Warning: Undefined variable $type in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php on line 3

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/json/FormatJson.php on line 297

Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 660

Warning: session_name(): Session name cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Setup.php on line 834

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 126

Warning: ini_set(): Session ini settings cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 127

Warning: session_cache_limiter(): Session cache limiter cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 133

Warning: session_set_save_handler(): Session save handler cannot be changed after headers have already been sent in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/session/PHPSessionHandler.php on line 140

Warning: "continue" targeting switch is equivalent to "break". Did you mean to use "continue 2"? in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/languages/LanguageConverter.php on line 773

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 294

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/Feed.php on line 300

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46
https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=122.197.115.186 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-05-28T06:34:04Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 モンゴルのポーランド侵攻 2018-07-04T13:56:18Z <p>122.197.115.186: </p> <hr /> <div>{{Infobox Military Conflict<br /> |image=[[ファイル:Legnica.JPG|300px]]<br /> |caption=図は1241年の[[ワールシュタットの戦い|レグニツァの戦い]]<br /> |conflict=モンゴルのポーランド侵攻<br /> |place=主に[[ポーランド王国|ポーランド]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]<br /> |date=1240年後半-1241年<br /> |result=モンゴル軍の圧勝、しかし領土とせず撤退<br /> |combatant1=[[モンゴル帝国]]<br /> |combatant2=[[ファイル:Reconstruction of the Grand Coat of Arms of the Crown of the Polish Kingdom.svg|20px]][[ポーランド王国]]&lt;br /&gt;[[ファイル:Flag of Hungary (11th c. - 1301).svg|20px]][[ハンガリー王国]]&lt;br /&gt;[[ファイル:War flag of the Holy Roman Empire (1200-1350).svg|20px]][[神聖ローマ帝国]]&lt;br /&gt;[[ファイル:Cross of the Knights Hospitaller.svg|20px]][[聖ヨハネ騎士団]]&lt;br /&gt;[[ファイル:Cross Pattee3.svg|20px]][[ドイツ騎士団]]&lt;br /&gt;[[ファイル:Cross of the Knights Templar.svg|20px]][[テンプル騎士団]]&lt;br /&gt;外国人義勇兵&lt;br /&gt;その他<br /> |commander1=[[バイダル]]&lt;br /&gt;[[コデン]]&lt;br /&gt;[[オルダ]]<br /> |commander2=[[ヘンリク2世]]を筆頭に多数<br /> |strength1=1万人~7万人&lt;ref&gt;『戦闘技術の歴史 2 中世編』186頁&lt;/ref&gt;<br /> |strength2=1万人以上~6万人未満<br /> |casualties1=小規模<br /> |casualties2=規模甚大<br /> |}}<br /> &#039;&#039;&#039;モンゴルのポーランド侵攻&#039;&#039;&#039;(モンゴルのポーランドしんこう)は、「バトゥの西征」({{仮リンク|モンゴルのヨーロッパ侵攻|en|Mongol invasion of Europe}})のうち、1240年後半から1241年にかけての「[[トゥルスクの戦い]]」、「[[フミェルニクの戦い]]」、「[[ワールシュタットの戦い|レグニツァの戦い]]」、「[[モヒの戦い]]」などのシロンスク公[[ヘンリク2世]]率いる[[キリスト教]][[騎士修道会]]と[[ピャスト朝|ポーランド軍]]を壊滅させた諸戦闘の総称である。<br /> <br /> == 前史 ==<br /> [[バトゥ]]に率いられたモンゴルの西方遠征軍は、[[1236年]]に中央アジアを出て[[モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻|ヴォルガ・ブルガールを侵攻し]]、[[1237年]]から[[1240年]]にかけて[[モンゴルのルーシ侵攻|ルーシ侵攻]]を行い、[[ヴォルガ・ブルガール]]や[[ルーシ (地名)|ルーシ諸国]]を完全に圧倒した。モンゴル軍はこれで征服を終えることはなく、さらに西を目指し、[[ポーランド]]および[[ハンガリー]]へと侵入した。<br /> <br /> {{仮リンク|モンゴルのヨーロッパ侵攻|en|Mongol invasion of Europe}}は全ヨーロッパを震撼させた。[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世教皇]]は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している&lt;ref&gt;伝統思想と民衆、 河原宏  成文堂, 1987. 174 ページ&lt;/ref&gt;。騎士修道会は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。<br /> <br /> == 侵攻 ==<br /> [[ファイル:Mongolowie najazd 1241.jpg|300px|thumb|1241年のモンゴル軍侵攻経路&lt;br /&gt;左に[[ヴロツワフ]]({{lang|en|Wrocław}})と[[レグニツァ]]({{lang|en|Legnica}})が見える]]<br /> ポーランド侵攻軍はチャガタイ家の[[バイダル]]、オゴデイ家の[[コデン]]、ジョチ家の長兄[[オルダー|オルダ]]の3人の将軍に率いられ、1240年後半には偵察活動に入った。彼らに率いられたモンゴル軍の[[トゥメン]](万人隊)は既に占領していた[[ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー]](当時[[キエフ・ルーシ]]領で、後に[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]領となった[[ヴォルィーニ公国]]の街。現[[ウクライナ]]・[[ヴォルィーニ州]])から行軍を開始し、最初に[[ルブリン]]を略奪し、[[1241年]][[2月13日]]にバイダルとコデンは凍った[[ヴィスワ川]]を渡河して{{仮リンク|クラクフ宮中伯|en|Kraków Voivodeship (14th century – 1795)|label=クラクフ公}}{{仮リンク|ウラディームィル (ヴォエヴォド・クラコウスキー)|pl|Włodzimierz (wojewoda krakowski)|label=ウラディームィル}}率いるポーランド軍の守る{{仮リンク|サンドムィル|en|Sandomierz|label=サンドミェシュ}}({{lang-pl|Sandomierz}}、{{lang-de-short|Sandomir}} サンドムィル)を包囲し、陥落させた([[トゥルスクの戦い]])。<br /> <br /> モンゴル帝国のヨーロッパ侵攻軍は3軍団を擁していたが、モンゴル軍はサンドミェシュから複数の部隊に分かれて行動した。バトゥ率いるモンゴル軍本隊は、カルパチア山脈の{{仮リンク|ベレッケ峠|en|Verecke Pass}}から[[パンノニア平原]]に入ってハンガリーに進撃した([[モヒの戦い]])。