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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=240B%3A11%3A4A00%3A400%3A186%3AB8A7%3AB399%3A5B2C miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-31T16:41:44Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 野呂邦暢 2018-08-13T04:28:45Z <p>240B:11:4A00:400:186:B8A7:B399:5B2C: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;野呂 邦暢&#039;&#039;&#039;(のろ くにのぶ、[[1937年]]([[昭和]]12年)[[9月20日]] - [[1980年]](昭和55年)[[5月7日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。[[長崎県]][[長崎市]]出身。本名は納所邦暢(のうしょ くにのぶ)。自らの自衛隊体験や、戦後住んだ[[諫早市]]を舞台にした小説・随筆を数多く残した。<br /> <br /> == 生涯 ==<br /> 長崎市岩川町に土建業を営む両親のもとに、6人兄弟の次男として生まれる。1945年[[長崎市立銭座小学校|銭座国民学校]]2年の時に父が応召したため、母の実家で祖母と叔父の住む[[諫早市]]に疎開。[[長崎市への原子爆弾投下|長崎の原爆投下]]で爆発を目撃、この被害により長崎市に残した家財一切を失い、戦後も諫早に住む。1950年[[諫早市立北諫早中学校|北諫早中学校]]に入学。1953年[[長崎県立諫早高等学校・附属中学校|諫早高校]]に入学し、美術部に入部、文学や芸術一般に興味を持つ。1956年[[京都大学]]文学部を受験するが失敗し、予備校に通うために[[京都市]]に下宿するが、父が事業に失敗し入院したため帰郷。その秋に東京に出て、[[上野]]近くのガソリンスタンドの店員となり、その後喫茶店やラーメン屋など職を転々とする。<br /> <br /> 体を壊して帰郷し、1957年に[[佐世保]][[陸上自衛隊]]入隊。7月に[[諫早豪雨|諫早大水害]]が起きたために3日の休暇をもらって自宅に帰ると、氾濫した[[本明川]]沿いにあった自宅は全壊していた。訓練の後に北海道千歳に配属され、1958年に除隊し諫早に帰郷、家庭教師などで生計を立て、この頃諫早生まれの詩人[[伊東静雄]]に影響を受け、詩作を試みる。1962年に『[[日本読書新聞]]』20周年記念論文に応募し、ルポタージュ「兵士の報酬-第八教育隊」が入選し、新聞に掲載される。その後小説を書き始め、1964年『[[自由社|自由]]』誌に短編「双頭の鷲のもとに」を応募するが入選せず。1965年に『[[日本読書新聞]]』に[[岡村昭彦]]『南ベトナム従軍記』の書評が掲載、「ある男の故郷」にて第21回[[文學界新人賞]]佳作となり小説家デビュー。1966年に「双頭の鷲のもとに」を原型とした「壁の絵」を発表し、芥川賞候補となる。1967年に「白桃」で芥川賞候補。1968年発表の「十一月」が、『[[毎日新聞]]』文芸時評で[[平野謙 (評論家)|平野謙]]によりその年のベスト3に挙げられた。<br /> <br /> 1969年諫早市の成人大学で文学講座を担当。1970年[[長崎ウエスレヤン短期大学|鎮西学院短期大学]]で文学講座を担当。1971年結婚、この頃NHK福岡放送局のラジオドラマの原作を書いていた。1972年芥川賞候補。1973年に最初の作品集『十一月 水晶』刊行、「鳥たちの河口」で芥川賞候補、伊東静雄を偲ぶ菜の花忌で講演、[[長崎大学病院|長崎大学付属病院]]で胆嚢の手術を受ける。また「諫早の自然を守る会」の代表となり、[[諫早湾干拓事業]]に反対の立場を示す。<br /> <br /> [[1973年]]に自らの自衛隊員としての体験を基にした作品『草のつるぎ』が文芸誌『[[文學界]]』12月号に掲載され、この作品で翌[[1974年]](昭和49年)第70回[[芥川賞]]受賞&lt;ref name=&quot;article/206822&quot;&gt;{{Cite news|url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/nagasaki/article/206822|title=野呂邦暢の直筆原稿を初公開 芥川賞受賞作、県立長崎図書館|newspaper =[[西日本新聞]]|date=2015-11-12|accessdate=2015-11-13}}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 歴史にも関心を持ち、『諫早菖蒲日記』(1977年)などの[[歴史小説]]、また[[集英社]]コバルトシリーズで少女小説『文彦のたたかい』(1978年)などを執筆。