藤沢利喜太郎
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藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日(1861年10月12日) - 昭和8年(1933年)12月23日)は日本の数学者。明治期より日本の数学教育の確立と西欧の数学の移入に尽力した。
来歴
佐渡国(現・新潟県佐渡市)に幕臣・藤沢親之の長男として生まれる。1882年、東京大学理学部を卒業、翌年からヨーロッパに留学し、ロンドン大学、ベルリン大学、ストラスブール大学に学ぶ。ストラスブール大学では偏微分方程式論などを研究し、同大学に学位論文を提出した。1887年に帰国し、帝国大学理科大学の教授に就任した。1891年、理学博士の学位を得る。
1906年に帝国学士院会員となり、1920年、勲一等瑞宝章を受章し、1921年に大学を停年退職。その後、1925年10月に貴族院の帝国学士院会員議員(7年任期)に選出され2期務めたが、2期目の任期途中で他界した。
人物・業績
藤沢は数学では菊池大麓についで2人目の日本人教授であった。教育行政などの政治的方面で忙しかった菊池に対し、藤沢は初めて研究論文を書き続けた日本人数学者と云われている。藤沢は大学数学科教育の改革に尽力し、ドイツ式のゼミナールを導入して後進の指導に当たり、高木貞治などの優れた数学者を生み出した。また中等数学教育にも力をいれ、中学校向け数学教科書を多数編纂し、多くの中学校・師範学校で使われた。またその一方で、西欧の純粋数学を移入するだけではなく、応用である統計学を紹介して、日本の諸統計を用いて「本邦死亡生残表」をつくって生命保険業発足に貢献し、第1回普通選挙(1928年、第16回衆議院議員総選挙)の結果の出来るだけ正確な統計を取って分析し、選挙法改正に役立たせるなどの活動も行った。
栄典
- 1903年(明治36年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[1]。
- 1910年(明治43年)12月26日 - 勲二等瑞宝章[2]
- 1913年(大正2年)8月11日 – 従三位[3]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[4]
- 1920年(大正9年)12月25日 - 勲一等瑞宝章[5][6]
著書・資料
- 『生命保険論』文海堂、1889年。
- 『算術条目及教授法』藤沢利喜太郎、1895年。
- 『算術教科書』大日本図書、1896年。
- 『総選挙読本 - 普選総選挙の第1回』岩波書店、1928年。
- 『藤沢博士遺文集』上・中・下巻、藤沢博士記念会、1934 - 1935年。
- 『藤沢博士追想録』東京帝国大学理学部数学教室藤沢博士記念会、1938年。
親族
- 長男:藤沢親雄 - 国家主義者、国士舘大学教授
- 次男:藤沢威雄 - 企画院第七部長
- 弟:藤沢周次 - 英文学者・劇作家、学習院名誉教授
- 弟:藤沢巌 - 海軍少将
- 義弟:山口鋭之助 - 妹の夫、物理学者
脚注
参考文献
典拠レコード: