辰吉丈一郎
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テンプレート:Boxing statsbox 辰𠮷 𠀋一郎(たつよし じょういちろう、1970年5月15日 - )は、日本のプロボクサー。岡山県倉敷市出身。倉敷市立味野中学校出身。大阪帝拳ジム所属。第50代日本バンタム級、元WBC世界バンタム級王者。愛称は浪速のジョー。自身が幼年期にいじめられっ子であった過去を持つ。血液型はB型。入場曲は『死亡遊戯』メインテーマ[1]。マネジメントは株式会社トリックスター所属。
「吉」の正確な表記は「𠮷・14px」(「土」の下に「口」、つちよし)である。また「丈」の正確な表記は「𠀋」であり、右上に点がある。[2][3]
来歴
生後間もなく両親が離婚。その後、ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)の男手一つで育てられ、幼少時よりボクシングを仕込まれた。中学校時代の担任教諭の勧めで、中学卒業と同時にボクサーを目指して大阪帝拳ジムに入門した。
粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古をつけていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしたりしやすく、また、喧嘩の相手をつかんだり凶器を奪ったりしやすいと教えた。辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE」で語っている。
サウナや立ち食いうどん屋、かまぼこ屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。
1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。この後、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送ったが、後の専属トレーナー大久保淳一が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。アマで数試合をこなした後、プロ転向する。この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。アマチュア通算成績は19戦18勝 (18KO・RSC) 1敗。
1989年9月29日、プロデビュー(6回戦)。韓国の国内ランカー崔相勉を2回KOに降す。辰吉の前評判は高く、日本人ランカー全てにオファーを出したが拒否された。
1990年6月28日、3戦目。WBCインターナショナルバンタム級王者サムエル・デュラン(フィリピン)とノンタイトル戦を行い、7回KO勝ち。
同年9月11日、4戦目で日本王座初挑戦。日本バンタム級王者岡部繁を4回KOに降し、王座獲得に成功。4戦目での日本王座獲得はジェームス・キャラハン、友伸ナプニ、平仲明信と並ぶ最短タイ記録である(2013年に井上尚弥も並ぶ)。当時は安易な世界挑戦が多かったので「世界挑戦は最低でも国内または東洋王座を獲得してから」という暗黙の規定がなされていた。その規定に従い、先ずは日本王座を獲得。試合後のインタビューでは「この試合は通過点」と世界王座へのこだわりを見せた。
1991年2月17日、6戦目。世界ランカーアブラハム・トーレス(ベネズエラ)とノンタイトル10回戦を行い、引き分け。トーレスのジャブに最後まで苦しみ、「辰吉が負けていた」との声が出るほどの大苦戦(トーレスもリング上で寝転がり判定に抗議)。当初、この試合の後、国内最短となる7戦目で世界挑戦を予定していた辰吉陣営だったが、トーレス戦での苦戦を目の当たりにし、もう1試合ノンタイトル戦をはさむこととなる。
1991年5月19日、1階級下(ジュニアバンタム級=現・スーパーフライ級)の世界ランカーレイ・パショネス(フィリピン)と対戦。アウトボックスで相手を翻弄し、10回判定勝ち。辰吉のフットワークとジャブを駆使して相手を寄せつけずにアウトボクシングした試合を評価する声が多かったが、当の本人はKOできなかった悔しさからリング上で涙をこぼす。
1991年9月19日、世界初挑戦。WBC世界バンタム級王者グレグ・リチャードソン(米国)に挑む。アマで275戦、プロで33戦のキャリアを誇る王者相手に終始優位に試合を進め、10回終了TKO勝ち。具志堅用高(9戦)を抜いて国内最短新記録(当時)となる8戦目で世界王座奪取に成功した(後に名城信男も並ぶが、現在は田中恒成が5戦に更新)。平成デビューのボクサーとして初の世界タイトル獲得でもある。しかし同年12月、左眼の異常を訴え、大阪市内の病院で検査。結果、「網膜裂孔」の診断を受け、そのまま入院・手術。そのため、翌1992年2月6日に予定されていた初防衛戦(対李勇勲=韓国)は中止となり、長期間の休養を強いられることとなる。
