藤原純友
藤原 純友(ふじわら の すみとも)は、平安時代中期の貴族・海賊。藤原北家、右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐・藤原良範の三男[2]。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下[2][注釈 1]・伊予掾[2]。
瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知られる。純友の乱は関東で平将門が起こした乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれる。
生涯
藤原氏の中で最も栄えた藤原北家の出身で大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくもなく地方官となる[注釈 2]。
当初は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にあった。しかしながら、元名帰任後も帰京せず伊予に土着する。承平6年(936年)頃までには海賊の頭領となり[注釈 3]、伊予(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を伸ばした。
関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出、天慶2年(939年)には純友は部下・藤原文元に摂津国須岐駅において備前国・播磨国の介(備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国・8月には讃岐国の国府を、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った。
朝廷は純友追討のために追捕使長官・小野好古、次官・源経基、主典・藤原慶幸、大蔵春実による兵を差し向け、天慶4年(941年)5月に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。純友は子・重太丸と伊予へ逃れたが、同天慶4年6月に伊予警固使橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれているが、資料が乏しく定かではない[注釈 4]。また、それらは国府側の
将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。また、純友の合戦の様子は『純友追討記』として、追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されている。
藤原純友を
逸話
純友が反乱を起こした当時、関東では平将門が反乱を起こしていたが、将門と純友は共同謀議をしており、将門と共に京都を制圧した時には関白になる計画を描いていたという[3][4]。ただしこの謀議は比叡山で行われたとされ、将門と純友が比叡山から平安京を見下ろして「将門は王孫なれば帝王となるべし[3]、純友は藤原氏なれば関白とならむと約し」とあるなど、当時の将門や純友は関東と伊予から動いていないため史実ではない。[5]
系譜
純友が藤原の血統であることには異説がある。それによると純友は、というものである。
後世、有馬氏・大村氏らは藤原純友の子孫と称した[注釈 5]。筑後国の蒲池氏もまた藤原純友の後裔とする伝承があるが[8]、。
脚注
注釈
- ↑ 実際に、天慶3年(940年)2月、反乱を起こした純友を懐柔するために、朝廷は純友を従五位下に叙したとされる。
- ↑ もっとも赴任先である伊予国は当時屈指の経済的な豊かさであり、掾とは言え、受領としては出世コースである。また、純友の属する藤原長良系は地方官歴任後に都に戻って公卿にまで昇った人物も複数存在している事実もあり、実際には出世の可能性も存在した比較的恵まれていた身分であったと。
- ↑ ただし、この過程については、土着する過程で自らが海賊化したと、伊予に土着後に後任の伊予守である紀淑人に協力して海賊の帰順にあたっているうちにその信望を集めたものの紀淑人への不満から彼らに推されて指導者となった。
- ↑ 『日本紀略』では橘遠保が純友を殺害したとする。
- ↑ 『姓氏家系大辞典』では肥前国の豪族である大村直の後裔とする。
出典
参考文献
- 宇神幸男 『宇和島藩』 現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年7月。ISBN 9784768471272。
- 太田亮 『姓氏家系大辭典』巻 角川書店、1963年11月。 NCID BN01488361。
- 洞院公定、国立国会図書館デジタルコレクション 「長良卿流」 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』第7巻、東京: 吉川弘文館〈故実叢書 ; 第3輯〉、1903年。全国書誌番号:52010882 。
藤原純友が登場する作品
- 海音寺潮五郎『海と風と虹と』(現在絶版)
- 北方謙三『絶海にあらず』(中央公論新社)
- 桑山泰雄『平安流風』(新風舎)
- 夢枕獏『陰陽師 瀧夜叉姫』(文藝春秋)
- 『風と雲と虹と』(1976年NHK大河ドラマ 上記の海音寺潮五郎の『海と風と虹と』及び『平将門』が原作。純友は緒形拳が演じた)
- 吉川英治『平の将門』(講談社)
- 小池一夫 『夢源氏剣祭文』(角川書店)