Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=180.42.145.120 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-24T20:31:43Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 日窒コンツェルン 2018-05-27T09:40:00Z <p>180.42.145.120: /* 日本窒素肥料の発展 */</p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;日窒コンツェルン&#039;&#039;&#039;(にっちつコンツェルン)は、[[野口遵]]によって設立された、日本窒素肥料(日窒・現在の[[チッソ]]:事業会社としては[[JNC]])を中心とする[[財閥]]である。[[財閥#十五大財閥|15大財閥]]の1つ。<br /> <br /> ==歴史==<br /> [[1906年]][[野口遵]]が曾木電気株式会社創立。[[1908年]]日本カーバイド商会と合併し、日本窒素肥料を設立。[[石灰窒素]]・[[硫酸アンモニウム|硫安]]の製造に成功し拡大した。その後、人絹工業、合成[[アンモニア]]の製造にも成功。[[朝鮮]]にも進出し巨大化。工業中心の財閥を形成。設立者の苗字を取って「野口財閥」とも呼ばれていた。<br /> <br /> [[第二次世界大戦]]の敗北により、総資産の90%近くを失い、戦後の[[財閥解体]]により日窒コンツェルンは解散した。<br /> <br /> ===創立===<br /> 大学を卒業した野口は、[[福島県]]郡山絹糸紡績会社の技師長として[[水力発電]]事業に取組んだ。次に、[[シーメンス]]東京事務所に移ると、同じく水力電気事業のコンサルタント、エンジニアリング、電力利用設備のマーケティングを経験した。<br /> <br /> [[1906年]]独立して曾木電気を興すと、[[鹿児島県]]川内川に出力880kWの[[曾木発電所|水力発電所]]を建設した。また[[熊本県]][[水俣市|水俣]]まで送電して、45人の小工場ながら[[藤山常一]]と日本カーバイド商会を設立した。野口はこれを石灰窒素肥料の一貫生産とすべく、[[シーメンス]]社の前東京支社長、ケイラーの尽力を受け、[[1908年]]イタリアで石灰窒素製造特許の保有会社シアナミド社(シーメンスの子会社)から日本国内での製造権を譲り受けた。また[[ベルリン]]では発明者の{{仮リンク|ニコデム・カロー|en|Nikodem Caro}}博士から種々の伝授を受けた。<br /> <br /> 特許権を手にした野口は、曾木電気と日本カーバイド商会を合併、日本窒素肥料株式会社を設立した。出資の関係から[[大阪商船]]社長の[[中橋徳五郎]]が会長となり、野口は専務取締役、藤山常一は常務取締役となった。日窒コンツェルンは、この日本窒素肥料を中心に発展を遂げることになる。<br /> <br /> ===日本窒素肥料の発展===<br /> 当初の石灰窒素事業は必ずしも順調ではなく、藤山が世界で初めて連続的生産方法を開発したものの、製品の窒素含有量が少ないなど技術的課題があった。工場で製造を指導していたのは藤山であったが、創業間もない企業として製品化を急いでいたこともあり、野口は藤山を押しのけ悪戦苦闘の末に最初の製品を作り上げた。しかしこのことで藤山は日本窒素肥料を去り、[[三井財閥|三井]]の資本で[[電気化学工業]]を設立し強力な競争相手となった。<br /> <br /> [[1914年]]の[[第一次世界大戦]]の影響で、それまで日本市場の過半を占めていた[[イギリス]]からの硫安の輸入が途絶し、硫安の市場価格は3倍近くに急騰し、高値は[[1918年]]まで続いた。日本窒素肥料は国内原料と自家発電を利用していたため生産費の上昇がなく、大戦中に大きな利益を上げた。<br /> <br /> 得られた資金を原資に事業拡大を考えていた野口は、戦争が終結したヨーロッパに[[1921年]]赴き、[[ドイツ]]のグランツシュトフ社のビスコース人造絹糸技術、[[イタリア]]で最新の{{仮リンク|ルイジ・カザレー|it|Luigi Casale|label=カザレー}}法[[アンモニア]]合成技術の導入を決めた。この二つの技術を実現するために、[[銅アンモニアレーヨン|ベンベルグ絹糸]]製造の旭絹織物、[[アンモニア]]合成の延岡工場が建設された(いずれも現在の[[旭化成]]の前身)。<br /> <br /> 人絹糸を処理するときに得られる[[ニトロセルロース]]は[[綿火薬]]の原料であり、平和産業から戦時産業へ転換可能な製品である。またカザレー式アンモニア合成法の導入により、[[森矗昶]]の昭和肥料(現・[[昭和電工]])と激しく競争しながら日窒は国内総生産高の多くを占めるにいたった。<br /> <br /> ===朝鮮への進出===<br /> [[ファイル:Hungnam_korea.jpg|thumb|350px|朝鮮窒素肥料 興南工場]]<br /> <br /> 野口は水俣工場、延岡工場を拡張しながら、更に朝鮮でも大規模硫安製造業の建設を行った。[[1925年]]6月、[[朝鮮総督府]]から[[蓋馬高原]]の[[鴨緑江]]支流の[[赴戦江]][[:ko:부전강|&lt;small&gt;[韓国語版]&lt;/small&gt;]]の[[水利権]]を得て、20万kWの[[赴戦江発電所]][[:ko:부전강_발전소|&lt;small&gt;[韓国語版]&lt;/small&gt;]]を建設した。これにより[[1926年]]1月に朝鮮水電株式会社、翌1927年5月には、朝鮮窒素肥料株式会社が設立された。1933年5月には[[長津江]][[:ko:장진강|&lt;small&gt;[韓国語版]&lt;/small&gt;]]、1937年1月には[[虚川江]]の電源開発に着手、合計12箇所の発電所で87万kWの電源を確保した。<br /> <br /> これら蓋馬高原に建設した[[ダム]]による大電力を利用して、ダム群の日本海側にあたる[[咸鏡南道]][[咸興市|咸興郡]]には興南、永安、本宮の3工場が建設された。これらの工場では主に合成アンモニアを原料にした硫安、硫燐安などの[[肥料]]が製造されたが、他にも油脂、石炭低温乾留、アルカリ、[[カーバイド]]、火薬、金属精錬など多角的な化学工業が展開された。<br /> <br /> 興南地区には、朝鮮窒素肥料など10社を超える子会社、関連会社が設立され、面積は1980万m&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;、従業員は4万5千人、家族を含めた総人口は18万人に達していた。設備能力では水電解設備は世界第1位、硫安は年産能力50万tで世界第3位と、世界屈指の化学[[コンビナート]]に成長した。これらの事業の中心は水俣の本社工場とともに、朝鮮の興南地区に置かれた。<br /> <br /> ===終戦までの事業拡大===<br /> [[ファイル:Sui-ho_Dam_under_construction.JPG|thumb|250px|[[水豊ダム]]]]<br /> <br /> 更なる事業の拡大のため、豊富な水源を有する鴨緑江本流の電源開発に取り掛かり、[[満州国]]政府、朝鮮総督府との共通事業として、七つのダムによる165万kWの発電計画を策定した。1937年8月には[[水豊ダム|水豊発電所]]の建設に着手したが、堰堤900m、高さ106m、貯水湖の広さ345km&lt;sup&gt;2&lt;/sup&gt;と、[[霞ヶ浦]]の2倍、人造湖としては当時世界第2位の規模であった。水豊発電所の70万kW設備は1944年には殆ど完成していたが、第2期70万kWの設備は工事半ばにして敗戦を迎えた。<br /> <br /> 鴨緑江の電源開発と平行して、朝鮮の灰岩工場で石炭直接液化による[[ガソリン]]・[[エタノール]]、興南地区の竜興工場で航空機燃料の[[イソオクタン]]、[[水豊ダム]]下流の青水工場でカーバイド、アセチレンブラック、南山工場で[[合成ゴム]]、吉林では人造石油の製造にも取り組みが続いた。これらの他にも、中国の[[華北]]、[[台湾]]、[[海南島]]、[[スマトラ]]、[[ジャワ]]、[[マレー]]半島、[[シンガポール]]などでも製造・電源開発・鉱石採掘などの事業を試みたが、いずれも[[1945年]]の敗戦により事業半ばに終わった。主要拠点である朝鮮の資産など、全財産の8割を喪失し、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[財閥解体]]令を待たずに日窒コンツェルンは実質的に瓦解した。<br /> <br /> ===日窒コンツェルンの特徴===<br /> 野口が日窒コンツェルンを成長させた手法にはいくつかの特徴があった。<br /> <br /> 一つ目は、当時の先進技術を活用したことである。<br /> 当時最新の[[化学工業]]技術を特許と共にヨーロッパから導入した。当時の野口は希少な知識を有する技術者であった(当時[[東京大学|東京帝国大学]]電気工学科の卒業生は1~4人、野口の年次に初めて10人を越す在籍者となった)。また事業確立のためフランク・カローの特許を入手する際には、三井、[[古河財閥|古河]]などの既存大[[財閥]]との競争になったが、シーメンスに勤めた人脈を最大限に活用できたことも大きかった。シーメンスとの友好関係はその後も変わらず、ドイツからの技術導入とシーメンスの日本での発電事業・電力応用設備市場拡大の相互依存関係を続けた。<br /> <br /> 二つ目は、[[電気化学]]の工業化事業モデルを確立したことである。<br /> 電気化学では、ダム建設による[[水力発電]]により電力を確保し、大量に供給される電力を利用して電気化学工場で[[肥料]]、[[火薬]]を製造する。電力が安いほど競争力が得られることから、大規模化のメリットを享受しやすい構造を有しており、[[朝鮮半島]]北部の豊富な水資源、特に鴨緑江に注目して朝鮮へ進出することで、[[装置産業]]としての効率を上げることができた。<br /> <br /> 三つ目は、[[政商]]としての側面である。<br /> 窒素肥料は近代化の遅れた日本の農村ではあまり需要は伸びず、[[日露戦争]]の反動不況から経営危機に直面したが、[[第一次世界大戦]]の勃発により火薬の原料となる硫安、[[チリ硝石]]の需要急増で大きな利益を得ることができた。また当時[[朝鮮総督]]の[[宇垣一成]]や軍関係者は朝鮮半島の軍事工業基地化を目指しており、日窒には好意的であり、様々な融資を引き出すことができた。更に水豊ダム建設などの巨大プロジェクトにおいては、満州国政府、朝鮮総督府との国策的な共同事業として事業資金についても便宜が図られるなどした。&lt;ref&gt;<br /> [http://j-net21.smrj.go.jp/establish/column/20041203-1.html 特許をビジネスモデルにした最初の日本人]&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ===傘下企業(1937年時点)===<br /> *[[日本窒素肥料]](現[[チッソ]]・[[JNC]])<br /> *[[朝鮮窒素肥料]]<br /> *[[長津江水電]]<br /> *[[朝鮮石炭工業]]<br /> *日窒鉱業(現[[ニッチツ]])<br /> *[[日本窒素火薬]]<br /> *[[朝鮮窒素火薬]]<br /> *[[新興鉄道]]<br /> *[[日窒火薬販売]]<br /> *旭ベンベルグ絹糸(現[[旭化成]])<br /> *[[朝鮮送電]]<br /> *[[日本マグネシウム金属]]<br /> *[[雄基電気]]<br /> *[[朝鮮ビルディング]]<br /> *[[日窒宝石]]<br /> *[[富田商会]]<br /> *[[草津硫黄鉱業]]<br /> *[[朝鮮石油]]<br /> *[[日本水電]]<br /> *[[マツダ|東洋工業(現・マツダ)]]<br /> *[[東洋水銀鉱業]]<br /> *[[瑞豊鉄道]]<br /> *[[日窒證券]]<br /> <br /> ===沿革===<br /> *[[1906年]](明治39年)1月12日 曾木電気株式会社創立<br /> *[[1907年]](明治40年)3月 日本カーバイド商会設立<br /> *[[1907年]](明治40年)8月14日 [[曾木発電所]]第一期工事完成(発電機1台800kW)<br /> *[[1908年]](明治41年)4月27日 {{仮リンク|アドルフ・フランク|en|Adolf Frank}}、ニコデム・カロー両名の石灰窒素製造に関する日本帝国における特許実施権を買収<br /> *[[1908年]](明治41年)8月20日 日本カーバイド商会と合併、社名を&#039;&#039;&#039;日本窒素肥料&#039;&#039;&#039;株式会社と改める<br /> *[[1909年]](明治42年)1月27日 [[中橋徳五郎]] 取締役会長、[[野口遵]] 専務取締役、[[藤山常一]] 常務取締役に就任。この年に曾木発電所第二期工事完成&lt;ref&gt;[http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=118467 旧曽木発電所本館]&lt;/ref&gt;<br /> *[[1909年]](明治42年)11月 フランク・カロー式石灰窒素製造法による肥料工場を[[水俣市|水俣]]に建設、石灰窒素の製造研究着手<br /> *[[1912年]](明治45年)2月 常務取締役 藤山常一辞任<br /> *[[1914年]](大正3年)5月 鏡工場竣工、石灰窒素、硫安の製造開始<br /> *[[1915年]](大正4年) この頃[[第一次世界大戦]]の影響で、肥料価格暴騰<br /> *[[1916年]](大正5年)9月 [[水俣]]工場の拡張、新工場の建設開始<br /> *[[1916年]](大正5年)12月12日 [[内大臣川]]発電所竣工、鏡工場に送電開始<br /> *[[1917年]](大正6年)10月25日 [[川内川]]発電所一部完成、水俣新工場への送電開始<br /> *[[1921年]](大正10年)12月12日 カザレー式アンモニア合成法特許実施権購入の契約<br /> *[[1923年]](大正12年)12月 [[延岡市|延岡]]工場製造開始<br /> *[[1925年]](大正14年)10月26日 本社を大阪市北区宗是町に移す<br /> *[[1926年]](大正15年) 朝鮮水電株式会社設立(朝鮮[[咸鏡南道]]赴戦江の水利を利用した発電事業)<br /> *[[1926年]](大正15年)9月16日 信越窒素肥料株式会社設立(工場を[[直江津市|直江津]]におき、九州鏡工場の肥料製造装置を移設)<br /> *[[1927年]](昭和2年)4月 水俣新工場(カザレー式)製造運転開始<br /> *[[1927年]](昭和2年)5月2日 朝鮮窒素肥料株式会社創立<br /> *[[1928年]](昭和3年)1月1日 朝鮮窒素 西湖津工場を興南工場と改称。<br /> *[[1929年]](昭和4年)4月7日 日本ベンベルグ絹糸株式会社設立<br /> *[[1929年]](昭和4年)10月 朝鮮窒素肥料 [[興南市|興南]]工場第1期工事完成<br /> *[[1929年]](昭和4年)11月 赴戦江水電第1期工事完成<br /> *[[1930年]](昭和5年)1月15日 朝鮮窒素肥料が朝鮮水電を合併<br /> *[[1930年]](昭和5年)12月4日 日本窒素火薬株式会社を設立<br /> *[[1931年]](昭和6年)5月21日 延岡アンモニア絹糸株式会社設立<br /> *[[1931年]](昭和6年)11月16日 [[昭和天皇]]が[[水俣]]工場に行幸<br /> *[[1933年]](昭和8年)5月4日 旭ベンベルグ絹糸株式会社設立<br /> *[[1933年]](昭和8年)5月11日 長津江水電株式会社設立<br /> *[[1934年]](昭和9年)4月30日 [[朝鮮総督府]]の電力統制計画に基づき、長津江水電の発電電力を[[平壌]]に送電する電気事業経営許可<br /> *[[1934年]](昭和9年)5月16日 朝鮮送電株式会社設立<br /> *[[1934年]](昭和9年)6月13日 日本マグネシウム金属株式会社設立<br /> *[[1935年]](昭和10年)3月18日 朝鮮石炭工業株式会社設立<br /> *[[1935年]](昭和10年)4月4日 大豆化学工業株式会社設立<br /> *[[1935年]](昭和10年)4月23日 日窒鉱業株式会社設立<br /> *[[1935年]](昭和10年)4月24日 朝鮮窒素火薬株式会社設立<br /> *[[1935年]](昭和10年) 朝鮮石油株式会社設立<br /> *[[1935年]](昭和10年)10月15日 [[昭和天皇]]が旭ベンベルグ絹糸延岡工場に行幸<br /> *[[1935年]](昭和10年)5月12日 株式会社朝鮮ビルディング設立<br /> *[[1936年]](昭和11年)7月20日 日窒宝石株式会社設立<br /> *[[1936年]](昭和11年)8月 朝鮮窒素肥料 本宮カーバイド、石灰窒素工場の工事完成、一部運転開始<br /> *[[1936年]](昭和11年)11月 長津江水電第1,第2発電所発電開始<br /> *[[1937年]](昭和12年)水豊ダムを[[満州国]]と[[朝鮮]]の電力確保の為に、[[鴨緑江]]下流の[[平安北道]][[新義州府]]の日満国境に建設を開始<br /> *[[1937年]](昭和12年)3月17日 日窒証券株式会社設立 <br /> *[[1942年]](昭和17年)5月5日 社長野口遵 勲一等瑞宝章<br /> *[[1943年]](昭和18年)4月5日 日窒火薬を合併し、社名を日窒化学工業に変更<br /> *[[1944年]](昭和19年)1月15日 代表取締役社長 野口遵死去<br /> *[[1944年]](昭和19年)3月 [[水豊ダム]]、水豊発電所が竣工<br /> *[[1945年]](昭和20年)3月12日 日窒航空工業株式会社設立(航空機用強化木製造)<br /> *[[1945年]](昭和20年)8月9日 [[水豊発電所]]の発電機が[[ソ連]]軍(赤軍)侵攻により略奪被害<br /> <br /> ==関連する企業(現在)==<br /> *[[チッソ]]<br /> **[[JNC]]<br /> **[[JNC石油化学]]<br /> **[[ジェイカムアグリ]]<br /> *[[積水化学工業]]<br /> **[[積水樹脂]]<br /> **[[積水化成品工業]]<br /> **[[湘南積水工業]]<br /> **[[徳山積水工業]]<br /> *[[積水ハウス]]<br /> *[[旭化成]]<br /> **[[旭有機材]]<br /> *[[センコーグループホールディングス]]<br /> *[[ニッチツ]]<br /> *[[信越化学工業]]<br /> **[[信越ポリマー]]<br /> **[[信越石英]]<br /> **[[信越半導体]]<br /> *[[日本ガス]] - [[南国殖産]]翼下<br /> **[[宮崎ガス]]<br /> *[[九州電力]] - [[日本水電]]九州部門などが母体<br /> **[[九電工]]<br /> <br /> ==参考文献==<br /> *日本窒素肥料株式会社文書課編 『日本窒素肥料事業大観』 1927年<br /> *財団法人日本経営史研究所編 『旭化成八十年史』 2002年<br /> <br /> ==脚注==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.chisso.co.jp/ チッソ]<br /> *[http://www.jnc-corp.co.jp/ JNC]<br /> *[http://www.asahi-kasei.co.jp/ 旭化成]<br /> *[http://www.sekisui.co.jp/ 積水化学工業]<br /> *[http://www.sekisuihouse.co.jp/ 積水ハウス]<br /> *[http://www.shinetsu.co.jp/j/ 信越化学工業]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:につちつこんつえるん}}<br /> [[Category:日窒コンツェルン|*]]<br /> [[Category:日本の財閥・コンツェルン]]<br /> [[Category:チッソ]]<br /> [[Category:かつて存在した日本の企業]]<br /> [[Category:延岡市の歴史]]<br /> [[Category:日本統治時代の朝鮮の経済]]</div> 180.42.145.120 舞鶴鎮守府 2018-05-09T00:24:53Z <p>180.42.145.120: /* 沿革 */</p> <hr /> <div>[[Image:Maizuru Naval District.jpg|right|430px|thumb|&lt;div style=&quot;text-align:center;&quot;&gt;昭和天皇の舞鶴行幸(1933年)&lt;/div&gt;]]<br /> &#039;&#039;&#039;舞鶴鎮守府&#039;&#039;&#039;(まいづるちんじゅふ)とは、[[京都府]][[舞鶴市]]にあった旧[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府]]。通称、&#039;&#039;&#039;舞鎮&#039;&#039;&#039;(まいちん)。<br /> <br /> == 沿革 ==<br /> [[画像:Maizuru red brick warehouses08s3200.jpg|thumb|240px|舞鶴海軍兵器廠]]<br /> 対[[ロシア]]の戦略上、日本海軍は[[日本海]]側へ海軍の軍事拠点を設置する事が悲願となっており、[[1889年]](明治22年)に、湾口が狭く、防御に適しており、また湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど[[軍港]]としては格好の地形であった[[舞鶴湾]]に白羽の矢をたて、[[舞鶴]]に鎮守府を設置する事になった。<br /> <br /> しかしながら、[[呉鎮守府|呉]]、[[佐世保鎮守府|佐世保]]の整備が優先されていたため、舞鶴の軍港建設費用には[[日清戦争]]によって[[清|清国]]から支払われた賠償金が充てられる事になった。初めに設けられた海軍施設は[[1893年]](明治26年)完成の石炭貯蔵庫で、日清戦争による賠償金が充てられるようになると建設は飛躍的に進み、[[1896年]](明治29年)には臨時海軍建築部支部(支部長:中溝徳太郎中佐)が設置された。舞鶴は山地が多いため、敷地開削工事に多額の費用を要したが、[[1899年]](明治32年)末に土地造成工事はほぼ完了した。これに並行して鎮守府諸施設の工事が始まり、[[1901年]](明治34年)[[10月1日]]に舞鶴鎮守府が開庁、初代司令長官は当時[[海軍中将]]であった[[東郷平八郎]]が任命された。<br /> <br /> [[画像:Naval museum Japan01s3200.jpg|thumb|240px|旧海軍機関学校大講堂]]<br /> なお、[[1902年]](明治35年)から[[1903年]](明治36年)にかけて舞鶴海軍工廠の建物の建設が開始されたが、中核施設のドックが完成するのは[[日露戦争]]後である。<br /> <br /> [[1923年]](大正12年)より[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン軍縮条約]]により[[要港部]]へと格下げになった。しかし条約が明けた[[1939年]](昭和14年)に再び鎮守府に格上げされた。<br /> <br /> == 海軍区 ==<br /> 第4[[海軍区]]として以下の地域を管轄した。(昭和15年1月時点)<br /> * 陸上<br /> : [[山形県|山形]]、[[新潟県|新潟]]、[[富山県|富山]]、[[石川県|石川]]、[[福井県|福井]]、[[滋賀県|滋賀]]、[[京都府|京都]]、[[兵庫県|兵庫]]([[美方郡]]及び[[城崎郡]])、[[鳥取県|鳥取]]、[[島根県|島根]]<br /> * 海上<br /> : 山形、新潟、富山、石川、福井、京都、兵庫(日本海)、鳥取、島根 各府県の海上<br /> <br /> == 年譜 ==<br /> {{日本海軍}}<br /> * [[1889年]]([[明治]]22年):第四海軍区鎮守府を舞鶴に設置する事を閣議決定。<br /> * [[1897年]](明治30年):舞鶴に[[舞鶴要塞砲兵大隊]]を配置。<br /> * [[1901年]](明治34年):開庁。<br /> * [[1903年]](明治36年):[[舞鶴海軍工廠]]開設。<br /> * [[1904年]](明治37年):[[日露戦争]]勃発。[[舞鶴線]]開通。<br /> * [[1923年]]([[大正]]12年):[[ワシントン海軍軍縮条約]]により[[要港部]]に格下げ。同時に海軍工廠も工作部に格下げ。<br /> * [[1936年]]([[昭和]]11年):舞鶴海軍工作部が[[海軍工廠]]に昇格。<br /> * [[1939年]](昭和14年):鎮守府に格上げ。<br /> * [[1943年]](昭和18年):[[倉谷工業団地 (京都)|倉谷]]に第二造兵部を設置。<br /> * [[1945年]](昭和20年):[[太平洋戦争]]終戦。<br /> <br /> == 歴代司令長官 ==<br /> === 鎮守府司令長官(第一次) ===<br /> # [[東郷平八郎]] 中将:1901年10月1日 -<br /> # [[日高壮之丞]] 中将:1903年10月19日 - 1908年8月28日<br /> # [[片岡七郎]] 中将:1908年8月28日 - 1911年1月18日<br /> # [[三須宗太郎]] 中将:1911年1月18日 - 1913年9月25日<br /> # [[八代六郎]] 中将:1913年9月25日 - 1914年4月17日<br /> # [[坂本一 (海軍軍人)|坂本一]] 中将:1914年4月17日 - 1915年12月13日<br /> # [[名和又八郎]] 中将:1915年12月13日 -<br /> # [[財部彪]] 中将:1917年12月1日 -<br /> # [[野間口兼雄]] 中将:1918年12月1日 -<br /> # [[黒井悌次郎]] 中将:1919年12月1日 -<br /> # [[佐藤鉄太郎]] 中将:1920年8月16日 -<br /> # [[小栗孝三郎]] 中将:1921年12月1日 - 1923年3月31日<br /> <br /> === 要港部司令官 ===<br /> # [[斎藤半六]] 中将:1923年4月1日 -<br /> # [[百武三郎]] 中将:1923年6月1日 -<br /> # [[中里重次]] 中将:1924年10月4日 -<br /> # [[古川しん三郎|古川鈊三郎]] 中将:1925年6月1日 -<br /> # [[大谷幸四郎]] 中将:1926年12月10日 -<br /> # [[飯田延太郎]] 中将:1928年5月16日 -<br /> # [[鳥巣玉樹]] 中将:1928年12月10日 -<br /> # [[清河純一]] 中将:1929年11月11日 -<br /> # [[末次信正]] 中将:1930年12月1日 -<br /> # [[大湊直太郎]] 中将:1931年12月1日 -<br /> # [[今村信次郎]] 中将:1932年12月1日 -<br /> # [[百武源吾]] 中将:1933年9月15日 -<br /> # [[松下元]] 中将:1934年11月15日 -<br /> # [[塩沢幸一]] 中将:1935年12月2日 -<br /> # [[中村亀三郎]] 中将:1936年12月1日 -<br /> # [[出光万兵衛]] 中将:1937年12月1日 -<br /> # [[片桐英吉]] 中将:1938年11月15日 -<br /> # [[原五郎]] 中将:1939年11月15日 - 12月1日<br /> === 鎮守府司令長官(第二次) ===<br /> # 原五郎 中将:1939年12月1日 -<br /> # [[小林宗之助]] 中将:1940年4月15日 -<br /> # [[新見政一]] 中将:1942年7月14日 -<br /> # [[大川内傳七]] 中将:1943年12月1日 -<br /> # [[牧田覚三郎]] 中将:1944年4月1日 -<br /> # [[田結穣]] 中将:1945年3月1日 -<br /> # (代)[[鳥越新一]] 少将:1945年11月15日 - 11月30日<br /> <br /> == 最終所属部隊 ==<br /> *[[第五十一戦隊|第51戦隊]](舞鶴):[[西岡茂泰]]少将 <br /> **旗艦:[[特設運送船]]「こがね丸」  <br /> **標的艦:[[潜水艦]]×2隻 (「呂68」・「呂500」)<br /> **附属艦艇<br /> ***[[鵜来型海防艦]]×5隻 (「保高」・「伊王」・「高根」・「伊唐」・「生野」)<br /> ***[[丙型海防艦]]×10隻 (「71号」・「75号」・「77号」・「79号」・「85号」・「87号」・「95号」・「221号」・「225号」・「227号」)  <br /> ***[[丁型海防艦]]×7隻 (「126号」・「156号」・「196号」・「198号」・「200号」・「202号」・「204号」)<br /> *舞鶴海軍施設部:木村喬技術少将 <br /> **舞鶴設営隊:木村喬技術少将 <br /> **第3310設営隊(福知山):柳沢一誠技術大尉 <br /> **第3311設営隊(新川):郷古雄三技術大尉<br /> <br /> ==現在も残る施設==<br /> [[ファイル:Red brick museum01s3200.jpg|thumb|240px|right|赤レンガ博物館]]<br /> *[[ジャパン マリンユナイテッド]]舞鶴事業所(旧舞鶴海軍工廠)<br /> *[[舞鶴赤レンガ倉庫群]]…12棟の煉瓦倉庫群 <br /> **[[赤れんが博物館]](旧兵器廠魚形水雷庫)<br /> **[[舞鶴市政記念館]](旧雑品庫並損兵器庫)<br /> **[[まいづる智恵蔵]](旧弾丸庫並小銃庫)<br /> *[[海軍記念館]](旧海軍機関学校大講堂)<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[舞鶴地方総監部]]<br /> * [[与保呂川水源地]](鎮守府にあわせて建設された水源地)<br /> * [[肉じゃが]]<br /> ** [[まいづる肉じゃが]]<br /> * [[横須賀鎮守府]]<br /> * [[呉鎮守府]]<br /> * [[佐世保鎮守府]]<br /> * [[山形空港]](山形県東根市。舞鶴鎮守府の練習飛行場として発足)<br /> * [[日本遺産]](鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~)<br /> <br /> ==外部リンク==<br /> *[http://www.redbrick.jp/maizu/kaigun.htm 海軍の街・舞鶴]<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:まいつるちんしゆふ}}<br /> [[Category:日本海軍の基地と陸上部隊]]<br /> [[Category:舞鶴市の歴史]]<br /> [[Category:舞鶴湾]]</div> 180.42.145.120 ゴート族 2018-05-06T04:06:06Z <p>180.42.145.120: /* フン族の襲来 */</p> <hr /> <div>[[File:Bischof Ulfilas erklärt den Goten das Evangelium.jpg|thumb|250px|ゴート人に福音書を解説する[[ウルフィラ]]司教]]<br /> &#039;&#039;&#039;ゴート族&#039;&#039;&#039;(ゴートぞく、{{翻字併記|got|&#039;&#039;&#039;*𐌲𐌿𐍄𐌰𐌽𐍃&#039;&#039;&#039;|Gutans|n|区=、}}、{{lang-de-short|&#039;&#039;&#039;Gothe&#039;&#039;&#039;}}(または {{lang|de|&#039;&#039;&#039;Gote&#039;&#039;&#039;}}))は、古代[[ゲルマン人|ゲルマン系]]の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の民族。[[ゴットランド]]から[[ウクライナ]]に移動した後、いわゆる「[[ゲルマン人#ゲルマン民族の大移動|ゲルマン民族の大移動]]」によって[[イタリア半島]]や[[イベリア半島]]に王国を築いた。[[ローマ帝国]]の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った[[民族]]である。また、ゲルマン系のなかでは早くからローマ帝国の文化を取り入れて独自の[[ルーン文字]]を残したほか、ローマ軍に[[傭兵]]として雇われるなど、後期のローマ帝国の歴史において大きな役割を担った。<br /> <br /> == 歴史 ==<br /> === ゴート族の起源 ===<br /> [[ファイル:Oksywie Wielbark Przeworsk.gif|thumb|250px|[[紀元前2世紀]]から[[2世紀]]にかけての[[ゲルマニア]](現[[ドイツ]]及び[[ポーランド]])一帯。&lt;br /&gt;赤は[[オクシヴィエ文化]]と初期[[ヴィェルバルク文化]]&lt;br /&gt;肌色はその後のヴィェルバルク文化の拡大&lt;br /&gt;黄色とオレンジは[[プシェヴォルスク文化]]&lt;br /&gt;オレンジはヴィエルバルク文化がその地方のプシェヴォルスク文化の影響を強く受けた地域&lt;br /&gt;青は非ゴート系大陸[[ゲルマン人]]の[[ヤストルフ文化]]&lt;br /&gt;水色はヤストルフ文化が拡大した地域&lt;br /&gt;紫はヴィェルバルク文化がその地方のヤストルフ文化の影響を強く受けた地域]]<br /> [[ファイル:Origins 200 AD.png|thumb|250px|200年頃のゴート族居住地区(緑部分「[[チェルニャコヴォ文化|チェルニャヒーウ文化]]」の北部一部地域は「[[東ゴート族]]」)。&lt;br /&gt;オレンジは[[プシェヴォルスク文化]]を主とする地域。&lt;br /&gt;紫は[[ザルビンツィ文化]]を主とする地域。&lt;br /&gt;緑はチェルニャヒーウ文化を主とする地域。&lt;br /&gt;ゴート族(Goths)は自らの[[ヴィェルバルク文化]]をチェルニャヒーウ文化に持ち込んだ。&lt;br /&gt;ゴート族が定住した地域を中心として両文化は混じり合って{{仮リンク|キエフ文化|en|Kiev culture}}に発展し、そこのゴート族はもとのヴィスワ東岸に残っていたいわゆる「[[西ゴート族]]」とは政治的にも文化的にも異なる「[[東ゴート族]]」となった。]]<br /> <br /> [[550年]]頃に、[[アリウス派]]僧侶の[[ローマ帝国]][[官僚]]でゴート人についての歴史家でもあった{{仮リンク|ヨルダネス|en|Jordanes}}が、東ゴート王国の学者[[カッシオドルス]]の著書を要約して著した史書『[[ゴート人の事跡]]』([[:en:Getica|De origine actibusque Getarum]])&lt;ref&gt;『De rebus Geticis』も参照&lt;/ref&gt;によれば、ゴート族は「スカンディナヴィア島」{{refnest|group=&quot;注釈&quot;|[[スカンディナヴィア半島]]は10世紀まで島であると考えられていた&lt;ref&gt;[[#シュライバー,岡ら訳 1979|シュライバー,岡ら訳 1979]], p. 12.&lt;/ref&gt;スカンディナヴィア南部は、特にゴートランド([[イェータランド]])と呼ばれる。}}を発祥とする民族で、ベーリヒ王(ベーリク)の治世に[[バルト海]]を渡り、当時[[ヴァンダル族]]({{仮リンク|ルギイ人|en|Lugii|label=ルギイ族}}、Lugii)が住んでいた[[ゲルマニア]](現[[ドイツ]]及び[[ポーランド]])の[[ヴィスワ川]]河口域一帯に到達。その土地(現ポーランドの[[グダニスク]]一帯の東ポメラニア地方)をゴティスカンツァと呼び、ヴァンダル族の支配地をつぎつぎと平定したと記述されている&lt;ref&gt;ヨルダネス『De rebus Geticis』III.25-26。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ゴート族の起源は[[19世紀]]から議論されているが、ヨルダネスの伝えるスカンディナヴィア起原([[:en:Gothiscandza]])は現在では否定的に受け止められている。スカンディナヴィア南部はゴートランド([[イェータランド]])と呼ばれてはいるが、スカンディナヴィア半島でゴート族と結びつけられる痕跡は、ゲルマニア一帯の住民が遺した[[ストーンサークル]](いわゆる「[[クルガン]]」)と類似するものがスカンディナヴィアでも発掘されているという程度である。ストーンサークルは、[[オクシヴィエ文化]]や初期[[ヴィェルバルク文化]](B1b期・1世紀中期)の墓地では形成されておらず、ゴート族が[[プシェヴォルスク文化]]の影響を強く受けるようになった2世紀初期(B2期)から一定期間にのみ認められる。もともとスカンディナヴィアでストーンサークルが発生したというのであれば、オクシヴィエ文化や初期ヴィェルバルク文化の段階から認められなければ矛盾が生じる。&lt;ref&gt;[[#Heather 1991|Heather 1991]], p. 25.&lt;/ref&gt;。また、[[クラウディオス・プトレマイオス]]が著した『{{仮リンク|地理学 (プトレマイオス)|en|Geography (Ptolemy)|label=ゲオグラフィア}}』(Geographia、地理学)によれば、スカンディナヴィアにゴート族の名称によく似るゴータイ(Goutai)が住むことが確認されるが、『ゲオグラフィア』に記載されている彼らの居留域とストーンサークルの分布は一致しない。このように、スカンディナヴィア起原は考古学的立証が難しく、さらに[[ランゴバルド人|ランゴバルト族]]のような他のゲルマン系民族にも同じ伝説があることから、単に名前の響きが似た別々の系統の部族だという可能性が高く、ゴート族に関してはスカンディナヴィア起原は疑問視されている。