfn|日暮吉延|2008|pp=122}}。<br /> <br /> === 弁護側の管轄権忌避動議 ===<br /> [[1946年]][[5月13日]]、[[清瀬一郎]]弁護人は管轄権の忌避動議で、ポツダム宣言時点で知られていた戦争犯罪は交戦法違反のみで、それ以後に作成された平和に対する罪、人道に対する罪、殺人罪の管轄権がこの裁判所にはないと論じた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=169}}。<br /> <br /> この管轄権問題は、判事団を悩ませ、[[1946年]][[5月17日]]の[[公判]]で[[ウィリアム・ウェッブ|ウェッブ]]裁判長は「理由は将来に宣告します」と述べて理由を説明することになしにこの裁判所に管轄権はあると宣言した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=228}}。<br /> <br /> しかしその後[[1946年]]6月から夏にかけてウェブ裁判長は平和に対する罪に対し判事団は慎重に対処すべきで、「戦間期の戦争違法化をもって戦争を国際法上の犯罪とするのは不可能だから、極東裁判所は降伏文書調印の時点で存在した戦争犯罪だけを管轄すべきだ。もし条約の根拠なしに被告を有罪にすれば、裁判所は司法殺人者として世界の非難を浴びてしまう。憲章が国際法に変更を加えているとすれば、その新しい部分を無視するのが判事の義務だ」と問題提起をしたという{{sfn|日暮吉延|2008|pp=229}}。[[日暮吉延]]はこのウェブ裁判長の発言は裁判所の威厳保持のためであったとしたうえで、パル判決によく似ていたと指摘している{{sfn|日暮吉延|2008|pp=229}}。<br /> <br /> === 補足動議 ===<br /> [[1946年]][[5月14日]]午前、[[ジョージ・A・ファーネス]]弁護人が裁判の公平を期すためには中立国の判事の起用が必要であるとのべた&lt;ref name=&quot;usimura209&quot;&gt;牛村圭 『「文明の裁き」をこえて 対日戦犯裁判読解の試み』(中公叢書:中央公論新社、2000年)p209-210.&lt;/ref&gt;。また[[ベン・ブルース・ブレイクニー]]弁護人は、戦争は犯罪ではない、戦争には国際法があり合法である、戦争は国家の行為であって個人の行為ではないため個人の責任を裁くのは間違っている、戦争が合法である以上戦争での殺人は合法であり、戦争法規違反を裁けるのは軍事裁判所だけであるが、東京法廷は軍事裁判所ではないとのべ、さらに戦争が合法的殺人の例としてアメリカの原爆投下を例に、原爆投下を立案した参謀総長も殺人罪を意識していなかったではないか、とも述べた&lt;ref name=usimura209/&gt;。<br /> <br /> 翌日の[[5月15日]]の[[朝日新聞]]は「原子爆弾による広島の殺傷は殺人罪にならないのかー東京裁判の起訴状には平和に対する罪と、人道に対する罪があげられている。真珠湾攻撃によって、キツド提督はじめ米軍を殺したことが殺人罪ならば原子爆弾の殺人は如何ー東京裁判第五日、米人ブレークニイ弁護人は弁護団動議の説明の中でこのことを説明した」と報道した&lt;ref name=usimura209/&gt;。また全米法律家協会もブレイクニー発言を機関紙に全文掲載した&lt;ref name=usimura209/&gt;。<br /> <br /> === 検察側立証 ===<br /> ==== 立証段階 ====<br /> 以下、立証段階の日程と項目である{{sfn|日暮吉延|2008|pp=124}}。<br /> *[[1946年]][[6月4日]]、検察側立証開始:冒頭陳述。<br /> *[[1946年]][[6月13日]]、一般段階:国家組織、世論指導など。<br /> *[[1946年]][[7月1日]]、満州事変段階。<br /> *[[1946年]][[8月6日]]、日中戦争段階。<br /> *[[1946年]][[9月19日]]、日独伊三国同盟段階。<br /> *[[1946年]][[9月30日]]、仏印段階。<br /> *[[1946年]][[10月8日]]、ソ連段階。<br /> *[[1946年]][[10月21日]]、一般的戦争準備段階。<br /> *[[1946年]][[11月4日]]、太平洋戦争段階。<br /> *[[1946年]][[11月27日]]、残虐行為段階。<br /> *[[1947年]][[1月17日]]、個人別追加立証。<br /> *[[1947年]][[1月24日]]、検察側立証終了。<br /> <br /> ==== キーナン冒頭陳述 ====<br /> [[1946年]][[6月4日]]、首席検察官を務めた[[ジョセフ・キーナン]]は冒頭陳述において、この裁判を「これは普通一般の裁判ではありません」「全世界を破滅から救うために文明の断乎たる闘争の一部を開始している」、被告(日本軍部)は「文明に対し宣戦を布告しました」と述べた&lt;ref name=&quot;「東京裁判と戦後日本. ———さまざまな言説を検討する———」&quot;&gt;[[牛村圭]][http://www.nicchurekishi.org/wp-content/uploads/2012/09/20110830_ushimura.pdf 「東京裁判と戦後日本. ———さまざまな言説を検討する———」]、1p&lt;/ref&gt;{{sfn|日暮吉延|2008|pp=123}}。キーナンは日本の不義なる体質を[[日露戦争]]にまでさかのぼって、侵略戦争をするのは国家でなく個人であると主張した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=124}}。キーナンは陳述を終えるとすぐに帰国し、不在の間決定権は誰にあるのかわからない状態であった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=125}}。英連邦検察陣はキーナンを尊大で自分が目立つことばかり考えていると語っていた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=125}}。<br /> <br /> 裁判の進行は遅く、ニュージーランドの判事や検事は検察のおよび裁判長の運営方法が問題であるとして辞意を示している{{sfn|林博文|2013|pp=57}}。<br /> <br /> ===証人喚問===<br /> 証人にはドナルド・ニュージェント、[[大内兵衛]]、[[瀧川幸辰]]、[[前田多門]]、[[伊藤述史]]、[[鈴木東民]]、[[幣原喜重郎]]、[[清水行之助]]、[[徳川義親]]、[[若槻礼次郎]]、[[田中隆吉]]らがなった{{sfn|日暮吉延|2008|pp=127-130}}。<br /> <br /> また前[[満州国]][[皇帝]][[愛新覚羅溥儀]]も出廷した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=134}}。ハバロフスクに抑留中の溥儀は中国からは[[漢奸|漢奸裁判]]にかけられるかもしれないという脅威もあり、すべて日本の責任で自分に責任はないと証言した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=134}}。8月21日にブレイクニ弁護人が溥儀の書簡を出して反対尋問を行うと「全く偽造であります」といい、重光葵は[[歌舞伎]]の芝居のようであったと回想している{{sfn|日暮吉延|2008|pp=135-136}}。溥儀も後の自伝で、自身を守るために[[偽証]]を行い、満州国の執政就任などの自発的に行った日本軍への協力を日本側によると主張し、関東軍[[吉岡安直]]などに罪をなすりつけたことを認めている。また自らの偽証が日本の行為の徹底的な解明を妨げたとして、「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と回想している&lt;ref&gt;[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200612160326.html 「ラストエンペラー」溥儀の自伝、完全版が刊行へ] 朝日新聞 2006年12月17日&lt;/ref&gt;。[[アンリ・ベルナール]]判事は溥儀の証言について「溥儀は、満州国は最初から全て日本の支配下にあったと述べているが、彼自身がすでに、1932年3月10日に本庄[関東軍司令官]に対して同意を提案する書簡を書いているではないか。この書簡の署名が強制のもとになされたものであるという事実は証明されなかったのだから、溥儀が法廷で行った興味深い供述から生じたような結果などよりも、本官はその書簡によって示されたものを信じる」と述べている&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書,2012.p174-5&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 弁護側反証 ===<br /> 検察側立証が終了すると、弁護団は[[1947年]][[1月27日]]、公訴棄却動議を提出し、デイヴィッド・スミス弁護人はアメリカ連邦裁判所への提起も考えているとのべた(判決後に提訴。[[広田判例]]を参照){{sfn|日暮吉延|2008|pp=169}}。[[1947年]][[2月24日]]、弁護側反証が開始された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=167}}。<br /> <br /> 弁護人による被告別動議は次の通り{{sfn|日暮吉延|2008|pp=170-178}}。&#039;&#039;&#039;内容&#039;&#039;&#039;欄のソートボタンで元の順序に戻る。<br /> <br /> {| class=&quot;sortable wikitable&quot; style=&quot;line-height:1.4em;&quot;<br /> |-<br /> !被告<br /> !弁護人<br /> !内容<br /> |-<br /> |{{Display none|あらき/}}[[荒木貞夫]]<br /> |ローレンス・マクマナス<br /> |{{Display none|01/}}1928年に共同謀議に参加したと検察は主張するが、満州事変勃発時に陸相ではなかった。荒木による残虐行為の証拠は提出されていない。<br /> |-<br /> |{{Display none|といはら/}}[[土肥原賢二]]<br /> |[[フランクリン・ウォレン]]<br /> |{{Display none|02/}}戦争の共同謀議時期には常に出先軍で上官の命令に服していた。残虐行為の証拠は提出されていない。<br /> |-<br /> |{{Display none|はしもと/}}[[橋本欣五郎]]<br /> |E・ハリス<br /> |{{Display none|03/}}満州事変勃発時には参謀本部ロシア班長、日中戦争勃発時には民間人であった。桜会が共同謀議の一部であったことは証明されていない。残虐行為の証拠は提出されていない。1937年のレディバード号事件は錯誤によるもの。<br /> |-<br /> |{{Display none|はた/}}[[畑俊六]]<br /> |アリスティディス・ラザラス<br /> |{{Display none|04/}}戦争勃発時には政府諸機関と無関係。中支那派遣軍に着任したのは南京陥落から2月後で、南京はすでに平穏だった。<br /> |-<br /> |{{Display none|ひらぬま/}}[[平沼騏一郎]]<br /> |フランクリン・ウォレン<br /> |{{Display none|05/}}共同謀議に無関係。中国での残虐行為で起訴されたが証拠がない。<br /> |-<br /> |{{Display none|ひろた/}}[[広田弘毅]]<br /> |[[デイヴィッド・スミス]]<br /> |{{Display none|06/}}南京事件の責任を問うことが「奇妙」である。広田内閣中、日本は平和で、広田が「自存自衛の戦い」と述べたこともない、広田の起訴自体が大なる誤算。<br /> |-<br /> |{{Display none|ほしの/}}[[星野直樹]]<br /> |[[ジョージ・ウィリアムズ]]{{要曖昧さ回避|date=2018年2月}}<br /> |{{Display none|07/}}一官吏にすぎない。告発された内容は[[満州]]への外資導入計画を誤解したものである。<br /> |-<br /> |{{Display none|いたかき/}}[[板垣征四郎]]<br /> |[[フロイド・マタイス]]<br /> |{{Display none|08/}}満州事変時は[[本庄繁]]関東軍司令官や軍中央に従った。広東や漢口での「殺人」時に陸相だったというだけで刑事責任を問うに不十分。シンガポールの残虐行為でも検察は「何らかの責任」があると述べたにすぎない。<br /> |-<br /> |{{Display none|かや/}}[[賀屋興宣]]<br /> |マイケル・レヴィン<br /> |{{Display none|09/}}専門行政官であり、広東や漢口での「殺人」時には蔵相を辞している。開戦、残虐行為の責任はない。<br /> |-<br /> |{{Display none|きと/}}[[木戸幸一]]<br /> |ウィリアム・ローガン<br /> |{{Display none|10/}}満州事変時は内大臣秘書官長で共同謀議には参加せず。三国同盟に責任はない。内大臣は残虐行為を犯すべき地位にない。<br /> |-<br /> |{{Display none|きむら/}}[[木村兵太郎]]<br /> |ジョゼフ・ハワード<br /> |{{Display none|11/}}軍人としての義務以上をしていない。陸軍次官中の権限は陸相通達を各司令官に通達することのみ。1944年、ビルマ方面軍司令官に着任したとき、日本軍は敗走中で在任中に捕虜を管理した証拠はない。<br /> |-<br /> |{{Display none|こいそ/}}[[小磯國昭]]<br /> |アルフレッド・ブルックス<br /> |{{Display none|12/}}満州事変時は南陸相の命令と幣原政策に従って遂行した。太平洋戦争は自衛的合法戦争と理解する。首相には捕虜の扱いに介入する権能はない。<br /> |-<br /> |{{Display none|まつい/}}[[松井石根]]<br /> |フロイド・マタイス<br /> |{{Display none|13/}}中支那方面軍司令官として軍中央の命令で南京攻撃を遂行したにすぎない。作戦中は蘇州で執務し、残虐行為について問責できる証拠はない。<br /> |-<br /> |{{Display none|みなみ/}}[[南次郎]]<br /> |アルフレッド・ブルックス<br /> |{{Display none|14/}}満州事変時は陸相として事件不拡大に努めた。日本の陸軍大臣の権限は非常に制約されており、海外派兵上奏権を持つのは参謀総長である。<br /> |-<br /> |{{Display none|むとう/}}[[武藤章]]<br /> |ロジャー・コール<br /> |{{Display none|15/}}命令を実践に移すことが任務だった。