縄文人

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縄文人(じょうもんじん, Jomon people)とは、縄文時代日本列島に居住していた人々の総称。約1万6000年前から約3000年前まで現在の北海道から沖縄本島にかけて住み[1]縄文文化と呼ばれる文化形式を保持していた。

概略

旧石器時代後の、約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀にわたる縄文時代の文化は、概ね現在の日本に分布していた。そのため、この地域に居住していた縄文土器を作る新石器時代人を縄文人と見ることが出来る[2]。平均身長は男性が160cm弱、女性は150cm弱でがっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴で、世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔土器を創り出すなど独自の文化を築いた[1]。東南アジアに起源をもつ人々ではないか考えられてきたが、父系・母系両方の遺伝情報が入った核DNA解析の結果(三貫地貝塚人骨、船泊遺跡縄文人骨)、東ユーラシアの人々の中では遺伝的に大きく異なる集団であることが判明した[1]

なお、もともと新石器時代という概念はヨーロッパを対象とした考古学における概念で農耕の存在を重視するものだったため、1960年代からしばらくの間は縄文文化は新石器文化に分類されていなかった。

この縄文人は時期によって異なるが地域ごとに4-9のいくつかの諸集団に別れていたと考えられている[3]。日本列島(旧石器時代のこの海域は後述のように、現在とは相当に異なった海岸線を持っていた)に居住していた後期旧石器時代の人々が、後に縄文文化と総称される文化形式を生み出し、日本における縄文人諸集団が出現したと推測されている。

形質的特徴

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縄文時代晩期人の男性の頭骨(レプリカ)。宮野貝塚岩手県)出土。国立科学博物館の展示[4]
ファイル:Skull of Jomon people woman.jpg
縄文時代後・晩期人の女性の頭骨(レプリカ)。蝦島貝塚(岩手県)出土。国立科学博物館の展示[4]

縄文人の形質的な特徴を一般的に表すと、次のようになる。まず身長は平均して成人男性で155センチ前後、成人女性で150センチ弱。いわゆる彫りが深い顔立ちであり眉間が突き出しているが、一方で鼻の付け根が引っ込んでいる。眉毛は濃く、目は大きめで、まぶたは二重、唇はやや厚めで顎の骨が発達している。

こうした特徴を持つ人々が日本列島に出現した時期は、最終氷期の最寒冷期(紀元前160世紀すなわち1万8000年前に氷河が堆積して海水面が最も低くなり、オホーツク海から北海道に歩いて渡れるようになった時期)が終わった後と見られる。ただし、既に日本列島に居住していた後期旧石器時代人の形質が変化したものなのか、列島外から移住してきた人々の影響があるのかは不明である[5]

日本列島に住む人々の形質は、弥生時代以降現代に近いものに変化していくが、これについて列島外から移住してきた人々の遺伝的影響を重視する見解と、生活習慣の変化を重視し、列島外からの遺伝的影響は比較的限定されたもので、縄文人の系統はそのまま現代日本人につながっているとする見解がある。

縄文人のルーツ

形質人類学から見た縄文人のルーツ

形質人類学の分野では、化石人骨が比較的多く見つかっている北東アジア日本列島の旧石器時代人との類似を指摘する研究が多い。

これまでに出土した化石人骨と縄文人の関係を見ると、縄文人に最も近いとされているのは沖縄島出土の港川人(およそ1万8000年前)であるが、形質面から見ると縄文人は港川人の次の段階とまでは言えず、両者の間には更に1つか2つのミッシングリンクがあると考えられている[6]港川人の頭骨はワジャク人に近く、柳江人山頂洞人(中国)にはそれほど似ていない為、少なくとも琉球弧の縄文人の祖先は環太平洋方面から来たのではないかと考えられている[7]

分子人類学から見た縄文人のルーツ

父系のルーツ

父系のルーツを辿ることができるY染色体ハプログループは、数万年にわたる長期的な追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。それに伴い、現代日本人は従来考えられてきたよりも色濃く古モンゴロイド的縄文人の血を引き継いでいる事が判明してきた。

