B-29 (航空機)
B-29 スーパーフォートレス
B-29は、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機。愛称はスーパーフォートレス(Superfortress)。戦時中の日本では「超空(ちょうそら)の要塞」という呼称もあった。
Contents
特徴
愛称は「スーパーフォートレス」。日本語では「超要塞」と訳される[1]。戦時中の日本には、「空の要塞」B-17を超える「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」という呼称もあった[2][3]。
B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定した設計である。B-29による日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となった。
高空を飛ぶ場合、従来の飛行機では機内の気圧・気温が低下するため、対策として乗員・乗客に酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要だが、B-29は現在の旅客機のように室内を高度約1,000mと同等の空気圧に保ち快適に飛行できる与圧室を装備、乗員は通常酸素マスクなしで15時間搭乗していた。前部居住区画と後部居住区画との往来のために爆弾倉の上に連絡用パイプがある。
ボーイングは第二次大戦直前の1938年に登場した旅客機のボーイング307ですでに与圧客室を採用、他にもロッキード社のコンステレーションなどでも与圧室は採用されている。また防寒用の空調も完備で、搭乗員らは通常の飛行服のみで搭乗していた。撃墜されたB-29乗員の遺体を日本側が回収した際、上半身Tシャツしか着ていない者もいるほど空調は完備されていた。それを知らない日本側は搭乗員に防寒着も支給できないとし、アメリカもまた困窮していると宣伝を行った。
与圧室採用で、機体に旋回機関銃の射手(銃手)が乗る銃塔が装備できなくなったため、集中火器管制射手が新たに機体後部に独立して取付けられた円蓋から、機銃だけが装備された2つの銃塔を遠隔操作する方式をとった、このため射手が銃塔内から窓越しに見える敵迎撃機に向かっての機銃操作はなくなり、独立した円蓋から死角なく全方位の接近機の視認が可能となった。その結果銃塔が非常にコンパクトになっている。また、敵機を照準器のレティクル内に捉えるだけで自動的に弾道計算して発砲するという優れた火器管制装置(ゼネラル・エレクトリック社製)搭載で、それまで非常に高い練度を必要とした見越し射撃が誰でも可能となり、従来の爆撃機搭載防御火器よりも命中率が驚異的に向上、敵機はうかつに接近できなくなった。
B-29は2基の排気タービン装備ライト R-3350エンジンを4発搭載、高出力の最新鋭エンジンだが、冷却に問題があり初期にはトラブルが多かった(B-17は1基の排気タービン装備の4発)
B-17、B-24に続き過給機として排気タービンを装備。ターボチャージャーは各国で開発が進められていたが、大戦中に実用化したのはアメリカのみ。この他、高高度での出力確保のため、アメリカとイギリスでは機械式の2段2速過給機が実用化されていたが、ドイツや日本では1段2速過給機装備だった。このタービンには排気ガスと回転による高温高圧がかかるため、強度を維持するには高度な合金・冶金技術が要求された。しかしアメリカは耐久力向上ではなくタービンを消耗品と割り切り、交換前提の設計とすることで素早く実用化した。
歴史
開発段階
アメリカ陸軍の航空部門であるアメリカ陸軍航空隊は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍を中心とし長距離渡洋爆撃を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。そして1939年9月1日のナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻の日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とされるべきとの勧告している。
1939年11月、行動半径2000マイルを持ち、B-17、B-24に優る四発爆撃機の試作要求が提出される[4]。1940年6月27日、5機が予備発注される[5](XB-29)。1942年9月21日、B-29が初飛行[6]。試作第一号機のXB-29-BOがエディ・アレンと彼のチームによって飛行した。エディ・アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日、テスト飛行中のエンジン火災で機体が失われ事故死、また、他の搭乗員も脱出に失敗、全員が死亡した。さらに操縦不能の機体が五階建てビルに衝突、ビルにいた19名の民間人と、事故処理の消防隊員1名が死亡した。41-003はB-29最初の事故喪失機である。議会が発足させた調査委員会(委員長はハリー・S・トルーマン上院議員(当時))は、急ピッチな開発方針のもと、エンジンメーカーのライト社が質より量優先の生産体制をとり、エンジンの信頼性低下を招いたことを明らかにし、メーカーと航空軍に対し厳重に改善を勧告した。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。
1943年6月、米陸軍航空軍に引き渡される[7]。
第二次世界大戦
1943年8月、米英首脳がカナダのケベックでクァドラント会談を行ったが、その中でB-29の使用が戦略の一つに挙げられた。それはアメリカによるセッティング・サン計画であり、中国を基地とするB-29の28機ずつの10編隊(逐次20編隊に増強)から始め、ドイツ降伏から12か月以内に日本を屈服させることを目標にしていた[8]。 その後、米陸軍のジョセフ・スティルウェルは兵站の支援が困難と考え、セッティング・サン計画の代案として、桂林―長沙に沿う数基地を前進基地とし、カルカッタ地区を駐留飛行場とするツヮイライト計画を提出した。1943年10月13日、航空本部長ヘンリー・アーノルドはその改訂案を米大統領に提出。それによれば、前進基地を四川省の成都とし、日本本土攻撃の開始を1944年4月1日と予定した。大統領はこれを承認し、11月10日に英国と中国から飛行場の確保を取り付け、この計画は日本の早期持続爆撃を目的としたマッターホルン計画として発足した[9]。
1944年4月、ヨーロッパ経由でインドへ向かう途中、イギリス本土に立ち寄ったB-29をドイツ空軍偵察機が偶然発見、高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29実戦投入の事実はドイツ空軍を狼狽させ、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機Ta183の新規開発を急がせた。しかし、B-29はすでに1943年8月のケベック会談で対日戦専用とされ、ドイツ空襲には使用されなかった。
同年4月26日、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)にて、単機移動中の第444爆撃航空群所属のB-29が中印国境にて日本陸軍(陸軍航空部隊)飛行第64戦隊の一式戦闘機「隼」2機と交戦。双方ともに被弾のみで墜落はなかったが、これがB-29の初戦闘となった[10]。