<br /> <br /> オルダの支隊はポーランド中部と中北部を荒らし、{{仮リンク|ボルブシュ|en|Wolbórz}}から北は{{仮リンク|レンツィカ|en|Łęczyca}}を経由して[[ヴウォツワヴェク]]まで進んだ後南転し、{{仮リンク|コニン|en|Konin}}と{{仮リンク|シェラツ|en|Sieradz}}を蹂躙して[[ヴロツワフ]]に向かった。一方、当時ポーランドの諸公達の中で最も勢力を持っていた公の一人であるシロンスク公[[ヘンリク2世]]は、レグニツァ近辺で自軍と同盟者の軍勢を招集した。ヘンリク2世はさらに軍勢の規模を大きくするため、[[シロンスク公国]]で最も大きな都市の1つだった[[ヴロツワフ]]を見捨て、モンゴルの荒らすに任せた。<br /> <br /> バイダルが率いる支隊は、{{仮リンク|サンドムィル|en|Sandomierz|label=サンドミェシュ}}からポーランド南部に進撃した。[[3月18日]]に[[フミェルニクの戦い]]で{{仮リンク|ウラディームィル (ヴォエヴォド・クラコウスキー)|pl|Włodzimierz (wojewoda krakowski)|label=ウラディームィル}}率いる[[クラクフ]]とサンドミェシュの連合軍が再び敗れ、ウラディームィルが戦死するとポーランドはパニック状態となった。[[3月24日]]、市民が見捨てた[[クラクフ]]市はモンゴル軍によって包囲され焼き払われた。<br /> <br /> バイダルが率いる支隊はその後、ポーランドの南部、西部の{{仮リンク|タルチェク|en|Tarczek}}({{仮リンク|タルチェクの戦い|pl|Bitwa pod Tarczkiem}})、[[ビトム]]、[[ラチブシュ]]({{仮リンク|ラチブシュの戦い (1241年)|pl|Bitwa pod Raciborzem (1241)|label=ラチブシュの戦い}})、[[オポーレ]]({{仮リンク|オポーレの戦い|pl|Bitwa pod Opolem}})を蹂躙し、[[ヴロツワフ]]でオルダの支隊と合流した。一方、ヘンリク2世は[[ボヘミア王国|ボヘミア]]から[[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ1世]]の率いる大軍が救援に来るのを待っていた。バイダルとコデンがヴロツワフを包囲するかを思案中に、ヘンリク2世の軍勢にボヘミアの援軍が近付いているのを知った。バイダルとオルダが率いる2つの支隊はヴロツワフを離れ、ヘンリク2世の軍勢がボヘミア軍と合流するのを阻もうとした。<br /> <br /> [[4月9日]]、モンゴル軍はレグニツァ近郊のレグニツキェ・ポーレ(ポーランド語でレグニツァの野)で、ヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ連合軍と対峙した([[ワールシュタットの戦い|レグニツァの戦い]](ワールシュタットの戦い))。ポーランド・ドイツ連合軍には、主力となる[[ドイツ騎士団]]、オポーレ公[[ミェシュコ2世オティウィ|ミェシュコ2世]]の軍隊、トゥルスクとフミェルニクで敗北したポーランド軍、そして[[テンプル騎士団]]と[[ホスピタル騎士団]]のメンバー達と少数の外国人義勇兵が加わっていた。ヘンリクの軍勢は敵と同数かそれ以上の数の軍隊を擁し、有効な戦略を採用していたが、組織・規律・武装・経験に勝るモンゴル軍には全く歯が立たず、4月9日の戦いで大敗、ヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍はレグニツァ城を占領しなかったが、[[ヴロツワフ]]などの[[シロンスク公国]]領内をほしいままに略奪して回った。<br /> <br /> ポーランド攻撃に従事した後、バイダルとオルダの支隊はボヘミア軍との衝突を避けて5月にはハンガリー領[[モラヴィア]](現チェコ東部)地方に移り、[[1241年]]に[[オロモウツ]]で{{仮リンク|オロモウツの戦い|cs|Mongolský vpád na Moravu roku 1241|ru|Битва при Оломоуце}}を行なった。そこでハンガリーを西進中のバトゥ率いる本隊との合流を待った。[[4月11日]]バトゥ率いる本隊は、[[モヒの戦い]]でハンガリー軍を破るとバイダルの支隊と合流し、孤立していた[[バーベンベルク家]][[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]の[[ウィーン]]を目指した。<br /> <br /> == 影響 ==<br /> この時期の欧州は、[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]と[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]を支持する[[ロンバルディア同盟]]とが対立した「[[教皇派と皇帝派]]」の対立の真最中であったが、[[1241年]][[8月22日]]にグレゴリウス9世が逝去し、10月25日の[[コンクラーヴェ]]で選出された[[ケレスティヌス4世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス4世]]も11月10日に死去し、ローマ教皇は[[インノケンティウス4世 (ローマ教皇)|インノケンティウス4世]]が即位する[[1243年]][[6月28日]]まで不在であった。