西野朗
{{#invoke:Infobox3cols|infobox}} 西野 朗(にしの あきら、1955年4月7日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代の主なポジションはミッドフィールダー(MF)。2018 FIFAワールドカップでは日本代表を率いた。
Jリーグ1部の監督として通算勝利数270は歴代1位である。
Contents
来歴
選手時代
大宮サッカー場に来る日本代表に憧れるサッカー少年時代[1]、三菱ダイヤモンド・サッカー(東京12チャンネル、現テレビ東京)の視聴者プレゼントに応募、シューズをもらった経験があるという[2]。
埼玉県立浦和西高等学校を経て、早稲田大学教育学部に入学して、ア式蹴球部に所属。在学中に日本代表に選出された。
1978年に日立製作所へ入社、人事部の女子採用係に配属され新人ながら求人票配りに行かされると、大学サッカーで人気選手だったこともあり女子が殺到したという[1]。同社サッカー部加入以降はプレーに精彩を欠き伸び悩む。その後、復活を果たし1985年に日本サッカーリーグタイ記録の8試合連続得点をあげベストイレブンにも選出された。また、晩年にはセンターバックを務めることもあった。しかし、天才肌のMFである一方で淡白な部分があり、日立加入初年の1978年を最後に日本代表には呼ばれず、1990年に現役を引退した。
指導者時代
U-20日本代表〜アトランタ五輪
1994年に、アトランタオリンピック本大会出場を目指すU-23日本代表監督に就任。28年ぶりとなる本大会出場、本大会でのブラジル戦での勝利(マイアミの奇跡)で名を挙げる。
柏レイソル
1998年に日立製作所を前身とする柏レイソルの監督に就任し、1999年にはナビスコカップ優勝に導き、クラブ・西野自身にとって初のタイトルを獲得する。2000年はタイトルこそ獲得出来なかったが、2ndステージは鹿島アントラーズと最後まで優勝争いを繰り広げ、2位というクラブ史上最高の成績を残し(年間獲得勝ち点は1位であった)、自身初となるJリーグ最優秀監督に選ばれた。しかし、翌2001年には、ユ・サンチョルが横浜Fマリノスから加入したが、優勝争いに加わる事ができず1stステージは6位に終わった。1stステージ終了後に成績不振を理由に解任された。
ガンバ大阪
2002年よりガンバ大阪の監督に就任。Jリーグ開幕以降タイトルと無縁だったクラブを上位陣に押し上げ、就任4年目の2005年にG大阪と自身にとっても初となるJ1リーグ優勝を達成し(2005年J1最終節)、2度目のJリーグ最優秀監督賞を受賞。2006年は終盤まで、浦和と優勝争いを展開するも、最終節での直接対決で敗れリーグ連覇を逃す。2007年にはナビスコカップ優勝を達成し、3月3日の大宮戦で、Jリーグの監督として史上初となるJ1通算150勝を達成(内訳:柏 67勝、G大阪 83勝)。
2008年にはAFCチャンピオンズリーグを制し、AFCからアジア最優秀監督に選ばれ、FIFAクラブワールドカップ2008準々決勝のアデレード・ユナイテッドFC戦では、日本人監督としてFIFA主催の公式大会で初めて勝利を挙げた[3]。更に、天皇杯優勝を達成し、国内3大タイトルの全てを制覇した。またこの年、Jリーグクラブの監督在任最長期間記録(トニーニョ・セレーゾ 鹿島監督)を更新した。
2009年12月5日の千葉戦で、J1通算200勝を達成。さらに、この年の天皇杯を制し、天皇杯連覇を達成した。
2010年は開幕前からケガ人が相次いだ影響などにより、前半戦は絶不調に陥るが、後半戦は持ち直し、リーグ2位に押し上げる。しかし、天皇杯3連覇を逃し、2006年以来4年ぶりにシーズン無冠に終わった。就任10年目で迎えた2011年も無冠に終わりガンバから同年限りで契約満了(事実上の解任)を通告された。
ガンバ時代には財布をよく忘れ、スタッフが届けていた、革靴をスーツケースに入れてしまい、スーツにサンダル履きで報道陣の前を歩いたなどのエピソードがある[1]。
ヴィッセル神戸
2012年5月19日、成績不振により解任された和田昌裕の後任としてヴィッセル神戸の監督に就任。しかし、同年11月8日成績不振により解任[4]。尚、2012年の残り試合は、コーチの安達亮が指揮を執る事になった[5]。
名古屋グランパス
2014年シーズンから名古屋グランパスの監督に就任[6]。2シーズン指揮を執ったが好成績を残せず、内容を含めチームは停滞[7]。2015年10月、契約期間満了により退任[8]。
日本サッカー協会
2016年3月、日本サッカー協会(JFA)の理事に就任し、降格処分となった霜田正浩技術委員長の後任として技術委員長に就任[9]。
2018年3月28日、日本代表が欧州での親善試合を1分1敗で終えた後[10]、ヴァヒド・ハリルホジッチ監督の続投を明言した[11]。
