20180725ルネッサンスと教会について(S.Kamijo)

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1.はじめに

 ルネッサンスとは14世紀から16世紀にかけて、イタリアで始まりヨーロッパ各地に広まった文芸復興運動である。ルネッサンスとはフランス語で「再生」を意味し、古代ギリシャ・ローマ文化の再生、研究を通して「人間の発見」をもたらし、封建的秩序の束縛や神中心・教会中心の人間観・世界観から個人を開放した。「人間の発見」という点で、宗教改革とともに近代への出発点となる人間尊重の精神を生み出す大きな原動力となった。

 このように、一般的な用語集などにはまとめられる。暗黒の中世を抜け人文主義と理性と科学の時代である近代への幕開けを予感させる現代人からすれば好ましく思われるような内容である。しかし、ルネッサンスに至る前後を具体的に理解していない。突如ルネッサンスというムーブメントが発生し社会が変革されたとは思えない。そこで、このレポートにおいて、具体的な社会の変化を追いながらルネッサンスは教会にどのような影響を具体的に及ぼしたのかを考える。

2.イタリア北部の経済的再生

 イタリア地域の没落を象徴する出来事として、1309年から1377年まで教皇は南フランスのアヴィニョンに移った。さらに、ヨーロッパにおいてはペストが流行していた。封建体制において食料等は自給自足であり経済活動は衰退しており、古代ギリシャやローマの文化的遺産を引き継ぐことも困難となっていた。しかし1096年から1270年の間行われた7回の十字軍の影響で行われた東方貿易によってイタリア北部ヴェネツィアやジェノヴァなどの港町は富を蓄積した。さらに、交易が盛んになるとともにフィレンツェなど内陸都市との交易も盛んになり経済活動が再生し、港街は内陸都市も支配し都市共和国(コムーネ)となった。これらの都市の商人は政治にも大きな力をもつようになり都市の政治にも大きく参与することになった。

 芸術・学芸のパトロンの働きが、ルネッサンスの働きを左右した。パトロンは様々の地位を持っていたが、いずれも裕福な都市貴族であった。農地や商会を持ち、金融や政治を動かす実力をもった市民である。フィレンツェのメディチ家、フェラーラのエステ家、ミラノのヴィスコンティ家、スフォルツァ家、ウルビーノのモンテフェルトロ家、マントヴァのゴンツァーガ家など有名なパトロンが知られている。これらはみな都市政治の独裁的な支配者であったり、経済的な富の独占者である。都市内に巨大な城館を持ち、もしくは塔をもつ邸宅をいとなんだ。建築そのものが、ルネッサンス建築家の作品として目を引く。

 富は芸術活動においては必要なものである。新興勢力である商人が芸術を支えたことがわかる。

3.ビザンツ帝国の滅亡

 1453年イスラム教勢力であるオスマン帝国はコンスタンティノープルを攻略し東方正教勢力であるビザンツ帝国は滅亡した。このことにより、コンスタンティノープルにいたギリシャ人の学者や芸術家はイタリア北部のフィレンツェなどに亡命した。彼らは西方よりも文化学術的に古代ギリシャ・ローマ文化を引き継いでいたため、古代ギリシャ・ローマ文化を伝えることになった。そして、このことはイタリア北部で花開いていたルネッサンスを加速させることになった。

4.教皇もルネッサンスの波に乗る

 ルネッサンスはついにローマにも波及する。教皇もルネッサンスの支援者となったのである。1506年、教皇ユリウス2世(1443-1513)は中世の間捨て置かれたヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の改修を始めた。ユリウス2世はブラマンテ(1444-1514)に最初の設計をさせ、ついでラファエロ(1483-1520)、ミケランジェロ(1475-1564)などルネサンス時代を代表する芸術家がその設計や建設、壁画の制作などに加わった。サン・ピエトロ大聖堂はルネサンス様式の代表的な建造物となった。しかし、教皇の権力や財政力は落ち目であった。ルネッサンス芸術には莫大な資金が必要となる。そして、サン・ピエトロ大聖堂の改修を引き継いだ教皇レオ10世(1475-1521)は財源確保のため聖職の新設と売却、贖宥状の販売を進めた。

5.ルネッサンスと宗教改革への萌芽

 ルネッサンスはイタリアから西ヨーロッパ各地に広まりを見せるようになった。キリスト教以前のギリシャ・ローマ文化の見直しや理性を用いて人間や世界をありのままに見ようとする人文主義(ユマニスム)を発展させた。その人文主義者の中には教会の伝統や教義にただ従うだけの姿勢を批判するようなことも起きた。それは教皇も支援したイタリアルネッサンスではなくて他の西ヨーロッパ地域から起こった。

 人文主義者の代表と思われるエラスムス(1466-1536)は『痴愚神礼賛』において、痴愚女神が語り手となって、みずからを礼賛するという反語的方法を用い、人間性の本質にある狂気と当時の神学者や聖職者らの愚劣さ、腐敗をあばき批評した。

 他には、時代は遡るがイギリスにおいて,

 オックスフォード大学神学教授ジョン・ウィクリフ(1320頃-1384)は聖職階位制によるカトリックの教会制度を批判し、教皇は「反キリスト」だと断じ、ローマ・カトリックの教義が聖書を基盤にしたものでないと考え、一般人が聖書を読めるように聖書をラテン語から英語に訳した。

 彼らの行動は宗教改革へと続く思想の流れの源流付近であると思われる。その小さき流れは一国や社会や世界を巻き込むほどの変革を起こすことはなかったかもしれないが、歴史上の大事件がただ一日によってなされたというわけではないということを示す例になると思う。

6.終わりに

 はじめの問いに戻ると、ルネッサンスの前後の歴史の関連と教会を詳しく述べるというものであった。その答えは、前は十字軍に遡りそこにおける東方貿易により商人が力をつけたこと、さらに教皇の権威の弱体、さらにはイスラム勢力の台頭などの関連があげられる。後の影響は人文主義の発展とさらなる教皇の権威の失墜とローマ・カトリック教会に対する不審であったと思う。そして、この歴史の流れは宗教改革へとつながっていることもわかる。私は、経済的社会的要因から他の時代の歴史の関連を調べるならばより歴史の流れを理解しやすくなると思った。  

7.参考文献

手塚 富雄,神品 芳夫『ドイツ文学案内』岩波文庫,1993
山我 哲雄『キリスト教入門』岩波ジュニア新書,2014
用語集「現代社会」編集委員会『用語集現代社会+政治・経済』清水書院,2004
樺山 紘一『ルネサンス』講談社学術文庫,1993