藤原公季
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藤原 公季(ふじわら の きんすえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・師輔の十一男(十二男とも)。官位は従一位、太政大臣、贈正一位。閑院大臣と号す。漢風諡号は仁義公、国公は甲斐公。閑院流の祖。
経歴
朱雀・村上両天皇の同母姉・康子内親王を母として生まれた。幼名は宮雄君。生後まもなく母が亡くなったため、幼少時は姉の中宮安子に引き取られ宮中で育てられた(時の帝は叔父にあたる村上天皇)。皇子然な振舞いをする公季に当時皇子であった円融天皇が嘆いたという(『大鏡』)。
公季は道長執政下において、伊周失脚後に、その後任として内大臣に就任すると、一条・三条の両朝を通して内大臣の任にあり道長政権を支えた。一方、娘・義子を一条天皇の弘徽殿女御として入内させ後宮対策を進めたが、皇子女が得られず失敗に終わった。後一条朝には老臣として治安元年(1021年)太政大臣に昇進し、死後正一位の極位を贈られた。
晩年の彼が特別に目をかけた嫡孫・公成は、生前の官位こそ中納言どまりであったが、死後、その娘・茂子(藤原能信養女)の生んだ皇子が即位(白河天皇)し、祖父が成し遂げなかった事業を完成した。以後、白河天皇を始めとして、院政期には閑院家の女子所生の皇子から多数の天皇(鳥羽・崇徳・後白河)を輩出したため、公季の子孫は栄え、摂関流に継ぐ地位を占めた。藤原冬嗣の邸宅だった閑院殿を伝領し居住した所以で、公季には閑院大臣の別称があり、その子孫は閑院(家)流と呼ばれるが、公成の孫(公季の5代孫)にあたる権大納言公実の三子によって分立した三条・西園寺・徳大寺の三清華家を筆頭に、この系統の公家は堂上家で25家を数える。
官歴
- 康保4年(967年) 元服 侍従
- 貞元2年(977年) 左中将 備前守
- 天元4年(981年) 従三位
- 天元6年(983年) 参議
- 寛和2年(986年) 権中納言
- 永祚元年(989年) 東宮大夫
- 正暦2年(991年) 中納言 正三位
- 長徳元年(995年) 大納言
- 長徳2年(996年) 左近衛大将
- 長徳3年(997年) 内大臣
- 寛仁元年(1017年) 右大臣 皇太弟傳
- 治安元年(1021年) 太政大臣
- 長元2年10月17日(1029年)薨御。正一位を追贈。甲斐公を封ぜられ、仁義公の諡号を賜る。