阿史那骨咄禄

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阿史那 骨咄禄呉音:あしな こちとちろく、漢音:あしだ こつとつろく、拼音:Āshǐnà Gŭduōlù、生没年不詳)は、東突厥の第二可汗国期の初代可汗頡利可汗の族人。一時、によって滅ぼされた東突厥を復興させる(俗に突厥第二可汗国突厥第二帝国と呼ばれる)。彼の事績は『オルホン碑文』にも刻まれており、クトゥルグQutluγ:“幸得たる者”の意)またはイルティリシュ・カガン古テュルク語: 10px10px10px 10px10px10px10px10px - İltiriš-qaγan:“国家を糾合した可汗”の意)の名で知られる。史書によっては骨吐禄骨篤禄[1]とも表記される。

生涯

阿史那骨咄禄の祖父は単于右雲中都督である舎利元英の配下首領で、代々吐屯啜(トゥドゥンチュル:官名)を襲名してきた。

永隆2年(681年)、阿史那伏念が敗北すると、阿史那骨咄禄は残党を糾合して総材山に立てこもった。

永淳元年(682年)、彼らは5千余人で群盗をなし、九姓鉄勒(トクズオグズ)を抄掠し、多くの羊馬を得て次第に強盛となっていった。そして、阿史那骨咄禄は自ら立って可汗(イルティリシュ・カガン)となり、その弟の阿史那默啜を殺(シャド:官名)[2]阿史那咄悉匐を葉護(ヤブグ:官名)[3]とした。12月、阿史那骨咄禄は黒沙城に拠り、并州の北境で侵入略奪を行った。この時、単于長史の王本立のもとにいた暾欲谷English版阿史徳元珍)が帰順してきたので、阿史那骨咄禄は彼を阿波達干(アパタルカン:官名)に任命した。

永淳2年(683年)2月、突厥軍は定州を寇し、刺史霍王李元軌を破る。3月、阿史那骨咄禄と暾欲谷は単于都護府を包囲し、司馬の張行師を殺す。5月、阿史那骨咄禄らは蔚州に進寇し、刺史の李思倹を殺害。豊州都督崔智辯は朝那山を出てこれを撃つが、逆に殺される。6月、さらに突厥軍は嵐州を寇し、刺史の王徳茂を殺した[4]。11月、右武衛将軍の程務挺は単于道安撫大使となり、突厥を征伐する。

文明元年(684年)、阿史那骨咄禄は朔州を寇略し、人吏を殺掠した。唐の武則天は詔で左武威衛大将軍の程務挺を単于道安撫大使とし、これに備える。

垂拱2年(686年)、阿史那骨咄禄はまた朔・などの州を寇略した。唐は左玉鈐衛中郎将の淳于処平を陽曲道総管とし、副将中郎将の蒲英節とともに救援に赴かせ、忻州で突厥軍と戦ったが大敗し、死者は5千余人にのぼった。

垂拱3年(687年)、阿史那骨咄禄と暾欲谷がまた昌平を寇したので、唐は詔で左鷹揚衛大将軍の黒歯常之にこれを撃たせた。8月、阿史那骨咄禄がまた朔州を寇したので、黒歯常之は燕然道大総管となり、突厥軍を黄花堆で撃ち、これを大破した。突厥軍は40数里も奔走し、磧北に散走した。また、右監門衛中郎将の爨宝璧は精兵13000人を率いて塞を出て追撃したが、逆に阿史那骨咄禄に敗れ、唐軍はほぼ全滅し、爨宝璧は軽騎で遁帰した。このことに武則天は大いに怒り、骨咄禄を改めて不卒禄と呼んだ。

後に、暾欲谷は兵を率いて突騎施English版(テュルギシュ)部を討つが、戦死した。阿史那骨咄禄は天授690年 - 692年)の初めに病死した。その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の阿史那默啜が後を継いだ。

妻子

  • 可賀敦(カガトゥン:皇后)
    • イルビルゲカトゥン

脚注

  1. 『旧唐書』本紀第五
  2. 『オルホン碑文』には「タルドゥシュ部族(Tarduš-budun:右廂)のシャド(Šad)」とある。
  3. 『オルホン碑文』には「テリス部族(Tölis-budun:左廂)のヤブグ(Yabγu)」とある。
  4. 『新唐書』本紀第三では永淳元年(682年)6月甲子となっている。

参考資料

関連項目

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