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https:///mymemo.xyz/wiki/api.php?action=feedcontributions&feedformat=atom&user=117.18.174.247 miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja] 2024-06-13T13:27:39Z 利用者の投稿記録 MediaWiki 1.31.0 儒教 2018-07-18T10:43:24Z <p>117.18.174.247: </p> <hr /> <div>{{Otheruses|儒教全般|日本における儒教|日本の儒教}}<br /> {{儒教}}<br /> {{諸子百家}}<br /> [[image:Konfuzius.jpg|thumb|right|220px|儒教の始祖、孔子]]<br /> [[image:Dong zhongshu.jpg|thumb|190px|董仲舒]]<br /> &#039;&#039;&#039;儒教&#039;&#039;&#039;(じゅきょう)は、[[孔子]]を始祖とする[[宗教|思考・信仰の体系]]である。紀元前の[[中国]]に興り、[[東アジア]]各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から&#039;&#039;&#039;儒学&#039;&#039;&#039;、思想的側面からは&#039;&#039;&#039;名教&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;礼教&#039;&#039;&#039;ともいう。大成者の[[孔子]]から、&#039;&#039;&#039;孔教&#039;&#039;&#039;・&#039;&#039;&#039;孔子教&#039;&#039;&#039;とも呼ぶ。中国では、[[哲学]]・[[思想]]としては&#039;&#039;&#039;儒家思想&#039;&#039;&#039;という。<br /> <br /> == 概要 ==<br /> [[東周]][[春秋時代]]、[[魯]]の[[孔子]]によって体系化され、[[堯]]・[[舜]]、[[文王 (周)|文]][[武王 (周)|武]][[周公旦|周公]]の古えの[[君子]]の政治を理想の時代として祖述し&lt;ref&gt;『禮記·中庸』&lt;/ref&gt;、[[周礼]]を保存する使命を背負った、[[仁]][[義]]の道を実践し、[[身分|上下秩序の弁別]]を唱えた。その教団は[[諸子百家]]の一家となって&#039;&#039;&#039;儒家&#039;&#039;&#039;となり、(支配者の)[[徳]]による[[孟子#王覇|王道]]で天下を治めるべきであり、同時代の(支配者の)武力による[[覇道]]を批判し、事実、その様に歴史が推移してきたとする[[徳治主義]]を主張した。その儒教が[[漢|漢代]]、国家の教学として認定された事によって成立した。儒教は、[[宋 (王朝)|宋代]]以前の「[[五経]]」を聖典としていた時代である。宋代以降に[[朱子学]]によって国家的規模での[[宋明理学]]体系に纏め上げられていった。宋明理学の特徴は簡潔に述べるならば、「[[修己治人]]」あるいは、『[[大学 (書物)|大学]]』にある「[[修身]]、[[斉家]]、[[治国]]、[[平天下]]」であり、「[[経世済民]]」の教えである。<br /> <br /> 儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを&#039;&#039;&#039;[[儒学者]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;儒者&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;儒生&#039;&#039;&#039;と呼ぶ&lt;ref&gt;なお儒教を宗教として信仰せずに儒教を研究する学者は、「&#039;&#039;儒学者&#039;&#039;」といわずに、「&#039;&#039;儒教研究者&#039;&#039;」と呼ぶべきとする見方もある{{要出典|date=2011年11月}}。ただし京都大学教授の[[吉川幸次郎]]や、評論家の[[呉智英]]は、自らを儒者であると主張し、儒教の立場からさまざまな立論を行っている。&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 教典 ==<br /> {{main|経書}}<br /> 儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の[[六芸]]([[六経]])である。<br /> <br /> 春秋時代になり、『詩』・『書』・『春秋』の三経の上に、『礼』・『楽』の二経が加わり、[[五経]]になったといわれる。<br /> <br /> 『詩』・『書』・『礼』・『楽』の四教については「春秋を教うるに礼楽を以てし、冬夏は教うるに詩書を以てす」、『礼記·王制』における「王制に曰く、楽正、四術を崇び四教を立つ。先王の『詩』・『書』・『礼』・『楽』に順いて以て士を{{読み仮名|造|な}}す」という記述がある。<br /> <br /> 孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった&lt;ref&gt;[[荘子]]天運篇&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> [[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の時、賢良文学の士で挙げられた[[董仲舒]]は儒学を正統の学問として[[五経博士]]を設置することを献策した。[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時、諸儒を集めて五経の文字を校訂、[[太学]]の門外に[[石経]]を立てた。このとき作られた[[熹平石経]]は[[183年]](光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! [[経書|経]] !! [[伝]] !! 記 !! 注疏<br /> |-<br /> | [[易経]] || || || 周易正義<br /> |-<br /> | [[書経|尚書]] || 尚書孔安伝 || || 尚書正義<br /> |-<br /> | [[詩経]] || 毛詩 || || 毛詩正義<br /> |-<br /> | 楽経 || || || <br /> |-<br /> | [[儀礼 (経書)|儀礼]] || [[礼記]] || || 儀礼注疏、礼記注疏<br /> |-<br /> | [[周礼]] || || || 周礼注疏<br /> |-<br /> | 春秋 || [[春秋公羊伝]] || || 春秋公羊伝注疏<br /> |-<br /> | || [[春秋左氏伝]] || || 春秋左伝注疏<br /> |-<br /> | || [[春秋穀梁伝]] || || 春秋穀梁伝注疏<br /> |-<br /> | || || [[論語]] || 論語注疏<br /> |-<br /> | || || [[孝経]] || 孝経注疏<br /> |-<br /> | || || [[孟子]] || 孟子注疏<br /> |-<br /> | || || [[爾雅]] || 爾雅注疏<br /> |}<br /> <br /> === 四書と宋明理学 ===<br /> [[File:Zhu xi.jpg|thumb|170px|朱熹]]<br /> 宋代に[[朱熹]]が『礼記』のうち2篇を「[[大学 (書物)|大学]]」「[[中庸]]」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。「学問は、必ず「大学」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。<br /> <br /> 朱熹は、「『大学』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く&lt;ref&gt;朱子・語類巻14より。これは即ち、四書の読み順まで記している。(儒教の世界観においては)天から与えられた至徳を明らかにする事、知を致し物に格る。中こそは天下の大本であり、和こそは天下の達道である。中と和を極致に達せしめた時、天地の秩序は定まり、万物は生成発展する。儒教の目的とその目的達成への目標が掲げられたのが「三綱領」・「八条目」であり、朱熹は[[道統論]]を唱え自らの「学」の正当性を主張した。堯舜孔孟に「御目にはかかわらずとも、あの道理が心へ来れば[[道統]]、朱子の理与心と云はるるが大切の事なり。孟子の後あとの賑かな漢の経術に斯く云は見て取たるに極まる。偖、文章は下卑たこと。孟子と文選幷べたときに、文の上では腕押しなり(=孟子を文選の上位に置く事は愚かしき事)。韓氏が見て、孟子の後道を得たもの無し、と。そこで程子のみ来て、非是蹈襲前人云々なり。道統は中庸の心法、それは大学の事。其致知がすま子ば道統は得られぬ☆」&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 礼儀 ==<br /> 子曰く、「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」孔子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。」周礼は[[五礼]]て、つまり吉礼、凶礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。吉礼によって国家の天神、祖霊、地神を祭り、凶礼によって国家の苦難を哀憚し、救う。賓礼によって周王室と他国あるいは国家間を友好親善たらしめ、軍礼によって国家同士を協調させ、嘉礼によって万民を互いに和合する&lt;ref&gt;『周礼・春官宗伯』&lt;/ref&gt;。五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、凶礼(喪葬)、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。<br /> <br /> {| class=&quot;wikitable&quot;<br /> |-<br /> ! 周礼 !! 解説 !! 