捕虜に関係する陸軍省の証拠は歪曲されている。スマトラ近衛師団長在任中、捕虜は正式の命令系統以外で取り扱われたので、武藤に責任はない。<br /> |-<br /> |{{Display none|おか/}}[[岡敬純]]<br /> | フランクリン・ウォレン<br /> |{{Display none|16/}}真珠湾攻撃時、政策決定者ではなかった。捕虜処遇についえ命令を権限を有した証拠もない。<br /> |-<br /> |{{Display none|おおかわ/}}[[大川周明]]<br /> |アルフレッド・ブルックス<br /> |{{Display none|17/}}告発された行動を可能にする地位になく、著書で個人的野望や犯罪的意思を唱道してもいない。満州事変関連証拠は風説的である。<br /> |-<br /> |{{Display none|おおしま/}}[[大島浩]]<br /> |オーウェン・カニンガム<br /> |{{Display none|18/}}政策立案者、軍司令官になったこともない。通常、外国使臣の訴追は禁じられている。ドイツ在勤中、日本政府の指令なしに交渉したことはない。<br /> |-<br /> |{{Display none|さとう/}}[[佐藤賢了]]<br /> |ジェイムズ・フリーマン<br /> |{{Display none|19/}}真珠湾攻撃時、一課長にすぎず、戦争計画に参加できる地位ではなかった。1942年4月以降、軍務局長として俘虜収容所を管轄したと検察は告発したが、管轄は陸相である。<br /> |-<br /> |{{Display none|しけみつ/}}[[重光葵]]<br /> |[[ジョージ・A・ファーネス]]<br /> |{{Display none|20/}}日中平和維持に努めた。ソ連検事が証拠もなしに主張したような、[[張鼓峰事件]]交渉でソ連領土を割譲せよと求めた事実はない。駐英大使在任中は三国同盟交渉に関与していない。捕虜問題に関する外相の権限は、政府間文書の仲介することだけである。<br /> |-<br /> |{{Display none|しまた/}}[[嶋田繁太郎]]<br /> |エドワード・マクダーモット<br /> |{{Display none|21/}}真珠湾攻撃50日前に海相に就任したが、会議に参加したのは3回だけで、それ以前は軍令系統の地位になかった。残虐行為について海軍省は出先の艦隊司令官を統制できない。また海軍所管の俘虜収容所での非行は立証されていない。<br /> |-<br /> |{{Display none|しらとり/}}[[白鳥敏夫]]<br /> |チャールズ・コードル<br /> |{{Display none|22/}}外務省情報局長どまりの職業外交官で、満州事変時は幣原外相の侵略阻止方針に協力した。イタリア外相の日記を証拠に三国同盟を無条件受諾しなければ内閣を総辞職せしめと脅迫したと検察は主張したが、白鳥は1940年1月に大使解任されているし、また大使辞任で内閣総辞職とは荒唐無稽。<br /> |-<br /> |{{Display none|すすき/}}[[鈴木貞一]]<br /> |マイケル・レヴィン<br /> |{{Display none|23/}}日中戦争勃発時には大佐だった。総動員計画は1941年に企画院総裁に就任する前からほぼ成立していた。<br /> |-<br /> |{{Display none|とうこう/}}[[東郷茂徳]]<br /> | style=&quot;white-space:nowrap;&quot; |[[ベン・ブルース・ブレイクニー]]<br /> |{{Display none|24/}}外務省は捕虜管理に責任はない。陸軍の照会や抗議を通達しただけである。天皇から日米和平交渉を命じられ努力した。対米通告は駐米大使に攻撃前の手交を訓令しており、結果的に手交が遅れた責任はない。<br /> |-<br /> |{{Display none|とうしよう/}}[[東條英機]]<br /> |ジョージ・ブルウェット<br /> |{{Display none|25/}}共同謀議、残虐行為について法的証拠がない。<br /> |-<br /> |{{Display none|うめつ/}} style=&quot;white-space:nowrap;&quot; |[[梅津美治郎]]<br /> |[[ベン・ブルース・ブレイクニー]]<br /> |{{Display none|26/}}支那駐屯軍司令官在任中の[[梅津・何応欽協定]]締結を告発されたが、それは参謀長の仕事であり、協定は騒動を抑える了解にすぎない。関東軍司令官就任はノモンハン事件終了の一週間前でこの事件に責任はない。ソ連検事の告発は「不在証人の集積」である。<br /> |-<br /> |}<br /> <br /> ==== 弁護側証人 ====<br /> {{節スタブ|1=松井以外の弁護側証人|date=2016年10月}}<br /> 東京裁判に出廷した日本人証言は[[宣誓]]した上で[[証言]]し、かつ検察官による反対尋問が行われた&lt;ref name=saisin/&gt;。なお、中国人証人に対しての反対尋問は行われていない&lt;ref name=saisin&gt;[[竹本忠雄]]、[[大原康男]]共著、『再審「南京大虐殺」 世界に訴える日本の冤罪』明成社 (2000)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;松井被告側証人<br /> {{Main|南京事件の証言#東京裁判}}<br /> *上海派遣軍法務官兼検察官の塚本浩次は担当した案件の大部分は散発的な事件で、殺人は2,3件で、放火犯も集団的虐殺犯を取り扱っていないと証言した&lt;ref name=saisin/&gt;&lt;ref name=huji&gt;[[冨士信夫]]『「南京大虐殺」はこうして作られた――東京裁判の欺瞞』展転社 (1995/5)pp148-201.&lt;/ref&gt;。<br /> *当時情報収集を主務としていた中支那方面軍参謀の中山寧人は、婦女子への暴行や掠奪は小規模なものがあったが、市民への大規模虐殺は絶対にないと宣誓供述書で証言&lt;ref name=huji/&gt;&lt;ref&gt;阿羅健一『謎解き「南京事件」東京裁判の証言を検証する』PHP研究所 (2013/12)&lt;/ref&gt;&lt;ref name=saisin/&gt;。<br /> *中澤三夫第16師団参謀長は、組織的集団的掠奪や強姦はなかったし、掠奪命令や黙認したこともない。散発的な風紀犯はあったが処罰されている。また、南京の市民からは戦場での掠奪や破壊は大部分が退却する中国軍と、それに続いて侵入する[[貧困|窮民]]の常套手段であると直接聞いた、と証言&lt;ref name=saisin/&gt;。<br /> <br /> === 被告の陳述 ===<br /> {{節スタブ|1=松井以外の陳述|date=2016年10月}}<br /> *[[被告]]の[[松井石根]]元[[中支那派遣軍]]司令官は、検察側の主張するような大規模虐殺は、終戦後の米軍放送によって初めて知ったもので、集団的虐殺の事実は断じてない&lt;ref name=huji/&gt;。一部若年将兵の暴行があったが、即刻処罰している&lt;ref name=huji/&gt;。ただし、戦乱に乗じて中国兵や一部不逞の民衆が暴行掠奪を行ったものも少なくなかった、と陳述した&lt;ref name=huji/&gt;。{{Main2|松井証言の詳細|南京事件の証言#東京裁判}}<br /> <br /> == 判決 ==<br /> === 最終的訴因 ===<br /> 当初55項目の[[訴因]]があげられたが、「日本、[[イタリア]]、[[ドイツ]]の3国による[[世界]]支配の共同謀議」「[[タイ王国]]への[[侵略戦争]]」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外され、[[1948年]](昭和23年)夏には、最終的には以下の10項目の訴因にまとめられた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=241-243}}。<br /> *訴因1 - 1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議<br /> *訴因27 - 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争<br /> *訴因29 - 米国に対する侵略戦争<br /> *訴因31 - 英国に対する侵略戦争<br /> *訴因32 - オランダに対する侵略戦争<br /> *訴因33 - 北部仏印進駐以後における仏国侵略戦争<br /> *訴因35 - ソ連に対する[[張鼓峰事件]]の遂行<br /> *訴因36 - ソ連及びモンゴルに対する[[ノモンハン事件]]の遂行<br /> *訴因54 - 1941年12月7日〜1945年9月2日の間における違反行為の遂行命令・援護・許可による戦争法規違反<br /> *訴因55 - 1941年12月7日〜1945年9月2日の間における捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反<br /> <br /> ;被告人別の訴因と量刑<br /> 判決における被告人別の訴因と量刑は次の通り{{sfn|日暮吉延|2008|pp=254}}。[[大川周明]]は[[精神障害]]が認定され訴追免除、[[永野修身]]と[[松岡洋右]]は判決前に死去していた。<br /> <br /> {|class=&quot;sortable wikitable&quot; style=&quot;text-align: right&quot;<br /> |-<br /> !被告人<br /> !訴因<br /> !量刑<br /> |-<br /> |[[荒木貞夫]]<br /> |1,27<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[土肥原賢二]]<br /> |1,27,29,31,32,35,36,54<br /> |死刑<br /> |-<br /> |[[橋本欣五郎]]<br /> |1,27<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[畑俊六]]<br /> |1,27,29,31,32,55<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[平沼騏一郎]]<br /> |1,27,29,31,32,36<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[広田弘毅]]<br /> |1,27,55<br /> |死刑<br /> |-<br /> |[[星野直樹]]<br /> |1,27,29,31,32<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[板垣征四郎]]<br /> |1,27,29,31,32,35,36,54<br /> |死刑<br /> |-<br /> |[[賀屋興宣]]<br /> |1,27,29,31,32<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[木戸幸一]]<br /> |1,27,29,31,32<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[木村兵太郎]]<br /> |1,27,29,31,32,54,55<br /> |死刑<br /> |-<br /> |[[小磯國昭]]<br /> |1,27,29,31,32,55<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[松井石根]]<br /> |55<br /> |死刑<br /> |-<br /> |[[南次郎]]<br /> |1,27<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[武藤章]]<br /> |1,27,29,31,32,54,55<br /> |死刑<br /> |-<br /> |[[岡敬純]]<br /> |1,27,29,31,32<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[大島浩]]<br /> |1<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[佐藤賢了]]<br /> |1,27,29,31,32<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[重光葵]]<br /> |27,29,31,32,33,55<br /> |禁錮刑7年<br /> |-<br /> |[[嶋田繁太郎]]<br /> |1,27,29,31,32<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[白鳥敏夫]]<br /> |1<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[鈴木貞一]]<br /> |1,27,29,31,32<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |[[東郷茂徳]]<br /> |1,27,29,31,32<br /> |禁錮刑20年<br /> |-<br /> |[[東條英機]]<br /> |1,27,29,31,32,33,54<br /> |死刑<br /> |-<br /> |[[梅津美治郎]]<br /> |1,27,29,31,32<br /> |終身禁錮刑<br /> |-<br /> |}<br /> <br /> === 判事の個別意見書 ===<br /> 判決はイギリス、アメリカ、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランドの6か国の判事による多数判決であった。<br /> <br /> 判事団の多数判決に対して、個別意見書が5つ出された{{sfn|日暮吉延|2008|pp=264-265}}。同意意見として[[フィリピン]]のハラニーニャ意見書、別個意見としてウェブ意見書、パル、[[ベルト・レーリンク]]、[[アンリ・ベルナール]]は反対意見書を提出した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=264-265}}。極東国際軍事裁判所条例ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが、法廷で読み上げられることはなかった。<br /> <br /> ==== ハラニーニャ同意意見書 ====<br /> 徹底した親米派のハラニーニャ同意意見書では、刑が一部寛大にすぎると批判し、原爆投下が早期決戦をもたらしたとまで述べられた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=265}}。