赤羽線
赤羽線(あかばねせん)とは、東京都豊島区の池袋駅と東京都北区の赤羽駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である[注 1]。1985年(昭和60年)9月30日以降は運行系統の名称である埼京線と呼称・案内されている(後述)。本稿では、埼京線開業後も当該区間の正式路線名称は赤羽線であるため、同線開業後の記述もするが、一部重複する部分については、同線の記事を参照のこと。
Contents
概要
赤羽線は、山手線池袋駅と東北本線赤羽駅とを結ぶ5.5kmの路線である。「赤羽線」は、当該区間の正式名称で、かつては旅客案内でもこの名称が用いられていた。しかし、東北新幹線の上野駅延伸の見返りに建設された当時の仮称通勤新線と、同時に電化した川越線との一体運行が実施された1985年(昭和60年)9月30日以降、ここを通るすべての旅客列車は埼京線と案内されるようになった。なお、JR東日本の公式サイト[1]や、池袋駅 - 赤羽駅間の踏切、定期券や回数券、マルス端末発行による乗車券の経由表記においては現在でも赤羽線と稀に表記されることがあるが、埼京線と併記されることがほとんどである。また市販の『JR時刻表』の埼京線のページでは、「池袋-赤羽間は赤羽線」との表記がある[2]。
全線が旅客営業規則の定める電車特定区間、同規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。
当線は湘南新宿ラインの池袋駅 - 赤羽駅間より約4km短く、当線では当該区間を途中2駅停車して9〜10分で走行するのに対し、湘南新宿ラインの当該区間[注 2]は10〜11分程かかる[注 3]ため、先発した湘南新宿ラインの列車より、後発の当線経由の埼京線の列車の方が先着するダイヤが存在する[3]。
歴史
本節では、日本鉄道時代に開業した品川線から1985年(昭和60年)9月30日の埼京線開業までの赤羽線の歴史・沿革について記述する。なお、埼京線開業後の歴史・沿革については、埼京線#埼京線開業後を参照。
沿革
赤羽線は、日本鉄道が1883年(明治16年)7月28日に開業した上野駅 - 熊谷駅間の第一区線[注 4]と官設鉄道[注 5]との連絡線として1885年(明治18年)3月1日に開業した赤羽駅 - 新宿駅経由 - 品川駅間の品川線が起源である[4]。つまり、現在の赤羽線(埼京線)と山手線の一部が一体となって敷設された路線で、いわば赤羽線の方が本線でもあった。現在も池袋駅では山手線の方が東にカーブを描いているのはそのためである[注 6]。ただし、品川線開業当時の池袋駅は池袋信号所であった[6]。品川線の主たる目的は、官設鉄道との連絡と、横浜港からの鉄道資材や建築資材などや、群馬方面からの生糸を横浜港へ運ぶ輸送ルートの確保であり、現在は東京の通勤通学の最重要路線の中の山手線と赤羽線(埼京線)は、かつては貨物輸送を第一の目的として建設された路線であった[7]。それでも、旅客営業を行っており、新橋駅 - 品川駅経由 - 赤羽駅間を1日3往復で所要時間1時間15分で運行された[4]。
1903年(明治36年)4月1日、同じ日本鉄道の路線だった隅田川線・土浦線[注 7]へ線路をつなげるために、豊島線(池袋駅 - 田端駅間)が敷設された。その時に池袋信号所が池袋駅となり、同時に大塚駅と巣鴨駅が設置され、豊島線開業前の1901年(明治34年)8月に品川線(全線)・第一区線(上野駅 - 田端駅間)・秋葉原線(全線)を山手線と呼称することを決定、豊島線開業後それらと併せて山手線と呼ぶようになった[注 8]。1906年(明治39年)11月1日に日本鉄道が国有化された後、1909年(明治42年)10月12日に赤羽駅 - 品川駅間、池袋駅 - 田端駅間は正式に山手線となった[6]。同年12月16日に電化、電車は烏森駅(現・新橋駅) - 品川駅 - 池袋駅 - 田端駅 - 上野駅間と池袋駅 - 赤羽駅間と分かれて運行された[9]。1925年(大正14年)11月1日に山手線が環状運転を行うようになった時、環状運転をする電車は池袋駅 - 田端駅方面へ運行したため、実質的に池袋駅 - 赤羽駅間の方が支線のような状態となり、以降、同区間は「赤羽線」という通称名で呼ばれていた。1972年(昭和47年)7月15日の線路区間表示等が変更された際に、池袋駅 - 赤羽駅間を山手線から分離、それまで通称として使われてきた「赤羽線」が正式に線の名称となった[10]。