崎谷満の分析では、日本人は主にY染色体ハプログループD1bの縄文系とハプログループO1b2弥生系を起源とする事が明らかになった。このハプログループD1bアイヌ人沖縄人・本土日本人の3集団に多く見られるタイプであり、朝鮮半島中国人漢民族)には全く見られない。このハプログループD1bはアイヌ人の88%に見られることから、D系統はかつての縄文人(古モンゴロイド)のものであると考えられている。但し縄文人のハプログループがD1bだけだった訳ではなくハプログループC1a1もあったことが知られているが、多数派として現在まで伝わったハプログループがD1bだといえる[8]

ハプログループD系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、現代アジアにおいて支配的なO系統C2系統とは分岐から7万年以上経ており、最も近縁であり同じYAP型であるE系統とも6.5万年前に分岐した系統である。現在D系統は、日本列島以外で高頻度の地域はチベット[9][10]アンダマン諸島[11]しかない。
なお、当時の弥生人や現代東アジアにおいて支配的なO系統は、ウラル系N系統コーカソイド系において最多的なR系統などと近縁であり、YAP型(D系統、E系統)とは全く異なるグループである。以上のことから縄文人から自然進化的に弥生人が派生したという説は完全に否定されている。

日本列島にD系統の人々が入ってきたのは数万年前の最終氷期地続きの時代と考えられている。その証拠として、日本人のD系統にのみ見られる多くのSNPの発生があげられる。SNPは突然変異により発生する確率的な事象であるから、発生数によって時間の経過が分かるのである。日本固有のD1b系統はその発生から3.5-3.7万年ほどたっているとされ[12]、考古学から求められる日本列島に最初に現生人類集団が到来した時期と一致している。

長らく縄文人の人骨よりY染色体ハプログループは分析されてこなかったが、北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800~3,500 年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体ハプログループがD1b2a(D-CTS220)であることが判明した[13]。これにより「ハプログループD1bは縄文系である」という従来よりの仮説が完全に実証されたことになる。

母系のルーツ

父系のルーツを辿れるY染色体ハプログループに対し、ミトコンドリアDNAハプログループは母系のルーツを辿ることができる。ただし、ミトコンドリアDNAは稀に男性のDNAが混じることや、人間より検証個体の多いネズミのDNA測定では、ハプログループの分岐や時期が事実とは全く異なっていたから、あくまでもY染色体DNA等、他の資料と共に考察する必要がある。
ミトコンドリアDNA(母系)の分析によって縄文人のルーツの一角が解明され、日本固有のハプログループM7aや南方系と共通の遺伝子を持つハプログループBFを持つことが知られている。宝来聡の研究によると、「東南アジアの少数民族から日本列島に位置する琉球弧人やアイヌまでが共通の因子を持つ」とされ、形質人類学においてはこれらの人々が縄文人と最も近いとされることから、縄文人のルーツは東南アジア旧石器時代人との見方が可能である[14]

これらを裏付けるように、国立科学博物館人類研究部 研究主幹の篠田謙一らの研究では、鹿児島県霧島市・上野原遺跡の縄文人(25,000年前)から同様にハプログループM7aが検出され、縄文人は、現在は海底に沈んでいる東南アジアフィリピン沖のスンダランドが起源で、北上して南九州に到達し、大隅半島西北部の小高い台地にある上野原遺跡と呼ばれる「最古のムラ」から日本全国M7a系統の縄文人が拡散したと想定している。このM7a系統は、縄文時代にすでに北海道へも到達していたことが明らかとなっている。

さらに2010年までに沖縄県石垣島白保竿根田原洞穴遺跡から発掘された、旧石器時代人骨国立科学博物館が分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち2点はハプログループM7aであることが明らかとなった[15]

しかしながら、溝口優司は、5万年から6万年前にインドを経由し東南アジアで放散した東アジア人全体の祖先[16]の中から日本列島に到達したグループは複数存在し、東南アジアから北上する過程で台湾南西諸島を経由し日本列島に到達した場合もあれば、一度北上し1万5千年前にバイカル湖周辺で寒冷地適応した後に南下し朝鮮半島や中国から日本列島に移住した場合、バイカル湖を経由せずに大陸を海岸沿いに北上し、ブリヤートあたりから南下したルートが存在すると考えると、日本列島の遺伝的勾配をうまく説明できるという説を唱えている[17]。この説の要点は東アジアグループの成立年代が6万年前であり、バイカル湖で寒冷地適応したグループがアフリカから中央アジアを経由したわけではないので、宝来や篠田の説とも矛盾しないが、溝口の説はあくまで仮説の域であり、確証となる根拠は皆無である。

