藤本敦士
オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銅 | 2004 | 野球 |
藤本 敦士(ふじもと あつし、 1977年10月4日 - )は、兵庫県明石市出身の元プロ野球選手(内野手)。野球指導者。
Contents
経歴
プロ入り前
明石市立花園小学校時代は、実父が居酒屋経営のかたわら監督を務めていた地元のソフトボールチームに所属。兵庫県大会で優勝するとともに、全国大会へ出場した。明石市立望海中学校への進学後に軟式野球部へ入部。当時から、試合では主に遊撃手として起用されていた[1]。
育英高校への進学後には、3年生の時に主将を務めたほか、阪神・淡路大震災(1995年1月17日)の発生2ヶ月後に開かれた第67回選抜高等学校野球大会に出場。しかし、2回戦の前橋工業高校戦において、自身の失策によりサヨナラ負けを喫した。
亜細亜大学への進学後は、1年生の春からベンチ登録を果たしたものの、椎間板ヘルニアを患い1年途中で中退。一時は「スポーツはもう無理」とまで言われたが、懸命なリハビリテーションにより治癒した。
当時、実家で営んでいた焼き鳥屋の常連で、のちに阪神の一軍監督を務めた岡田彰布の勧めから、元早大監督が指導していた甲賀総合科学専門学校に進学。社会人野球に参戦している同校の硬式野球部で再び実戦経験を積むと、卒業後に入団したデュプロでも、当時活動していた硬式野球部の一員として活躍した。2000年の社会人野球日本選手権大会では、有望な遊撃手の視察を兼ねてヤマハ戦を見に来ていた野村克也(当時の阪神一軍監督)の前で、岡本真也から3安打を放っている。
阪神では当初藤本の獲得を予定していなかったが、野村からの推薦などを受けて、2000年秋のドラフト会議で藤本を7位で指名。少年時代からの阪神ファンで、「どの球団からも指名されなかった場合には入団テストを受験する」という意向をデュプロ側に示していた藤本は、長年の念願を叶える格好で阪神へ入団した。
阪神時代
阪神入団後、野村監督が機動力野球の象徴として売り出したF1セブンの1人として指名されている。
2001年シーズンは、4月に骨折した沖原佳典に代わり一軍登録され、14日に遊撃の守備で初出場。17日にはプロ初打席で初安打を放つ。翌18日には9回2死から決勝点となる初タイムリーを放ち、19日にも引き続き決勝タイムリーを放つとその後好走塁で生還、守備でもダイビングキャッチなどの活躍を見せ、初めて阪神甲子園球場のお立ち台に立つなどチャンスを掴んだ。下位指名であったこともあってか野村監督は記者に対して「お前らも打つとは思ってなかったやろ」と意外さを隠さなかった。同年は、56の背番号に加え、共に小柄な俊足の左打者で赤いリストバンドを着け、オープンスタンスの打撃フォームまで似通っていたことから、同期入団で先にブレイクした赤星憲広によく間違えられていた。
2002年から背番号を変更。この時候補に6も挙がったが、「和田豊コーチの現役時代の番号で恐れ多い」として9を選択した。遊撃手として開幕スタメン出場し、9回裏に頭脳プレーで併殺を取り勝利に貢献。同年はフレッシュオールスターゲームに出場して決勝本塁打を放ちMVPに選ばれたが、なかなか調子が上がらず一軍と二軍を往復しながらシーズンを終えた。同年オフに赤星と共に虎風荘を退寮。
2003年は8番遊撃手として2年連続の開幕スタメン出場。4月下旬には一時期打率がリーグトップになるなど急成長し、オールスターゲームにファン投票で初出場。初めて規定打席に到達して打率.301を記録し「恐怖の8番打者」とも言われ、矢野輝弘と共に充実した下位打線を組んで18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
2004年はオープン戦で打率.360と活躍したが、開幕スタメンは新人の鳥谷敬であった。その後、開幕6試合目でスタメンに復帰。前年は本塁打0であったが満塁打を含む5本塁打を放つなど、目立った活躍も多く見られた。また、アテネオリンピック野球日本代表に選出され、オランダ戦で本塁打を放つなど二塁手のレギュラーとして、福留孝介とともにチームで2人だけの全試合フルイニング出場を果たした。しかし、決勝トーナメント準決勝のオーストラリア戦では終盤の決定機で、同僚のジェフ・ウィリアムスに三振を喫しノーヒット、次の3位決定戦でもノーヒットに終わった。帰国後は不振に陥り、鳥谷にスタメンを奪われ、打率.257と前年より大きく成績を落とした。
