胆振国
胆振国(いぶりのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。制定当初は膽振國とも表記された。国名の由来は、斉明天皇のころ阿倍臣が胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷(えみし)たちを饗応したという故事にちなむ。道南から道央にかけての地域に位置し、現在の胆振総合振興局管内の全域、渡島総合振興局管内の長万部町と八雲町のうち旧熊石町を除く部分、後志総合振興局管内の虻田郡、石狩振興局管内の千歳市・恵庭市、上川総合振興局管内の占冠村にあたる。
沿革
ここでは、胆振国成立までについても記述する。
日本書紀によると、斉明天皇5年(659年)に阿倍比羅夫が後方羊蹄(しりべし)に郡領を置いたとあり、後方羊蹄は虻田郡域の羊蹄山付近との説がある。一方、胆振鉏について新井白石は勇払郡域(ユウフツ場所)に当たるとの説を唱えている。 また、千歳郡域内(現在の恵庭市)では蝦夷征討が盛んに行われていた飛鳥時代から平安時代初期にかけて茂漁古墳群(柏木東遺跡)が築かれた。この古墳群からは土師器や須恵器のほか和同開珎や律令時代の六位以下の位階を示す帯金具などが見つかっており、構造も石狩国札幌郡の江別古墳群や北東北の終末期古墳と同様の群集墳である。その他、千歳郡域では皇朝十二銭のひとつで平安時代に流通していた隆平永宝が現在の恵庭市の茂漁8遺跡から、同じく富寿神宝などが現在の千歳市のウサクマイ遺跡群から出土している。当時の胆振国域では擦文文化が栄えていたが、後に渡島半島を中心とする地域では擦文文化と本州土師器文化の混合的文化である青苗文化が成立した。この青苗文化を足がかりに、主に東北地方から移住し、本州と蝦夷との交易に携わる人々が現れた。これが渡党である。居住地は道南であったとされ、活動範囲は渡島半島周辺地域にも及んでいた。また、北海道太平洋岸には日の本と呼ばれる蝦夷もいた。鎌倉時代、渡党と日の本は蝦夷管領の支配下に置かれていた。
室町時代に入ると、応仁の乱のちょうど10年前の康正3年 / 長禄元年(1457年)にコシャマインの戦いが勃発、胆振国域のほぼ全域でも和人と蝦夷による戦いが繰り広げられた。
江戸時代ころになると、松前藩によって松前藩家臣が蝦夷の人々と交易を行う十ヶ所の場所とよばれる知行地が開かれた。制度的な詳細は商場(場所)知行制および場所請負制を参照されたい。後に置かれた郡との相対は下記のとおりである。
- ヤムクシナイ場所 ・・・ 後の山越郡
- アブタ場所 ・・・ 後の虻田郡
- ウス場所 ・・・ 後の有珠郡
- モロラン場所 ・・・ 後の室蘭郡
- ヱトモ場所 ・・・ 後の室蘭郡
- ホロベツ場所 ・・・ 後の幌別郡
- アヨロ場所 ・・・ 後の白老郡虎杖浜
- シラヲイ場所 ・・・ 後の白老郡
- ユウフツ場所 ・・・ 後の勇払郡および後の千歳郡南部(現千歳市)
- ※ 千歳郡南部は、ユウフツ場所に編入されたかつてのシコツ場所に相当する。
江戸時代から明治時代初頭にかけての胆振国域の交通について、陸上交通では、沿岸部に一部地形が険しく道が途絶える箇所があり、舟に乗り換える区間があった。寛政年間になり山越郡と虻田郡の境を越える長万部 - 虻田間の道(国道37号静狩峠の前身)や室蘭 - 幌別間の道などが開削され、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る陸路(室蘭以西は国道37号、室蘭 - 苫小牧間は札幌本道や国道36号、苫小牧以東は国道235号の前身)が繋がっている。また、文化年間には勇払から千歳に至る千歳越が、安政4年(1857年)には後志国小樽郡の銭函から石狩国札幌郡を経て千歳に至る札幌越新道(千歳新道)などが開削され太平洋岸と日本海岸を陸路で結んだ。千歳越や札幌越新道は札幌本道や国道36号の前身にあたる。また、胆振国内の河川には藩政時代から廃使置県までの間10箇所の渡船場数があり、渡し船なども運行されていた。 海上交通は畿内や奥羽の日本海側など道外方面との間に北前船の航路が開かれ、室蘭や苫小牧などにも寄航していた。