1992年9月17日、王座奪取から丸1年後の初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ王座陥落。プロ初黒星を喫した。
その後、1戦をはさみ、1993年7月22日、世界再挑戦。当初、3月にラバナレスを降してWBC世界バンタム級王座を獲得した辺丁一(韓国)に挑むことになっていたが、辺が5月の初防衛戦で左手を骨折。そのため、同級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。フルラウンドにわたる死闘の末、僅差ながら判定勝ち。10か月前の雪辱を果たすと同時に、世界王座返り咲きを果たした。その後、11月25日に正規王者・辺との統一戦が組まれたが、それに向けてトレーニングを重ねていた9月、再び左眼の異常を訴える。検査の結果、今度は網膜剥離が判明。日本ボクシングコミッション (JBC) ルールにより試合ができない身となり、事実上引退の危機に(暫定王座も返上)。
手術は無事に成功。退院後、現役続行の意思を表明し、その道を模索することとなる。その結果、帝拳プロモーション会長・本田明彦等の尽力も有り、1994年7月2日、JBC管轄外のハワイで復帰戦を強行。4月にWBC世界バンタム級王座に挑戦したホセフィノ・スアレス(メキシコ)を3回KOに降す。(結果の如何に関わらず)リングに上がった時点でプロボクサーとして活動可能な健康状態を取り戻した事に伴いWBCから返上していた暫定王座を再び与えられた。JBCも特例で辰吉の現役続行を許可。
現役続行が許可されたことで、同年12月4日、名古屋市総合体育館レインボーホール(現・日本ガイシホール)でWBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現(薬師寺は前年12月、辰吉の代役という形で辺に挑戦し、12回判定勝ち。王座獲得に成功し、これまで2度の防衛に成功している)。この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、フルラウンドにわたる死闘の末、12回判定負けを喫し暫定王座から陥落。現役続行の条件として「統一戦に敗れた場合は即座に引退」が掲げられていたため、再度引退の危機に立たされる。この時の敗因は後のインタビューによると、1ラウンド序盤に放った左ストレートが薬師寺の頭部付近に当たった際、骨折。以降なかなか左が出なくなり、セコンドから左を出すように言われても「骨折れて出んのじゃボケ!」と思う程の状態で試合を続行した為という。
しかし、ここでも引退を拒否。1995年、米国・ラスベガスでノンタイトル戦2試合を強行。遂にJBCも折れ、辰吉は世界戦に限り国内で試合を行えることとなった(その後、「世界戦に準ずる試合」も追加)。
1996年3月3日、2階級制覇を目指し、WBC世界ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に挑戦。しかし、初回からほぼ一方的に打ち込まれ、11回負傷TKO負け。この試合ではストップがかかった後も「何でや、まだオレは元気やないか」と抗議し、場内の声も「レフェリー、何で止めるんや」とわき起こったが、試合後に辰吉は土下座し「ファンに謝るしかないでしょう。僕のようなしょうもない人間のために、一生懸命援してくれて。みなさん僕のこと死んでくれと思ってるでしょうね。いっそ自分も死たい」と、試合後の記者会見でつぶやいた[4]。翌1997年4月14日、再度サラゴサに挑むがここでも12回判定で完敗。「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。
同年11月22日、通算5度目の世界挑戦。元のバンタム級に戻し、WBC世界同級王者のシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑む。5回に王者からダウンを奪ったものの、6回以降は王者の「捨て身」とも言える反撃であわや逆転KO負けというところまで追い詰められる。しかし、7回、左ボディブローで2度目のダウンを奪う。辛くも立ち上がった王者を連打で追撃し、レフェリーストップ。この瞬間、約3年ぶりの世界王座返り咲きを果たした。その後、2度の王座防衛に成功。
1998年12月29日、3度目の防衛戦。元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)と対戦。序盤こそ互角の展開だったが、回が進むにつれ次第に挑戦者がペースアップ。そして、迎えた6回、挑戦者の左をまともに浴び、プロ2戦目以来のダウン。辛くも立ち上がったものの、挑戦者の激しい追撃に襲われる。そして、最後は挑戦者の右ストレートを左のこめかみに受け、仰向けに崩れ落ちた。ノーカウントで試合をストップされ、失神KO。3度目の世界王座陥落。