名系<br /> |-<br /> | 吉礼 || 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) || 郊祀、大雩、朝日、夕月、祓禊<br /> |-<br /> | 凶礼 || 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) || 既夕礼、士虞礼<br /> |-<br /> | 賓礼 || 外交(邦国に親しむ) || 士相見礼、燕礼、公食大夫礼、覲礼<br /> |-<br /> | 軍礼 || 出陣・凱旋(邦国を同じくする) || 大射、大儺<br /> |-<br /> | 嘉礼 || 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) || 飲食之礼、婚冠之礼、賓射之礼、饗燕之礼、脤膰之礼、賀慶之礼<br /> |}<br /> <br /> ===冠服制度===<br /> 『論語』に「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服し、~(顔淵は国の治め方について聞いた。孔子は言った、夏王朝の暦を使い、殷の輅と呼ばれる車に乗り、周の冕という衣装を着て、~)」という記述がある&lt;ref&gt;論語 衛霊公第十五 10&lt;/ref&gt;。孔子が、周の冕(祭礼用の服)を模範としているのだ。また、同じ論語の泰伯篇には、普段の衣服を質素にする代わりに祭礼用の衣服(黻冕)を豪華にした禹王を褒めている&lt;ref&gt;[http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/rongo008_3.html 『論語』の泰伯篇]&lt;/ref&gt;{{出典無効|date=2015-03-27 |title=Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源}}。易経に、「黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る(黄帝と堯と舜が天下を治めた時は、その衣装のデザインを天地の色に倣った)」&lt;ref&gt;[http://mokusai.web.infoseek.co.jp/shushigakukihonsho/ekikyou/shuuekihongi/08_ka_keijiden.html 『易経 下繫辭傳』] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120313073559/http://mokusai.web.infoseek.co.jp/shushigakukihonsho/ekikyou/shuuekihongi/08_ka_keijiden.html |date=2012年3月13日 }}&lt;/ref&gt;とある。乾とは天、坤とは地の事であるから、乾坤とは天地を意味している。では天地とは何色であるのだろうか。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。つまり、天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色いとされていたのだ。ゆえに、祭礼用の衣装である冕服([[袞衣]])の衣(上半身)は赤黒く、裳(下半身)は黄色くされていたのである。また、『[[書経]]』には虞皇の衣服についても書かれている。日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彝 藻 火 粉米 黼 黻の十二である。それが『輿服制(車に乗る時用の衣服)』の始まりである。この冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑化していく。衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇や『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたものである。『儀礼』士冠礼・喪服や、『周礼』天宮司裳・春宮司服など、また『礼記』冠儀・昏儀などの各篇は、周代の服装に関する制度である。<br /> <br /> == 教義 ==<br /> 儒教は、[[五常]](仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより[[五倫]](父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。<br /> <br /> ;[[仁]]<br /> :人を思い遣る事。白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。<br /> :「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。<br /> ;[[義]]<br /> :利欲に囚われず、すべきことをすること。&lt;!--(語源的には宜に通じる)この箇所は、康煕字典に引く『釋名』に記される「義,宜也。裁制事物,使各宜也」を根拠にできそうですが、字源論をすると、「羊」+音符「我(のこぎり)」で「羊を公平に分ける」というものもあり、きりがないのでコメントアウト--&gt;<br /> ;[[礼]]<br /> :仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼での[[タブー]]や伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。<br /> ;智<br /> :学問に励む<br /> ;[[信]]<br /> :言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。<br /> <br /> ==起源==<br /> &#039;&#039;&#039;儒&#039;&#039;&#039;(じゅ)の起源については、[[胡適]]が「[[殷]]の遺民で[[礼]]を教える[[士]]」&lt;ref&gt;[[胡適]]論文「説儒」([[1924年]])&lt;/ref&gt;として以来、様々な説がなされてきたが、近年は[[冠婚葬祭]]、特に[[葬儀|葬送儀礼]]を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。<br /> <br /> 東洋学者の[[白川静]]は、紀元前、アジア一帯に流布していた[[シャーマニズム]]および死後の世界と交通する「[[巫祝]]」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした&lt;ref&gt;白川「孔子伝」&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 孔子とその時代 ==<br /> {{Main|孔子}}<br /> [[File:Half Portraits of the Great Sage and Virtuous Men of Old - Yan Hui Ziyuan (顏回 子淵).jpg|thumb|160px|顔回]]<br /> [[春秋時代]]の[[周]]末に[[孔子|孔丘]](孔子、[[紀元前551年]]‐[[紀元前479年]])は[[魯]]国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、儒家となって[[諸子百家]]の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『[[論語]]』にまとめられた。<br /> <br /> 孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として[[七十子]]がいた&lt;ref&gt;『[[史記]]』孔子世家&lt;/ref&gt;。そのうち特に優れた高弟は[[孔門十哲]]と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に[[顔回]]・[[閔子騫]]・[[冉伯牛]]・[[仲弓]]、言語に[[宰我]]・[[子貢]]、政事に[[冉有]]・[[子路]]、文学(学問のこと)に[[子游]]・[[子夏]]である。その他、[[孝]]の実践で知られ、『[[孝経]]』の作者とされる[[曾参]](曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『[[中庸]]』の作者とされる[[子思]]がいる。<br /> <br /> [[孔子]]の死後、儒家は八派に分かれた。その中で[[孟子|孟軻]](孟子)は[[性善説]]を唱え、孔子が最高の徳目とした[[仁]]に加え、実践が可能とされる徳目[[義]]の思想を主張し、[[荀子|荀況]](荀子)は[[性悪説]]を唱えて[[礼]]治主義を主張した。『[[詩経|詩]]』『[[書経|書]]』『[[儀礼|礼]]』『[[楽経|楽]]』『[[易経|易]]』『[[春秋]]』といった[[周]]の書物を[[六経]]として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『[[礼記]]』や『易伝』『[[春秋左氏伝]]』『[[春秋公羊伝]]』『[[春秋穀梁伝]]』といった注釈書や論文集である[[伝]]が整理された(完成は漢代)。<br /> <br /> ==孔子以後の中国における歴史==<br /> ===秦代===<br /> [[秦]]の[[始皇帝]]が[[六国]]を併せて中国を統一すると、[[法家]]思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、[[焚書坑儒]]を起こした。ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の[[経書]]が全く滅びたというわけではなく、[[楚漢戦争|楚漢の戦火]]を経ながらも、[[漢]]に伝えられた。また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば[[叔孫通]]は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。<br /> <br /> ===漢代===<br /> ;前漢<br /> [[漢]]に再び中国は統一されたが、漢初に流行した思想・学術は[[道家]]系の[[黄老刑名の学]]であった。そのなかにあって[[叔孫通]]が漢の宮廷儀礼を定め、[[陸賈]]が[[南越国|南越]]王を朝貢させ、[[伏生]]が『[[今文尚書]]』を伝えるなど、秦の博士官であった儒者たちが活躍した。[[文帝 (漢)|文帝]]のもとでは[[賈誼]]が活躍した。[[武帝 (漢)|武帝]]の時、賢良文学の[[士]]で挙げられた[[董仲舒]]は儒学を正統の学問として[[五経博士]]を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、[[建元 (漢)|建元]]5年([[紀元前136年]])、五経博士を設けた。従来の通説では、このことによって儒教が国教となったとしていたが、現在の研究では儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは[[前漢]]末から[[後漢]]初にかけてとするのが一般的である。ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の[[経書]]が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、[[丞相]]など儒者が独占する状態になる。