藤原育子

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藤原 育子(ふじわら の むねこ(いくし)、久安2年(1146年) - 承安3年8月15日1173年9月23日[1])は、平安時代末期の后妃。二条天皇中宮六条天皇の養母。

姓は藤原、初名は香子[2]。実父については、閑院流の徳大寺左大臣実能[3]と、摂関流の法性寺関白忠通[4]の二説がある。前者は育子を実能の実娘、忠通の養女、義兄基実の猶子とし、後者は忠通の乙姫君(皇嘉門院につぐ忠通の次女)として異母兄基実の猶子になったとする。史料性としては、前者が室町期の作成であることに対し、後者の方はほぼ同時代人による記録で、ことに愚管抄の作者である慈円(忠通息)は育子の身内であった。以下、育子は忠通の実子、という推定のもとで記述する。

生母は忠通家女房、督殿源俊子(村上源氏、地方の受領源顕俊の娘)。

生涯

応保元年(1161年)12月17日入内し、同日従三位に叙される。10日後に女御宣下、飛香舎(藤壺)を局とする。応保2年(1162年)2月19日立后、中宮を号す(中宮大夫は異母弟にあたる兼実)。彼女の入内は前関白忠通の姫君、現関白基実(実兄)の猶子としてであり、これによって二条天皇は摂関家との連携に成功し、忠通・基実父子が大殿・関白として天皇の親政を支えた。育子は天皇の里内裏・押小路東洞院殿に同殿し、立后の年の3月、天皇と摂関家の後見による歌合貝合を催行した。

しかし、結婚後4年たらずで、育子は二条天皇と死別した(父の忠通とはその前年に死別)。天皇は永万元年(1165年)4月末から病に伏し、治癒の祈祷にもかかわらず重態に陥った。6月25日には皇子順仁親王(六条天皇)へ譲位し、順仁が即位式を挙げた翌日の7月28日、23歳で崩じた。

六条天皇の生母は下級貴族の伊岐致遠(義盛)の娘で、母方の身分があまりに低かったため、後見は薄弱であった。そこで、育子は名ばかりならぬ「養母」として、天皇の養育に携わり、行幸には母后として同輿し、即位式には数え2歳・満8ヶ月の帝(長寛2年11月14日生)を抱いて高御座に登った。そして、育子の兄基実が関白から摂政に転じて、幼主を輔佐した。

仁安元年(1166年)には基実も亡くなり、ほかの大臣達も死没したり鞍替えしたりして、実権は二条の生前から対立していた後白河院に移った。後白河院は治天の君として二条死後の政治を牛耳り、寵愛する平滋子所生の憲仁親王(高倉天皇)を東宮に押し込んだ。仁安元年(1166年)10月10日に行われた立太子の儀は、天皇が3歳、しかも甥であるのに対し、6歳の叔父が東宮に立ったわけで、非常な異例と評された。

仁安三年(1168年)2月19日、六条天皇は、連携する後白河院・平清盛によって高倉天皇に譲位させられた。その後は、元服も行われず、異例の「童形の上皇」として、安元2年(1176年)7月17日、13歳で崩御した。

六条天皇の養母である育子は、天皇退位の同年10月9日に出家した。承安2年(1172年)2月10日、新たに高倉天皇の妃平徳子が中宮に冊立されたため、称号を皇后宮に改められた。六条天皇の死去に先立つこと3年、承安3年(1173年)8月15日に28歳で没した。

脚注

  1. 玉葉』『百錬抄
  2. 山槐記
  3. 尊卑分脈』『百錬抄』『帝王編年記
  4. 『山槐記』『今鏡』『愚管抄』『一代要記