1979年に離婚。<br /> <br /> 1980年5月7日、[[心筋梗塞]]により諫早市の自宅で急死した。42歳没。戒名は恭徳院祐心紹泰居士&lt;ref&gt;[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)258頁&lt;/ref&gt;。諫早市金谷町公有墓地の納所家の墓に埋葬される。毎年5月最終日曜日には、野呂を偲び、諌早市[[上山公園]]の文学碑の前で「菖蒲忌」が行われる。<br /> <br /> 1952年15歳の頃から太平洋戦争の戦記を蒐集し始め&lt;ref&gt;[[大澤信亮]]「解説」(『失われた兵士たち-戦争文学試論』文春学藝ライブラリー 2015年)&lt;/ref&gt;、1975年から自衛隊員向け会誌『修親』に『失われた兵士たち-戦争文学試論』を連載、唯一の評論となっている。<br /> <br /> 6000冊の蔵書や自筆原稿は母親から諫早市に寄贈された。1986年に諫早[[上山公園]]に野呂邦暢文学碑が建立される。2001年には新諫早図書館に「野呂邦暢ー人と文学」常設展示コーナーが設置された。なお、芥川受賞作『草のつるぎ』の直筆原稿は没後に古書店を転々としていたが、[[2014年]]に[[長崎県立長崎図書館]]が購入し所蔵している&lt;ref name=&quot;article/206822&quot;/&gt;。<br /> <br /> == 作品 ==<br /> * 『十一月 水晶』[[冬樹社]]、1973/改題『壁の絵』[[角川文庫]]、1977<br /> * 『海辺の広い庭』[[文藝春秋]]、1973/『海辺の広い庭』角川文庫、1978<br /> * 『鳥たちの河口』文藝春秋、1973/[[集英社文庫]]、1978<br /> * 『日が沈むのを』有光株式会社、1974<br /> * 『草のつるぎ』文藝春秋、1974/[[文春文庫]]、1978<br /> * 『冬の皇帝』鶴声居、1975<br /> * 『恋人』鶴声居、1975<br /> * 『一滴の夏』文藝春秋、1976/集英社文庫、1980<br /> * 『ふたりの女』[[集英社]]、1977<br /> * 『王国そして地図』集英社、1977<br /> * 『諫早菖蒲日記』文藝春秋、1977/文春文庫、1985/梓書院、2010(新版)<br /> * 『失われた兵士たち 戦争文学試論』芙蓉書房、1977(新版1983)/『戦争文学試論』芙蓉書房出版、2002 <br /> **『失われた兵士たち 戦争文学試論』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2015<br /> * 『猟銃』集英社、1978<br /> * 『文彦のたたかい』[[コバルト文庫|集英社文庫コバルト]]シリーズ、1978<br /> * 『水瓶座の少女』集英社文庫コバルトシリーズ、1979<br /> * 『古い革張椅子』集英社、1979<br /> * 『地峡の町にて』[[沖積舎]]、1979<br /> * 『愛についてのデッサン-佐古啓介の旅』[[角川書店]]、1979/[[みすず書房]]〈大人の本棚〉、2006 <br /> * 『落城記』文藝春秋、1980/文春文庫、1984。[[西郷信尚]]の一族の滅亡を描いた遺作でドラマ化<br /> * 『丘の火』文藝春秋、1980<br /> * 『小さな町にて』文藝春秋、1982<br /> * 『野呂邦信・長谷川修往復書簡集』陸封魚の会編、[[葦書房]]、1990 <br /> * 『野呂邦暢作品集』文藝春秋、1995<br /> * 『草のつるぎ・一滴の夏 野呂邦暢作品集』[[講談社文芸文庫]]、2002、他3篇<br /> * 『夕暮の緑の光 野呂邦暢随筆選』[[岡崎武志]]編、みすず書房〈大人の本棚〉、2010 <br /> * 『白桃 野呂邦暢短篇選』[[豊田健次]]編、みすず書房〈大人の本棚〉、2011<br /> * 『野呂邦暢 随筆コレクション1 兵士の報酬』みすず書房、2014<br /> * 『野呂邦暢 随筆コレクション2 小さな町にて』みすず書房、2014<br /> * 『野呂邦暢小説集成』文遊社(全9巻)、全巻解説中野章子<br /> *#『棕櫚の葉を風にそよがせよ』2013<br /> *#『日が沈むのを』2013<br /> *#『草のつるぎ』2014<br /> *#『冬の皇帝』2014<br /> *#『諫早菖蒲日記・落城記』2015<br /> *#『猟銃・愛についてのデッサン』2016<br /> *#『水瓶座の少女』2016<br /> *#『丘の火』2017<br /> *#『夜の船』2018<br /> <br /> == 注 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *中野章子「年譜」(『草のつるぎ・一滴の夏 野呂邦暢作品集』講談社文芸文庫)<br /> <br /> {{芥川賞|第70回}}<br /> {{Authority control}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:のろ くにのふ}}<br /> [[Category:日本の小説家]]<br /> [[Category:芥川賞受賞者]]<br /> [[Category:長崎県出身の人物]]<br /> [[Category:自衛隊出身の人物]]<br /> [[Category:1937年生]]<br /> [[Category:1980年没]]</div> 240B:11:4A00:400:186:B8A7:B399:5B2C チャールズ・ウィロビー 2018-08-13T01:11:25Z <p>240B:11:4A00:400:186:B8A7:B399:5B2C: /* 著作 */</p> <hr /> <div>{{独自研究|date=2013年4月}}{{出典の明記|date=2013年4月7日 (日) 17:03 (UTC)|ソートキー=人1972年没}}<br /> {{基礎情報 軍人<br /> | 氏名 = チャールズ・ウィロビー<br /> | 各国語表記 = Charles Andrew Willoughby<br /> | 生年月日 = [[1892年]][[3月8日]]<br /> | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1892|3|8|1972|10|25}}<br /> | 画像 = Charles Willoughby 1918.jpg<br /> | 画像サイズ = <br /> | 画像説明 = <br /> | 渾名 = [[赤狩り]]のウイロビー<br /> | 生誕地 = {{DEU1871}}、[[ハイデルベルク]]<br /> | 死没地 = {{USA}}、[[フロリダ州]] ナポリ<br /> | 所属政体 = {{USA}}<br /> | 所属組織 = {{USARMY}}<br /> | 軍歴 = 1910 - 1952<br /> | 最終階級 = 陸軍[[少将]]<br /> | 指揮 = <br /> | 部隊 = <br /> | 戦闘 = [[第一次世界大戦]]&lt;br /&gt;[[第二次世界大戦]]&lt;br&gt;[[朝鮮戦争]]<br /> | 戦功 = <br /> | 賞罰 = [[殊勲十字章 (アメリカ合衆国)|殊勲十字章]]&lt;br /&gt;銀星章<br /> | 除隊後 = [[中央情報局|CIA]]設立に貢献<br /> | 廟 = <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;チャールズ・アンドリュー・ウィロビー&#039;&#039;&#039;(&#039;&#039;&#039;Charles Andrew Willoughby&#039;&#039;&#039;, [[1892年]][[3月8日]]-[[1972年]][[10月25日]])は[[アメリカ陸軍]]の[[軍人]]。最終階級は[[少将]]。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]下においては[[ダグラス・マッカーサー]]将軍の情報参謀で、戦後は[[連合国軍最高司令官総司令部]][[参謀第2部]] (G2) 部長として、戦後の[[日本]]の進路に影響を与えたと言われる。[[反共主義]]者としても知られ「[[赤狩り]]のウイロビー」とも呼ばれた。<br /> <br /> ==生涯==<br /> ===第二次世界大戦までの経歴===<br /> ウィロビーは[[1892年]][[3月8日]]にドイツ[[ハイデルベルク]]にて[[ドイツ人]]の父 (T.von Tscheppe-Weidenbach) と、[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]で[[メリーランド州]][[ボルチモア]]出身の母エマ・ウィロビー (Emma Willoughby) の間に生まれる。初め名前はAdolph Karl Weidenbach、ドイツ語読みで Adolf Karl 「アドルフ・カール」といい、幼少はドイツ人として過ごす。