<br /> <br /> 前漢の[[経学]]は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった([[章句の学]])。[[宣帝 (漢)|宣帝]]の時には経文の異同や経説の違いを論議する[[石渠閣会議]]が開かれている。この会議で『[[春秋]]』では[[春秋公羊伝|公羊家]]に対して[[春秋穀梁伝|穀梁家]]が優位に立った。<br /> <br /> [[董仲舒]]ら公羊家は[[陰陽五行思想]]を取り入れて[[天人相関]]の[[災異説]]を説いた。前漢末には[[揚雄]]が現れ、儒教顕彰のために『[[易経]]』を模した『[[太玄]]』や『[[論語]]』を模した『[[法言]]』を著作している。<br /> <br /> ;後漢<br /> [[前漢]]末から[[災異思想]]などによって、神秘主義的に[[経書]]を解釈した[[緯書]]が現れた(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意味がある)。 緯書は六経に孝経を足した七経に対して七緯が整理され、予言書である讖書や図讖(としん)と合わせて[[讖緯]]といい、前漢末から後漢にかけて流行した。[[新]]の[[王莽]]も[[後漢]]の[[光武帝]]も盛んに讖緯を利用している。一方で、[[桓譚]]や[[王充]]といった思想家は[[無神論]]を唱え、その[[合理主義]]的な立場から讖緯を非難している。<br /> <br /> === 古文学と今文学 ===<br /> [[前漢]]から[[五経博士]]たちが使っていた[[五経]]の[[写本]]は、漢代通行の[[隷書体]]に書き写されていて[[今文経]]といわれる。これに対して、[[古文経]]と呼ばれる[[孔子]]旧宅の壁中や民間から秦以前のテキストが、発見されていた。[[前漢]]末、[[劉キン (学者)|劉歆]]が[[古文経]]を学官に立てようとして、[[今文経学]]との学派争いを引き起こしている。[[平帝 (漢)|平帝]]の時には『[[春秋左氏伝]]』『[[儀礼|逸礼]]』『[[毛詩]]』『[[書経|古文尚書]]』が、[[新]]朝では『[[周礼|周官]]』が学官に立てられた。[[後漢]]になると、[[古文経]]が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の[[訓詁]]解釈学を発展させて力をつけていった。[[章帝]]の時に[[今文経]]の写本の異同を論じる[[白虎観会議]]が開かれたが、この中で[[古文学]]は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用されている。この会議の記録は[[班固]]によって『[[白虎通義]]』にまとめられた。<br /> <br /> [[古文学]]は、[[今文学]]が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対して、[[六経]]すべてを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、[[経書]]を総合的に解釈することを目指した。[[賈逵 (漢)|賈逵]]は『左氏伝』を[[讖緯]]と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。その弟子、[[許慎]]は『[[説文解字]]』を著して[[今文]]による文字解釈の妥当性を否定し、[[古文学]]の発展に大きく寄与している。[[馬融]]は[[経学]]を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、[[鄭玄]]は[[三礼]]注を中心に[[五経]]全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。<br /> <br /> [[今文学]]のほうでは古文学説の弱点を研究して反駁を行った。[[李育]]は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。[[何休]]は博学をもって『[[公羊伝]]』に注を作り、『[[春秋公羊解詁]]』にまとめた。『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一方で『[[周礼]]』を「[[六国]]陰謀の書」として斥けている。何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。<br /> <br /> === 三国時代・晋代 ===<br /> [[魏 (三国)|魏]]に入ると、[[王粛]]が[[鄭玄]]を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。王粛は『[[孔子家語]]』を偽作したことでも知られる。[[西晋]]では[[杜預]]が『[[春秋左氏伝]]』に注して『[[春秋経伝集解]]』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『[[春秋穀梁伝]]』には[[范寧]]が注を作っている。<br /> <br /> ==== 玄学 ====<br /> この時代に隆盛した学問は[[老荘思想]]と『[[易]]』に基づく[[玄学]]であるが、玄学の側からも儒教の[[経書]]に注を作るものが現れ、[[王弼 (三国)|王弼]]は費氏易に注して『周易注』を作り、[[何晏]]は『[[論語集解]]』を作った([[正始の音]])。[[呉 (三国)|呉]]には[[今文]]孟氏易を伝えた[[虞翻]]、『国語注』を遺した[[韋昭]]がいる。[[西晋]]末には[[永嘉の乱]]が起こり、これによって[[今文経学]]の多くの伝承が途絶えた。[[東晋]]になると、永嘉の乱で亡佚していた『[[古文尚書]]』に対して[[梅サク|梅賾]]が[[孔安国]]伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、[[清]]の[[閻若キョ|閻若璩]]によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。<br /> <br /> === 南北朝時代・南学と北学 ===<br /> [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[南朝 (中国)|南朝]]の儒学を&#039;&#039;&#039;南学&#039;&#039;&#039;、[[北朝 (中国)|北朝]]の儒学を&#039;&#039;&#039;北学&#039;&#039;&#039;という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、[[梁 (南朝)|梁]]の[[蕭衍|武帝]]の時には[[五経博士]]が置かれ、一時儒教が盛んになった。<br /> <br /> 南学では魏晋の学風が踏襲され、『[[毛詩]]』「[[三礼]]」の[[鄭玄]]注以外に、『周易』は[[王弼 (三国)|王弼]]注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は[[杜預]]注が尊ばれた。あまり家法に拘ることもなく、[[玄学]]や[[仏教]]理論も取り込んだ思想が行われた。この時代、仏教の経典解釈学である[[義疏]]の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった[[訓詁学]]的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。梁の[[費カン|費甝]]&lt;small&gt;(ひかん、「かん」は虎+甘)&lt;/small&gt;の『尚書義疏』や[[皇侃]]の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、[[唐]]の『尚書正義』のもとになり、『[[論語義疏]]』は亡佚することなく現在まで伝えられている。<br /> <br /> 北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に[[北周]]ではその国名が示すとおり[[周]]王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。北朝では[[後漢]]の[[古文学]]が行われ、『[[易経|周易]]』・『[[書経|尚書]]』・『[[毛詩]]』「[[三礼]]」は[[鄭玄]]注、『春秋左氏伝』は[[後漢]]の[[服虔]]の注、『[[春秋公羊伝]]』は[[後漢]]の[[何休]]の注が尊ばれた。その学風は保守的で旧説を覆すことなく[[章句]][[訓詁]]の学を墨守した。[[北魏]]には[[徐遵明]]がおり、[[劉献之]]の『[[毛詩]]』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の[[熊安生]]がおり、とりわけ[[三礼]]に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは[[隋]]の二大学者である[[劉シャク|劉焯]]・[[劉炫]]が出た。<br /> <br /> === 隋代 ===<br /> 北朝系の[[隋]]が中国を統一したので、隋初の[[儒学]]は北学中心であったが、[[煬帝]]の時、[[劉シャク|劉焯]]・[[劉炫]]の二劉が出、[[費カン|費甝]]の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。劉焯の『五経述義』、劉炫の『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は[[唐]]の『[[五経正義]]』の底本となった。在野の学者に[[王通 (隋)|王通]](文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、[[六経]]の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『[[論語]]』に擬した『[[中説]]』が現存している。[[唐]]末、孔孟[[道統論]]が起こる中で再評価され[[韓愈]]の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である[[聖人#儒教|聖人]]とする立場がのちの[[宋学]]に影響を与えた。<br /> <br /> [[隋]]の[[楊堅|文帝]]は初めて[[科挙]]を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。<br /> <br /> === 唐代 ===<br /> [[唐]]が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、[[貞観 (唐)|貞観]]7年([[633年]])には[[顔師古]]が[[五経]]を校定した『五経定本』が頒布された。さらに[[貞観 (唐)|貞観]]14年([[640年]])には[[孔穎達]]を責任者として五経の注疏をまとめた『[[五経正義]]』が撰定された(二度の改訂を経て[[永徽]]4年([[653年]])に完成)。