願泉寺 (貝塚市)
願泉寺 | |
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所在地 | 大阪府貝塚市中846 |
位置 |
北緯34度26分55秒 東経135度21分27秒 |
山号 | 金凉山 |
院号 | 真教院 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
開基 | 行基 |
別称 |
貝塚御坊 卜半(ぼっかん)さん |
文化財 | 本堂、太鼓堂、表門 |
公式HP | 貝塚御坊 願泉寺 |
地図 |
願泉寺(がんせんじ)は、大阪府貝塚市にある浄土真宗本願寺派の寺院である。本尊は阿弥陀如来。
歴史
起源は行基が建てたと伝えられる庵寺から始まり、本尊の阿弥陀如来立像も行基作とされる。
応仁年間に本願寺の蓮如が立ち寄り教義を説いたことから、1545年(天文14年)に根来寺より右京坊(卜半斎了珍)を住持に招き、1550年(天文19年)に庵寺を再興。1555年(天文24年)には石山本願寺下の寺内町として取り立てられた。
貝塚寺内は1577年(天正5年)の雑賀攻めの際に一度全焼したものの、1580年(天正8年)には了珍と門徒たちによって復興をとげ、1582年(天正10年)に豊臣秀吉から寺内諸役免除の朱印状が了珍に下付された。
1580年(天正8年)の石山合戦敗北後、本願寺の顕如は紀伊国の鷺森御坊に撤退していたが、1583年(天正11年)7月に貝塚御坊へ移り、1585年(天正13年)8月に天満本願寺へ移るまでの約2年間、貝塚御坊は本願寺教団の拠点となった。
貝塚御坊は1607年(慶長12年)に西本願寺の准如から「願泉寺」の寺号を授けられた。なお、願泉寺は1602年(慶長7年)の本願寺東西分裂以降も江戸時代を通じて東西兼帯であり、両本山歴代門主の絵像を蔵している。明治以降も東西両本願寺に属していたが、1951年(昭和26年)の宗教法人法施行によって本願寺派寺院となり、現在に至っている。
卜半家二代の了閑は貝塚寺内の私領化を目論んだために住民の反発を招いたが、1610年(慶長15年)に徳川家康から寺内諸役免除の黒印状が了閑に下付された。なお、1613年(慶長18年)には家康によって貝塚寺内に3間幅の周濠が掘られており、大坂の陣においても徳川方に協力的であった。以降、1865年(慶応元年)に大坂町奉行支配となるまで250年以上に渡って住持の卜半家が貝塚寺内の領主となって自治を行った。
ただし、自衛機能は持たず、町の出入口に置かれた番所には貝塚寺内周辺の農村を藩領とする岸和田藩の足軽が詰めており、目と鼻の先に城下町を構える岸和田藩の監視機関となっていた。なお、貝塚寺内北端の堀並橋から岸和田城下南端の寺前橋まで700mほどしか離れていない。また、願泉寺の報恩講は大規模なもので、岸和田藩が願泉寺への参詣を控えるよう領民に触書を出して警戒するほどであった。
本堂、表門などの建造物は国の重要文化財に指定されている。現在の本堂は1663年(寛文3年)の建立だが、老朽化のため2004年(平成16年)9月から2011年(平成23年)3月まで半解体修理が行われていた。
文化財
- 重要文化財
(以下は重要文化財の附(つけたり)指定)
- 鐘楼
- 表門両脇築地塀
- 目隠塀
交通
関連項目
外部リンク
- 貝塚御坊 願泉寺
- 重要文化財「願泉寺」平成の大修理(貝塚市役所教育部社会教育課)