高台寺

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高台寺
所在地 京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町526
位置 東経135度46分52.01秒北緯35.0007611度 東経135.7811139度35.0007611; 135.7811139
山号 鷲峰山
宗派 臨済宗建仁寺派
本尊 釈迦如来
創建年 慶長11年(1606年
開基 高台院
正式名 鷲峰山 高台寿聖禅寺
別称 蒔絵の寺
文化財 霊屋、開山堂、絹本着色豊臣秀吉像、豊臣秀吉消息ほか(重要文化財)
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高台寺髙臺寺(こうだいじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院山号鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。

霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。

歴史

豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが、手狭であったため、東山の現在地に新たな寺院を建立することになった。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。寛永元年7月(1624年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺三江紹益を中興開山に招聘。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。

北政所の兄・木下家定建仁寺及び三江紹益と関係が深く、家定の七男が三江紹益のもとで出家していることも、この改宗と関連すると言われる。なお、北政所は同じ寛永元年の9月に没している。

創建当時の高台寺の仏殿は前述の康徳寺の堂を移築・改造したものであり、方丈、茶室などは伏見城から移築したものであった。また、門前に伏見城の化粧御殿が移築されて、北政所の居所とされた。高台寺の西側にある塔頭(山内寺院)の圓徳院がその跡で、北政所終焉の地とも伝わる。

境内には高台院の甥である木下勝俊の墓塔もある。

また高台寺は、江戸時代末期(幕末)の一時期、新選組から離脱した御陵衛士(高台寺党)の屯所となったこともある。

その後、近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿、方丈などを焼失。創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と北政所を祀る霊屋(おたまや)、茶室の傘亭と時雨亭などである。

境内

創建当時存在した仏殿は焼失後再建されておらず、方丈が中心的な堂宇となっている。方丈の西に庫裏、北に書院があるが、いずれも創建当時のものではない。境内東側には偃月池・臥龍池という2つの池をもつ庭園が広がり、開山堂、霊屋、茶室などが建つ。また、境内からやや離れて黒門が建つ。

諸堂

  • 庫裏 - 拝観順路入口に位置する。内部は通常非公開。玄関から垣間見える「夢」と書かれた衝立が印象的である。
  • 方丈 - 庫裏の右手に建つ。大正元年(1912年)の再建。創建当初の方丈は文禄の役後に伏見城の建物を移築したものであった。
  • 勅使門 - 方丈の南正面に位置する。大正元年(1912年)に方丈とともに再建された。
  • 書院 - 方丈の背後に建つ。
  • 開山堂(重要文化財) - 書院の東方、庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。慶長10年(1605年)の建築。元来、北政所の持仏堂だったもので、その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっている。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。この堂の天井は、秀吉の御座舟の天井と、北政所の御所車の天井を用いたものという。 
  • 観月台(重要文化財) - 書院と開山堂を結ぶ屋根つき廊の途中にある小規模な建築である。ここから北政所は亡き秀吉を偲びながら月を眺めたという。
  • 臥龍廊(がりょうろう) - 開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ屋根付きの階段、龍の背に似ているところからこの名が付けられた。
  • 霊屋(重要文化財) - 開山堂の東方、一段高くなった敷地に建つ、宝形造檜皮葺きの堂。慶長10年(1605年)の建築。内部は中央の厨子(平素、扉を閉じている)に大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・北政所の片膝立の木像がそれぞれ安置されている。厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。厨子の目立たぬところに蒔絵の作者の名が線描きされておりその点でも貴重。寺に所蔵される、北政所所用と伝える調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、これらを高台寺蒔絵と称している。高台寺蒔絵の特色は、金の平蒔絵(文様部分の漆を盛り上げずに、平滑に仕上げたもの)を主体に秋草などの絵画的な文様を描くことである。なお、北政所は自身の像の約2メートル下に葬られている。
  • 表門(重要文化財)
  • 庭園(史跡名勝) - 小堀遠州作とされ、しだれの名所。石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園として知られる。

