黄禍論
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黄禍論(おうかろん / こうかろん、独: Gelbe Gefahr、英語: Yellow Peril)
日清戦争末期の 1895年春頃からヨーロッパで唱えられた黄色人種警戒論。 19世紀末にドイツの地理学者 F.リヒトホーフェンは,アジア民族の移住と労働力の脅威にふれ,黄色人種の人口が圧倒的に多いことが将来の脅威となるであろうと指摘した。日清戦争における日本の勝利は,ヨーロッパの白人の間に黄色人種に対する恐怖と警戒の念を強めた。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は,かつてのオスマン帝国やモンゴルのヨーロッパ遠征にみられるように,黄色人種の興隆はキリスト教文明ないしヨーロッパ文明の運命にかかわる大問題であるから,この「黄禍」に対して,ヨーロッパ列強は一致して対抗すべきであると述べ,特にロシアは地理的に「黄禍」を阻止する前衛の役割を果すべきであるから,ドイツはそのためにロシアを支援して黄色人種を抑圧すると主張した。この主張の背後には,ロシアを極東進出政策に向けることによって,ヨーロッパ,近東におけるロシアからの脅威を減殺してドイツのオスマン帝国進出政策を容易にしようとする政治的意図が存在した。この構想の最初の具体的表現が,三国干渉の対日行動であった。その後も,第1次世界大戦中の 1914年に日本がドイツの膠州湾租借地を占領した際にも黄禍論が唱えられ,また日露戦争後から 1920年代にかけてのアメリカの排日運動の際にも,黄禍論的な議論がしばしば行われた。