2005年は鳥谷がレギュラーに抜擢されたことに伴って二塁手へコンバートされ、関本健太郎とのポジション争いが始まる。開幕から4月26日の対中日ドラゴンズ戦までは、前年の実績が上回る関本ではなく藤本が起用されたが、肉離れにより登録抹消されてしまう。復帰後は、相手先発投手に右投手が予想される場合は左打者の藤本、左投手が予想される場合は右打者の関本が起用される併用策での出場が中心になった。また、2年ぶりにオールスターゲームに出場。
2006年は2番二塁手として開幕スタメン出場。猛打賞で好調なスタートを切ったものの、2戦目の1打席目で自打球を目に受け退場。そこからまた関本との併用になったが、シーズン後半に今岡誠が離脱したことで関本が三塁手に回り、藤本が二塁手に定着した。同年はオールスターゲームに3度目の出場を果たし、2戦目で馬原孝浩から8回表に勝ち越し2点タイムリーを放って1打数1安打2打点でMVPを獲得した。フレッシュオールスターMVPとのダブル受賞は簑田浩二、石井浩郎、青木宣親に続く史上4人目の記録。日米野球にもファン投票で選出され、2戦目の初打席でタイムリー、4戦目ではチーム初安打を放つなど活躍した。守備でも9月24日の対読売ジャイアンツ戦ではファインプレー3連発でチームを救い、守備で活躍しお立ち台にたった。ファインプレーのみならず堅実なところも見せ、二塁手として12球団トップの守備率.995を記録。一方で打撃成績は打率.237と前年より更に落ちてしまった。同年オフに熱狂的なファンがスポーツ用具メーカーの社員を装って藤本の自宅を訪れ、公式戦で使用したグラブを騙し取る事件が起きた。なお、犯人は翌年に逮捕された。
2007年はキャンプから打撃不振で併用相手であった関本が結果を残したことから、開幕スタメンの座を関本に譲った。関本が不振に陥った4月や6月はスタメン出場もしたが、出場105試合中スタメンは33試合とスタメン出場は減った。同年も打率は2割前半と結果を残せず、プロ入り後初めて盗塁0に終わった。
2008年は親交の深い濱中治とのトレードで加入した平野恵一が二塁のレギュラーに定着したことで、スタメンでの出場機会は更に減少した。シーズン中盤に平野が故障で戦線離脱した際は、三塁手にアーロム・バルディリスが起用されると関本が二塁手、藤本が起用される際は関本が三塁手という形の併用で二塁手としてスタメン出場の機会を得た。しかし、平野が復帰するとまた控えに戻り、プロ入り後最低の58試合出場で打撃も低調なままに終わった。同年はプロ入り後初めて三塁手も守った。
2009年は平野に加え、シーズン途中にクレイグ・ブラゼルが入団したことで、それまで一塁を守っていた関本が二塁に回ったため、前年よりさらに減少の47試合出場に止まった。また、大和の出場機会が増加したことや自身の不振により3度の二軍落ちを経験した。シーズンオフに出場機会(特にプロ入り当初守っていた遊撃で勝負できる環境)を求めて、この年取得した国内FA権を行使。これに対し、この年に正遊撃手を務めた川島慶三の故障などで内野手が手薄になっていたヤクルトが獲得に動き、11月24日に2年契約の総額1億円で入団に合意。30日に正式契約を結んだ[2]。背番号は同年に引退した城石憲之が着用していた10で、その後愛車のナンバーにするほど愛着のある番号になった。
ヤクルト時代
2010年は3月17日に古巣・阪神とのオープン戦で代打で出場し、「代打・藤本」のコールに阪神ファンが大歓声を上げた。以降も阪神戦の打席では阪神ファンから声援が送られる光景が見られた。開幕スタメンこそルーキーの荒木貴裕に譲ったが、2戦目から遊撃スタメンに定着。本拠地開幕戦となった3月30日の対中日戦で決勝打を放ち、攻守にわたる活躍を見せた。序盤はレギュラーを張り続け、4月30日の対横浜ベイスターズ戦では自身4年ぶりの本塁打となる1号2ランも放った。しかし、5月1日の対横浜戦で、5回1死2・3塁で三塁走者であった藤本は、宮本慎也の一塁ゴロで本塁に突入したがアウトとされた判定を不服とし、深谷球審の胸倉を掴んだことが「暴行」と判断されて自身初の退場処分を受けた。ヤクルト球団常務の大木勝年は「(映像では捕手の)タッチはなさそうだ」と、プレーの映像を添えて文書をコミッショナー事務局に提出する意向を示した[3]。6月後半以降は打率が低下してスタメンから外れることが多くなり、守備も7月16日阪神戦での1試合3失策など乱調に陥ったため、翌17日に一軍登録を抹消された。8月27日に再登録されたが、翌28日に椎間板ヘルニア(腰痛)により再び登録抹消され、治療に専念することとなった。10月9日に手術を受け成功した。