赤羽線が正式名称となる前から、池袋駅での発着番線は4番線(現・8番線)で、赤羽駅は東北貨物線に隣接したホームで発着していた。浦和・大宮方面と池袋・新宿といった、山手線の西側を結ぶ短絡線として利用が多い路線であり、1970年代頃からその方面からの輸送量の大幅増大による混雑と、東北・上越新幹線建設に伴う通過地域の通勤新線建設の要望などから、赤羽線をその通勤新線に直通させることになった[11]。そののち1981年(昭和56年)12月6日に自動列車制御装置 (ATC) の使用開始、1983年(昭和58年)3月2日に赤羽駅の専用ホームが高架化され、池袋駅も同年10月2日に4番線から新設の1・2番線(現3・4番線)ホームに変更された[12]。その後、1985年(昭和60年)9月30日に東北本線別線(赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅)が開業し、同時に川越線の電化も行われ、赤羽線との直通運転が開始され、この時から赤羽線と東北本線別線は「埼京線」として案内されるようになった。
車両面では、戦後の1953年(昭和28年)頃から73系などが使用されていたが、1967年(昭和42年)4月に山手線の黄色(カナリア色)の101系が転用され[注 9]、黄色が赤羽線の路線色となった。しかし、101系運用時より黄緑色(ウグイス色)の山手線の103系による代走がたびたびあった[13]。1978年(昭和53年)3月1日に101系が103系に置き換わり、1編成を山手線との共通予備として黄緑色(一部の車両は黄色から黄緑色に戻した)としたため、黄緑色編成および黄緑・黄色の混色編成が多く見られた。なお、埼京線開業後は山手線と同じ黄緑色のラインカラーとなり、埼京線開業までに黄色の車両はすべて黄緑色に塗り替えられた(詳細は後述)。
開業当時から貨物輸送のメインルートの一つであった赤羽線であるが、戦後は山手貨物線や東北貨物線から当線を経由する貨物列車や、池袋駅、板橋駅は貨物の取扱があり、板橋駅発着のセメント輸送、砕石・砂利輸送、一般貨物(米や紙製品など)輸送列車が最盛期には1日4往復運転されていた。しかし、当線経由の貨物列車は、1978年(昭和53年)に山手貨物線経由に変更、池袋駅の貨物扱いは1980年(昭和55年)に廃止、板橋駅発着の貨物列車も、1996年(平成8年)までに廃止された[14](詳細は後述)。
年表
- 1885年(明治18年)3月1日:日本鉄道品川線 品川駅 - 赤羽駅間が開業。現在の赤羽線にあたる区間に板橋駅が開業。
- 1902年(明治35年)5月10日:池袋信号所が開設。
- 1903年(明治36年)4月1日:池袋信号所が駅に変更され、池袋駅が開業。豊島線(池袋駅 - 田端駅間)開業。
- 1905年(明治38年)6月10日:十条駅(貨物駅)が開業。
- 1906年(明治39年)
- 2月7日:十条駅(貨物駅)廃止。
- 10月23日:池袋駅貨物取扱開始。
- 11月1日:日本鉄道が国有化。
- 1909年(明治42年)
- 10月12日:国有鉄道線路名称制定。山手線の一部となる。
- 12月16日:赤羽駅 - 池袋駅 - 品川駅間が電化。赤羽駅 - 池袋駅間で電車運転開始。
- 1910年(明治43年)11月1日:十条駅開業。
- 1924年(大正13年)12月25日:板橋駅 - 池袋駅間が複線化。
- 1925年(大正14年)
- 2月13日:十条駅 - 板橋駅間が複線化。
- 3月31日:赤羽駅 - 十条駅間が複線化。
- 1961年(昭和36年)11月:73系の運用開始。
- 1967年(昭和42年)4月:山手線用のカナリア色の101系が転用、同区間にて運用開始。
- 1972年(昭和47年)7月15日:池袋駅 - 赤羽駅間 (5.5km) が赤羽線として山手線から分離。
- 1978年(昭和53年)3月1日:運用車両を103系に置き換え完了。
- 1980年(昭和55年)5月20日:池袋駅貨物取扱廃止。