これはパル反対意見書を批判する目的で書かれたとみられている{{sfn|日暮吉延|2008|pp=265}}。<br /> <br /> ==== パールの個別反対意見書 ====<br /> {{See|ラダ・ビノード・パール#東京裁判における主張|パール判決論争}}<br /> イギリス領インド帝国の法学者・裁判官[[ラダ・ビノード・パール]]判事は判決に際して判決文より長い1235ページの「意見書」(通称「パール判決書」)を発表し、[[事後法]]で裁くことはできないとし全員無罪とした。この意見は「日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし」というものではなく、パール判事がその意見書でも述べている通り、「被告の行為は政府の機構の運用としてなしたとした上で、各被告は各起訴全て無罪と決定されなければならない」としたものであり、また、「司法裁判所は政治的目的を達成するものであってはならない」とし、多数判決に同意し得ず反対意見を述べたものである。{{要出典範囲|date=2015年6月17日 |パールは1952年に再び来日した際、「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」とのコメントを残している}}。<br /> <br /> また、パール判決に関する論争として[[中島岳志]]、[[小林よしのり]]、[[牛村圭]]らによる[[パール判決論争]]がある&lt;ref&gt;中島岳志『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)2007年、小林よしのり『ゴー宣SPECIAL「パール真論」』2008年、牛村圭「パル判決=日本無罪論」に秘められた乖離」「諸君!」2008年9月号&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== ベルナールの個別反対意見書 ====<br /> [[アンリ・ベルナール]]判事は [[梅汝璈]]中華民国代表判事に対して1948年7月26日に「正義は連合国の中にあるのではないし、その連合国の誰もが連合という名の下にいかなる特別な敬意を受けることができるわけでもないのだ」と述べている&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書,2012.p58&lt;/ref&gt;。また南次郎が満州事変を「自衛権の発動」と承認した時に多数派判事が非難するなかベルナール判事は満州事変は「ありふれた事件」でしかなく、また「自衛すべきであると思うときには自衛権がある」「この決まりは実際に攻撃も侵略もないケースにおいても自衛権の発動を妨げるものではない」と述べた&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書2012.p110&lt;/ref&gt;。[[満州事変]]問題については「事変と称されている事実が起きた時点では、中国政府自身、まだ日本を敵国とみなしていなかった」として、当時の日中衝突を日本側の行為だけを非とするのはおかしいとし&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書2012.p162-3&lt;/ref&gt;、また「我々は、あらゆる大国が自らにとっての[[生命線]]を自国内ではなく他の国に置いてきたことを了承してきたし、今日でも了承しているではないか。チャーチルはイギリスの生命線をライン河に置いてきた」とものべ&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書2012.p168&lt;/ref&gt;、さらに「法的な解決、あるいは仲裁のイニシアティブをとるべきであったのは、日本によって行使される特権の廃止を求めていた中国側にあった」と主張した&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書2012.p169&lt;/ref&gt;。また、[[オーウェン・カニンガム]]弁護人が東京裁判を「茶番劇」と批判したことについて判事たちが法廷から追放したことについては、いかなる制裁措置も適用されてはならないと批判した&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書,2012.p196&lt;/ref&gt;。共同謀議については定義が曖昧で、被告が共同謀議に成功したとする多数派判決について「疑わしく、」「正式な証拠がない限り、この疑いを消えないし、また被告を有罪とすることは許されない」とのべた&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書,2012.p211-2&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ベルナールの個別反対意見書では、[[自然法]]は国家の上位にあり、[[自然法]]によって侵略戦争が犯罪であることは証拠があれば可能である&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書,2012.p86&lt;/ref&gt;、しかし日本の侵略陰謀の直接的証拠はなく、東アジアを支配したいという希望の存在が証明されたにすぎないから平和に対する罪で被告を有罪にすることはできない。また天皇不起訴は遺憾と述べた{{sfn|日暮吉延|2008|pp=266-267}}。また東京裁判で[[予審]]が行われなかったことについて「訴追が最も重大な性質の犯罪に関したものであり、その立証が非常に大きな困難をもたらすものであったという事実にもかかわらず。被告は直接に本裁判所に対して起訴され、かれらは、予審という方法によって弁護側資料を手に入れたり、まとめたりするように努力する機会を与えられなかった。予審は、検察側からも弁護側からも独立した司法官が双方に同等に都合のよいように行うものであって、その間に被告は弁護人の援助によって利益を得たであろうと思われる。本官の意見では、この原則の違反から起こる実際の結果は、本件においては特に重大である」と主張した&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書,2012.p180-2&lt;/ref&gt;。また、「裁判所が欠陥のある手続きを経て到達した判定は、正当なものではあり得ない」と東京裁判について断じた&lt;ref&gt;大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』文春新書,2012.p208&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== レーリンクの個別反対意見書 ====<br /> {{See|ベルト・レーリンク#東京裁判における主張}}<br /> [[ベルト・レーリンク]]判事は個別反対意見書において、侵略戦争が犯罪になったのは1928年の不戦条約でなく、1945年8月の[[ロンドン協定]]からであるとした{{sfn|日暮吉延|2008|pp=266}}。事後法の禁止は政策の規則なので戦勝国はこれを無視できるが、平和に対する罪だけで死刑求刑には反対し、終身刑が妥当とした{{sfn|日暮吉延|2008|pp=266}}。<br /> <br /> また[[広田弘毅]]に対して「中国側の要求で、広田は南京虐殺と日本側の不法行為に責任ありとして裁判にかけられ、死刑判決を受けました。私は、広田は南京虐殺に責任ありとは思いません。生じたことを変え得る立場ではなかったのです。ですから、私の反対判決は、彼は無罪放免とすべきという趣旨でした」とのべている&lt;ref&gt;[[牛村圭]] 『「文明の裁き」をこえて 対日戦犯裁判読解の試み』中公叢書:[[中央公論新社]]、2000年、p162.&lt;/ref&gt;。被告について「彼らはそのほとんどが一流の人物でした。」「海軍軍人、それに東條も確かにとても頭が切れました」とし、さらに「一人として臆病ではありませんよ。本当に立派な人たちでした」と評価した&lt;ref&gt;[[牛村圭]] 『「文明の裁き」をこえて 対日戦犯裁判読解の試み』中公叢書:[[中央公論新社]]、2000年、p164.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== ウェブ別個意見書 ====<br /> ウェブ別個意見書では多数派と同じく憲章の拘束力を認め、不戦条約によって侵略戦争の不法性を是認した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=266-267}}。また天皇の責任訴追について、天皇不起訴に不満なわけではないが天皇の戦争責任を踏まえて被告の減刑を考慮すべきであると主張した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=266-267}}。[[日暮吉延]]はこれはオーストラリア本国に向けて書かれたものとした{{sfn|日暮吉延|2008|pp=268}}。<br /> <br /> === 判決言い渡し ===<br /> [[1948年]](昭和23年)[[11月4日]]、[[判決]]の言い渡しが始まり、[[11月12日]]に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長の[[ウィリアム・ウェブ]]は10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという&lt;ref name=&quot;kyokun&quot;&gt;『東京裁判の教訓』 18-20・212-214・249頁。&lt;/ref&gt;。判決前に病死した2人と病気のため訴追免除された[[大川周明]]1人を除く全員が有罪となり、うち7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。<br /> <br /> *[[南京大虐殺]]([[南京事件]])に関する[[松井石根]]被告への判決内容や[[事実認定]]の詳細については、[[南京事件 (1937年)#東京裁判]]を参照。<br /> <br /> == 刑の執行 ==<br /> 7人の[[絞首刑]]([[死刑]])判決を受けたものへの刑の執行は、[[12月23日]]午前0時1分30秒より巣鴨刑務所で行われ、同35分に終了した。この日は当時[[皇太子]]だった継宮[[明仁]]親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現[[天皇誕生日]])であった。これについては、作家の[[猪瀬直樹]]が自らの著書&lt;ref&gt;『ジミーの誕生日-アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』文藝春秋(2009年11月)&lt;/ref&gt; で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。<br /> <br /> その後、7人の遺体は横浜市の[[久保山斎場]]で米軍によって秘密裏に[[火葬]]されたが、遺灰の一部を米軍から回収した三文字正平弁護士らにより、[[静岡県]][[熱海市]]の[[興亜観音]]に持ち込まれ一時安置の後、[[1960年]]に[[愛知県]][[幡豆町]](現:[[西尾市]])にある[[三ヶ根山]]の[[殉国七士廟]]に祀られた&lt;ref&gt;[http://japanese.joins.com/article/055/175055.html 戦犯を殉国烈士に…日本極右の「隠された聖地」] [[中央日報]]日本語版 2016年3月7日閲覧&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 未訴追者への裁判と裁判終了 ==<br /> 一方で戦犯容疑者に指定されたものの、訴追が開始されていない者達が未だ残っていた。1948年1月、ニュージーランドは1948年12月31日の時点で戦犯捜査を打ち切るよう主張し、アメリカ側もこれ以上の戦犯裁判継続はほとんど意味がないという見解を示していた{{sfn|林博文|2013|pp=58}}。ニュージーランドとアメリカは捜査終了後の1949年6月30日をもって裁判を終了させるべきであるという見解を統一し、首席検察官のキーナンもこれ以上の戦犯裁判は行うべきではないという見解を示した{{sfn|林博文|2013|pp=59}}。7月29日の極東委員会でニュージーランド代表は1949年6月30日に裁判を終了させるべきと提議した。賛成したのはアメリカとイギリスだけであり、その他の国は明確に反対しなかったが、BC級戦犯の裁判については継続を求める声が上がった{{sfn|林博文|2013|pp=60}}。この協議中の11月12日に判決が出、極東国際軍事裁判は継続されているのかどうかという法的問題が持ち上がった。<br /> <br /> 1949年2月18日、極東委員会第五小委員会においてアメリカ代表は、「A級戦犯」裁判は2月4日の時点で終了し、新たな戦犯の逮捕は検討されていないという見解を示した{{sfn|林博文|2013|pp=63}}。3月31日の極東委員会において、可能であれば捜査の最終期限を1949年6月30日とし、裁判は9月30日までに終了するという決議が採択された{{sfn|林博文|2013|pp=65}}。<br /> <br /> == 裁判以後 ==<br /> === 平和条約における受諾 ===<br /> [[1951年]][[9月8日]]に調印された[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ平和条約)第11条において「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を[[恩赦|赦免]]し、[[減刑]]し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」と定められているが、これは講和条約の締結により戦時国際法上の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との[[平和条約]]を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた軍事法廷の判決が失効(あるいは無効)となり、当事者の請求により即刻釈放すべき義務を締約国に課されることを回避するために設けられた条項である。<br /> <br /> [[日本国との平和条約]]第11条の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、読み上げられた判決内容全般の受諾と考える立場に2分されているが、日本政府は後者の解釈を採っている&lt;ref&gt;「重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども、そのジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれているというふうに考えております。」 [http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=19425&amp;SAVED_RID=6&amp;PAGE=0&amp;POS=0&amp;TOTAL=0&amp;SRV_ID=9&amp;DOC_ID=1172&amp;DPAGE=1&amp;DTOTAL=1&amp;DPOS=1&amp;SORT_DIR=1&amp;SORT_TYPE=0&amp;MODE=1&amp;DMY=20439 『平成17年06月02日参院外交防衛委員会政府参考人林景一(外務省条約局長)答弁』]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 戦犯の赦免 ===<br /> 日本国内においては、戦犯赦免運動が全国的に広がり、署名は4000万人に達したと言われ&lt;ref&gt;『靖国論集 新版』(近代出版社、2004年)ISBN 4907816146&lt;/ref&gt;、[[1952年]][[12月9日]]に[[衆議院]][[本会議]]で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の[[労働者農民党|労農党]]を除く多数会派によって可決された。さらに翌1953年、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「[[死刑|公務死]]」と認定された。また収監されていた極東国際軍事裁判による受刑者12名&lt;ref&gt;獄中で病死した[[東郷茂徳]]を除く。&lt;/ref&gt; は、1956年(昭和31年)3月末時点ですべて仮釈放されている&lt;ref&gt;[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1958/s33-2-6.htm 昭和32年度外交青書]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 裁判の評価と争点 ==<br /> [[ファイル:IMTFE defendants.jpg|thumb|220px|right|被告席]]<br /> {{See also|ニュルンベルク裁判#裁判に対する評価の論点}}<br /> この裁判については裁判中、また裁判以後も批判をふくめ様々な評価がなされており、裁判の公平性やその他の争点をめぐって[[歴史認識]]問題のひとつとなってもいる。日本政府は「日本国との平和条約」11条によりこの裁判および他の連合国法廷の裁判を受諾したため、異議を申し立てる立場にないという見解をとっている&lt;ref name=&quot;外務省 見解&quot;/&gt;。<br /> <br /> アメリカやヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に[[国際法]]学者間で議論がされた。イギリスの『[[ロンドンタイムズ]]』などは2か月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。<br /> <br /> === アメリカ政府・GHQ要人の発言 ===<br /> GHQの[[チャールズ・ウィロビー]]はレーリンク判事に「この裁判は歴史上最悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争をしていただろう」と述べたという&lt;ref&gt;B.V.A.レーリンク「東京裁判とその後 ある平和家の回想」中公文庫、2009年,p176&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 国務省[[ジョージ・ケナン]]も東京裁判について「法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。戦時中に捕虜や非戦闘員に対する虐待を禁止する人道的な法はある」「しかし、公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家の裁判である。日本の場合、敗戦の結果として加えられた災害を通じてその裁判はなされた」として、戦勝国が敗戦国を制裁する権利がないというわけではないが、「そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係がない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」と批判した&lt;ref&gt;Forrign Relations of the United States,1948.VI,p718.[[片岡鉄哉]]『さらば吉田茂――虚構なき戦後政治史』文藝春秋, 1992年、p83&lt;/ref&gt;。ケナンはさらに国務省宛最高機密報告書のなかでこの裁判は「国際司法の極致として賞賛されている」が、「そもそもの最初から深刻な考え違い」があり、敵の指導者の処罰は「不必要に手の込んだ司法手続きのまやかしやペテンにおおわれ、その本質がごまかされて」おり、東京裁判は政治裁判であって、法ではないと批判した&lt;ref&gt;[[ジョン・ダワー]]『敗北を抱きしめて(下)』増補版2004年、p243-4.[[岩波書店]]。&lt;/ref&gt;。ただし、ケナンは日本人への同情から述べたのではなく、この裁判を支えている正義を理解する能力が日本人にはないとも述べ、戦犯は終戦時に即刻まとめて射殺した方が適切であったとものべている&lt;ref&gt;[[ジョン・ダワー]]『敗北を抱きしめて(下)』増補版2004年、p428.[[岩波書店]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==== マッカーサーの発言 ====<br /> 東京裁判の事実上の主催者ともいえた[[ダグラス・マッカーサー]]は、[[朝鮮戦争]]勃発直後の[[1950年]][[10月15日]]、[[ウェーキ島]]での[[ハリー・S・トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]との会談の席で、[[W・アヴェレル・ハリマン]]大統領特別顧問の「北朝鮮の戦犯をどうするか」との質問に対し、「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」「東京裁判とニュルンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べている。<br /> <br /> またマッカーサーは[[1951年]](昭和26年)[[5月3日]]に開かれた[[アメリカ合衆国上院|上院]][[軍事外交合同委員会]]において、資源の乏しかった日本が「原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、戦争にむかった目的は、主として治安のためだったのです」と証言した&lt;ref&gt;[[小堀桂一郎]]編『東京裁判 幻の弁護側資料』[[ちくま学芸文庫]] 2011年、p567-8。原文は「They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.」、[[小堀桂一郎]]編『東京裁判 幻の弁護側資料』[[ちくま学芸文庫]] 2011年、p566、{{Wayback|url=http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2004/maca/01/MacArthur57.html|title=マッカーサー米議会証言録|date=20070930183449}}(web版[[正論 (雑誌)|正論]])&lt;/ref&gt;。この発言から、マッカーサー自身が、大東亜戦争は日本の自存自衛のための戦争であったことを認めたもの、とする主張がある&lt;ref&gt;[[小堀桂一郎]]編『東京裁判 幻の弁護側資料』[[ちくま学芸文庫]] 2011年、p558&lt;/ref&gt;。またマッカーサーは同委員会で「我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達が中国に於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」ことにあるとも述べている&lt;ref&gt;[[小堀桂一郎]]編『東京裁判 幻の弁護側資料』[[ちくま学芸文庫]] 2011年、p564&lt;/ref&gt;。[[小堀桂一郎]]はこの発言を「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと解釈している&lt;ref&gt;[[小堀桂一郎]]編『東京裁判 幻の弁護側資料』[[ちくま学芸文庫]] 2011年、p565&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 「勝者の裁き」 ===<br /> 首席検察官[[ジョセフ・キーナン]]の冒頭陳述「文明の断乎たる闘争」という表現&lt;ref name=&quot;「東京裁判と戦後日本. ———さまざまな言説を検討する———」&quot;/&gt; に基づき、東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で&#039;&#039;&#039;文明の裁き&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。<br /> <br /> 一方、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことなどから、&quot;&#039;&#039;&#039;勝者の裁き&#039;&#039;&#039;&quot;(英語では[[:en:Victor&#039;s justice|「Victor&#039;s justice」]])とも呼ばれる&lt;ref name=mainia/&gt;&lt;ref&gt;日暮吉延『東京裁判の国際関係ー国際政治における権力と規範ー』序章、第1章 木鐸社 2002年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> この表現は日本滞在経験のあるアメリカの歴史学者[[:en:Richard Minear|リチャード・H・マイニア]]が1971年の著書『Victors&#039; Justice; The Tokyo War Crimes Trial』(邦訳『東京裁判-勝者の裁き』1985年)で初めて使ったもので、「アメリカの原爆投下行為に[[人道に対する罪]]は適用されないのか」と被告の選定、すなわち連合国の戦争犯罪行為が裁かれなかったこと、また、昭和天皇の不起訴だけでなく証人喚問もなされなかったこと、判事が戦勝国だけで構成されたこと、侵略を定義するのは勝者であり従って[[プロパガンダ]]になる可能性などを問題視し、したがって侵略戦争を理由に訴追することは不可能であると主張した&lt;ref name=&quot;mainia&quot;&gt;リチャード・H・マイニア『東京裁判-勝者の裁き』福村出版 (1985)&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[朝日新聞]]2006年5月3日&lt;/ref&gt;。レーリンク判事も後にこの裁判は「勝者の裁き」であったとした&lt;ref&gt;B.V.A.レーリンク「東京裁判とその後 ある平和家の回想」中公文庫、2009年,p179&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[2013年]][[2月12日]][[衆院予算委員会]]において[[安倍晋三]]首相は「先の大戦」の総括は、日本人自身の手ではなく、「東京裁判という、言わば連合国側が勝者の判断によって、その断罪がなされた」と述べた&lt;ref&gt;J-CASTニュース「[http://www.j-cast.com/2013/03/13169488.html?p=all 安倍首相、東京裁判に異例の言及 「勝者の判断によって断罪された」]、2013/3/13&lt;/ref&gt;。[[中華人民共和国]]政府はこの発言を批判、[[2013年]][[11月12日]]に上海で開催された「東京裁判国際シンポジウム」で華東政法大学の[[何勤華]]は「東京裁判は人類の正義の力が邪悪な勢力に打ち勝ったことに伴う重大な成果で、正義の法律が日本の罪人を処罰した正当行為」とのべた&lt;ref name=&quot;sanke201311&quot;&gt;産経新聞「[http://sankei.jp.msn.com/world/news/131112/chn13111217510005-n1.htm 日本けん制? 中国・上海で東京裁判めぐり国際シンポ」2013.11.12 ]&lt;/ref&gt;。また、[[粟屋憲太郎]]は「東京裁判の中には誤りもあるが、日本はサンフランシスコ講和条約で判決を受諾して国際社会に復帰できた。それを忘れて『勝者の裁き』というのは誤りだ」と述べた&lt;ref name=sanke201311/&gt;。<br /> <br /> === 共同謀議 ===<br /> またニュルンベルク裁判において用いられた「[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]の指導部や[[ヒトラー内閣]]、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]という組織」が共同して戦争計画を立てたという「[[共謀罪|共同謀議]]」(conspiracy、共謀罪)の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。起訴状によれば、A級戦犯28名が[[1928年]]([[昭和]]3年)から[[1945年]]([[昭和]]20年)まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされている。<br /> <br /> しかし[[ナチス・ドイツ]]体制は[[総統]]である[[アドルフ・ヒトラー]]の[[指導者原理]]に基づくイデオロギー集団であったナチ党によって一党支配体制が構築されていたが、戦前の日本の事情とは異なっている。当時唯一の政党であった[[大政翼賛会]]は対立していた旧政党が合同してできたものであり、ナチ党のような強力な団結は持っていなかった。また陸海軍や枢密院、重臣や木戸内大臣などの宮中グループの政治的影響力も強く、これらの間での政見の統一は困難であった。実際の被告中にも互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれていた。この状況を被告であった[[賀屋興宣]]は「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、[[北進論|北]]だ、[[南進論|南]]だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と評している&lt;ref&gt;(児島襄『東京裁判』〈上〉119頁)より。&lt;/ref&gt;。このような複雑な政治状況を無視した杜撰ともいえる事実認定に加え、[[近衛文麿]]や[[杉山元]]といった重要決定に参加した指導者の自殺もあり、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程は十分に明らかにされなかった。