遼河文明
遼河文明(りょうがぶんめい)とは、中国東北部の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられている。
発見
1908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したことから始まる。
文化
大規模な竪穴式住居が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇などの神殿が発見され、先史時代の「国」があったのではないかと考えられている[1]。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。 興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。
このように黄河文明や長江文明とは異なる文明でありながら、後の古代中国文明に大きな影響を与えたと考えられることから、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。
2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang(楊小平)、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[2]。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、後の中国文化へと発達した可能性が指摘されている[3]。
遼河文明遺跡における6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析では、ウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループNが60%以上の高頻度で認められる[4]ことから、遼河文明を担った集団はウラル語族を話していた可能性がある。夏家店上層文化の時代になると、ハプログループO2やハプログループC2がハプログループNにとって代わったようである[4]。
遼河文明一覧
- 興隆窪文化(こうりゅうわぶんか) 紀元前6200年頃-紀元前5400年頃
- 新楽文化(しんらくぶんか) 紀元前5200年頃-紀元前4800年頃
- 趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか) 紀元前5400年頃-紀元前4500年頃
- 紅山文化(こうさんぶんか) 紀元前4700年頃-紀元前2900年頃
- 夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか) 紀元前2000年頃-紀元前1500年頃
- 夏家店上層文化(かかてんじょうそうぶんか) 紀元前1100年頃-紀元前500年頃
脚注
- ↑ University of Pittsburgh, Pennsylvania: Regional Lifeways and Cultural Remains in the Northern Corridor: Chifeng International Collaborative Archaeological Research Project. Cited references: Drennan 1995; and Earle 1987, 1997.
- ↑ Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China 合衆国科学アカデミー紀要
- ↑ New Thoughts on the Impact of Climate Change in Neolithic China Archaeology誌解説記事
- ↑ 4.0 4.1 Yinqiu Cui, Hongjie Li, Chao Ning, Ye Zhang, Lu Chen, Xin Zhao, Erika Hagelberg and Hui Zhou (2013)"Y Chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. " BMC 13:216