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miniwiki - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-05-23T15:04:09Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.31.0
足利義輝
2018-08-03T12:55:35Z
<p>114.160.220.208: /* 生涯 */</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 武士<br />
| 氏名 = 足利義輝<br />
| 画像 = Ashikaga Yoshiteru.jpg<br />
| 画像サイズ = 195px<br />
| 画像説明 = 足利義輝像([[国立歴史民俗博物館]]蔵)<br />
| 時代 = [[室町時代]]後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]])<br />
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]5年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]([[1536年]][[3月31日]])<br />
| 死没 = [[永禄]]8年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[1565年]][[6月17日]])<br />
| 改名 = 菊童丸([[幼名]])→義藤(初名)→義瑛→義輝<br />
| 戒名 = 光源院融山道圓<br />
| 墓所 =<br />
| 官位 = [[従五位|従五位下]]、[[正五位|正五位下]][[馬寮|左馬頭]]、[[従四位|従四位下]][[征夷大将軍]]、[[参議]]、[[近衛府|左近衛中将]]、[[従三位]]<br>贈[[従一位]][[左大臣]]<br />
| 幕府 = [[室町幕府]] 第13代征夷大将軍<br />
| 氏族 = [[足利将軍家]]<br />
| 父母 = 父:[[足利義晴]]、母:[[慶寿院]]([[近衛尚通]]の娘)<br/>猶父:''[[近衛尚通]]''<br />
| 兄弟 = '''義輝'''、[[足利義昭|義昭]]、[[足利周こう|周暠]]<br />
| 妻 = [[正室]]:[[近衛稙家]]の娘<br/>側室:[[小侍従]] ([[進士晴舎]]の娘) {{Efn|「公方様の夫人は、実は正妻ではなかった。だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であったのみならず、彼から大いに愛されてもいた。したがって世間の人々は、公方様が他のいかなる婦人を妻とすることもなく、むしろ数日中には彼女にライーニャ(=王妃)の称を与えることは疑いなきことと思っていた。なぜならば、彼女はすでに呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように人々から奉仕され敬われていたからである」<br />「コジジュウドノ(小侍従殿)と称されたこのプリンセザは~」<ref>『完訳フロイス日本史1 将軍義輝の最期および自由都市堺』より。なお同書では、ライーニャおよびプリンセザの訳語に「奥方」を使用している。</ref>}}<br />
| 子 = [[足利輝若丸|輝若丸]]、女子(耀山、宝鏡寺住持)、女子(伝山性賢、宝鏡寺住持)、[[天誉]](足利義高)?、[[尾池義辰]]?}}<br />
'''足利 義輝'''(あしかが よしてる)は、[[室町時代]]後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]])の[[室町幕府]]第13代[[征夷大将軍]](在職:天文15年([[1536年|1546年]]) - 永禄8年5月19日(1565年6月17日))。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
=== 少年期 ===<br />
天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・[[足利義晴]]の嫡男として[[東山 (京都府)|東山]][[南禅寺]]で生まれる。幼名を菊童丸。誕生直後に外祖父・[[近衛尚通]]の[[猶子]]となる(『[[後法成寺関白記]]』天文5年3月11日・4月6日条)。<br />
<br />
この頃の幕府では父・義晴と[[管領]]の[[細川晴元]]が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて[[近江国]][[坂本 (大津市)|坂本]]に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と坂本・[[朽木村|朽木]]への脱出を繰り返した。<br />
<br />
天文15年12月([[1546年|1547年]])、菊童丸はわずか11歳にして、父から幕府将軍職を譲られる。父・義晴がかつて11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。このときの将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現[[日吉大社]])祠官・樹下成保の第で行われ、[[六角定頼]]を[[烏帽子親]]として[[元服]]し、'''義藤'''(よしふじ)と名乗った{{Efn|将軍の烏帽子親は管領が務める慣例になっていたが、義晴は定頼を管領代に任じて菊童丸の元服を行った。これは晴元の管領としての権威を否定するものであった(そもそも、晴元は管領に任じられていなかった説もある)。なお、遊佐長教が細川氏綱を烏帽子親にするように求めて六角定頼に阻止されたりするなど、当時の流動的な政治背景を元に晴元の舅である定頼を烏帽子親にしたとする見方もある<ref>木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」(初出:『日本歴史』793号(2014年)/所収:木下昌規 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』(戒光祥出版、2017年)ISBN 978-4-86403-253-7) P285-287</ref>}}。<br />
天文17年([[1548年]])、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。<br />
<br />
=== 三好長慶との戦い ===<br />
ところが、[[細川晴元]]の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった[[三好長慶]]が晴元を裏切って[[細川氏綱]]陣営に転属。天文18年([[1549年]])6月、[[江口の戦い]]で長慶に敗れた晴元によって義晴・義藤父子は、[[京都]]から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。天文19年([[1550年]])5月、義晴が[[穴太]]にて死去<ref>『万松院殿穴太記』</ref>。義藤は父が建設を進めていた[[中尾城]]で三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま11月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ([[中尾城の戦い]])、翌年に朽木へ移った。<br />
<br />
天文20年([[1551年]])、義藤は京の[[伊勢貞孝]]の屋敷に長慶が呼ばれるとの情報を得ると[[奉公衆]]の[[進士賢光]]を伊勢邸に潜入させ、長慶を暗殺しようと目論んだが失敗した。賢光による暗殺劇は長慶に軽い傷を負わす程度に終わってしまい、賢光はその場で自害した。<br />
<br />
天文21年([[1552年]])1月、細川氏綱を[[管領]]にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣・[[松永久秀]]の傀儡であった。天文22年([[1553年]])に晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の天文23年([[1554年]])2月12日、名を'''義輝'''に改めている。なお年号が[[永禄]]に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の[[弘治 (日本)|弘治]]を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。<br />
<br />
永禄元年([[1558年]])5月、[[六角義賢]](承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。翌月、[[如意ヶ嶽]]に布陣して[[三好長逸]]らの軍と交戦した。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、長慶の弟・[[三好実休]]の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった([[北白川の戦い]])。11月、六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、御所での直接的な幕府政治を再開。この年の12月28日には、伯父である[[近衛稙家]]の娘を正室に迎えている。<br />
<br />
長慶はなおも権勢を高め、幕府の[[御相伴衆]]に加えられ、さらに修理大夫への任官を推挙されたが、同時に義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。ただし、長慶も義輝の権威に自らが取り込まれる危険性や長年対立してきた自身と義輝の和解が難しいことは理解しており、永禄2年(1559年)12月に嫡男・孫次郎が義輝から偏諱を拝領して義長(後に[[三好義興|義興]])と名乗り、翌3年(1560年)1月に義長が三好氏代々の官途であった[[筑前国|筑前]]守に任ぜられると、長慶は三好氏の家督と本拠地である摂津国[[芥川山城]]を義長に譲って、河内国[[飯盛山城]]に移っている。長慶は自身は義輝との一定の距離を置きつつ、三好氏の新当主となった義長(義興)と義輝の間で新たな関係を構築することで関係の安定化を図ったとみられている<ref>{{Cite journal |和書|author=天野忠幸 |date=2006 |title=三好政権と将軍・天皇 |journal=織豊期研究 |issue=8号}}/所収:{{Cite book |和書|author=天野忠幸 |date=2015 |title=増補版 戦国期三好政権の研究 |publisher=清文堂|isbn=978-4-7924-1039-1}}</ref>。<br />
<br />
=== 将軍親政 ===<br />
[[ファイル:Ashikaga_yoshiteru.jpg|240px|thumb|足利義輝木像(等持院霊光殿所蔵)]]<br />
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。[[伊達晴宗]]と[[伊達稙宗|稙宗]](天文17年(1548年))、[[里見義堯]]と[[北条氏康]]<ref>{{Cite journal |和書|author=矢崎勝巳 |date=1991 |title=『彦部家譜』所収里見氏関係文書 |journal=中世房総 |issue=5号}}</ref>(天文19年(1550年))、[[武田信玄|武田晴信]]と[[上杉謙信|長尾景虎]](永禄元年(1558年))、[[島津貴久]]と[[大友義鎮]]、[[毛利元就]]と[[尼子晴久]]<ref>{{Cite journal |和書|author=宮本義己 |authorlink=宮本義己 |date=1974 |title=足利将軍義輝の芸・雲和平調停―戦国末期に於ける室町幕政― |journal=国学院大学大学院紀要 |issue=6輯}}</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=宮本義己 |date=1978 |title=戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって― |journal=日本歴史 |issue=367号}}</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=浅野友輔 |date=2015 |title=戦国期室町将軍足利義輝による和平調停と境目地域―尼子・毛利氏間和平と石見福屋氏の動向― |journal=十六世紀史論叢 |issue=4号}}</ref>(永禄3年([[1560年]]))、[[徳川家康|松平元康]]と[[今川氏真]]<ref>{{Cite journal |和書|author=宮本義己 |date=2003 |title=松平元康<徳川家康>の早道馬献納―学説とその典拠の批判を通して― |journal=大日光 |issue=73号}}</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=柴裕之 |authorlink=柴裕之 |date=2005 |title=永禄期における今川・松平両氏の戦争と室町幕府―将軍足利義輝の駿・三停戦令の考察を通じて― |journal=地方史研究 |issue=315号}}</ref>(永禄4年([[1561年]]))、毛利元就と大友宗麟<ref>{{Cite journal |和書|author=宮本義己 |date=1974 |title=足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下) |journal=政治経済史学 |issue=102号・103号}}</ref> (永禄6年([[1563年]]))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と[[北条氏政]]と武田晴信(永禄7年([[1564年]]))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。<br />
<br />
また懐柔策として、大友義鎮を筑前・[[豊前国|豊前]]守護、[[毛利隆元]]を[[安芸国|安芸]]守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。さらに自らの名の[[偏諱]](1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を[[細川幽斎|細川藤孝]](幽斎)や[[筒井順慶|筒井藤勝]](順慶)、足利一門の[[足利藤氏]]・[[足利藤政|藤政]]などに、「輝」の字を[[毛利輝元]]・[[伊達輝宗]]・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である[[足利輝氏]]などに与えた。また[[島津義久]]、[[武田義信]]などのように[[足利将軍家]]の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。<br />
