20180729「ナザレのイエス」を現代で言うならば(S.Kamijo)

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1.はじめに

 このレポートにおいて、「ナザレのイエス」という人物がどのような人であったのかを考える。ただし、このレポートにおいては、イエスを現代と身近な事例をもって比較する。これは、キリスト教的先入観がすくない日本においてイエスをどう考えるかを検討し、イエスの思想が現代においても意味をなすのかを考えるためである。

2.社会活動家イエス

 イエスの生きた時代の社会状況であるが、山我 哲雄は以下のように述べている。

「紀元後6年にはローマ帝国の属州となり、ローマ人の総監が治め、ローマ軍が駐屯するようになりました。ユダヤ人は宗教的には自治を認められており、大祭司を頭とする神殿の祭司や貴族がサドカイ派と呼ばれる支配階級を形成していましたが、……、一般人の日常生活における律法遵守にはあまり関わりませんでした。彼らはまた、ローマの支配には迎合的な態度を取っていました。  より厳格だったのは、中産階級を背景とするファリサイ派と呼ばれる……グループで、……、日常生活の全てを律法に即したものにすることを要求し……自分たちと同じようには律法を遵守できない人々を「罪人」として差別する傾向もありました。  より下層の人々の一部は、ローマの支配やその協力者に不満を抱き、武力に頼ってでもこれに抵抗しようとする「熱心党」(ゼロータイ)という過激派の運動を支持していました。……これらの人々の中には、メシア的人物が現れユダヤ人の王国を再建するという待望論も強かったようです。他方で、……世の終わりと神の審判の日が近いとする終末論的運動もさかんになり、かなり緊張した、一触即発の不安定な社会状況であったようです。」 [山我 哲雄『キリスト教入門』岩波書店,2014,p181]

とあるように不安定な社会であり、ローマ帝国支配下において徐々に階層間の格差が拡大しつつあった。下層に位置された人々が望むものは救世主であり、世直しであった。イエスの主張した「神の国」であるが、これを世直しの理念ととらえると、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書 17:20‭-‬21 新共同訳)も理解しやすくなると思う。「神の国」とは人々の思想や連帯によって実現されうるものではないのだろうか。さらに、G.タイセンによると「彼は洗礼を授けてはいない。少なくとも、彼の公の活動期間においてはそうである」 [G. タイセン(著), 大貫 隆(訳)『新約聖書―歴史・文学・宗教』教文館,2003,p.27] とある、このことからもイエスは宗教家というよりもむしろ、切迫した状況において、社会変革活動をおこなう、社会活動家の印象を受ける。‬

3.何も書き残さなかった思想犯

 「ナザレのイエスは何一つ書いたものを残さなかった。 」[G. タイセン(著), 大貫 隆(訳)『新約聖書―歴史・文学・宗教』教文館,2003,p.26]