インドからさらに中国内陸部成都へ移動、6月半ばから満州国、東南アジアそして日本本土の九州を爆撃。
B-29は当初、軍事工場などに対する高々度からの精密爆撃を行った。昼間迎撃には、単発単座の二式戦闘機「鍾馗」、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」、五式戦闘機、零式艦上戦闘機、雷電、紫電改などが使用された。しかし、日本の単発戦闘機は性能面で高高度飛行が苦手で、また大戦後期には材料や工員の質が低下、高オクタン価航空燃料や高品質潤滑油も不足、排気タービン・インタークーラー装備のB-29迎撃は困難で、1万m高空を巡航速度で飛行するB-29は追いつくのも困難で、またかろうじて一撃をかけても、高度を回復できずその後の攻撃が続かない有様であった。このため陸軍震天隊・回天隊や、海軍は厚木基地所属の雷電による体当たり攻撃も行われた。
1944年6月16日、連合国軍による北九州への初空襲が四川省成都から八幡製鐵所を主目的として実施された。B-29は75機が参加、喪失損害は事故を含め7機喪失(うち撃墜2機)、6機被弾した。日本内地への本格空襲の始まりであった。邀撃した第19飛行団および西部軍は敵機をB-29と断定できず、航空本部や各技研、審査部が墜落機をチェックするために現地調査に向かった。残骸からマニュアルと機内装備品のステンシルからB-29と判断した[11]。墜落機は2機で折尾と若松に落ちており、若松のものはバラバラながら各部の名残りをとどめており、折尾のものは爆発炎上し見るべきものは少なかった。この時点まで日本はB-29について推定性能が出されていた程度で写真もなく、正確な形状は不明だったが、残骸の中に敵搭乗員の撮影したフィルムがあり、飛行するB-29の細部まで写っており、日本は初めてB-29の全貌を知った[12]。
8月20日、再度の八幡爆撃では、飛行第4戦隊は80機のうち23機撃墜を報告、対し損害は3機未帰還、5機が被弾した。米軍側の損失記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器で1機、航空機攻撃4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突で1機、日本機撃墜17を報告している[13]。11月5日、第468超重爆撃航空群のB-29の53機はシンガポールを爆撃、日本陸軍からは第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦「隼」15機が邀撃、B-29は一式戦「隼」1機を撃墜するも最高指揮官搭乗機である1機を喪失(第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー大佐機)[14]。
B-29は膨大な燃料が必要で、成都への燃料輸送の労力もまた膨大で効率的ではなかった。東京など日本の主要部への本格参戦は1944年11月からで、11月1日にトウキョウローズ(機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)の東京偵察が始まりである。このB-29は派生形F-13で、この型には他に第2回東京偵察行を行い、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など、偵察任務に使用された。その後11月24日以降はマリアナ諸島、サイパン島、テニアン島、グアム島から日本本土ほぼ全域への戦略爆撃を開始した。
当初は爆撃対象を軍施設や軍需工場に限定、ノルデン爆撃照準器を使った精密照準爆撃を行なったが、当初は迎撃を警戒し10000mまで上昇したためジェット気流の影響で誤差が大きく、冬は雲で視界が悪いなど条件が悪く、初任務である中島飛行機武蔵野工場への爆撃では昼間で迎撃も皆無にもかかわらず目標から大きく外れるなど、当初の命中率は2%程度だったという[15]。1944年11月29日には第73航空団所属29機が初めて東京市街地へ無差別爆撃、ハロルド・M・ハンセン少佐指揮、機体番号#42-65218機が帰路海上墜落、乗員全員戦死したが、この1機の損失のみで作戦を遂行した。
サイパンのB-29を指揮する第21爆撃集団司令官ヘイウッド・S・ハンセル准将は、1944年11月23日から出撃命令を出していたが、マリアナ基地の未完と天候に恵まれず戦果がなかった[16]。そのため、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは、中国からのB-29爆撃をやめさせその部隊をマリアナに合流させ、1945年1月20日、ハンセルの後任にカーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日時点でルメイの異動を検討していた[17]。ルメイも当初は精密爆撃を踏襲したが全く成果が上がらず、すでにハンセルが準備、実験した無差別爆撃に切り替えた[15][18]。ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、高度1500mから3000mに変更した。理由はジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。しかし低空では敵迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。当時のアメリカ軍がB-29に搭載できるレーダーは高度5000mが限界だったが、ルメイの案であれば効果が発揮された[15]。また機銃、弾薬、機銃手を外し爆弾を200キロ増やし、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなくトレイル(縦1列)に変更。乗員は恐怖したが、結果、B29の損害は軽微であった[19]。以降続けられた東京・名古屋・大阪をはじめ、日本各地の都市への爆撃は効果を発揮した。
夜間は、センチメートル波小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃ができず、斜め銃・上向き砲装備、双発の月光、二式複戦「屠龍」の夜間戦闘機が爆撃火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態で、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあった。日本軍戦闘機の機上レーダー不備と防空管制システムの不十分さに気づいたルメイは、東京大空襲の際、高度2100-2400mの低高度から焼夷弾を投下する作戦を採る。その際B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やす。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された[20]。