<br />
永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎との[[川中島の戦い]]が起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任するが信玄はさらに景虎の信濃撤退を求め、義輝は景虎の信濃出兵を認め、永禄4年(1561年)には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・[[小笠原長時]]の帰国支援を命じている。また長尾景虎の[[関東管領]]就任の許可、[[御相伴衆]]を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、[[斎藤義龍]]、今川氏真、三好長慶、三好義興、[[武田信虎]]らを任じた。<br />
<br />
=== 治世 ===<br />
[[File:Yoshiteru kougenin.jpg|200px|thumb|足利義輝肖像([[土佐光吉]]筆、[[光源院]]蔵)]]<br />
永禄元年(1558年)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発する[[畠山高政]]と六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死する([[久米田の戦い]])と、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。<br />
<br />
こうした中、永禄5年([[1562年]])に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の[[伊勢貞孝]]が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく[[摂津晴門]]を政所執事とした。これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれた。これによって、かつての3代将軍、[[足利義満]]の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による[[政所]]掌握への道を開いた。<br />
<br />
永禄2年(1559年)、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である(この時、大友義鎮は[[豊後国|豊後]]・豊前・[[筑後国|筑後]]・筑前・[[肥後国|肥後]]・[[肥前国|肥前]]の守護および[[日向国|日向]]の半国守護を兼ねていた)。<br />
<br />
永禄7年([[1564年]])7月に長慶が病死。義輝はこれを機に幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。<br />
<br />
=== 最期 ===<br />
しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と[[三好三人衆]]にとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。<br />
<br />
久秀の長男・[[松永久通]]と三人衆は[[足利義稙]]の養子・[[足利義維]](義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・[[足利義栄|義栄]](義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年([[1563年]])の[[観音寺騒動]]以降、領国の近江を離れられなくなっていた。<br />
<br />
永禄8年([[1565年]])5月19日、久通と三好三人衆は主君・[[三好義継]](長慶の養嗣子)とともに[[清水寺]]参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い[[二条御所]]に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入した([[永禄の変]])。義輝は自ら[[薙刀]]を振るい、その後は刀を抜いて奮戦したが衆寡敵せず、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された([[ルイス・フロイス]]『日本史』第65章)。最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害したとも、または槍で足を払われ、倒れたところを上から刺し殺されたともいう。事件の際に在京していた[[山科言継]]の『[[言継卿記]]』には、義輝が「生害」したと記されており、討死したとも自害したともとることができる(『言継卿記』5月19日条)。後世には、[[松永貞徳]]の『[[戴恩記]]』などの御所を囲まれて切腹したというものや、『[[常山紀談]]』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようになる。享年30(満29歳没)。<br />
<br />
この時、[[進士晴舎]]といった多くの奉公衆や摂津晴門の嫡子・[[摂津糸千代丸|糸千代丸]]も一緒に討死・自害にした。また、義輝の生母である[[慶寿院]]も殉死している。<br />
<br />
[[辞世]]は「五月雨は 露か涙か [[ホトトギス|不如帰]] 我が名をあげよ 雲の上まで」<br />
<br />
義輝の死後、永禄10年([[1567年]])2月10日に上京の[[真如堂]]で義輝追善の[[六斎踊]]が挙行され、摂津や近江坂本から集った2,800人が鉦鼓を鳴らし、貴賤を問わず男女合わせて7、8万人の群衆が参加してその死を悼んだ(『言継卿記』2月10日条)。また、同年10月にも真如堂で安芸から来た600人が義輝の奉公衆や女房衆に扮し、行列を組んで風流踊を行っている(『言継卿記』10月7日条)。[[今谷明]]は、「町の人々が義輝を追悼する踊りによって三好三人衆政権への抵抗を示した」と解釈している<ref>{{Cite book |和書|author=今谷明 |authorlink=今谷明 |date=2002 |title=戦国時代の貴族-「言継卿記」が描く京都- |series=講談社学術文庫}}</ref>。<br />
<br />
== 年表 ==<br />
※ 日付=旧暦<br />
* [[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])<br />
** 7月27日、従五位下に叙す。<br />
** 11月19日、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官。<br />
** 12月19日、元服し、義藤を名乗る。<br />
** 12月20日、従四位下征夷大将軍宣下。<br />
* 天文16年([[1547年]])<br />
** 2月17日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。<br />
* 天文23年([[1554年]])<br />
** 2月12日、従三位に昇叙し、名を義輝と改める。<br />
* [[永禄]]8年([[1565年]])<br />
** 5月19日、薨去。<br />
** 6月7日、贈従一位、左大臣。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
[[ファイル:Ashikaga5628.JPG|thumb|200px|斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址]]<br />
* 宣教師[[ルイス・フロイス]]は、義輝を「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評している(『[[フロイス日本史]]』第65章)。<br />
* 剣豪として名を馳せていた[[塚原卜伝]]から指導を受けた直弟子の一人である{{Efn|後に[[柳生宗矩]]が[[細川忠利]]に門弟である[[雲林院弥四郎]]を推挙した際の書状において、上方における卜伝の直門として弥四郎の父・[[雲林院松軒]]と共に、義輝と北畠具教の名を挙げている。}}。奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかと言われている。ただし卜伝はこの他に[[北畠具教]]や細川藤孝などにも授けており、必ずしも奥義を極めたとは断言できず、免許を皆伝したという記録もない{{Efn|[[新当流]]の伝承では、卜伝が「唯授一人」の一之太刀を伝授した相手は北畠具教としている。また、卜伝本人からではないが、[[徳川家康]]も、その直門である松岡則方から一之太刀を伝授されている。}}。<br />
*永禄の変の際、フロイスの『日本史』では「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた。その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った。その奮戦ぶりはさながら勝利を目前にしている者にも劣らなかった」と記されている(『[[フロイス日本史]]』第65章)。信長旧臣の[[太田牛一]]が著した『[[信長公記]]』でも「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ、公方様御働き候」と記されている。また、『[[日本外史]]』には「足利家秘蔵の刀を畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った」という記述も存在するが、これは義輝の死からかなりのちの時代(江戸時代後期)に記されたものである上、永禄の変に最も近い時期の史料には「名刀を取り替えて戦った」という記述自体が存在しないことから、創作の要素が極めて強く信憑性に欠けるものとされる。この『日本外史』による誇張が、義輝の評価を実像からかけ離れさせ、一人歩きさせた要因ともいえる。<br />
* 義輝は武衛陣(斯波武衛家旧邸)に室町幕府の拠点を移した将軍としても知られる。斯波武衛家の旧邸は室町中御門にあり、義輝の御所は室町中御門第とよばれる。のちに大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観となったため、旧[[二条城]]と呼ばれることもある。<br />
* 天文23年([[1554年]])には[[大友氏]]から[[鉄砲]]と[[火薬]]の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり、永禄3年([[1560年]])には[[ガスパル・ヴィレラ]]に[[キリスト教]]の布教を許している。<br />
* 永禄8年(1565年)、[[正親町天皇]]は京都から[[イエズス会]]を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した<ref>[[ベン・アミー・シロニー]]『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』[[大谷堅志郎]]訳、146頁(第4章「非力で女性的な天皇像」、10「非力な天皇の秘めたる強さ」「ふたりの元首―信長と正親町天皇」)</ref>{{Efn|『フロイス日本史』第1部66章および67章や、宣教師の書簡集などには、義輝の死後、竹内季治などの[[法華宗]]徒が松永久秀などに働きかけて正親町天皇を動かし、イエズス会の宣教師を京都から追放する勅令状を発行させることに成功し、宣教師は都を追われたという記述があるが、同書や彼らの書簡には義輝の生前に天皇より宣教師やイエズス会の会員を京都から追放する命令が出たという記述はない。}}。<br />
<br />
== 系譜 ==<br />
一般には一男二女とされ、息子は[[足利輝若丸|輝若丸]](永禄5年([[1562年]])4月生 - 同年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]没)のみであるが、非公式に義輝の息子といわれる人物が2名知られている。<br />
* 細川藤孝の孫で[[熊本藩]]主となった[[細川忠利|忠利]]は、[[讃岐国]][[高松藩]][[生駒氏]]の下で閑居していた[[尾池義辰]](玄蕃、義輝の遺児といわれる{{Efn|『三百藩家臣人名事典』第七巻([[新人物往来社]])では義昭の弟としている。}})を探し出し熊本に迎えて、100石扶持を与えた。忠利は、熊本藩の客分・[[宮本武蔵]]とともに義辰を[[山鹿温泉]]の新築の御茶屋(別荘)に招くなどした。その長男の[[西山至之|尾池伝右衛門]]は西山氏を名乗り、知行1,000石、比着座同列定席の家格にて奉行などを務め、子孫は明治に至る。<br />
* 他の子としては、義輝暗殺の際に家臣に保護され[[丹波国]]の[[波多野氏]]の下で養育されたという足利義高(出家して[[天誉]])がいたと伝わる。<br />
<br />
== 墓所・肖像 ==<br />
[[ファイル:Ashikaga_yoshiteru2.jpg|200px|thumb|足利義輝像紙形([[土佐光吉]]筆、[[京都市立芸術大学]]芸術資料館蔵)]]<br />
; 墓所<br />
: 法号は光源院融山道圓。供養塔が[[山口県]][[山口市]]の[[俊龍寺]]にある。<br />
; 肖像<br />
:* 肖像画<br />
:** [[国立歴史民俗博物館]]本([[直垂]]姿。[[重要文化財]])<br />
:** [[真正極楽寺]]本(歴博本と同図様)<br />
:** [[光源院]]本([[束帯]]姿)<br />
:** [[益田氏|益田家]]本(束帯姿)<br />
:: 他に、源弐([[土佐光吉]])の写したという頭部の下絵(紙形)が[[京都市立芸術大学]]所蔵の土佐家資料の中に現存する。国立歴史民俗博物館本や真正極楽寺本は、これを粉本として制作されたと考えられている。<br />
:* 木像 - [[等持院]]像、[[鑁阿寺]]像<br />
<br />
== 偏諱を受けた人物 ==<br />
: ※ >より右の人物は偏諱を受けた者から「義」「輝」の字を与えられた子息・家臣を示す。<br />
===公家===<br />
*[[日野輝資|日野'''輝'''資]]<br />
<br />
===武家===<br />
====「義」の字====<br />
* [[赤松義祐|赤松'''義'''祐]]<br />
* [[朝倉義景|朝倉'''義'''景]]<br />
* [[足利義氏 (古河公方)|足利'''義'''氏]]<br />
* [[尼子義久|尼子'''義'''久]]<br />
* [[大内義長|大内'''義'''長]]<br />
* [[相良義陽|相良'''義'''陽]]<br />