<br /> <br /> しかし翌[[1242年]]、大[[ハーン]]・[[オゴデイ]]が死ぬと、ハーン家の王子たちは帝国の首都[[カラコルム]]で開かれる[[クリルタイ]]に集まって次の大ハーンを選出するためにモンゴルへと帰り、ウィーンはモンゴル軍による破壊と占領を免れた。3月、モンゴル軍は帰路で[[ボスニア]]・[[セルビア]]・[[第二次ブルガリア帝国]]を通過したが、[[イヴァン・アセン2世]]がバトゥ軍を攻撃した。翌年、バトゥ軍は第二次ブルガリア帝国へ復讐戦に戻ったが、第二次ブルガリア帝国が和解金を支払う事に同意したため、戦闘は回避された。&lt;ref name=&quot;a&quot;&gt;Андреєв, Й. Българските ханове и царе (VII—XIV в.). Софія, 1987&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;b&quot;&gt;[http://bg.bgns.net/Drugi/tzar-Ivan-Asen-II-1218-1241.html ЦАР ІВАН АСЕН II]&lt;/ref&gt;&lt;ref name=&quot;c&quot;&gt;Chronique rimee de Philippe Mouskes, publie par le baron de Reiffenberg, II, Bruxelles 1838, ст. 30747—30762.&lt;/ref&gt;<br /> <br /> ポーランドの分裂状態を収拾して国家の再統合を実現しつつあったシロンスク公ヘンリク2世の死により、ポーランド統合は白紙に戻った。このことは[[シレジア|シロンスク]]のポーランドから離脱する事態を生み、14世紀にポーランド国家の統合が実現するまでに、シロンスクはポーランドの領域から外れてしまった。<br /> <br /> === ヤロスラヴの戦い ===<br /> [[1245年]]には[[ガリツィア]]軍に[[ポーランド王国]]・[[ハンガリー王国]]が加わり、ヨーロッパ側の最前線であった[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]](現在の[[ウクライナ]]。当時、[[ルーシ (地名)|ルーシ]]と呼ばれた地方)へ侵攻し({{仮リンク|ヤロスラヴの戦い|uk|Битва під Ярославом|ru|Ярославское сражение|pl|Bitwa pod Jarosławiem (1245)}})&lt;ref&gt;後にポーランドとの関係が悪化した[[ガリツィア]]公国は、[[ハールィチ・ヴォルィーニ戦争]]([[1340年]]-[[1392年]])で分割され、ポーランドに併合される。&lt;/ref&gt;、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国が[[ジョチ・ウルス]]に臣従した。[[1246年]] [[ライタ川の戦い]]で[[ハンガリー王国]]の[[ベーラ4世]]とハールィチ・ヴォルィーニ大公国の連合軍が、オーストリア公[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]を敗死させる。[[1248年]] バーベンベルク家の断絶につけこんだボヘミア王[[オタカル2世]]がオーストリアなどの支配権を獲得。[[1250年]][[12月13日]]に[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が死去。<br /> <br /> === ダヌィーロの独立戦争 ===<br /> 1253年になってに、新教皇[[インノケンティウス4世]]はハールィチ・ヴォルィーニ大公[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダヌィーロ]]に対し王位を与えジョチ・ウルスを牽制した。[[1256年]]に[[バトゥ]]が死去すると、ダヌィーロはモンゴルからの独立を宣言し、教皇も反モンゴル十字軍を呼びかけたが、応じる国はなかった。ダヌィーロは、バトゥの部下である[[クルムシ (ジョチ・ウルス)|クレムサ]]が率いるモンゴル政権と幾度か戦ったものの、1259年にモンゴル軍に降伏した。<br /> <br /> === 第2次ポーランド侵攻 ===<br /> さらに、最初のポーランド侵攻から18年後の同年、[[ベルケ]]の統治下にあった[[ジョチ・ウルス]]の軍隊2万人(2トゥメン)がリトアニアを襲撃後に第2次ポーランド侵攻を開始した。