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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2025-01-15T07:29:53Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
飯塚伊賀七
2018-02-24T08:46:47Z
<p>126.224.174.160: /* 経歴 */</p>
<hr />
<div>{{Infobox 人物<br />
|氏名 = 飯塚 伊賀七<br />
|ふりがな = いいづか いがしち<br />
|画像 = Iizuka Igashichi Zō.jpg<br />
|画像サイズ = 220px<br />
|画像説明 = 飯塚伊賀七像(広瀬周度筆)<br />
|出生名 = <br />
|生年月日 = [[宝暦]]12年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]<br />([[1762年]][[4月23日]])<br />
|生誕地 = [[常陸国]][[筑波郡]]新町村<br />
|没年月日 = [[天保]]7年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]<br />({{死亡年月日と没年齢|1762|4|23|1836|12|24}})<br />
|死没地 = 常陸国筑波郡新町村<br />
|死因 = <br />
|墓地 = 鐘声山寿光院道林寺([[茨城県]][[つくば市]][[谷田部 (つくば市)|谷田部]])<br />
|記念碑 = <br />
|住居 = 常陸国筑波郡新町村<br />
|国籍 = {{JPN}}<br />
|別名 = からくり伊賀(からくり伊賀七)<br />
|民族 = <br />
|職業 = [[名主]]・[[農民]]<ref>石塚 編(1995):174ページ</ref><br />
|活動期間 = [[江戸時代]]<br />
|著名な実績 = [[からくり]]などの[[発明]]<br />
|業績 = <br />
|流派 = <br />
|影響を受けたもの = <br />
|影響を与えたもの = <br />
|活動拠点 = 常陸国筑波郡新町村<br />
|身長 = <br />
|体重 = <br />
|肩書き = 名主<br />
|任期 = <br />
|前任者 = 飯塚仁兵衛<br />
|後任者 = 飯塚丁卯司<br />
|宗教 = [[仏教]]・[[神道]]<br />
|宗派 = <br />
|配偶者 = ヲリセ<br />
|子供 = ヲキヨ・ヲサノ・仁治郎・ユキ<br />
|親 = 父:仁兵衛、母:ヲモヨ<br />
|親戚 = <br />
|署名 = <br />
|署名サイズ = <br />
|公式サイト = <br />
|補足 = <br />
}}<br />
'''飯塚 伊賀七'''(いいづか いがしち、[[宝暦]]12年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]〔[[グレゴリオ暦]] [[1762年]][[4月23日]]〕 - [[天保]]7年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]〔グレゴリオ暦 [[1836年]][[12月24日]]〕)は、[[江戸時代]]後期の[[発明家]]。[[谷田部藩]]領の[[常陸国]][[筑波郡]]新町村(現:[[茨城県]][[つくば市]][[谷田部 (つくば市)|谷田部]])に生まれ、生涯を谷田部で過ごした。「谷田部にすぎたるもの3つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と呼ばれ、谷田部の象徴的な存在だった<ref>茨城新聞社 編(1981):1035ページ</ref>。<br />
<br />