<br /> <br /> [[ジョージ山岡]]弁護人は「共同謀議なるものは、最も奇異にして信ずべからざるものの一つである。すくなくとも最近14年間にわたる孤立した関係のない諸事件が寄せ集められ、ならべたてられているにすぎない」と弁護した{{sfn|日暮吉延|2008|pp=91}}。<br /> <br /> また、1945年以前の国際法に共同謀議については記載されていなかったという反論に対してウェブ裁判長も別個意見書のなかで「国際法は、多くの国の国内法とは異なって、純粋の共同謀議という犯罪を明示的に含んでいない」「同様に、戦争の法規の慣例も単なる純粋共同謀議を犯罪としない」と認めている&lt;ref name=&quot;jd259&quot;&gt;[[ジョン・ダワー]]『敗北を抱きしめて(下)』増補版2004年、p259.[[岩波書店]]。&lt;/ref&gt;。さらに「英米の概念に基づいて、純粋な共同謀議を犯罪とする権限はなく、また各国の国内法において共同謀議とされている犯罪の共通の特徴と認めるものに基づいて、そうする権限もない」とし、もし共同謀議を犯罪とするならば、それは「裁判官による立法」となるとものべている&lt;ref name=jd259/&gt;。しかし、多数派判決では共同謀議は罪状として認められた&lt;ref name=jd259/&gt;。以前の国際法に記載がなかったにも関わらず審理するということは、法学の原則である「法律なくして犯罪なし、法律なくして刑罰なし(Nullm crimen sine lege,nulla poena sine lege)」に抵触するのかどうかが問題とされていたのであった&lt;ref name=jd259/&gt;。<br /> <br /> === 被告人の選定 ===<br /> 被告人の選定については[[軍政 (行政)|軍政]]の責任者が選ばれていて、[[軍令]]の責任者や[[統帥権]]を自在に利用した参謀や高級軍人が選ばれていないことに特徴があった。理由として、統帥権を持っていた天皇は免訴されることが決まっていたために、統帥に連なる軍人を法廷に出せば天皇の責任が論じられる恐れがあり、マッカーサーはそれを恐れて被告人に選ばなかったのではないかと[[保阪正康]]は指摘している&lt;ref name=&quot;kyokun&quot;/&gt;。また、保阪は軍令の責任者を出さなかったことが[[玉砕]]など日本軍の非合理的な戦略を白日の下に晒す機会を失い、裁判を極めて変則的なものにしたとも指摘している&lt;ref name=&quot;kyokun&quot;/&gt;。この他、天皇の訴追回避については、「マッカーサーのアメリカ国内の立場が悪くなるので避けたい」というGHQの意向が、軍事補佐官{{仮リンク|ボナー・フェラーズ|en|Bonner Fellers}}准将より裁判の事前折衝にあたっていた米内光政に裁判前にもたらされている&lt;ref&gt;[[海軍反省会]]の証言に残されている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 判事の選定 ===<br /> 判事(裁判官)については中華民国から派遣された[[梅汝璈]]判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事が法廷の[[公用語]]である[[日本語]]と[[英語]]のどちらも使うことができなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声もある。A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた[[重光葵]]は「私が[[モスクワ]]で見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している&lt;ref&gt;『巣鴨日記』(「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」昭和27年8月号掲載)、翌年に文藝春秋新社刊。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 法的根拠と公平性 ===<br /> 極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治に際して[[ハーグ陸戦条約]]第三款においても許可されてきた[[軍律審判]]に相当し&lt;ref&gt;[http://www.t-komazawa.ac.jp/university/bulletin/pdf/kiyou14.pdf 「近代日本に於る参審の伝統」石田清史(苫小牧駒澤大学紀要、第14号2005.11)P.61]&lt;/ref&gt;、軍律や[[軍律審判|軍律会議]]は軍事行動であり戦争行為に含まれる&lt;ref&gt;石田清史「近代日本に於る参審の伝統」 P.61&lt;/ref&gt;。尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは異例であった。[[戦争犯罪]]の処罰については[[ポツダム宣言]]10項で予定されていたが、国際法上認められてきた従来の[[戦争犯罪]]概念が拡張され検討されたことに特徴がある。なお、仮に国際実定法上に根拠がなく前例のない国際刑事法廷であったと仮定した場合、法廷そのものの管轄権に実定法上の根拠がない「[[事後法]]」により設置され、また連合国側の戦争犯罪は法廷では提訴される機会がなく「[[法の下の平等]]」がなされていない問題がある。<br /> <br /> またこの裁判では[[原子爆弾]]の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の行為は対象とならず、証人の全てに[[偽証罪]]も問われず、[[罪刑法定主義]]や[[法の不遡及]]が保証されなかった。こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、次段のとおり国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者が多い。当時の[[国際条約]](成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。<br /> <br /> [[国際法]]学者[[ハンス・ケルゼン]]は「戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきものであって、復讐に対する渇望を満たすものであってはならない。敗戦国だけが自己の国民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないというのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである」と敗戦国の戦犯裁判を批判した&lt;ref name=&quot;kelsen&quot;&gt;『パル判決書(上)』講談社学術文庫p239-240&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[佐藤和男 (法学者)|佐藤和男]]監修『世界がさばく東京裁判』明成社,p76&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[国際法]]学者[[クヌート・イプセン]]は「平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力をもっていた国際法に基づくものではなかった」とし、戦争について当時個人責任は国際法的に確立しておらず、事後法であった極東国際軍事裁判条例は「法律なければ犯罪なし」という法学の格言に違反するものであったとした&lt;ref&gt;細谷千博他編『東京裁判を問う』講談社、p40-41&lt;/ref&gt;。ミネソタ大学のゲルハルト・フォン・グラーンもパル判事の意見を支持し、当時パリ協定の盟約・不戦条約があったとはいえ主権国家が「侵略戦争」を行うことを禁止した国際法は存在せず、「当時も今日も、[[平和に対する罪]]など存在しないことを支持する理由などいくらでも挙げることができる」とのべている&lt;ref&gt;Gerhard Von Glahn,Law among Nations,Collier Macmillan Ltd,1981,p773&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;佐藤和男監修『世界がさばく東京裁判』明成社,p177&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は[[国際連合]]裁判所についての規定「何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない」([[世界人権宣言]]第11条第2項)&lt;ref&gt;[http://www.ohchr.org/EN/UDHR/Pages/Language.aspx?LangID=jpn 国連人権委員会日本語訳]&lt;/ref&gt; を引合いに出し、「戦勝国の判事のみでもって排他的に構成された裁判所」は「独立の公平な裁判所」とはいえず、枢軸国犯罪人を早急に裁くために設定された裁判所条例や、事後になって犯罪を創設したことは、[[世界人権宣言]]第11条第2項規定と相容れず、ドイツと日本の戦犯裁判が「法の規則を設定したという価値は取るに足りぬようにおもわれる。むしろ、重大な退歩させたというべきである」と述べている&lt;ref&gt;ハンキー卿『戦犯裁判の錯誤』[[長谷川才次]]訳、時事通信社、1952年,p225-226&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;佐藤和男監修『世界がさばく東京裁判』明成社,p219&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 歴史学者[[ポール・シュローダー]]は「裁判所の構成、政治的状況、さらに戦後まもない時期の世論の趨勢が一体化して、事件についての冷静で均衡のとれた判決を不可能にした」「歴史家はもしかすると、(裁判所が達した)結論が国際法と正義の発展において多大な前進であったという点については疑わしく思うだろう」と指摘した&lt;ref&gt;P.W.Schroeder,The Axis Alliance and Japanese-American Relations,Cornell University Press,1958,p228.B.V.A.レーリンク「東京裁判とその後 ある平和家の回想」中公文庫、2009年,p176&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[ロンドン大学]]のジョン・プリチャードは次のように東京裁判の問題点を摘出している&lt;ref&gt;佐藤和男監修『世界がさばく東京裁判』明成社,p164&lt;/ref&gt;。<br /> *検察は真実の解明よりも、日本の指導者を厳しく処罰することで日本人を再教育することを目的としていた。<br /> *判事たちの多数は検察の主張を鵜のみにして、弁護側の証拠や反証反論を一方的に却下した明確な形跡がある。<br /> *通常の戦争犯罪(捕虜、民間人への残虐行為等)は全体の5-10%であり、ドイツよりも比率が低い。<br /> *戦争を「侵略」と「自衛」に分けることは困難であり、日本の歴代指導層が一致して侵略戦争を企図した形跡もなく、したがって共同謀議や、「不法戦争による殺人」といった訴因は法的根拠を持っていない。<br /> *当時存在しなかった平和に対する罪を過去に遡って適用したり、罪の根拠を1928年のパリ不戦条約に求めることには無理がある。<br /> <br /> ==== 事後法の観点 ====<br /> [[ラダ・ビノード・パール]]判事の意見書のように、第二次世界大戦の戦後処理が構想された際、アメリカが[[1944年]]([[昭和]]19年)秋から翌年8月までの短期間に国際法を整備したことから、国際軍事裁判所憲章以前には存在しなかった「人道に対する罪」と「平和に対する罪」の二つの新しい犯罪規定については[[事後法]]であるとの批判や{{sfn|日暮吉延|2008|pp=22}}、刑罰不遡及の原則([[法の不遡及]]の原則)に反するとの批判がある&lt;ref&gt;「戦争犯罪と法」多谷千賀子著 岩波書店&lt;/ref&gt;。また、戦後処罰政策の実務を担ったマレイ・バーネイズ大佐は開戦が国際法上の犯罪ではないことを認識していたし、後に第34代大統領になる[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]元帥も、これまでにない新しい法律をつくっている自覚があったため、こうした事後法としての批判があることは承知していたとみられている{{sfn|日暮吉延|2008|pp=23}}。<br /> <br /> ====不作為責任====<br /> 通例の戦争犯罪との関連で指摘されている問題点は、部下の戦争犯罪に関する軍指揮官の「不作為責任」という概念である&lt;ref&gt;フィリップ・オステン「東京裁判における犯罪構成要件の再訪」(法学研究82,2009.01、慶應義塾大学法学研究会)[http://ci.nii.ac.jp/naid/40016522818][http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20090128-0315]PDF-P.7&lt;/ref&gt;。軍指揮官(上官)の部下に対する監督義務違反の可罰性は「上官責任(Command Responsibility)」という概念として形成され、いくつかのBC級戦犯裁判において大きな争点となっており、東京裁判においても重要な意義を有していた&lt;ref&gt;フィリップ・オステン2009.01、PDF-P.7&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 第二次世界大戦当時の[[国際慣習法]]では、指揮・命令をした者だけを問題にし、不作為犯に責任を負わせるまでには至っていなかった。国家が戦争を遂行する中で犯される犯罪は、実際に犯罪を実行する者が末端の兵士であるとしても組織の問題であって、組織の上層部の責任が問われるのは当然である。しかしこれが認められ国際条約として不作為による戦争犯罪に刑事処分を科す旨を定めたのは「戦争犯罪及び人道に反する罪についての時効不適用に関する1968年の条約」のことであった&lt;ref&gt; 多谷千香子「戦争犯罪と法」P.113&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 証拠規則 ===<br /> 歴史学者[[ジョン・ダワー]]は「この裁判が公正であったかどうかについての意見の相違は、軍事法廷の手続きとしてなにを適切と考えるかという前提の違いに表れる。陸軍長官スティムソンでさえ、一般の法廷でふつうにある、さらには[[軍法会議]]にもあるような、訴訟手続き上の規則や保証もなしにこのような裁判が行われるとは想像だにしなかった。軍事法廷、あるいは軍事委員会の手法が採用されたのは、そうすることで、検察側にほかの状況では許されない手続き上の裁量が、とくに証拠の証拠能力有無の裁量が可能になるからである」とし、連合国は被告の主張を正当化することを妨害するために、証拠に関して制限を加えたと指摘し、「勝者によって緩められた証拠規則が、裁判に恣意性と不公正の入りこむ余地を与えた」ことは明らかであると批判した&lt;ref name=&quot;jd262&quot;&gt;[[ジョン・ダワー]]『敗北を抱きしめて(下)』増補版2004年、p262-3[[岩波書店]]。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[極東国際裁判所条例]]13条に「本裁判において証明力あると認むるいかなる証拠をも受理する」とあり、英米法の証拠規則ほど厳格ではなかった&lt;ref&gt;『東京裁判ハンドブック』[[青木書店]]、1989,p12.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 協議の経過 ===<br /> ベルナール判事は、裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」&lt;ref&gt;児島襄『東京裁判』〈上〉119頁)&lt;/ref&gt; と[[東京裁判&lt;!-- ループリンク --&gt;]]の問題点を指摘した。<br /> <br /> [[オランダ]]からの[[ベルト・レーリンク]]判事は当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたが、パール判事の「公平さ」を訴える主張に影響を受け、徐々に同調するようになっていった。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている&lt;ref&gt;[[NHKスペシャル]]『[http://www.nhk.or.jp/special/onair/070814.html パール判事は何を問いかけたのか]』 2007年8月14日放送。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 「A級戦犯」 ===<br /> [[A級戦犯]]容疑者として逮捕されたが、長期の勾留後不起訴となった[[岸信介]]や[[笹川良一]]らについても、有罪判決を受けていないにも関わらず、日本国内の左翼系メディアや言論人のみならず欧米にさえ今日に至るまで「A級戦犯」と誤って、もしくは意図的に呼ぶ例が少なからず見受けられる&lt;ref&gt;John Dower, Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (New York: W.W. Norton, 1999, p.562([[ジョン・ダワー]]『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』[[三浦陽一]]・高杉忠明・田代泰子訳([[岩波書店]], 2001年/増補版, 2004年)、Franziska Seraphim, War Memory and Social Politics in Japan, 1945-2005 (Cambridge, MA: Harvard University Asia Center, p. 21.&lt;/ref&gt;。こうした用語法は、連合国の国民のみならず日本国民においてさえ、この裁判をめぐる議論において、「初めに有罪ありき」の前提で考える人が少なくないことを示しており、東京裁判肯定論、ひいては裁判そのものに対する不信感を醸成している。<br /> <br /> また、この判決について、東條をはじめ[[南京事件 (1937年)|南京事件]]を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員が[[BC級戦犯|BC級戦争犯罪]]でも有罪となっていたのが特徴であった。これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、[[BC級戦犯|BC級戦争犯罪]]を重視した結果であるとの指摘がある&lt;ref&gt;「東京裁判における日本の東南アジア占領問題」梶居佳広(立命館法学2012.)P.223[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-56/kajii.pdf]&lt;/ref&gt;。とくに松井は訴因55(通常の戦争犯罪・BC級)で有罪を宣告されており本来の意味で「A級戦犯」ではない。<br /> <br /> === 日本での評価 ===<br /> 左派勢力{{誰|date=2017年6月}}からは、この裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った『平和主義』を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に[[説明責任]]を負わせることができた」&lt;ref name=&quot;kyokun&quot;/&gt; として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になったとする見解もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではない)&lt;ref&gt;{{Cite book|和書<br /> |author=[[半藤一利]]<br /> |title=昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989<br /> |origdate=2006-04-11<br /> |publisher=平凡社<br /> |isbn=9784582454345<br /> }}&lt;/ref&gt;。日本におけるマスコミの論調、国民の間では、占領期を含めてかなり後まで「むしろ受容された形跡が多い」という&lt;ref&gt;{{cite book|和書|title=陰謀史観|author=秦郁彦|year=2012|page=134|publisher=新潮社|ISBN=978-4-10-610465-7}}&lt;/ref&gt;。[[宮台真司]]はこの裁判を、[[昭和天皇]]と日本国民の大部分から罪を取り除いて戦後の[[復興]]に向けた国際協力を可能にするために、もっぱら[[A級戦犯]]が悪かったという「虚構」を立てるものだったと位置づけ、A級戦犯だけが悪かったわけではないにせよ、虚構図式を踏襲するべきだと主張した&lt;ref&gt;{{cite|和書|title=おどろきの中国|author1=[[橋爪大三郎]]|author3=[[宮台真司]]|author2=[[大澤真幸]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社現代新書|isbn=978-4-06-288182-1|date=2013-2|pages=283-284}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> === 「東京裁判史観」 ===<br /> 東京裁判史観とは、東京裁判の判決をもとにした歴史認識のことで、満州事変から太平洋戦争にいたる日本の行動を「一部軍国主義者」による「共同謀議」にもとづいた侵略とする点を特色とする&lt;ref name=&quot;syoji&quot;&gt;庄司潤一郎「戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―」防衛研究所紀要4 (3),防衛庁防衛研究所,2002.&lt;/ref&gt;。この史観は[[連合国軍総司令部]][[民間情報教育局]]により昭和20年末から新聞各紙に連載された「[[太平洋戰爭史]]」によって一般に普及した&lt;ref name=syoji/&gt;。この史観は、「勝者の裁き」に由来する押しつけられた歴史認識として保守派から批判があり、また昭和天皇や731部隊の戦争責任が免責されたため進歩派からも問題点を指摘されている&lt;ref name=syoji/&gt;。<br /> <br /> [[秦郁彦]]によれば、[[1970年代]]に「東京裁判史観」という造語が論壇で流通し始めた&lt;ref name=&quot;秦2012&quot;&gt;{{cite book|和書|title=陰謀史観|author=秦郁彦|year=2012|page=132|publisher=新潮社|ISBN=978-4-10-610465-7}}&lt;/ref&gt;。東京裁判の否定論者は、東京裁判が認定した「日本の対外行動=侵略」という歴史観と、それに由来する「[[自虐史観]]」に反発の矛先を向けているという&lt;ref&gt;{{cite book|和書|title=陰謀史観|author=秦郁彦|year=2012|page=133|publisher=新潮社|ISBN=978-4-10-610465-7}}&lt;/ref&gt;。秦は[[渡部昇一]](英語学)、[[西尾幹二]](ドイツ文学)、[[江藤淳]]・[[小堀桂一郎]](国文学)、[[藤原正彦]](数学)、[[田母神俊雄]](自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や、非専門家の論客がこうした主張の主力を占め、「歴史の専門家」は少ないと指摘している&lt;ref&gt;{{cite book|和書|title=陰謀史観|author=秦郁彦|year=2012|pages=135-136|publisher=新潮社|ISBN=978-4-10-610465-7}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これらの論者があげる裁判そのものへの批判としては以下のような主張がある。<br /> * 審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である『[[紫禁城の黄昏]]』すら却下された&lt;ref&gt;[http://s03.megalodon.jp/2009-0510-2050-34/www.web-will.com/200501/200501nabe.html 満州は日本の侵略ではない / 渡部昇一] web-will&lt;/ref&gt;。&lt;!--<br /> * 上記に反論 - 検察側の提出した証拠と弁護側の提出した証拠のうち、却下されたものも採用されたものもほぼ同数{{要出典|date=2009年5月}}であり、起訴された人が審理において格別不利に扱いを受けたというわけではない([[粟屋憲太郎]]ら)。--&gt;&lt;!--記事の自己矛盾は避ける(反論等はノートで)--&gt;<br /> * 判決文には、証明力がない、関連性がないなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。&lt;ref&gt;小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』(講談社学術文庫、新版・[[ちくま学芸文庫]])&lt;/ref&gt;<br /> <br /> また[[江藤淳]]によればGHQは占領下の日本において[[プレスコード]]などを発して徹底した[[検閲]]、[[言論統制]]を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したといわれる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた([[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]])、とも主張している&lt;ref&gt;{{cite book|和書|title=陰謀史観|author=秦郁彦|year=2012|pages=138|publisher=新潮社|ISBN=978-4-10-610465-7}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 秦は裁判の否定論者が「好んでとりあげる論点」として以下の例を挙げている&lt;ref&gt;{{cite book|和書|title=陰謀史観|author=秦郁彦|year=2012|pages=133-137|publisher=新潮社|ISBN=978-4-10-610465-7}}&lt;/ref&gt;。<br /> #侵略も残虐行為も「お互いさま」なのに「勝者の裁き」だったゆえに敗者の例だけがクローズアップされたと強調する。<br /> #「[[パール判決書]]」を「日本無罪論」として礼賛する。<br /> #講和条約11条で受諾したのは「裁判」ではなく「判決」と訳すべきだったと強調する。<br /> #二次的所産の歴史観を批判の対象とする。<br /> &lt;!---<br /> {{要出典範囲|date=2014年5月|2005年にアメリカ下院は、下院決議をおこない、現在も「極東国際軍事裁判の決定、及び“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決は有効」との立場を取っている(2005年7月14日決議)}}。しばしば誤解されているが極東軍事裁判では「人道に対する罪」で起訴された被告はいないため、決議における「極東国際軍事裁判の決定」と「“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決」は別の対象をさしている。---&gt;<br /> <br /> == 関連作品 ==<br /> ;小説<br /> * [[豊田穣]] 『小説・東京裁判』 講談社 ISBN 4062005484<br /> * [[松本清張]] 『砂の審廷 小説東京裁判』 ちくま文庫 ISBN 4480424636<br /> * [[山崎豊子]] 『[[二つの祖国]]』 新潮文庫(上中下)。のち新潮社『全集 16〜18』(昭和59年[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]] 『[[山河燃ゆ]]』の原作)<br /> * [[城山三郎]] 『[[落日燃ゆ]]』 新潮文庫 主人公は[[広田弘毅]]<br /> * [[猪瀬直樹]] 『ジミーの誕生日』文藝春秋<br /> <br /> ;映画<br /> * 『大東亜戦争と国際裁判』(1959年)&lt;ref&gt;{{Movie Walker|mv25866|大東亜戦争と国際裁判}}&lt;/ref&gt;<br /> * 『[[私は貝になりたい]]』(1959年、2008年)<br /> * 『[[東京裁判 (映画)|東京裁判]]』(1983年)<br /> * 『[[プライド・運命の瞬間]]』(1998年)<br /> * 『東京審判』 (2006年 中国)<br /> <br /> ;テレビ<br /> * 『私は貝になりたい』(1958年 [[TBSテレビ|TBS]]の前身『ラジオ東京テレビ』で放映された[[テレビドラマ]]。