日本陸軍は高度1万mを飛行する爆撃機を迎撃可能な三式十二糎高射砲や五式十五糎高射砲を制式化、日本劇場や両国国技館の屋上などに設置。実際に三式十二糎高射砲はB-29を10機以上撃墜するなど一定の戦果を挙げたが、生産数は三式十二糎高射砲が120門、五式十五糎高射砲は2門と極めて少なく、全国各都市への100-500機以上の編隊での無差別爆撃に対しほとんど機能しなかった。日本高射砲部隊の主力装備はB-29に対しては射高不足の八八式七糎野戦高射砲と九九式八糎高射砲で、当時の国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。しかし、戦後の米軍発表の損害記録では、日本上空で撃墜あるいは損傷したアメリカ軍機(主にB-29)のうち高射砲によるものは1,588機で全体の65%[21]、本土防空の主力となったのは防空戦闘隊ではなく高射砲部隊である。また、首都防空担当の高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。
8万人以上の一般市民が焼死、100万人以上被災の東京大空襲、1万人焼死の大阪大空襲は、B-29の重要な「戦果」とされる。さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布し海上封鎖、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。特に関門海峡はじめ主要港湾や海峡に多くの機雷を投下、当初は数十機編隊で、1機あたり爆弾搭載量2-3トンであったが、1945年になると防御火器を撤去し5-6トン搭載になり、最盛期にはB-29約400-500機の大編隊で来襲した。同年春以降は、東京・大阪・名古屋など大都市をほぼ焼き尽くしたので、地方都市を目標とし、数十機から百数十機で爆撃した。またアメリカ軍は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成、B-29によって全国32都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。
B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知ったとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がった。
被弾・故障し帰還および帰還後喪失のB-29が多いため、不時着用と護衛戦闘機基地として硫黄島が選ばれ、アメリカ軍は激戦の末この島を奪取(硫黄島の戦い)。同島までたどり着けないB-29のために、東京湾近辺に潜水艦が配置され乗員救助にあたった。
硫黄島占領後、護衛機P-51Dが随伴するようになると、空中戦における運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になった。それでも300機以上に達するB-29の日本本土作戦による喪失機の半数以上(硫黄島陥落前の大半)は日本軍戦闘機の通常攻撃(体当たりではない)によるもの、高射砲、またはそれらの攻撃を受けての損傷により飛行不能となって不時着したものであった。特に京浜地区の防衛を担う立川陸軍飛行場や調布陸軍飛行場に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電はB-29にとって危険な存在で、爆撃後背後から襲いかかられ一度に十数機が被撃墜・不時着の憂き目に合うこともしばしばであった。
沖縄戦が始まると、九州の各航空基地から出撃した特攻機にアメリカ海軍は大きな損害を被った。第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス中将は「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 とB-29による九州の特攻基地爆撃を要請した[22]。ルメイは、B-29は日本の都市を戦略爆撃することが戦争遂行に最も寄与することと考えており、B-29を戦術爆撃任務に回すことに難色を示したが、スプルーアンスの懇願を受けたアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官のチェスター・ニミッツ元帥からの強い要請により、ルメイは渋々B-29を戦術爆撃任務に回すこととし[23]、4月上旬から延べ2,000機のB-29が、日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、 九州の航空基地の攻撃に転用されている[24]。
しかし、B-29は分散していた特攻機に損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。陸軍航空軍の働きに失望したスプルーアンスは「彼ら(陸軍航空軍)は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[25]。しかし、日本軍もB-29が飛行場攻撃で投下していく瞬発信管の破片爆弾と時限爆弾により、爆撃後長い時間作戦が妨げられるため、特攻作戦を指揮していた第5航空艦隊司令長官宇垣纒中将を悩ませていた[26]。
スプルーアンスは、陸軍航空軍が殆ど成果を挙げなかったと評価しており、「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返している陸軍の重爆撃機隊(B-29のこと)のやり方とはまったく対照的である。私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。日本の航空部隊がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。」と非難している[27]。
一方で、スプルーアンスに非難されたルメイも「B-29は戦術爆撃機ではなく、そんなふりをしたこともない。我々がどんなに飛行場を叩いても、カミカゼの脅威をゼロにすることはできなかった。」とB-29による特攻基地の破壊は困難であったと総括している[28]。
同年8月、広島市・長崎市に、原子爆弾(新型爆弾)を投下、広島・長崎あわせ30万人以上の市民を殺戮した。広島に原子爆弾を投下したB-29はエノラ・ゲイ、長崎に原子爆弾を投下した機はボックスカーと呼ばれる。広島にはウラン型「リトルボーイ」、長崎にはプルトニウム型「ファットマン」が投下された(詳細は広島市への原子爆弾投下、長崎市への原子爆弾投下参照)。
アメリカではこれらの戦果により、日本の終戦を早め「本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害が予想される戦いを避けることができたと評価している。この評価もあって1947年に陸軍航空隊は陸軍から独立してアメリカ空軍に改組された。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元されスミソニアン博物館に展示されることとなった。また、ボックスカーは国立アメリカ空軍博物館に実機が保管されている。
香淳皇后は、ポツダム宣言受諾の1945年8月15日から数日後、疎開先の皇太子(今上天皇)に手紙を送っている。その中には「毎日B-29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横無尽に大きな音を立て朝から晩まで飛び周っています。この手紙を書きながら、頭を上げて外を見るだけで、何機大きいのが通ったのかわかりません。B-29は残念ながら立派です」と書き記している。