[[名主]]([[庄屋]])を務めるかたわら、[[建築]]・[[和算]]・[[蘭学]]などを学び、[[からくり]]や[[和時計]]を数多く製作した<ref name="trs">茨城県地域史研究会 編(2006):80ページ</ref>ほか、飛行実験、[[地図]]製作、[[多宝塔]]や[[五角堂]]の設計など多方面で活躍し、村人を驚かせた<ref name="i1084">「日研」新聞編集委員会 編(1991):184ページ</ref>。そのため、'''からくり伊賀'''<ref>つくば書店レポート部 編(2007):47ページ</ref><ref>田村(1979):8ページ</ref>または'''からくり伊賀七'''の異名を持つ<ref name="i1084"/>。[[平成|平成時代]]には「つくばの[[レオナルド・ダ・ヴィンチ|ダ・ヴィンチ]]」という呼び名も登場している<ref name="tcben">つくば市教育委員会 編(2012):2ページ</ref>。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
宝暦12年3月29日(グレゴリオ暦:1762年4月23日)に常陸国筑波郡新町村にて、飯塚家16代目として出生する<ref>田村(1979):1 - 2ページ</ref>。飯塚家は広い山林や田畑を有し、[[家庭内労働者|使用人]]もいたと考えられ、毎年小作米が[[蔵]]に収まりきらないほど納入されたというほどの裕福な家庭であった<ref name="ii2">田村(1979):2ページ</ref>。幼少より工夫や発明に興味を示し、[[数理科学|数理]]に明るかった<ref name="ksj">ワークス 編(1997):152ページ</ref>。以上のように[[家産]]にゆとりがあり、[[科学]]への関心が高かったことが、後にたくさんの発明を生んだ<ref name="i1084"/>。なお、伊賀七がどのように学問を身に付けたかについては現代に伝わっていないが、[[和算#関流の勃興|関流]]の[[数学者]]が[[江戸]]から出張講義に訪れていたことや、谷田部[[藩医]]で[[蘭学]]を谷田部に導入した広瀬周伯・周度父子と親交があったことが、[[数学]]や蘭学の素養を得るきっかけとなったと推測される<ref>谷田部の歴史編さん委員会 編(1975):121 - 122ページ</ref>。伊賀七自身、[[和算]]研究を行っている<ref name="yh1">谷田部の歴史編さん委員会 編(1975):121ページ</ref>。<br />
<br />
きょうだいには姉のヲキワと妹のヲトノがいたが、2人とも短命で、伊賀七が幼いうちに亡くなっている<ref name="ii2"/>。[[安永 (元号)|安永]]元年([[1772年]])、伊賀七10歳の時<ref group="注">原文では[[数え年]]になっているが、本稿ではすべて[[満年齢]]で統一する。</ref>に[[干ばつ]]、翌安永2年([[1773年]])に[[飢饉]]、更に[[天明]]4年([[1784年]])・同7年([[1787年]])にも飢饉、同6年([[1786年]])には7月に[[大水|洪水]]が発生し、社会が不安定な時代に青年期を過ごした<ref>田村(1979):3 - 4ページ</ref>。これらの[[災害]]は伊賀七自身が記録していたものであり、その後の記録もほとんどが災害に関するものであることから、名主として深刻に考えていたと思われる<ref>田村(1979):3 - 6ページ</ref>。<br />
<br />
正確な年代は不明であるが、家督を相続した頃に3歳年下のヲリセと結婚し、[[寛政]]年間([[1789年]] - [[1800年]])には娘のヲキヨ、ヲサノ、息子の仁治郎を授かるが、3人とも早世してしまう<ref>田村(1979):6, 84ページ</ref>。寛政元年4月(グレゴリオ暦:1789年4月 - 5月)には谷田部で熱病が流行し、27歳の伊賀七と名主3名は八坂神社(牛頭天王宮)に7日7晩こもり、悪疫退散を祈願したところ、病は平癒していった<ref>田村(1979):5ページ</ref>。なお、若い頃の名主としての活動はこれが唯一残っている記録である<ref>田村(1979):6ページ</ref>。<br />
<br />
発明家としての才能は、40歳代後半以降に開花した<ref name="ifj4">石塚 編(1995):54ページ</ref>{{#tag:ref|これは伊賀七の発明品に記載された年代が40歳代後半以降の物が多いからである<ref name="ii0">田村(1979):10ページ</ref>。|group="注"}}。この頃には名主の地位を降りていたという説がある<ref name="ifj4"/>一方、71歳になる[[天保]]4年([[1833年]])には他の名主とともに農民の[[釈放]]を藩に願い出るなど、名主として活動は続けていたようである<ref name="ipbe15">茨城県教育委員会(1986):85ページ</ref>{{#tag:ref|ただし、記録に残る「飯塚伊賀七」とは71歳の伊賀七本人ではなく、飯塚家の17代・丁卯司が伊賀七の名を[[襲名]]したとも考えられる<ref name="ipbe12">茨城県教育委員会(1986):82ページ</ref>。|group="注"}}。[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])、47歳の時に娘のユキが生まれた<ref name="ii7">田村(1979):7ページ</ref>。<br />
<br />
[[文政]]9年([[1826年]])、妻のヲリセが亡くなり、天保5年([[1834年]])、孫の昌輔が生まれた<ref name="ipbe13">茨城県教育委員会(1986):83ページ</ref>。<br />
<br />
晩年は天保期にあって[[谷田部藩]]の[[財政]]は厳しいものであった<ref name="tr">つくば書店レポート部 編(2007):48ページ</ref>。天保4年(1833年)は[[冷夏]]であり、[[8月1日 (旧暦)|8月1日]](グレゴリオ暦:1833年[[9月14日]])には強烈な[[暴風雨]]が[[関東地方]]を襲い、[[農作物]]は全滅し、家屋の多くが全半壊の被害を受けた<ref name="ipbe11">茨城県教育委員会(1986):81ページ</ref>。凶作を見越した伊賀七は打穀機を作り、[[五角堂]]内に設置した<ref name="ipbe11"/>。そして同年12月(グレゴリオ暦:[[1834年]]1月)、現在のつくば市[[茎崎町|茎崎地域]]にあたる3村の[[百姓]]が年貢の引き下げを要求し逮捕されると<ref name="ipbe12"/>、農民と藩の仲立ちを行なった<ref name="tr"/>。具体的には農民に対して[[強訴]]を思いとどまるように説得し、藩に対しては逮捕した農民の釈放を周辺村の代表として藩庁へ申し出た<ref name="ipbe12"/>。ただし、71歳の伊賀七が藩庁に赴いたのではなく、飯塚家17代の丁卯司が伊賀七を襲名したと考えることもできる<ref name="ipbe12"/>。<br />
<br />
[[File:Dōrin-ji Temple in Tsukuba.jpg|thumb|道林寺]]<br />
この頃、谷田部藩領では凶作続きで逃亡する農民が続出した<ref name="ipbe13"/>。そこで藩政改革のために[[二宮尊徳]]が招かれ、天保6年([[1835年]])に伊賀七宅に宿泊したという話が伝わっている<ref name="tr"/>{{#tag:ref|ただし、二宮尊徳が谷田部に来たことはなく、藩の[[重役]]が[[下野国]]桜町(現在の[[栃木県]][[真岡市]]物井)へ赴いて指導を受けたという説もある<ref>つくば書店レポート部 編(2007):60ページ</ref>。|group="注"}}。その翌年の天保7年([[1836年]])も[[天保の大飢饉]]は続き、同年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]](1836年[[12月24日]])、満74歳で伊賀七は生涯を終えた<ref name="ipbe13"/>。[[戒名]]は「壬午院規矩誉丙申器表居士」で、谷田部西町の道林寺にある飯塚家[[墓地]]に入る<ref name="ipbe13"/>。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
* [[科学者]]であると同時に、信心深い一面もあった<ref name="ii6-7">田村(1979):6 - 7ページ</ref>。特に妻に先立たれてからは信仰心を強め、[[筑波山神社]]への[[灯籠]](とうろう)の寄進、自宅近くの諏訪神社への手洗石の寄進を行っている<ref>田村(1979):49ページ</ref>。また和時計の一部には、お経や神への祈願文がびっしりと書かれた部分がある<ref>田村(1979):6 - 7ページ</ref>。<br />
* [[機械]]・建築・和算・[[地理学]]・[[暦学]]を修得し、奇抜な発明で人々を驚かせた<ref name="ksj"/>。<br />
* 几帳面な人であったようで、伊賀七の発明品には製造年月日が明記されていた<ref name="ii0"/>。更に取り扱い上の注意点まで添えられているものもあった<ref name="ii0"/>。<br />