*[[島津義虎|島津'''義'''虎]](晴久→義俊→義虎)<br />
* [[島津義久|島津'''義'''久]]<br />
* [[武田義信|武田'''義'''信]]<br />
* [[武田義統|武田'''義'''統]]<br />
* [[松永久通|松永'''義'''久]](久通、義輝殺害後に久通に戻す)<br />
* [[三好義興|三好'''義'''興]](慶興→義長→義興)>[[三好義資]]<br />
* [[三好義継|三好'''義'''継]](義存→義重→義継)>[[三好義兼]]、[[三好義茂|義茂]]<br />
* [[最上義光|最上'''義'''光]]<br />
* [[六角義治|六角'''義'''治]]<br />
<br />
====「藤」の字====<br />
* [[足利藤氏|足利'''藤'''氏]]<br />
* [[足利藤政|足利'''藤'''政]]<br />
* [[一色藤長|一色'''藤'''長]]<br />
* [[大舘藤安|大舘'''藤'''安]]<br />
* [[朽木藤綱|朽木'''藤'''綱]]<br />
* [[治部藤通|治部'''藤'''通]]<br />
* [[進士藤延|進士'''藤'''延]]<br />
* [[武田藤信|武田'''藤'''信]]<br />
* [[筒井順慶|筒井'''藤'''勝]](のち藤政、順慶)<br />
* [[長尾藤景|長尾'''藤'''景]]<br />
* [[細川藤賢|細川'''藤'''賢]]<br />
* [[細川幽斎|細川'''藤'''孝]](幽斎)<br />
* [[益田藤兼|益田'''藤'''兼]]<br />
* [[松田藤弘|松田'''藤'''弘]]<br />
* [[松田藤頼|松田'''藤'''頼]]<br />
* [[三淵藤英|三淵'''藤'''英]](藤之→藤英)<br />
* [[山名藤幸|山名'''藤'''幸]]<br />
<br />
====「輝」の字====<br />
* [[足利輝氏|足利'''輝'''氏]]<br />
* [[荒川輝宗|荒川'''輝'''宗]]<br />
* [[一色輝清|一色'''輝'''清]]<br />
* [[一色輝季|一色'''輝'''季]]<br />
* [[一色輝範|一色'''輝'''範]]<br />
* [[一色輝元|一色'''輝'''元]](輝光)<br />
* [[一色輝喜|一色'''輝'''喜]]<br />
* [[上杉謙信|上杉'''輝'''虎]](謙信)> [[長尾輝景]]<br />
* [[上野輝清|上野'''輝'''清]]<br />
* [[上野輝加|上野'''輝'''加]](豪為)<br />
* [[江馬輝盛|江馬'''輝'''盛]]<br />
* [[大舘輝光|大舘'''輝'''光]]<br />
* [[小野寺景道|小野寺'''輝'''道]](景道)<br />
* [[大内輝弘|大内'''輝弘]]<br />
* [[太田垣輝延|太田垣'''輝'''延]]<br />
* [[金山輝実|金山'''輝'''実]]<br />
* [[朽木輝孝|朽木'''輝'''孝]]<br />
* [[千秋輝季|千秋'''輝'''季]]<br />
* [[武田輝信|武田'''輝'''信]]<br />
* [[伊達輝宗|伊達'''輝'''宗]]<br />
* [[富樫輝光|富樫'''輝'''光]]<br />
* [[二階堂照行|二階堂'''輝'''行]](照行)<br />
* [[仁木輝綱|仁木'''輝'''綱]](河端輝綱)<br />
* [[稗貫輝時|稗貫'''輝'''時]](輝家、輝忠)<br />
* [[彦部輝信|彦部'''輝'''信]]<br />
* [[細川輝経|細川'''輝'''経]]<br />
* [[細川通政|細川'''輝'''政]](通政)<br />
* [[毛利輝元|毛利'''輝'''元]]<br />
<br />
== 義輝を題材とした作品 ==<br />
; 小説<br />
*[[宮本昌孝]]『剣豪将軍義輝』上、中、下(徳間文庫、2000年)<br />
**上 鳳雛ノ太刀 ISBN 4198912475、中 孤雲ノ太刀 ISBN 4198912661、下 流星ノ太刀 ISBN 419891284X<br />
**舞台化作品『剣豪将軍義輝~戦国に輝く清爽の星~』(2016年)<br />
*宮本昌孝『義輝異聞 将軍の星』(徳間文庫、2003年) ISBN 4198918929<br />
*[[宮城賢秀]]『将軍義輝の死』(角川春樹事務所(ハルキ文庫)、2005年) ISBN 4758431809<br />
*[[池宮彰一郎]] 『無明長夜の剣』([[講談社]]『風塵』収録)<br />
<br />
== 関連作品 ==<br />
;テレビドラマ<br />
*[[信長 KING OF ZIPANGU]]([[1992年]]、NHK大河ドラマ、演:[[宮田恭男]])<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
=== 注釈 ===<br />
{{Notelist}}<br />
<br />
=== 出典 ===<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
{{commonscat|Ashikaga Yoshiteru}}<br />
*[[将軍山城]]<br />
*[[東山霊山城]]<br />
*[[畿内・近国の戦国時代]]<br />
<br />
<br />
{{足利宗家歴代当主|1546年 - 1565年||第20代}}<br />
{{征夷大将軍}}<br />
{{室町幕府将軍}}<br />
{{Normdaten}}<br />
{{DEFAULTSORT:あしかか よしてる}}<br />
[[Category:将軍足利氏|よしてる]]<br />
[[Category:室町幕府の征夷大将軍|よしてる]]<br />
[[Category:剣客]]<br />
[[Category:暗殺された人物]]<br />
[[Category:1536年生]]<br />
[[Category:1565年没]]</div>
114.160.220.208
黒田斉清
2018-04-13T21:58:49Z
<p>114.160.220.208: </p>
<hr />
<div>{{基礎情報 武士<br />
| 氏名 = 黒田 斉清<br />
| 画像 = Kuroda Narikiyo.jpg<br />
| 画像サイズ = 200px<br />
| 画像説明 = 黒田斉清像([[福岡市博物館]]蔵)<br />
| 時代 = [[江戸時代]]後期<br />
| 生誕 = [[寛政]]7年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]([[1795年]][[3月26日]])<br />
| 死没 = [[嘉永]]4年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]([[1851年]][[2月26日]])<br />
| 改名 = 幼名:松次郎、初名:長順→斉清<br />
| 別名 = 通称:官兵衛、号:楽善堂<br />
| 諡号 =<br />
| 神号 =<br />
| 戒名 = 乾竜院利山道見<br />
| 霊名 =<br />
| 墓所 = [[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]([[福岡県]][[福岡市]][[博多区]])<br />[[天真寺]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[麻布]])<br />
| 官位 = 従四位下、左近衛権少将、[[備前国|備前]]守<br />
| 幕府 = [[江戸幕府]]<br />
| 主君 = [[徳川家斉]]、[[徳川家慶]]<br />
| 藩 = [[筑前国|筑前]][[福岡藩]]主<br />
| 氏族 = [[黒田氏]]<br />
| 父母 = 父:[[黒田斉隆]]<br/>母:新間の方(真妙院、藩儒学者[[渡辺忠蔵]]養女)<br />
| 兄弟 =<br />
| 妻 = 正室:'''福子'''(宝林院、[[二条治孝]]娘)<br />側室:河合氏、ほか<br />
| 子 = 純姫([[黒田長溥]]正室)、養嗣子:'''''[[黒田長溥]]'''''<br />
| 特記事項 =<br />
}}<br />
'''黒田 斉清'''(くろだ なりきよ)は、[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]の第10代藩主。[[蘭癖]]大名のひとりとして知られる。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
寛政7年2月6日(1795年3月26日)、[[福岡藩]]第9代藩主・[[黒田斉隆|斉隆]]の長男として[[福岡城]]にて誕生。母は側室・新間の方(真妙院)。同年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]([[11月17日]])、父・斉隆の死去により幼くして家督を相続した。幼名は松次郎。初名は'''長順'''で、藩主就任時に将軍[[徳川家斉]]から[[偏諱]]を賜って'''斉清'''に改名した。<br />
<br />
[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])、[[ロシア帝国]]の使節として[[ニコライ・レザノフ]]が長崎に来航する。文化5年8月([[1808年]]10月)、[[長崎港]]に[[イギリス海軍]]の軍艦が侵入する[[フェートン号事件]]が発生した。[[佐賀藩]]が長崎警固の兵力を無断に減らしていたため処罰を受け、急遽、福岡藩が佐賀藩の分担分も警固することになり、費用負担が増大した。[[文政]]2年([[1819年]])、蘭学者で藩士の[[安部龍平]]を直礼城代組に抜擢し、長崎詰役とした。文政5年([[1822年]])、斉清は若年ながら眼病を患い、[[薩摩藩]]主・[[島津重豪]]の九男・斉溥(後の[[黒田長溥|長溥]])を娘の純姫と婚姻させ、婿養子という形で迎え養嗣子とした。<br />
<br />
文政10年([[1827年]])、安部龍平の蘭学の師である[[志筑忠雄]]が口述訳した「二国会盟録」を提出させる。文政11年([[1828年]])、長崎に派遣された藩兵を視察した際にオランダ商館を訪問し、商館の附属医である[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]に、薬学から動植物・世界地理・文化風習など広く[[博物学#本草学|本草学]]分野に関して対話した。シーボルトは斉清に対して、本来は医師などが行えばいい博物学を、藩公が自ら学ぶ意義について質問したところ、斉清は「外国ノ形勢、風俗ノ淑慝、人類ノ強弱、法政、蕃育ノ得失、奇品異類ノ形状」を知ることで国防に役立てようとしている、と答えている。これらの問答を龍平に編集させ、『下問雑戴』に纏めさせた。更に、シーボルトに礼として、参勤交代の途中で蒐集した[[押し葉標本]]を与え、この標本は[[ライデン]]の国立[[ハーバリウム]]に収蔵されている。また、[[福岡市美術館]]には斉清筆と伝わる、原寸大の「鵞鳥図」が所蔵されている。<br />
また、藩の御用絵師、[[尾形洞谷]]に命じて藩祖の[[黒田孝高|黒田如水]]縁の家臣団、[[黒田二十四騎]]図を新たに作成している。<br />
<br />
文政12年([[1829年]])以降は長崎警固を養嗣子・斉溥にあたらせる。[[天保]]2年([[1831年]])、龍平に自身の海防論を纏めた書、『海寇窃策』を編纂・補完させる。<br />
<br />
天保3年([[1832年]])3月頃、斉清は重臣・[[黒田播磨]]に隠居の相談を持ちかけ、翌年11月頃、藩内に隠居の意向を公表した。天保5年([[1834年]])[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]、養嗣子・斉溥に家督を譲って隠居した。当時、失明に近い状態であったという。<br />
<br />
天保4年([[1833年]])、財政改革の意見書公募を行い、眼医者の[[白水養禎]]が提出した、大量の[[藩札]]を発行し領民に貸し付け、米で返済させ、払い下げた米の代金により藩札の回収を行う、とする御家中並郡町浦御救仕法が採用され、翌天保5年(1834年)、養禎を御救奉行に任じ、家老・久野外記や花房伝左衛門らと共にこれに当たらせた。領地筑前福岡の民に江戸から[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]、成田屋一門を招聘し[[歌舞伎]]を半年に渡り興行、他に人形浄瑠璃、相撲、富くじ、等を催して藩札の使用を促したが、交換価値が暴落し改革は失敗し道半ばであった。天保7年([[1836年]])、外記は任を退き、養禎は逼塞とされたが、この時の天保の博多の賑わいが当時の商人の記録に残っている。[[博多をどり]]の起源ともされる。<br />
<br />
嘉永4年(1851年)1月26日、江戸桜田の上屋敷にて死去。[[享年]]57。法号は乾竜院利山道見。<br />
<br />
なお、斉清は[[蘭学]]や[[博物学#本草学|本草学]]に詳しい教養人であり、[[富山藩]]主・[[前田利保]]とともに博物大名として知られた。とくに鳥類に強い関心を抱き、幼少のときからアヒルを飼育したという。著書に『鷲経』、『鴨経』、『駿遠信濃卉葉鑑』などがあるほか、[[小野蘭山]]の『本草綱目啓蒙』の補訂書である『本草啓蒙補遺』を残した。のち子孫に[[鳥類学者]]を出すなど、黒田家歴代当主の鳥好きの先鞭を付けたといえる。<br />
<br />
福岡藩では、先代斉隆の治世中に引き続き、斉清時代にも[[播磨国]][[姫路]]に於ける黒田家先祖の廟所整備が行われ、享和2年(1802年)、黒田如水の祖父にあたる[[黒田重隆]]、実母の[[明石正風]]娘の廟所が造営されている。現在黒田家廟所として、[[姫路市]][[指定文化財]]となっている。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*宮崎克則・原三枝子「黒田斉清・黒田長溥―好学・開明的なふたりの藩主」、『九州の蘭学-越境と交流』、193-99頁。<br>[[ヴォルフガング・ミヒェル]]・[[鳥井裕美子]]・[[川嶌眞人]] 共編(京都:[[思文閣出版]]、[[2009年]])。ISBN 9784784214105<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[蘭癖]]<br />
*[[本草学]]<br />
<br />
<br />
{{福岡藩主|10代|1795年 - 1834年}}<br />
{{DEFAULTSORT:くろた なりきよ}}<br />
[[Category:黒田氏|なりきよ]]<br />
[[Category:福岡藩主|なりきよ]]<br />
[[Category:視覚障害を持つ人物]]<br />