王座陥落後の1999年1月、父が他界。
1999年8月29日、王者・挑戦者の立場を入れ替えてのウィラポンとの再戦。開始当初から一方的に打ち込まれ、最後は7回、レフェリーストップ(同時にセコンドからも「棄権」を示すタオルが投げ入れられた)によるTKO負けで雪辱ならず。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。
しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。
2002年12月15日、実に3年4か月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチット(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収めた。
2003年9月26日、復帰第2戦でフリオ・セサール・アビラ(メキシコ)と対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。
その後、所属する大阪帝拳ジムから試合を組む意思がないことを再三にわたって告げられたものの、本人は引退を拒否。あくまで現役続行にこだわり続ける。
2008年9月26日、直近の試合から5年が経過。JBCの規定により「引退選手」扱いとなり、国内では試合を行うことができなくなった。しかし、本人は「海外に渡ってでも試合をする」とあくまで現役続行にこだわりを見せる。
そして、同年10月26日、タイ・バンコクのラジャダムナン・スタジアムで復帰戦を強行。地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たしたものの、この試合に関してJBCは試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。
12月、タイ国内ランキングでバンタム級1位にランクイン。同28日、ライセンス失効後初めてJBCと対談。JBC側は大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。それに対し、辰吉は「5年も試合をしてなかったので、今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事。検査の意味は分かるけど、(引退を)決断することはできない」とあくまで現役続行にこだわる姿勢を見せた。
2009年3月8日、前戦と同じラジャダムナン・スタジアムに於いて復帰第2戦。スーパーバンタム級のタイ国内ランキング1位サーカイ・ジョッキージム(19歳/11戦10勝 (5KO) 1敗)と対戦するも、3回にダウンを奪われた末の7回TKO負け。世界戦以外の試合での初黒星(通算7敗目)を喫した。試合終了後、辰吉は「俺はまだ終わっとらん」とあくまで現役に拘り、今後もリングに上がり続けることを表明しているが、この試合以降、次戦開催の目処は立っていない。
2014年現在でも辰吉本人は現役に拘り、トレーニングを欠かしていないと言う[5]。2015年には次男・辰吉寿以輝が大阪帝拳ジムからプロボクサーとしてデビューした[6]。
エピソード
- ダウンタウンの松本人志とは、親友として知られる。その縁で「ダウンタウンDX」などにもゲスト出演している。松本によると辰吉が電話口でアニメについて一方的に熱く語るため、松本は相槌をうつだけの電話応対に回っている。
- ダウンタウンの番組にゲストとして出演した際、「地球最後の日に何をする?」というお題に対して、「浜田を一日中シバき回す。」というボケ回答をする。同じくゲスト出演していた関根勤に「死んじゃうよ。一日もたないじゃん。」と言われると「そこは、持たすように。」と回答した。
- 岸本加世子に絶大な信頼をおいており、実の姉のように慕っている。
- 北野武と対談を通じて懇意となる。辰吉が王座から陥落しスランプに陥っていたころ、武は激励の意味で自筆の絵を送った。そこに書かれていた言葉は、映画「キッズ・リターン」におけるエンディングの台詞になっている。
- 布袋寅泰、イチローとも仲がよい(度々、会場まで試合観戦に訪れている。2008年10月にタイで復帰戦を強行した際は現地で布袋から激励を受けた)。
- ボクシング漫画「はじめの一歩」では何度も扉ページに登場し、「勝っても負けても彼ほど人を感動させるボクサーはいない」と評されている。またアニメ全般についても話し出すと止まらないくらい好んでいるという。
