フリードリヒ・フレーベル

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フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フレーベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel, 1782年4月21日 - 1852年6月21日)は、ドイツの教育学者。幼児教育の祖。ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチに啓発され、彼の初等教育のやり方をより小さい子供たちの教育に当てはめて、幼児の心の中にある神性をどのようにして伸長していけるか、ということに腐心。小学校就学前の子供たちのための教育に一生を捧げた。

生涯と思想

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オーベルヴァイスバッハのフレーベルの生家

フレーベルは、テューリンゲン州ザールフェルト=ルドルシュタット郡オーベルヴァイスバッハという村の敬虔派の牧師の息子として生まれた。5人の兄姉のいる末子である。しかし生後9ヵ月で母を亡くし、孤独な幼少年期を過ごす。4歳で継母を持つことになったが、新しい母の実子が生まれるにいたり、疎まれるようになる。自然と宗教的な情操教育が、唯一彼の糧となる。

10歳の時、実母の兄ホフマンが、彼の家を訪問し、実情を察知し、フレーベルをその年の暮れ、自らの元に引き取ってくれ、以後4年の間、そこで暮らす。伯父も聖職者であったが、穏やかで彼を暖かく受容し、この地の学校ではフレーベルは多くの学友に恵まれた。ここでの生活は、1796年、彼の堅信礼を持って終わる。14歳で彼は進学するだけの経済力がなかったため、ヒルシェンベルクの林務官ヴィッツの元で2年間働きながら学ぶ。

その後、1799年10月、哲学科の学生としてイェーナ大学に入る。フリードリヒ・フォン・シラーが歴史を、フリードリヒ・シェリングが哲学を教えていた当時である。だが、学費が続かず、1801年には退学。翌1802年には、父が死去する。

以後、バンベルクの山林局で書記、測量師の助手、貴族の農場での会計など職を転々とし、1805年アントン・グルーナーの紹介でフランクフルト・アム・マインの模範学校の教師になる。このとき彼は23歳であった。学校教師になった後、1805年8月イヴェルドンにペスタロッチを訪ね、彼の実践と思想に強く影響を受け、1808年から2年間ペスタロッチのもとに滞在。

1811年ゲッティンゲン大学に入学、翌年ベルリンに転じる。1813-14年、ドイツ解放戦争には義勇軍の一兵士として参加、従軍中に生涯の協力者ヴィルヘルム・ミッテデンドルフハインリヒ・ランゲタールを得る。1816年、テューリンゲンのグリースハイムに学校を開き、翌年、この学校はカイルハウに移され、「一般ドイツ教育舎」と改称される。1826年には主著『人の教育』を刊行する。

彼はまずロマン主義の立場から、子供の本質を神的なものとして捉え、この児童観に基づいて受動的、追随的な教育を主張した。園丁が植物の本性に従って、水や肥料をやり、日照や温度を配慮し、また剪定するように、教育者も子供の本質に追随的に、その無傷の展開を保護し、助成するように働きかけなければならないとされ、そこから彼のKindergarten―幼稚園(子供達の庭)という名称が生まれた。

また、彼は人間の発達の連続性を主張し、この立場から子供の共感的理解と、それに基づく教育を擁護し、早教育に反対した。神を不断の創造者として捉えた彼は、神的本質を有する子供は不断に創造すべきものと考えた。この立場から、彼は幼稚園の教育内容は、遊びや作業を中心にすべきものと考え、そのために遊具を考案し、花壇や菜園や果樹園からなる庭を幼稚園に必ず設置すべきであると主張した。

1837年、世界初の幼稚園として「一般ドイツ幼稚園」が開設されると共に、幼稚園の教員養成も積極的に行った。これを皮切りに、プロイセン全土に幼稚園が拡大していった。しかし、フレーベルがルター派プロテスタントであることを警戒したプロイセン政府は、「幼稚園は子供を無神論に導き、フレーベルは子供に社会主義を吹き込む」として禁止命令を出した。これには彼の甥のユリウス・フレーベル1848年の革命に深く関与していたこともある。そのため、フレーベルの晩年は必ずしも良いものではなかった。

ニーダーザクセン州マリエンタールで死去。

その後世への影響

幼児教育のための最初の学校の創設では、ロバート・オウエンに数年の遅れをとったが、幼稚園(Kindergarten)という言葉は、彼の造語で、その功績に感謝して、世界の多くの国々で幼児教育のための学校は、Kindergarten、Kindergarden と呼ばれている。日本語の「幼稚園」もそれを翻訳したもの。 幼稚園では、お遊戯、お絵かき、生活体験などが重視され、園庭と花壇があるというのは、彼のコンセプトから生まれたものである。

また、教育のための玩具として「恩物」(おんぶつ、ドイツ語=Spielgabe、英語=Froebel Gifts)を開発したことでも知られる。これは、球や立方体などの数学的な原理の学習や生活の周囲にあるものをそれで表現したりして遊ぶもので、教育玩具の始まりをなすものといってもいい。国内のいくつかの幼稚園では、これを幼児教育に積極的に活用しているところがある。アメリカの著名な建築家、フランク・ロイド・ライトは、自分の建築がこの恩物の影響を受けたものだと語っているし、またバウハウスの発想やその教育にも影響を及ぼした。

著書に、『フレーベル自伝』、『人の教育』、『幼稚園教育学』、『母の歌と愛撫の歌』などがある。フレーベルの没後に編纂された「フレーベル教育学著作全集」(1862年-1863年)が、『フレーベル全集』として玉川大学出版部から全5巻で刊行されている。ドイツ本国においても著名な日本人研究者としては、荘司雅子、小笠原道雄が挙げられる。フレーベルの研究は、日本の幼稚園保育所教育に大きな影響を与えてきた。

なお、アンパンマンで有名な出版社、フレーベル館は、彼の名前に由来したものである。[1]

主要な著作

  • 『フレーベル全集』全5巻 玉川大学出版部 1977-1981年
    • 第1巻「教育の弁明」1977年
    • 第2巻「人の教育」1976年
    • 第3巻「教育論文集」1977年
    • 第4巻「幼稚園教育学」1981年
    • 第5巻「続 幼稚園教育学、母の歌と愛撫の歌」1981年
  • 『フレーベル自伝』(長田新訳)1937年(邦訳:岩波文庫 1949年)
  • 『人間の教育』(田制佐重訳 文京書院 1924年、岩崎次男訳 明治図書 1960年、荒井武訳 岩波書店 1964年)
  • 『母の歌と愛撫の歌』(フリードリヒ・ウンゲル絵 ; ロバート・コール作曲 ; 熊谷周子編 ドレミ楽譜出版社 1991年)
  • 『幼稚園教育学』

参考文献

  • 倉橋惣三・佐佐木香一『フレーベル・コメニウス』岩波書店 1939年
  • 荘司雅子『フレーベル人間教育入門』明治図書 1973年
  • 荘司雅子『フレーベルの生涯と思想』玉川大学出版部 1975年
  • 荘司雅子『フレーベル教育学への旅』日本記録映画研究所 1985年
  • H・ハイラント『フレーベル入門』玉川大学出版部 1981年
  • 小笠原道雄『フレーベルとその時代』玉川大学出版部 1994年
  • 岩崎次男『フレーベル教育学の研究』玉川大学出版部 1999年
  • 日本ペスタロッチー・フレーベル学会『ペスタロッチー・フレーベル事典』玉川大学出版部 1996年

脚注

関連項目

外部リンク