- 1981年(昭和56年)12月6日:自動列車制御装置 (ATC) 使用開始。ただし、池袋駅 - 板橋駅間は貨物列車も運行していたため、バックアップ区間として使用開始(現在は通常ATC区間)。
- 1983年(昭和58年)
- 3月2日:赤羽駅ホームを高架線に切り替え。
- 10月2日:池袋駅の改良工事が完成。発着番線を旧4番線(現8番線)から新1・2番線(現3・4番線)に切り替えると共に、8両編成を10両編成に増強。
- 1985年(昭和60年)9月30日:列車集中制御装置 (CTC) が導入。東北本線別線が開業、池袋駅 - 大宮駅間が埼京線として川越線とも直通運転開始。
- 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道が継承。日本貨物鉄道が池袋駅 - 板橋駅間の第二種鉄道事業者となる。板橋駅 - 赤羽駅間の貨物営業廃止。
- 1996年(平成8年)3月16日:池袋駅 - 板橋駅間の貨物列車設定廃止。
- 1999年(平成11年)3月31日:池袋駅 - 板橋駅間の日本貨物鉄道の第二種鉄道事業が廃止。
使用車両
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本節では、1985年9月30日の埼京線開業直前までの使用車両の詳細及びそれ以降の使用車両を記述する。なお、案内上の運行系統名称が「埼京線」となった以降の使用車両の詳細については「埼京線#使用車両」を参照。(本節の全体の出典…[15][16])
1985年9月30日以前の使用車両
下記に示す車両は、全て電車である(■の色は車体色)。なお、所属車両基地は全て池袋電車区(現・池袋運輸区)。
- ■72系他 (1953年頃 - 1967年、末期の8両編成はサハ17形を1両組み込み)
- ■101系 (1967年 - 1978年、6M2Tの8両編成)
- ■■103系 (1978年 - 1985年、当初8両編成、1983年10月2日より10両編成。)
車両は1953年頃から旧型国電が使用され始め、同年代の通勤圏拡大に伴い、東北本線・高崎線方面から池袋・新宿・渋谷への通勤・通学客の増加に対応を重ね、1958年11月には4両編成→5両編成、1959年8月には5両編成→6両編成、1961年11月からは72系を中心とした7両編成に、1965年7月には当時の山手線と同じ8両編成となった。1967年(昭和42年)4月に山手線用のカナリア色の101系8両編成×5本40両が転用され、それに伴い黄色が赤羽線の路線色となった。101系運用時よりウグイス色の山手線の103系による代走がしばしばあったが、1972年6月23日に日暮里駅で起こった追突事故を契機に、山手線・京浜東北線・赤羽線に自動列車制御装置(ATC)を導入することになり、1978年3月1日までに運用車両を103系8両編成×5本40両に置き換え、101系は全車南武線に転用された。なお、投入された103系は、山手線用の車両をそのまま転用されたため、ウグイス色のまま運用され、また先頭車は全て低運転台クハ103形であった。1979年からATC対応の高運転台クハ103形が投入され、車両は順次ウグイス色→カナリア色へ塗り替えられた。1981年12月6日にATC使用開始後も8両編成で運用されていたが、1983年10月2日の池袋駅の発着ホーム移転に伴い全編成が10両編成化され、先頭車以外の中間車にも冷房車が新製投入された。その後、1985年9月30日の埼京線開業までに1編成を除き[注 10]順次カナリア色→ウグイス色へと塗り替えられ、赤羽線のラインカラーであったカナリア色の電車の運用は終了した。