2011年は二軍スタートとなったが、遊撃レギュラー格の川端慎吾の離脱により、6月3日に一軍昇格。7月1日の対広島東洋カープ戦では勝利を決定づける1号3ランを放つなど、森岡良介とともに苦しい内野事情を支えたが、その後精彩を欠き、打率は2割を切り、前年に続き1試合2失策するなどで、7月25日に登録を抹消されてしまう。チームは9月まで首位を独走していたが中日に逆転されてしまい、リーグ優勝を逃す。藤本にとっては阪神時代の2008年に続く大逆転負けを喫したことになる。その後、10月25日のシーズン最終戦で再び1軍登録され、それまでノーヒットノーランを続けていた広島先発の前田健太からレフト線にツーベースを放って同点のランナーとなり、サヨナラ勝利を呼び込んだ。チームにとって2009年以来2回目となったクライマックスシリーズでは、ファーストステージの巨人戦第1試合に5回、代打で同点タイムリーを放った。チームはその後、初のファイナルステージ進出を決めた。
2012年も二軍スタートとなったが、腰への負担と出場機会を考えて代打、一塁手、指名打者としての出場が増えた。主に左の代打の切り札として出場したが、3打点と勝負弱く結果を残せなかった。一塁手のレギュラーである畠山和洋の故障により急遽3番一塁で先発起用されることもあったが、慣れない守備位置のためか拙守を繰り返し二軍行きを命じられた。
2013年には、痛めている腰のリハビリと、二軍での調整に専念。しかし、毎週1回は痛み止めの注射を打つほど腰の状態が芳しくないことから[4]、イースタン・リーグの公式戦でも代打での出場が主体になっていた。容態は回復せず、9月9日に現役からの引退を表明[5]。9月21日の対阪神戦(甲子園球場)には、7回表の代打起用で一軍通算1000試合出場を達成。阪神時代のチームメート・久保田智之との対戦でセンターフライに終わったが、ヤクルトファンのみならず、古巣・阪神のファンからも祝福を受けた[6]。
現役引退後
2013年のプロ野球オフシーズンからは、地元の関西に戻るとともに、毎日放送(主にMBSラジオ)・GAORAの野球解説者とデイリースポーツの野球評論家に転身。同年10月20日(日曜日)にMBSラジオで放送された『MBSタイガースライブ番外編 藤本敦士解説者への道』が、解説者としてのデビュー番組になった。同年11月からは、阪神時代の先輩で前年に引退した金本知憲(野球解説者、MBSラジオの中継にも本数契約で出演)・今岡(毎日放送の野球解説者)などと交代で、MBSラジオのナイターオフ番組『withタイガース カワスポサタデー運動部!』でレギュラーを担当[7]。2014年のプロ野球シーズンからは、毎日放送で多数のラジオ・テレビ番組にレギュラーで出演するかたわら、他局の番組・阪神戦中継にも不定期で登場していた。
2014年11月6日に、阪神の二軍内野守備走塁コーチへ就任することが球団から発表された[8]。
人物
愛称は「モンキー」、「もっさん」、「フジモン」、「あつし」、「あっちゃん」。阪神時代には同僚の金本から、「悪戯の相手」としてよくちょっかいを出されていた。2003年のオールスターゲーム第2戦で、西武ライオンズから出場の松井稼頭央を金本から紹介されたばかりか、「大きい声では言えない話だが…」と松井が来シーズン阪神に移籍する意思があると伝えられた。これは金本のいたずらであったが、藤本はレギュラーの座を松井に奪われると思い込み、試合中は半泣き状態であった。この話を聞いた福留孝介が本気で心配し、松井に移籍の真偽を聞いたという。金本はこの様子に大受けしていたが、真に受けて気落ちしていた藤本を見て少し反省し、種明かしをした。同年、阪神がリーグ優勝を決めた際の祝勝会で、藤本は赤星と共に「打倒金本!」と書かれた鉢巻を巻いて参加し、ささやかな逆襲をした。ほかにも、2008年6月7日の対福岡ソフトバンクホークス戦(阪神甲子園球場)でサヨナラ安打を放った新井貴浩に祝福を行っていた金本が、いつの間にか手荒い祝福の対象を無関係な藤本に変えていたり、2005年のリーグ優勝でも金本が藤本の手足を掴んでグラウンドを引き回したりなどの場面が見られた。なお、藤本がコーチとして阪神に残留する2016年からは、金本が一軍監督として同球団に復帰する。
