蛭子能収
蛭子能収 | |
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本名 | 蛭子能収 |
生誕 |
1947年10月21日(77歳)[1] 熊本県牛深市(現天草市) |
職業 | 漫画家,イラストレーター,タレント,俳優,映画監督 |
活動期間 | 1973年 - |
ジャンル |
劇画 ガロ系 鬼畜系 パンク エログロ ヘタウマ 不条理漫画 |
代表作 | 『地獄に堕ちた教師ども』,『私はバカになりたい』 |
公式サイト | 蛭子能収 OFFICIAL WEB SITE |
蛭子能収 | |
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生年月日 | 1947年10月21日(77歳) |
出身地 | 熊本県牛深市(現天草市) |
最終学歴 | 長崎市立長崎商業高等学校 |
作品 | 『正直エビス』,『ヘタウマな愛』,『こんなオレでも働けた』,『ひとりぼっちを笑うな』 |
公式サイト | 蛭子能収オフィシャルブログ「えびすにっき」 |
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蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )
日本の漫画家、イラストレーター、タレント、エッセイスト、ギャンブラー、俳優、映画監督。ファザーズコーポレーション所属。
概要
熊本県天草市生まれ、長崎県長崎市育ち。長崎商業高等学校卒業後[2]、地元の看板店に就職するも、つげ義春の『ねじ式』に衝撃を受けて1970年に上京し、看板屋・ちり紙交換・ダスキンのセールスマンなどの職を経て青林堂に漫画を持ち込み『ガロ』初代編集長の長井勝一に才能を見出される。
『月刊漫画ガロ』(青林堂)1973年8月号掲載の入選作「パチンコ」で漫画家デビュー。その後、3年間の休筆期間を経て伝説的編集者の高杉弾と山崎春美の依頼により1979年に伝説的自販機本『Jam』(エルシー企画)でプロの商業漫画家として再デビューする。その後、自販機本『Jam』『HEAVEN』での執筆を契機に官能劇画誌などの媒体にも進出し、アンダーグラウンドなエロ本を中心に数多くのエロ劇画や不条理漫画を発表する。以来特異な作風で注目を集め、ヘタウマ漫画家としての地位を確立する。
1981年には初単行本『地獄に堕ちた教師ども』を青林堂より上梓、これを機にダスキンを退社して漫画家として独立する。1980年代後半からは柄本明との出会いを契機として芸能界でのタレント・俳優活動に比重を移し、劇団東京乾電池の公演に出演して以降『笑っていいとも!』(フジテレビ)へのレギュラー出演やテレビドラマ『教師びんびん物語II』(フジテレビ)への出演を皮切りに数多くのテレビ番組に出演している。また芸能活動と並行して狂気と毒をはらんだ前衛的な漫画作品を精力的に発表し続け、日本漫画に新たな表現の地平を切り開く[3]。現在は青林工藝舎の漫画雑誌『アックス』にて特殊漫画家の根本敬と共に「隔月蛭子劇画プロダクション社内報」を連載中[注釈 1]。
主な著書に漫画で『地獄に堕ちた教師ども』『私はバカになりたい』『私の彼は意味がない』『私は何も考えない』『なんとなくピンピン』『家族天国』『蛭子能収コレクション』、エッセイで『正直エビス』『ヘタウマな愛』『こんなオレでも働けた』『ひとりぼっちを笑うな』『蛭子能収のゆるゆる人生相談』などがある。