1994年にも同局でリメイク版が放映)<br /> * 『日本の戦後 審判の日 極東国際軍事裁判』(1977年)<br /> * 『[[山河燃ゆ]]』(1984年 山崎豊子『二つの祖国』を原作にした[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]])<br /> * 『[[ドラマ 東京裁判]]』(2016年 [[NHKスペシャル]])<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> {{Refbegin}}<br /> ;裁判資料<br /> * [[清瀬一郎]]『秘録東京裁判』(読売新聞社、1967年/[[中公文庫]] 1986年、改版2002年)<br /> * [[冨士信夫]]『私の見た東京裁判』 [[講談社学術文庫]](上・下)、1988年<br /> * [[ベルト・レーリンク|B・V・A・レーリンク]] &amp; A・カッセーゼ 『レーリンク判事の東京裁判―歴史的証言と展望』[[小菅信子]]訳、新曜社 1996年<br /> **改訂新版『東京裁判とその後 ある平和家の回想』 中公文庫、2009年<br /> * 東京裁判研究会編 『共同研究 パル判決書』 講談社学術文庫(上・下) ISBN 4061586238、ISBN 4061586246<br /> * [[ラダ・ビノード・パール]] 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』[[中村粲]]監修(国書刊行会、1999年)、ISBN 4336041105<br /> * ラダビノード・パール『東京裁判 全訳パール判決書』都築陽太郎訳([[幻冬舎]]、2016年)<br /> *梅汝璈『东京大审判—远东国际军事法庭中国法官梅汝璈日记』江西教育出版社 2005年<br /> * 東京裁判資料刊行会 『東京裁判却下未提出弁護側資料』 国書刊行会、1995年&lt;br&gt; (第1巻〜4巻組) ISBN 4336036810、(第5巻〜8巻組) ISBN 4336036829<br /> ** 抜粋版『東京裁判 日本の弁明 「却下未提出弁護側資料」抜粋』[[小堀桂一郎]]編、講談社学術文庫、1995年<br /> ***新版『東京裁判 幻の弁護側資料―却下された日本の弁明』[[ちくま学芸文庫]]、2011年<br /> *『極東国際軍事裁判審理要録 東京裁判英文公判記録要訳』、[[原書房]]「明治百年史叢書」、2013年~刊行中<br /> : [[国士舘大学]]法学部比較法制研究所(篠原敏雄ほか)監修、松元直歳編・監訳。山本昌弘・松元直歳要訳<br /> ;参考文献<br /> * アーノルド・C・ブラックマン、日暮吉延訳『東京裁判―もう一つのニュルンベルク』([[時事通信社]]、1991年) ISBN 4788791277<br /> *家永三郎「十五年戦争とパール判決書」「みすず」1967年7月号<br /> *石田清史「近代日本に於る参審の伝統」苫小牧駒澤大学紀要、第14号2005.11<br /> * 牛村圭『「文明の裁き」をこえて 対日戦犯裁判読解の試み』(中央公論新社〈中公叢書〉、2001年)<br /> * [[牛村圭]]『再考「世紀の遺書」と東京裁判 対日戦犯裁判の精神史』(PHP研究所、2004年)<br /> * 牛村圭『勝者の裁きに向きあって 東京裁判をよみなおす』([[ちくま新書]]、2004年)<br /> * 牛村圭・日暮吉延 『東京裁判を正しく読む』([[文春新書]]、2008年)<br /> *大岡優一郎『東京裁判 フランス人判事の無罪論』(文春新書、2012年)<br /> *梶居佳広「東京裁判における日本の東南アジア占領問題 検察側立証を中心に」立命館法學 2012(5・6), 3291-3332, 2012<br /> * [[児島襄]]『東京裁判』(上・下)、[[中央公論新社#中公新書|中公新書]]/[[中公文庫]]、新版2007年<br /> * [[佐藤和男]]監修『世界がさばく東京裁判』([[明成社]]、2005年)<br /> *佐藤和男「[http://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v260/38~43.pdf 国際法の観点から考える東京裁判の正しい理解]」LEC『法律文化』 2005 November<br /> *島田征夫「東京裁判と罪刑法定主義」早稲田大学社会安全政策研究所紀要 (1), 199-223, 2007<br /> *庄司潤一郎「戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―」防衛研究所紀要4 (3),防衛庁防衛研究所, 2002.<br /> *城山英巳「[http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/44230/1/SocioScience_20_Shiroyama.pdf 国民政府「対日戦犯リスト」と蒋介石の意向-天皇の訴追回避と米国の影響に関する研究]」ソシオサイエンス Vol. 20 2014年3月早稲田大学大学院社会科学研究科<br /> * 菅原裕『東京裁判の正体』([[国書刊行会]](復刻版)、2002年)<br /> * Franziska Seraphim, War Memory and Social Politics in Japan:1945-2005 (Cambridge, MA: Harvard University Asia Center)<br /> * [[太平洋戦争]]研究会編『東京裁判パル判決書の真実―なぜ日本無罪を主張したのか』 PHP研究所<br /> * 太平洋戦争研究会・平塚柾緒編 『図説 東京裁判』 (&amp;lt;ふくろうの本&amp;gt; [[河出書房新社]])。新版『東京裁判の全貌』[[河出文庫]])<br /> * [[瀧川政次郎]]『東京裁判をさばく』 (慧文社(新版)、2006年)<br /> * 武田珂代子『東京裁判における通訳』 みすず書房、2008年、新版2017年<br /> * 戸谷由麻『東京裁判 第二次大戦後の法と正義の追求』 [[みすず書房]]、2008年、新版2018年<br /> * [[ジョン・ダワー]]『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳([[岩波書店]], 2001年、増補版2004年)<br /> * 『東京裁判はなにを裁いたのか &amp;lt;別冊[[歴史読本]]95&amp;gt;』([[新人物往来社]]、2008年)<br /> *{{Cite journal |和書 |author = 野呂浩 |title = パール判事研究 : A級戦犯無罪論の深層 |date = 2008 |publisher = 東京工芸大学 |journal = 東京工芸大学工学部紀要. 人文・社会編 |volume = 31(2) |naid = 110007018277 |pages = 43-49 |ref = harv}}<br /> *ハンキー卿『戦犯裁判の錯誤』[[長谷川才次]]訳、時事通信社、1952年<br /> * [[保阪正康]]『東京裁判の教訓』([[朝日新聞出版]]〈[[朝日新書]]〉)ISBN 9784022732200<br /> * [[半藤一利]]、保阪正康、[[井上亮 (ジャーナリスト)|井上亮]] 『「東京裁判」を読む』 ([[日本経済新聞出版社]]、2009年)<br /> * 竹内修司 『創られた「東京裁判」』([[新潮社]]〈[[新潮選書]]〉、2009年)ISBN 4106036452<br /> *[[日暮吉延]]「{{PDFlink|[http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/16283/1/AN00040410_v16_p29-57.pdf 東京裁判の弁護側 : 日本人弁護団の成立とアメリカ人弁護人]}}」鹿児島大学社会科学雑誌, 16: 29-57,1993年<br /> *[[日暮吉延]]「ハンス・ケルゼンと戦犯裁判(一)『法律時報』日本評論社2000年1月号.<br /> *日暮吉延「ハンス・ケルゼンと戦犯裁判(二)」『法律時報』日本評論社2000年2月号.<br /> *日暮吉延『東京裁判の国際関係ー国際政治における権力と規範ー』 木鐸社 2002年<br /> * [[日暮吉延]] 『東京裁判』([[講談社現代新書]]、2008年)<br /> *ファン・プールヘースト『東京裁判とオランダ』(水島治郎・塚原東吾訳、粟屋憲太郎解説、みすず書房、1997年)<br /> * R・H・マイニア、安藤仁介訳『東京裁判―勝者の裁き』福村出版、1971年、ISBN 457131003X<br /> * [[粟屋憲太郎]]『東京裁判への道』 講談社選書メチエ(上・下)、2006-07年/講談社学術文庫、2013年<br /> * [[中島岳志]]『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』 [[白水社]]、2007年/白水uブックス、2012年<br /> * {{Cite journal|和書|author= 林博史 |title=ニュージーランドと戦犯裁判 : 戦犯裁判終了へのイニシアティブ |journal=自然人間社会 |date=2013|volume=54 |naid=120005289599|pages=51-70 |ref=harv}}<br /> * {{Cite journal|和書|author= 林博史|title=連合国戦争犯罪政策の形成 : 連合国戦争犯罪委員会と英米(下)|date=2004-7 |publisher=関東学院大学経済学部教養学会|journal=自然・人間・社会 |volume=37 |naid=40006431975|pages=1-42 |ref=harv}}<br /> *「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110008582765 現代国際法社会における東京裁判の意義]」斉藤洋(東洋法学 2007-10-15)<br /> * [[小林よしのり]] 『いわゆるA級戦犯』幻冬舎<br /> * [[渡部昇一]]『「東京裁判」を裁判する』 ([[致知出版社]])<br /> * 渡部昇一 『パル判決書の真実―いまこそ東京裁判史観を断つ』([[PHP研究所]])<br /> <br /> {{Refend}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|International Military Tribunal for the Far East}}<br /> * [[A級戦犯]]<br /> * [[BC級戦犯]]<br /> * [[ニュルンベルク裁判]]<br /> * [[ハバロフスク裁判]]<br /> * [[日本の戦争犯罪]]<br /> * [[アメリカの戦争犯罪]]<br /> * [[法の不遡及]]<br /> * [[広田判例]]<br /> * [[プレスコード]] - [[日本における検閲]] - [[太平洋戦争史観]]<br /> * [[白菊遺族会]] - 戦犯者の遺族の会<br /> * [[世紀の遺書]]<br /> * [[長洲一二]] - 極東軍事裁判所言語部職員。後に[[横浜国立大学]]教授、[[神奈川県知事]]等を歴任。<br /> * [[森山眞弓]] - アルバイトで同裁判の翻訳に関わる(当時は結婚前の「古川」姓)。後に[[参議院議員]]、[[内閣官房長官]]、[[法務大臣]]などを歴任。<br /> * [[南京事件 (1937年)]] - [[南京事件論争]] - [[南京事件の証言]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * 国立国会図書館憲政資料室「[https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/IMTFE.php 極東国際軍事裁判記録(当館所蔵分)]」 2014年1月28日更新(2014年5月8日閲覧)<br /> *{{Cite book|和書|id={{近代デジタルライブラリー|1079047}}|title=極東国際軍事裁判公判記録. 第1 検事側総合篇}} - [[近代デジタルライブラリー]]ではその他の公判記録、判決文なども公開されている。<br /> *[http://lib.law.virginia.edu/imtfe/ The Tokyo War Crimes Trial | A Digital Exhibition] - [[バージニア大学]]法科大学院図書館による東京裁判のデジタルライブラリー(英語)<br /> *国立国会図書館憲政資料室「[https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/SWNCC-SANACC.php Records of the State-War-Navy Coordinating Committee, 1944-1949国務・陸軍・海軍三省(国務・陸軍・海軍・空軍四省)調整委員会文書(当館収集分)]」。2014年5月8日閲覧<br /> <br /> {{太平洋戦争・詳細}}<br /> <br /> {{history-stub}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:きよくとうこくさいくんしさいはん}}<br /> [[Category:太平洋戦争]]<br /> [[Category:東京裁判|*]]</div> 240B:11:4A00:400:54DE:A88F:4BA5:17FA プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 2018-07-18T05:05:17Z <p>240B:11:4A00:400:54DE:A88F:4BA5:17FA: /* 日本語訳 */</p> <hr /> <div>[[ファイル:Die protestantische Ethik und der &#039;Geist&#039; des Kapitalismus original cover.jpg|200px|right|thumb|[[ドイツ語]]初版本]]<br /> 『&#039;&#039;&#039;プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神&#039;&#039;&#039;』(プロテスタンティズムのりんりとしほんしゅぎのせいしん、&#039;&#039;Die protestantische Ethik und der &#039;Geist&#039; des Kapitalismus&#039;&#039;)は、[[ドイツ]]の社会学者[[マックス・ヴェーバー]]によって[[1904年]]~[[1905年]]に著された論文。大学教育現場などでは『&#039;&#039;&#039;プロ倫&#039;&#039;&#039;』と略する。<br /> <br /> [[プロテスタント]]の世俗内禁欲が資本主義の「精神」に適合性を持っていたという、逆説的な論理を提出し、近代[[資本主義]]の成立を論じた。