永徽年間には[[賈公彦]]に『[[十三経注疏|周礼疏]]』『[[十三経注疏|儀礼疏]]』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、[[漢唐訓詁学]]の成果はここに極まった。<br /> <br /> こうして正義が確定される一方、中唐([[8世紀]]中葉)になると[[注疏]]批判の動きが生じた。『[[春秋]]』では[[啖助]]・[[趙匡]]・[[陸淳]]が[[春秋三伝]]は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『[[左伝]]』を排斥した。『[[易経|周易]]』では[[李鼎祚]]が[[王弼 (三国)|王弼]]注の[[義理易]]に反対して[[鄭玄]]を始めとする漢代[[象数易]]を伝えた。『[[詩経]]』では[[韓愈]]撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の[[子夏]]制作を否定している。<br /> <br /> [[唐|唐代]]は一概に[[仏教]]隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、[[韓愈]]や[[李コウ (唐の文人)|李翺]]たちである。韓愈は著書『原道』で、堯舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。李翺は『復性書』において「[[性]]」は本来的に善であり、その性に復することで[[聖人#儒教|聖人]]になれるとした。その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の[[道統論]]の先駆けとなった。彼らは文学史上、[[古文復興運動]]の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい[[経学]]を生む要因の一つとなった。<br /> <br /> === 宋代 ===<br /> ;北宋<br /> [[北宋|宋]]ははじめ[[唐]]を継承することを目指しており、儒学においても注疏の学が行われた。[[聶崇義]]の『三礼図』、[[ケイヘイ|邢昺]]・[[孫セキ|孫奭]]らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。[[南宋]]になると、漢唐の[[注疏]]にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『[[十三経注疏]]』がまとめられた。<br /> <br /> ==== 道統論 ====<br /> しかし、宋の天下が安定した[[仁宗 (宋)|仁宗]]期になると、唐末の[[古文復興運動]]が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く[[道統論]]が盛んになった。例えば、古文家の[[柳開]]は「[[孔子]] - [[孟子]] - [[荀子]] - [[揚雄]] - [[韓愈]]」の系譜を提出し、[[石介]]はこれに[[隋]]の[[王通 (隋)|王通]]を加えた。ここに孟子の再評価の動きが起こった。宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。[[王安石]]は[[科挙]]改革で従来の『[[孝経]]』『[[爾雅]]』に代わって『孟子』を挙げ、[[南宋]]になると[[孫セキ|孫奭]]撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。[[人性論]]としても伝統的な[[性三品説]]から[[性善説]]が主張されるようになっていく。逆に[[性悪説]]の[[荀子]]や[[性善悪混説]]の[[揚雄]]は評価の対象から外されていった。<br /> <br /> 漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。[[胡エン|胡瑗]]・[[孫復]]・[[石介]]は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に[[欧陽脩]]によって&#039;&#039;&#039;宋初三先生&#039;&#039;&#039;と称されている。<br /> <br /> ==== 新学 ====<br /> [[神宗 (宋)|神宗]]期になると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。その代表が[[王安石]]の&#039;&#039;&#039;[[新学]]&#039;&#039;&#039;である。王安石は『[[周礼]]』『[[詩経]]』『[[書経]]』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。これら新注は学校に頒布されて[[科挙]]の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。王安石は特に『周官新義』を重んじ、『[[周礼]]』に基づく[[中央集権国家]]の樹立を目指し、さまざまな[[新法・旧法の争い|新法]]を実施した。新学に異議を唱えたものに[[程顥]]・[[程頤]]らの&#039;&#039;&#039;洛学&#039;&#039;&#039;([[道学]])、[[蘇軾]]・[[蘇轍]]らの&#039;&#039;&#039;蜀学&#039;&#039;&#039;、[[張載]]らの&#039;&#039;&#039;関学&#039;&#039;&#039;があった。[[12世紀]]を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。<br /> <br /> ==== 天論 ====<br /> この時代、「[[天]]」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ[[理]]があるとされた。その先鞭をつけたのは中唐の[[柳宗元]]の「天説」・[[劉禹錫]]の『天論』であり、[[北宋]]においては[[欧陽脩]]の『[[新唐書]]』五行志・[[王安石]]の『洪範伝』・[[程頤]]の『春秋伝』などに見られる。程頤の理・程顥の天理は後の[[朱熹]]に影響を与えた。このような天観の変化によって『[[易経]]』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。[[邵雍]]は「[[先天図]]」を作って「数」で宇宙生成を説明し、[[周敦頤]]は「[[太極図]]」に基づいて『[[太極図説]]』を著し、「無極→[[太極]]→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた([[朱熹]]は無極=太極と読み替えた)。また[[張載]]は「太虚即気」説を唱え、[[気]]が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「[[性]]」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。こういった唐宋変革期の[[パラダイム]]シフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。<br /> <br /> ==== 南宋時代 ====<br /> 宋朝は北方を[[金 (王朝)|金]]に占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。[[南宋]]初、[[程頤]]の直弟子である[[楊時]]は北宋亡国の責任は[[王安石]]の新学にあるとして[[科挙]]に王安石の解釈を用いるべきではないと[[高宗 (宋)|高宗]]に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。程頤に私淑した[[胡安国]]は『[[春秋]]』に注して『[[胡氏春秋伝]]』を著し、『[[周礼]]』に基づく新学を批判した。[[謝良佐]]の弟子である[[朱震]]は[[邵雍]]の『皇極経世書』、[[周敦頤]]の『通書』といった[[象数易]]と『程氏易伝』や[[張載]]の『[[正蒙]]』といった[[義理易]]を総合して『[[漢上易伝]]』を著し、王安石や[[蘇軾]]の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮[[秦檜]]の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。<br /> <br /> ==== 朱熹 ====<br /> [[孝宗 (宋)|孝宗]]の時代には、後に[[朱子学]]と呼ばれる学術体系を構築した[[朱熹]]が現れる。洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。彼は[[楊時]]の再伝弟子という[[李トウ (儒学者)|李侗]]との出会、胡安国の子[[胡宏]]の学を承けた[[張ショク|張栻]](湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、[[張載]]の言葉という「心は性と情とを統べる」と[[程頤]]の「[[性即理]]」による定論を得、一家を成して&#039;&#039;&#039;閩学&#039;&#039;&#039;(びんがく)を起こした。宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても[[形而上学]]的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、[[孟子]]に基づいて性は絶対的に善であるとした。そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「[[居敬]]」と外界の観察や読書による「[[格物]]」とを主張した。[[経学]]では、[[五経]]を学ぶ前段階として[[四書]]の学を設け、『[[四書集注]]』を著した。さらに『[[易経]]』には経を占いの書として扱った『[[周易本義]]』、『[[詩経]]』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『[[詩集伝]]』、「礼」には『[[儀礼 (経書)|儀礼]]』を経とし『[[礼記]]』を伝とした『[[儀礼経伝通解]]』を著した。『[[書経]]』には弟子の[[蔡沈]]に『[[書集伝]]』を作らせている。[[朱熹]]の弟子には、[[黄カン|黄榦]]、[[輔広]]、[[邵雍]]の易学を研鑽した[[蔡元定]]と『書集伝』を編纂した[[蔡沈]]父子、『[[北渓字義]]』に朱熹の用語を字書風にまとめた[[陳淳]]などがいる。<br /> <br /> 同時代、永康学派の[[陳亮]]や永嘉学派の[[葉適]](しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする&#039;&#039;&#039;事功の学&#039;&#039;&#039;を唱えて自己の内面を重視する[[朱熹]]を批判した。江西学派の[[陸九淵]]は心の構造論において朱熹と考えを異にし、[[心即理]]説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが([[鵝湖の会]])、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。