サッカー日本代表
2018年4月7日、ヴァヒド・ハリルホジッチが突如として日本代表監督を解任され[12]、その2日後の4月9日に後任として西野が代表監督に就任することがJFAより発表された[13]。任期は2018年4月9日から2018年ロシアW杯までの約2か月間で、岡田武史以来2人目のワールドカップで指揮をとる日本人監督となった[14]。また、西野は日本代表監督就任に伴い、同年4月7日までに、JFA理事、JFA技術委員長、Jリーグの理事を辞任している[15]。
代表監督としての最初の指揮は同年5月30日に日産スタジアムで行われたガーナ代表とのワールドカップロシア大会前の国内最後の親善試合だったが、0-2で敗れ、初陣を勝利で飾ることはできなかった[16]。翌日5月31日にワールドカップロシア大会に臨む23人のメンバーを発表[17][18]。同年6月8日にスイスのルガーノで行われたスイス代表との親善試合では0-2で敗れ、就任後2連敗となったが[19]、6月12日にオーストリアのインスブルックで行われたパラグアイ代表とのワールドカップ前最後の親善試合では4-2で勝利し、代表監督就任後3戦目にして初勝利を挙げた[20]。
ワールドカップ ロシア大会
2018年6月19日にサランスクのモルドヴィア・アリーナで行われたワールドカップロシア大会グループH初戦でコロンビア代表を2-1で下し、日本代表にとって2010年の南アフリカ大会以来となるワールドカップでの白星をもたらした[21]。また、この勝利はアジア勢がワールドカップにおいて初めて南米のチームから挙げた白星であった[22]。グループステージ第2戦(6月24日、エカテリンブルク・アリーナ)はセネガル代表と対戦し、2-2の引き分けで勝ち点1を獲得した[23]。6人の先発を変更して挑んだ第3戦(6月28日、ヴォルゴグラード・アリーナ)のポーランド戦では59分に先制点を許し0-1とされたが、同時刻に行われていたグループHのもう1つの試合でコロンビアがセネガルを1-0でリードしているという戦況を確認しながら、試合終盤に後方でのパス回しを指示した[24]。試合はそのままポーランドに0-1で敗れ、最終的にセネガルと勝ち点4で並んだが、定められた規定によりフェアプレーポイントの差でグループ2位での16強進出が決まった[25]。決勝トーナメントラウンド16で、ベルギーと対戦、後半一旦は2点を先取したものの、後半アディショナルタイム終了間際のゴールで逆転を許し2-3で敗戦、日本代表初となるベスト8進出を惜しくも逃した。
大会終了後の7月5日、日本代表帰国時の記者会見の最後で、同席した田嶋幸三日本サッカー協会会長が、「西野さんとは『今大会の結果がどうであれこれが最後』と約束し、慰留することはしませんでした。7月末を持って日本代表の監督を退任します。また違った形で日本サッカーに貢献し、サポートしていただければと思います」と西野の日本代表監督退任を明言した[26]。
所属クラブ
- 1971年 - 1973年 埼玉県立浦和西高等学校
- 1974年 - 1977年 早稲田大学[4]
- 1978年 - 1990年 日立製作所[4]
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1978||rowspan="12"|日立||||rowspan="9"|JSL1部||13||1|||||||||||| |- |1979||||12||0|||||||||||| |- |1980||||15||6|||||||||||| |- |1981||||8||1|||||||||||| |- |1982||||15||4|||||||||||| |- |1983||||18||2|||||||||||| |- |1984||||17||2|||||||||||| |- |1985||||22||12|||||||||||| |- |1986-87||||17||1|||||||||||| |- |1987-88||||rowspan="2"|JSL2部|||||||||||||||| |- |1988-89||||||2|||||||||||| |- |1989-90||32||JSL1部||6||0||0||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始143||29|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行|||||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終|||||||||||||| |}
代表歴
出場大会など
試合数