車両編成については、前述の通り72系運用時末期には、72系7両×サハ17形1両の8両編成で運用された。101系については、山手線に103系の新製投入に伴っての転用で、編成は(池袋方)McM'MM'TTMMc'(赤羽方)の8両編成で、車体の色はカナリア色、1969年に山手線から101系が撤退した後も、101系は継続運用された。なお、101系の中には、日除けのキセが分割形の初期車はおらず、1967年製で側扉がステンレス製のサハ101-126・126が含まれていた。また、101系当時の編成運用は、配置40両、使用32両 予備8両で1編成分の予備しかなかったので、前述の通り山手線用の103系の代走がしばしば見られた。103系については、1978年3月1日までに全車103系化された。編成は(池袋方)TcMM'TTMM'Tc(赤羽方)の8両編成で、全車山手線からの捻出車で、車体の色はウグイス色、編成中モハユニット(編成中間の電動車MM')とサハ(編成中間の付随車T)は全車非冷房車、先頭車のクハ(制御車Tc)は低運転台非冷房車であったが、1編成のみ試作冷房車を量産化改造したクハ103-178・179でこの2両は冷房車であった。1979年からATC対応の高運転台クハ103形が投入され、各編成は順次ウグイス色→カナリア色へ塗り替えられた。その間は、先頭車ウグイス色、中間車カナリア色という編成も見られた。しかし、編成自体は山手線と同様に先頭車が冷房装置を搭載しているATC車でありながら、中間車が冷房電源のない非冷房車のため、冷房が使えないいわゆる「キセル編成」であった。そのため、夏季のみ編成の一部に山手線用103系冷房改造車モハユニットに組み替えて冷房を使用できるようにした。1981年12月6日にATC使用開始時、クハ103-301・302の2両は「山手線の予備車兼用」としてウグイス色のままであったが、当線用の1編成の中間車6両をカナリア色→ウグイス色へ戻し、先頭車をクハ103-301・302の2両に差し替えて「山手線の予備編成兼用」となった[注 11]。1983年10月2日に10連化用のモハユニットであるモハ103-787+モハ102-2044他計10両[注 12]が落成。これが103系最終増備車(最終ユニット車)に当たり、優先的に2・3号車と8・9号車へ組み込まれクハ103形の冷房電源スイッチが使用できるようになった。また、翌年2月1日のダイヤ改正での福知山線短編成化による同線からのモハユニット2両が転入、当線用のうち4編成(下線部が冷房車)が(池袋方)TcMM'TMM'TMM'Tc(赤羽方)、1編成が(池袋方)TcMM'TMM'TMM'Tc(赤羽方)となった[注 13]。その後、当線用のカナリア色車は、埼京線開業と川越線電化開業の準備対策としてウグイス色へ変更、最終ユニット車も2年余りでウグイス色へ変更されて、当線用の全編成が埼京線・川越線の車両基地である川越電車区(現・川越車両センター)へ転属した。
行き先表示は101系と103系非冷房車は2段の両終点表示(上段「池袋」、下段「赤羽」。103系の一部は1行で「池袋←→赤羽」の物もあり)、103系冷房車は線名(「赤羽線」)を表示していた。埼京線開業直前には、「赤羽線」表示を「指扇」に変更され、運用中の行き先表示はそれぞれ「池袋」、「赤羽」となった。
1985年9月30日以降の使用車両
1985年9月30日の埼京線開業後は、103系(1985年〜1990年)→205系(1989〜2016年)→E233系7000番台(2013年〜)と変遷した。所属車両基地はすべて川越電車区(現・川越車両センター)である。なお、2002年12月1日から、東京臨海高速鉄道の70-000形も同線を走行している。
貨物輸送
元々日本鉄道時代の品川線の主たる目的は、官設鉄道との連絡と、上毛地方の生糸の横浜方面への貨物輸送であった。当時の生糸は、日本最大の輸出品であり、第一区線(現在の高崎線)が1885年(明治18年)8月に前橋駅まで延伸されると、江戸時代以来の舟運や馬車などによる輸送から鉄道輸送へ移るようになり、品川駅での官設鉄道との接続で、鉄道貨物の重要性がますます認識されていった[4]。その後の豊島線の開通、隅田川貨物駅の開業、日本鉄道の国有化後は、東京に発着または通過する貨物量が増大し、山手貨物線の新設や田端操車場開業などで対応していった。昭和に入ると、山手貨物線の線路容量不足が露呈してきたことから、武蔵野線を開通させ、当線や山手貨物線を通過する貨物列車の本数は減ったが、深夜を中心に当線を通過する貨物列車は、1978年(昭和53年)まで運行されていた[注 14][17]。