<br /> <br /> ==== 道学 ====<br /> 陸九淵の学は[[明代]]、[[王守仁]]によって顕彰され、&#039;&#039;&#039;心学&#039;&#039;&#039;(陸王心学)の系譜に入れられた。この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて[[道学]]と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、[[鄭樵]]・[[洪邁]]・[[程大昌]]らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。<br /> <br /> [[寧宗 (宋)|寧宗]]の[[慶元]]3年([[1197年]])、[[外戚]]の[[韓タク冑|韓侂冑]]が宰相[[趙汝愚]]に与する一党を権力の座から追放する[[慶元の党禁]]が起こり、趙汝愚・[[周必大]]・[[朱熹]]・[[彭亀年]]・[[陳傅良]]・[[蔡元定]]ら59人が禁錮に処された。その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。朱熹は[[慶元]]6年([[1200年]])、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は[[嘉定 (宋)|嘉定]]4年([[1211年]])に解かれた。<br /> <br /> [[理宗]]はその[[廟号]]「理」字が示すとおり道学を好み、[[朱熹]]の門流、[[魏了翁]]・[[真徳秀]]らが活躍した。真徳秀の『[[大学衍義]]』は後世、帝王学の教科書とされている。[[度宗]]の時には『[[黄氏日抄]]』の[[黄震]]、『[[玉海]]』『[[困学紀聞]]』で知られる[[王応麟]]がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。<br /> <br /> === 元代 ===<br /> 従来、金では道学は行われず、[[モンゴル帝国|モンゴル]]の捕虜となった[[趙復]]が[[姚枢]]・[[王惟中]]に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。<br /> <br /> [[元 (王朝)|元]]代、姚枢から学を承けた[[許衡]]が出て、[[朱子学]]が大いに盛んになった。元は当初、金の継承を標榜しており[[南宋]]は意識されていなかった。許衡は[[クビライ]]の近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。南人では[[呉澄]]が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、[[陸九淵]]の学の成果を積極的に導入している。許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として&#039;&#039;&#039;北許南呉&#039;&#039;&#039;と称された。<br /> <br /> 元代、[[科挙]]で一大改革が起こった。漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『[[十三経注疏]]』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。<br /> <br /> === 明代 ===<br /> [[明]]を興した太祖[[朱元璋]]のもとには[[劉基]]や[[宋濂]]といった道学者が集まった。劉基は明の[[科挙]]制度の制定に取り組み、出題科目として[[四書]]を採用し、また試験に使う文章に後に言う「[[八股文]]」の形式を定めた。宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には[[建文帝]]に仕えて[[永楽帝]]に仕えることを潔しとしなかった[[方孝孺]]がいる。<br /> <br /> [[永楽帝]]は[[胡広]]らに[[道学]]の文献を収集させて百科事典的な『[[四書大全]]』『[[五経大全]]』『[[性理大全]]』を編纂させ、広く学校に頒布した。この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『[[十三経注疏]]』は廃され、[[朱子学]]が体制教学となった。<br /> <br /> 明代前期を代表する道学者として[[薛セン|薛瑄]]・[[呉与弼]]が挙げられている。薛瑄は、[[朱熹]]が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「[[格物]]」と「[[居敬]]」では「居敬」を重んじた。呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から[[胡居仁]]・[[婁諒]]・[[陳献章]]が出た。胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は[[陸九淵]]の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。陳献章は[[静坐]]を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は[[禅]]だと批判された。陳献章門下には[[王陽明|王守仁]]と親交が深かった[[湛若水]]がいる。<br /> <br /> ==== 王陽明 ====<br /> 明代中期、[[王陽明|王守仁]](号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『[[大学]]』の「[[格物致知]]」について新しい解釈をもたらした。朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、[[陸九淵]]の[[心即理]]説を引用して、[[理]]は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。「致知」については『[[孟子]]』にある「[[良知]]」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「[[致良知]]」(良知を致す)だとした。そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一([[知行合一]])が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が[[禅]]に流れる弊があるのを鑑み、[[事上磨練]]を説いた。道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな[[聖人#儒教|聖人]]観をもたらした。王守仁の学は[[陽明学派]](姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。<br /> <br /> この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、[[気]]の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として[[羅欽順]]がいる。王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「[[万物一体の仁]]」を主張した。さらに、このような気一元論を徹底させたのは[[王廷相]]である。彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、[[人性論]]においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。<br /> <br /> 理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。王守仁も晩年、心の本体を[[無善無悪]]とする説を唱えている。弟子の[[王畿]]はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする[[四無説]]を主張したが、同門の[[銭徳洪]]は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした[[四有説]]を主張してこれに反対している。以後、無善無悪からは[[王艮]]の[[泰州学派]](王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の[[李贄]](李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで[[孔子]]や[[六経]]『[[論語]]』『孟子』さえ否定するに到った。<br /> <br /> ==== 東林学派 ====<br /> 社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする[[東林学派]]が興った。彼らは[[陽明学]]の心即理や[[無善無悪]]を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の[[経世致用の学]]へと結実していく。その思想は東林学派の一員である[[黄尊素]]の子で、[[劉宗周]]の弟子である[[黄宗羲]]の『[[明夷待訪録]]』に総括されることになる。<br /> <br /> ==== 朱元璋の六諭 ====<br /> 明代は儒教が[[士大夫]]から庶民へと世俗化していく時代である。朱元璋は[[六諭]]を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。明代中期以後、[[郷約]]・[[保甲]]による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や[[東林学派]]の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。<br /> <br /> 一方、王守仁と同時代の[[黄佐]]は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『[[家礼]]』を参考に『泰泉郷礼』を著した。朱熹の『家礼』は元から明にかけて[[丘濬 (明)|丘濬]]『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、[[宗族]]という家族形態とともに庶民にまで普及した。[[王艮]]の[[泰州学派]]には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿が伺える。<br /> <br /> 明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、[[経書]]に対する実証学的研究の萌芽も見られる。[[梅サク (明)|梅鷟]]は『尚書考異』を著し、通行の「[[書経#偽古文尚書|古文尚書]]」が偽書であることを証明しようとした。[[陳第]]は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代[[音韻学]]研究の道を開いている。<br /> <br /> === 清代 ===<br /> [[明]]朝滅亡と異民族の[[清]]朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった[[陽明学|心学]]にあると考え、実用的な学問、&#039;&#039;&#039;[[経世致用の学]]&#039;&#039;&#039;を唱えた。その代表は[[黄宗羲]]や[[顧炎武]]、[[王夫之]]である。彼らはその拠り所を[[経書]]・史書に求め、[[六経]]への回帰を目指した。そのアプローチの方法は[[実事求是]](客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である[[考証学]]を生む。<br /> <br /> 一方、[[顔元]]は[[朱子学]]・[[陽明学]]ともに批判し、[[聖人#儒教|聖人]]となる方法は読書でも[[静坐]]でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。「[[格物]]」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。顔元の学は弟子の[[李キョウ|李塨]]によって喧伝され、&#039;&#039;&#039;[[顔李学派]]&#039;&#039;&#039;と呼ばれる。<br /> <br /> こういった清初の思想家たちは[[理気論]]上、一様に&#039;&#039;&#039;気一元論&#039;&#039;&#039;であり、[[朱子学]]や[[陽明学]]の先天的に存在するとした「[[理]]」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「[[気]]」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。このように[[明代]]中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、[[戴震]]が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(&#039;&#039;&#039;分理&#039;&#039;&#039;)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。<br /> <br /> ==== 考証学 ====<br /> 清の支配が安定してくると、実学よりも[[経書]]を始めとする[[古典]]を実証的に解明しようとする[[考証学]]が興った。[[毛奇齢]]は[[朱子学]]の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。[[閻若キョ|閻若璩]]は『[[尚書古文疏証]]』を著して「[[書経#偽古文尚書|偽古文尚書]]」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。[[胡渭]]は『[[易図明弁]]』を著し朱子学が重視した「[[太極図]]」や「[[先天図]]」「[[河図洛書]]」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。<br /> <br /> [[乾隆]]・[[嘉慶 (中国)|嘉慶]]年間は[[考証学]]が隆盛した時代である。その[[年号]]から&#039;&#039;&#039;乾嘉の学&#039;&#039;&#039;と呼ばれる。顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、[[恵棟]]を始めとする[[蘇州市|蘇州]]を中心とする&#039;&#039;&#039;呉派&#039;&#039;&#039;、[[安徽省|安徽]]出身の[[戴震]]らの影響を受けた&#039;&#039;&#039;皖派&#039;&#039;&#039;(かんぱ)がある。彼らは[[音韻学]]・[[文字学]]・[[校勘学]]や[[礼学]]などに長じていた。特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする[[古文学]]に基づいており、&#039;&#039;&#039;漢学&#039;&#039;&#039;とも呼ばれる。一方、黄宗羲の流れをくむ&#039;&#039;&#039;[[浙東学派]]&#039;&#039;&#039;は史学に長じ、その代表である[[章学誠]]は&#039;&#039;&#039;六経皆史&#039;&#039;&#039;の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて[[阮元]]を始めとする&#039;&#039;&#039;[[揚州学派]]&#039;&#039;&#039;が起こり、乾嘉漢学を発展させている。<br /> <br /> [[道光]]以降になると、&#039;&#039;&#039;[[常州学派]]&#039;&#039;&#039;の前漢[[今文学]]が隆盛した。彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる[[古文経学]]を排除して今文経、ひいては[[孔子]]へと回帰することを目指した。その拠り所とする&#039;&#039;&#039;[[公羊学]]&#039;&#039;&#039;に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、[[康有為]]を始めとする[[変法自強運動]]の理論的根拠となった。<br /> <br /> === 近代 ===<br /> [[アヘン戦争]]の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという[[洋務運動]]が興った。洋務派官僚の[[曽国藩]]は[[朱子学]]を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の[[王夫之]]を顕彰して実学の必要を説いた。[[張之洞]]は[[康有為]]の学説に反対して『[[勧学篇]]』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。<br /> <br /> ==== 孔教運動 ====<br /> 一方、[[変法自強運動]]を進める[[康有為]]は、『[[孔子改制考]]』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した&#039;&#039;&#039;孔教&#039;&#039;&#039;を提唱した。康有為の孔教運動は[[年号|年号紀年]]を廃して[[孔子紀年]]を用いることを主張するなど従来の体制を脅かすものであったため、清朝から危険視され『孔子改制考』は発禁処分を受けた。変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折につながる一つの原因となる。しかし、[[辛亥革命]]が起こると、康有為は[[上海市|上海]]に孔教会を設立して布教に努め、孔教を[[中華民国]]の国教にする運動を展開した。彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突することとなり、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。その後、[[1917年]]、[[張勲 (清末民初)|張勲]]の[[張勲復辟|清帝復辟]]のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失うことになる。康有為が唱える孔子教運動には、弟子の[[陳煥章]]が積極的に賛同し、中国及びアメリカで活動している。この他に賛同した著名人として[[厳復]]がいる。<br /> <br /> === 現代 ===<br /> ==== 新文化運動 ====<br /> [[1910年代]]後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする[[新文化運動]]を興した。雑誌『[[新青年 (中国)|新青年]]』を主宰する[[陳独秀]]・[[呉虞]]・[[魯迅]]らは「孔家店打倒」をスローガンに[[家父長制]]的な[[宗法]]制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。一方、雑誌『学衡』を主宰する[[柳詒徴]]・[[呉ヒツ|呉宓]]・[[梅光迪]]・[[胡先驌]]ら[[学衡派]]は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。<br /> <br /> 清末から隆盛した[[今文学派]]による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、[[1927年]]、[[顧頡剛]]を始めとする[[疑古派]]が経書や古史の偽作を論ずる『[[古史弁]]』を創刊した。顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、堯・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。さらに[[銭玄同]]は[[六経]]は[[周公]]と無関係であるばかりでなく[[孔子]]とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。<br /> <br /> *[[新儒家]]<br /> **[[熊十力]]<br /> **[[梁漱溟]]<br /> **[[牟宗三]]<br /> **[[唐君毅]]<br /> **[[杜維明]]<br /> <br /> === 中華人民共和国時代 ===<br /> [[中華人民共和国]]では「&#039;&#039;&#039;儒教は革命に対する反動である&#039;&#039;&#039;」として弾圧され、特に[[文化大革命]]期には、&#039;&#039;&#039;[[文化大革命#批林批孔運動|批林批孔運動]]&#039;&#039;&#039;として徹底弾圧された。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった[[熊十力]]は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、[[共産主義|社会主義共和制]]の根幹を成す[[マルクス主義]]とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。なお[[毛沢東]]は[[三国志]]を愛読し、[[曹操]]をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。