<br /> <br /> 1世紀末(97年から98年頃)に成立したとされる[[タキトゥス]]の『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマーニア]]』には、[[ヴァンダル族]]と思われるルギイ族(ルーク族、Lugii)の土地(すなわち[[プシェヴォルスク文化]]の領域)より北方にゴート族(ゴートネス)が居留するとの記載が見られ、王制のもとにまとまっていることも知られている&lt;ref&gt;[[#タキトゥス,泉井訳 1979|タキトゥス,泉井訳 1979]], pp. 219-210.&lt;/ref&gt;。これは南の[[プシェヴォルスク文化]]と北の[[オクシヴィエ文化]](および草期[[ヴィェルバルク文化]])の位置関係に合致している{{要出典|date=2016年5月14日 (土) 11:21 (UTC)}}。ヨルダネスの記述によれば、彼らはガダリックの子、フィリメル王(ベーリッヒ王から数えて5代目の王)の時代にゴティスカンツァを離れ、[[黒海]]沿岸部の[[スキタイ|スキティア]]にたどりついた&lt;ref&gt;Jordanes『De rebus Geticis』III.26-27。&lt;/ref&gt;。ゴート族のヴィスワ川から黒海一帯への移動については、[[1945年]]以降、現ポーランド北部の[[ヴィェルバルク文化]]と黒海北方のチェルニャヒーウ文化および{{仮リンク|キエフ文化|en|Kiev culture}}が発見され、その歴史をある程度追跡できるようになった。これらのどの文化もゴート族だけのものではないが、ゴート族(および[[ゲピド族|ゲピーダエ族]])の文化も装飾品の類似性からそこに含まれていると考えられる。特にヴィエルバルク文化とキエフ文化においては政治的にゴート族が主導的立場にあったと考えられている{{要出典|date=2016年5月14日 (土) 11:21 (UTC)}}。<br /> <br /> [[ヴィェルバルク文化]]は、[[ポメラニア]]からヴィスワ川下流域で[[1世紀]]中期にはすでに形成されていた文化で、成立当初は現在の[[ポモージェ県]]、[[ヴァルミア・マズールィ県]]西部一帯において見られる。このヴィエルバルク文化は前2世紀ごろ現[[ポモージェ県]]で発生した[[オクシヴィエ文化]]から発展したもので、このオクシヴィエ文化こそ、この地方の人々がゴート族としてまとまった時代の最初期の文化であると推定される。[[150年]]頃、ゲルマニアのヴィスワ川東岸地方では考古学的にこの文化の著しい変化が認められており、ヴィェルバルク文化は元来[[ヴァンダル族]]の定住地であったヴィスワ川流域平原のうち、ヴィスワ川東岸一帯を伝って現ポーランド南部に領域を拡大している{{要出典|date=2016年5月14日 (土) 11:21 (UTC)}}。墓地などの遺跡からは、この東岸地域でゴート族は土地の(プロト・)[[スラヴ人]]諸部族を必ずしも排斥せず、武力平定を強調するヨルダネスの記述に反して、両グループは特に争うこともなく混住していたことが明らかになっており、オクシヴィエ文化と東岸[[プシェヴォルスク文化]]が融合した結果としてヴィェルバルク文化が形成されたことがうがわれる。これは[[マルコマンニ戦争]]においてゴート族とヴァンダル族が同盟していたというローマの記述と一致しており、いっぽうヨルダネスの記述とは矛盾している。<br /> <br /> このような動きはその後も1世紀ほど続き、[[220年]]頃までには現[[マゾフシェ県]]、現[[ルブリン県]]、現[[ポトカルパチェ県]]一帯と現ウクライナ北部に到達した。この南下に呼応して、ヴァンダル族の文化と考えられるプシェヴォルスク文化も同時期にあたかも競うように南下している。[[300年]]頃には両文化とも現ウクライナ南部にまで拡大するが、一方でヴィェルバルク文化のヴィスワ川下流域では出土品の減少から、人口がかなり減少したと考えられ、彼らが[[ポメラニア]]地方の故地を捨てたことを示している。<br /> <br /> この頃、ゴート族によるローマ帝国への最初の攻撃&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;[[238年]]の[[ドナウ川]]河口に位置する[[ヒストリア]]に対するもの。&lt;/ref&gt; が知られている。以後、彼らは[[ダキア]]、[[モエシア]]に幾度となく侵攻を繰り返し、[[241年]]には{{仮リンク|マルキアノポリス|en|Marcianopolis}}に現れて保証金をせしめることに成功しているが、皇帝[[フィリップス・アラブス]]によって撃退された。しかし、[[251年]]、[[ニコポル|ニコポリス]]を包囲していたゴート族は、撃退にあたったローマ軍を壊滅させると、[[フィリッポポリス]]を陥落させ、さらに迎撃にあたった皇帝[[デキウス]]を[[アブリットゥスの戦い]]で敗死させるなど、ローマ帝国を苦しめることもあった。ゴート族の南下と定住は、[[クラウディウス・ゴティクス|クラウディウス・ゴティクス帝]]との[[ナイススの戦い]]での大敗と[[271年]]に[[アウレリアヌス|アウレリアヌス帝]]が[[ダキア属州]]を割譲することによって停止するが、それまでに黒海東岸の{{仮リンク|ピチュンダ|en|Pitsunda|label=ピテュース}}({{lang-grc|Πιτυοῦς}})、[[トラブゾン|トラペズス]]、[[ビザンティウム]]、[[ニコメディア]]、[[エフェソス]]、[[テッサロニキ]]、[[ロドス島]]、[[キプロス島]]などの諸都市を攻撃している&lt;ref&gt;[[#Heather 1991|Heather 1991]], pp. 41-42.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> これらのことから、ゴート族が現ポーランド、ポモージェ県で[[オクシヴィエ文化]]により発生して、[[プシェヴォルスク文化]]のヴィスワ川東岸地方の土地の文化の影響を受けながら[[ヴィェルバルク文化]]の段階に発展しつつ黒海沿岸部へ移動し、当地でチェルニャヒーウ文化の影響を受けて{{仮リンク|キエフ文化|en|Kiev culture}}の段階へ移行したことは、ほぼ確実である。しかし、ヨルダネスの記述にあるように一王の世代で成されたものではなく、また、各文化それぞれの特質から見られるように、ゴート族の大移動は、ゴート族のほか[[スラヴ人]]の部族や[[サルマタイ人]]の部族などいくつかの部族が融合して行われたものらしい。なぜ彼らが移動したのかという理由については確定していないが、東[[ポメラニア]]地方という、大半が砂地で土地が肥沃でない一帯に発展したオクシヴィエ文化時代からその主な生業が土地に根付いた産業であるところの[[農業]]ではなく、遠方へ出かけて交易を行い食料や生活必需品を手に入れてくる商取引であったことから、南下したほうが黒海沿岸の経済的に豊かな地方との交易に有利だという考えがあったことが第一に推測される。<br /> <br /> なお、ゴート族が現ポーランドのポモージェ県に住んでいた以前には[[スカンディナヴィア半島]]にいたという推測についてはまだ証拠が見つかっていない。近世からのいわゆる「[[ゴート起源説]]」は、スカンディナヴィア半島の南部一帯に「ゴート」と似たような名称が見られたこと、とくに[[ゴトランド島]]の名称から、ゴート族はゴトランド島から発生してスカンディナヴィア半島に渡り、その後ゲルマニアへと向かったとする説をもとにした[[ロマン主義]]的伝説にすぎない。この仮説は20世紀に入ってもまことしやかに伝えられ、当時の考古学界ではゲルマン民族主義的な先入観が支配しこれがほぼ定説化していた。しかしこの仮説を裏付ける考古学的証拠は未だいっさい見つかっておらず、反対にこれまで発見された遺跡はことごとく、ポーランドのゴート族の文化とスカンディナヴィアの文化がかなり異なることばかりを示している。しかもオクシヴィエ文化は、ドイツ西北部に発展し[[ゲルマン語派]]の成立に決定的だと見られている[[ヤストルフ文化]]の一部が東進し、[[イリュリア語|イリュリア]]・[[スラヴ語派|原スラヴ]]系文化である[[ポメラニア文化]]圏のバルト海沿岸地域の地方文化と融合した結果成立したものであり、当時のスカンディナヴィア地方の文化(House Urns culture)からの強い影響は見られない。&lt;ref name=&quot;Kaliff, Anders&quot;&gt;{{Cite web |url=http://www.arkeologi.uu.se/Forskning/Publikationer/OPIA/Opia26/ |title=Kaliff, Anders. 2001. Gothic Connections. Contacts between eastern Scandinavia and the southern Baltic coast 1000 BC – 500 AD. Occational Papers in Archaeology 26. Uppsala. |work=Forskning, OPIA 26 |publisher=[[ウプサラ大学|Uppsala University]] |language=英語 |accessdate=2012-08-11 }}&lt;/ref&gt;<br /> <br /> === ゴート族の勢力確立 ===<br /> {{出典の明記|section=1|date=2016年5月14日 (土) 11:21 (UTC)}}<br /> [[チェルニャコヴォ文化|チェルニャヒーウ文化]]は、[[4世紀]]の[[カルパティア山脈]]東部から黒海北方において見られる文化である。一部の[[墓地]]から[[ヴィェルバルク文化]]で発見されたものとほとんど同じ装飾品が出土している。[[スラヴ人]]の埋葬形式の特徴とそのほかの人々が一般的に行なっていた埋葬形式の特徴とが併存していること、特に副葬品に武器が見当たらないことなども共通する。