踏み絵
踏み絵(ふみえ)とは、江戸幕府が当時禁止していたキリスト教(カトリック教会)の信徒(キリシタン)を発見するために使用した絵である。本来、発見の手法自体は絵踏(えぶみ、えふみ)と呼ばれるが、手法そのものを踏み絵と呼ぶ場合も多い。
踏み絵には当初は文字通り紙にイエス・キリストや聖母マリアが描かれたものを利用したが、損傷が激しいため版画などを利用し、木製や金属製の板に彫られたものを利用するようになった。絵踏が廃止されると、そのまま廃棄されたり再利用されたりしたため、現存するものは少なく、表面が磨滅した形で現存しているものも多い。
また上記から転じて、ある事柄への該当者や反対者を燻り出すために用いる道具や、その手段を「踏み絵」と呼ぶ。
経緯
江戸幕府は、1612年(慶長17年)徳川家康によるキリシタン禁令(禁教令)、1619年(元和5年)徳川秀忠によるキリシタン禁令の高札設置などの度重なるキリスト教の禁止を経て、1629年(寛永6年)に絵踏を導入、以来、年に数度「キリシタン狩り」のために前述したキリストや聖母が彫られた板などを踏ませ、それを拒んだ場合は「キリスト教徒」として逮捕、処罰した。踏み絵の発案は、オランダ人によるアイデア説・沢野忠庵説など様々であるが、不明である[1]。
初期の段階では、キリシタン狩りに効果があったとされたが、次第に内面でキリスト教を信仰さえすればよい、という考えが広まり、役人の前では堂々と絵踏みをするが、密かに主イエス・キリストに祈って許しを請う信者「隠れキリシタン」が現れ始める。そのため、後期には必ずしも『キリシタン狩り』の効果は上がらなかったといわれている。
この踏み絵は海外の記録にも残り、ベトナム阮朝の張登桂が1828年(明命9年)に著した『日本聞見録』という小録の中に、長崎の役所でベトナム人が四角の銅器の上に人形を陽刻したものを踏ませられたことが記されており、その理由を知らず、不思議がると、長官が、「昔、西洋人が宗教のため、乱を起こしたので、橋や道路に西洋教主の形状を刻したものを置き、同国人に踏ませ、西洋人が来ないようにしたのだ」と説明したとされる[2]。フィクションでは「ガリバー旅行記」に踏み絵に関する記述があるが、これはガリバーが日本に上陸した1709年のこととされている。
1856年4月13日(安政3年3月9日)、長崎・下田などの開港地で踏み絵が廃止される。ただし、キリスト教に対する宗教弾圧自体は、明治維新後もしばらく続き、明治政府は1868年に出した禁令の高札(五榜の掲示)の中で、キリスト教の禁止を示している。しかし、1873年(明治6年)に高札を撤去したことで、日本におけるキリスト教弾圧は終わりを迎えた。
用語
- 前述の通り、「踏み絵」とはキリストやマリアが彫られているそのものの名前のことであり、「絵踏み」とは絵を踏ませる行為・手法そのもののことである。
- したがって、「踏み絵」と「絵踏み」は同義語ではない。
正月行事と季語
寛永5年から幕末期の安政4年まで、長崎奉行所では毎年正月(旧正月)に、踏み絵を行うことが正月行事の1つであった[3]。このことから「絵踏」は春の季語とされている。
絵踏して生きのこりたる女かな — 虚子
文学における描写
- 作中において、日本を訪れた主人公ガリヴァーが、踏み絵を拒否する場面がある。
- カンディード (小説)
- 作中で、リスボン地震 (1755年)11月1日に遭遇した主人公の前で邪悪な行為を行う水夫が普遍理性に背いていると咎められる「4回日本に行って4回踏み絵を踏んできた」と開き直る場面がある。
- 将軍 SHOGUN(映画)
- 作中において、イギリス人たちが馬鹿馬鹿しいと笑いながら踏み絵をする場面がある。