大戦後も冷戦構造が顕在化した1948年のベルリン封鎖の折には、ソビエトの西ベルリンへの包囲網に対抗し西側諸国が空輸作戦を展開、B-29も参加した。当時、イギリス本土に展開したB-29には原子爆弾が搭載されていると騒がれ、ソビエトには脅威に映った。しかし実際には原爆は搭載されておらず、西ベルリンを包囲するソ連軍に対する威嚇と牽制が目的であった。
朝鮮戦争
1950年6月に始まった朝鮮戦争の初頭、ソビエトの支援を受けつつも北朝鮮軍(共産軍)はジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の制空権を有し、B-29は自由に高高度爆撃を行なった。
洛東江(ナクトンガン)戦線で、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中の北朝鮮軍に向け、98機のB-29が26分間に960トンの爆弾を投下し絨毯爆撃を加えた。平壌にも昼夜にかけ爆撃を加えた。1994年に死去した金日成は生前、「米軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた[29]。
しかし1950年10月19日、中国人民志願軍が参戦すると、同軍のソ連製戦闘機MiG-15が戦闘空域に進出、形勢が逆転した。ジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/h、装備する37mm機関砲も強力で、MiG-15の性能は、朝鮮戦争初頭にはアメリカ軍ジェット戦闘機を凌駕していた。アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽後退翼を持つ高速最新鋭機F-86Aセイバーを投入、制空権の回復に努めた。
北朝鮮軍の脆弱な防空体制により、低空から悠々と爆撃していたB-29にMiG-15が襲い掛かり、それまで戦闘での損失が殆どなかったB-29が撃墜されることもあった。1951年4月12日には、中朝国境の鉄橋を攻撃するため出撃した48機のB-29に数十機のMiG-15が襲い掛かり、3機のB-29が撃墜され7機が撃破されている。B-29は危険回避の為、低空爆撃を止め、20,000フィートからの高高度からの爆撃を行ったり、開発された近距離ナビゲーションシステムSHORANを使用しての夜間爆撃を行った。当初はMiG-15に苦戦したが、その後は損失も減り、中朝国境の多くの橋や北朝鮮の発電施設の90%を破壊し化学工場を一掃した。朝鮮戦争休戦までにB-29は延べ21,000回出撃し、約167,000トンの爆弾を投下したが、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのは16機であった。逆にB-29は搭載火器で17機のMiG-15を撃墜、11機を撃破している。その他4機が高射砲で撃墜され、14機が他の理由で失われたが、合計損失数は34機で損失率は0.1%以下[30]。太平洋戦争での損失と比べると軽微であったが、これは基地までの距離が太平洋戦争と比べて劇的に近く、損傷しても海上に不時着する必要が無かったためで[31]、もはやジェット戦闘機には対抗できないことが明らかとなった。
B-29後継機は、改良型B-50およびB-36だが、上述のジェット戦闘機による撃墜が増えたことやB-52などジェット爆撃機が戦略爆撃機の主力となったことなどで、朝鮮戦争後は次第に旧式機とみなされ主力から離れていった。しかし、1954年頃の対ソ連核攻撃シナリオでは、B-29も主力と見なされていた。一方、ソ連でも日本爆撃後に不時着したB-29を分析し模倣した爆撃機Tu-4を製造し、Il-28やTu-16などその後の爆撃機に引き継がれた。
戦後
1950年代に超音速機の開発の際にX-1などの超音速機を吊り下げて上空で切り離す役目をしたことが末期の活躍であり、この様子は映画ライトスタッフに登場する。その後1960年代に入る頃には退役した。
1953年にテックス・アヴェリーにより、B-29を擬人化し妻子を持たせた米国製アニメ『ぼくはジェット機』が製作され、日本でもテレビ放映された。そこではプロペラ機がジェット機に世代交代して衰退する、その当時予測された将来図が描かれている。
陸軍航空軍が作成したマニュアル類は全て公開され、日本語翻訳が出版されている(B‐29操縦マニュアル ISBN 978-4769809272)。
グリーンランドには1947年に不時着したB-29キーバードが20世紀末まで存在していた。1994年、アメリカの有志が機体を修理し本国に帰還させるプロジェクトを実施したが、離陸のため滑走中に機体後部から発火し、喪失している[32]。
損失
B-29所属部隊の戦績と損失 [33]
第20空軍 1944年6月5日以降 | |
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作戦数 | 380 |
戦闘出撃機数 | 31,387 |
その他出撃数 | 1,617 |
出撃機数合計 | 33,004 |
投下爆弾・機雷トン | 171,060 |
戦闘損失数[34] | 494 |
アメリカ本土での訓練損失 | 260 |
損失合計 | 754 |
搭乗員戦死 | 576 |
搭乗員行方不明 | 2,406 |
搭乗員戦傷 | 433 |
搭乗員死傷者合計 | 3,415 |
損失原因が判明している147機についての損失原因の構成比率 [35]
損失原因 | 構成比率 |
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戦闘機により撃墜 | 50% |
対空砲火により撃墜 | 36% |
戦闘機・対空砲火共同 | 13% |
事故 | 1% |
アメリカ軍爆撃機の機種別損失率 [36]
爆撃機種 | 総出撃機数 | 投下爆弾トン数 | 戦闘損失機数 | 損失比率 |
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B-25 | 63,177 | 31,856 | 380 | 0.60% |
B-26 | 129,943 | 169,382 | 911 | 0.50% |
B-17 | 291,508 | 640,036 | 4,688 | 1.61% |
B-24 | 226,775 | 452,508 | 3,626 | 1.60% |
B-29 | 31,387 | 159,862 | 414 | 1.32% |
B-29の損失数は資料によって異なり、損失合計714機[37](延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。一方USAAFの第二次世界大戦の資料では[38]、アメリカ合衆国本土における事故による損失119機、アメリカ合衆国本土から海外への輸送での損失10機、配置数3,740機、出撃回数31,387回、運用中の損失414機のうち日本軍による撃墜が147機、事故を含む他の原因が267機で、延べ出撃数に対する損失率(Combat LossesとBomb Sorties比較)は1.32%程度としている[39]。1980年代までの書籍などではほぼ損害はゼロ、もしくは極めて少数であったように書いているものもあるが、実際にはかなりの数が日本軍の戦闘機や高射砲によって撃墜ないし撃破されている。