- 国際Aマッチ 12試合 1得点 (1974年-1978年)[4]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1974 | 0 | 0 | 6 | 2 | 6 | 2 |
1975 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1976 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1977 | 4 | 0 | 23 | 3 | 27 | 3 |
1978 | 8 | 1 | 8 | 1 | 16 | 2 |
通算 | 12 | 1 | 37 | 6 | 49 | 7 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1978年7月21日 | マレーシア、クアラルンプール | テンプレート:MYSf | 1-4 | 敗戦 | ムルデカ大会 |
指導歴
- 1990年 - 1991年 日立製作所:ヘッドコーチ [4]
- 1991年 - 1992年 U-20日本代表:監督 [4]
- 1994年 - 1996年 U-23日本代表:監督 [4]
- 1997年 柏レイソル:ヘッドコーチ [4]
- 1998年 - 2001年7月 柏レイソル:監督 [4]
- 2002年 - 2011年 ガンバ大阪:監督 [4]
- 2012年5月 - 11月 ヴィッセル神戸:監督 [4]
- 2014年 - 2015年 名古屋グランパス:監督
- 2016年 - 日本サッカー協会
- 2016年3月 - 理事
- 2016年3月 -2018年4月 技術委員長
- 2018年4月 - 日本代表:監督
監督成績
年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 順位 (チーム数) |
ナビスコ杯 | 天皇杯 | 他公式戦 | クラブ | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ステージ | 年間 | |||||||||||||
1998 | J1 1st | 17 | 22 | 9 | - | 8 | 32 | 35 | 10位 | 8位 (18) |
4回戦敗退 | 予選敗退 | - | 柏レイソル |
J1 2nd | 17 | 25 | 9 | - | 8 | 24 | 26 | 8位 | ||||||
1999 | J1 1st | 15 | 29 | 10 | 0 | 5 | 26 | 18 | 4位 | 3位 (16) |
優勝 | ベスト4 | - | |
J1 2nd | 15 | 29 | 10 | 1 | 4 | 23 | 18 | 4位 | ||||||
2000 | J1 1st | 15 | 26 | 10 | 0 | 5 | 25 | 22 | 4位 | 3位 (16) |
4回戦敗退 | 2回戦敗退 | - | |
J1 2nd | 15 | 32 | 11 | 1 | 3 | 23 | 10 | 2位 | ||||||
2001 | J1 1st | 15 | 22 | 8 | 0 | 7 | 29 | 23 | 6位 | 6位 (16) |
3回戦敗退 | - | - | |
J1 2nd | - | - | - | - | - | - | - | - | ||||||
2002 | J1 1st | 15 | 27 | 9 | 1 | 5 | 35 | 19 | 4位 | 3位 (16) |
ベスト4 | 4回戦敗退 | - | ガンバ大阪 |
J1 2nd | 15 | 27 | 10 | 0 | 5 | 24 | 13 | 2位 | ||||||
2003 | J1 1st | 15 | 16 | 4 | 4 | 7 | 26 | 29 | 12位 | 10位 (16) |
ベスト8 | 4回戦敗退 | - | |
J1 2nd | 15 | 23 | 6 | 5 | 4 | 24 | 17 | 7位 | ||||||
2004 | J1 1st | 15 | 24 | 7 | 3 | 5 | 31 | 23 | 4位 | 3位 (16) |
ベスト8 | ベスト4 | - | |
J1 2nd | 15 | 27 | 8 | 3 | 4 | 38 | 25 | 3位 | ||||||
2005 | J1 | 34 | 60 | 18 | 6 | 10 | 82 | 58 | 優勝 (18) |
準優勝 | ベスト8 | - | ||
2006 | J1 | 34 | 66 | 22 | 6 | 8 | 80 | 48 | 3位 (18) | ベスト8 | 準優勝 | スーパーカップ 準優勝 | ||