これはソクラテスと似ている。この二名には他にも共通点がある。思想犯として官憲に裁かれ死刑となったことである。そして、後世の弟子がその言行録を残している点である。

 彼らの思想犯としての死刑であるが、時代の変化点において、先駆的な思想家や宗教家や革命家というものは、現体制側から弾圧を受けることはある。大衆や為政者が思想についていけない、誰もが現状維持を破壊されるからである。富や権力をその時代に持つ者ならばなおさらである。しかし、何も持たない身分の者はどうだろうか、差別の中、日々の生活に打ちひしがれ、日々労働を懸命にこなしても、生活がよくならない者はどうだろうか、人は生活に追われ生きることだけに懸命であれば、考える気力もなくなる。そこに、新しく力強い思想家が現れたならば、彼らを惹き付ける、その思想家や革命家の語る、言葉や夢を聞くだけで、生きる気力と希望が湧いてくるものである。このような心理状態は、比較的に現状に満足している現代日本人には理解しがたい人が多いかもしれない。ただ、小さなムーブメントは、見られる、例えば、宗教分野においては、新興宗教である。オウム事件の麻原彰晃氏の語る思想は、バブル景気が崩壊し日本の繁栄に陰りをみせ、今までの生き方を変化せざるを得ない中、社会から阻害されているような感覚を覚えていた若者に、目標をあたえてしまった。小泉純一郎氏と竹中平蔵氏が掲げた改革も多くの人を惹きつけた。小泉氏の演説は確かに上手で、何かを成し遂げてくれそうな思いがしていた。結果は、非常に痛みが伴うものだった、特に労働者にとって。派遣法改正は正社員の椅子の奪い合いとして、今もなお傷を残している。他には、一人の為政者のかたる、かつての栄光の時代を取り戻すという思想に、思想を停止させ無気力に賛同している人々もそうであろう。「美しい国」「強いアメリカ」「働き方改革」すべて字面と聞く心地よさは惹きつけられる内容であるが、どれも聞いて心地よくなる分には、構わないが、実際改革が身にふりかかると、酷なものとなるかもしれない。これは身に降りかからないとその痛みを知ることができないため。ストレスが社会から外れた者たちに蓄積する。  いくつかの例を上げたが、このようにして見ると思想が世界を動かしているという仮定が身近なもと思えてくる。権力者の語る思想と行動はどんな善政を行なおうとも、どこかに歪や報われない人を生み出してしまう。この矛盾を完全に超克しそれを実際に解決した思想家は今だいない。

 イエスやソクラテスも社会の変革者となってしまった思想家であろう。ただし、彼らには権力はなかった。よって殺されたのである。しかし、思想犯として、殺されていなければ、イエスが救世主、神の子。ソクラテスが最高の哲学者。とは、ならなかっただろう。それは、理想を語ろうともそれを実際に実行するとなると別だからである。この点においては、後にキリスト教が世界の覇権宗教となり中世絶頂期において、法皇が西ローマ帝国の皇帝をも凌ぐ政治権力を持っていた時代が、非の打ち所がない理想であったかといえば、そうではなかったからである。また、哲学者が王であること理想とする哲人政治は実現されたことはないため、結果はわからないが、理想とはならないだろう。それでも、為政者は教養と哲学を良く修めた者になってもらいたいものだが。

 思想犯として、官憲に殺害された場合、残された弟子や支持者は、その死と達成され得なかった理想を追求することができるのである。そして、死者の言動は後の世代において美化されやすい傾向がある。しかし、これは思想としては強い。美化された理想や伝承であっても、現実に存在しないために、それを受け入れるしかない。そして、その理想化された思想とその思想の実現された世界を目指し、弟子や支持者は歩み生きていくことができるのだ。他人の伝承などは相当に印象に残る人物についてしか書かれないものである。その点においても、イエスとソクラテスが印象深い人物であったことは確かだろう。その思想や話の印象深さは今もなお、多くの人の人生を左右し続けている。ただし、注意しておくべきなのは、靖国神社に祀られている英霊を国家が美化することである。力なき個人がそれを大切に思う点に関しては尊いことであるし、そこに何も言うことはない。しかし、力ある者が死者を神格化し美化を行なうとき、そこには野蛮な目的が潜んでいる。これは教会や宗教家にも当てはまる、殉教の尊さと見返りを主張し始めたら。宗教戦争や自爆攻撃の推奨の一歩手前である。

3.終わりに

 このレポートにおいて、イエスを社会活動家としてとらえることにより、彼が目指したものは社会変革であったのではなかったのではないかと思った。彼の改革は十字架刑という結末を迎えたが、その意志を引き継ぎ活動した第一世代の弟子や支援者たちに引き継がれた。その後も、様々な改革において、イエスを理想とした、改革家は多い。もし、キリスト教徒を宗教的なバイアスをなくして考えるとイエスの変革を実現させる支持者といえるかもしれない、その理想はこの世において実現不可能かもしれないが、挑み続けることがイエスの活動に参与することかもしれない。

4.参考文献

G. タイセン(著), 大貫 隆(訳)『新約聖書―歴史・文学・宗教』教文館,2003
山我 哲雄『キリスト教入門』岩波書店,2014