<br /> <br /> ==== 再評価と「儒教社会主義」 ====<br /> だが、[[21世紀]]に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。<br /> <br /> 孔子を、その思想を別論として、国際的に著名な教育者と評価し、2004年、中国国外の大学などの教育機関と提携し、中国語や中国文化の教育及び宣伝、中国との友好関係醸成を目的に設立した公的機関を&#039;&#039;&#039;[[孔子学院]]&#039;&#039;&#039;と名付け世界展開を進めている。また、2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、[[論語]]を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。<br /> <br /> ほかにも[[改革開放]]が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である[[国学 (中国)|国学]]が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている&lt;ref&gt;[[園田茂人]] 『不平等国家 中国--自己否定した社会主義のゆくえ』 [[中央公論新社]]、2008年5月25日、177-178頁。ISBN 9784121019509&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京[[清華大学]]哲学教授によれば、近年、中国共産党は「[[儒教社会主義]]」または[[新儒教主義]](宋の時代にもあった)を唱えている&lt;ref&gt;[http://www.guardian.co.uk/commentisfree/belief/2009/jul/26/confucianism-china What can we learn from Confucianism? Daniel A Bell] guardian.co.uk, Sunday 26 July 2009]。 [http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2006/oct/16/danielbell 2006年の記事]&lt;/ref&gt;。<br /> <br /> == 朝鮮における儒教 ==<br /> {{Main|朝鮮の儒教}}<br /> [[File:Korean Confucian scholar.JPG|thumb|right|150px|朝鮮の儒学者]]<br /> [[朝鮮]]は儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が[[朝鮮の文化]]の中に深く残っている。それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある&lt;!-- でも現在(いま)では、形骸化している --&gt;。一方で、[[朝鮮王朝]]時代に儒教を歴代の為政者が群集支配をするために悪用してきた弊害も存在しているという意見もある&lt;!-- 実際人間関係は全て上下でしか、考えられない 要するに常に自分が一番偉くないとイケないとの、脅迫的観念が現在(いま)の朝鮮半島を、支配している --&gt;。<br /> *[[李退渓]]:[[嶺南学派]]<br /> *[[李栗谷]]:[[畿湖学派]]<br /> <br /> == 日本における儒教 ==<br /> {{See|日本の儒教}}<br /> 日本では儒教は[[学問]](儒学)として受容され、国家統治の[[経世済民]]思想や[[帝王学]]的な受容をされたため、[[仏教]]や、[[神道]]に比べても、宗教として意識されることは少ない([[#儒教研究上の論争|次節]]を参照)。<br /> <br /> == 儒学者一覧 ==<br /> {{リンクのみの節}}<br /> {{See|儒学者一覧}}<br /> <br /> == 儒教研究上の論争 ==<br /> {{出典の明記|section=1|date=2009年11月}}<br /> 儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、[[仏教]]との思想的関係、[[理]]や[[気]]の捉え方など様々な論争がある。現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的&lt;ref&gt;[[湯浅赳男]]『面白いほどよくわかる 世界の哲学・思想のすべて』[[日本文芸社]]、平成17年2月1日改訂第1版、ISBN 4-537-11501-7、p72&lt;/ref&gt;だが、[[孟子]]以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが[[唯物論]]と反する考えになっているという指摘もある。[[加地伸行]]などは、宗教を「[[死生観]]に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている。&lt;!---このため、“儒教を思想と看做すか(狭義の)宗教と看做すか”では完全に見解が分かれており、たびたび論争の焦点になっている。儒教を[[宗教]]と定義した場合は教義に平等思想が無い事と死後の世界の観念が無い事による死後の再評価ができない事も問題視されている{{誰2|date=2009年10月}}---&gt; しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事が可能である。<br /> <br /> == その他の学説 ==<br /> *[[人性論]]<br /> *[[天人の辨]]<br /> *[[義利の辨]]<br /> *[[名分論]]<br /> *[[命定論]]<br /> *[[形神論]]<br /> *[[正統論]]<br /> *[[復讐論]]<br /> *[[道統論]]<br /> *[[理気論]]<br /> *[[儒仏道論争]]<br /> *[[朱陸論争]]<br /> *[[格物致知]]<br /> *[[未発已発]]<br /> *[[良知]]<br /> *[[無善無悪]]<br /> *[[万物一体論]]<br /> *[[井田論]]<br /> *[[封建論]]<br /> *[[今文]]・[[古文]]<br /> *[[道器論]]<br /> <br /> == 孔子廟 ==<br /> {{Main|孔子廟|日本の儒教#関連史蹟}}<br /> 中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを&#039;&#039;&#039;文廟&#039;&#039;&#039;といい、&#039;&#039;&#039;[[孔子廟]]&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;孔廟&#039;&#039;&#039;、&#039;&#039;&#039;[[夫子廟]]&#039;&#039;&#039;ともいう。(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた&#039;&#039;&#039;[[孔廟]]&#039;&#039;&#039;が有名。)中国国内の[[孔子廟]]の多くは[[文化大革命]]時に破壊されたり損傷を受けている。<br /> <br /> 日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に[[朱子学]])を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。[[湯島聖堂]]が、その代表である。<br /> <br /> == 文献 ==<br /> ;概説書<br /> *[[加地伸行]] 『儒教とは何か』 [[中公新書]] ISBN 9784121009890<br /> *加地伸行 『沈黙の宗教-儒教』 [[筑摩書房]]〈ちくまライブラリー〉 ISBN 9784480051998/ [[ちくま学芸文庫]](2011年4月)<br /> *[[串田久治]] 『儒教の知恵-矛盾の中に生きる』 中公新書 ISBN 9784121016850<br /> *[[鈴木利定]] 『儒教哲学の研究』 [[明治書院]] ISBN 9784625483028<br /> *T・フーブラー、D・フーブラー 『儒教 シリーズ世界の宗教』 鈴木博訳 [[青土社]] ISBN 9784791752980<br /> *[[狩野直禎]]編 『[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] 論語』[[ナツメ社]]、2001年、ISBN 4816330461<br /> *[[緑川佑介]] 『孔子の一生と論語』 [[明治書院]]、2007年、ISBN 9784625684036<br /> *[[土田健次郎]]編 『21世紀に儒教を問う』 [[早稲田大学出版部]]〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2010年、ISBN 9784657102225<br /> *永冨青地編 『儒教 その可能性』 [[早稲田大学出版部]]〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2011年、ISBN 9784657110145<br /> <br /> ;伝記<br /> * [[白川静]] 『孔子伝』 [[中公文庫]] ISBN 4122041600<br /> * [[諸橋轍次]] 『如是我聞 孔子伝』(上下)、[[大修館書店]]、1990年<br /> * [[金谷治]] 『孔子』 講談社学術文庫、1990年、ISBN 9784061589353<br /> * [[武内義雄]] 『論語之研究』 [[岩波書店]]、1939年、ASIN B000J9BC3Q、復刊<br /> * [[津田左右吉]] 『論語と孔子の思想』 岩波書店、1946年、ISBN BN07038153、復刊<br /> * [[宮崎市定]] 『論語の新しい読み方』 [[礪波護]]編、岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000227<br /> <br /> ;五経<br /> *[[易経]]<br /> **[[今井宇三郎]] 『易経 [[新釈漢文大系]]』 全3巻:[[明治書院]] &lt;br&gt;(上)ISBN 9784625570230、(中)ISBN 9784625570247、(下)ISBN 9784625673146<br /> **[[本田済]] 『易 〈中国古典選〉』 新版:[[朝日選書]] ISBN 9784022590107<br /> **[[高田眞治]]・[[後藤基巳]] 『易経』 [[岩波文庫]] &lt;br&gt;(上)ISBN 9784003320112、(下)ISBN 9784003320129<br /> *[[書経]]<br /> **[[加藤常賢]] 『書経 (上) [[新釈漢文大系]]』 [[明治書院]] ISBN 9784625570254<br /> **[[小野沢精一]] 『書経 (下) [[新釈漢文大系]]』 [[明治書院]] ISBN 9784625570261<br /> **池田末利 『[[書経|尚書]] [[全釈漢文大系]]』 [[集英社]]<br /> *[[詩経]]<br /> **[[石川忠久]] 『詩経 [[新釈漢文大系]]』 全3巻:[[明治書院]]、新書漢文大系(抄訳版)がある。