[[Category:1795年生]]<br />
[[Category:1851年没]]</div>
114.160.220.208
黒田斉隆
2018-04-13T21:55:28Z
<p>114.160.220.208: </p>
<hr />
<div>{{基礎情報 武士<br />
| 氏名 = 黒田 斉隆<br />
| 画像 = KurodaNaritaka.jpg<br />
| 画像サイズ = 220px<br />
| 画像説明 = 「黒田斉隆像」<br /> 尾形洞谷画 寰海宗晙賛<br />[[福岡市美術館]]蔵 寛政8年([[1796年]])<br />
| 時代 = [[江戸時代]]中期<br />
| 生誕 = [[安永]]6年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]([[1777年]][[10月21日]])<br />
| 死没 = [[寛政]]7年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]([[1795年]][[8月7日]])<br />
| 改名 = 幼名:雅之助<br />
| 別名 =<br />
| 諡号 =<br />
| 神号 =<br />
| 戒名 =<br />
| 霊名 =<br />
| 墓所 = [[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]]([[福岡県]][[福岡市]])<br />
| 官位 = 従四位下侍従・筑前守<br />
| 幕府 = [[江戸幕府]]<br />
| 主君 = [[徳川家斉]]<br />
| 藩 = [[筑前国|筑前]][[福岡藩]]主<br />
| 氏族 = [[一橋徳川家]]→[[黒田氏]]<br />
| 父母 = 父:[[徳川治済]]<br/>母:[[お富の方|於富]](岩本正利の娘)<br />養父:''[[黒田治高]]'' <br />
| 兄弟 = [[徳川家斉]]、[[徳川治国]]、'''黒田斉隆'''、雄之助、[[徳川斉匡]]、[[徳川斉敦]]、[[松平義居]]、久之助、本之丞<br />
| 妻 = 正室:なし<br />側室:駒子(真妙院、藩儒学者・渡辺忠蔵養女)<br />
| 子 = '''[[黒田斉清]]''' <br />
| 特記事項 =<br />
}}<br />
'''黒田 斉隆'''(くろだ なりたか)は、[[江戸時代]]後期の[[大名]]。[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]第9代藩主。<br />
<br />
== 生涯 ==<br />
[[安永]]6年([[1777年]])9月21日、[[江戸城]]内一橋邸にて生まれる。[[一橋徳川家]]第2代当主・[[徳川治済]]の三男で、母は側室・[[お富の方]]。第11代将軍[[徳川家斉]]は実兄で同母。福岡藩第7代藩主・[[黒田治之]]の甥に当たる。幼名は、'''雅之助''' 。<br />
<br />
[[天明]]2年([[1782年]])12月19日、福岡藩主・[[黒田治高]]の[[末期養子]]として僅か5歳で福岡藩黒田家の家督を相続する。のちに実兄、家斉から[[偏諱]]を授かり、諱名を'''斉隆'''とした。<br />
<br />
父の[[徳川治済|治済]]は将軍実父として、幕府内において隠然たる大きな影響力を持っており、先代の[[黒田治高|治高]]が死去前に養子として指名していた事や弟の先々代[[黒田治之|治之]]との繋がりから両家の重臣と話合いを持ち、息子の三男、雅之助(後の斉隆)を幼いまま、福岡藩黒田氏の養子に入れた。斉隆は若くして死去したため正室はいないが、[[側室]]の真妙院との間に、第10代藩主・斉清がいる。幼い頃より文学に嗜み、儒学を好んだ。側室・駒子(真妙院)の養父、福岡藩士で儒学者の渡辺忠蔵は藩が警護していた[[長崎市|長崎]]にて[[平賀源内]]と問答をしている記録が残る。また、側室の駒子は、先々代、治之の正室、亀姫[[瑤津院]]の計らいにより、藩主生母として、新間の方(しんまのかた)と呼ばれた。 <br />
<br />
天明3年([[1783年]])、福岡藩領内に重臣等の献策もあり、藩儒・[[竹田定良]]と、儒医・[[亀井南冥]]に、[[藩校]]を創建することを命じる。<br />
天明4年([[1784年]])、定良が[[修猷館]](東学問稽古所)(現在の[[福岡県立修猷館高等学校]])、南冥が[[甘棠館]](西学問稽古所)を開館している。<br />
<br />
寛政2年([[1790年]])10月15日、13歳で従四位下侍従・筑前守に叙任する。<br />
<br />
寛政5年、領地福岡に入る。<br />
翌年、領内を巡見し、領民の暮らしぶりを見て周り、顕彰をした。<br />
<br />
寛政7年(1795年)、斉隆は聡明で博識な藩主として家老たちからも期待されたが病に伏し6月23日、[[福岡城]]にて死去した。[[享年]]19。<br />
幕府には同年8月24日死去と届け出た。跡を嫡男・松次郎、のちの[[黒田斉清|斉清]]が継いだ。<br />
<br />
また、斉隆の治世中には、黒田家の先祖を祀る事跡があった。<br />
<br />
天明3年には、第3代藩主・[[黒田光之]]に廃された[[黒田綱之]]を祀る[[幹亮権現社]]を創立。同年、初代長政を祀る[[黒崎大明神]]の再興。<br />
藩祖・[[黒田孝高]]の父、[[黒田職隆]]の墓所が[[播磨国|播磨]][[姫路]]にて発見され、二百回忌の法要、および墓所の築造が当地にて行われた。<br />
<br />
{{福岡藩主|9代|1782年 - 1795年}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:くろた なりたか}}<br />
[[Category:黒田氏|なりたか]]<br />
[[Category:一橋徳川氏]]<br />
[[Category:福岡藩主|なりたか]]<br />
[[Category:1777年生]]<br />
[[Category:1795年没]]<br />
{{Japanese-history-stub}}</div>
114.160.220.208
中津藩
2018-04-13T21:51:40Z
<p>114.160.220.208: /* 藩史 */</p>
<hr />
<div>'''中津藩'''(なかつはん)は、[[豊前国]][[下毛郡]]中津(現在の[[大分県]][[中津市]])周辺を領有した[[藩]]。藩庁は[[中津城]]に置かれた(一時、藩庁は[[小倉城]]に移る)。<br />
<br />
== 藩史 ==<br />
[[天正]]15年([[1587年]])の[[豊臣秀吉]]による[[九州征伐]]後、[[播磨国|播磨]][[宍粟]]山崎から[[黒田孝高]]が入部し、12万3,000石(一説には16万石)を領有した。その後、[[関ヶ原の戦い]]で戦功のあった子の[[黒田長政|長政]]が[[慶長]]5年([[1600年]])、[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]に52万3,100石で加増移封された。<br />
<br />
代わって同年、同じく関ヶ原の戦いで東軍方に付いた[[細川忠興]]が[[丹後国|丹後]][[宮津市|宮津]]より39万9,000石で入封し、[[江戸時代|江戸期]]の中津藩が成立した。忠興は慶長7年([[1602年]])、藩庁を[[小倉城]]に移して[[小倉藩]]となる。中津城は支城となり城代が置かれた。[[寛永]]9年([[1632年]])、第2代藩主・[[細川忠利|忠利]]は[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]に移封となった。<br />
<br />
同年、[[播磨国|播磨]][[明石藩]]より[[小笠原忠真]]が[[小倉藩]]主として[[小倉城]]に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前[[中津城]]には忠真の甥・[[小笠原長次|長次]]が播磨[[龍野藩]]より8万石で入封し再び中津城が藩庁となった。[[元禄]]11年([[1698年]])、第3代藩主・[[小笠原長胤|長胤]]は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『[[徳川実紀]]』)により弟の[[小笠原高円|高円]]が半減の4万石をもって跡を継いだ。[[享保]]元年([[1716年]])、第5代藩主・[[小笠原長さと|長邕]]が7歳で夭逝したため、その弟・[[小笠原長興|長興]]が播磨[[安志藩]](1万石)に移封立藩となった。<br />
<br />
享保2年([[1717年]])、[[奥平昌成]]が丹後[[宮津藩]]より10万石で入封。以後、[[明治]]4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・[[小倉県]]・[[福岡県]]を経て大分県に編入された。[[1844年]](弘化元年)、[[藩校]]『[[進脩館]]』に[[小幡篤次郎]]が入門、明治4年に[[福沢諭吉]]の弟子となり、校長に就任。のちに『[[中津市学校]]』に改組され9代藩主・[[奥平昌邁]]と共に藩士らは[[江戸藩邸]]の[[慶應義塾]]へ移った。<br />
<br />
奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『[[解体新書]]』を著した[[前野良沢]]、下級藩士出身の[[福澤諭吉]]がいる。また、福沢とは親戚にあたる[[増田宋太郎]]の2名をして、郷土の英雄として位置付けられている。[[西南戦争]]の時には旧中津藩士によって[[中津隊]]が結成され、西郷軍に参加した。<br />
<br />
== 歴代藩主 ==<br />
=== 黒田家 ===<br />
[[ファイル:Japanese Crest Kuroda Fuji tomoe.svg|50px]]<br />
[[外様大名|外様]] 12万3千石 (1587年 - 1600年)<br />
石高は16万石とも、検地後は18万石とも説がある<br />
#[[黒田孝高|孝高]]<br />
#[[黒田長政|長政]]<br />
<br />
=== 細川家 ===<br />
[[File:Japanese Crest Hosokawa Kuyou.svg|50px]]<br />
外様 39万9千石 (1600年 - 1632年)<br />
#[[細川忠興|忠興]]<br />
#[[細川忠利|忠利]] 〈小倉藩〉<br />
<br />
=== 小笠原家 ===<br />
[[File:Mon ogasawara.svg|50px]]<br />
[[譜代大名|譜代]] 8万石→4万石 (1632年 - 1716年)<br />
#[[小笠原長次|長次]]<br />
#[[小笠原長勝|長勝]]<br />
#[[小笠原長胤|長胤]]<br />
#[[小笠原長円|長円]] 4万石に減知<br />
#[[小笠原長さと|長邕]]<br />
<br />
=== 奥平家 ===<br />
[[ファイル:Nakatu Uchiwa(No background and Black color drawing).svg|50px]]<br />
譜代 10万石 (1717年 - 1871年)<br />
#[[奥平昌成|昌成]]<br />
#[[奥平昌敦|昌敦]]<br />
#[[奥平昌鹿|昌鹿]]<br />
#[[奥平昌男|昌男]]<br />
#[[奥平昌高|昌高]]<br />
#[[奥平昌暢|昌暢]]<br />
#[[奥平昌猷|昌猷]]<br />
#[[奥平昌服|昌服]]<br />
#[[奥平昌邁|昌邁]]<br />
<br />
== 幕末の領地 ==<br />
* [[豊前国]]<br />
** [[宇佐郡]]のうち - 129村<br />
** [[下毛郡]]のうち - 77村<br />
** [[上毛郡]]のうち - 22村<br />
* [[備後国]]<br />
** [[甲奴郡]]のうち - 12村<br />
** [[安那郡]]のうち - 2村<br />
** [[神石郡]]のうち - 22村<br />
* [[筑前国]]<br />
** [[怡土郡]]のうち - 32村<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*『藩史総覧』 [[児玉幸多]]・[[北島正元]]/監修 [[新人物往来社]] [[1977年]]<br />
*『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』[[新人物往来社]]、[[1997年]] ISBN 978-4404025241<br />
*中嶋繁雄著『大名の日本地図』[[文春新書]]、[[2003年]] ISBN 978-4166603527<br />
*『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 [[八幡和郎]]/著 [[光文社新書]] [[2004年]]<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
*[[進脩館]]、[[中津市学校]]<br />
*[[慶應義塾]]<br />
*[[中西派一刀流]]<br />
*[[東軍流]]<br />
*[[自性寺]] <br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://www.nakatsujyo.jp/ 中津城公式ホームページ]<br />
*[http://www.city-nakatsu.jp/ 中津市ホームページ]<br />
<br />
{{s-start}}<br />
{{s-bef|before=([[豊前国]])|表記=前}}<br />
{{s-ttl|title=行政区の変遷 <br />
|years=[[1600年]] - [[1871年]]|years2=中津藩→中津県}}<br />
{{s-aft|after=[[小倉県]]|表記=次}}<br />
{{end}}<br />
{{江戸時代の藩}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:なかつはん}}<br />
[[Category:中津藩|*]]<br />
[[Category:藩]]<br />
[[Category:豊前国|藩なかつ]]<br />
[[Category:備後国|藩なかつ]]<br />
[[Category:筑前国|藩なかつ]]<br />
[[Category:奥州細川氏|藩なかつ]]<br />
[[Category:小笠原氏|藩なかつ]]<br />
[[Category:奥平氏|藩なかつ]]<br />
[[Category:中津市の歴史]]</div>
114.160.220.208
奥平氏
2018-04-13T14:15:49Z
<p>114.160.220.208: /* 奥平松平家 */</p>
