野田卯一
野田 卯一(のだ ういち、1903年(明治36年)9月10日 – 1997年(平成9年)1月29日)は、日本の政治家。池田勇人・福田赳夫とともに、「大蔵省の3田」と呼ばれた。
来歴・人物
岐阜県岐阜市出身。野田繁吉の五男として生まれる。岐阜中学、一高を経て、1927年3月に東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業後、大蔵省に入省。在学中の1926年に高等試験の行政科試験と司法科試験に合格。
浜松税務署長、松戸税務署長、為替局総務課長、興亜院経済部第四課長、大蔵省総務局総務課長、門司海運局次長、大蔵省金融局次長、外資局長、主計局長、専売局長官などを歴任し、1948年に大蔵次官になる。 1949年に日本専売公社副総裁を経て、1950年6月、自由党から第2回参議院議員通常選挙の全国区に出馬し当選した。
1951年に第3次吉田内閣第2次改造内閣で建設大臣兼北海道開発庁長官として入閣。(翌1952年からは行政管理庁長官を兼任)。1953年の第26回衆議院議員総選挙で衆議院議員に転じ(旧岐阜1区)、以後9回連続当選。
保守合同後は池田派に所属していたが、1966年、突如反佐藤を掲げて自民党総裁選に出馬し、9票を獲得する。宏池会を離れてしばらく無派閥を通し、その後福田派に入った。1976年、三木内閣改造内閣で経済企画庁長官。
1979年10月の第35回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退(地盤とした岐阜県第1区 (中選挙区)は11年後に養女・聖子が1990年2月の第39回衆議院議員総選挙で継承)。1997年1月29日死去。享年93。
エピソード
かつて、ギネス世界記録日本語版において「同一人物に世界一多くの手紙を書いた人物」として掲載されていた。 議員在職中の1961年から1985年までの間に病床にあった妻に1603通の手紙を送ったというものでこの手紙は後に全25巻の著書として後援会の手で自費出版された。 なお、この記録は現在のギネス世界記録には掲載されていない。
1966年4月27日に学校法人東京聖徳学園の名誉学長[1]に就任。
『野田卯一日誌』(9冊、昭和20年1月1日~昭和28年12月31日分)は野田聖子による寄託文書として平成25年度に国立公文書館で受入し、平成26年8月28日から一般の利用に供されている。
栄典
- 勲一等旭日大綬章(1986年11月3日)
親族
脚注
- ↑ “沿革 « 学校紹介|三田のセイトク 聖徳大学幼児教育専門学校” (日本語). www.seitoku.jp. . 2018閲覧.
参考文献
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- イアン・カルロス・コルテス編『ギネスブック2000』きこ書房、2000年。
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