ドイツとフランスで学び、ドイツ語、フランス語、スペイン語を話す&lt;ref name=gettys&gt;[https://www.gettysburg.edu/special_collections/collections/manuscripts/collections/ms024.dot MS-024: General Charles A. Willoughby]Gettysburg College, July 2001&lt;/ref&gt;。地元ハイデルベルク大学などで学んだあと、[[1910年]]にアメリカに渡り&lt;ref name=gettys/&gt;、アメリカに[[帰化]]、Charles Andrew Willoughbyと母方の姓を称すようになる。<br /> <br /> [[1910年]]に[[アメリカ陸軍]]に一兵士として入隊した。同時にゲティスバーグ・カレッジでも学び、1914年の卒業時には少佐となる&lt;ref name=gettys/&gt;。[[カンザス大学]]の大学院に進んだが、[[第一次世界大戦]]のため中退&lt;ref name=gettys/&gt;。第一次大戦を通じて叩き上げで昇進を重ね、[[1941年]]に[[大佐]]だったウィロビーは[[ダグラス・マッカーサー]]の情報参謀としてアメリカが[[植民地]]支配下においており、マッカーサーが多くの利権を持っていた[[フィリピン]]に赴任した。<br /> <br /> ===第二次世界大戦===<br /> 1941年12月からアメリカも参戦した[[第二次世界大戦]]中の[[日本軍]]との[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン攻略戦]]では、日本軍に敗走したマッカーサーと共にフィリピンから脱出している。[[1942年]][[6月20日]]には[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]][[准将]]に昇進している。<br /> <br /> 情報を重視するマッカーサーによって連合軍翻訳通信班 (ATIS) (捕虜の尋問や命令文章の翻訳を担当)、連合軍諜報局 (AIB) (諜報・謀略担当)が設置されるとウィロビーは元締めとして辣腕をふるった。特に[[日系アメリカ人]]や現地民を駆使した諜報活動は[[日本軍]]の動きをことごとく察知した。<br /> <br /> [[1945年]][[4月12日]]にはアメリカ陸軍より正式に[[少将]]に昇進した。[[1945年]][[9月2日]]の[[戦艦]][[ミズーリ (戦艦)|「ミズーリ」]]での日本の連合国軍への降伏文書調印式にはマッカーサーの幕僚として参加している。<br /> <br /> ===GHQでの活動===<br /> GHQでは[[参謀第2部]] (G2) 部長として諜報・保安・検閲(特に[[プレスコード]])を管轄した。政治犯として投獄されていた[[日本共産党]]幹部の釈放や、[[労働組合]]活動を奨励し、日本の民主化を推進する[[民政局]]長の[[コートニー・ホイットニー]][[准将]]や次長の[[チャールズ・L・ケーディス]]大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。[[右翼]]の[[三浦義一]]、旧軍の[[河辺虎四郎]]らも使って[[反共]]工作を進めた。<br /> <br /> [[1945年]][[10月4日]]、GHQより日本政府に対して人権指令が出され、[[治安維持法]]の廃止や[[特高警察]]の廃止、共産主義者などの政治犯の釈放が行われることになったが、日本の警察力の弱体化と、共産主義勢力の増長を危惧するウィロビーはこれらに強く反対していた。そのため、特高警察の機能を温存するために、内務官僚と共謀して「大衆的集団的不法行為の取締り」を名目に、[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]に公安課を、各都道府県警察部に公安課と警備課を設置することを後押しした([[公安警察]])。また、[[1947年]]の内務省の解体・廃止にも、日本政府の弱体化を招くとして、内務官僚と共に反対し、中央集権的な国家警察を維持するために、警察総局と公安局の設置や、公安庁の設置を後押ししたが、GSのケーディスの抵抗でうまくいかなかった。そのためウィロビーは、内務官僚の[[石井栄三]]や、[[加藤陽三]]と対抗策を練り、[[国家地方警察本部]]に警備部を設置することで、特高警察機能の温存を図ることに成功した。後に、ウィロビーは、自著で日本の警察制度に関して「日本の警察機構は、占領期間中にバラバラにされてしまったが、私の危惧した通り、これはうまくいかず、後に国家警察として再び一つになった。」と記している。<br /> <br /> [[極東国際軍事裁判]]の折、[[A級戦犯]]の容疑者は第一次裁判で裁かれた[[東條英機]]ら28名の他に22名ほどいたが、この裁判をよく思っていなかったウィロビーの釈放要求(ただし、[[笹川良一]]の釈放については慎重だったという)が通り、22名の容疑者に対する二次・三次の裁判は行われなかった。