野田卯太郎
提供: miniwiki
野田 卯太郎(のだ うたろう、嘉永6年旧暦11月21日(1853年12月21日) - 昭和2年(1927年)2月23日)は日本の政治家、実業家。号は大塊[1]。衆議院議員、逓信大臣、商工大臣などを務めた。福岡県平民[2]。一平民から大臣にまで昇った立身出世を体現するような人物である[1]。
来歴・人物
筑後国三池郡岩津村(のち福岡県三池郡高田町(現みやま市)に地域の豪農だった野田伊七の長男として生まれた[1]。一介の雑貨商であったが、非常に活動的で、炭鉱関連において三井財閥と関係を持ち、また自由民権運動にも参加し福岡県会議員にもなった[1]。
明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙で初当選。以降10期衆議院議員を務め(5回 - 11回、13回 - 15回)、この間原内閣、高橋内閣で逓信大臣(大正7年(1918年)9月29日 - 大正11年(1922年)6月12日)、加藤高明内閣では商工大臣(大正14年(1925年)4月17日 -8月2日)を歴任。大正13年(1924年)6月には立憲政友会副総裁となった。昭和2年(1927年)2月23日、死去。
俳人や歌人としても有名であると共に、同郷の柴田徳次郎が私塾国士舘を開設した際には同じく同郷の頭山満や中野正剛、緒方竹虎らと共に賛同者として名を連ねている。
栄典
家族・親族
野田家
親戚
出典・脚注
外部リンク
典拠レコード: