荻孝雄

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荻 孝雄(おぎ たかお、1934年12月6日 - 2014年12月[1])は、福岡県久留米市[2]出身のプロ野球選手

経歴

久留米商業高校では甲子園には出場できなかった。高校同期に投手の宮崎晋一(中日)がいる。明治大学へ進学[2]東京六大学リーグでは1年上のエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め在学中3度の優勝を経験。1956年秋季リーグでは中田昌宏に次ぐ打率2位を記録し[2]、ベストナイン(外野手)に選出された。大学同期には佐々木重徳田村満(いずれも中退)、横山昌弘がいた。

1957年西鉄ライオンズへ入団[2]。翌1958年には一軍に定着し、外野手として5試合に先発出場。同年の巨人との日本シリーズでも代打、代走として2試合に出場した。

1960年に行われた広島とのオープン戦で興津達雄の打球を追った際にフェンスへ激突し右肩を負傷[2]。負傷後も一軍の試合には出場するも右肩の怪我が完治せず1961年に現役引退した[2]

翌年に西鉄の選手兼任監督となった中西太のマネージャーに就任[2]。マネージャー退任後はフロント入りし、西鉄退団後は運送会社の社長となった[2]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1957 西鉄 8 13 13 3 3 0 0 0 3 0 1 1 0 0 0 0 0 3 0 .231 .231 .231 .462
1958 47 56 52 8 19 2 3 0 27 9 3 1 1 0 3 0 0 8 0 .365 .400 .519 .919
1959 41 52 44 2 7 2 0 0 9 2 0 1 0 0 8 0 0 9 2 .159 .288 .205 .493
1960 63 76 72 4 15 0 0 0 15 4 2 0 0 0 4 1 0 7 1 .208 .250 .208 .458
1961 33 34 34 4 6 0 1 0 8 1 0 0 0 0 0 0 0 4 1 .176 .176 .235 .412
通算:5年 192 231 215 21 50 4 4 0 62 16 6 3 1 0 15 1 0 31 4 .233 .283 .288 .571

背番号

  • 31 (1957年 - 1959年)
  • 29 (1960年 - 1961年)

脚注

  1. 野球殿堂博物館 Newsletter 第24巻 第4号(2015年2月10日発行)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、124ページ

関連項目