池袋駅での貨物取扱開始は、国有化直前の1906年(明治39年)10月23日からで、貨物設備は旅客ホーム東側の西武池袋駅寄りにあり、構内は、着発線6線、仕訳線、積卸線、貨物留置線、引上線などの貨物用側線、貨物ホームが設置されていた。また、同駅構内には西武池袋線と、同駅 - 板橋駅間には東武東上線との貨物輸送をするための連絡線が存在していた[18]。西武鉄道との連絡貨物輸送は、1976年(昭和51年)の武蔵野線新秋津駅 - 西武池袋線所沢駅間の連絡線開業まで行われたが、赤羽線への貨物輸送は、板橋駅までの砂利輸送[注 15]であった[19]。東武鉄道との連絡貨物は昔から多く、同駅には東上線連絡貨車用の留置線が2本設けられていた[20]。また、東上線側には、1947年(昭和22年)5月1日から1964年(昭和39年)9月14日まで西山信号所が設置[21]され、貨物列車の引渡しが、この連絡線を通じて行われていた。東武鉄道向け新車輸送も行われ、車両メーカーから同信号所経由で下板橋駅まで輸送されていた[注 16]。
一方、板橋駅は開業時から旅客、貨物両用の駅であった[14]。戦後になると構内には、池袋駅寄りの東側には住友セメント(現・住友大阪セメント)池袋包装所、同西側には日本食糧倉庫、赤羽寄りには紙倉庫への専用線がそれぞれ引かれ、包装所へはセメント輸送と砕石・砂利輸送の専用貨物列車が、日本食糧倉庫、紙倉庫へは、普通貨物列車が設定され、最盛期には、セメント、砕石・砂利輸送1往復、日本食糧倉庫、紙倉庫への普通貨物3往復、計4往復運転された[22]。その内砕石・砂利輸送は、東武鉄道向けと西武鉄道向け[注 17]から、後年は初狩駅へのトキ25000形が専用列車として運行された[23]。普通貨物輸送は、1日3往復の列車が運行されていたが、昭和59年2月のダイヤ改正以降、国鉄の貨物輸送システム再構成による、直行列車体系の再編成などから、板橋駅への貨物列車が、セメントと砕石・砂利輸送のみとなったため、池袋駅寄り西側と、赤羽寄りの専用線への貨物列車は廃止された[24]。
その後貨物輸送は、1日1往復のみの東武会沢線上白石駅にあった住友セメント栃木工場からのタキ1900形のセメント専用貨物列車だけが残った[23]。だかこの列車も、1996年(平成8年)3月16日で運行終了、これをもって、東京23区内のJR線の最後の旅客、貨物両用の駅であった板橋駅の貨物取扱が終了した[14]。なお、1969年(昭和44年)頃まで、貨物列車の牽引は蒸気機関車D51牽引が残っていたが、その後、池袋駅 - 板橋駅間の貨物列車牽引は、ディーゼル機関車DD13、さらにDE10へと変わった[25]。
沿線概況
本節では、当線全線の沿線概況を記述する。なお、埼京線赤羽駅 - 大宮駅間は埼京線#沿線概況を参照。(本節の全体の出典…[26][27][28])
赤羽線の起点は池袋駅であり、起点を示す0kmポストは現在の埼京線下りホーム4番線の脇にある。このホームは、1985年10月2日の赤羽線10両化に伴う新ホーム使用の際に設置されたホームで、以前は1・2番線を名乗っていたが、現在は3・4番線として使用され4番線に下り線が入っている[29]。また、上りホームは、1988年3月13日の東北本線(現在は愛称である宇都宮線での案内)・高崎線中距離列車の当駅への乗り入れに伴い、赤羽線(→埼京線)ホームの東側に新設された、元中距離列車用のホーム(現:1・2番線)を使用している。上り線は池袋駅の北側で湘南新宿ライン(山手貨物線)の線路を立体交差して跨ぎ、池袋駅では1番線に入いる。
池袋駅を出ると、西側に山手線の池袋運輸区(旧・池袋電車区)への回送線、東側に埼京線などの同区への回送線に挟まれ進み、山手貨物線が東側へカーブして離れていくと、西側へカーブしながら山手線本線をオーバークロスし、池袋駅西口と東口を結ぶ池袋大橋[注 18]をアンダークロスして、それぞれの回送線と平面交差、その先に同区の出入口が東側にある。回送線と平面交差後東武東上線の線路側[注 19]に近づき、当線と平行になったところで川越街道(国道254号)と首都高5号池袋線がオーバークロス、同線は北池袋駅まで平行し、同線が西側へカーブして離れると板橋駅へ至る。