- 公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに出演し「いじめはすごかったですよ。親が泣くくらいでしたからね」などと幼年期に自身がいじめに遭っていた事実を告白しているが、いじめを克服した後、小学生から中学生時代までにやった喧嘩では負け知らず。不良少年としての"武勇伝"は今でも伝説になっているという。
- 中学時代は皆勤賞、3年間一度も欠席がなかったという。
- 中学生の頃、下校途中にヤクザに車を横付けされからまれたことがある。その時、「おっちゃん、そんなにすごまんとってぇや」と言いながら車に近づき、隙を突いてキーを抜き取り道路脇の草むらに向かって投げつけ、笑いながら走って逃げたことがあるという。
- 本格的にボクシングを始めて、わずか3回目のスパーリングで国体2位の選手を左ボディブロー一発で倒したことにより辰吉はボクサーとして世間の注目を集め始める。しかし、アマチュア時代、試合に敗れた精神的ショックからジムを飛び出し、半年ほどホームレス生活を送る。本人曰く、この間、自動販売機の釣銭返却口を漁ったり、ダンボールハウスで野宿したりと散々な日々を過ごしていたとのこと。そんな中、偶然立ち寄った喫茶店で現在の夫人と出会ったことが、ホームレス生活から立ち直り競技に復帰するきっかけとなった。
- 1987年の沖縄県での海邦国体の会場通路でピューマ渡久地と大喧嘩をしそうだったことがある(理由は沖縄出身で発音に訛りのある渡久地が「文句あっか」と言ったのを辰吉が「儲かってまっか?」と聞き間違えたから)。このエピソードはボクシングファンのあいだでは知られた話だが、渡久地は引退後インタビューに答えて、(国体の)大阪代表が騒いでいたので怒鳴っただけで、辰吉と喧嘩になったことはないと証言している。
- 非常に練習量の多いボクサーとしても知られている。
- タイトルマッチでは「王者は赤いトランクスを着用して戦う」という慣例がある中、辰吉は赤いトランクスを着用して臨んだ試合を落とすことが多かったため、1997年の王者返り咲き以後の防衛戦には青いトランクスを着用した王者として臨んだ。
- レフェリーのリチャード・スチールが辰吉の引退時の賛辞として「オスカー・デ・ラ・ホーヤには若い女性ファンが何人いるか知らないが、あれだけ多くの青少年を夢中にさせるという点では、辰吉が世界一だと確信している」と呈した。
- 一時期は大阪帝拳ジムにて現役復帰を期して練習に励む傍ら、ボクサーを目指していた自身の長男のトレーナーを務めていたことがある。辰吉自身は再三に亘ってジムサイドに自分の試合を組むよう懇願したが、その度に、大阪帝拳ジムの吉井清前会長は「お前の体が心配だから試合は組めない」と辰吉を諭していた。
- ライバルであったビクトル・ラバナレスのことを「友人である」と語る。そのことについてラバナレスは、「友人だったらもう一度俺と試合をしてくれ」と、発言した。
- 初めて世界タイトルを獲ったグレグ・リチャードソン戦では、初回に放った左ジャブがリチャードソンの目に入り、ダブルビジョン(物が二重に見える)になったとリチャードソンが、後に発言している。
- 初めて世界タイトルを獲ったリチャードソン戦の試合直後に、第一声でテレビカメラに向かって、「父ちゃん、やったで!」とコメントした。
- 3度目のWBC世界バンタム級王座2度目の防衛戦でポーリー・アヤラと対戦した際、バッティングで眉毛あたりを深く切り、試合を止められてしまう。その際、試合を途中で止められた悔しさ(本人談)から全国テレビ生放送中にもかかわらず、キャンバスに拳を叩きつけ号泣した。
- 辰吉の人気はすさまじく、辰吉を見て、ボクシングを始めた人間はかなり多い。その中には、世界チャンピオンになった畑山隆則もいる。ただ、畑山が世界を獲った際に、辰吉の名前を騙り、「ようやったなあ、おめでとう!」と辰吉になりきって、悪戯電話をかけた人間が存在する。そのためか、畑山とは誤解が生じたようで、畑山がさんまのまんまに出演した際には、「辰吉なんて、片手で倒せる」と言われてしまう。
- ドキュメンタリー風バラエティ番組『ガチンコ!』の「ガチンコファイトクラブ」に特別コーチとして出演するが、この企画がいわゆる「やらせ」であることを知らされず(ボクシングに関しては真面目で真摯な性格の辰吉に詳しく企画内容を伝えたら断られるとスタッフが判断したため)、素人(仕込み)参加者に、ごく真面目にボクシングの指導をした。収録後、辰吉はヤラセ(台本の存在)を企画のレギュラーであった竹原慎二から聞かされ激怒、収録した映像のオンエアは許可したものの、同番組に二度と出演することはなかった。
- 今でこそ「負けても引退なんか考えたことがない」と語っているが、ラバナレスに負けるまではことあるごとに「負けたら引退」と語っていた。これは本人によればそれぐらいの気持ちでいなければ試合に勝てないからとのことである。