いっぽう尾本惠市崎谷満などの分子人類学者は東アジアへの人類到達はヒマラヤ山脈の北方を経由したとする「北回り説」を唱えている。崎谷は著書[18]において、ミトコンドリアDNAY染色体といった分子人類学的指標、旧石器時代の石刃技法という考古学的指標、成人T細胞白血病ウイルスやヘリコバクター・ピロリといった微生物学的指標のいずれにおいても、東アジアのヒト集団は北ルートから南下したことを示し、南ルートからの北上は非常に限定的であったと述べている。崎谷はハプログループM7aは東南アジアではなくシベリア南部-極東で誕生したとしている。この説が正しいとすれば、縄文人の祖先もまた出アフリカ後にアルタイ山脈付近、朝鮮半島を経由して日本列島にやってきた人々の子孫であり、縄文人のスンダランド起源説は完全な誤りということになる。

また北海道の縄文人はハプログループN9bが最多でM7aは少なく、東北地方の縄文人も似た傾向を示している。このことから縄文人のルーツは一つではなく複数あったと考えられる。

考古学から見た縄文人のルーツ

日本列島に居住した後期旧石器時代人を縄文人の直接の祖先と見た場合、問題となるのは、これら日本列島の後期旧石器時代人はどこから来たのかという点である。石器の形式に注目してみると、後期旧石器時代の日本列島にはナイフ型石器と細石刃という、同じ用途に用いられる2種類の石器が存在していた。

ナイフ型石器は大陸では出土例が無いもので、日本列島で独自に発達したものと考えられ、鹿児島県上野原遺跡の調査などから発見されている鹿児島県上野原遺跡

しかし、珍しい例外としては、細石刃はバイカル湖周辺に起源を持つもので、日本列島に伝播したのはおよそ2万年前、宗谷海峡経由で北海道にもたらされた。細石刃が東北や北陸に伝わるのはおよそ1万5000年前である。つまり、この時期に北東アジア方面から細石刃の技術を持った少数の人々(ハプログループC2(C-M217)らが北方からも日本列島に移動してきたことになるという。

ATLのレトロウイルス

縄文人に関連する遺伝子として、ATLのレトロウイルス (HTVL-I) がある。このウイルスは成人T細胞白血病 (ATL) を引き起こす原因として発見されたもので、HTLVは京都大学ウイルス研究所教授の日沼頼夫によって研究が進められた。

日本人にはこのウイルスキャリアが多数存在することは知られていたが、東アジアの周辺諸国ではまったく見出されていない。いっぽうアメリカ先住民やアフリカ、ニューギニア先住民などでキャリアが多いという特徴をもつ[19]。日本国内の分布に目を転じてみると、九州南部と長崎県に多いのが目立つ。そして沖縄アイヌに特に高頻度で見られ、四国南部、紀伊半島の南部、東北地方太平洋側隠岐五島列島などの僻地や離島に多いことが判明した[20]。九州、四国、東北の各地方におけるATLの好発地域を詳細に検討すると、周囲から隔絶され交通の不便だった小集落でキャリアは高率に温存されている。東京、大阪など大都市で観察される患者の90%以上は九州などに分布するATL好発地帯からの移動者で占められていた。 このウイルスの感染機構は生きた感染リンパ球と非感染リンパ球の接触で起こり、空気や通常接触では感染せず、体液(血液、母乳、精液など)が主な感染源になる。自然感染の経路としては母児間の垂直感染と男女間の水平感染に限られることになる。特に夫から妻への感染が多く逆はほとんど観察されない。

以上より、日沼はこのウイルスのキャリア好発地域は、縄文系の人々が高密度で残存していることを示していると結論付けた[21]。HTLVはかつて日本列島のみならず東アジア大陸部にも広く分布していたが、激しい淘汰が繰り返されて大陸部では消滅したようである。弥生時代になってウイルス非キャリアの大陸集団が日本列島中央部に多数移住してくると、列島中央部でウイルスが薄まっていったが、列島両端や僻地には縄文系のキャリア集団が色濃く残ったものと考えられる。

