蝉丸

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『月の四の緒』(月岡芳年『月百姿』)

蝉丸(せみまる、生没年不詳)は、平安時代前期の歌人。古くは「せみまろ」とも読む。

人物

小倉百人一首』にそのが収録されていることで知られているが、宇多天皇皇子敦実親王雑色光孝天皇の皇子[1][2]など諸伝があり、その人物像は不詳。

であり琵琶の名手という伝承[3][2]から、仁明天皇の第四宮人康親王と同一人物という説もある[2]。『平家物語』巻十「海道下り」では、醍醐天皇の第四宮として山科の四宮河原に住んだとあり、平家を語る琵琶法師盲僧琵琶の職祖とされている[2]

後に皇室御物となった琵琶の名器・無名を愛用していたと伝えられる。生没年は不詳であるが、旧暦5月24日およびグレゴリオ暦6月24日月遅れ)が「蝉丸忌」とされている。

今昔物語』によれば逢坂の関に庵をむすび[2]、往来の人を見て「これやこの 行くも帰るもわかれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌を詠んだという(百人一首では“行くも帰るもわかれては”となっている)。このため、逢坂の関では関の明神として祭られる。和歌は上記のものが『後撰和歌集』に収録されている他、『新古今和歌集』『続古今和歌集』の3首を含め勅撰和歌集に計4首が採録されている。

逸話

管絃の名人であった源博雅が逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の名人であることを聞き、蝉丸の演奏を何としても聴きたいと思い、逢坂に3年間通いつづけ、遂に8月15日夜に琵琶の秘曲『流泉』『啄木』を伝授されたという(『今昔物語集』巻第24 第23話)。

他にも蝉丸に関する様々な伝承は『今昔物語集』や『平家物語』などにも登場している。

その他

  • に『蝉丸』(4番目物の狂女物)という曲がある。逆髪という姉が逢坂の関まで尋ねてきて、2人の障害をもった身をなぐさめあい、悲しい別れの結末になる。この出典は明らかでない。
  • 近松門左衛門作の人形浄瑠璃にも『蝉丸』がある[4]。蝉丸は女人の怨念で盲目となるが、最後に開眼する。
  • 百人一首カルタの絵札では、禿げ上がった後頭部が露呈した後ろ向きの姿や、帽子(もうす)を被った姿といった、いわゆる「坊主」の絵札の中では唯一、特徴的な姿で描かれることが多いため、坊主めくりなどの遊びでは、トランプでいうジョーカーに相当する札とされる場合がある。また「これやこの~」は、百人一首の百首の中で唯一、濁点・半濁点が全く使われていない歌である。
  • 名神高速道路に名前のついたトンネルがある。「蝉丸トンネル」大津IC/SAー京都東IC間:上り線387m 下り線376m

蝉丸に関する史跡

脚注

  1. 『当道拾要録』
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 兵藤 2009, pp. 104-108.
  3. 『関蝉丸神社文書』1986
  4. 『源氏烏帽子折・蝉丸』近松門左衛門著武蔵屋叢書閣、1896年
  5. 蝉丸さんの百人一首米子市のホームページ

参考文献

  • 兵藤裕巳 『琵琶法師:<異界>を語る人びと』 岩波書店〈岩波新書〉、2009。ISBN 9784004311843。

関連項目

  • 蝉丸 - 能面の少年面。盲目だが気品ある顔立ち