この軍隊の指揮官は[[ノガイ]]と{{仮リンク|ブルンダイ|ru|Бурундай|en|Boroldai}}であり、モンゴル軍はハールィチ・ヴォルィーニの[[レーヴ・ダヌィーロヴィチ]]らを先兵として[[ルブリン]]、{{仮リンク|シェラツ|en|Sieradz}}、{{仮リンク|サンドムィル|en|Sandomierz|label=サンドミェシュ}}、[[ザヴィホスト]]、[[クラクフ]]そして[[ビトム]]を略奪したが、ベルケにはポーランドを占領したり征服する意図はなかった。[[教皇]][[アレクサンデル4世 (ローマ教皇)|アレクサンデル4世]]は、この襲撃のあとタタールに対する[[十字軍]]を組織しようと試みたが、失敗した。[[1260年]] [[クレッセンブルンの戦い]]でハンガリー王国のベーラ4世がオタカル2世に敗れる。<br /> <br /> 1265年2月には、[[東ローマ帝国]]の[[ミカエル8世パレオロゴス]]は、[[マムルーク朝]]エジプトに対抗するべく、娘の[[デスピナ (イルハン朝)|デスピナ]]を[[イルハン朝]]に嫁がせようとしていたが、[[フレグ]]が急死したため、息子の[[アバカ]]に嫁ぎ、同盟関係になった。[[1262年]]の{{仮リンク|ベルケ・フレグ戦争|en|Berke–Hulagu war}}以来、[[イルハン朝]]と[[ジョチ・ウルス]]は対立関係にあったため、[[1265年]]7月に[[ノガイ]]率いる[[ジョチ・ウルス]]軍は、[[ミカエル8世パレオロゴス]]の[[東ローマ帝国]]に侵攻し、撃破した。ミカエル8世は、娘エウフロシュネー(Euphrosyne Palaeologina)をノガイに嫁がせ、東ローマ帝国はジョチ・ウルスとも同盟した。<br /> <br /> [[1278年]] [[マルヒフェルトの戦い]]で、ボヘミアのオタカル2世は、[[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]と[[ラースロー4世]]の連合軍に破れ、[[ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]]が欧州の有力な勢力となる。<br /> <br /> === 第3次ポーランド侵攻 ===<br /> モンゴルは、1286年と1287年にも、[[ノガイ]]による小規模な第三次ポーランド侵攻を行った。1286年、[[トゥラ・ブカ]]はロシアの諸公数人とともにポーランドへと侵入し、幾つかの都市を攻略した。侵入軍は2万人のポーランド人捕虜をハン国に拉致していった。しかし1287年のトゥラ・ブカとノガイが指揮した侵攻は失敗に終わった。[[ルブリン]]、[[マゾフシェ]]、{{仮リンク|サンドムィル|en|Sandomierz|label=サンドミェシュ}}と{{仮リンク|シェラツ|en|Sieradz}}は略奪できたものの、モンゴル軍は[[クラクフ]]で敗北した。ただし、クラクフは結局は略奪を受けた。この際のモンゴル軍は1トゥメンもおらず、これはキプチャク・ハン国が1284年から始まった[[イル・ハン国]]との紛争に軍隊を動員していたためだった。モンゴル軍はポーランド総力軍に太刀うちできる規模ではなく、包囲を破るための技術者も城壁を突破するための装備も持ち合わせていなかった。彼らは隊商行列を襲い、いくつかの小都市を焼き払ったが、結集したポーランド軍に追われた。[[レーヴ・ダヌィーロヴィチ]]は、[[ハンガリー王国]]の[[ザカルパッチャ]]地方を奪い、[[ポーランド王国]]の[[ルブリン州]]を占領すると、チェコ・リトアニア・ドイツ騎士団と同盟を結び、反モンゴル政策を鮮明にした。<br /> <br /> その後も、[[ポーランド王国]](および[[ポーランド・リトアニア共和国]])は、[[ジョチ・ウルス|キプチャク・ハン国]]の後継国家である[[クリミア・ハン国|クリミア・タタール]]と国境をめぐる争いを続けた。<br /> <br /> 一方、この侵攻の後にドイツ人の[[東方植民]]が本格化していく。ポーランドの分裂と戦乱、幾度ものモンゴル侵攻や住民の拉致もあり、ポーランド西部の公国群は13世紀には急速に衰退した。荒廃したシロンスク地方の復興に際しては、ドイツ人が西方から招かれた。人口圧力と領主からの弾圧に悩むドイツ農民は11世紀から12世紀にかけてポーランド諸侯の勧誘を受けて東方へ入植していたが、13世紀のモンゴル侵攻後はこれが顕著となっている。東方植民の結果、[[シレジア|シロンスク]]地方の上流社会は[[ポーランド人]]の[[シロンスク・ピャスト家]]の人々が支配した。シロンスクのピャスト諸侯は[[ポーランド語]]などポーランドの文化はかなり後の時代まで保持したものの、その一方で[[神聖ローマ帝国]]との政治的な結びつきを深めていき、さらに商工民や農民からなる民衆社会はおもに都市を中心として急速にドイツ化(代が下るごとに言語や文化がドイツ的になっていくこと)していった。<br /> <br /> この結果、シレジア地方はポーランドのほかの各地方とは異なる独特の社会・外交構造を形成していく。シロンスク・ピャスト家はドイツ社会をはじめとする西欧社会を利用することでポーランド王国における政治的発言力を強めようとし、この政策を用いてシロンスク・ピャスト家の主導するポーランドの再統一を実現しようとしていった。