藤原兼家

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ファイル:東三条3788.JPG
東三条院跡、藤原兼家邸、京都市中京区押小路通釜座西北角

藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代中期の公卿藤原北家右大臣藤原師輔の三男。官位従一位摂政関白太政大臣

策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また子・道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。

兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。

経歴

長兄からの厚遇

童殿上の後、天暦2年(948年)に従五位下に叙され、翌天暦3年(949年)には昇殿を許された。村上天皇の時代には左京大夫春宮亮を兼ねた。

康保4年(967年)、冷泉天皇の即位に伴い、同母の次兄・兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌安和元年(968年)には兼通を超えて従三位に叙され、さらに翌安和2年(969年)には参議を経ずに中納言となる。蔵人頭とは通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし、兼家は従三位に達し、更に中納言就任直後までその職に留まった。これは、長兄・伊尹の政権基盤確立のための宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられ、安和の変に兼家が関与していたとする説の根拠とされている。

その後、娘・超子を入内させるのを黙認してもらえただけでなく、天禄3年(972年)には正三位大納言に引き立ててもらい、更に右近衛大将按察使を兼ねさせてもらえた程、兼家は摂政となった伊尹から重用された。その結果、次兄・兼通を官位で上回ってしまい酷く恨まれた。

次兄との確執

同年、重病の伊尹が辞表を提出すると、翌日には参内した兼家と兼通は後任の関白職を望むあまり円融天皇の御前で口論し出した。兼通から「関白は、宜しく兄弟相及ぶべし(順番に)」との円融天皇の生母安子の遺言を献じられた天皇は、孝心厚く遺言に従い、兼通の内覧を許し、次いで関白となした(『大鏡』[1])。

兼通から妬まれていた兼家は不遇の時代を過ごす。長女・超子に、冷泉上皇との間に生まれた居貞親王(後の三条天皇)に恵まれただけでなく、次女・詮子まで円融天皇の女御に入れようとする兼家の目論みは、一段と兼通から疎んじられて円融天皇への讒言に遭い、退けられた。そのうえ昇進も止められてしまう。『栄花物語』によれば兼通は「できることなら九州にでも遷してやりたいものだが、罪が無いので出来ない」と発言している。

貞元2年(977年)、重態に陥って伏している兼通の邸では、兼家の車がやって来た、との家人からの一報を受けて、迎え入れる準備を整えていた。ところが兼家の車は門前を通り過ぎて禁裏へ行ってしまった。仲の悪い兄弟であっても見舞いに来たかと思っていた兼通は激怒して起き上がり、病身をおして参内して最後の除目を行い、関白藤原頼忠に譲り、兼家の右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げした。ほどなく、兼通は薨御した。余計な怒りを買った兼家は長歌を献上して失意の程を円融天皇に伝えたが、天皇からは「稲舟の」と、しばらく待つように、との意の返歌を受けたという。

復権

後任の関白の頼忠から、天元元年(979年)に右大臣に進められた兼家は、廟堂に復権された。また、翌年には父の遺志を継いで天台座主良源と共に延暦寺横川恵心院を建立している。

かねて望んでいた詮子の入内もかない、懐仁親王(後の一条天皇)に恵まれた。詮子を中宮に立てることを望む兼家だったが、天元5年(982年)、頼忠の娘・遵子を中宮となした円融天皇に失望して、以後、詮子、懐仁親王共々東三條殿の邸宅に引き籠ってしまった。さらに、憂慮した円融天皇による東三條への使いに対し、ろくに返答もしない有様だった。

永観2年(984年)7月、相撲節会を懐仁親王に見せたいと望む円融天皇からの、参内の求めに、兼家は病と称して応じない。なおも天皇から使者を送られたため、兼家はやむなく参内した。そこで天皇から「朕は在位して16年になり、位を東宮(師貞親王・冷泉天皇皇子で、後の花山天皇)に譲りたいと思っていた。その後は懐仁を東宮にするつもりだ。朕の心を知らずに不平を持っているようだが、残念だ」と諭された兼家は、はなはだ喜んだ。

約束通り、同年8月に円融天皇は師貞親王に位を譲り(花山天皇)、懐仁親王が東宮に立てられた。兼家は関白を望むが、頼忠が依然として在任中であり、しかも朝政は天皇の外伯父の権中納言藤原義懐が執っていた。

