鈴木梅太郎

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テンプレート:Infobox medical person 鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年4月7日 - 1943年9月20日)は、戦前日本農芸化学者米糠を脚気の予防に使えることを発見した事で有名。勲等勲一等瑞宝章東京帝国大学名誉教授

帝国学士院会員。文化勲章受章者。

来歴

静岡県榛原郡堀野新田村(現・牧之原市堀野新田)にて、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。

帝国大学農科大学(現東京大学農学部)農芸化学科を卒業する。東京帝国大学教授を務めるとともに理化学研究所の設立者として名を連ねる。東京帝国大学を退官後は東京農業大学農芸化学科教授に就任している。

略歴

  • 1874年 - 榛原郡堀野新田村にて生まれる。
  • 1880年 - 地頭方学校(現 牧之原市立地頭方小学校)入学。
  • 1886年 - 地頭方学校卒業。
  • 1887年 - 東遠義塾が開講し、入塾。
  • 1888年5月15日 - 単身徒歩にて上京する。
    東京神田の日本英学館に入る。のち東京農林学校予備校に入学。
  • 1889年 - 東京農林学校入学。
    翌年、東京農林学校は帝国大学農科大学と改称された。
  • 1893年 - 帝国大学農科大学予科を卒業。総代で卒業。
  • 1896年 - 帝国大学農科大学農芸化学科を卒業し、卒業式において帝国大学各分科大学全卒業生を代表して答辞を朗読。大学院に入る。[1]
  • 1901年 - ベルリン大学に留学。エミール・フィッシャーのもとで、ペプチド合成の研究に従事。
  • 1906年 - 帰国。盛岡高等農林学校教授。
  • 1907年 - 東京帝国大学農科大学教授。
    京都帝国大学の設置に伴い、東京帝国大学と改称された。
  • 1917年 - 理化学研究所主任研究員。
  • 1919年 - 香川県藍同業組合の招聘に応じ、小松島町(現 小松島市)に藍工場を建設。
  • 1924年 - 副栄養素の研究に対し帝国学士院賞を授与。日本農芸化学会を創立し、初代会長となる。
  • 1925年 - 帝国学士院会員となる。
  • 1926年 - 帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞及び大賞を受賞。東京帝国大学農学部長(1928年まで)に就く。
  • 1928年 - 帝国発明協会より合成酒の発明に対し、特等賞牌を受ける。
  • 1929年 - 大日本農会より名誉賞を受ける。東京帝国大学農学部へ実験室一棟寄付の件に対して紺綬褒章を受ける。
  • 1932年 - ドイツ学士院会員に推される。
  • 1933年 - 東京帝国大学へ奨学資金10万円寄付の件により、紺綬褒章を受ける。
  • 1934年 - 東京帝国大学教授を辞する。
  • 1937年 - フランスパリにて開催された万国博覧会にビタミンB1の結晶を出品し名誉賞を受賞。
  • 1938年 - 理研酒工業株式会社(1955年、協和発酵キリンに吸収合併)を創設。
  • 1943年

業績

ビタミンの発見

1910年(明治43年)6月14日、東京化学会で「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した[2]。この報告では、ニワトリハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬこと、と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏していることを認めた。糠の有効成分に強い興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出をめざして努力した。

同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌1911年(明治44年)1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。とくに糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどまらず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、後の「ビタミン」の概念をはっきり提示していた。

ただし、その論文がドイツ語に翻訳されたとき、「これは新しい栄養素である」という一行が訳出されなかったため、オリザニンは世界的な注目を受けることがなく、第一発見者としては日本国内で知られるのみとなってしまった。なお、上述した糠の有効成分は、濃縮して樹脂状の塊(粗製オリザニン)を得たものの、結晶にいたらなかった。1912年(明治45年)、ドイツの『生物化学雑誌』に掲載された論文で、ピクリン酸を使用して粗製オリザニンから有効成分を分離製出、つまりオリザニンを結晶として抽出したこと、その方法などを発表した[3](ただしニコチン酸をふくむ不純化合物であり、純粋単離に成功するのが1931年(昭和6年))。

