網地島
網地島 | |
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座標 |
北緯38度15分57.8秒 東経141度28分44.0秒 |
面積 | 6.43 km² |
海岸線長 | 18.3 km |
最高標高 | 101 m |
所在海域 | 太平洋、仙台湾 |
所属諸島 | 牡鹿諸島 |
所属国・地域 |
網地島 (宮城県) |
概要
牡鹿半島の先端近く、半島の南の沖にある。同じくらいの大きさの島として、北西近くに田代島、東にやや離れて金華山がある。本土側にある鮎川との関係が強く、1889年の町村制施行以後は同じ自治体(牡鹿町および石巻市)に属してきた。島には、北側の網地と南側の長渡(ふたわたし)の2つの集落があり、昔からライバル意識が強く、現在でもその傾向は幾分残っている。田代島と同じく、猫が多く住む島でもある。三陸復興国立公園に指定されている。
地理
- 面積 - 6.43km2
- 地勢
- 周囲長 - 18.3km
- 山 - 海抜101.m
- 人口 - 493人
歴史
江戸時代は仙台藩領の一部で、金華山、半島先端部とともに牡鹿郡の浜方十八成組という地区に属し、網地浜、長渡浜という二つの漁村に分けられた。浜は漁村の意で、現代的には網地村・長渡村となるべきところ、当時は浜という単位で呼んでいた。
住民は漁に出るかたわら、畑を作って農業にも従事したが、食糧を自給するには足りず、外から買い入れていたと推定される。それもあって、天保の大飢饉のような時期に食糧の買い入れが途絶すると、悲惨な人口減少をきたした[1]。
また江戸時代には浪入田金山があって採掘された。隣の田代島とともに流刑地でもあった。重罪人が流された江島に対し、網地島と田代島は近流に処せられたものが流された。気候が温暖で地形がなだらか、農業にも漁業にも適した土地であったので、罪人の中には、仙台から妻子を呼び寄せて、そのまま土着した者もいたという。
1739年(元文4年)6月20日、網地島付近にティン・スパンベアが率いるロシア帝国の第2次北太平洋大探検隊が来航する(元文の黒船)。ベーリング海峡の語源となったヴィトゥス・ベーリングが遣わした隊であり、ヨーロッパ大陸からベーリング海峡、千島列島を経て日本との通商ルートを開拓するために来航したものであった。この探検隊は、10日ほどを過ごして付近の測量などを行った。網地島の白浜海水浴場には、ベーリングの銅像が建立されている。
気候
ケッペンの区分ではCfa。
交通
石巻港連絡船で約60分、鮎川港から連絡船で約20分(網地島ラインにより運航)
生活
- 学校 - 無し(中学校跡は現在「島の楽校」として利用)就学児童・生徒はスクールボートで通学
- 商店 - 長渡3軒、網地1軒あり。
- 携帯電話 - auは網地・長渡・島の高台で通話可能。根組・浪入田では通話が出来ない場所もあり。
NTTドコモ(docomo)は殆どの場所で通話可能。ソフトバンクは2014年中に中継所開局予定。
- 地上デジタル放送 - 島内の殆どの場所で受信可能。網地の浪入田地区は難視聴地域で福島局なら受信は可能。
- 医療機関 - 網地島診療所(旧小学校校舎。別名網小医院)
- 金融機関 - 網地島郵便局と漁協で信用業務あり。振り込みも可能。
- 郵便局 - 網地島郵便局あり。
- 島内交通 - 市営網地島バス運行あり。[1]
- 食堂 - 長渡1軒(食堂・居酒屋) 網地に2軒(民宿兼)
- 宿泊施設 - 長渡に民宿1軒、旅館1軒。網地に民宿1軒、旅館1軒、ペンション1軒。
施設、名所、観光
- 島の楽校(しまのがっこう)-中学校跡を利用した自然活動センター。
- 白浜海水浴場
- ドウミキ崎(またはドワメキ崎)漢字表記は【涛波岐】または【渡波滅生】
- 釣り
- シーカヤック
名産品
脚注
- ↑ 阿倍和夫「仙台藩漁村における天保の飢饉の様相 牡鹿郡網地浜の場合」88-89頁。
参考文献
- 阿倍和夫「仙台藩漁村における天保の飢饉の様相 牡鹿郡網地浜の場合」、『宮城史学』特別号(大塚徳郎傘寿記念)、1993年。