- ボクシングアナリストの増田茂によれば、辰吉はオーソドックススタイルであるが実は左利きであることを明かしている。そのために辰吉は右でなく左のパンチが強いとのことである。
- 辰吉が世界王者になる前、日本人として具志堅の記録を追い越し最短で世界を獲ることに価値を見出すのではなく、辰吉の先々のことを考え、じっくりキャリアを積ませるべきだという声が多かった。トーレス戦後、特にその声は強くなる。辰吉自身も新人王、日本、東洋太平洋と順番にタイトルを獲ってから世界に行きたいと語っていた。
- 愛車はLS600hL[7]。以前はLS400をドレスアップしており、数々のカー雑誌に取り上げられた。
- 『BOXER JOE』のタイトルで、映画監督の阪本順治が辰吉の20年間の軌跡を収めたドキュメンタリー映画『ジョーのあした−辰吉丈一郎との20年−』が2016年に公開[8]。
戦績
- アマチュアボクシング:19戦 18勝 18RSC 1敗
- プロボクシング:28戦 20勝 14KO 7敗 1分
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獲得タイトル
- 全日本社会人選手権バンタム級優勝(アマチュア)
- 日本バンタム級王座(防衛0=返上)
- WBC世界バンタム級王座(1期目は防衛0=陥落、2期目は防衛2=陥落)
- WBC世界バンタム級暫定王座(防衛0=陥落)
現役復帰の経緯と今後の展望
2003年9月以降、2008年10月のタイ国における復帰試合に至るまでの5年余りもの間、辰吉は全く試合を行っていなかった。先述の様に長期ブランクを経て海外で復帰を果たしたものの、現在日本におけるプロボクシング興行に出場するため必要な、JBCの発給するボクサーライセンスは更新・保持しておらず、また後述のように今後も更新・再取得出来ない。
2007年5月に37歳になったことで、JBCルールに基く強制引退の対象となったが、辰吉はWBC世界バンタム級、日本バンタム級の元王者であるため、特例措置として直前の試合から5年以内に再起すれば厳しい条件付ながら日本国内での現役続行が可能であった。とはいえ前述した通り、辰吉は網膜剥離の既往者であるために、世界戦またはそれに準ずる試合でしか国内での選手活動は不可能であった。また、当時所属先であった大阪帝拳ジムを始めとする関係者はそもそも辰吉の現役続行に難色を示していたため、実際に特例措置の申請と試合実施は実現しなかった。
そして2008年9月25日に上記特例期間が終了し、辰吉は事実上国内での試合出場が不可能となった。今後は、かつて網膜剥離でJBCのライセンスを失効していた頃、あるいは先述のタイ国での試合出場と同様に、外国のコミッションでライセンスを申請し、日本以外の各地で試合に出場することは今後も可能である。だが、海外のジム所属の“逆輸入”選手として日本で試合を行う際には、JBCに臨時のボクサーライセンスを申請し、これを取得することが必要である。しかし既に強制引退選手の対象となっている上、JBCはタイのコミッションやプロモーターに辰吉に試合をさせないよう求めているため、試合が許可される可能性は低い。
2009年3月8日、再起後2戦目でタイ国スーパーバンタム級1位のサーカイ・ジョッキージムに7R 1:03TKOで敗れた。試合直後の控室でのインタビューで、現役続行を自らアピールした。
出演
- いづれも本人役
脚注
- ↑ 1996年中に出場した2試合のみ、友人の元光GENJI・諸星和己から提供されたオリジナルのテーマ曲「JOEのテーマ」を使用したこともあった。
- ↑ UnicodeCJK統合漢字拡張B,❲U+20BB7❳「テンプレート:拡張漢字(土の下に口)」。
- ↑ UnicodeCJK統合漢字拡張B,❲U+2000B❳「𠀋(丈の右上に点)」
- ↑ 1996年3月4日付日刊スポーツ1面
- ↑ いまだ現役“浪速のジョー”が過去を語った!そして「辰吉の子がボクシングやる、世界チャンピオンになる、当たり前や」 週刊プレイボーイ 2014年52号
- ↑ ボクシング辰吉次男がKOデビュー「すごく楽しかった」 日本経済新聞 2015年4月16日閲覧
- ↑ VIEILFEE 辰吉丈一郎 カスタムカー ヴェルフィー
- ↑ “天才ボクサー辰吉丈一郎を20年間追ったドキュメンタリー!阪本順治監督の新作2016年公開”. シネマトゥデイ (2015年9月29日). . 2015閲覧.
外部リンク
テンプレート:Championshiptitle テンプレート:Championshiptitle暫定王座1 テンプレート:Championshiptitle
テンプレート:報知プロスポーツ大賞受賞者-ボクシング テンプレート:日本のボクシング世界王者 テンプレート:年間最優秀選手賞 (日本プロボクシング) テンプレート:JBCの歴代王者