ACL2006 予選敗退 | ||||||||||||||
A3カップ2006 準優勝 | ||||||||||||||
2007 | J1 | 34 | 67 | 19 | 10 | 5 | 71 | 37 | 3位 (18) | 優勝 | ベスト4 | スーパーカップ 優勝 | ||
2008 | J1 | 34 | 50 | 14 | 8 | 12 | 46 | 49 | 8位 (18) | ベスト4 | 優勝 | パンパシ2008 優勝 | ||
スルガCS 準優勝 | ||||||||||||||
ACL2008 優勝 | ||||||||||||||
FCWC2008 3位 | ||||||||||||||
2009 | J1 | 34 | 60 | 18 | 6 | 10 | 62 | 44 | 3位 (18) | ベスト8 | 優勝 | スーパーカップ 準優勝 | ||
ACL2009 ベスト16 | ||||||||||||||
2010 | J1 | 34 | 62 | 18 | 8 | 8 | 65 | 44 | 2位 (18) | ベスト8 | ベスト4 | スーパーカップ 準優勝 | ||
ACL2010 ベスト16 | ||||||||||||||
2011 | J1 | 34 | 70 | 21 | 7 | 6 | 78 | 51 | 3位 (18) | ベスト4 | 3回戦敗退 | ACL2011 ベスト16 | ||
2012 | J1 | 19 | 21 | 5 | 6 | 8 | 24 | 28 | -位 (18) | GL敗退 | 2回戦敗退 | ヴィッセル神戸 | ||
2014 | J1 | 34 | 48 | 13 | 9 | 12 | 47 | 48 | 9位 (18) | GL敗退 | ベスト8 | - | 名古屋グランパス | |
2015 | J1 1st | 17 | 22 | 6 | 4 | 7 | 18 | 18 | 9位 | 10位 (18) |
ベスト8 | 2回戦敗退 | - | |
J1 2nd | 17 | 24 | 7 | 3 | 7 | 26 | 30 | 10位 | ||||||
通算 | 524 | - | 270 | 91 | 164 |
- 2001年は、J1 1st終了後に解任。
- 2012年は、第13節から第31節まで指揮。
- 赤太字はJ通算及びJ1トップ
タイトル・表彰
クラブ
- 柏レイソル
- ガンバ大阪
- Jリーグ ディビジョン1:1回 (2005年)
- ナビスコカップ:1回 (2007年)
- 天皇杯:2回 (2008年、2009年)
- ゼロックススーパーカップ:1回 (2007年)
- AFCチャンピオンズリーグ:1回 (2008年)
- パンパシフィックチャンピオンシップ:1回 (2008年)
表彰
- Jリーグ最優秀監督賞:2回 (2000年、2005年)
- AFC最優秀監督賞:1回 (2008年)
著書
- 『挑戦―ブラジルを破るまでの軌跡』(1997年、ニッポン放送プロジェクト、ISBN 4594021808、ISBN 978-4594021801)
- 『勝利のルーティーン 常勝軍団を作る、「習慣化」のチームマネジメント』(2014年、幻冬舎、ISBN 4344025210、ISBN 978-4344025219)
CM出演
- ポッカコーポレーション 「缶コーヒーミスター」(1996年)
- オーツタイヤ(現・住友ゴム工業) (1996年)
- ミドリ電化 (2007年) - 加地亮、播戸竜二、安田理大と共演(選手とは別撮りで、ミドリ電化の店内で変な踊りをする選手に対して一言いう)[1][2][3]
- パナソニック「ラムダッシュ」(2008年)
- ポケットサッカーリーグ カルチョビット(2012年) - 千鳥、博多華丸・大吉、久保裕也との共演(同ソフトによるエキシビジョンマッチを編集したもの)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 “【乾坤一筆】今だから語れる西野氏の魅力”. サンスポ. 産経デジタル (2018年7月6日). . 2018閲覧.
- ↑ “フットボールの真実 W杯日本初中継は「三菱ダイヤモンド・サッカー」”. ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社 (2018年5月11日). . 2018閲覧.
- ↑ 年代別、女子大会を除く
- ↑ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 “監督交代のお知らせ” (プレスリリース), ヴィッセル神戸, (2012年11月8日) . 2014-8-29閲覧.