チェルニャヒーウ文化は一部でヴィェルバルク文化と互いに影響し混合したと考えられ、その地域は{{仮リンク|キエフ文化|en|Kiev culture}}に発展している。チェルニャヒーウ文化にも、そのゴート的な色彩を持つ一形態と言えるキエフ文化にもローマや[[ギリシア]]の文化からの影響が見られる。ただし、ヴィェルバルク文化の担い手全てが一群となって黒海まで移動したわけではなく、あくまで黒海沿岸部まで移動してきたグループのみが、キエフ文化の発展に影響したらしい。キエフ文化の中心的な地域について、ヨルダネスは、ゴート族のとある部族の長である人物{{仮リンク|フィリメル|en|Filimer}}によって小規模なゴート族国家[[オイウム王国]](Gothic kingdom of Oium)が成立したとしている。実際にこのキエフ文化の地域がゴート族の黒海沿岸地方進出の足掛かりになっている。<br /> <br /> チェルニャヒーウ文化はもともと大規模な[[穀物]]栽培を中心とした[[農耕]]と、河川を運搬手段として用いた農産物輸出を主体していたが、黒海北方は原スラヴ人である[[スキタイ#農耕スキタイ|農耕スキタイ]]の[[チェルノレス文化]]の時代から[[スキタイ]]人や[[ギリシア人]]へ同じようにさかんに穀物を輸出していた大穀倉地帯であり、[[チェルノーゼム]](黒土)が広がる肥沃な土地であった。良質な[[陶器]]が作成されており、ローマ帝国と大規模な商取引も行っていた。遺跡からは、ローマの[[貨幣]]が大量に見つかることもあるうえ、ローマから輸入された品も見つかっている。チェルニャヒーウ文化文化は[[スラヴ人]]と[[サルマタイ人]]の混合文化と考えられ、ゴート族固有のものではない。遠方からやってきて異質な文化を持つゴート族はその中でも独特の存在だったことは確実で、ローマ帝国に近く、ゴート族南下の道筋にあたる西部では、[[ギリシア文字]]と[[ラテン文字]]に影響を受けて独自の[[ルーン文字]]([[ゴート語]])を完成させ、[[340年]]頃には司教[[ウルフィラ]]によってゴート語訳聖書が著されている。<br /> <br /> ヨルダネスによれば、[[カルパティア山脈]]から[[ドン川]]に至る南ロシア一帯に居留したゴート族は、[[エルマナリク]]王の代に王国を築いた。エルマナリクは、後に[[東ゴート王国]]を興すアマル家の祖と言われているが、この当時のゴート族の王国については、記録が少ないために判然としない。ただ、ローマ帝国のような国家機構があったわけでも、国境というものの意識もなかったようである。ヨルダネスによれば、このときすでに[[ドニエストル川]]からドン川の平原を占有していたグルツンギ・アウストロゴティとカルパティア山脈から[[ドニエプル川]]一帯にかけて居留したテルヴィンギ・ウィシゴティに分裂していたことが伺える。それぞれ東ゴート族、西ゴート族とされるが、これらが直接的に後の[[東ゴート王国]]、[[西ゴート王国]]を打ち立てたグループに分かれたわけではないようである。例えば、詩人クラウディアヌスは[[フリギア]]に侵入したゴート族について、「グルツンギを含んだ東ゴート族」と説明し、グルツンギと東ゴート族をはっきり違うものと認識している。<br /> <br /> 4世紀までに確認されるゴート族は、西ゴート系として3グループ&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;この3グループは1.テルヴィンギ・ウィシゴティの大部分 2.エルマナリク王配下のグルツンギ・アウストロゴティ 3.イタリアに遠征し、西ローマ帝国の将軍[[スティリコ]]に撃破されたラダガイス率いる一派である{{要出典|date=2016-05-14}}。&lt;/ref&gt;、東ゴート系として2グループ&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;このグループは、1.アマル家を王とするグルツンギ・アウストロゴティ 2.[[テオデリック・ストラボ]]率いるゴート族である。&lt;/ref&gt;、所属不明なものとして7グループ&lt;ref group=&quot;注釈&quot;&gt;はっきりしている集団として、1.記録によれば[[377年]]に[[イリリキウム]]を攻撃して敗死したフラノビウス率いるグルツンギ・アウストロゴティ 2.記録によれば[[386年]]にドナウ川を渡ったオドテウス率いるグルツンギ・アウストロゴティ 3.ビゲリス率いるゴート族 4.デンギジック率いるゴート族 5.クリメア率いるゴート族 6.アゾフ海のゴート族 7. アリメル率いるゴート族{{要出典|date=2016-05-14}}&lt;/ref&gt;、つまり12の勢力が確認される{{要出典|date=2016年5月14日 (土) 11:21 (UTC)}}。<br /> <br /> このうちテルヴィンギ・ウィシゴティとして2つのグループが糾合し、その他はグルツンギ・アウストロゴティとして、ゴート族以外の民も含め、エルマナリクを王とするゆる連合勢力を形成していたと考えられる。ただし、エルマナリクは、ヨルダネスが述べているような全ゴート族の王、というわけではない。考古学的には、チャルニャコヴォ文化には、少なくとも6つの大きな集落が発掘されており、それぞれに王ないしはそれに近い権力者がいたと考えられる。エルマナリクはその幾つかの集団の中で特に強力な人物であったか、あるいは実際にかなりの集団を制していたのかも知れない{{要出典|date=2016年5月14日 (土) 11:21 (UTC)}}。<br /> <br /> === フン族の襲来 ===<br /> [[ファイル:Invasions of the Roman Empire 1.png|280px|thumb|各部族によるローマ帝国への侵入要図]]<br /> [[マルケリヌス・アンミアヌス|マルケリヌス]]によれば、東方から襲来した[[フン族]]は、[[370年]]前後に[[カスピ海]]からドン川に至る地域に住んでいた[[アラニ族]]を破り、東ゴート族の支配領域([[:en:Greuthungi]])に到達した&lt;ref&gt;[[#アンビス,安斎訳 1979|アンビス,安斎訳 1979]], pp. 38-40.&lt;/ref&gt;。{{仮リンク|バランベル|en|Balamber|label=バラミール}}(Balamir、在位: [[360年]] - [[378年]] (?)){{refnest|group=&quot;注釈&quot;|ヨルダネスによる&lt;ref name=&quot;アンビスp40&quot;&gt;[[#アンビス,安斎訳 1979|アンビス,安斎訳 1979]], p. 40.&lt;/ref&gt;。{{仮リンク|ヴァラミール|en|Valamir}}(Valamir、在位: [[447年]] - [[465年]])と混同されやすい。}}と呼ばれる王に率いられた&lt;ref name=&quot;アンビスp40&quot; /&gt;フン族の襲来によって、東ゴートの王[[エルマナリク]]は自殺してしまったとされる&lt;ref name=&quot;アンビスp41&quot;&gt;[[#アンビス,安斎訳 1979|アンビス,安斎訳 1979]], p. 41.&lt;/ref&gt;&lt;ref&gt;[[#シュライバー,岡ら訳 1979|シュライバー,岡ら訳 1979]], p. 66.&lt;/ref&gt;。[[376年]]に東ゴートの王権([[:en:Greuthungi]])をエルマナリクから継いだ{{仮リンク|ヴィティミール|en|Vithimiris}} (Vithimiris) は、兵士を再編成してフン族の先鋒となったアラニ族に抵抗したが、エラク川のほとりで敗死。彼の遺児[[ウィデリック]] (Viderichus) はバラミールに屈服し&lt;ref name=&quot;アンビスp41&quot; /&gt;&lt;ref&gt;[[#シュライバー,岡ら訳 1979|シュライバー,岡ら訳 1979]], p. 69.&lt;/ref&gt;、東ゴート族は大部分がフン族の勢力に併合された&lt;ref name=&quot;アンビスp41&quot; /&gt;&lt;ref&gt;[[#松谷 2003|松谷 2003]], p. 34.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> フン族による東ゴート族への攻撃は、[[チェルニャコフ文化|チェルニャヒーウ文化]]、とくにそのうちの一形態である{{仮リンク|キエフ文化|en|Kiev culture}}の痕跡に見ることができる。その侵略は凄まじく、建物はほとんどが火に焼かれており、以後、社会生活が一掃されているところを見ると、土着民族を徹底的に殺戮もしくは奴隷化したと考えられる&lt;ref name=&quot;アンビスp43-44&quot;&gt;[[#アンビス,安斎訳 1979|アンビス,安斎訳 1979]], pp. 43-44.&lt;/ref&gt;。{{要出典範囲|彼らが通ったあとに残ったキエフ文化の町はまったくないと言って良い状況であり、|date=2016年5月14日 (土) 11:21 (UTC)}}これについては5世紀初期の歴史家{{仮リンク|エウナピオス|en|Eunapius}}も、ゴート族はフン族に死滅させられ、残ったものも類のない残虐な方法で処刑されたと述べている&lt;ref name=&quot;アンビスp43-44&quot; /&gt;。<br /> <br /> 東ゴート族の瓦解を目の当たりにした[[西ゴート族]]の王{{仮リンク|アタナリック|en|Athanaric}}は、民族を西方に移動させることを決意した。西ゴート族は2つの勢力に分かれ、一部は{{仮リンク|フリティゲルン|en|Fritigern}}と{{仮リンク|アラヴィヴス|en|Alavivus}}に率いられてローマ帝国の庇護を求めるために[[ドナウ川]]国境線に向かった。他方、アタナリックに率いられた西ゴート族は[[トランシルヴァニア]]に後退するためドニエストル川の陣営に駐屯した。彼はフン族哨戒のために[[ムンデリック]]率いる分遣隊をドニエストル川東部に派遣させたが、フン族はこれを包囲するとともに、アタナリック率いる本隊を攻撃し、これを崩壊させた。このため、アタナリック指揮下の西ゴート族も多くがローマ帝国領内へ避難するため国境線のドナウ川に避難した&lt;ref&gt;[[#アンビス,安斎訳 1979|アンビス,安斎訳 1979]], p. 42.&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> フン族によって西方に追いやられた西ゴート族は、[[376年]]&lt;!--夏--&gt;、ローマ帝国の北東の国境線であるドナウ川を渡り、ローマの保護を求めた。西ゴート族はフリティゲルンの勢力に組み込まれ、2年にわたってローマ領(バルカン半島北部)に居留したが&lt;ref name=&quot;尚樹p67-68&quot;&gt;[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], pp. 67-68.&lt;/ref&gt;、ローマ帝国のゴート族の扱いはひどいものであったため、ゴート族は反乱を起こした([[ゴート戦争 (376年–382年)|ゴート戦争]])。[[378年]]8月9日、ゴート族は[[エディルネ|ハドリアノポリス]]近郊でローマ帝国の正帝[[ウァレンス]]を破って殺害([[ハドリアノポリスの戦い]])し&lt;ref name=&quot;尚樹p67-68&quot; /&gt;&lt;ref name=&quot;松谷p35&quot;&gt;[[#松谷 2003|松谷 2003]], p. 35.&lt;/ref&gt;、さらにこのときローマ兵の3分の2を殺害した&lt;ref name=&quot;松谷p35&quot; /&gt;。{{仮リンク|テミスティウス|en|Themistius}}はこれについて「ローマ軍は影の如く消えた」と述べている。この戦いの後、東西ローマ帝国は蛮族の侵入や反乱に悩まされた。[[カッパドキア]]の教会史家{{仮リンク|フィロストルギオス|en|Philostorgius}}{{要出典|date=2013年3月|や[[アルメニア]]の歴史家[[バル・ヘブラエウス]]([[:en:Bar Hebraeus|en]])&lt;!-- 13世紀の人物ですが? --&gt;}}が、侵入したフン族によって[[シリア]]、[[キリキア]]が壊滅したことを述べている。{{要出典範囲|date=2013年3月|また、彼らの侵略は、[[サーサーン朝]]ペルシャ領内のほか、[[パレスティナ]]や[[エジプト]]一帯にも及んだようである。}}<br /> <br /> {{Main|ゴート戦争 (376年–382年)}}<br /> <br /> しかし、異民族の侵入に悩まされていた東西ローマ帝国は、フン族の傭兵を積極的に雇い入れ、反乱や他民族の鎮圧にあたった。これはある程度の成功を収めており、東ローマ帝国の[[執政官]]{{仮リンク|ルフィヌス (執政官)|en|Rufinus (consul)|label=ルフィヌス}}や軍司令官[[スティリコ]]は、彼らを身辺警護に使ったほか、蛮族を排除する軍隊として動員した。ローマ帝国と不安定ながら良好な関係を形成したフン族は、[[410年]]頃までにドナウ川中流部にまで勢力圏を拡大させた。このため、これに押し出されるかたちで西ゴート族も西に移動し、ドナウ川を渡って[[アルプス山脈|アルプス]]を越え、[[イタリア半島]]に侵入した。<br /> <br /> [[アラリック1世]]率いる西ゴート族は、[[401年]]、イタリアの西ローマ帝国軍と戦い、[[ヴァンダル族]]出身の将軍[[スティリコ]]に敗れる。[[406年]]、[[アラリック1世]]配下の{{仮リンク|ラダガイス|en|Radagaisus}}率いる西ゴート族の一派が再びイタリアに侵入し、8月23日、[[フィレンツェ]]近郊の[[フィエーゾレ]]付近で、スティリコに仕えたフン族の王[[ウルディン]]に殲滅させられている。[[408年]]11月にも、今度は[[アタウルフ]]率いる西ゴート族が侵入、西ローマ帝国の首相{{仮リンク|オリンピウス|fr|Olympius}}率いるフン族混成部隊に敗れた。とはいえ、このような度重なるゲルマン民族の侵入により西ローマ帝国は弱体化、さらに将軍スティリコが謀殺されたため、[[410年]]、遂にアラリック1世はローマにまで進軍し、これを陥落させた([[ローマ略奪 (410年)|ローマ略奪]])。<br /> <br /> {{Main|ローマ略奪 (410年)}}<br /> <br /> この動きによって、ドナウ川のローマ守備隊は手薄になり、[[ブルグント族]]、[[アラマンニ人|アラマンニ族]]、[[スエビ族]]など、他の[[ゲルマン人]]も、フン族の支配を逃れて一斉にドナウ川を渡り始めた。<br /> <br /> {{節スタブ|date=2016年5月14日 (土) 11:21 (UTC)}}<br /> <br /> == 後世でのゴート族 ==<br /> {{出典の明記|section=1|date=2016年5月14日 (土) 11:21 (UTC)}}<br /> ゴートに纏わる言葉として、ルネサンス時代に「野蛮な」という意味で用いられ始めた「[[ゴシック]](ゴート風の)」がある。<br /> <br /> 16-17世紀のスウェーデンではゴート族は自国を出自とする民族であるという[[伝説]]「[[ゴート起源説]]」が盛んに唱えられ、そのゴート族([[ヴァンダル族]]を含む)が[[ヨーロッパ]]、[[アジア]]、[[アフリカ]]を支配し、[[スウェーデン人]]がゴート族の末裔であるという[[俗説]]が捏造された。この俗説は[[17世紀]]のスウェーデンによる[[三十年戦争]]介入の動機となった。<br /> <br /> なお、イェーテボリは[[:en:Geats|ギート族]]の作った町であり、ギート族はゴート族と名称が似ており、互いに交易はあったようではあるが出自から言えば無関係の部族である。<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> === 注釈 ===<br /> {{reflist|group=&quot;注釈&quot;}}<br /> === 出典 ===<br /> {{reflist|2}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &lt;!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。<br /> 書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。--&gt;<br /> * {{Cite book |和書 |last=アンビス |first=ルイ |authorlink=:fr:Louis Hambis |others=安斎和雄訳 |title=アッチラとフン族 |publisher=[[白水社]] |series=[[文庫クセジュ]] 536 |year=1979 |isbn=978-4-560-05536-6 |ref=アンビス,安斎訳 1979 }}<br /> * {{Cite book |和書 |last=シュライバー |first=ヘルマン |authorlink=:de:Hermann Schreiber (Historiker) |others=岡淳、永井潤子、中田健一訳 |title=ゴート族 - ゲルマン民族大移動の原点 |publisher=佑学社 |date=1979-12 |isbn=978-4-8416-0611-9 |ref=シュライバー,岡ら訳 1979 }}<br /> * {{Cite book |和書 |author=[[尚樹啓太郎]] |title=ビザンツ帝国史 |publisher=[[東海大学出版部|東海大学出版会]] |date=1999-02 |isbn=978-4-486-01431-7 |ref=尚樹 1999 }}<br /> * {{Cite book |和書 |author=[[タキトゥス]] |others=[[泉井久之助]]訳 |title=[[ゲルマーニア]] |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1979-04 |isbn=978-4-00-334081-3 |ref=タキトゥス,泉井訳 1979 }}<br /> * {{Cite book |last=Heather |first=Peter |authorlink=ピーター・ヘザー |title=The Goths |publisher=[[:en:Wiley-Blackwell#Blackwell Publishing history|Blackwell Publishers]] |year=1991 |ref=Heather 1991 }}<br /> * {{Cite book |和書 |author=[[松谷健二]] |title=東ゴート興亡史 - 東西ローマのはざまにて |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公文庫#中公文庫BIBLIO|中公文庫BIBLIO]] |date=2003-04 |origyear=1994 |isbn=978-4-12-204199-8 |ref=松谷 2003 }}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> {{Commonscat|Goths}}<br /> {{Wikisource1911Enc|Goths|ゴート族}}<br /> * [[ローマ帝国]] - [[東ローマ帝国]]<br /> * [[東ゴート族]] - [[東ゴート王国]]<br /> * [[西ゴート王国]] - [[西ゴート族]]<br /> * [[フランク王国]]<br /> * [[ヴァンダル王国 (アフリカ)|ヴァンダル王国]]([[ヴァンダル族]])<br /> * [[フン族]]<br /> * [[ゲルマン民族の大移動]]<br /> * [[ゴート起源説]]<br /> * [[イェータランド]]<br /> * [[ゴットランド]]<br /> * [[クリミアゴート族]]<br /> * [[ゴート文字]]<br /> * [[ゴート語]]<br /> * [[クリミアゴート語]]<br /> <br /> {{ウクライナの歴史}}<br /> <br /> {{history-stub}}<br /> {{デフォルトソート:こおとそく}}<br /> [[Category:ゴート人|*]]<br /> [[Category:イタリアの民族]]</div> 180.42.145.120 アイテック阪急阪神 2018-04-02T23:36:32Z <p>180.42.145.120: /* 歴史・概要 */</p> <hr /> <div>{{基礎情報 会社<br /> |社名= アイテック阪急阪神株式会社<br /> |英文社名= Itec Hankyu Hanshin CO.,LTD<br /> |略称=i-TEC、i-TEC阪急阪神<br /> |種類= 株式会社<br /> |国籍 = {{JPN}}<br /> |郵便番号= 553-0001<br /> |本社所在地= [[大阪府]][[大阪市]][[福島区]]海老江1-1-31&lt;br /&gt;阪神野田センタービルディング内<br /> |設立= [[1987年]](昭和62年)7月1日<br /> |業種= 5250<br /> |事業内容=[[インターネット]]事業、[[アウトソーシング]]事業、医療システム事業 など <br /> |代表者= [[代表取締役]][[社長]] 浜田真希男<br /> |資本金= 2億円<br /> |売上高= 188.9億円([[2009年]](平成21年)度)<br /> |従業員数=720人([[2010年]](平成22年)4月現在)<br /> |主要株主=[[阪神電気鉄道]] 55.74%&lt;br/&gt;[[三菱電機]] 30.01%&lt;br/&gt;[[阪急阪神ホールディングス]] 14.23%&lt;br/&gt;(同社の[[連結子会社]])&lt;br /&gt;([[2007年]](平成19年)10月)&lt;ref name=&quot;senken-np-2007-10-16&quot;&gt;{{Cite news | title = ウェブベース、アイテック阪急阪神と資本・業務提携 アパレル向けBtoC開発 | newspaper = [[繊研新聞]] | publisher = 繊研新聞社 | date = 2007-10-16 }}&lt;/ref&gt;<br /> |外部リンク= {{Official|http://itec.hankyu-hanshin.co.jp/}}<br /> |特記事項= <br /> }}<br /> &#039;&#039;&#039;アイテック阪急阪神株式会社&#039;&#039;&#039;(アイテックはんきゅうはんしん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]]にある、[[阪急阪神ホールディングス]]傘下企業である。<br /> <br /> == 歴史・概要 ==<br /> [[1987年]](昭和62年)7月に[[阪神電気鉄道]]の子会社の阪神エンジニアリング株式会社の電子計算機事業部門を分離して、アイテック阪神株式会社として独立させたのが始まりである&lt;ref name=&quot;hanshin-railways-annual-report-190-2011&quot;&gt;{{Cite report |date=2011-6-30 |title=阪神電気鉄道 第190期有価証券報告書 |publisher=阪神電気鉄道 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 村上ファンドの電撃的な阪神株買い占めへの対抗策として阪急ホールディングスによる株式公開買い付けを経て、[[2006年]](平成18年)10月1日に親会社であった阪神電気鉄道が阪急ホールディングスと経営統合&lt;ref name=&quot;kobe-np-2012-3-20&quot;&gt;{{Cite news | author = 小林由佳、末永陽子 | title = 決断のとき 世紀の統合 阪急・阪神(1)村上ファンド 私鉄再編「本気だった」 | newspaper = [[神戸新聞]] | publisher = 神戸新聞社 | date = 2012-3-20 }}&lt;/ref&gt;。翌[[2007年]](平成19年)10月1日に[[阪急阪神ビジネスアソシエイト|阪急ビジネスアソシエイト]]の情報事業部門を統合して商号をアイテック阪急阪神株式会社へ変更した&lt;ref name=&quot;hankyu-hanshin-holdings-annual-report-170-2008&quot;&gt;{{Cite report |date=2008-6-26 |title=阪急阪神ホールディングス 第170期有価証券報告書 |publisher=阪急阪神ホールディングス }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> アイテック阪神の時代から手掛けていた[[電子商取引]]のパッケージソフトの「ヒットモール」はグループ会社の[[阪神タイガース]]の公式サイトだけでなく、タイガースが加盟する[[日本野球機構]]などの公式サイトにも採用され、[[2007年]](平成19年)10月にはウェブベースの第3者割り当て増資を引き受けて資本・業務提携し、服や雑貨などを扱うファッション・アパレル業界向けのBtoC(企業対消費者取引)パッケージソフトの共同開発に乗り出すなど電子商取引のパッケージソフトに強みを持っている&lt;ref name=&quot;senken-np-2007-10-16&quot;&gt;{{Cite news | title = ウェブベース、アイテック阪急阪神と資本・業務提携 アパレル向けBtoC開発 | newspaper = [[繊研新聞]] | publisher = 繊研新聞社 | date = 2007-10-16 }}&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> 前身のアイテック阪神の時代から阪神電気鉄道と[[三菱電機]]の合弁となっていたため、阪急ビジネスアソシエイトの情報事業部門を統合した後でも出資比率は阪神電気鉄道が55.74%、三菱電機30.01%、阪急阪神ホールディングスが14.23%となっている&lt;ref name=&quot;senken-np-2007-10-16&quot; /&gt;。<br /> <br /> ==事業概要==<br /> アイテック阪急阪神株式会社では、下記事業を展開している。(一部紹介)<br /> *インターネット事業<br /> :Tigers-net.com([[阪神タイガース]]公認の[[インターネットサービスプロバイダ|インターネットプロバイダ]])<br /> :BAI([[ベイ・コミュニケーションズ]]のケーブルテレビ回線を使用したインターネットプロバイダ)<br /> :阪神タイガース・[[宝塚歌劇]]・[[阪神百貨店]]・[[阪急三番街]]などのWEBサイト製作 <br /> :阪急阪神グループでの駅や商業施設の[[公衆無線LAN]]運営 など<br /> *システム開発・販売<br /> :ケーブルテレビ送出管理システム<br /> :[[列車運行管理システム]](阪神電気鉄道向けの「PTC」納入など)<br /> :道路管理システム<br /> :ビル管理・保守システム など<br /> *医療システム<br /> :臨床検査システム<br /> :健康管理システム<br /> :保険薬局システム<br /> :電子カルテシステム <br /> *技術サービス<br /> *アウトソーシングサービス<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> *{{official|itec.hankyu-hanshin.co.jp/}}<br /> *[http://www.hit-mall.jp/ ECサイト構築パッケージ「HIT-MALL」]<br /> *[http://www.itechh.ne.jp/ ホスティングサービスの「i-TEC SERVER」]<br /> *[http://www.tigers-net.com タイガースネットコム]<br /> <br /> {{阪急阪神東宝グループ}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:あいてつくはんきゆうはんしん}}<br /> [[Category:日本の情報・通信業]]<br /> [[Category:日本のインターネットサービスプロバイダ]]<br /> [[Category:阪急阪神ホールディングス]]<br /> [[Category:福島区の企業]]<br /> [[Category:経済産業省登録システムインテグレータ (近畿経済産業局所管)]]<br /> [[Category:1987年設立の企業]]</div> 180.42.145.120
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46