* からくりになると夜でも突然起き上がって開発を始めたという<ref name="ii0"/>。<br />
<br />
== 発明品 ==<br />
以下に挙げるもののほか、[[エレキテル]]を作ったという言い伝えもある<ref name="yh1"/>。伊賀七と親交のあった広瀬周伯・周度の執筆した『三才窺管』(さんさいきかん)にエレキテルの説明があることがその傍証となっている<ref name="ipbe8">茨城県教育委員会(1986):68ページ</ref>。<br />
<br />
=== 大型のそろばん ===<br />
縦34cm×横37cm、[[寛永通宝]]を珠にした[[そろばん]]<ref name="isk0"/>。1列に6個(上段1個、下段5個)珠があり、12列並んだものが9組でそろばん1面を成す{{#tag:ref|言い換えれば、伊賀七の発明したそろばん1面で、通常のそろばん9面分に相当することになる<ref name="ipbe8"/>。なお、「面」はそろばんを数える単位である。|group="注"}}ので、寛永通宝の珠は合計648個ある<ref name="isk0"/>。珠に寛永通宝を使用したのは、[[面積]]をとらないようにするためである<ref name="ipbe8"/>。<br />
<br />
伊賀七は発明や設計に必要な計算をこのそろばんを使って行なったと考えられる<ref name="ipbe8"/>。ある日、川に打ち込まれた杭(くい)が抜けなくて人々が困っていると伊賀七が通りかかり、そろばんを取り出して計算を始め、抜き方を指示したところ、たちまち杭が抜けた、という話もある<ref name="ii17">田村(1979):17ページ</ref>。<br />
<br />
=== 酒買い人形 ===<br />
伊賀七宅の斜め向かいにある酒屋へ酒を買いに行くからくりを伊賀七は発明したと言われ、現在でも谷田部の人に語り継がれている<ref name="ipbe77">茨城県教育委員会(1986):77ページ</ref>。この人形は伊賀七宅を出発するとガッタンガッタンと音を立てながら街道を渡り、酒屋前で停止、酒屋の主人が人形の持つ酒瓶に酒を入れ人形の向きを変え、酒瓶を持たせると、再び人形はガッタンガッタンと音を立てて帰って行ったという<ref name="ipbe77"/>。酒瓶に酒を一定量以上入れないと動き出さないような仕掛けもあったとされ、酒屋は量をごまかすことはできなかった<ref name="ipbe77"/>。なお、伊賀七宅から酒屋までの距離はおよそ2.8mである<ref name="ipbe77"/>。<br />
<br />
人形本体は残っていないが、酒買いに使われたとされる[[備前焼]]の酒瓶が残っている<ref name="yh2"/>。酒瓶は人形本体にはめ込んで使用した<ref>田村(1979):25ページ</ref>。ほかにも「トウフ買い人形」もあり、右折を含む豆腐屋までの約100mの距離を[[豆腐]]を買いに行ったと言われている<ref name="ipbe77"/>。こちらは途中で止まってしまったという話が残っている<ref name="ipbe77"/>。伊賀七宅を訪問したら、からくり人形が出迎えたという逸話もある<ref>田村(1979):24ページ</ref>。<br />
<br />
=== 茶くみ女 ===<br />
茶くみ女(茶くみ人形)は、上述の酒買い人形やトウフ買い人形と同じ原理のからくり人形である<ref name="ipbe77"/>。明治時代の[[郷土史]]の記述によれば、あらかじめ距離を計算して右左折も自在で、茶碗を乗せると自動で進み、茶碗をとると自動で止まるようになっていたようである<ref name="ipbe77-78">茨城県教育委員会(1986):77 - 78ページ</ref>。茶くみ女は客人に茶を出すのに使われたと思われる<ref name="ipbe18">茨城県教育委員会(1986):78ページ</ref>。<br />
<br />
酒買い人形同様現物は残っていないが、伊賀七が34歳の頃である寛政8年([[1796年]])に[[土佐国]]の[[細川頼直]]が『機訓蒙図彙』(からくりきんもうずい)という書物を著してそこで「茶運人形」というほぼ同じようなからくり人形を紹介していることや、[[日立風流物]]などからくり人形の登場する祭りが盛んになった時代であったことから、実在したものと思われる<ref name="ipbe18"/>。また、谷田部藩主の[[細川興徳]]に茶くみ女を献上したという話も伝わっている<ref name="ipbe18"/>。<br />
