都新聞
都新聞(みやこしんぶん)は、かつて存在した日本の日刊新聞。1942年、新聞事業令により國民新聞と合併して東京新聞となった。
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歴史
今日新聞としての創刊
前身は1884年(明治17年)9月25日、小西義敬によって日本初の本格的夕刊紙として東京で創刊された今日新聞である。創刊時の部数は1万部。初代主筆は仮名垣魯文。当初から芝居や寄席演芸、花柳界関係(いわゆる「芸事」げいごと)に強かったが、夕刊自体が時代に合わず、経営は苦しかった。
都新聞の創刊と芸能面の充実
1888年(明治21年)、みやこ新聞に改題し朝刊紙に切り替え、社長も原亮三郎に交代し、さらに翌年2月1日から「都新聞」と漢字に改めた。題字は吉田晩稼の書、地紋は渡辺省亭描くしだれ柳に筑波山と都鳥3羽(その後2羽になる)をあしらったものであった。
主筆に就任した黒岩涙香の人気もあり、発行部数は一挙に3万部に躍進。しかし黒岩は、原の後任である官僚出身の政治家の楠本正隆と衝突、退社して萬朝報を創刊する。黒岩の探偵小説が載らなくなり困った会社は、刑事出身の探訪長高谷為之に「探偵実話」を書かせ、これが評判を呼んだ。
また、これと並んで福地桜痴と守田勘彌が協力して芝居記事を多く掲載させるなど、のちに売り物となる芸能との関係は引き続き密接であった。楠本や元社長の小西、さらに主筆の渡辺台水(渡辺治、のち大阪毎日新聞社長)は役者に知己が多く、サービスの一環として読者を招いての芝居総見を行ったほどであった。
伊原青々園が1898年(明治31年)に入社し、その後大正時代にかけて、渡辺黙禅、中里介山、長谷川伸(紙面名「山野芋作」)、平山蘆江など文人記者が集まった。伊原は入社後40年余にわたって劇評を書き続けた。当時の都新聞を水上瀧太郎は「文章のうまいこと、読者に親切なこと、温かみがあること」と激賞した。
ほかに1898年、付録として月刊雑誌「都の華」を発行、月極め読者に配布した。当時としては高度なカラー印刷の表紙に、流行や演芸記事を載せ、いわばファッション雑誌のはしりとも言えるものだったが、これは1904年(明治37年)、日露戦争開戦とともに廃刊となった。
東京地元紙の頂点に
1919年(大正8年)、実業家の福田英助が買収し、個人経営だったところを株式会社に改組。編集局長に山本信博を就任させ、それまでの江戸趣味を縮小したうえで商況面の拡充のほか、第1面に文芸欄を新設するなど紙面を刷新した。また、1923年(大正12年)には大阪新報を併合して大阪都新聞を創刊したが、これは振るわず3年後に休刊になっている。
1923年の関東大震災によって東京の新聞界は大打撃を受けた。内幸町の都新聞も活字ケースが倒れ、電気、ガス、水道が止まったものの幸いにも火災による罹災は免れた為、手刷りによる号外を出版した[1]。こののち朝日新聞・大阪毎日新聞(東京日日新聞)の東京大進出の際にもこれをかわし、ラジオ版の新設などで人気を博す。1935年(昭和10年)には地上4階、地下1階、白タイル貼りの新社屋を建設、さらに文化部を独立させて部長には上林秀信が就いた。翌年には夕刊も発行、下町中心の読者は山の手へ広がり、部数は25万部、経営的にも安泰だった。
戦前の自由主義的な新聞覆面コラムとして知られる「狙撃兵」欄では、鈴木茂三郎、青野季吉、大森義太郎、戸坂潤、河野密、岡邦雄、猪俣津南雄、新居格、向坂逸郎、岡田宗司、本多顕彰らが執筆した。しかし、1937年(昭和12年)とその翌年の2回にわたる人民戦線事件により彼ら著者はほぼ検挙されてしまった。
軍部による圧力、そして統合へ
太平洋戦争開戦直後の1941年(昭和16年)12月13日公布の新聞事業令により、「一県一紙」に新聞が統合されることになった。翌1942年(昭和17年)6月30日に統制団体の日本新聞会がまとめた案によって、東京地区では都新聞と國民新聞の2紙が挙げられた。
しかし、東京ローカル紙として不動の位置を獲得していた都新聞と、政論紙として苦戦が続き新愛知の経営下に置かれていた國民新聞との立場はあまりに違いすぎた。社風や紙面の違いなどの隔たりも大きく、合併交渉は難航。財政的な余裕のある都新聞が、國民新聞の買収による一本化を提示したのに対し、國民新聞は対等合併を主張し経営形態を公益法人化するとの意見を変えなかった。協議は進まず、9月10日には決裂。情報局などの裁断によって10月1日、強制的に『東京新聞』として発足したが、社長空席のままの船出となった。社団法人としての東京新聞社の発足は翌年8月まで待たねばならなかった。末期の部数は10万3千部。