<br /> <br /> [[1998年]]に[[国際社会学会]]が選出した「20世紀の名著 トップ10」では第4位となっている&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://www.isa-sociology.org/books/books10.htm|title=Books of the Century|accessdate=2015-02-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121010230113/http://www.isa-sociology.org/books/books10.htm|archivedate=2012年10月10日|deadurldate=2017年9月}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[1930年]]には[[タルコット・パーソンズ]]によって英訳され『&#039;&#039;The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism&#039;&#039;』の題でアメリカで出版された&lt;ref&gt;{{Cite web|url=http://books.google.co.jp/books?id=4MmligHndssC&amp;redir_esc=y|title=The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism|accessdate=2015-02-21}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 論旨 ==<br /> [[オランダ]]、[[イギリス]]、[[アメリカ]]などのように、[[カルヴァン派|カルヴィニズム]]の影響が強い国では、非合理性を持った合理主義によって、近代資本主義が発達した。一方、イタリアやスペインなどのように、カトリックの影響が強く、実践的合理性の顕著な国や、ドイツなどでは&lt;!--- ←ヴェーバーは、故国ドイツ内で現代に至るまで拮抗しているカトリックとルーテル派との行動パターンの比較から、この本の着想を得ている。また、ルーテル派が資本主義に適合していないとは述べていない 。---&gt;、資本主義の発達が遅れた。これは偶然ではない。資本主義の「精神」とカルヴィニズムの間には、因果関係が存在するのである。ここでいう資本主義の「精神」とは、単なる拝金主義や利益の追求ではない。合理的な経営・経済活動を非合理的に支える[[エートス]]である。<br /> <br /> ヴェーバーによると、以下のようになる。<br /> <br /> [[カルヴァン]]の[[予定説]]では、救済される人間は、あらかじめ決定されている。したがって、人間の努力や善行の有無などによって、その決定を変更することはできない。つまり、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないのである。また、人間は、神の意思を知ることができない。したがって、自分が救済されるのかどうかをあらかじめ知ることはできない。<br /> <br /> 予定説における決定論は、仏教における[[因果論]]とは正反対の論理である。因果論においては、「善行を働けば(因)救われる(果)」のであるから、人間の神や仏に対する働きかけ(たとえば、寺院への[[お布施]]や教会への寄付は、救済を金で買う行為であると言える)によって、救済が可能である。しかし、それはある意味では、自分が救済されるために、神や仏を道具として使うことである。そのため、それは、神に対する冒涜である。そこで、カルヴァン主義では、神の絶対性を守るために、予定説が採用された。そして、予定説においては、神は、人間の行為や意思に一切左右されることなく、絶対専制君主として振舞うのである。<br /> <br /> 予定説によれば、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれない。となると、人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。<br /> <br /> キリスト教においては、人生は一度きりであり、仏教のように何度も生まれ変わる([[輪廻転生]])ということはない。そして、死後(第1の死)に再び肉体を与えられて、[[最後の審判]]に臨むときに、救済される人間として選ばれなかった者は、永遠の地獄に落ちる、あるいは、消滅する(第2の死)。そして、そうなってしまえば、救済や復活は、もう二度と起こらない。<br /> <br /> このように、善行を働いても救われるとは限らない。また、自分が救われているかどうかをあらかじめ知ることもできない。そして、もし選ばれていなかったら自分は永遠の地獄に落ち、二度と救済されることがない。このような予定説の恐るべき論理は、人間に恐怖と激しい精神的緊張を強いる。そして、人々は、そこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出した。そして、一切の欲望や贅沢や浪費を禁じ、それによって生まれたエネルギーのすべてを、信仰と労働(神が定めた職業、召命、天職、ベルーフ)のみに集中させた。こうして、人々は、禁欲的労働(世俗内禁欲、行動的禁欲、アクティブ・アスケーゼ)というエートスを生み出したのである。<br /> <br /> そうして、人々は、世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献した。そして、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになったのである。<br /> <br /> しかし、禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響は、それだけではない。禁欲的プロテスタンティズムは、「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出した。つまり、金儲けに正当性を与えたのである。<br /> <br /> それまで、金儲けは、高く評価されるものではなかった。そして、プロテスタンティズム、特にカルヴァン主義は、最も禁欲的であり、金儲けを強硬に否定する宗教であった。<br /> <br /> 金儲けに正当性が与えられない社会では、金儲けは当然抑制され、近代資本主義社会へと発展することはないはずである。<br /> <br /> しかし、最初から利潤の追求を目的とするのではなく、行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その「結果として」利潤を得るのであれば、その利潤は、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという「隣人愛」の実践の結果であり、その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証である。このようにして、皮肉なことに、最も金儲けに否定的な禁欲的な宗教が、金儲けを積極的に肯定する論理と近代資本主義を生み出したのである。<br /> <br /> 人々は、「結果として」の利潤の追求に励むことになる。利潤の多寡は、「隣人愛」の実践の証であり、救済を確信させる証である。そのため、多ければ多いほど望ましいとされた。そして、より多くの利潤を得るためには、寸暇を惜しんで勤勉に労働しなければならない。そのため、人々は時計を用い、自己の労働を時間で管理するエートスが成立した。このことを端的に示す諺が「時は金なり」である。厳格な時間管理の意識は、『近代』的な価値観の特徴のひとつである。そして、スイスなどのプロテスタント圏で時計産業が発達したのも、決して偶然ではない。<br /> <br /> それまでの人類の労働のあり方は、南欧のカトリック圏(非プロテスタント圏)に見られるように、日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり([[シエスタ]])、日が沈むと仕事を終えるというようなものであった。つまり、実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが、生産性の低いものであったのである。<br /> <br /> しかし、プロテスタンティズムは、人類の中に眠っていた莫大な生産力を引き出したのであった。<br /> <br /> また、[[サクラメント]]などの、非合理な呪術・魔術は、救済に一切関係がない。そのため、そういったことは禁止され、合理的な精神を育てるようになった(呪術・魔術の園[ツァウバー・ガルテン]からの解放)。<br /> <br /> 節約(無駄を省くなどの支出の抑制)のために、収支を管理して合理的経営を行うのに不可欠な[[複式簿記]]が導入された。また、生産性を上げるために、科学的合理的精神に基づいた効率の良い生産方法が導入された。<br /> <br /> 禁欲的労働によって蓄えられた金は、消費によって浪費されることなく貯蓄された(資本蓄積)。<br /> <br /> 資本蓄積では、古典的資本主義とは違って、獲得された資本が、財貨財宝などの形に置き換えられる。そのため、資本は、資本としての本質を棄損されることなく、恒常的資本という性質を獲得した。そして、利潤追求のために不断に再投資されることになった。<br /> <br /> このように、プロテスタンティズムが生み出した勤勉の精神や合理主義は、近代的・合理的な資本主義の「精神」に適合し、近代資本主義を誕生させた(資本主義の「精神」を体現した人物としては、[[ベンジャミン・フランクリン]]が挙げられる)。<br /> <br /> こうして、プロテスタンティズムの信仰が、結果として、近代資本主義の誕生させ、それを発展させた。しかし、近代化が進展するとともに信仰が薄れてゆくと(世俗化)、宗教としての色彩が弱まり、利潤追求自体が自己目的化するようになった。また、「内からの動機」に基づくものであった利潤追求が、「外圧的な動機」によるものに変貌していった。そして、現代資本主義社会では、外圧的な動機付けによって、それに適合した人間と資本主義の精神を再生産しながら、動き続ける。ただし、それは人々の内面的な動機によって支えられたものではない。そのため、そこに、現代資本主義社会の存続の危機があるのである。<br /> <br /> 現代社会に生きる我々は、知らず知らずの内に、宗教的な生き方を強制されている。現代社会で当たり前とされる労働のあり方は、地理的歴史的に見れば、決して普遍的なものではなく、極めて特殊で、地域的時代的宗教的なものなのである。<br /> == 大塚・山之内によるイギリス病の問題 ==<br /> [[大塚久雄]]によると、プロテスタンティズムの職業倫理(天職観念)を喪失した結果、イギリス病(人間が怠惰になり労働しない)が生まれたとしている&lt;!--本当にそんなこと言ったの?--&gt;。職業倫理を喪失した資本主義は、営利追求の精神のみが人々の間に外圧的に存在することになり、健全ではないとして、その復興を呼びかけている。(ちなみに大塚は[[無教会主義]]のクリスチャンである)<br /> <br /> この大塚久雄の論に対し、彼の弟子である[[山之内靖]]は、ヴェーバーが考えたのは禁欲的プロテスタンティズムと資本主義に内在する非人間的側面への批判であるとしている。<br /> &lt;!---ヴェーバーによればプロテスタントの信仰を支えたのは教団(sekten)である---&gt;<br /> == 羽入・折原による資料引用をめぐる論争 ==<br /> [[羽入辰郎]]は『マックス・ヴェーバーの犯罪――『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』において、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』での記述の資料引用の恣意性や手抜きを指摘し、「『プロ倫』はでっち上げであり、ヴェーバーは[[詐欺師]]である」と激しく批判&lt;ref&gt;羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』、ミネルヴァ書房、[[2002年]]&lt;/ref&gt;。この著書によって羽入は[[山本七平賞]]を受賞した。<br /> <br /> ヴェーバー研究者の[[折原浩]]はこれに対して、羽入の『マックス・ヴェーバーの犯罪』における指摘自体に多くの錯誤があるなどの問題点を指摘し、「学術書ならぬキワモノ本」と強い批判を加え&lt;ref&gt;折原浩『ヴェーバー学のすすめ』、未來社、[[2003年]]&lt;/ref&gt;、『ヴェーバー学のすすめ』をはじめとする複数の反論書を出版した<br /> == 日本語訳 ==<br /> * 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』([[大塚久雄]]訳、岩波文庫+ワイド版)<br /> * 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』([[梶山力]]訳、[[安藤英治]]編&lt;ref&gt;梶山訳は戦前に刊行された、最初の日本語訳である。編者・安藤はウェーバ研究者で、詳細な校訂を行っている。&lt;/ref&gt;、未來社)<br /> * 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』([[中山元]]訳、日経BPクラシックス)<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> &lt;references/&gt;<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> * [http://www.zeno.org/Soziologie/M/Weber,+Max/Schriften+zur+Religionssoziologie/Die+protestantische+Ethik+und+der+Geist+des+Kapitalismus Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus] ドイツ語の原文<br /> * [http://xroads.virginia.edu/~HYPER/WEBER/cover.html The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism] 英語版<br /> * [http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Dabate.htm マックス・ウェーバーをめぐる羽入-折原論争の展開] - 羽入・折原の論争について[[橋本努]]がまとめたもの。<br /> <br /> <br /> {{DEFAULTSORT:ふろてすたんていすむのりんりとしほんしゆきのせいしん}}<br /> [[Category:社会学書]]<br /> [[Category:ドイツの政治書]]<br /> [[Category:1900年代の書籍]]<br /> [[Category:プロテスタント]]<br /> [[Category:資本主義]]<br /> [[Category:マックス・ヴェーバーとその著作]]<br /> [[Category:労働社会学]]</div> 240B:11:4A00:400:54DE:A88F:4BA5:17FA
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