背景として、まず[[アメリカ対日協議会|ジャパン・ロビー]]が反共工作&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[ソビエト連邦|ソ連]]や[[中華人民共和国]]といった[[共産主義]]国家台頭に対して日本を防波堤に使おうとか、たとえA級戦犯といえども[[反共主義|反共]]に使えそうな人物は使おうとかいうもの。&lt;/ref&gt;を取り仕切ったことと、加えて一次裁判で時間がかかりすぎて[[イギリス]]が裁判続行に消極的になったことも影響している。<br /> <br /> 判決後、ウィロビーは帰国の挨拶にやってきた[[オランダ]]代表の[[ベルト・レーリンク]]判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っていたことをレーリンクは著書で明かしている&lt;ref&gt;『東京裁判とその後』p143、新曜社、2009年&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> GHQが許可した戦後初の渡米者で、日米文化振興会(現[[日米平和・文化交流協会]])を興した[[笠井重治]]が、「有力な情報提供者」として親交があった事で知られる([[袖井林二郎]]『マッカーサ-の二千日』)。また、A級戦犯においてウィロビーが釈放要求を出すのに慎重だったと言われている[[児玉誉士夫]]とは、その後児玉の通訳となり、「[[ロッキード事件]]」の最中に変死した[[福田太郎 (通訳者)|福田太郎]]を、自著の翻訳者にするなど、児玉とも何らかの関係にあったと推測されている。<br /> <br /> [[1948年]]には[[極東委員会]]でソ連のテレビヤンコ中将は[[日本海海戦]]の意趣返しとして戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]の解体・廃棄を主張したが、ウィロビーは日本の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだと反論して阻止。結果、三笠の廃棄は免れた。後に[[チェスター・ニミッツ|チェスター・W・ニミッツ]]海軍[[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]が復興運動を行った関係で日本人にはこちらの方が知られているが、ウィロビーもまた三笠にとっては恩人といえる&lt;ref&gt;[https://appget.com/c/special/197117/purple_1608-35/]艦これ】聖地巡礼してみた!横須賀編 第2回 「記念艦 三笠」の展示品で戦争を想う!&lt;/ref&gt;。。<br /> <br /> [[1950年]]の[[朝鮮戦争]]の際にウィロビーは「中国共産党軍([[中国人民志願軍]])は介入しない」とする報告をマッカーサーに行い、マッカーサーはこれを元に[[ハリー・S・トルーマン]]大統領に対し[[中華人民共和国]]参戦の可能性を否定した&lt;ref&gt;デービッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ <第1部>』 [[新潮社]]&lt;/ref&gt;。これが全くの誤認であったことは、後に[[中国人民志願軍]](抗美援朝義勇軍)の参戦によって戦場で実証されることになった。<br /> <br /> ===晩年===<br /> GHQでの活動の他情報の専門家として[[中央情報局|CIA]]設立に関与したのち[[1951年]]に退役、[[スペイン]]に渡ると[[独裁者]]として知られた[[フランシスコ・フランコ]]将軍の非公式のアドバイザーになる。<br /> <br /> [[1968年]]に引退し、妻のマリーアントワネット(日本に帰化したイギリス人[[小林米珂]]と日本女性との娘)と[[フロリダ州]][[ネイプルズ (フロリダ州)|ネイプルズ]]で引退生活を送り、[[1972年]][[10月25日]]に死亡した&lt;ref&gt;[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&amp;GRid=49365153 Charles Andrew Willoughby]Find a Grave&lt;/ref&gt;。80歳。1923年に[[プエルトリコ]]で結婚した前妻との間に娘がいる&lt;ref&gt;[http://www.porterloring.com/memsol.cgi?user_id=675949 Olga (Tonie) McKeever]Memorial Networks&lt;/ref&gt;&lt;ref name=gettys/&gt;。