板橋駅の手前で東側へカーブし、その先に1面2線のホームがある。同駅は、かつて東京23区内のJR線の旅客駅の中で唯一貨物取扱駅をしていた駅で、広い構内を持ち、構内池袋駅寄り東側にはセメント工場、同池袋駅寄り西側には食糧倉庫、同赤羽駅寄りには紙倉庫があった(詳細は、板橋駅#貨物取扱を参照)。板橋駅を出ると、旧中山道が渡る仲仙道踏切を通過、そこから下り勾配で中山道(国道17号)と首都高中央環状王子線をアンダークロスすると、盛り土の上を通って石神井川を渡り、東側へカーブすると掘割の間を進み、掘割が終わると東側に都立王子特別支援学校や十条富士見中学校[注 20]、西側に東京家政大学板橋キャンパスの施設に挟まれたところを進み[注 21]、十条駅へ至る。
十条駅は、対向式ホームと呼ばれる上下線ホームが向かい合わせの構造で、同駅と同じ構造のホームを持つ東京23区内のJR線の駅は、中央線水道橋駅、総武線秋葉原駅、浅草橋駅、山手線・中央線代々木駅、横須賀線西大井駅[注 22]ぐらいで、同駅はそのうちの一つである。十条駅を出ると、住宅街がひしめく中を進み、再び掘割構造となり、環状7号線(通称:環七通り)をアンダークロスした後、洪積平野が広がり西側に清水坂公園を見ると、東側より湘南新宿ライン(東北貨物線)、宇都宮・高崎線、京浜東北線の線路が近づき、当線を含む4路線が平行した所で、東北・上越・北陸新幹線の高架が覆いかぶさるように上を横断し、同線の真上で平行になり、そして西側へカーブした先に赤羽駅があり、当線は7・8番線ホームに到着する。このホームは、1983年3月2日にいち早く高架に切り替わったホームで、使用開始以来当線及び埼京線専用のホームとなっている。
データ
路線データ
特記事項を除き、2013年12月現在のデータを下記に示す[32]。
- 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)東京支社
- 区間(営業キロ):池袋駅 - 赤羽駅 5.5km
- 軌間:1067mm
- 駅数:4(起終点駅含む)
- 赤羽線所属駅に限定した場合、山手線所属の池袋駅および東北本線所属の赤羽駅[33]が除外され、2駅となる。
- 複線区間:全線
- 電化区間:全線(直流1500V)
運転方式などのデータは、「埼京線#データ##路線データ」を参照。
駅一覧
駅名 | 駅間営業キロ | 累計営業キロ | 所在地 | |
---|---|---|---|---|
山区 | 池袋駅 | - | 0.0 | 豊島区 |
区 | 板橋駅 | 1.8 | 1.8 | 板橋区 |
区 | 十条駅 | 1.7 | 3.5 | 北区 |
区 | 赤羽駅 | 2.0 | 5.5 |
廃駅
運賃及び料金の計算経路の特例
旅客営業規則第67条の規定では、「旅客運賃・料金は、旅客の実際乗車する経路及び発着の順序によつて計算する。」[34]となっているが、赤羽線内の駅から乗車する場合、同規則第69条[35]及び第70条[36]から、普通旅客運賃・料金は最も短い営業キロによって計算され、経路の指定は行われない。また、旅客営業取扱基準規程第110条[37]から、赤羽以遠(川口方面)の各駅と池袋以遠(目白方面)の各駅との相互間を、東北本線及び山手線経由で直通運転する列車に乗車するときの運賃及び急行料金の計算経路は、赤羽線(板橋)経由で計算される。つまり、例えば新宿駅から湘南新宿ラインに乗り、浦和駅まで行く場合や、蕨駅から高田馬場駅までを田端駅経由で行く場合、それらの運賃・料金の計算経路は、田端駅経由[注 23]であっても、板橋駅経由で計算される。
連続立体交差事業
十条駅周辺にて、連続立体交差事業(鉄道高架化)の事業化を進める計画がある[38]。詳細は「埼京線」の記事の「連続立体交差事業」の節を参照。
脚注
注釈
- ↑ 『鉄道要覧』には「赤羽線」の名で東日本旅客鉄道の路線として掲載。
- ↑ 山手貨物線(池袋 - 駒込 - 中里トンネル)と東北貨物線(同トンネル - 王子 - 赤羽)経由。
- ↑ 池袋→赤羽はに最速9分の列車あり。赤羽→池袋には最遅12分もあり。
- ↑ 現在の東北本線上野駅 - 大宮駅間と高崎線。
- ↑ 現在の東海道本線新橋駅 - 横浜駅間。
- ↑ 松平乘昌著 『図説日本鉄道会社の歴史』 P66には、鉄道博物館所蔵の池袋駅開業前当時の写真(池袋駅分岐器)が掲載されている[5]。
- ↑ 現在の常磐線の一部、当時は田端駅 - 三河島駅 - 水戸駅間が本線であった。