<hr />
<div>{{日本の氏族<br />
|家名= 奥平氏<br />
|家紋= Japanese Crest Okudaira Uchiwa.svg<br />
|家紋名称= 奥平唐団扇<br />
|本姓= '''称'''・[[村上源氏]][[赤松氏|赤松氏流]]<br/>[[丈部氏|丈部姓]][[有道氏|有道氏流]][[児玉党|児玉氏]]一門[[片山氏]]支流<br />
|家祖= [[奥平定家]]<br />
|種別= [[武家]]<br>[[華族]]([[伯爵]])<br />
|出身地= [[三河国]][[南設楽郡]][[作手村|作手]]<br />
|根拠地= [[三河国]][[南設楽郡]][[作手村|作手]]<br/>三河国[[額田郡]][[額田町|額田]]<br/>[[上野国]][[甘楽郡]]<br/>[[美濃国]][[加納城]]<br/>[[下野国]][[宇都宮城]]<br/>[[豊前国]][[中津城]]<br />
|人物= [[奥平定能]](貞能)<br/>[[奥平信昌]](貞昌)<br/>[[松平忠明]]<br/>[[奥平忠昌]]<br/>[[奥平昌鹿]]<br/>[[奥平昌高]]<br />
|支流= <br />
}}<br />
'''奥平氏'''(おくだいらし)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[三河国|三河]]北東部の作手地方(現・[[新城市]])を中心に活動した日本の氏族の一つ。<br />
<br />
<br />
__TOC__{{-}}<br />
== 出自 ==<br />
[[今川氏]]や[[織田氏]]、[[松平氏]]、[[武田氏]]を経て、[[徳川氏]](松平より改姓)に臣従した。出自には各説がある。<br />
# [[村上源氏]]の後裔と自称した[[赤松氏]]の一族と称した([[樋口清之]]・[[丹羽基二]]『姓氏』)。<br />
# [[丈部氏|丈部姓]][[有道氏|有道氏流]][[児玉党|児玉氏]]一門[[片山氏]]の支流という([[太田亮]]『姓氏家系大辞典』)。<br />
<br />
家伝では[[上野国|上州]]が発祥地と言われている。その後、上州の所領を放棄して、[[三河国|三州]]に新天地を求め転住したと伝わっている(『[[中津藩]]史』、『[[寛政重修諸家譜]]』)。<br />
<br />
その三州転住後では、[[奥平貞昌]]の大叔父、叔父、弟、甥の4世代で支族を分出するが、それでも命脈を細々と保っているという境遇に変わりは無かった。そこで[[宗家]]は、彼らを独立させるよりも奥平氏の重臣として厚遇することで、弱体化を防止した。その4世代の内から、有力7家が重責を担う事となった。それと平行して、奥平氏以上に弱小な在地の領主なども重臣として併呑。小領主は5氏が選ばれた。この12家が、'''七族五老'''と呼ばれる奥平氏の家老衆となるのである。<br />
<br />
== 動向 ==<br />
=== 奥平家 ===<br />
三河山間部の小[[豪族]]に過ぎなかった奥平氏が陽の目を浴びるようになったのは[[奥平定能]](貞能)の代である[[元亀]]年間([[1570年]] - [[1573年]])からである。[[天正]]3年([[1575年]])5月の[[長篠の戦い]]で家運を開いた定能の長男[[奥平信昌]](貞昌)は、[[徳川家康]]の長女・[[亀姫_(徳川家康長女)|亀姫]]の婿に認められる。亀姫との間には4男1女が生まれるが、早世した1子を除き、分家を「徳川家[[御連枝]]」として興すことを許されるなど、信昌の子たちはいずれも家康の外孫として厚遇された。そのため信昌は家康の女婿として上野国[[甘楽郡]][[小幡藩|小幡(宮崎)]]3万石を領し、[[関ヶ原の戦い]]以降は[[美濃国]][[加納藩|加納]]10万石を領した。[[江戸時代]]には大名となり、[[下野国]][[宇都宮藩|宇都宮]]10万石を領した。後に、[[豊前国]][[中津藩|中津]]10万石に移領し、廃藩時まで存続した。<br />
<br />
=== 奥平松平家 ===<br />
[[File:Japanese Crest Kuwana Uchiwa.svg|right|thumb|180px|奥平松平家の家紋(桑名団扇)]]<br />
信昌の末男[[松平忠明]]は、家康の外孫として、また家康の養子として松平姓を許されて奥平松平家を興し、故郷の三河[[作手藩]]の初代藩主となった。しかし[[慶長]]15年([[1610年]])に忠明が[[伊勢国|伊勢]][[伊勢亀山藩|亀山藩]]に移封されたため作手藩は廃藩となり、その所領は[[天領]]となる。以降も忠明には転封が続き、[[摂津国|摂津]][[大坂藩]]、[[大和国|大和]][[郡山藩]]、[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]主(18万石)となった。子である[[松平忠弘]]にも転封が続き、[[出羽国|出羽]][[山形藩]]、下野宇都宮藩、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]、そして10万石に減封のうえ再び出羽山形藩に移されたが隠居した。以後は[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]をへて[[武蔵国|武蔵]][[忍藩]]主として廃藩を迎えた。<br />
<br />
== 七族五老 ==<br />
; 七族<br />
* [[和田奥平家]]<br />
** [[雨山奥平家]] - 和田奥平家の奥平出雲守が[[甲斐国|甲州]]に走ったために代わりに七族におさまる<br />
* [[夏山奥平家]]<br />
* [[萩奥平家]]<br />
* [[田代奥平家]]<br />
* [[中金奥平家]]<br />
* [[日近奥平家]]<br />
* [[稲木奥平家]]<br />
<br />
; 五老<br />
* 山崎家<br />
* 生田家<br />
* 兵藤家<br />
* 黒屋家 - [[奥平正勝]]の入嗣により[[黒屋奥平家]]となる<br />
* 夏目家<br />
<br />
== 系譜 ==<br />
<div class="NavFrame" style="width:100%;"><br />
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">奥平氏</div><br />
<div class="NavContent" style="text-align:left;"><br />
;実線は実子、点線は養子、数字は歴代当主、*は同一人物。<!--構成の都合で出生順より組み替え--><br />
{{familytree/start|style="font-size:85%"}}<br />
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[児玉氏行]]<BR/>([[赤松則景]]の子?)}}<br />
{{familytree |border=0| |!||||||}}<br />
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[奥平吉行]]}}<br />
{{familytree |border=0| |!||||||}}<br />
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[奥平継定|継定]]}}<br />
{{familytree |border=0| |!||||||}}<br />
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[奥平高定|高定]]}}<br />
{{familytree |border=0| |!||||||}}<br />
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[奥平満定|満定]]}}<br />
{{familytree |border=0| |!||||||}}<br />
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[奥平定政|定政]]}}<br />
{{familytree |border=0| |!||||||}}<br />
{{familytree |border=0|01||| 01=[[奥平定家|定家]]<sup>1</sup>}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|.|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02| 01=[[奥平定俊|定俊]]<sup>2</sup><BR/>[''三河転住初代'']|02=[[奥平八郎二郎貞直|八郎二郎貞直]]<BR/>[''[[中金奥平家|中金家]]祖'']}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.|}}<br />
{{familytree |border=0|01|||||||02||||||||||03| 01=[[奥平貞久|貞久]]<sup>3</sup>|02=[[奥平貞盛|貞盛]]<BR/>[''[[和田奥平家|和田家]]祖'']|03=[[奥平定武|定武]]}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.|||!}}<br />
{{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06|07|08| 01=[[奥平貞昌|貞昌]]<sup>4</sup>|02=[[奥平久勝|久勝]]<BR/>[''[[石橋奥平家|石橋家]]祖'']|03= [[奥平久正|久正]]<BR/>[''[[夏山奥平家|夏山家]]祖'']|04=[[奥平主馬允|主馬允]]<BR/>[''[[萩奥平家|萩家]]祖'']|05=[[奥平信丘|信丘]]<BR/>[''[[田代奥平家|田代家]]祖'']|06=[[奥平貞次|貞次]]<BR/>[''[[稲木奥平家|稲木家]]祖'']|07=[[奥平定包|定包]]|08=[[奥平定雄|定雄]]}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|v|-|-|.}}<br />
{{familytree |border=0|01|02|||03||04|05|06| 01=[[奥平貞勝|貞勝]]<sup>5</sup>|02=[[奥平貞直|貞直]]<BR/>[''[[日近奥平家|日近家]]祖'']|03=[[奥平次郎左衛門|次郎左衛門]]<BR/>[''[[鳥川奥平家|鳥川家]]祖'']|04=[[奥平貞行|貞行]]|05=[[松平康定]]室|06=[[阿知波定基]]室}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|.|||!}}<br />
{{familytree |border=0|01|02|03|04|05| 01=[[奥平定能|定能]]<sup>6</sup>|02=[[奥平常勝|常勝]]|03= [[奥平貞国|貞国]]|04= [[奥平貞治|貞治]]|05=[[奥平正勝|正勝]]<BR/>[''[[黒屋奥平家|黒屋家]]祖'']}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|.}}<br />
{{familytree |border=0|01|02|03|04| 01=[[奥平信昌|信昌]]<sup>7</sup>|02=[[本田重純]]室|03=[[奥平仙丸|仙丸]]|04=[[奥平昌勝|昌勝]]}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.}}<br />
{{familytree |border=0|01|02|03|04|05| 01=[[奥平家昌|家昌]]<sup>8</sup>|02=[[松平家治]]|03= [[奥平忠政|忠政]]|04=[[大久保忠常]]室|05=[[松平忠明]]<BR/>[''[[奥平松平家]]祖'']}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|.|||!|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02|03| 01=[[奥平忠昌|忠昌]]<sup>9</sup>| 02=[[ビン姫]]|03=[[奥平忠隆|忠隆]]<BR/>[[[美濃国]][[加納藩]]断絶]}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|.}}<br />
{{familytree |border=0|01|02| 01=[[奥平昌能|昌能]]<sup>10</sup>|02=アキ}}<br />
{{familytree |border=0| |:|||!|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02| 01=*昌章<sup>11</sup>|02=*[[奥平昌章|昌章]]}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|.|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02| 01=[[奥平昌成|昌成]]<sup>12</sup>|02=[[秋元喬房]]室}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|.|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02|03|04| 01=[[奥平昌敦|昌敦]]<sup>13</sup>|02=[[奥平昌純|昌純]]|03=[[奥平万之丞|万之丞]]|04=竹谷[[松平義峯]]}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|.|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02|03| 01=[[奥平昌鹿|昌鹿]]<sup>14</sup>|02=[[池田喜生]]|03=[[山野辺義風]]}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|.|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02| 01=[[奥平昌男|昌男]]<sup>15</sup>|02=[[酒井忠進]]室}}<br />
{{familytree |border=0| |:|}}<br />
{{familytree |border=0|01| 01=[[奥平昌高|昌高]]<sup>16</sup><BR/>[[[薩摩藩]]主、[[島津重豪]]次男]}}<br />
{{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|.}}<br />