縄文人観の歴史的変遷

縄文時代の日本列島に住んだ人々に対するイメージは、その時々の日本社会の風潮と呼応して様々に移り変わってきた[22]

「日本列島の先住民族」としての縄文人
明治期には縄文人は「石器時代人」と呼ばれ、日本列島の先住民族と考えられていた。この時期には日本人の祖先は「天孫族」と呼ばれており、記紀神話にあるように列島史のある段階で別の場所から日本列島にやって来た人々であるとされていた。その為、「石器時代人」はいわゆる日本民族の祖先ではなく、アイヌの祖先あるいはアイヌ神話に登場するコロポックルではないかと考えられており、この論点を巡って「アイヌ・コロポックル論争」と呼ばれる論争も発生した。
こうした見方は鳥居龍蔵による「固有日本人論」にも受け継がれたが、一方で昭和に入ると浜田耕作が縄文人を日本民族の祖先と見る説を発表し、学界に一石を投じた。
「高級狩猟民」としての縄文人
1930年代には唯物史観が登場し、縄文人を経済面から新たに捉え直そうとする動きが始まる。代表的な論者として山内清男が挙げられる。山内は縄文人を、男性が狩猟・漁労に従事し、女性が採集活動に従事するという分業体制を持った、発達した狩猟採集民族であったと考えた。
弥生文化の母体としての縄文人
第二次世界大戦後には出土史料に基づく考古学が発展し、それまで弥生人に単純に置換された存在と見られていた縄文人を、弥生文化を主体的に受容して弥生人へと変化していった人々として捉え直す論調が生まれてきた。
「人類史上類例の無い狩猟採集民」としての縄文人
1970年代以降には更に研究が進展し、それまで動物性食料に依存していたと思われていた縄文人が、実際にはクリなどの堅果類などの根茎類を多く食べていたことが明らかとなった。また同時期のヨーロッパの新石器時代人が農耕牧畜を行っていたとされた[23]のに対し、1970年代には縄文人によるヒエ栽培や、縄文後期の水稲を含む稲作の存在が研究者の間でも周知とはなっていなかった。
この結果、縄文人は当時の日本列島の生態系に適合した食料獲得システムを構築し、1万年間の長きに渡って豊かな狩猟採集食文化を維持した、人類史上にも他に類例の無い人々であったとの見方が登場した。
「海洋民族」としての縄文人
伊豆諸島産の黒曜石が縄文時代やそれ以前に[24]東日本各地で使用されていたことに注目した小田静夫や橋口尚武らの研究により、関東地方の縄文人が縄文早期中葉には内海での漁労に加えて伊豆諸島など外海へも進出していたことが明らかとなった[25]
また「縄文土器がバヌアツで表層採取された」というニュース(これについては事実の解釈を巡って議論が続いている[26])にも注目し、縄文人が南太平洋に進出してポリネシア人の祖先になったという説を唱える者や、エクアドルで縄文式土器に似た土器(バルディヴィア土器)が出土したことを理由に、縄文人が南米大陸に到達していたという説を唱える者さえも出現した[27]

エミシ・エビス・エゾ・アイヌと縄文人

前述のように明治から第二次世界大戦が終わる頃までは、縄文人は日本民族によって日本列島から駆逐されていった先住民と見られていた。こうした見方は必然的に、古代から近世にかけて日本の支配する領域の北隣に居住していた異民族[28]、そしてアイヌを縄文人の直接の末裔と見る説を生み出した。このような縄文人、蝦夷、アイヌを等号で結ぶ見方は、その後の研究の発展によってほぼ否定され、今日の学界では受け入れられていないが[29]、完全な末裔ではないものの、DNA解析によりアイヌ人は縄文人の遺伝子を特に色濃く残していることも判明している。