上表の通りアメリカ軍の他の爆撃機と比較してB-29の損失率は決して低くはなかった。B-17は18万ドル、B-24は21万ドル、B-25が12万ドルであったのに対し、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であった。このため損失数の増加に業を煮やした陸軍航空軍司令官アーノルドは、「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出しハンセルを叱咤している[40]。
ハンセルが第21爆撃集団司令官を更迭されると、後任のルメイは部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示し、低空からの市街地無差別爆撃を多用するように作戦を変更した[41]。また投入するB-29の機数も増やし爆撃の効果は飛躍的に増大する一方でB-29の損失も増加した。1945年5月25日には東京大空襲を上回る464機で東京を空襲したが、26機を損失している。これは一回の作戦で失われた最多数となった。また最多の564機のB-29が投入された5月23日の東京空襲では17機のB-29を損失[42]。
B-29搭乗員にとっても日本本土空襲は厳しい任務で特に東京への空襲については高射砲の弾幕も濃密で『地獄の業火』とある搭乗員は形容、無事でいるためには「奇跡が必要だった」と述懐している。日本軍戦闘機による迎撃も執拗であった。激戦の中では護衛のP-51と日本軍戦闘機との識別は困難で、B-29の機影以外の航空機に対し反射的に機銃の引き金を引く習慣がついていた[43]。
しかしアメリカ軍が沖縄に達し日本本土決戦が現実味を帯びてくると、日本軍は戦闘機を温存する方針を決定した。いっぽう日本本土に来襲するB-29は増加していた。B-29を迎撃する日本軍戦闘機はその温存方針によって減少したため、B-29の損失は減少していった。対日戦でB-29が最後の喪失は1945年8月8日で、3つの作戦に合計381機が出撃したが7機を失ったのみであった[44]。
B-29の出撃総数と第21爆撃集団のB-29出撃1回に対する日本軍戦闘機の攻撃回数推移[45]
年・月 | B-29総出撃機数 | 日本軍戦闘機攻撃回数 |
---|---|---|
1944年11月 | 611 | 4.4 |
1944年12月 | 920 | 5.4 |
1945年1月 | 1,009 | 7.9 |
1945年2月 | 1,331 | 2.2 |
1945年3月 | 3,013 | 0.2 |
1945年4月 | 3,487 | 0.8 |
1945年5月 | 4,562 | 0.3 |
1945年6月 | 5,581 | 0.3 |
1945年7月 | 6,464 | 0.02 |
1945年8月 | 3,331 | 0.01 |
戦死や行方不明となったB-29の搭乗員は合計3,041人であった。搭乗員に対し「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の市民の捕虜に対する扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」との指示があった[46]。実際、軍事目標のみを爆撃した精密爆撃の搭乗員は正式な捕虜として捕虜収容所に送られた。しかし1945年3月10日以後、非戦闘員への無差別爆撃が開始されると事情は変わる。B-29搭乗員に対して、爆撃を被った一般市民の理性を期待することはほとんど不可能で、私刑の上虐殺される危険があった。このため憲兵隊や警察は第一にB-29搭乗員の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。老人や女子供ら都市民に対する無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員の捕虜は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、人道に対する戦争犯罪者とされて略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑された。敗戦後、第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資中将は、1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員の捕虜38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として横浜の連合軍裁判所で絞首刑の判決を受け翌1949年9月17日に処刑された。群馬県邑楽町の清岩寺、丹沢山や青梅の山中には墜落し死亡したB-29搭乗員の慰霊碑がある。日本軍は撃墜ないし墜落したB-29を分別しジュラルミンを再利用した。
1945年5月、福岡県太刀洗陸軍飛行場を爆撃するために飛来したB-29が第三四三海軍航空隊戦闘四〇七飛行隊の紫電改による攻撃によって撃墜された。その時の搭乗員11人中7人が捕虜となり、うち6人は死刑とされ、同年5月17日~6月2日にかけ九州帝国大学医学部において、彼らに対する生体解剖実験が行われた。(九州大学生体解剖事件(相川事件))
なお撃墜されたり墜落して日本軍の捕虜となった搭乗員は、広島や長崎など主要都市に置かれた俘虜収容所や陸軍刑務所に収容された。広島と長崎ではB-29による原子爆弾投下の時、収容されていた米軍搭乗員の捕虜からも被爆して死亡した者が出ている。他の都市でも空襲の時、収容されていた多くの米軍搭乗員の捕虜が焼死した。
Tu-4との関係
スターリンは再三再四にわたりアメリカに長距離戦略爆撃機の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対日戦重点投入という目的もあった上に、ソビエトが戦略爆撃機を持つということに難色を示していた。そんな折、1944年7月29日の「トランプランプ」、8月の「ケイトポーマット」、及び11月の「ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル」、「ディングハウ」の4機のB-29が日本及び満州を爆撃した後、機体の故障などによりソ連領内に不時着した。ケイトポーマットの機長リチャード・M・マクグリン少佐らパイロット達は抑留された後にアメリカに送還されたが機体は没収され、ジェネラルH・H・アーノルドスペシャルはスターリンの命によりモスクワで解体調査された。トランプランプは飛行試験に供された。そしてアンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われて1946年夏に完成したのがツポレフTu-4(NATOコードネーム:ブル)である。
その後1947年8月3日にモスクワで行われた航空記念日パレードで初披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、1949年半ばにはソ連戦略爆撃軍で本格的に運用された。1950年代の終わりまでに約1,200機が製造され、そのいくつかは中華人民共和国の人民解放軍に引き渡された。一方、アメリカ空軍はTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや地対空ミサイルなどの防空設備の開発を急ぐこととなった。また、アメリカ人はB-29のあからさまなコピーであることを揶揄し「ボーイングスキー」と呼んだという。