{{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06|07|08|09| 01=[[奥平昌暢|昌暢]]<sup>17</sup>|02=[[奥平昌猷|昌猷]]<sup>18</sup>|03=[[奥平圭太郎|圭太郎]]|04=[[生駒親愛]]|05= [[牧野忠直]]|06=[[池田慶政]]|07=[[奥平金之助|金之助]]|08=[[生駒親道]]|09=[[青木一咸]]}}<br />
{{familytree |border=0| |!|||:|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02| 01=*[[奥平昌服|昌服]]|02=*[[奥平昌服|昌服]]<sup>19</sup>}}<br />
{{familytree |border=0| ||||:|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02| 01= |02=[[奥平昌邁|昌邁]]<sup>20</sup><BR>[[[宇和島藩]]主・[[伊達宗城]]4男]}}<br />
{{familytree |border=0| ||||!|}}<br />
{{familytree |border=0|01|02| 01= |02=[[奥平昌恭|昌恭]]<sup>21</sup>}}<br />
{{familytree/end}}<br />
</div></div><br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
* {{Cite web|url=http://www2.harimaya.com/sengoku/html/okudaira.html|title=武家家伝_奥平氏|work=風雲戦国史-戦国武将の家紋-|publisher=播磨屋|accessdate=2017-6-7|ref=武家家伝_奥平氏}}<br />
* [http://www.nakatsujyo.jp/ 中津城公式ホームページ]<br />
{{japanese-history-stub}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:おくたいらし}}<br />
[[Category:奥平氏|!]]<br />
[[Category:日本の氏族]]<br />
[[Category:新城市の歴史]]<br />
[[Category:東海地方の氏族]]</div>
114.160.220.208
関西汽船
2018-04-13T13:56:21Z
<p>114.160.220.208: /* 沿革 */</p>
<hr />
<div>{{基礎情報 会社<br />
|社名 = 関西汽船株式会社<br />
|英文社名 = Kansai Kisen Kaisha<br />
|ロゴ =<br />
|種類 = [[株式会社]]<br />
|市場情報 = {{上場情報 | 東証2部 | 9152 | 1949年5月 | 2009年9月16日}}<br />
{{上場情報 | 大証2部 | 9152 | 1949年5月 | 2009年9月16日}}<br />
|略称 =<br />
|国籍 = {{JPN}}<br />
|郵便番号 = 552-0007<br />
|本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]]弁天六丁目7番15号<br />
|設立 = [[1942年]][[5月4日]]<br />
|業種 = 海運業<br />
|事業内容 =海上運送業<br />
|代表者 = 黒石眞([[代表取締役]][[社長]])<br />
|資本金 = 21億66百万円(2009年10月)<br />
|発行済株式総数 = <br />
|売上高 = 単体103億21百万円<br />連結116億77百万円<br />(2008年12月期)<br />
|営業利益 = 単体△6億69百万円<br />連結△7億19百万円<br />(2008年12月期)<br />
|純利益 = 単体△1億76百万円<br />連結△2億86百万円<br />(2008年12月期)<br />
|純資産 = 単体△7億29百万円<br />連結8億87百万円<br />(2008年12月31日現在)<br />
|総資産 = 単体85億57百万円<br />連結106億96百万円<br />(2008年12月31日現在)<br />
|従業員数 = 単体183名、連結326名<br />
|決算期 = 12月31日<br />
|主要株主 = 株式会社[[フェリーさんふらわあ]] 100%<br />
|主要子会社 =[[#関連会社]]参照<br />
|関係する人物 =<br />
|外部リンク = [http://www.kanki.co.jp/ www.kanki.co.jp]<br />
|特記事項 =<br />
}}<br />
[[ファイル:Sun-Flower Ivory JAPAN.jpg|thumb|right|さんふらわあ あいぼり([[別府港|別府国際観光港]])]]<br />
'''関西汽船株式会社'''(かんさいきせん、''Kansai Kisen Kaisha'') は、かつて存在した海運会社。[[瀬戸内海]]において旅客・フェリー航路の運航を行っていた。<br />
<br />
[[1990年]]に[[商船三井]]系列となり、2009年9月に完全子会社化。同年10月、同じ商船三井系列の[[ダイヤモンドフェリー]]とともに、営業部門を[[フェリーさんふらわあ]]へ移管、2011年10月1日にダイヤモンドフェリーと合併、フェリーさんふらわあになった。<br />
<br />
==沿革==<br />
* [[1884年]]5月 - 前身の'''大阪商船'''(現・[[商船三井]])が、瀬戸内航路を主として運航していた60余りの船問屋を統合して発足。<br />
* [[1912年]]5月 - [[別府温泉]]の観光開発を目的とした1,000トン級のドイツ製客船「[[紅丸]]」(くれないまる)が、阪神 - 別府航路に就航。<br />
* [[1916年]]12月 - [[別府港]]に大阪商船の専用桟橋を設置し、汽船が接岸できるようになる。<br />
* [[1942年]]5月4日 - 大阪商船の内航部を分離し、[[宇和島運輸]]ほか5社<ref>摂陽汽船・尼崎汽船部・土佐商船・[[共同汽船|阿波国共同汽船]]および住友鉱業の各社。</ref> と共同で'''関西汽船'''を設立。<br />
[[File:Victims of Joo-maru accident.JPG|thumb|200px|女王丸事件の犠牲者]]<br />
* [[1948年]]1月28日 - 阪神 - [[多度津町|多度津]]航路の[[女王丸]]が、瀬戸内海牛窓沖で[[機雷]]に触れ沈没。死者・行方不明者183人(女王丸事件)。<br />
* [[1948年]] - 関西汽船設立時に参画した各社へ出資還元され、各社が資本離脱する<ref>[http://www.uwajimaunyu.co.jp/aboutus/outline/ 沿革](会社概要) - 宇和島運輸(2010年9月20日閲覧)</ref><ref>[[共同汽船]]の記述も参照。</ref>。<br />
* [[1951年]] - 阪神 - 沖縄航路を開設、「[[第二号新興丸|新興丸]]」が就航。<br />
* [[1960年]] - 「[[くれない丸]]」が[[大阪港]] - [[神戸港]] - [[松山港]] - [[別府港]]を結ぶ別府航路(瀬戸内航路)に、僚船の同型船「むらさき丸」とともに就航<ref>のちに、僚船として「すみれ丸」「こはく丸」「あいぼり丸」「こばると丸」が就航し、3,000トン級[[クルーズ]]客船が最大時6隻体制となった別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客などを[[別府温泉]]などへと運んだ。</ref>。<br />
* [[1962年]] - [[修学旅行]]専用船として「わかば丸」(「おとわ丸」を改装)が大阪・神戸 - 別府航路に就航。<br />
:[[1964年]]には「ふたば丸」(「舞子丸」を改装)が就航。1974年まで運行された<ref>関西 - 東九州間の輸送は必ず片道を鉄道、片道を船舶によっていた。実際別府~大阪間は鉄道との所要時間は変わらず、料金も船舶を利用したほうが格段に安価であった。「わかば丸」「ふたば丸」終航後は通常の旅客船が使用されたが、[[1975年]]山陽新幹線博多開業により船舶利用は減少した。</ref>。<br />
* [[1967年]]<br />
**7月 - 阪神 - 今治 - 松山 - 別府航路に[[旅客船]]「あいぼり丸」が就航。<br />
**8月 - 阪神 - 今治 - 松山 - 別府航路に旅客船「こばると丸」が就航。<br />
* [[1969年]]11月 - [[加藤汽船]]と共同で神戸 - 高松航路「[[ジャンボフェリー]]」を開設し、第1船「六甲丸」(初代)が就航。<br />
* [[1970年]]9月 - 神戸 - 高松航路(ジャンボフェリー)に第2船「生駒丸」(初代)が就航。<br />
* [[1971年]]<br />
**3月 - 阪神 - 今治 - 松山 - 別府航路にフェリー化第1船「ゆふ」が就航。<br />
**6月 - 阪神 - 今治 - 松山 - 別府航路にフェリー化第2船「まや」が就航。<br />
:同航路は毎日運航となったが、両船ともトラックの乗船はできず、乗用車約50台を乗せるのみであった。<br />
**8月 - 阪神 - 奄美 - 那覇航路に[[RO-RO船|RORO型]][[貨客船]]第1船「[[黒潮丸 (貨客船・1971年)|黒潮丸]]」が就航。<br />
**8月 - [[共同汽船]]・[[共正汽船]]と共同で阪神 - 徳島間に[[徳島阪神フェリー]]を設立。10月より「おとわ丸」が就航。<br />
* [[1973年]]<br />
**3月 - 神戸 - 日向航路を開設し、「にちなん丸」が就航。<br />
**6月 - 阪神 - 奄美 - 那覇航路にRORO型貨客船第2船「若潮丸」が就航。<br />
**8月 - [[大阪高知特急フェリー]]の「とさ」を用船、「はやとも丸」に改名の上、小倉 - 松山航路に就航。<br />
* [[1974年]][[1月3日]] - 不採算航路整理のため「沖之島丸」が就航していた阪神 - 奄美航路を休止<ref name="世艦198p130">世界の艦船(1974年2月号,p130)</ref>。<br />
* [[1975年]][[2月26日]] - 近海・外航部門を独立して'''関汽外航'''を設立、関西汽船は内航部門に専念<ref name="世艦212p146">世界の艦船(1975年4月号,p146)</ref>。<br />
* [[1978年]]<br />
**3月 - 商船三井より「いせ丸」を用船、(後に来島どっくに売船の上用船。)「くろしお」後に「フェリーくろしお」に改名の上、阪神 - 奄美 - 那覇航路に就航。同航路をフェリー化する。<br />
**7月 - 経営再建のため、[[新来島どっく|来島どっく]]が関西汽船の筆頭株主になる。<br />
* [[1979年]]6月 - 「若潮丸」を[[クルーズ客船]]に改造し、「さんふらわあ7」に改名(同社初の「さんふらわあ」塗装)。<br />
* [[1980年]]<br />
**11月 - 来島どっくより 「フェリーこがね丸」を用船、阪神 - 別府航路に就航。<br />
**12月 - 来島どっくより 「フェリーにしき丸」を用船、 阪神 - 別府航路に就航。<br />
:もともと客船指向であったため、本格的なカーフェリーの導入は他社に遅れることとなった。<br />
* [[1982年]]<br />
**2月 - 引退した[[大阪高知特急フェリー]]の「フェリーかつら」を用船。小倉 - 松山航路就航(デイリーサービス化)<br />
**11月 - 神戸 - 日向航路を廃止。「にちなん丸」は来島どっくに売却。改装の上、[[室戸汽船]]に「フェリーむろと」(2代)として用船。<br />
**12月 - 室戸汽船より、フェリーむろと(初代)を用船、「くるしま丸」に改名のうえ小倉 - 松山航路に就航。「フェリーかつら」は用船解除。<br />
* [[1983年]]<br />
**6月 - 来島どっくより 「クイーンコーラル2」を用船。 阪神 - 今治 - 松山 - 別府航路に就航。「ゆふ丸」は係船。<br />
* [[1984年]]<br />
**1月 - 来島どっくより 「くるしま7」(元「[[黒潮丸 (貨客船・1971年)|黒潮丸]]」をフェリー化)を用船。阪神 - 今治 - 松山 - 別府航路に就航、「クイーンコーラル2」を「くいーんふらわあ2」に改名。「まや丸」を阪神 - [[小豆島]] - [[高松港|高松]]航路に転配。<br />
**12月 - 来島どっくより 「さんふらわあ」「さんふらわあ2」を用船。阪神 - 別府航路に就航。<br />
* [[1987年]]<br />
**3月 - 前年に経営危機が表面化した来島どっくが、関西汽船の経営から撤退することを表明。 <br />
**4月 - 加藤汽船と共同で阪神 - 高松航路「ジェットライン」を開設し、[[ボーイング929|ジェットフォイル]]「ジェット7」「ジェット8」が就航。小倉 - 松山航路に「フェリーくるしま」が就航。「くるしま丸」は用船解除のうえ、室戸汽船に変船。<br />
**9月 - 小倉 - 松山航路に「フェリーはやとも2」が就航。「はやとも丸」は用船解除、引退。<br />
* [[1990年]]<br />
**6月 - 神戸 - 高松航路(ジャンボフェリー)に「六甲丸」(2代目)が就航。<br />
**7月 - 大阪商船三井船舶(現・商船三井)が、来島グループだった関西汽船および[[ダイヤモンドフェリー]]・[[室戸汽船]]に資本参加し傘下におさめる。<br />
**11月 - 「さんふらわあ」「さんふらわあ2」「くいーんふらわあ2」「くるしま7」「フェリーくろしお」を、来島興産(来島どっくの債務管理会社)より22億5,000万円で購入。神戸 - 高松航路(ジャンボフェリー)に「生駒丸」(2代目)が就航。<br />
* [[1991年]]<br />
**3月 - 阪神 - 高松航路(ジェットライン)が1隻運航に減便となる。小豆島寄港を開始する。<br />
**8月 - 「くいーんふらわあ2」と室戸汽船の「フェリーむろと」(3代)が神戸沖で衝突。11人負傷。<br />
* [[1992年]]<br />
**8月 - 阪神 - 松山 - 別府航路に「さんふらわあ こがね」が就航。同航路には12月の第2船就航まで「フェリーコスモ」が用船され、1日3便の同航路がすべてフェリー化される。<br />
**12月 - 阪神 - 松山 - 別府航路に「さんふらわあ にしき」が就航。<br />
* [[1995年]]<br />