[[1410年]]の[[タンネンベルクの戦い (1410年)|グルンヴァルトの戦い]]では、シロンスク・ピャスト諸侯の多くはポーランドの伝統的な継承王家である[[ピャスト家]]とは血縁のない[[ヤギェウォ家]]の[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]を担ぐ[[ポーランド・リトアニア連合]]の形(実際はヴワディスワフ2世でなく[[長子領|クラクフ公国]]すなわち[[マウォポルスカ]]地方の貴族たちや、[[マゾフシェ]]、{{仮リンク|サンドムィル|en|Sandomierz}}、[[シロンスク]]、[[ヴィエルコポルスカ]]の各地方の諸侯がポーランド政治の実権を握っていた)に反対し、シロンスク・ピャスト家による王位奪還をめざして[[ドイツ騎士団]]方に援軍を送っている。<br /> <br /> いっぽう、モンゴルのポーランド侵攻は戦術面でもポーランドに多大な影響を与えた。ポーランドは軽騎兵の利点を生かすモンゴル人の戦い方を理解するとそれを採りいれ、また対策法を編み出していった。ポーランドによる戦術の改良は、早くも13世紀終盤にはモンゴル人の撃退にいくつか効果を発揮しはじめ。モンゴルによるポーランド侵攻の試みは成功しなくなった。また、15世紀に入るとモンゴル系の[[リプカ・タタール人]]たちの多くは社会的に寛容なことで知られるポーランドを選択し、軽騎兵部隊としてポーランド軍で活躍することになる。騎兵の機動力を重視したポーランドの戦術は、後の宿敵[[オスマン・トルコ]]との長き戦いにおいて最大の効果を発揮した。<br /> <br /> {{main|回回砲|元寇#てつはう}}<br /> [[フス戦争]]([[1419年]] - [[1434年]])では、ボヘミアとポーランドを中心とする[[フス派]]信者が[[ヨーロッパ史]]最初の[[火器]]といわれる「{{仮リンク|ハンドキャノン|pl|Piszczał|de|Handrohr|en|Hand cannon}}」を使用した。[[1453年]]の[[コンスタンティノープルの陥落]]では、[[ハンガリー人]]のウルバン{{enlink|Orban}}が開発した「[[ウルバン砲]]」で[[オスマン帝国]]軍が砲撃した。ボヘミア、ポーランド、ハンガリーは、いずれもモンゴルの侵攻を受けた地域で、ヨーロッパにおける火器の発達史において初期の中心地となった。<br /> <br /> アジアへは、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]製大砲が伝来した。日本へは、[[1576年]]にキリシタン大名として知られる[[大友宗麟]]のもとに[[フランキ砲]]が伝来したのが最初の記録である。中国へ逆輸入された大砲は、[[1626年]]の{{仮リンク|寧遠の戦い|zh|宁远之战|en|Battle of Ningyuan}}に[[袁崇煥]]が使用した{{仮リンク|紅夷大砲|zh|紅衣大炮|en|Hongyi-po}}の記録がある。<br /> <br /> == 文化遺産 ==<br /> クラクフでは、モンゴル侵攻の名残りは[[ライコニク]]([[:en:Lajkonik|en]])(祝祭のキャラクター)や[[ヘイナウ・マリャツキ]]([[:en:St. Mary&#039;s Trumpet Call|en]])(トランペット曲)に見ることができる。<br /> <br /> == 映画 ==<br /> *{{仮リンク|蒙古の嵐|en|The Mongols (film)}} - 原題『I mongoli』 (イタリア・フランス) 115分 公開:1961年8月31日(イタリア)、1961年9月22日(フランス)、1962年2月25日(日本・[[東宝東和|東和]])、1962年9月26日(アメリカ)<br /> <br /> ==脚注==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> * &#039;&#039;Bitwa pod Leginicą&#039;&#039; Chwała Oręża Polskiego Nr 3.Rzeczpospolita and Mówią Wieki. Primary author Rafał Jaworski. 12 August 2006 {{pl icon}}<br /> *Gerard Labuda, &#039;&#039;Wojna z tatarami w roku 1241&#039;&#039;, Prz. Hist. &amp;mdash T. 50 (1959), z. 2, pp. 189–224<br /> *Wacław Zatorski, &#039;&#039;Pierszy najazd Mongołów na Polskę w roku 1240–1241&#039;&#039;, Prz. Hist.