派生型
- XB-39
- アリソンV-3420-11換装型。実用化には至らず、その後はエンジンテストベッド機として使用された。
- P2B
- 海軍向け。偵察を初めとする各種機材開発用。
- ワシントン Mk.I
- イギリス空軍に貸与したB-29。88機。
- F-13/FB-29/RB-29
- 写真偵察型。
- KB-29
- 空中給油機型。
- XB-44/B-29D/B-50
- P&W R-4360エンジン搭載。エンジンテストベッド機のXB-44の性能は良好で、生産型B-29Dとして200機が発注されたものの対日戦の終結により60機に縮小され、更には一旦全機がキャンセルされてしまうが、後にB-50として復活。
- KB-50
- P&W R-4360エンジン搭載。B-50の空中給油機型。
- C-97
- P&W R-4360エンジン搭載。主翼・尾翼・エンジン類を流用して胴体を太い2階建てにした輸送機。
- KC-97
- P&W R-4360エンジン搭載。C-97の空中給油機型。KC-135が実用化されるまで使用された。
- ボーイング377
- P&W R-4360エンジン搭載。C-97の旅客機型。「空飛ぶホテル」の異名を持つ。
諸元
- B-29A-BN[47]
- 全長:30.2 m
- 全幅:43.1 m
- 全高:8.5 m
- 翼面積:151 m2
- 自重:32.4 t
- 全備重量:62.0 t
- 最大離陸重量:64.0 t
- エンジン:ライト R-3350-23 エンジン 2,200馬力 4基
- 最大速度:576 km/h=M0.47
- 巡航速度:350 km/h=M0.29
- 航続距離:6,600 km(爆弾7,250 kg搭載時)
- 実用上昇限度:9,720 m
- 上昇時間:6,100 m/38min
- 最大爆弾搭載量:9 t
- 武装:12.7 mm AN/M2機銃 12門、20 mm 機関砲 1門
- 乗員:10名
現存する機体
凡例
型名末のアルファベット二文字は、以下の製造工場の番号である。
・BN ボーイング社レントン工場
・BW ボーイング社ウィチタ工場
・MO マーティン社オマハ工場
・BA ベル社マリエッタ工場(アトランタ)
- 完全な機体
型名 | 機体写真 | 国名 | 保存場所 | 公開状況 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
B-29A-60-BN | 200px | アメリカ | フォートワースメカム国際空港[1]に隣接する ヴィンテージ・フライング・ミュージアム[2] 管理者:記念空軍(CAF)[3] |
公開 | 飛行可能 搭乗可能 |
米陸軍 S/N 44-62070。 「Fifi」。 飛行登録ナンバー「N529B」を取得しているため、飛行可能である。 |
B-29-70-BW | 200px | アメリカ | マッコーネル空軍基地[4] 管理者:Doc's Friends |
公開 | 飛行可能 | 米陸軍 S/N 44-69972。 「Doc」。[5] 飛行登録ナンバー「N69972」を取得しているため、飛行可能である。 |
B-29-45-MO | 200px | アメリカ | アメリカ航空宇宙博物館 | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-86292。 「Enola Gay」。 広島に原爆を投下した機体。[6] |
B-29-35-MO | 200px | アメリカ | ライト・パターソン空軍基地に隣接する 国立アメリカ空軍博物館 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-27297。 「Bockscar」。 長崎に原爆を投下した機体。[7] |
B-29-A-60-BN | アメリカ | プエブロワイブラッド航空博物館[8] | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-62022。 「Peachy」。 | |
B-29-26-MO | アメリカ | トラビス空軍基地に隣接する ジミー・ドゥーリットル航空宇宙博物館 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 42-65281。 「Miss America '62」。[9] | |
B-29-75-BW | アメリカ | デイビス・モンサン空軍基地に隣接する ピマ航空宇宙博物館 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-70016。 「Sentimental Journey」。 | |
B-29-90-BW | アメリカ | エルズワース空軍基地に隣接する サウスダコタ航空宇宙博物館 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-87779。 「Legal Eagle II」。[10] | |
B-29-55-MO | アメリカ | ヒル空軍基地に隣接する ヒル航空宇宙博物館[11] |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-86408。 「Haggerty's Hag」。 | |
B-29A-35-BN | アメリカ | キャッスル飛行場 (旧キャッスル空軍基地)に隣接する キャッスル航空博物館 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-61535。 「Raz'n Hell」。 三機のB-29を使用して、一機に合成した機体。 垂直尾翼は44-61535、 主翼はB-29B-60-BA 44-84084、 胴体と水平尾翼は44-70064「Raz'n Hell」。 | |
B-29-A-40-BN | 200px | アメリカ | マーチ空軍予備役基地[12]に隣接する マーチ空軍航空博物館[13] |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-61669。 「Three Feathers III」。 |
B-29-80-BW | アメリカ | バークスデール空軍基地[14]に隣接する バークスデール世界勢力博物館[15] |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-87627。無名。[16] | |
B-29A-15-BN | アメリカ | ジョージア州立退役軍人記念公園[17] | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 42-93967。 「City of Lansford」。 | |
B-29-75-BW | アメリカ | ドビンズ空軍予備役基地 コブパークウェイ入り口 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-70113。 「Miss Marilyn Gay」 →「Hoof Hearted」 →「Sweet Eloise」。 当初名付けられた名前は 「Miss Marilyn Gay」だったが、第二次大戦後、イギリスで使用 されていた際に「Hoof Hearted」と改名され、のち1990年代に B-29スーパーフォートレス ・アソシエーションによって「Sweet Eloise」の名が送られた。 | |