1911年10月1日にオリザニンを発売したものの、都築甚之助の精糠剤アンチベリベリン(同年4月アンチベリベリン粉末・丸などを販売。同年9月注射液を販売)がよく売れたのに対し、なかなか医学界に受け入れられなかった。8年後の1919年(大正8年)、ようやく島薗順次郎がはじめてオリザニンを使った脚気治療報告を行った。

当時、国内の脚気医学は、いくつかの争点をめぐって混乱していた。たとえば、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」という点である。「米糠の効否」について意見が分かれた最大の要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。糠の不純物を取りのぞいて有効成分を純化するためにはアルコールが使われていたが、アルコール抽出法では糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出されなかった。そのため、脚気患者とくに重症患者に対して顕著な効果を上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をしなくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復にむかうことが多かった)。したがって、オリザニンなどビタミンB1が微量の製糠剤では効否を明確に判定することが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無効」とも解釈できるような状態であった。

また、糠の有効成分の化学実体が不明であった点でも、脚気医学は混乱していた。アンチベリベリン(都築)、ウリヒン(遠山椿吉)、銀皮エキス(遠城兵造)、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべてがニコチン酸をふくむ不純化合物であった。その中でオリザニンは、純粋単離に成功するのが販売されて20年後の1931年(昭和6年)であり、翌1932年(昭和7年)、脚気病研究会で香川昇三がオリザニンの「純粋結晶」は脚気に特効のあることを報告した。

しかし、それでも脚気は、一般人にとって難病であった。国民の脚気死亡者は、日中戦争の拡大などにより食糧事情が悪化するまで、毎年1万人から2万人で推移した(日本の脚気史#概要参照)。その理由として、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたために値段が高かったこと、もともと消化吸収率がよくない成分であるために発病後の摂取による治療が困難であったことが挙げられる。その後も、アリナミンとその類似品が社会に浸透する1950年代後半まで、毎年1千人以上の脚気死亡者がでることになる。

なお、上記で「ビタミンの発見」としたが、鈴木が発見したのは正確にはチアミン(ビタミンB1)である。ビタミンとは微量で必要な栄養素のうち有機化合物の総称として現在は定義されている。ビタミンを初めて抽出したとして世界的に知られるのはカジミール・フンクであり、ビタミンの名称は彼の命名によるものとされるが、実際にはフンクの命名は"vitamine"であり、ビタミンを複数の栄養素の総称と定義しなおされるにあたって"vitamin"と綴りが変えられた。

合成清酒の発明

1922年には合成清酒を発明している。これは1924年に「理研酒『利久』」の名称で市販され、後の「三倍増醸清酒」開発の基礎ともなった。なお、『利久』は戦後、理研の合成清酒製造部門を継承した協和発酵(現・協和発酵キリン)を経て、現在はアサヒビール(協和発酵がアサヒビールに酒類事業を譲渡)に引き継がれている。

顕彰

出身地である静岡県では彼の業績を顕彰し、「鈴木梅太郎博士顕彰会」が毎年県下の中学・高校生の優れた理科研究論文に対して「鈴木梅太郎賞」を贈っている。静岡県立大学谷田キャンパスには鈴木の胸像や顕彰碑が建立されている。

栄典

関連人物

関連項目

漫画作品。第5話にて鈴木梅太郎を取り上げている。鈴木のオリザニンによってたちまち脚気患者が完治したといった、かなり間違った(誇張された)描写がなされている[6]
理化学研究所を取り上げた回においては、鈴木は合成酒を作ろうとして失敗ばかりしているといった、これも正確とは言えない描写がなされた[7]

脚注

  1. 牧之原市
  2. この項目の出典は、山下(2008)、379-381、441-442、457頁。
  3. 山下(2008)、379-381頁。
  4. 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
  5. 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
  6. 栄光なき天才たち 鈴木梅太郎
  7. 栄光なき天才たち 鈴木梅太郎 理化学研究所

参考文献

外部リンク