-Wojsk. &amp;mdash T. 9 (1937), pp. 175–237<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[モンゴル帝国]]<br /> * [[トゥルスクの戦い]]<br /> * [[フミェルニクの戦い]]<br /> * {{仮リンク|タルチェクの戦い|pl|Bitwa pod Tarczkiem}}<br /> * {{仮リンク|ラチブシュの戦い (1241年)|pl|Bitwa pod Raciborzem (1241)|label=ラチブシュの戦い}}<br /> * {{仮リンク|オポーレの戦い|pl|Bitwa pod Opolem}}<br /> * [[ワールシュタットの戦い|レグニツァの戦い]]<br /> <br /> {{モンゴル帝国の対外戦争}}<br /> {{DEFAULTSORT:もんこるのほらんとしんこう}}<br /> [[Category:13世紀の戦争]]<br /> [[Category:13世紀の戦闘]]<br /> [[Category:ポーランドの戦争]]<br /> [[Category:モンゴル帝国の戦争|ほらんとしんこう]]<br /> [[Category:ポーランドの歴史 (966–1385)]]<br /> [[Category:中世ヨーロッパ]]</div> 122.197.115.186 エドワード・ラウス 2018-07-04T13:47:11Z <p>122.197.115.186: </p> <hr /> <div>[[ファイル:Edward J Routh.jpg|thumb|right|200px|エドワード・ラウス]]<br /> &#039;&#039;&#039;エドワード・ラウス&#039;&#039;&#039;(Edward Routh、[[1831年]][[1月20日]] - [[1907年]][[6月7日]])は、[[イギリス]]の[[数学者]]。[[カナダ|英領カナダ]]の[[ケベック・シティー]]出身。<br /> <br /> [[ケンブリッジ大学]]において数学の最盛期であった19世紀中期の[[トライポス]](優等卒業試験)対策講師として有名で、1位となった生徒は計27名と、ケンブリッジの歴史でも突出した結果を残した&lt;ref name=ken&gt;[http://arx.ee.utsunomiya-u.ac.jp/R&amp;A/Cambridge01.pdf ケンブリッジ大学の学生生活– ユニークな教育システムを中心として(学部編)](著:足立修一、管野 政明)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> また、[[力学]]での数学理論による体系化に関する功績や、近代的な[[制御理論]]の発展に重要な理論を数多く残した。制御理論における[[ラウス・フルビッツの安定判別法]]などが有名である。<br /> <br /> ==人間関係==<br /> ラウスは「親しい人や友人には友好的だが、知らない人には内気で余所余所しい」性格が伝えられている&lt;ref&gt;Fuller (2004)&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ;両親<br /> :ラウスは、イギリス植民地の[[ローワーカナダ]]で、イギリス人の父サー・ランドルフ・アイシャム・ラウス(1782年 - 1858年)と、その2番目の妻でフランス系カナダ人のマリー・ルイーズ・タシュロー(1810年 - 1891年)との間に生まれた。父方は、11世紀の[[ノルマン・コンクエスト]]の時代まで遡れる家系である。ランドルフは[[ワーテルローの戦い]]で兵站将校を務めていた。母は裁判官ジャン=トマ・タシュローの娘で、[[枢機卿]]{{仮リンク|エルゼアル=アレクサンドル・タシュロー|en|Elzéar-Alexandre Taschereau}}と裁判官ジャン=トマの兄妹である。<br /> <br /> ;学生時代<br /> :11歳でイギリスに渡り、University College Schoolに在籍し、その後に[[奨学金]]を獲得し、1847年にロンドン大学に入学した。そこで彼の将来を力学に導くことになる[[オーガスタス・ド・モルガン]]に師事した。ロンドンで、ラウスは1849年に[[Bachelor of Arts|BA]]、1853年に[[Master of Arts|MA]]を獲得した。<br /> <br /> :ケンブリッジ大学ピーターハウス校に入学し、{{仮リンク|アイザック・トッドハンター|en|Isaac Todhunter}}による授業と、&quot;senior wrangler maker&quot; (学内1位製造者){{仮リンク|ウィリアム・ホプキンス|en|William Hopkins}}の指導を受けた。<br /> :ケンブリッジでは、後に物理学に名を残す[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]と同級生であり、卒業試験でマクスウェルは自身が1位になると確信し、発表を確認に行かせた召使に2位が誰かを聞き「あなた様でございます」と答えられた逸話が残っている。その年の順位はラウスが1位で、2位はマクスウェルであった&lt;ref name=ken/&gt;。