近年では、12世紀におけるアイヌ文化の成立をアイヌ民族の成立と見る立場を政治的に不当なものとして糾弾し、古代の北東北からアイヌモシリにかけて広がっていた擦文文化続縄文文化の担い手たちをも「アイヌ」と呼ぶべきであると主張する論者も、少数ながら存在する。例えば平山は山田秀三らが東北地方にアイヌ語地名が多数存在していることを明らかにした研究に言及しつつ、古代の蝦夷(エミシ)と近世のアイヌが同系統の言語を母語としていたことは事実であり、であるならば古代蝦夷と近世アイヌは同じ民族とするべきであると主張している[30]。小野は12世紀にアイヌモシリでアイヌ文化を生み出した集団は、11世紀以前にアイヌモシリに居住していた擦文文化人やオホーツク文化人(ニヴフ系)の直接の子孫であるから、これらは同じ民族と見るべきであると主張している[31]

ただ、こうした主張に対しては、エスニック・グループを本質主義的に捉えており、それを構成する人々の形質的特徴や社会的・文化的特徴が長期に渡って不変であるとの前提に立っていて、現在の人類学・考古学・歴史学・社会学の研究レベルでは通用し難いとの批判がある[32]

縄文人と海

縄文人は基本的には狩猟採集民であったが、その中には海に深く関わっていた人々も存在したことが知られている。

勾玉の分布

遅くともBC5,000年頃(縄文時代中期)には勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されており、蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが判明しており、縄文人が海を渡って広い範囲でお互いに交易をしていたことが考えられている。後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している[33]

貝類の採集

縄文人が貝類を食糧資源・装飾品の原料として採取するようになったのは縄文早期前半で、代表的な遺跡として横須賀市の夏島貝塚が挙げられる[34]。縄文早期の半ばには瀬戸内海沿岸や東北地方でも貝塚が形成されるようになる。採取対象は当初は河口等の汽水域に生息するヤマトシジミであったが、やがて内湾干潟の牡蠣礁で得られるカキや、やはり内湾の軟泥干潟から容易に得られるハイガイなどにその中心は移る[35]

また、腕輪やペンダントの原材料として採取された貝類もある。特に目立つのが大型の定住性カサガイの一種で岩礁潮間帯低部から採取されるオオツタノハガイの利用である。オオツタノハガイは主に屋久島やトカラ列島に生息するが、縄文期には、特に縄文後期・晩期を中心に、関東全域から北は北海道の有珠10遺跡でも出土している。これについて、原材料となったオオツタノハガイは南九州から運ばれたという説と、三宅島以南の伊豆諸島にも生息域があったのではないかとの説が対立している[36]

オオツタノハガイの他には暖流域の浅海から得られるタカラガイの一種ハチジョウタカラガイも広く利用された。

伊豆諸島への進出

前述のように、先史時代の日本列島住民が今日の伊豆諸島に進出したのは旧石器時代である。しかし、縄文期の遺跡に限ると最も早いものでも縄文早期の半ばのものとなる。この時期の遺跡としては伊豆大島下高洞遺跡、神津島せんき遺跡、三宅島の釜ノ尻遺跡などがある[37]

縄文前期の末には黒潮の本流を越えた[38]。縄文人が八丈島に進出し[39]、倉輪遺跡からは関東、南東北、中部、関西地域の土器が発見されている。

九州島と南島・朝鮮半島間の交流

縄文前期には九州島[40]を中心として轟式土器と呼ばれる土器が広く使用されるようになった。轟式土器は九州島周辺の他、種子島や屋久島、朝鮮半島南部にも分布しており、これらの島々・半島間を航行した縄文人集団が存在したことを伺わせる。日本列島周辺や南西諸島周辺、朝鮮半島周辺の島々は国ができる以前からこれらの海域を行き来する海洋民族によって既知だったと推測される。

また轟式に続いて登場した曽畑式土器も、奄美大島高又遺跡、沖縄島の読谷村渡具知東原遺跡、朝鮮半島の慶尚南道にある釜山市の東三洞貝塚などから発見されている[41]。縄文人が黒潮本流を越えた例としては、この曽畑式土器を持った集団による縄文前期の九州島・奄美大島間の航海が最も古く、関東における三宅島・八丈島間の航海よりおよそ800年早いものであるとされている[42]

建築家の長浜浩明によれば、1969年から1971年にかけて東三洞貝塚の下層から尖底・円底無文土器が発見された。これらの中には北松浦半島泉福寺洞穴福井洞穴などから発見された隆起線文土器と類似する土器、同じく北松浦半島の黒曜石と大形石斧も含まれていた。その他、慶尚南道真岩里咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見されており、縄文人は7000年前から朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していた。 また、朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨は縄文人の特徴と多くの点で一致しており、韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられた[43]