江戸時代初期の寛永17年(1640年)、内浦湾対岸にあたる渡島国域の駒ヶ岳が山体崩壊し大津波が発生、胆振国域で多数の犠牲者が出ている。この時の駒ヶ岳の大噴火は寛永の大飢饉にも影響を与えている。寛文9年(1669年)6月、日高国域を中心に起こったシャクシャインの戦いによって、胆振国域内でも多くの和人が殺害された。蝦夷の軍勢(アイヌ)は松前に向かったが、鉄砲を主力とする松前藩との山越郡域のクンヌイ(現長万部町国縫)における合戦で形成は逆転、後に平定されている。
その他、胆振国域では古くから火山活動が盛んである。虻田郡域の有珠山は寛文3年(1663年)、明和6年(1769年)、文政5年(1822年)、嘉永6年(1853年)に噴火しており、特に文政5年の噴火では火砕流によって虻田の集落が全滅、多数が犠牲になるなど大きな被害を出している。勇払郡域と千歳郡域に跨る樽前山は寛文7年(1667年)、元文4年(1739年)、文化元年(1804年)に噴火している。また、蟠渓温泉や最上徳内の『蝦夷草紙』にも記された登別温泉などが古くから知られている。
江戸時代後期、胆振国域は東蝦夷地に属していた(山越郡域は和人地)。国防のため寛政11年(1799年)東蝦夷地は公議御料(幕府直轄領)とされ、翌12年(1800年)には八王子千人同心千人頭・箱館奉行支配調役原胤敦の弟・新助の一行が移住し、現在の苫小牧市の基礎を築いた。また享和元年(1801年)には山越内関所が設けられた。これはそれまで渡島国亀田郡にあったものを移転したもので、蝦夷地への武器の持ち込みなどを取り締まる国内最北の関所であった。文政4年(1821年)には一旦松前藩領に復したものの、安政2年(1855年)再び公議御料となり、ホロベツ以西は南部藩が、シラヲイ以東は仙台藩が警固を担当した。このとき南部藩は室蘭郡域(元陣)とヤムクシナイのヲシャマンベ(分屯所)に、仙台藩はシラヲイにそれぞれ陣屋を設けている。安政6年(1859年)の6藩分領以降、一部が南部藩領(虻田郡南西部、絵鞆、幌別郡)と仙台藩領(白老郡)になっていたが、他の各藩警固地は公議御料のままであった。戊辰戦争時、江戸開城後成立した蝦夷共和国に開拓奉行(室蘭奉行)が設けられ、室蘭に250名が移住し箱館戦争終結まで開拓と守備を行った。
- 明治2年(1869年)8月15日に胆振国8郡が制定され、44村が含まれた。また、同年7月から明治4年(1871年)8月まで道外の藩や士族などによって分領支配される。
- 明治3 - 4年(1870年から1871年)本願寺道路が建設された。
- 明治5年(1872年)虻田郡黒松内村が後志国寿都郡に移管された。
- 明治5 - 6年(1872年から1873年)江戸時代の道をもとに札幌本道が建設された。
- 明治15年(1882年)2月8日、廃使置県にともない山越郡は函館県の、それ以外の全域は札幌県の所管となる。
国内の施設
寺院
寺院は比叡山の僧・円仁が平安時代の天長3年(826年)に開山したと伝わり、江戸時代には蝦夷三官寺のひとつとされた有珠善光寺がかつて有珠郡の一部だった伊達市にある。このほか文政年間に山越内に建立された阿弥陀堂を起源とする山越郡(八雲町)の円融寺や、室蘭郡(室蘭市)の常照山満冏寺(まんけいじ)、山越郡(長万部町)の光明山善導寺などが江戸時代に建立されている。
神社
神社は神仏混合(平安朝)時代に往来した和人が地元人とともに奉斎したと伝わる刈田神社、江戸時代初期に建立された弁天堂を起源とする千歳神社や、寛政年間にはすでに存在していた大臼山神社など、下記のものはいずれも江戸時代以前の創建である。
- 山越郡 諏訪明神社(現山越諏訪神社、二海郡八雲町)
- 山越郡 飯生神社(山越郡長万部町)
- 虻田郡 豊浦神社(虻田郡豊浦町)
- 虻田郡 稲荷神社(虻田郡洞爺湖町虻田地区)
- 有珠郡 大臼山神社(伊達市)
- 室蘭郡 崎守神社(室蘭市)
- 室蘭郡 絵鞆神社(室蘭市)
- 幌別郡 刈田神社(登別市)
- 白老郡 弁天社(現白老八幡神社 白老郡白老町)
- 勇払郡 恵比須神社(苫小牧市)
- 千歳郡 弁天堂→思古津稲荷大明神(現千歳神社、千歳市)
地域
郡
胆振国は以下の八郡で構成された。
江戸時代の藩
- 松前藩領、松前氏(1万石格)1599年-1799年・1821年-1855年(胆振全域)
- 南部藩モロラン陣屋、1859年-1868年(虻田場所南西部、絵鞆場所、幌別場所)
- 仙台藩白老元陣屋、1859年-1868年(アヨロ場所、白老場所)
- 分領支配時の藩
※分領支配時、有珠郡、室蘭郡、幌別郡の三郡(のち虻田郡も)は仙台藩士領
人口
明治5年(1872年)の調査では、人口6251人を数えた。