20180729 カール・バルトの洗礼理解 (S.Kamijo)

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1.はじめに

 イエス・キリストは聖書中においては洗礼を授けてはいない。水を用いての清め、あるいは新生を与えるという思想をもつ、旧約聖書の伝統に依拠した、教団入信の儀式として、ユダヤ教への改宗者に対してなされた。また、洗礼はイエス・キリストの公生涯の始まりであった。このときヨハネの洗礼はすべての人に要求された終末的悔い改めの洗礼であったと一般的に解釈される。その後、イエス・キリストはその弟子たちに宣教命令をだしている。

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書 28:18‭-‬20 新共同訳)‬

イエス・キリストが命じた洗礼は、罪の許しと永遠の命を得させるもであった。復活後、洗礼は聖霊の力によって、イエスとともに死に、ともに新しい命に生きる、契機となり、復活のイエスのからだである教会の肢となることを意味するようになった。

 これが、一般的な洗礼理解であると思う。そして、バプテスト教会は幼児洗礼を認めずかつ全浸礼であることを重要な教義としている。しかし、洗礼についての理解と教育は不十分であると思う。よって、20世紀の最も代表的なプロテスタントの神学者とされるバルトは洗礼とは何であると考えていたのかをレポートにまとめながら洗礼理解を深めたいと思う。

2.「よって」から「向けて」

 さきほど、あげた、マタイ福音書28章18-20節であるが、洗礼の方向性について、「父と子と聖霊の名によって」ではなく「父と子との聖霊の名に向けて」であると解釈している。このことにより洗礼執行者の権威は失墜する。誰でも洗礼を執り行っても良いことになる。洗礼執行者も洗礼においては、父と子と聖霊の名に向かうことが求められるのである。そうであるならば、その行動は、受洗も執行者もそれに向き合うためには相当の準備が必要なものとなるだろう。

3. 幼児洗礼と秩序の問題

また、幼児洗礼についてバルトは次のように語っている。

洗礼は、信仰の保証である。あるいは、イエス・キリストに血と霊によって、その起源が確かなものとされて、信仰の基礎づけが保証されることである。〔その場合〕自分の信仰を告白し、洗礼を受けることを願う信仰する人間が、前提とされている。 [カール, キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による, 2003, ページ: 115]

幼児洗礼を執拗に固守する真の根拠は、きわめて端的に言って、もし幼児洗礼をやめるならば、教会は急に驚くべき仕方で空中に投げ出されることになるだろう、という点である。なぜかと言えば、その場合には、一人一人皆、自分がキリスト者であろうと思うかどうかを、決定しなくてはならないからである。しかし、その場合、どれだけのキリスト者が、存在するであろうか。 [カール, キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による, 2003, ページ: 117]

幼児洗礼を固守することの帰結は、第一には、「堅信礼」によって洗礼が、その価値を失うということである。……今一つの帰結は、必然的に、自分のキリスト者としての存在を少しも問われず・したがってまた受洗の慰めを実現し得ない人々の大衆教会(マッセンキルヘ)が、形成されるということである。……ここで論じているのは、単に秩序の問題である。 [カール, キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による, 2003, ページ: 118]

このようにバルトは幼児洗礼についてはイエス・キリストを信仰しているという認識がない点を指摘し、反対の見解を示し、その理由は秩序の問題としている。幼児はイエス・キリストに向けて洗礼をするのはできない。これは、成人した人でも同じである洗礼の目標がわからないまま洗礼をうけることは避けるべきである。秩序の崩壊とは、どこに向かうか何に向っているのかわからない教会が形作られてしまうことである。さらに、堅信礼が事実上の洗礼となるということになってしまうことである。幼児洗礼がただ単に教会に人をつなぎとめる手段として用いられているならば、他にも無秩序に人をつなぎとめる人が行う手段が増え続けることになるだろう。1948年に指摘している大衆教会化の問題は現実のものとなりつつある。問題がそのまま残り続けたとも言える。  

3.私は生きている

 ここまで、ヨハネの洗礼について見てきたと思う。次は、イエス・キリストの洗礼について見たいと思う。やはりバルトは説教者である。1955年バーゼル刑務所における説教に洗礼についての記述があった。この説教がイエス・キリストの洗礼が何であるのかをわかりやすく語っていると思う。

しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。(ヨハネによる福音書 14:19 新共同訳)

〔聖霊による〕洗礼を授けることによって、きみたちの破滅から救いを、きみたちの罪から義〔と聖性〕を、きみたちの死(トート)からの命を創り出すことによって、私は、我が〈人間の生〉を生きている。それは、私において、きみたちすべての者が、新しい人間へと――己れ自身の誉れを追い求める代わりに、希望のうちに神の誉れを帰する新しい人間へと――新たに生まれるためにだ!……こうして、――きみたちの益となるために我が〈人間の生〉をこのように高く挙げる(アウフヘーベン)ことによって――、私は、我が生を、我が〈人間の生〉を、きみたちと同じ者たる我が生を、生きている [カール, 聖書と説教, 2010, ページ: 266-267]

聖霊による洗礼はイエス・キリストの歴史そのものである。そして、彼がどのような生き方をしたかといえば、彼は私たちをただ一方的に無償に救うためであった。さらに十字架の出来事のあとに起きた復活により、イエス・キリストはまだ生きているのである。そして、その偉大な出来事を成し遂げたイエス・キリストと同じ生を生きているという自覚と参与が、聖霊による洗礼を受けたという認識なのかもしれない。

4.終わりに

 洗礼とは始まりであり、通過点であるのかもしれない、始まりも通過点も同様に大切である。始まりは目的地も何もわからないかもしれないが、通過点にまで来ると、約束された最後の希望の目標が見えてくるかもしれない、イエス・キリストに向かい、生きておられるイエス・キリストと共に歩む、そのチェック地点として、洗礼はあるのかもしれない。チェックするのはただの人であり、その行為において、劇的変化や奇跡のようなことは起こらないだろうが、自身の位置とイエス・キリストの位置くらいは確認できるかもしれない。近くで共に歩んでくれている自覚があれば、それは至上の喜びであろう。

参考文献

カールバルト. (2003). キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による. (井上 良雄, 訳) 新教出版社.
カールバルト. (2010). 聖書と説教. (天野有, 訳) 新教出版社.