<br />
=== 人力飛行機 ===<br />
伊賀七は人力で動く[[飛行機]]をも開発したと伝えられる<ref name="ipbe19">茨城県教育委員会(1986):79ページ</ref>。伝説によると、伊賀七は大きな鳥のような翼を作り、それを身に付けて屋根から飛び降りて試行錯誤を重ね、更には[[筑波山]]から谷田部までの約20kmを飛ぼうとして「飛行願」なるものを藩主に提出したという<ref name="ipbe19"/>。しかし「人心を惑わす」、「殿様の頭上を飛ぶなどもってのほか」という理由で許可は下りず、実現することはなかった<ref name="ipbe19"/>。それどころか、伊賀七は藩に捕らえられ、献上したからくり人形も破壊されてしまった、という話まで存在している<ref name="ipbe10">茨城県教育委員会(1986):80ページ</ref>。<br />
<br />
天明5年(1785年)に[[備前国]]岡山では[[浮田幸吉]]が飛行実験を行ない、[[オランダ]]経由でヨーロッパの[[熱気球]]による飛行の成功のニュースが日本にも伝わっていたことから、それらに刺激されて伊賀七が飛行実験を行なったものと考えられる<ref name="ipbe10"/>。飛行計画はたとえ上記のような理由がなくとも、筑波山が江戸の[[鬼門]]鎮護の地として神聖視されていたことや、筑波山から谷田部までの間には[[天領]]や[[旗本]]領、[[大名]]領が複雑に入り組んでおり、[[外様大名]]の谷田部藩主が許可を出すことは実質不可能だった<ref name="ipbe10"/>。<br />
<br />
伊賀七の飛行機は羽を数枚重ねたもので、ペダルを足で踏むと羽ばたいて飛ぶことができたようである<ref>田村(1979):22ページ</ref>。この構造を活かして木製の[[自転車]]を作り、乗り回したという<ref name="ii47">田村(1979):47ページ</ref>。五角堂内で羽を見たという証言もあったが、現存していない<ref>田村(1979):22 - 23ページ</ref>。<br />
<br />
=== 農業機械 ===<br />
{{see also|五角堂#堂内の打穀機}}<br />
伊賀七は多数の[[農業機械]]を製作している<ref name="ipbe11"/>。五角堂内には、天保4年(1833年)作の打穀機が設置され、同時期の作と考えられる自動[[粉砕機|製粉]]・[[精米機]]の模型がある<ref name="ipbe11"/>。自動製粉・精米機は、[[ロープ|綱]]に吊るした[[重し|重錘]](じゅうすい)を[[歯車]]に巻き付け、その落下する力を歯車の回転に利用し、同時に製粉と精米を行なった<ref>茨城県教育委員会(1986):81 - 82ページ</ref>。回転速度を規制する機構は時計と同じである<ref name="ipbe12"/>。これにより、[[風車]]や[[水車]]の動力がなくても製粉・精米ができるようになったのである<ref name="ipbe12"/>。自動製粉・精米機上部には「下野□村 右近将監様下 □□□細工」の字があり、下野国の領主への献上品として作っていたのではないかと推測される<ref name="ii7"/>。また縄をよる機械や糸繰り機も作ったという<ref name="ii7"/>。<br />
<br />
=== 和時計 ===<br />
{{Main|五角堂#和時計}}<br />
朝夕に[[太鼓]]や鐘を自動で打って町の人に時を知らせ、飯塚家の門扉を自動で開閉させたと言われる大型の和時計<ref name="trs"/>。現在は谷田部郷土資料館と[[水戸市]]にある[[茨城県立歴史館]]に復元模型が展示されている<ref name="trs"/>。<br />
<br />
== 伊賀七の建築物 ==<br />
伊賀七の業績を見ると、優れた建築が多く木製の発明品が多数あることから、若い頃に[[宮大工]]などから本格的な建築を学んだのではないかと考えられている<ref>茨城県教育委員会(1986):67ページ</ref>。<br />
<br />
=== 五角堂 ===<br />
{{Main|五角堂}}<br />