<br /> <br /> :1854年、シニアラングラーとして卒業し、[[スミス賞]]をマクスウェルと同時受賞した。1855年、ピーターハウスフェローに選出された。<br /> <br /> ;生徒<br /> :ラウスが指導した生徒には、[[ノーベル物理学賞]]を受賞した[[ジョン・ウィリアム・ストラット (第3代レイリー男爵)|ジョン・ウィリアム・ストラット]]や、[[ジョゼフ・ジョン・トムソン]]の他、天文学者の[[ジョージ・ハワード・ダーウィン]]、哲学者の[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]、物理学者の[[ジョゼフ・ラーモア]]などがいる。<br /> ;結婚<br /> :[[王室天文官]]の[[ジョージ・ビドル・エアリー]]が[[グリニッジ天文台]]での仕事のオファーを出していた。この勧誘は成功しなかったものの、グリニッジでエアリーの長女ヒルダと出会い、1864年に結婚し、5人の息子と1人の娘をもうけた。<br /> <br /> == 受賞歴 ==<br /> * スミス賞(1854年)<br /> * [[王立協会]]フェロー(1872年)<br /> * [[アダムス賞]](1877年)<br /> <br /> == 参考文献 ==<br /> &lt;references /&gt;<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ラウスの定理]]<br /> <br /> {{Normdaten}}<br /> {{Mathematician-stub}}<br /> {{DEFAULTSORT:らうす えとわあと}}<br /> [[Category:イギリスの数学者]]<br /> [[Category:ロンドン大学出身の人物]]<br /> [[Category:ケンブリッジ大学出身の人物]]<br /> [[Category:カナダ系イギリス人]]<br /> [[Category:ケベック・シティー出身の人物]]<br /> [[Category:1831年生]]<br /> [[Category:1907年没]]<br /> [[Category:数学に関する記事]]</div> 122.197.115.186 アーバン 2018-07-04T13:32:32Z <p>122.197.115.186: </p> <hr /> <div>&#039;&#039;&#039;アーバン&#039;&#039;&#039;(urban)は、英語で「都会的な」、「都市的な」という意味。<br /> <br /> * [[アーバン号]] - 仙台駅-盛岡駅間を運行する高速バス。<br /> * [[アーバンネットワーク]] - JR西日本の京阪神近郊路線群の愛称。<br /> * [[アーバンコーポレイション]] - 広島市に本社を置く不動産会社。<br /> * アーバンライナー - 近鉄が所有する特急電車。また、その名称を持った車両が主に用いられる特別急行列車。[[近鉄特急]]も参照のこと。<br /> **「アーバンライナー」→「アーバンライナーplus」は[[近鉄21000系電車]]の愛称<br /> **「アーバンライナーnext」は[[近鉄21020系電車]]の愛称<br /> * JR東日本[[高崎線]]で運行されている[[快速列車]]の名称。[[高崎線#快速「アーバン」]]を参照。<br /> * [[東武アーバンパークライン]]東武鉄道・東武野田線の愛称。<br /> * [[パナソニック]]が販売している高級電動[[マッサージチェア]]のブランド名。<br /> * [[インターアーバン]] - 郊外電車<br /> * 英語、ドイツ語の姓<br /> ** [[カール・アーバン]] - ニュージーランドの俳優。<br /> ** [[キース・アーバン]] - ニュージーランドのカントリー歌手。<br /> ** [[ジェニファー・アーバン]] - ドイツのフィギュアスケート選手。<br /> <br /> ----<br /> &#039;&#039;&#039;アーバン&#039;&#039;&#039;(Arban)はヨーロッパ系の姓または男性名アルバンの英語読み。<br /> * [[ジャン=バティスト・アルバン]](アーバン) - フランスの[[コルネット]]奏者。<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[ウルバン]]<br /> <br /> {{Aimai}}<br /> {{デフォルトソート:ああはん}}<br /> [[Category:個別の姓]]</div> 122.197.115.186
Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/extensions/HeadScript/HeadScript.php:3) in /home/users/1/sub.jp-asate/web/wiki/includes/WebResponse.php on line 46