近藤鉄雄
近藤 鉄雄(こんどう てつお、1929年8月11日 ‐ 2010年3月4日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。三木派・河本派に所属した。愛称は「コンテツ」。
経歴
母の実家のあった山形県南陽市で生まれ、米沢市で育った。父は海軍軍人。海軍兵学校、高等商船学校を経て1953年に一橋大学経済学部を卒業。マルクス経済学の杉本栄一ゼミ出身。在学中は、ゼミの同期の宮川公男(一橋大学名誉教授)、玉井龍象(金沢大学名誉教授)とともに、日曜日朝から杉本の家で開かれるゼミで、杉本の指導の他、ゼミの特別研究生であった伊東光晴(京都大学名誉教授)や浅野栄一(中央大学名誉教授)、ゼミOBの宮崎義一(京都大学名誉教授)、宮崎犀一(元東京女子大学教授)からも指導を受けた[1]。
1953年大蔵省に入省(現財務省、昭和28年旧制入省組)。入省同期に、津島雄二、安倍基雄、吉野良彦、松尾直良(元関税局長)、河合一郎(元名証理事長)など。1954年にフルブライト留学生としてカリフォルニア大学バークレー校に留学。後にカリフォルニア大学バークレー校日本同窓会会長及び名誉会長を務めた。
経済企画庁経済研究所研究員、国際通貨基金日本代表理事補、大蔵省大臣官房調査課課長補佐等を歴任した後に退官し、1969年の総選挙に自民党公認で旧山形1区から出馬するが、落選。その後、1972年9月の衆院補選[注 1]で初当選し、以後通算9期務める。出身地の山形県南部(南陽市や米沢市など)にはベテランの木村武雄などが地盤としていたため、家族と共に大票田の山形市に居を構えた[注 2]。
所属派閥の三木派がハト派色の強かった中で、近藤自身はタカ派であり、自民党保守派の政策集団・青嵐会に三木派からただ一人メンバーとして参加した。また、口が悪かった点も中川一郎、浜田幸一ら他の青嵐会メンバーと共通している。山崎拓は、青嵐会の強硬論についていけずに脱会を宣言した後、中川の命を受けた近藤に数日間にわたる執拗な説得を受けたという。
その一方で反金権の政治姿勢をとった点など所属派閥の領袖で師匠・三木武夫に通じている面もある[注 3]。
小派閥とはいえ河本派の幹部として、経済企画庁長官や労働大臣を歴任した。
1990年には自民党金融問題調査会長(初代)に就任。
小選挙区が導入されると、居住していた山形1区(山形市)には新進党で有力だった鹿野道彦が強力な地盤を築いていたため、郷里の山形2区(米沢市)で立候補。米沢市を地盤としてきた遠藤武彦と公認を争うことになり、閣僚経験のあるベテラン議員であり以前の選挙ではいつも遠藤を下風に立たせていたことから近藤が公認を得る。しかし、家族を山形市に住まわせ縁遠くなっていたことも一因として地元住民の好感を得られず、1996年の総選挙では遠藤に敗れてしまう[注 4]。引退を決意し、長男・洋介を後継者に指名[注 5]。
政界引退後1997年に新時代戦略研究所を設立し代表取締役に就任。
1987年ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字星付大賞、2000年勲一等旭日大綬章。
2010年3月4日、すい臓がんのため、入院中の東京都内の病院で死去した。80歳没[2]。
エピソード
- 1993年の山形県知事選では副知事だった高橋和雄擁立の中心となり、加藤紘一が推した土田正剛(当時山形県議会議員・現東根市長)と分裂選挙となった。結局、高橋は当選を果たしたが、12年後の知事選で加藤の推した斎藤弘に敗北する[注 6]。
- 郵政解散による2005年衆議院総選挙で話題となった「刺客候補」の一人・片山さつきは、舛添要一の元妻であることが知られているが、外遊中にパリでの案内役を務めた片山を気に入った近藤が、舛添に紹介したのが二人のなれ初めであるという。
家族・親族
義父は第3次佐藤内閣で労働大臣を務めた野原正勝[注 7]、長男は無所属(以前は希望の党所属)衆議院議員の近藤洋介[注 8]。
脚注
注釈
- ↑ 華山親義、堀田政孝の死去に伴い実施
- ↑ 旧山形1区は県庁所在地の山形市と南部の中心地米沢市を併せた選挙区だった
- ↑ 1976年、ロッキード事件で田中角栄が逮捕されたとき、自民党の有志代議士会で「国民は田中逮捕でよかったと思っている。これからは三木体制でいくべきだ」と発言。事件が表沙汰になる前、派閥は違うが田中がよく面倒を見ていた近藤の発言に憤慨した田中派の橋本龍太郎に殴られかけた。
- ↑ 遠藤は新進党・民主党推薦で出馬、後に自民党に移籍し2000年の総選挙以来、自民党の公認候補として選挙戦を戦っている
- ↑ 2000年の総選挙では民主党推薦の無所属で出馬し落選、2003年の総選挙からは民主党公認で出馬し、比例復活で当選している
- ↑ ちなみに、この時近藤の息子・洋介は高橋知事を支援している
- ↑ 妻が野原の二女・宏子。
- ↑ 大蔵官僚時代の米国派遣時に妻も伴ったため、ワシントンD.C.生まれである。
出典
- ↑ 「経済学と人生(玉井龍象先生を囲んでの研究会) (玉井龍象教授退官記念号)」
- ↑ “近藤鉄雄氏が死去 宮沢内閣で労相”. 共同通信 (2010年3月4日). . 2010閲覧.
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