縄文人の用いた舟艇

これまでに出土した事例に見る限り、縄文人が航海に用いたのは一本の丸太を刳り抜いた丸木舟であったと考えられている[44]。帆柱の跡やオール受けの跡は検出されていないため、(カイトセイリングのように帆柱を用いない形式での帆走を行った可能性は否定出来ないまでも)基本的にはパドリングによる推進であった可能性が高い。

船体の断面は関東地方出土の丸木舟を見る限りでは半月型[45]あるいは三日月型であり、弥生時代以降の凹型断面の丸木舟とは異なる特徴を示している。船体長は最大で残存長7メートルから8メートルのものまであるが(例えば千葉県香取郡多古町島(七升)出土の縄文前期のものは残存長7.45メートル、残存幅0.7メートル)、小さいものでは4メートル以下のものも多数出土している。

材はアカマツクロマツカラマツカヤケヤキムクノキクスノキなどの例がある[46]

なお、1982年には松江市内の小中学校の教師の有志5名により、「からむしII世」と名付けられた丸木舟による黒曜石の運搬実験が行われ、隠岐宮尾遺跡から本州の松江市美保関町の七類港まで15キロの黒曜石を1日で運搬することに成功している[47]

言語

縄文人の言語については明らかでない。日本語のほか、人類学的類似性が高いとされるアイヌアイヌ語)との関連を指摘する見方[48]もあるが、推測の域を出ない。過去の言語は文字がなければ検証不可能であり、「縄文語」の解明は、その試み[49]は存在するものの、極めて難しいと言わざるを得ない。日本列島における縄文時代の言語は、共時的にも通時的にも複数存在したと考えるのが自然である。

補注

  1. 1.0 1.1 1.2 「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった読売新聞、2017年12月15日
  2. 藤尾慎一郎『縄文論争』講談社、2002年、88-89ページ
  3. 藤尾、前掲書、66ページ
  4. 4.0 4.1 縄文人の頭骨の特徴 国立科学博物館
  5. 藤尾、前掲書、110-111ページ
  6. 藤尾、前掲書、94-100ページ
  7. 同上
  8. 崎谷満 (2005.8). “『DNAが解き明かす日本人の系譜』”. 科学 (勉誠出版). 
  9. テンプレート:Cite paper
  10. University of Pittsburgh, Jomon Genes - Using DNA, researchers probe the genetic origins of modern Japanese by John Travis
  11. Kumarasamy Thangaraj, Lalji Singh, Alla G. Reddy, V.Raghavendra Rao, Subhash C. Sehgal, Peter A. Underhill, Melanie Pierson, Ian G. Frame, Erika Hagelberg(2003);Genetic Affinities of the Andaman Islanders, a Vanishing Human Population ;Current Biology Volume 13, Issue 2, 21 January 2003, Pages 86–93 doi:10.1016/S0960-9822(02)01336-2
  12. Shi, Hong; Zhong, Hua; Peng, Yi; Dong, Yong-li; Qi, Xue-bin; Zhang, Feng; Liu, Lu-Fang; Tan, Si-jie; Ma, Runlin Z; Xiao, Chun-Jie; Wells, R Spencer; Jin, Li; Su, Bing (October 29, 2008). "Y chromosome evidence of earliest modern human settlement in East Asia and multiple origins of Tibetan and Japanese populations". BMC Biology (BioMed Central) 6: 45. doi:10.1186/1741-7007-6-45. PMC 2605740. PMID 18959782. Retrieved November 21, 2010
  13. 神澤ほか(2016)「礼文島船泊縄文人の核ゲノム解析」第70回日本人類学大会[1]
  14. 藤尾、前掲書、101ページ
  15. 『白保竿根田原洞穴:旧石器人骨からDNA…国内で最古』”. 毎日新聞 (2013年12月2日). . 2013閲覧.
  16. The HUGO Pan-Asian SNP Consortium (December 2009). “Mapping Human Genetic Diversity in Asia”. Science 326 (5959): 1541-1545. doi:10.1126/science.1177074. 
  17. 溝口優司 (2010.04). “日本人形成論への誘い─シナリオ再構築のために”. 科学 (岩波書店). 
  18. 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年) 
  19. 田島和雄(2003)「成人 T 細胞白血病ウイルスと民族疫学 (特集 日本列島の人類学的多様性)」Science of humanity Bensei
  20. 木下研一郎(2003)「西日本に多い成人 T 細胞白血病--その病像, 感染経路, 予防 (特集 日本列島の人類学的多様性)」Science of humanity Bensei
  21. 日沼頼夫 (1998) 「ウイルスから日本人の起源を探る」『日本農村医学会誌』,46(6),908-911
  22. 藤尾慎一郎『縄文論争』講談社、2002年、45-48ページ
  23. 現在では、ブリテン島など新石器時代には殆ど農耕を行っていなかった地域もヨーロッパに存在したことが知られている(藤尾、前掲書、188-191ページ)。
  24. およそ2万年前の後期旧石器時代の遺跡から神津島産の黒曜石が発見された例も多い。代表的なものとして東京都練馬区の比丘尼橋遺跡、同調布市野川遺跡相模原市の橋本遺跡などがある。ただしこの時期の海岸線は現在のものとは大きく違っており、伊豆諸島の利島から神津島までは一つの大きな島であった(橋口尚武編『海を渡った縄文人』小学館、1999年、6-7ページ)。
  25. 橋口尚武編『海を渡った縄文人』小学館、1999年および橋口尚武『黒潮の考古学』同成社、2001年等
  26. 荒俣宏・篠遠喜彦『楽園考古学』
  27. ただしこうした説を唱える者は歴史学や人類学、考古学の専門家の中には存在しない。詳細はエクアドルの歴史を参照。
  28. 古代の日本においては蝦夷(エミシ)、11世紀から12世紀にかけての日本では胡(エビス)、13世紀以降の日本人は蝦夷(エゾ)と呼んだ(佐々木馨『アイヌと「日本」』山川出版社、2001年、12-13ページ)。
  29. 熊谷公男『蝦夷の地と古代国家』山川出版社、2004年、16-17ページ
  30. 平山祐人『アイヌ史のすすめ』北海道出版企画センター、2002年
  31. 小野有五『自然のメッセージを聴く』北海道新聞社、2007年
  32. 熊谷、前掲書、5-6ページ
  33. 門田誠一「朝鮮三国時代における硬玉製勾玉の消長」『古代東アジア地域相の考古学的研究』2006,学生社
  34. 橋口、前掲書、52ページ
  35. 橋口、前掲書、53ページ
  36. 橋口、前掲書、10-21ページ
  37. 橋口、前掲書、52-53ページ
  38. 別の可能性として、黒潮本流のルートが一時的に変化し、八丈島の南に移っていたのではないかとも考えられている(橋口、前掲書、59ページ)
  39. これより以前に湯浜人と呼ばれる人々が八丈島と神津島の間を行き来していたが、湯浜人の出自はまだはっきりしておらず、本州島から伊豆諸島に渡った集団であるかどうかもよく分かっていない。
  40. 本節では島と島の間の航行が特に問題となる為、現在の九州地方で最大の島を特に九州島と表記し、九州島周辺の離島と分けて取り扱う。
  41. 橋口、前掲書、55-57ページ
  42. 橋口、前掲書、152-153ページ
  43. 長浜浩明『韓国人は何処から来たか』展転社 2014
  44. 堤隆は旧石器時代の神津島での黒曜石採取については、丸木舟を建造出来るような石器が存在しなかったことから考えて、カヤックのようなスキンボートを使用したのではないかと指摘している(堤隆『黒曜石3万年の旅』NHKブックス、2004年、93ページ)
  45. ほとんど舷側が無い、サーフィンのロングボードに近いもの。例えばさいたま市の膝子遺跡出土の縄文後期と推測される丸木舟群の中には、残存長4.2メートル、残存幅45センチで舷側が殆ど無いものが含まれている(橋口、前掲書、161-162ページ)。
  46. 本節の典拠は橋口、前掲書、158-172ページ
  47. 堤隆『黒曜石3万年の旅』NHKブックス、2004年、96-97ページ
  48. 柴田治呂 (1991) 『カムイから神へ』 筑摩書房
  49. 縄文語の発見

関連項目

外部リンク