伊賀七生家跡にある五角形の建築物<ref name="ksj"/>。伊賀七の建築の代表作の1つであり、伊賀七の子孫の飯塚家に残る唯一の有形物である<ref>茨城地方史研究会 編(1989):190 - 191ページ</ref>。<br />
<br />
=== 布施弁財天鐘楼堂 ===<br />
[[ファイル:FB-4.JPG|thumb|布施弁財天多宝造鐘楼堂]]<br />
[[千葉県]][[柏市]]にある[[東海寺 (柏市)|布施弁財天]]の多宝造鐘楼堂は伊賀七の設計である<ref name="isk0">茨城地方史研究会 編(1989):190ページ</ref>。[[土台]]は八角形、塔身は円筒、屋根は四角形という珍しい構造をしている<ref name="isk0"/>。土台の八角形は1辺約2.7m、その上に[[十二支]]の彫刻を入れた12本の柱を立てている<ref name="ipbe3">茨城県教育委員会(1986):73ページ</ref>。複雑な建築であったため工事は難航し、完成したのは着工から2年たった文化15年([[1818年]])、伊賀七56歳の時であった<ref>田村(1979):32 - 33ページ</ref>。<br />
<br />
口伝によると、伊賀七の設計図に従って[[大工]]が鐘楼堂の組み立て作業を行っていると、どうしてもうまく行かない部分があり、急いで谷田部に使者を遣わし、伊賀七を呼びに行った<ref name="yh2">谷田部の歴史編さん委員会 編(1975):121ページ</ref>。すると伊賀七は、「[[鐘]]を先に吊り下げればよいのだ、わざわざ行くには及ばない」と答え、その通りにするとうまくいったという逸話がある<ref name="yh2"/>。この鐘は[[太平洋戦争]]中に[[金属類回収令]]によって供出され、現在は復元物が堂内に納められている<ref name="ipbe3"/>。<br />
<br />
=== さしこ造の母屋 ===<br />
伊賀七宅は、ある日火事で焼けてしまい、伊賀七は自ら応急処置として母屋を建て直した<ref name="ipbe0">茨城県教育委員会(1986):70ページ</ref>。応急処置だったはずの建物はそのまま子孫代々使われ、[[1950年]](昭和25年)に伊賀七を慕う人物によって買い取られるまで存在した<ref name="ipbe0"/>{{#tag:ref|買い手は母屋を解体して移転・復元するつもりであったが、都合により復元されることはなかった<ref name="ipbe0"/>。|group="注"}}。<br />
<br />
伊賀七の母屋の建築法は地元で「さしこ造」(挿籠造)と呼ばれている<ref name="ipbe0"/>。さしことは[[茨城弁]]で「[[鳥かご]]」・「中籠」の意味で、さしこ造は下から上へ向かうほど細くなる柱{{#tag:ref|これは耐震のための構造だったと考えられる<ref>田村(1979):35ページ</ref>。|group="注"}}と柱の間に、板を1枚1枚上から組み込んでいく構造である<ref name="ipbe0"/>。このため解体作業時に板を1枚1枚下から上へ持ち上げねばならず、大変苦労したという<ref name="ipbe0"/>。<br />
<br />
この母屋は[[建坪]]75[[坪]](約248m<sup>2</sup>)、[[木造]](杉材)[[平屋]]建ての茅葺(かやぶき)だったが、解体中に外部からは窺い知ることのできない巧妙な造りの上り口を持つ中2階が発見された<ref name="ipbe0"/>。住んでいた伊賀七の子孫は全く気付かなかったという<ref name="ipbe0"/>。この「隠し部屋」の目的は分からないが、藩主から飛行実験の不許可や酒買い人形の禁止を言い渡されたことで、誰にも知られずに研究できる部屋が必要だったのではないか、という[[仮説]]がある<ref name="ipbe0"/>。<br />
<br />
== 伊賀七と地図 ==<br />