- ↑ サッカーJ1神戸、西野監督解任(DAILYSPORTONLINE 2012年11月8日配信記事(配信日に閲覧))
- ↑ 名古屋グランパス新監督に西野朗氏就任内定のお知らせJ’s GOALアーカイブ(2013.12.14)、2018年7月24日閲覧。
- ↑ 停滞 西野体制2年間の裏で(上)苦しい編成 最低限の結果 - ウェイバックマシン(2015年11月27日アーカイブ分)中日スポーツ (2015年11月27日)
- ↑ 西野 朗監督、契約満了のお知らせ名古屋グランパス公式サイト(2015.10.4付)、2018年7月24日閲覧。
- ↑ JFAが新体制を発表…副会長に岡田武史氏、技術委員長に西野朗氏の就任が内定サッカーキング(2016.3.11付)、2018年6月21日閲覧。
- ↑ 日本はウクライナに敗れる…ベルギー遠征は1分1敗ゲキサカ(2018.3.27付)、2018年6月21日閲覧。
- ↑ “西野朗技術委員長「現状はもうこの体制で、と思っている」”. スポーツ報知. (2018年3月28日)
- ↑ SAMURAI BLUE(日本代表) ヴァイッド・ハリルホジッチ監督との契約を解除日本サッカー協会、2018年4月9日
- ↑ 後任は西野氏 ハリル監督解任の日本サッカー(日本経済新聞2018年4月9日配信記事(配信日に閲覧))
- ↑ 目指すは「ロシアの奇跡」=2人目の大役、西野監督-サッカーW杯JIJI.com(2018.6.20付)、2018年6月21日閲覧。
- ↑ ハリル電撃解任、田嶋会長会見要旨(ゲキサカ2018年4月9日配信記事(配信日に閲覧))
- ↑ SAMURAI BLUE(日本代表) ガーナに0-2で敗れる~キリンチャレンジカップ2018~JFA公式サイト.2018.5.31付、2018年6月21日閲覧。
- ↑ SAMURAI BLUE西野監督、「日本らしいサッカーをしたい」~2018 FIFAワールドカップへ23選手決定~JFA公式サイト.2018.6.1付、2018年6月21日閲覧。
- ↑ 2018FIFAワールドカップロシア SAMURAI BLUE(日本代表)メンバー・スケジュールJFA公式サイト.2018.5.31付、2018年6月21日閲覧。
- ↑ SAMURAI BLUE、スイスに0-2黒星で西野体制で連敗にJFA公式サイト. 2018.6.9付、2018年6月21日閲覧。
- ↑ SAMURAI BLUE、パラグアイに4-2勝利で西野体制初白星 ~乾選手が2得点~JFA公式サイト. 2018.6.13付、2018年6月21日閲覧。
- ↑ SAMURAI BLUE、香川選手と大迫選手の得点でコロンビアに勝利~2018FIFAワールドカップロシア~JFA公式サイト. 2018.6.20付、2018年6月21日閲覧。
- ↑ 日本、アジア勢史上初の南米から白星!初対戦から52年目スポーツ報知(2018.6.19付)、2018年6月21日閲覧。
- ↑ SAMURAI BLUE、セネガルと引き分けて16強進出へ前進~2018FIFAワールドカップロシア~JFA公式サイト. 2018.6.25付、2018年7月5日閲覧。
- ↑ 先発6人変更、パス回し…世紀の大博打に出た西野監督「本意ではないけど」ゲキサカ. 2018.6.29付、2018年7月5日閲覧。
- ↑ SAMURAI BLUE、ポーランドに黒星も2位で16強に進出~2018FIFAワールドカップロシア~JFA公式サイト. 2018.6.29付、2018年7月5日閲覧。
- ↑ “田嶋会長、西野監督の退任を明言「また違った形でサポートしていただければ」”. サッカーキング. フロムワン (2018年7月5日). . 2018閲覧.
関連項目
外部リンク
テンプレート:アトランタオリンピック サッカー日本代表 テンプレート:2018 FIFAワールドカップ日本代表
タイトル・受賞歴 |
---|
テンプレート:AFCチャンピオンズリーグ優勝監督 テンプレート:アジア年間最優秀監督賞 |
監督歴 |
---|
テンプレート:サッカー日本代表歴代監督
テンプレート:U-20サッカー日本代表歴代監督 テンプレート:サッカー五輪日本代表歴代監督 テンプレート:柏レイソル及びその前身チーム歴代監督 テンプレート:ガンバ大阪及びその前身チーム歴代監督 テンプレート:ヴィッセル神戸及びその前身チーム歴代監督 テンプレート:名古屋グランパスエイト及びその前身チーム歴代監督 |
|
|
|