花山天皇は好色な上に情緒的な性格で、寵愛していた女御・藤原忯子が急死すると、絶望して世を棄てることさえ言い出していた。もしも、花山天皇が退位すれば懐仁親王が即位となる。そこで兼家の三男・道兼から出家をしきりと勧められた天皇もその気になってしまった。寛和2年(986年)6月22日夜、兼家に仕える源頼光武士に警護された天皇は、道兼と共に禁裏を抜け出してしまった。天皇の姿が消えて大騒ぎになっていた内裏を顧みず、2人の逃亡先である山科元慶寺で、まず天皇が剃髪出家した。ところが道兼は「出家する前の姿を最後に父に見せたい」と言い出して、去ってしまった。天皇は欺かれたと知ったがもう手遅れであった。翌朝、中納言義懐と権左中弁惟成が元慶寺に駆けつけるが、そこにいたのは小法師の姿になってしまった花山天皇だった(寛和の変)。

策略は成功し、懐仁親王が即位した(一条天皇)。兼家は天皇の外戚となり摂政・氏長者となる。天皇の外祖父が摂政に就任するのは、人臣最初の摂政となった藤原良房清和天皇外祖父)以来であった。ところが、当時右大臣であった兼家の上官には前関白の太政大臣頼忠と左大臣源雅信がいた。特に雅信は円融天皇の時代から一上の職務を務め、法皇となった円融の信頼を背景に太政官に大きな影響力を与えていた。さらに頼忠も雅信も皇位継承可能な有力皇族との外戚関係がなかったために、謀叛などの罪を着せて排斥することも出来なかった。そこで兼家はこの年に従一位准三宮の待遇を受けると共に右大臣を辞して、初めて前職大臣身分(大臣と兼官しない)の摂政となった。右大臣を辞した兼家は頼忠・雅信の下僚の地位を脱却し、准三宮として他の全ての人臣よりも上位の地位を保障されたのである。また、一条天皇を本来は一氏族である藤原氏の氏神に過ぎない春日社へ行幸させたり、道隆や道長ら自分の子弟を公卿に抜擢し、弁官を全て自派に差し替えるといった強引な人事を行ったり、自邸東三条殿の一部を内裏の清涼殿に模して建て替えたりして、自流の地位を他の公家とは隔絶したものに高めた。その一方で有能な人材の登用、官僚機構再生のため新制の発布、梅宮祭吉田祭北野祭公祭と定めて主催の神社を国家祭祀の対象として加え後の二十二社制度の基礎を作るといった、一条朝における政治的安定にも貢献した。

永祚元年(989年)、円融法皇の反対を押し切って長男・道隆を内大臣に任命して、律令制史上初めての「大臣4人制」を実現させ、更にこの年に頼忠が薨去すると、その後任の太政大臣に就任した。翌永祚2年(990年)の一条天皇元服に際しては加冠役を務める。これを機に関白に任じられるも、僅か3日で病気を理由に嫡男・道隆に関白を譲って出家、如実と号して別邸の二条京極殿を「法興院」という寺院に改めて居住したが、その2ヶ月後に病没した。享年62。

後に兼家の家系は大いに栄え、五男・道長の時に全盛を迎える。

兼家は左中弁藤原在国、右中弁・平惟仲を信任し、「まろの左右の目である」と称した。また、高名な武士の源頼光が兼家に仕え、名馬30頭を献上をしている。打伏神子(うちふしのみこ)を甚だ信じ、動静全て彼女の言葉に従ったともいう。

官歴

※ 日付=旧暦

系譜

脚注

  1. ただし、安子の死は伊尹が摂関の地位に就けるかも不透明な時期であり、遺言の内容もそこまで具体的なものではなく中宮権大夫として尽くしてくれた兄・兼通の重用を求めたもので、結果的には中宮安子と近侍することなかった弟・兼家には不利に働いたとする見方もある(倉本一宏「藤原兼通の政権獲得過程」(所収:笹山晴生 編『日本律令制の展開』(吉川弘文館2003年)ISBN 978-4-642-02393-1)。

出典

  • 伊藤博 「蜻蛉日記と藤原兼家」「付 藤原兼家年譜」『蜻蛉日記研究序説』(笠間書院、1976年12月25日)pp.109-147
  • 山本信吉『摂関政治史論考』(吉川弘文館2003年)ISBN 978-4-642-02394-8

関連項目

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