- ↑ 当時は正式名称ではなく、通称名としてこの名称を使った[8]
- ↑ 国電として101系・103系電車が路線ごとに特定のカラーリングを導入し、新性能化に際して山手線には黄色の101系が最初に導入された。
- ↑ 予備編成であった1編成はウグイス色で運用されていた。
- ↑ 山手線走行時は、他編成のモハユニットを増結して運用。その後、クハは305・306に差し替えられた。
- ↑ ランボードが201系量産車タイプとなり塗屋根及び冷房装置がSUSカバーのAU75G/E系という点が同時期に落成した九州用1500番台及び185系200番台と同様。
- ↑ 前者がカナリア色、後者がウグイス色。
- ↑ 当線通過の貨物列車は、1978年(昭和53年)10月1日の赤羽駅高架化工事開始に伴い、東北貨物線への線路が撤去されたため、全て山手貨物線経由となった。
- ↑ 西武池袋線・西武秩父線吾野駅などからの直通運用が主であった。
- ↑ 旧型電車から東武8000系電車初期車までがこれにあたり、下板橋のほか川越駅でも新車引き渡しが行われていたので、少なからずも現在の埼京線にあたる区間において東武向け電車が甲種輸送ながら走っていた。
- ↑ 東武側から無蓋車トキ1形が東武会沢線上白石駅から北千住駅、後年は久喜駅(国鉄側は東鷲宮駅まで)を通じて運行され、西武側から無蓋車トム形が、西武池袋線吾野駅・西武秩父線・東横瀬駅(現・廃止)からの直通で、1976年までは池袋経由で、それ以降は新秋津駅 - 所沢駅間の連絡線経由で運行されていた。東武車は1991年11月25日に上白石への砕石輸送が廃止されるまで、西武車は発着駅が中央本線酒折駅となったことで消滅した。
- ↑ この陸橋ができる前は、〝池袋大踏切〟と呼ばれた第二鎌倉踏切があった[30]
- ↑ かつてこの場所には西山信号所があり、東武と国鉄(当時)との間で貨物列車の受け渡しが行われていた[21]。
- ↑ この2校の奥には陸上自衛隊十条駐屯地や、東京成徳大学・同短期大学十条台キャンパスがある。
- ↑ 十条駅手前で少し東側へ寄るが、これはここにかつての十条貨物駅が存在していた名残りである[31]。
- ↑ ただし、代々木駅の山手線内回りホームと中央・総武緩行線中野方面行きは共通ホームを使用。また、山手線渋谷駅も内・外回りホームが別々だか、両線が向かい合わせになっていない構造である。
- ↑ 湘南新宿ラインは田端駅を通らないが、運賃計算経路はこの場合「新宿 - 田端 - 浦和」となる。
出典
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参考文献
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- 『マイライン 東京時刻表』各年各月号、交通新聞社、東京臨海高速鉄道りんかい線・埼京線・川越線の時刻頁。
- 専門誌・趣味誌
-
- 伊集院護「列車追跡シリーズ-230 東京西北の通勤動脈「川越→池袋」三車三様 されど埼京線は最強をめざす」、『鉄道ジャーナル 特集●埼京線開業と通勤電車』第19巻12号(通巻226号)、鉄道ジャーナル社、1985年12月、 41 - 43頁。
- 渡辺一策「山手線と貨物輸送」、『鉄道ピクトリアル2012.5臨時増刊号 山手線をめぐる鉄道 早稲田大学鉄道研究会60周年記念誌』、電気車研究会、2012年5月、 62 - 71頁。
- 今田保「山手貨物線の歴史」、『鉄道ピクトリアル 【特集】山手貨物線』第64巻9号(通巻894号)、電気車研究会、2014年9月、 10 - 16頁。
- 坂正博「埼京線・川越線・八高線・相模線車両の変遷 〜1980年代から今日まで〜」、『鉄道ダイヤ情報 No.378 〔特集〕埼京線と東京メガループの“周辺”に注目』第44巻10号(通巻402号)、交通新聞社、2015年10月、 18 - 20頁。
- 芳田あきら・前納浩一「101系からE233系まで 埼京線の車両変遷」、『鉄道ピクトリアル 【特集】JR205系電車』第66巻9号(通巻921号)、電気車研究会、2016年9月、 48 - 52頁。
関連項目
座標: 東経139度43分20秒北緯35.75167度 東経139.72222度