2003年10月の『月刊タイガース』(第26巻第9号39ページ)における藤本の特集で、ジョージ・アリアスが「藤本のファンである息子に『(2003年に誕生する予定であった)ベイビー(弟か妹)に“フジモト”と名前を付けよう』と言われ、『なんてことを言うんだ!押し入れに入れてお仕置きだよ』と息子を叱った」「(その息子は)藤本をTVで見て『サルガオ』と言ってしまったこともある」と語っている。
同僚であった濱中治や中村豊とは、遠征時には共に陸路で移動していたことから「陸路組」と呼ばれ、プライベートでも親密である。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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2001 | 阪神 | 75 | 202 | 186 | 21 | 50 | 11 | 1 | 1 | 66 | 17 | 2 | 2 | 2 | 0 | 13 | 2 | 1 | 36 | 0 | .269 | .320 | .355 | .675 |
2002 | 63 | 162 | 139 | 8 | 29 | 4 | 0 | 1 | 36 | 8 | 3 | 1 | 15 | 0 | 8 | 2 | 0 | 23 | 0 | .209 | .252 | .259 | .511 | |
2003 | 127 | 451 | 402 | 51 | 121 | 16 | 7 | 0 | 151 | 36 | 9 | 4 | 17 | 4 | 26 | 7 | 2 | 42 | 9 | .301 | .343 | .376 | .719 | |
2004 | 111 | 419 | 385 | 45 | 99 | 12 | 3 | 5 | 132 | 33 | 5 | 1 | 6 | 0 | 27 | 1 | 1 | 58 | 9 | .257 | .308 | .343 | .650 | |
2005 | 119 | 400 | 357 | 36 | 89 | 14 | 2 | 1 | 110 | 36 | 3 | 1 | 7 | 2 | 33 | 5 | 1 | 40 | 7 | .249 | .313 | .308 | .621 | |
2006 | 138 | 443 | 393 | 35 | 93 | 12 | 1 | 3 | 116 | 30 | 3 | 1 | 19 | 3 | 27 | 5 | 1 | 56 | 13 | .237 | .285 | .295 | .581 | |
2007 | 105 | 164 | 148 | 10 | 36 | 2 | 2 | 0 | 42 | 13 | 0 | 0 | 3 | 0 | 12 | 0 | 1 | 23 | 3 | .243 | .304 | .284 | .588 | |
2008 | 58 | 89 | 76 | 12 | 19 | 1 | 1 | 0 | 22 | 7 | 1 | 0 | 4 | 2 | 6 | 0 | 1 | 14 | 3 | .250 | .306 | .289 | .595 | |
2009 | 47 | 70 | 64 | 6 | 14 | 1 | 0 | 0 | 15 | 1 | 0 | 2 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 4 | .219 | .254 | .234 | .488 | |
2010 | ヤクルト | 65 | 209 | 187 | 20 | 43 | 9 | 1 | 2 | 60 | 18 | 1 | 0 | 6 | 3 | 11 | 0 | 2 | 27 | 2 | .230 | .276 | .321 | .597 |