B-29B-55-BA | アメリカ | ロビンス空軍基地に隣接する ロビンス航空博物館 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-84053。 「Big Red」。 | |
B-29A-55-BN | アメリカ | ニューイングランド航空博物館 | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-61975。 「Jack's Hack」。 | |
B-29A-70-BN | アメリカ | 旧ケリー空軍基地に隣接する ラックランド空軍基地内のアメリカ空軍歴史伝統博物館[18] |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-62220。 「Joltin Josie」。 | |
B-29-97-BW | アメリカ | カートランド空軍基地に隣接する 国立核科学と歴史博物館 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 45-21748。 「Duke Of Albuquerque」。[19] | |
B-29-60-BA | アメリカ | オファット空軍基地に隣接する 戦略的兵器航空宇宙博物館 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-84076。「Lucky Lady」。 | |
B-29-40-MO (原型機) |
アメリカ | ホワイトマン空軍基地 | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-61671。 1949年9月に事故で失われた 米陸軍 S/N 44-27353「The Great Artiste」として塗装されている。 | |
B-29-40-MO | アメリカ | ティンカー空軍基地[20]内にある チャールズ・B・ホール航空博物館[21] |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-27347。 「Tinker's Heritage」。 | |
B-29B-60-BA | アメリカ | オファット空軍基地に隣接する 戦略的兵器航空宇宙博物館の格納庫 |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-84076。 「Man O' War」。 | |
B-29-60-BW | アメリカ | ミュージアム・オブ・フライト[22] | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-69729。 「T Square 54」。 同博物館でレストアしていたときは、劣化防止のためレストア作業中断時はモスボール状態で保存されていたが、現在は外されている。 アメリカ空軍博物館 より ミュージアム・オブ・フライトに貸し出されている機体。[23] | |
B-29A-45-BN | イギリス | ダックスフォード帝国戦争博物館 第7格納庫 アメリカンエアミュージアム棟[24] |
公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-61748。 「It's Hawg Wild」。 | |
B-29-90-BW | 200px | 韓国 | KAI航空宇宙博物館[25] | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 45-21739 。 「Unification Kia」。 |
- 欠損した機体
型名 | 機体写真 | 国名 | 保存場所 | 公開状況 | 状態 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
KB-29P | アメリカ(アラスカ) | エイールソン空軍基地の池 | 公開 | 静態展示(放置) | 米陸軍 S/N 44-83905。 無名だが、愛称として 「The Lady Of The Lake」と呼ばれている。[26] | |
B-29-50-BW | アメリカ | クエストマスターズ博物館[27] | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 42-24791。 「The Big Time Operator」。シアトル宇宙博物館の外壁に設置されていたが、現在は クエストマスターズ博物館に 保管されている。胴体などはアメリカ空軍博物館に保管されている。 | |
B-29-97-BW | 200px | アメリカ | 公開 | 静態展示 | 米空軍 45-21787。 「Fertile Myrtle」。 飛行登録ナンバーはN29KW。 かつては飛行可能だったが、現在は分解されて機首部分のみ展示中。[28] | |
B-29-75-BW | アメリカ | 海軍兵器博物館 | 不明 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-70102。 「Here's Hopin」。 | |
F-13 | アメリカ | ミード湖 | 不明 | 静態展示(放棄) | 米陸軍 S/N 45-21847。 B-29として生産されたが、のちに偵察仕様のF-13へと改装され、試験飛行をミード湖で行っていたところ、墜落事故を起こしそのまま放棄された。機体はアメリカの国家歴史登録文化財になっている。 | |
アメリカ | アメリカ空軍博物館 | 公開 | 静態展示 | 米陸軍 S/N 44-87657。 「Command Decision」。 胴体部分のみ公開。胴体は44-62139と塗装されている。 |
関連作品
- 映画
- 小説
- 『征途』
- 北海道戦争(朝鮮戦争の日本版)に投入され、日本人民空軍のMiG-15 ファゴットに迎撃される。
- 『レイテ驀進1 逆襲の機動部隊』
- シンガポールのドックで整備中の海防戦艦に改造された「陸奥」を破壊するべく38機が飛来するが、陸奥からの対空砲撃を受け、4機が撃墜され3機が逃走したうえ、直撃弾は1発もなしという散々な結果に終わる。
- ゲーム
- 第三次世界大戦により文明が崩壊した後のラスベガスを舞台とした作品、作中においてネリス空軍基地の跡地に住む「ブーマー」と呼ばれる住民から受けられるクエストにミード湖に墜落したB-29を回収するというものがある。
- アメリカ爆撃機ツリーのランクIV機体。バトルレートが6.3に設定されており、ジェット機とマッチングする事があるために断じて有利とはいえないが、本機ならではの爆弾搭載量は試合展開を大きく左右する。
脚注
- ↑ 「超」空の要塞 B29爆撃機 写真特集:時事ドットコム
- ↑ 日本ニュース 第212号「米機撃墜」の00:50あたりより
- ↑ 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 朝日新聞社編「超空の要塞の正體」昭和二十年一月十五日発行。この文献では「超」に「こう」とルビを振っている。
- ↑ 戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 67頁
- ↑ 戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 67頁
- ↑ 戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 67頁
- ↑ 戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 67頁
- ↑ 戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 66頁
- ↑ 戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 67-68頁
- ↑ 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月、p.73
- ↑ 渡辺洋二『未知の剣』文春文庫195頁
- ↑ 渡辺洋二『未知の剣』文春文庫30-32頁
- ↑ COMBAT CHRONOLOGY OF THE US ARMY AIR FORCES
- ↑ 『第二次大戦の隼のエース』 p.113
- ↑ 15.0 15.1 15.2 「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”」
- ↑ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社134-135頁
- ↑ NHKスペシャル取材班『ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う』新潮社136頁
- ↑ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書128-129頁
- ↑ 荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書136-137頁
- ↑ 「アメリカ陸軍機の全貌」1964年酣燈社刊・108頁
- ↑ 『カメラと戦争』P150。
- ↑ ブュエル(1990年)、546頁。
- ↑ ブュエル(1990年)、543頁。
- ↑ "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War)", Washington, 1 July 1946
- ↑ ブュエル(1990年)、544頁。
- ↑ 境田 & 高木 2004, p. 105
- ↑ ブュエル(1990年)、546頁。
- ↑ ポッター(1972年)、515頁
- ↑ 韓国中央日報日本語版2013年03月24日
- ↑ B-29 in Korean War 2016年6月2日閲覧
- ↑ 9th Bombardment Group 2016年6月2日閲覧
- ↑ 『幻の大戦機を探せ』(カール・ホフマン、文春文庫刊)
- ↑ History of the 9th bombbardment2016年6月4日閲覧
- ↑ Losses due to Enemy Action on Combat MissionsとNon-Enemy Action on Combat MissionsでEnemy ActionはAir to Air、Ground Fire、Cause Unknown。Non-Enemy ActionはOther Losses、Missing or Unknown Causeである。
- ↑ 「The strategic air war against Germany and Japan」DIANE Publishing P.256
- ↑ 「Air Force Fifty」Air Force Association (編)Turner Pub Co P.10
- ↑ 「別冊週刊読売・飛行機100年の記録」読売新聞社1970年刊
- ↑ https://archive.org/details/ArmyAirForcesStatisticalDigestWorldWarII
- ↑ According to the USAAF Statistical Digest for WWII: p. 310, p. 261, p. 209
- ↑ 「JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡」米国戦略爆撃調査団編集 大谷内和夫訳 P.217
- ↑ 『B-29日本爆撃30回の実録』チェスター.マーシャル著 ネコ・パブリッシング P.228
- ↑ The Story of The “Billy Mitchell Group”468 H-Bomb Group – From the C.B.I. to the Marianas 2016年6月5日閲覧
- ↑ 『B-29日本爆撃30回の実録』チェスター.マーシャル著 ネコ・パブリッシング P.238
- ↑ The Story of The “Billy Mitchell Group”468 H-Bomb Group – From the C.B.I. to the Marianas 2016年6月5日閲覧
- ↑ 米国戦略爆撃調査団 1996, pp. 146-148
- ↑ 搭乗員は不時着し日本人と遭遇した際に備え、日本円や土産用のアメリカ製腕時計なども携帯していた。
- ↑ 出典:航空情報編集部編『第2次大戦アメリカ陸軍機の全貌』110頁・酣燈社1964年刊
- ↑ 『川島雄三 サヨナラだけが人生だ』(藤本義一、河出書房新社、ISBN 4-309-26453-0)
参考文献
- 「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”」 - NHKドキュメンタリー
- 小倉磐夫著『カメラと戦争』朝日新聞社
- 柳田邦男著『零戦燃ゆ』文春文庫
- トーマス・B・ブュエル 『提督スプルーアンス』 小城正(訳)、学習研究社、2000。
- ヘンリー境田 『B‐29対日本陸軍戦闘機』 大日本絵画〈オスプレイ軍用機シリーズ47〉、2004年。ISBN 4499228503。
- E.B.ポッター 『提督ニミッツ』 南郷 洋一郎、フジ出版社、1979年。
- 『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡』 米国戦略爆撃調査団 編纂、大谷内和夫(訳)、光人社、1996年。ISBN 4769807686。
関連文献
関連項目
外部リンク
- NASA(正式には前身のNACA)によるB29のリポート (PDF) (英語)
- According to the USAAF Statistical Digest for WWII: (PDF) (英語)
- Birth of the B-29 (1945) - U.S. Army Air Forces, Internet Archive
- B-29の56 years ago Today(英語)
テンプレート:B-29 テンプレート:アメリカ空軍の爆撃機 テンプレート:アメリカ軍の偵察機 テンプレート:アメリカ軍の対潜哨戒機