茶室

  • 傘亭(安閑窟)(重要文化財) - 境内東奥の小高い場所に位置する。伏見城から移築したものとされ、千利休好み(=「利休作」の意)の茶室と伝える(ただし伏見城建設は利休の自刃後)。宝形造茅葺きの素朴な建物で、内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ているところから傘亭の名がある。
  • 時雨亭(重要文化財) - 傘亭の南隣にあり、傘亭との間は屋根付きの土間廊下でつながれている。珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。傘亭同様伏見城からの移築とされ、これも千利休好みと伝える。伏見城「御学問所」に擬する説もある。なお廊下は移転時に付加されたもので、両茶室はもともと別々に建っていたと考えられる。
  • 遺芳庵 - 方丈・書院の背後にある田舎屋風の茶室で、近世初期の商人で趣味人であった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てたものという。一畳台目の小規模な茶席で、炉は逆勝手向切りとする。吉野窓と称する、壁一杯に開けられた丸窓が特色である[1]。京都市上京区にあった紹益の旧邸跡から明治41年(1908年)に移築したもの。建築様式の点から、紹益と吉野太夫が生きた近世初期まではさかのぼらず、後世の人が2人を偲んで建てたものと推定されている[2]
  • 鬼瓦席 - 四畳半の茶室。遺芳庵と同様、紹益の旧邸跡から明治41年(1908年)に移築したもので、同様に、紹益と吉野太夫を偲んで後世の人が2人を偲んで建てたものと推定される。
  • 湖月庵[3]

塔頭

圓徳院

北政所が晩年を過ごした所と伝えられ、一説には北政所の終焉の地とされる。北政所没後に寺に改められた。

  • 長谷川等伯筆 襖絵(重要文化財) - もと大徳寺三玄院の襖絵。廃仏毀釈に際して圓徳院の蔵するところとなる(他に楽家も所蔵)。桐紋雲母(きらら)刷りの唐紙襖に描かれた非常に珍しいもので、等伯が住職に襖絵製作を申し出ていたが許されなかったので、住職の留守中に一気に描きあげてしまったものだと伝えられる。
  • 北庭(名勝) - 伏見城の北政所化粧御殿の前庭を移築したもので、桃山時代の代表的な庭園である。

春光院

北政所の甥で木下家定の嫡男であった木下勝俊が創建した寺院。勝俊の娘である春光院万花紹三の墓所。

月真院

元和2(1616)年に北政所の従弟久林元昌(玄昌)が亀井豊前守の外護により建立。幕末には、禁裏御陵衛士を拝命した伊東甲子太郎(いとうかしたろ)以下15名が屯所を構えた。

その他

  • 掌(しょう)美術館 - 境内から公道を挟んで西側、飲食店の2階に位置する小美術館。豊臣秀吉、北政所の肖像画のほか、調度品、絵画、文書など高台寺所蔵の美術品を多数保存、展示する。
  • 台所坂 - ねねの道から高台寺の境内へと続く道で、北政所は秀吉の菩提を弔うためにこの道を往き来したといわれる。
  • ねねの道 - 知恵の道、神幸道と合わせて東山参道(三つの道)と言い、円山公園付近で接続して、それぞれ知恩院八坂神社へと続く。

文化財

重要文化財

  • 表門
  • 霊屋
  • 開山堂
  • 傘亭(安閑窟)および時雨亭(附:土間廊下)
  • 観月台
  • 絹本着色十六羅漢像
  • 絹本着色豊臣秀吉像(附:絹本着色高台院像、絹本着色小早川秀秋像、高台院消息)
  • 蒔絵調度類 32点(細目は後出)
  • 亀甲花菱文縫箔打掛
  • 綴織鳥獣文陣羽織
  • 豊臣秀吉消息(4月13日付)
  • 豊臣秀吉消息(8月9日付)
  • 梵鐘 慶長十一年(1606)銘 - 木下家定が寄進したと伝わる。老朽化のため2010年に鐘楼から撤去され、収蔵庫完成待ちの状態。[4]

史跡及び名勝

  • 高台寺庭園

近隣の施設

脚注

  1. 「台目」は、通常の畳の4分の3の大きさの畳。「逆勝手向切り」は、茶室内のどの位置に炉を設けるかを指す用語。多くの茶室では亭主から見て右側に客が座るような位置に炉を切るが、「逆勝手」は、亭主から見て左に客が座るような位置に炉を切るもので、例外的な形である。
  2. 前久夫『すぐわかる 茶室の見かた 改訂版』、東京美術、2011、pp.74 - 75
  3. http://www.kodaiji.com/keidai
  4. 京都新聞 - 時刻み400年、重文の梵鐘引退 高台寺(2010年11月28日閲覧)

関連項目

外部リンク