**1月 - [[阪神・淡路大震災]]により神戸港が使用不能になったため、復旧まで寄港を一時中止する。<br />
**2月 - 阪神 - 松山 - 別府航路を1日3便から2便に減便。阪神 - 小豆島 - 高松 - 今治 - 別府航路を廃止。<br />
:これにより長年、大阪側のターミナルとして使われていた弁天ふ頭を発着する定期航路が廃止となる。<br />
* [[1997年]]12月 - 阪神 - 松山 - 別府航路に「さんふらわあ あいぼり」が就航。<br />
* [[1998年]]<br />
**3月 - 阪神 - 奄美 - 沖縄航路を廃止。<br />
**4月 - [[明石海峡大橋]]開通に伴い、神戸 - 高松航路(ジャンボフェリー)の共同運航から撤退、徳島阪神フェリーを廃止する。阪神 - 松山 - 別府航路に「さんふらわあ こばると」が就航。<br />
* [[2000年]]10月11日 - 阪神 - 小豆島 - 高松航路(ジェットライン)を廃止。<br />
:翌12日より[[五島産業汽船]]が同航路の運航を開始したが、2006年4月をもって廃止。<br />
* [[2002年]]6月 - 加藤汽船などとの共同出資で「[[高松エクスプレス]]」を設立し高速バス事業に参入。8月5日より「たかなんフットバス号」の愛称でなんば - 高松間で高速バスの運行を開始(南海バスと共同運行)。<br />
* [[2003年]]4月1日 - ダイヤモンドフェリーと大分 - 松山 - 神戸間の一部共同運航を開始。<br />
:当初の共同運航区間は、関西汽船の阪神 - 松山 - 別府航路(上り便)の大分→神戸間のみであった。また、関西汽船の阪神 - 松山 - 別府航路の神戸発着埠頭は、下り便が[[中突堤]]、上り便が[[六甲アイランドフェリーターミナル]]となった。また、大阪発着埠頭も、かもめ埠頭から南港フェリーターミナルに変更される。<br />
* [[2005年]]<br />
**4月1日 - ダイヤモンドフェリーと「フェリーさんふらわあ共同営業センター」を設立。各種割引の相互利用が可能になる。<br />
**9月15日 - 阪神 - 松山 - 別府航路(下り便)の神戸発着埠頭を、[[神戸ポートターミナル]]に移転。<br />
**10月1日 - 燃料油価格変動調整金を設定。<br />
* [[2006年]]<br />
**3月 - 「フェリーさんふらわあ」共通の会員制度「瀬戸内海倶楽部」開始。<br />
**10月1日 - 燃料油価格変動調整金を変更。阪神 - 別府航路の到着地入港時刻を6:20から6:30に10分繰り下げるダイヤ改定を実施。<br />
**10月10日 - 大分港が新ターミナルに移転する。<br />
* [[2007年]]<br />
**7月9日 - 「さんふらわあ こばると」が松山市沖でタンカーと衝突。「さんふらわあ こばると」の左舷に亀裂が入り、修理のため1週間欠航となる。<br />
**11月21日 - ダイヤモンドフェリーの新造船「さんふらわあ ごーるど」が、阪神 - 別府航路(下り直行便・上り寄港便)に就航。「さんふらわあ こがね」がダイヤモンドフェリー中九州航路に転配。<br />
* [[2008年]]<br />
**1月16日 - 中九州航路寄港便の大分側発着港を大分に変更。同時に今治にも寄港開始。これにより、別府港を発着するのは直行便のみとなる。また、神戸港の発着場所を六甲アイランドフェリーターミナルに集約(これに伴い、神戸港ポートターミナルを発着する国内航路はなくなった)。<br />
**7月8日 - 大阪南港の発着埠頭を、南港フェリーターミナルから南港コスモフェリーターミナルに変更。<br />
* [[2009年]]<br />
**3月18日 - 商船三井による[[株式公開買付け]] (TOB) の実施が発表され、関西汽船が同意。同年4月13日、商船三井に対して[[第三者割当増資]]を実施し同社の連結子会社(株式保有比率は63.88%)となる。同月27日、TOBが成立(同社の株式保有比率は89.11%)。株主優待割引乗船券(40%割引)は3月末発行分をもって廃止。<br />
**6月1日 - 寄港便の今治、神戸寄港が無くなる。また寄港便の上り便の到着港が、南港フェリーターミナルに戻る(出航は南港コスモフェリーターミナルのまま)。<br />
**9月25日 - [[種類株式]]発行会社への[[定款]]変更し、普通株式への全部取得条項の付与、747万株をA種種類株式1株への引換(少数株主は端数として現金化)を実施([[スクイーズアウト]])。これにより商船三井の完全子会社となる。なお、この措置に先立つ同月16日には株式上場が廃止されている。<br />
**10月23日 - 商船三井が完全子会社のダイヤモンドフェリー株とあわせて[[株式移転]]を実施し、親会社の'''[[フェリーさんふらわあ]]'''を設立。同社の完全子会社となり経営統合する。<br />
* [[2010年]]2月1日 - ダイヤモンドフェリーと共同運航の寄港便を廃止。大阪 - 別府航路の大阪行のみ松山経由となる。<br />
* [[2011年]]4月30日 - 大阪 - 別府航路、大阪行の松山寄港を取りやめ。<br />
* [[2011年]]10月1日 - ダイヤモンドフェリーとともにフェリーさんふらわあに合併し解散。<br />
<br />
== 航路 ==<br />
[[ファイル:Kansai Kisen - Beppu Port.jpg|thumb|right|別府国際観光港]]<br />
※会社合併時点(2011年9月30日)の状況を記述する。<br />
<br />
大阪港の乗り場は、2008年7月8日より南港フェリーターミナルからコスモフェリーターミナル([[アジア太平洋トレードセンター|ATC]]前)R−5岸壁に移転した。<br />
* '''大阪 - 別府航路'''<br />
** [[大阪港]](大阪南港コスモフェリーターミナル) - [[別府港|別府国際観光港]]<br />
* '''小倉 - 松山航路'''(小倉/松山フェリー)<br />
** [[北九州港|小倉港]](浅野) - 松山観光港<br />
* '''大阪 - 坂手航路'''(小豆島季節便)<br />
** 大阪港(大阪南港コスモフェリーターミナル) - [[坂手港]]([[小豆島]])<br />
:繁忙期(年末年始・ゴールデンウイーク・夏休みなど)と、5月下旬に開催される「小豆島マラソン」期間の土・日曜日に運航していたが、2011年10月から休航している。<br />
<br />
==船舶==<br />
[[ファイル:Kss PICT0023.JPG|thumb|right|ファンネルマーク]]<br />
[[ファイル:Kss PICT0010.JPG|thumb|right|さんふらわあ こばると([[神戸港]]・[[神戸ポートターミナル]])]]<br />
[[ファイル:Ferry Kurushima (Port of Matsuyama) JAPAN.jpg|thumb|right|フェリーくるしま([[松山港|松山観光港]])]]<br />
※会社合併時点(2011年9月30日)の状況を記述する。<br />
<br />
[[ファンネルマーク]]は赤地に白帯が巻かれている。<br />
<br />
船体の塗装は、かつては「ハーバーグリーン」と呼ばれた下半分が緑、上半分が白の塗装であったが、現在は松山 - 小倉航路の「フェリーくるしま」「フェリーはやとも2」に残るのみとなり、大阪 - 別府航路に就航する船は「さんふらわあ塗装」となっている。<br />
<br />
ちなみに、船体の地色が白一色であるほか、太陽の絵を旧・大洋フェリー時代から引き継いだ蛍光色を使用し、太陽の絵が大きめに描かれるなど、[[商船三井フェリー]]や旧・[[ブルーハイウェイライン西日本]]の同塗装とは若干違う。ただし最近ではドック入りの際、太陽の絵が大きさはそのままに、蛍光色でない色に描き直されている。<br />
<br />
現在のさんふらわあの船名は、伝統的に使われている名称(色の名前を用いるのが特徴である)が受け継がれている。<br />
<br />
かつて「球状船首」の開発協力のため、自社の船舶くれない丸(現・[[ロイヤルウイング]])を提供していた。<br />
<br />
===会社合併時点での保有船舶===<br />
※2011年9月30日時点。<br />
;大阪 - 別府航路<br />
* '''[[さんふらわあ あいぼり]]'''<br />
:1997年3月竣工、同年12月6日就航。9,245総トン、全長153.0m、幅25.0m、出力27,000馬力、航海速力22.4ノット(最大24.8ノット)。<br />
:旅客定員710名<!--777名-->(平水1,050名)。車両搭載数:トラック100台・乗用車100台。[[三菱重工業]][[三菱重工業下関造船所|下関造船所]]建造。<br />
:小豆島季節便にも就航する。<br />
* '''[[さんふらわあ こばると]]'''<br />
:1997年6月竣工、1998年4月8日就航。9,245総トン、全長153.0m、幅25.0m、出力27,000馬力、航海速力22.4ノット(最大24.2ノット)。<br />
:旅客定員710名<!--777名-->(平水1,050名)。車両搭載数:トラック100台・乗用車100台。[[三菱重工業]][[三菱重工業下関造船所|下関造船所]]建造。<br />
:小豆島季節便にも就航する。<br />
;小倉 - 松山航路(小倉/松山フェリー)<br />
* '''[[フェリーくるしま]]'''<br />
:1986年6月竣工、1987年4月27日就航。4,277総トン、全長119.0m、幅21.0m、出力11,200馬力、航海速力18.0ノット(最大21.6ノット)。<br />
:旅客定員756名。車両搭載数:トラック73台・乗用車41台。来島どっく大西工場建造。近海商運が保有。<br />
* '''[[フェリーはやとも2]]'''<br />
:1986年6月竣工、1987年9月23日就航、2003年改造。4,238総トン。全長119.0m、幅21.0m、出力11,200馬力、航海速力18.0ノット(最大21.5ノット)。<br />
:旅客定員756名。車両積載数:トラック73台・乗用車41台。新来島どっく大西工場建造。<br />
<br />
===過去に運航していた船舶===<br />
[[ファイル:Kansaikisen aivorimaru takamatsubay.jpg|thumb|right|あいぼり丸(高松港)]]<br />
[[ファイル:Kansaikisen kobarutomaru beppu.jpg|thumb|right|こばると丸(別府国際観光港)]]<br />
[[ファイル:Kansaikisen mayamaru takamatsubay.jpg|thumb|right|まや丸(高松港)]]<br />
[[ファイル:Kansaikisen sunflour7.jpg|thumb|right|さんふらわあ7]]<br />
[[ファイル:Kansaikisen sunflour2 beppu.jpg|thumb|right|さんふらわあ2(別府国際観光港)]]<br />
[[ファイル:Kansaikisen Boeing 929 jet7.jpg|thumb|right|ジェット7(高松港)]]<br />
[[ファイル:Kansaikisen Boeing 929 jet8.jpg|thumb|right|ジェット8]]<br />
[[ファイル:Kks PICT0024.JPG|thumb|right|さんふらわあ こがね(大阪南港)]]<br />
[[ファイル:KansaikisenI-MG 5886.jpg|thumb|right|さんふらわあ にしき(大阪南港)]]<br />
[[ファイル:It enters the Osaka port "Sun-Flower Nishiki" & Sun-flower Kirishima" Osaka,JAPAN.jpg|thumb|right|大阪南港に入港する「さんふらわあ にしき」(中央、2007年10月撮影)]]<br />
<br />
<!--関西汽船での就航順に記述(不明分は末尾にまとめて50音順で記述)。--><br />
* '''こがね丸'''<br />
:1,859総トン、1936年5月竣工。1942年5月-1971年3月の間、別府航路に就航。<br />
* '''明石丸'''<br />
:1,081総トン、1947年9月竣工。1954年-1971年の間、大阪 - 高知航路に就航し、1980年に解体。<br />
* '''あかね丸'''<br />
:1,038総トン、1947年12月竣工。1948年9月-1975年9月の間、別府 - 松山航路に就航。<br />
* '''くれない丸'''<br />
:2,928総トン、1959年竣工。別府航路に就航。[[バルバス・バウ|乾バウ]]の試験に使用。(→レストランシップ「[[ロイヤルウイング]]」)<br />
* '''[[あいぼり丸]]'''<br />
:3,155総トン、全長89.3m。1968年、別府航路に就航した関西汽船最後の純客船。1992年8月に引退後、日本国外に売却。<br />
* '''[[こばると丸]]'''<br />
:3,151総トン、全長89.3m。1968年、別府航路に就航した関西汽船最後の純客船。1992年8月に引退後、日本国外に売却。<br />
* '''[[六甲丸 (初代)|六甲丸]]'''(初代)<br />
:2,822総トン、全長83.0m。国内初の長距離双胴大型フェリー。1990年6月、「六甲丸」(2代目)就航にともない引退。<br />
* '''[[生駒丸]]'''(初代)<br />
:2,819総トン、全長83.0m。国内初の長距離双胴大型フェリー。1990年11月、「生駒丸」(2代目)就航にともない引退。<br />
* '''ゆふ'''→'''[[ゆふ丸]]'''<br />
:3,360総トン、全長89.4m。別府航路初のカーフェリ-(但し乗用車のみの積載となり、トラック・シャーシ類は積載不可)。<br />
:1972年3月、「ゆふ丸」に改名。1983年11月に予備船となったあと、1988年に[[スエヒロマリンサービス]]に売却(→「スエヒロVII」)。<br />
* '''まや'''→'''[[まや丸]]'''<br />
:3,229総トン、全長89.4m。別府航路初のカーフェリ-(但し、乗用車のみの積載となり、トラック・シャーシ類は積載不可)。<br />
:1972年3月、「まや丸」に改名。<br />
* '''[[黒潮丸 (貨客船・1971年)|黒潮丸]]'''→'''くるしま7'''<br />
:(黒潮丸)5,216総トン、全長124.2m。<br />
:1978年3月に係船後、来島どっくに売却。その後カーフェリーに改装の上、用船し「くるしま7」に改名。1995年2月、日本国外に売却。<br />
* '''[[おとわ丸]]'''<br />
:2,945総トン、全長104.2m。阪神 - 徳島航路に就航ののち、1998年4月に引退とともに阪神〜徳島航路は廃止。<br />
* '''[[にちなん丸]]'''<br />
