飯泉嘉門
飯泉 嘉門(いいずみ かもん(出生時の読み方は「いいずみ よしかど」)、1960年7月29日 - )は、日本の自治官僚、政治家。徳島県知事。
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略歴
大阪府池田市出身。帝塚山学院中等部から私立灘高等学校に進学。東京大学法学部卒業。
1984年(昭和59年)4月に旧自治省に入省。その間に新潟県、山梨県、埼玉県、旧郵政省、徳島県に出向。徳島県商工労働部長、同県民環境部長を経て、2003年(平成15年)5月に同知事就任。2015年(平成27年)4月、知事に再選。
飯泉県政
全国から「徳島こそ」と言われる県作りを目指す、「オンリーワン徳島」を標榜した県政を行っている。この指針となるのが「オンリーワン徳島行動計画」であり、次の7大基本目標が掲げられている。
- 基本目標1 「オープンとくしま」の実現 : 清潔感と自信みなぎる「オープンとくしま」の実現を目指す。
- 基本目標2 「経済再生とくしま」の実現 : 経済活き活き、雇用はつらつ「経済再生とくしま」の実現を目指す。
- 基本目標3 「環境首都とくしま」の実現 : 豊富な自然環境を活かした、世界に誇れる「環境首都とくしま」の実現を目指す。
- 基本目標4 「安全・安心とくしま」の実現 : 南海地震対策をはじめ安心して暮らせる「安全・安心とくしま」の実現を目指す。
- 基本目標5 「いやしの国とくしま」の実現 : 子どものびのび、文化の香り漂う「いやしの国とくしま」の実現を目指す。
- 基本目標6 「ユニバーサルとくしま」の実現 : 年代、性別などを問わず、すべての人が主体性を持ってはつらつと生活できる「ユニバーサルとくしま」の実現を目指す。
- 基本目標7 「にぎわいとくしま」の実現 : 地域の個性を伸ばし、都市部・中山間地域を問わずにぎわう「にぎわいとくしま」の実現を目指す。
この行動計画を基調として、毎年度の予算編成が行われている。予算編成においては、ほぼ全ての事業において見直しを実施し、コスト削減と事業の取捨選択を図っている。2期目に入ってからは、9000億円超に上る膨大な県債残高の圧縮やそれに伴っての県債発行の抑制などの緊縮財政による財政健全化を進める一方で、喫緊の課題である南海地震対策など必要とされる部分に重点的に予算を配分する事を目指し、「二兎を限りなく追う」(飯泉知事の発言。この言葉は、ことわざの「二兎を追う者は一兎をも得ず」を引用している。)を目標に据えた予算編成を行っている。具体的には県土整備予算(土木費)の抑制と、ゼロ予算事業(予算を付ける事なく実施可能な事業)の拡大を進めている。
その具体的な効果は着実に現れつつある。まず、圓藤県政下において5000億円を大きく超えていた予算規模は太田県政を経て4500億円まで圧縮され、コスト削減の効果と取捨選択により、平成19年度は県債残高が初めて減少に転じた。しかし、小泉内閣で進められた三位一体改革による地方交付税の大幅削減により、200億円近い歳入減を強いられたことや県内経済の低迷、人口減少もあり、財政状況はより一層厳しくなっている。実際、19年度の県債残高減少についても、公債費を基金を大幅に取り崩したからこそできた事であり、この大幅な取り崩しによって基金残高は著しく減少している。福田内閣の地方重視政策によって、平成20年度予算編成段階では交付金が32億円増額されたものの、財政状況に改善の兆しはまだ見られない。この危機的な財政状況を打破するために、飯泉知事は、従来は知事や副知事などの上級職のみに課していた給与・賞与の削減を一般職員にも課す方針を決定した。この削減案は、県職員労組にもすでに承認を得ており、実施は確実である。しかし、一般職員の給与・賞与の削減については、賛成の声が多い一方で、「最終手段であり、パンドラの箱を開けたようなもの」という意見や、「低迷する県内経済に悪影響を与える」という意見も根強い。
Jリーグ誘致
2003年(平成15年)の県知事選の公約で、当時日本フットボールリーグ (JFL) の強豪チームであり、徳島県鳴門市をホームタウンとする大塚製薬FCを母体に、Jリーグに加盟するチームを作ることを表明した。Jリーグの球団があり、2002 FIFAワールドカップの会場ともなった新潟県や埼玉県に飯泉が出向していた経験から、徳島にもJリーグの球団を誘致することで地域の活性化を目指したとされる。