<br /> <br /> ==人物==<br /> GHQ内におけるG2の影響力からもマッカーサーの重要な側近だったがことが窺えるが、ホイットニーほどは人物的な信頼を勝ち得ておらず、ホイットニーに認められていたワンノックでマッカーサーの執務室に入れる(面会の際に秘書官を通さなくていい)権限は、ウィロビーには認められていなかった[&#039;&#039;[[Wikipedia:「要出典」をクリックされた方へ|要出典]]&#039;&#039;]。<br /> <br /> マッカーサーの回想伝記『マッカーサー戦記』を執筆出版したが、翻訳担当の[[大井篤]](旧帝国海軍大佐)からは「歴史史料としての価値はほとんど無い」と酷評された&lt;ref&gt;マッカーサー戦記〈下〉 (新戦史シリーズ) 文庫 <br /> <br /> チャールス・A. ウィロビー (著), 大井 篤 (翻訳)1988年6月<br /> &lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ウィロビーのG2がまとめた日米の人物調査ファイルは、近年の機密解除で、戦後史の研究資料として調査研究されているが、ウィロビーのおぼえがめでたくない人物に対しては貶めるための捏造された記述が多いとされている&lt;ref&gt;デービッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』、山田耕介・侑平訳(上下、[[文藝春秋]]、2009年)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ==著作==<br /> *『赤色スパイ団の全貌 [[ゾルゲ事件]]』福田太郎訳、東西南北社刊、1953年<br /> *『戦争における機動』第1巻、陸上自衛隊幹部学校訳、陸上自衛隊幹部学校刊、1956年<br /> *『マッカーサー戦記 第1』大井篤訳、[[時事通信社]]、1956年<br /> *『マッカーサー戦記 第2』大井篤訳、時事通信社、1956年<br /> *『マッカーサー戦記 第3』[[大井篤]]訳、時事通信社、1956年<br /> *『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』延禎監訳、番町書房、1973年<br /> *『マッカーサー戦記 (上)』大井篤訳、[[朝日ソノラマ]]文庫、1988年6月、ISBN 4-257-17203-7<br /> *『マッカーサー戦記 (下)』大井篤訳、朝日ソノラマ文庫、1988年6月、ISBN 4-257-17204-5<br /> *『GHQ知られざる諜報戦 新版ウィロビー回顧録』延禎監修、[[平塚柾緒]]編、[[山川出版社]]、2011年7月。旧版も編<br /> <br /> ==参考文献等==<br /> *[[信夫清三郎]] 戦後日本政治史 1―1945-1952 (1) 勁草書房 ISBN 4326398167 <br /> *[[粟屋憲太郎]] 東京裁判への道 [[講談社]]選書メチエ 上・下巻<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{Reflist|group=注釈}}<br /> === 出典 ===<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> ==関連項目==<br /> *[[冷戦]]<br /> *[[逆コース]]<br /> *[[吉河光貞]]<br /> {{Normdaten}}<br /> {{DEFAULTSORT:ういろひ ちやあるす}}<br /> [[Category:アメリカ合衆国陸軍の軍人]]<br /> [[Category:第一次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人]]<br /> [[Category:第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人]]<br /> [[Category:アメリカ合衆国の反共主義者]]<br /> [[Category:連合国軍最高司令官総司令部の人物]]<br /> [[Category:ドイツ系アメリカ人]]<br /> [[Category:太平洋戦争の人物]]<br /> [[Category:朝鮮戦争の人物]]<br /> [[Category:冷戦]]<br /> [[Category:東京裁判]]<br /> [[Category:1892年生]]<br /> [[Category:1972年没]]</div> 240B:11:4A00:400:186:B8A7:B399:5B2C
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