2011 | 23 | 48 | 44 | 5 | 9 | 2 | 1 | 1 | 16 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 7 | 0 | .205 | .271 | .364 | .634 | |
2012 | 66 | 88 | 78 | 4 | 17 | 2 | 1 | 0 | 21 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 12 | 1 | .218 | .307 | .269 | .576 | |
2013 | 4 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
NPB:13年 | 1001 | 2749 | 2463 | 253 | 619 | 86 | 20 | 14 | 787 | 208 | 27 | 13 | 82 | 14 | 180 | 22 | 10 | 344 | 51 | .251 | .303 | .320 | .623 |
年度別守備成績
年 度 |
遊撃 | 二塁 | 三塁 | 一塁 | ||||||||||||||||||||
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試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | |
2001 | 72 | 102 | 169 | 9 | 39 | .968 | 2 | 5 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | - | - | ||||||||||
2002 | 53 | 64 | 106 | 7 | 23 | .960 | 4 | 1 | 7 | 0 | 1 | 1.000 | - | - | ||||||||||
2003 | 126 | 187 | 309 | 15 | 60 | .971 | - | - | - | |||||||||||||||
2004 | 98 | 142 | 277 | 11 | 61 | .974 | 18 | 14 | 29 | 1 | 6 | .977 | - | - | ||||||||||
2005 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 117 | 210 | 283 | 11 | 67 | .978 | - | - | ||||||||||
2006 | - | 137 | 252 | 339 | 3 | 73 | .995 | - | - | |||||||||||||||
2007 | - | 100 | 118 | 140 | 7 | 25 | .974 | - | - | |||||||||||||||
2008 | - | 42 | 47 | 69 | 1 | 13 | .991 | 3 | 1 | 3 | 0 | 1 | 1.000 | - | ||||||||||
2009 | - | 37 | 48 | 60 | 2 | 11 | .982 | - | - | |||||||||||||||
2010 | 62 | 87 | 158 | 11 | 31 | .957 | - | - | - | |||||||||||||||
2011 | 11 | 15 | 21 | 2 | 4 | .947 | - | 3 | 3 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||||||
2012 | - | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | 7 | 36 | 1 | 2 | 3 | .949 | ||||||||||
通算 | 423 | 598 | 1040 | 55 | 218 | .968 | 458 | 696 | 929 | 34 | 194 | .980 | 6 | 4 | 6 | 0 | 1 | 1.000 | 7 | 36 | 1 | 2 | 3 | .949 |
表彰
- オールスターゲームMVP:1回 (2006年 第2戦)
- オールスターゲームSANYO賞:1回 (2005年 第1戦)