伊賀七は地理学にも通じ、「分間谷田部絵図」を残している<ref name="isk0"/>。この[[絵図]]は伊賀七の遺品の中で最古の品であり、[[畳]]2畳分の大きさがあり、現代の[[地図]]にも劣らないほどの高精度を持っている<ref name="isk0"/>。[[縮尺]]は1:6000<ref name="ipbe9">茨城県教育委員会(1986):69ページ</ref>。図中には、谷田部陣屋口南方右側に[[鉄砲]]場が描かれ、谷田部城下には内町、新町、ふどう町(不動町)、西町などの地名が記されている<ref>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):942ページ</ref>。作図は天明8年[[正月]](グレゴリオ暦:[[1788年]]2月)で<ref name="ii17"/>、[[天明の大飢饉]]後に谷田部藩からの依頼によって作図したものと思われる<ref name="ipbe9"/>。損傷が激しかったが、[[1970年代]]に谷田部町教育委員会が修復作業を行なった<ref name="ipbe9"/>。<br />
<br />
「分間谷田部絵図」以外にも同絵図をもとに、大縮尺の図とした「谷田部付近地図」、飯塚家の所有地を描いたと思われる[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])作の「分間中野畠絵図」・「分間山絵図」、既存の絵図を拡大したと考えられる「分間下総絵図」の合計5枚の絵図が伝わっている<ref name="ipbe9"/>。<br />
<br />
絵図の作成には自作の[[測量]]器具を用いた<ref name="ifj4"/>。その測量器具は「十間鑰」(十間輪)と呼ばれ、全長176cmの大小の車輪が付いた車になっており、車を転がして[[距離]]を測定した<ref name="ipbe9"/>。大きい車輪は3[[尺]](約90.9cm)で1回転し、10[[間]](約18.2m、20回転)ごとに鐘が鳴る仕組みであった<ref name="yh1"/><ref name="ipbe9"/>。十間鑰を使えば、歩く速さで簡単に距離を測れたため、島名村(現在のつくば市島名)から谷田部陣屋までどれほどの距離があるか思案していた人々の前で、伊賀七は速やかに計測して驚かせたという<ref>田村(1979):20ページ</ref>。十間鑰は五角堂内に眠っており、小さい方の車輪には使用法が書かれていた<ref>田村(1979):19 - 20ページ</ref>。<br />
<br />
== 親族 ==<br />
飯塚家の初代は山田衡算という人物で、[[京都]]の[[儒学者]]であった<ref name="ii2"/>。2代と3代は本郷姓を名乗り、4代から飯塚姓となった<ref name="ii2"/>。伊賀七の子孫は明治初期まで寺子屋を開いて地元の子供らに[[そろばん]]を教授するなど、先祖代々学問に通じた家系であった<ref name="ii2"/>。飯塚家は[[谷田部陣屋]]の[[大手門]]付近にあった<ref name="isk9">茨城地方史研究会 編(1989):189ページ</ref>。<br />
<br />
伊賀七の娘婿・丁卯司が第17代を継ぎ、広瀬周度に依頼して伊賀七の肖像画を描いてもらっている<ref name="ii7"/>。飯塚家では伊賀七亡き後数代に渡り、「伊賀七」の名を襲名し、今なお当主は地元の人から「伊賀七さん」と呼ばれている<ref name="ipbe13"/>。<br />
<br />
== 現代に生きる伊賀七 ==<br />
伊賀七の生きた時代から数世紀が過ぎた頃、つくばの地に[[筑波研究学園都市]]が建設され、[[2009年]](平成21年)には「ロボットの街つくば」が提唱された<ref>ロボットの街つくば推進会議・つくば市(2009):1 - 12ページ</ref>。「ロボットの街つくば」の提言の中で伊賀七は、からくり=[[ロボット]]の開発者として、「ロボットの街つくば」の原点として紹介された<ref>ロボットの街つくば推進会議・つくば市(2009):12ページ</ref>。そして[[2012年]](平成24年)には生誕250周年を迎え<ref name="tcben"/>、つくばサイエンス・インフォメーションセンターにて「飯塚伊賀七生誕250周年記念展」が開催された<ref>つくばサイエンス・インフォメーションセンター"[http://www.city.tsukuba.ibaraki.jp/51/010590.html つくば市|飯塚伊賀七生誕250周年記念展開催中]"<[http://megalodon.jp/2012-0806-0051-29/www.city.tsukuba.ibaraki.jp/51/010590.html ウェブ魚拓]>つくば市、平成24年6月19日(2012年8月6日閲覧。)</ref>。また同年に[[つくば市役所]]にて「からくり伊賀 つくばが生んだ奇才のエンジニア」と題して約50点の展示が行われ、和時計の実演と解説が行われた<ref>安味伸一"企画展 発明家・飯塚伊賀七展 つくばで来月12日まで"[[毎日新聞]]2012年9月19日茨城南27ページ</ref>。<br />
<br />
=== 伊賀七の登場する作品 ===<br />
;『朔風の鐘』[[三一書房]]<br />
:[[一色次郎]]による[[1970年]](昭和45年)の[[小説]]<ref name="itk">小島(1997):8ページ</ref>。伊賀七の娘が語るという体裁を採っており、事実上伊賀七が主人公となっている<ref name="itk"/>。ほかに、[[伊能忠敬]]と[[間宮林蔵]]が登場する<ref name="itk"/>。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
;注釈<br />
{{Reflist|group="注"}}<br />
;出典<br />
{{Reflist|3}}<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 石塚眞 編『茨城県の不思議事典』[[新人物往来社]]、1995年6月15日、239pp. ISBN 4-404-02225-5<br />
* [[茨城県教育委員会]]『郷土の先人に学ぶ』茨城県教育委員会、1986年3月31日、244pp.<br />
* 茨城県地域史研究会 編『茨城県の歴史散歩』歴史散歩8、[[山川出版社]]、2006年1月25日、285pp. ISBN 4-634-24608-2<br />
* [[茨城新聞社]] 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年10月8日、1099pp.<br />
* 茨城地方史研究会 編『茨城の史跡は語る』[[瀬谷義彦]]・佐久間好雄 監修、[[茨城新聞社]]、1989年12月30日、317pp.<br />
* 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『[[角川日本地名大辞典]] 8 茨城県』[[角川書店]]、1983年12月8日、1617pp.<br />
* 小島一仁(1997)"伊能忠敬との出会い"伊能忠敬研究(伊能忠敬研究会).'''10''':4-9.<br />
* 田村竹男『飯塚伊賀七』ふるさと文庫 茨城、[[崙書房]]、1979年1月15日、87pp.<br />
* つくば市教育委員会 編『教育公報 つくばの学び舎 第7号』つくば市教育委員会、2012年6月25日、3pp.<br />
* つくば書店レポート部 編『つくばレポート vol.2』つくば書店、2007年3月1日、91pp. ISBN 978-4-902451-01-6<br />
* 「日研」新聞編集委員会 編『茨城108景をめぐる』川崎松濤 監修、[[筑波書林]]、1991年9月20日、219pp.<br />
* ロボットの街つくば推進会議・つくば市『「ロボットの街つくば」の実現に向けて(提言)』ロボットの街つくば推進会議・つくば市、2009年3月、22pp.<br />
* ワークス 編『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 8 茨城県』[[ゼンリン]]、1997年3月20日、207pp.<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[江戸時代の人物一覧]]<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* [http://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/senjin/index.php?Detail=true&no=11 飯塚 伊賀七 - 輝く茨城の先人たち] - 茨城県生活環境部生活文化課<br />
<br />
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[[Category:江戸時代の技術者]]<br />
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[[Category:からくり]]</div>
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