&lt;br&gt;(上)ISBN 9784625571107、(中)ISBN 9784625571114、(下)ISBN 9784625673009<br /> **[[白川静]] 『詩経国風』 [[平凡社東洋文庫]]、ISBN 9784582805185<br /> **[[白川静]] 『詩経雅頌』 [[平凡社東洋文庫]] 全2巻、(1) ISBN 9784582806359 、(2) ISBN 9784582806366<br /> *[[礼記]]<br /> **[[竹内照夫]] 『礼記 [[新釈漢文大系]]』 [[明治書院]] 全3巻&lt;br&gt;(上)ISBN 9784625570278、(中)ISBN 9784625570285 、(下)ISBN 9784625570292<br /> **『礼記』(「漢文大系」[[冨山房]]、初版1913年。のち改訂版)<br /> **[[桂湖村]] 『礼記』(上下)、漢籍国字解全書:[[早稲田大学出版部]]、初版1914年<br /> **[[安井小太郎]] 『礼記』(「国訳漢文大成」国民文庫刊行会、初版1921年)<br /> **[[下見隆雄]] 『礼記』([[明徳出版社]]〈中国古典新書〉、初版1973年)<br /> **[[市原亨吉]]など 『礼記 [[全釈漢文大系]]』([[集英社]] 全3巻)<br /> *[[春秋]]<br /> **[[春秋左氏伝]]<br /> ***[[鎌田正]] 『春秋左氏伝 [[新釈漢文大系]]』 [[明治書院]] 全4巻&lt;br&gt;(1) ISBN 9784625570308 、(2) ISBN 9784625570315 、(3) ISBN 9784625570322、(4) ISBN 9784625570339<br /> ***竹内照夫 『春秋左氏伝 [[全釈漢文大系]] 4.5.6』、[[集英社]]<br /> ***[[小倉芳彦]] 『春秋左氏伝』、岩波文庫全3巻 (上)ISBN 9784003321614、(中)ISBN 9784003321621、(下)ISBN 9784003321638<br /> **[[春秋公羊伝]]<br /> ***[[林羅山]]訓点 [[菜根出版]](復刻)<br /> ***『世界文学全集 3 五経・論語』、公羊伝 (日原利国訳) 、筑摩書房、1970年<br /> ****[[日原利国]]著 『春秋公羊伝の研究』 [[創文社]]〈東洋学叢書〉、1978年<br /> **[[春秋穀梁伝]]<br /> ***[[野間文史]]著 『[[春秋学]] 公羊伝と穀梁伝』 [[研文出版]]〈研文選書〉、2001年、ISBN 9784876362011<br /> <br /> ;四書<br /> *[[大学 (書物)|大学]]<br /> **[[宇野哲人]] 『大学』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585940<br /> **[[金谷治]] 『大学 中庸』 [[岩波文庫]] 2004年 ISBN 4003322215<br /> **[[赤塚忠]] 『大学・中庸 〈新釈漢文大系2〉』 [[明治書院]] 1998年 ISBN 4625570026<br /> *[[中庸]]<br /> **[[島田虔次]] 『大学・中庸 〈中国古典選〉』 朝日新聞社、1967年/ [[朝日文庫]]上下、1978年<br /> ** [[宇野哲人]] 『中庸』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585959<br /> ** [[俣野太郎]] 『大学・中庸』 [[明徳出版社]]〈中国古典新書〉、1968年<br /> *[[論語]]<br /> **[[吉田賢抗]] 『論語 〈[[新釈漢文大系]] 1〉』 明治書院、初版1960年、ISBN 4625570018<br /> ** [[吉川幸次郎]] 『論語 〈中国古典選〉』(上下)、新版:[[朝日選書]]、1996年<br /> ** [[金谷治]] 『論語 新訂』 岩波文庫、1999年、ISBN 4003320212<br /> ** [[宮崎市定]] 『現代語訳 論語』 [[岩波現代文庫]]、2000年、ISBN 4006000170<br /> ** [[貝塚茂樹]] 『論語』 [[中公文庫]]/ 新版:[[中公クラシックス]]全2冊、2002年<br /> ** [[加地伸行]] 『論語』 [[講談社学術文庫]]、2004年、増訂版2009年<br /> *[[孟子]]<br /> **[[小林勝人]] 『孟子』 [[岩波文庫]] (上)ISBN 9784003320419 、(下)ISBN 9784003320426<br /> **貝塚茂樹 『孟子』 [[中公クラシックス]]版、抄訳版<br /> **[[内野熊一郎]]・[[加藤道理]] 『孟子 〈[[新釈漢文大系]] 4〉』、[[明治書院]]、新書漢文大系(抄訳版)がある。<br /> **[[宇野精一]] 『孟子 [[全釈漢文大系]]2』 [[集英社]]<br /> <br /> ;関連古典<br /> *[[周礼]]<br /> *[[儀礼 (経書)|儀礼]]<br /> ** 池田末利編訳、[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] 〈東海古典叢書、全5巻〉<br /> *[[爾雅]]<br /> *[[孝経]]<br /> **加地伸行 『孝経』、講談社学術文庫、初版2007年<br /> **栗原圭介 『孝経 新釈漢文大系35』 [[明治書院]]、ISBN 9784625570353<br /> *[[荀子]]<br /> **[[金谷治]] 『荀子』 岩波文庫(上下)、(上) ISBN 9784003320815 、(下) ISBN 9784003320822<br /> **藤井専英 『荀子 [[新釈漢文大系]] 5・6』 [[明治書院]]、新書漢文大系(抄訳版)がある。<br /> **金谷治・佐川修 『荀子 [[全釈漢文大系]] 7・8』 [[集英社]]<br /> *[[大戴礼記]]<br /> **栗原圭介 『大戴礼記 [[新釈漢文大系]]113』 [[明治書院]]、ISBN 9784625571138<br /> <br /> === 史書 ===<br /> *[[史記]]<br /> **孔子[[世家]]<br /> **[[仲尼]]弟子[[列伝]]<br /> **孟子荀卿列伝<br /> **[[儒林]]列伝<br /> *[[漢書]]<br /> **[[董仲舒伝]]<br /> **[[儒林伝]]<br /> *[[孔子家語]]<br /> **[[宇野精一]]訳 『孔子家語 [[新釈漢文大系]]53』 [[明治書院]] ISBN 9784625570537。新書漢文大系(抄訳版)がある。<br /> **[[藤原正]]訳 『孔子家語』 [[岩波文庫]] ISBN 9784003320228<br /> <br /> ;[[朱子学]]<br /> *[[朱子]] 『論語集註』 [[笠間書院]] ISBN 9784305001559<br /> *[[朱子]] 『[[近思録]]』 [[湯浅幸孫]]訳著、たちばな出版(選書版) 上:ISBN 9784886926036、中:ISBN 9784886926043 、下:ISBN 9784886926050<br /> *『「[[朱子語類]]」抄』 [[三浦國雄]]訳注、[[講談社学術文庫]] ISBN 9784061598959<br /> *[[島田虔次]]著 『[[朱子学]]と[[陽明学]]』 [[岩波新書]] ISBN 9784004120285<br /> ;[[陽明学]]<br /> *[[王陽明]] 『[[伝習録]]』 [[溝口雄三]]訳、中公クラシックス ISBN 9784121600820<br /> ;朝鮮の儒教と儒学<br /> 朝鮮時代の五礼(吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼)の礼法を記した「国朝五礼儀」と、世宗在位期間の歴史を記録した「世宗荘憲大王実録」に基づいて。<br /> ;[[日本の儒学]]<br /> *[[荻生徂徠]] 『論語徴』 [[小川環樹]]訳註、[[平凡社東洋文庫]] (1)ISBN 9784582805758 (2)ISBN 9784582805765<br /> <br /> == 脚注 ==<br /> {{脚注ヘルプ}}<br /> {{Reflist}}<br /> <br /> == 関連項目 ==<br /> * [[十三経]]<br /> * [[漢唐訓詁学]]<br /> * [[宋明理学]]([[朱子学]]・[[陽明学]])<br /> * [[唐君毅]]<br /> * [[牟宗三]]<br /> * [[杜維明]]<br /> * [[聖人]]<br /> * [[道 (哲学)|道]]<br /> * [[徳]]<br /> * [[忠]]<br /> * [[孝]]<br /> * [[心]]<br /> * [[理]]<br /> * [[気]]<br /> * [[東学]]([[天道教]])<br /> &lt;!--* [[仏教]]<br /> * [[道教]]<br /> * [[神道]] --&gt;<br /> * [[反儒]]<br /> * [[名 (倫理)]]<br /> * [[分 (倫理)]]<br /> * [[修身]]<br /> * [[明経道]]<br /> * [[明経問者生]]<br /> * [[進士]]<br /> * [[科挙]]<br /> &lt;!--* [[哲学]] --&gt;<br /> * [[律令制]]<br /> <br /> == 外部リンク ==<br /> {{Commonscat|Confucianism}}<br /> * [http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=47084&amp;if=gb 早期儒学著作]{{Zh-hk icon}}・{{Zh-smpl icon}}・{{En icon}}の表示変換が出来る<br /> * [http://mokusai-web.com/index.html 黙斎を語る]{{Ja icon}}<br /> {{Authority control}}<br /> <br /> {{DEFAULTSORT:しゆきよう}}<br /> [[Category:儒教|*]]<br /> [[Category:中国の思想史]]<br /> [[Category:宗教の歴史]]<br /> [[Category:中国哲学]]<br /> [[Category:倫理学の理論]]</div> 117.18.174.247
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