- フレッシュオールスターゲームMVP :1回 (2002年)
記録
- 初記録
- 初出場:2001年4月14日、対中日ドラゴンズ2回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に田中秀太に代わり遊撃手として出場
- 初先発出場:2001年4月17日、対横浜ベイスターズ4回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、8番・遊撃手として先発出場
- 初打席・初安打:同上、3回表に福盛一夫から右前安打
- 初打点:2001年4月18日、対横浜ベイスターズ5回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、9回表に木塚敦志から左前適時打
- 初本塁打:2001年5月16日、対読売ジャイアンツ8回戦(福岡ドーム)、5回表に鄭珉哲から右越2ラン
- 初盗塁:2001年6月14日、対中日ドラゴンズ13回戦(大阪ドーム)、3回裏に二盗(投手:メルビン・バンチ、捕手:中村武志)
- 節目の記録
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:3回 (2003年、2005年、2006年)
背番号
- 56 (2001年)
- 9 (2002年 - 2009年)
- 10 (2010年 - 2013年)
- 74 (2015年 - )
関連情報
出演
解説者時代
レギュラーを務めた番組のみ記載
- withタイガース カワスポサタデー運動部!(MBSラジオ) - 2013年度ナイターオフ期間の放送には、「熱血新米記者」という肩書でほぼ毎週出演。インタビュアーとして、阪神関係者への直撃取材も担当していた。
- MBSベースボールパーク(MBSテレビの阪神戦中継)- 2014年度のみ解説を担当
- MBSベースボールパーク(MBSラジオのプロ野球中継) - 2014年度のみ、阪神戦を中心に解説を担当。「F1セブン」と呼ばれた7選手で最後に現役を引退したことにちなんで、「最後のF1戦士」というキャッチフレーズが付けられている。
- GAORAプロ野球中継 - 2014年度のみ阪神戦の解説を担当
- ちちんぷいぷい 金曜日(MBSテレビ) - 2014年4月から11月まで、阪神関連の解説・情報コーナー「ぷいぷい with Tigers」を中心にレギュラーで出演。
- 月刊カワスポ with Tigers(MBSテレビ) - 前身番組の『カワスポ』時代から随時出演
- 子守康範 朝からてんコモリ!月曜日(2014年5月12日 - 11月) - 月に1回のペースで、7時前のスポーツ特集「てんスポ」にのみ出演。
- 藤本敦士のDASH宣言!(MBSラジオ・GAORA) - 2014年度のナイターオフ期間限定で放送。藤本初の冠番組であったが、第1回の放送直前に阪神二軍コーチへの就任が決まったため、パーソナリティとしては2015年1月まで出演。MBSラジオのみで放送された残りの期間は、事前収録のインタビューコーナーにのみ登場した。
脚注
- ↑ 阪神タイガース 藤本敦士選手 ~元気の源は負けず嫌い~
- ↑ TYPE=t&SEQ=12192&COOKIEDATE= 藤本選手と正式契約、スワローズ入団!! 東京ヤクルトスワローズ公式ウェブサイト
- ↑ ヤクルト・藤本、本塁アウトに激高で退場
- ↑ ヤクルト藤本今季限り 悩まされ続けた腰痛回復せずスポーツニッポン、2013年9月8日。
- ↑ “【ヤクルト】藤本引退「あっという間」”. 日刊スポーツ. (2013年9月9日) . 2013閲覧.
- ↑ “【ヤクルト】藤本1000試合出場、歓声に涙”. 日刊スポーツ. (2013年9月21日) . 2013閲覧.
- ↑ “金本氏が虎取材チーム“鬼デスク”就任”. デイリースポーツ. (2013年9月13日). オリジナルの2013年9月13日時点によるアーカイブ。 . 2013閲覧.
- ↑ 2015年度 監督・コーチについて 阪神タイガース公式サイト 2014年11月6日閲覧。
関連項目
外部リンク
テンプレート:日本プロ野球オールスターゲームMVP テンプレート:アテネオリンピック野球日本代表 テンプレート:阪神タイガース2000年ドラフト指名選手