:6,114総トン、全長118.0m。同社初設計の長距離旅客カーフェリー。1982年11月、神戸 - 日向航路の廃止にともない室戸汽船に売却(→「フェリーむろと」(2代目))。<br />
* '''[[若潮丸]]'''→'''[[さんふらわあ7]]'''<br />
:(若潮丸)5,489総トン、全長115.0m。<br />
:(さんふらわあ7)7,494総トン、全長124.9m。<br />
:1978年3月に係船後、1979年6月にクルーズ客船に改装され、日本や世界各地へのクルーズ船として使用。関西汽船初の"さんふらわあ塗装"を施された。<br />
* '''[[はやとも丸]]'''<br />
:3,350総トン。土佐特急フェリー(後の[[大阪高知特急フェリー]])の「とさ」を傭船し改名のうえ、小倉 - 松山航路に就航。1987年9月、「フェリーはやとも2」就航にともない引退。<br />
* '''[[フェリーくろしお]]'''<br />
:7,060総トン、全長140.9m。<br />
:フジフェリー(現在の[[九州急行フェリー]])の「しま丸」を用船の上、フェリー化および改名し就航。1998年3月に引退とともに阪神〜奄美〜沖縄航路は廃止。<br />
* '''[[フェリーこがね丸]]'''<br />
:7,189総トン、全長132.1m。<br />
:太平洋沿海フェリー(現在の[[太平洋フェリー]])の「あるごう」を購入し改名のうえ就航。1984年12月、「さんふらわあ」「さんふらわあ2」と等価交換され[[名門大洋フェリー]]へ移籍(→「ぺがさす」)。<br />
* '''[[フェリーにしき丸]]'''<br />
:7,524総トン、全長143.8m。<br />
:大洋フェリー(現在の名門大洋フェリー)の「おりおん」を購入し改名のうえ就航。1984年12月、「さんふらわあ」「さんふらわあ2」と等価交換され名門大洋フェリーへ移籍(→「おりおん」)。<br />
* '''[[くるしま丸]]'''<br />
:2,889総トン、全長101.8m。<br />
:室戸汽船の「フェリーむろと」(初代)を用船し改名のうえ、小倉 - 松山航路に就航。1987年4月、「フェリーくるしま」就航にともない引退。<br />
* '''[[くいーんふらわあ2]]'''<br />
:6,815総トン、全長140.1m。<br />
:照国郵船(現在の[[マリックスライン]])より来島どっくに売却された「クイーンコーラル2」を用船し改名のうえ就航。1995年2月、日本国外に売却。<br />
* '''[[さんふらわあ]]'''<br />
:(改装後のデータ)12,130総トン、全長185.7m、幅24.0m、連続最大出力26,080馬力、最高速力25.5ノット。<br />
:旅客定員1,122名。車両搭載数:8トントラック98台、乗用車201台。[[川崎重工業]]神戸工場建造。<br />
:1972年2月、日本高速フェリー(現在の[[商船三井フェリー]])にて就航。1976年11月に大洋フェリーへ売却され、1979年6月に[[常石造船]]にて改装工事を実施。1984年11月に来島どっくへ売却、同年12月に「フェリーこがね丸」「フェリーにしき丸」と等価交換された後に来島どっぐに売却されチャーターバックの上、阪神 - 別府航路に就航。1998年4月、「さんふらわあこばると」就航にともない引退し、日本国外に売却。<br />
* '''[[さんふらわあ2]]'''<br />
:(改装後のデータ)12,112総トン、全長185.7m、幅24.0m、連続最大出力26,080馬力、最高速力25.7ノット。<br />
:旅客定員1,148名。車両搭載数:8トントラック95台、乗用車201台。川崎重工業神戸工場建造。<br />
:1972年1月進水(進水時「さんらいず」)、同年5月より日本高速フェリー(現在の商船三井フェリー)にて就航。1976年11月大洋フェリーに売却され、1979年6月に来島どっくで改装工事を実施。1984年11月に来島どっくへ売却、同年12月に「フェリーこがね丸」「フェリーにしき丸」と等価交換された後に、来島どっくに売却されチャーターバックの上、阪神 - 別府航路に就航。1997年12月、「さんふらわああいぼり」就航にともない引退し、日本国外に売却。<br />
:1994年から引退までの間、海水を広範囲にわたって継続的に汲み上げモニタリングを行う、[[国立環境研究所]]の定期航路船舶を用いた海洋調査が同船を使用して行われていた。<br />
* '''ジェット7'''<br />
:279総トン、全長27.4m、出力3,800馬力×2基、速力45ノット。[[アメリカ合衆国|米国]][[ボーイング]]社建造の[[ボーイング929]](ジェットフォイル)。<br />
:1980年建造。1987年4月、阪神 - 小豆島 - 高松航路(ジェットライン)の開設とともに就航。日本国内では[[佐渡汽船]]に次いでのジェットフォイル就航であった。2000年10月11日の航路廃止後は五島産業汽船が同航路を運航したが2006年4月に廃止され、[[東海汽船]]に売却(→「セブンアイランド愛」)。<br />
* '''ジェット8'''<br />
:279総トン、全長27.4m、出力3,800馬力×2基、速力45ノット。米国ボーイング社建造のボーイング929(ジェットフォイル)。<br />
:1980年建造。1987年4月、阪神 - 小豆島 - 高松航路(ジェットライン)の開設とともに就航。1991年3月、[[日韓高速船]](下関市などが出資して設立した[[第3セクター]]<!--。同年7月に下関 - 釜山間で運航を開始したものの利用客がふるわず多額の赤字を抱えたため1992年11月に廃止。この損失の補てんを巡っては、当時の下関市長が、筆頭株主でないのに全額を税金で支払ったため裁判にまで発展した。-->)に用船。1992年11月の航路廃止後、1996年8月に佐渡汽船に売却し改名(→「ファルコン」)のうえ運航。2000年、[[九州郵船]]に売却(→「ヴィーナス2」)。<br />
* '''[[フェリーはやとも2]]'''<br />
:1987年9月就航。<br />
* '''[[六甲丸 (2代)]]'''<br />
:2,933総トン、全長116.5m。1998年4月、引退し係船。1999年、日本国外に売却。<br />
* '''[[生駒丸 (2代)]]'''<br />
:2,933総トン、全長116.5m。1998年4月、引退し係船。1999年、日本国外に売却。<br />
* '''[[フェリーはこざき|フェリーコスモ]]'''<br />
:1992年8月の「さんふらわあこがね」就航後、同年12月の第2船就航までの間、尾道造船に係船されていた元・名門大洋フェリー「フェリーはこざき」を用船し改名のうえ就航。これにより、1日3便の阪神 - 別府航路はすべてフェリー化された。同年12月、引退。<br />
* '''[[さんふらわあ こがね]]'''<br />
:1991年12月竣工、1992年8月3日就航、2003年改造。9,710総トン、全長150.9m、幅25.0m、出力25,200馬力、航海速力22.1ノット(最大24.7ノット)。<br />
:旅客定員942名、乗組員36名。車両積載数:トラック100台・乗用車60台。カナサシ豊橋工場建造。<br />
:2007年11月21日よりダイヤモンドフェリー運航便に就航(「さんふらわあ にしき」と交互に就航)。関西汽船所有の船舶だったが、2008年2月1日にドック入りし、この日をもってダイヤモンドフェリー船籍となる。ファンネルマークを「Dマーク」に変更のうえ、同年2月7日より同社の運航船として寄港便に就航。<br />
* '''[[さんふらわあ にしき]]'''<br />
:1992年12月19日就航、2003年改造、2010年2月引退。9,800総トン、全長150.9m、幅25.0m、出力25,200馬力、航海速力22.1ノット(最大24.5ノット)。<br />
:旅客定員859名、乗組員36名。車両搭載数トラック100台・乗用車60台。カナサシ豊橋工場建造。[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]と共有していた。<br />
<br />
{{col|<br />
* 明石丸<br />
* あかね丸<br />
* [[あけぼの丸]]<br />
* あわじ丸<br />
* いそかぜ<br />
|<br />
* 沖之島丸<br />
* 黒潮丸(初代)<br />
* [[浮島丸 (貨客船)|浮島丸]]<br />
* さくら丸<br />
* しづき丸(泉北 - 淡路島航路)<br />
* [[すみれ丸]]<br />
|<br />
* せいろん丸(貨物船)<br />
* [[太平丸]]<br />
* に志き丸<br />
* にしき丸<br />
* はやかぜ<br />
|<br />
* はやて1<br />
* はやとも2<br />
* [[ひかり丸]]<br />
* ふたば丸<br />
* [[平和丸]]<br />
|山水丸<br />
* まるがめ丸、しもつい丸(下津井 - 丸亀航路、[[小豆島急行フェリー]]へ売却)<br />
* むらさき丸(初代)<br />
* [[むらさき丸(2代)]]<br />
* むろと<br />
* [[るり丸]]<br />
}}<br />
{{-}}<br />
;他社就航後の状況<br />
<gallery><br />
ファイル:Royal Wing01.JPG|元・くれない丸(現・ロイヤルウイング)<br />
ファイル:Tokaikisen-Ai (200709).jpg|元・ジェット7(現・セブンアイランド愛)<br />
ファイル:Venus No2 JAPAN.jpg|元・ジェット8(現・ヴィーナス2)<br />
</gallery><br />
<br />
==関連会社==<br />
※会社合併時点(2011年9月30日)の状況を記述する。<br />
* [[商船三井]] - 親会社<br />
<!--<br />
* 播淡聯絡汽船 - 連結子会社<br />
* 明石フェリー - 連結子会社<br />
* 明岩海峡フェリー - 連結子会社<br />
* 関西急行フェリー - かつての関連会社。現在は[[四国フェリー]]グループの小豆島急行フェリー。<br />
--><br />
* [[明淡高速船]] - かつての連結子会社<br />
* 関汽商事 - 連結子会社<br />
* ケイ・マリンズ - 子会社<br />
* 関汽運輸 - 連結子会社<br />
* 関汽交通社 - 連結子会社<br />
* 別府ポートサービス - 連結子会社<br />
* さんふらわあトラベル - 連結子会社<br />
* [[高松エクスプレス]] - 株式40%保有<br />
* 明石大橋総合サービス<br />
* 高松商運([[全日本空輸]]の香川地区総代理店) - 近年まで香川地区総代理店であった。<br />
<br />
== 各種割引制度 ==<br />
※会社合併時点(2011年9月30日)の状況を記述する。<br />
<br />
特記なき場合は全等級利用可能。各種割引を重複しての適用は不可。トラックは適用不可もあり。<br />
<br />
2005年4月の「フェリーさんふらわあ共同営業センター」発足に伴い、ダイヤモンドフェリー中九州航路との間で割引制度の統一が行われ、各種割引は相互の利用が可能になった。<br />
<br />
* インターネット割引 - 20%割引(繁忙期は適用不可。車種・人数により適用除外あり)<br />
:予約期間は2ヶ月前の同一日(当日が日曜・祝日の場合は翌日)から乗船日前日の出港24時間前まで。インターネット割引よりも割引率の高い割引を利用したい場合は、乗船日当日に窓口へ申告すれば変更が可能。<br />
* 往復割引<br />
** 大阪 - 別府航路:復路運賃が40%割引(繁忙期は同10%割引)<br />
** 小倉 - 松山航路:復路運賃が30%割引(通年)<br />
** 大阪 - 坂手航路(小豆島季節便):復路運賃が10%割引(通年)<br />
* 学生割引 - 30%割引(繁忙期は20%割引)<br />
* シルバー割引 - 20%割引(繁忙期は適用不可。旅客のみ)<br />
* [[日本自動車連盟|JAF]]会員割引 - 10%割引(通年)<!--JAF会員向けには、このほか毎年春と秋にJAFメイトプランと呼ばれる特別割引を実施している。--><br />
* 身体障害者割引、知的障害者割引、精神障害者割引 - 50%割引(適用対象は公式サイトを参照)<br />
* 団体割引<br />
<!--== その他 ==<br />
* 電話予約センターをはじめ大阪・神戸・別府・大分の各港や営業所などでは、社名を出さずに「フェリーさんふらわあ」と呼んでいる。<br />
--><!--出典無し。また、いつの時点の状況を記述したのか不明のためコメントアウト。--><br />
<br />
また、[[日本国有鉄道]](国鉄)が[[周遊きっぷ|周遊券]]を設定していた時代には、四国内の全線で乗車可能な「四国(ワイド)周遊券」と九州内の全線で乗車可能な「九州(ワイド)周遊券」で関西汽船の航路を片道1回に限り追加料金無しで選択利用できる制度が設けられ、時刻表でも案内がなされていた<ref>[[ジェイティービー|日本交通公社]]『時刻表』1967年10月号では、広島以外を出発地(九州各地発の設定は無し)とする「四国周遊券」で、「ゆきか、帰りかのいずれかに関西汽船の大阪又は神戸-小豆島-高松航路を1回に限り利用することができます」と記載されていた。当時は九州周遊券では関西汽船利用の規定はなかった。</ref>。これは国鉄分割後のJRになっても継続されたが、その後廃止された。<br />
<br />
== スポンサー番組 ==<br />
* [[ABCニュース (朝日放送ラジオ)|朝日新聞ニュース]]、さわやかミュージック(現在放送されている同番組とは異なる) - [[ABCラジオ]]、[[1992年]] - [[1993年]]<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
* 日本船舶明細書I 2008年版 - 社団法人 日本海運集会所(2007年12月30日発行)<!--参照元のデータは2007年6月30日現在--><br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
==外部リンク==<br />
* [http://www.ferry-sunflower.co.jp/ フェリーさんふらわあ]<br />
<br />
{{さんふらわあ}}<br />
{{DEFAULTSORT:かんさいきせん}}<br />
[[Category:かつて存在した日本の海運会社]]<br />
[[Category:かつて存在した大阪府の企業]]<br />
[[Category:瀬戸内海の交通史]]<br />
[[Category:商船三井]]<br />
[[Category:阿波国共同汽船]]<br />
<br />
<br />
{{Company-stub}}</div>
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