大塚製薬を母体とするJリーグ球団の構想は1993-94年頃にも盛り上がっていたが、当時はJリーグへの参入条件が厳しく(J2リーグが存在していなかったため)、運営費の高騰が予想されることなどから断念せざるを得ない事情があった。飯泉が公約としてJリーグ参入を表明したことで、今度こそは実現するのではないかと地元のサポーターを中心に盛り上がりを見せた。
地域と行政が一体となった誘致運動を起こし、大塚製薬FCがJFLで2年連続優勝するなどの成績を残したことから、2005年シーズンより四国初となるJ2リーグへの参入が決定した。チーム名は公募により、1995年から98年までつけていた「ヴォルティス」を復活させ、「徳島ヴォルティス」となった。
しゃべり場とくしま
飯泉の知事就任後、「しゃべり場とくしま」と名付けられた知事と県民とのパネルディスカッションが行われている。
テーマを定めず、県民から広く意見を募集することを目的としており、徳島市などの中心部だけではなく山村を含めた県内各地で2・3か月に1回程度開催されている。
全国的な活動
徳島県内のみならず、全国知事会など、全国的な場での活動も精力的に行っており、いわゆる「改革派知事」の一人とされている。現在は、新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)に、知事・市町村長連合会議 構成員として参加しているほか、前三重県知事の北川正恭らによって立ち上げられた地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合(せんたく)にも会員として参加している。
徳島県知事
徳島県は元々自由民主党の圧倒的な地盤、いわゆる「保守王国」で、これまでの知事は、1947年(昭和22年)に社会党の阿部五郎が一期つとめたほかは、保守系の候補が当選してきた。だが、吉野川可動堰問題の是非を問う住民投票が徳島市で行われてから、保守系は失点を重ねる。2001年には圓藤寿穂が3選を果たすが、無名の社民党県議だった大田正に3万票差まで詰め寄られている。その半年後、圓藤の汚職による辞任に伴う2002年(平成14年)の県知事選では、住民運動を母体とする勝手連県民ネットワークが擁立し、野党の推薦・支援を受けて立候補した大田が圓藤の批判票を集める形で当選。非保守系の大田が知事になったことで圧倒的に保守系の議員が多い県議会との対立は決定的となった。
翌2003年(平成15年)、大田の知事不信任案は可決・成立され、直後の知事選では非保守系の大田、与党の推薦・支援を受けた飯泉が、徳島県民環境部長を辞職して立候補した。田中康夫の不信任に伴う長野県知事選で田中が大差で当選して間もないこともあって注目されたが、徳島では飯泉が当選し、革新系の徳島県政はわずか1年で幕を閉じることとなった。
2007年4月8日投開票の、徳島県知事選挙も引き続き立候補し、自民・公明の推薦(公明は、前回の県本部推薦から党本部推薦に切り替えた)を受け、再選を果たした。前回大田を推薦した民主・社民は候補を擁立できず、共産は公認候補者を擁立したが、他党は自主投票に回った。但し、既に民主党は飯泉の提案する議案にはすべて賛成しており、事実上自民公明と連立状態だった。
エピソード
- 現在は「いいずみかもん」という読み方になっている名前であるが、元々は「嘉門」の部分は「よしかど」という読み方であった。大田正との対決となった2003年の知事選でも、出馬検討中と報道された際には旧来の「いいずみよしかど」という名前で徳島新聞などに掲載されていた。しかし新聞やテレビにおいて、読み方の困難を生じる可能性のある漢字に積極的に読み仮名を振る習慣のなかった当時においても、「よしかど」という読み方には読み仮名が振られるなど、読みにくい名前であるとの印象を与える可能性があった。これを機に、選挙戦では呼び方を「かもん」とし、戸籍上の読みも「かもん」に変更した。現在では、自身の名前「かもん」と英語の「Come on」をかけていると思われる名称の政策などが多く存在する。例えば「いい徳島 カモン!」政策などはその典型例である。
- 趣味はピアノ演奏、弓道、柔道。弓道、柔道は有段者(ともに2段)である。
- 徳島県庁の知事室には、地元アピールとして、徳島ヴォルティス(Jリーグ)と徳島インディコソックス(四国アイランドリーグplus)の応援旗を貼っている。
外部リンク
公職 | ||
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先代: 大田正 |
徳島県知事 第61・62代:2003年 - |
次代: (現職) |