終戦の日
終戦の日(しゅうせんのひ)は、一般に戦争が終結した日をさす。本項目では各国における第二次世界大戦の終結(終戦)を記念する日について解説する。
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概要
伝統的な戦時国際法において、休戦協定の合意は口頭による同意によれば良く文書の手交を要件としない。このため、休戦が協定された日と休戦協定が外交文書(降伏文書)として固定された日は異なり、実際に各地の戦線で休戦が合意された日もまた異なる。対日戦勝記念日とされる場合、通常は、大日本帝国政府が公式にポツダム宣言による降伏文書に調印した1945年9月2日を指すことが多い。なお、同じく連合国の中華民国やソビエト連邦、連合国ではない中華人民共和国とロシア連邦の対日戦勝記念日は、その翌日9月3日である。
各国における終戦記念日
8月15日とする国
- 一般に日本では、8月15日が終戦の日とされている。"「
- 日本の終戦記念日」"
- 大韓民国では8月15日を「光復節」と称して、日本による朝鮮半島統治からの「解放」を祝う日となっている。
- 北朝鮮も同様に、8月15日を「祖国解放記念日」として祝っている。
9月2日とする国
アメリカ合衆国、イギリス、フランス、カナダ、ロシアでは、9月2日を対日勝戦記念日(英語版:Victory over Japan Day)と呼んでいる。当時のアメリカ合衆国大統領トルーマンは、降伏文書に調印した9月2日を「V-J Day」として宣言した。この日は東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサー元帥が署名した。
- アメリカ:1995年9月2日には、対日戦勝50周年を記念して、記念切手が発行された。ただし、州レベルでは8月14日や8月15日とされることも多い。
- カナダ:2005年に、戦勝60周年を記念して、「Victory 2-9-45」と刻印されたメイプルリーフ銀貨を発行した。
- フランス:2000年に、終戦記念日(フランス語: Fête de la victoire de 1945)である5月8日のVEデーに、反ファシズム戦争の勝利55周年を記念してイベントが開催された[1]。2000年9月2日に、対日戦勝55周年を記念する式典が、フランス国防省主催で行なわれた[2]。
- ロシア:2010年、9月2日を「第二次世界大戦終結記念日」に指定した。この他、独ソ戦の終結日である5月9日を「大祖国戦争終結記念日」(祝日)に指定している。旧ソ連から政権を受け継いだロシア連邦共和国議会が、9月2日を「第二次世界大戦が終結した日」と制定する法案を可決した。第二次世界大戦を連合国として戦った国とアピールすると同時に対日戦で行なった戦争行為を帳消しとし、北方領土の実効支配を正当化できるという計算があったと考えられる[3]
9月3日とする国
- ソビエト連邦(現ロシア連邦)では、対日戦勝記念日は9月3日であった。これは、降伏文書に調印した1945年9月2日の翌日に、対日戦勝祝賀会が行われた事に因んでいる。ロシア連邦でも、ソビエト連邦の対日戦勝記念日を引き継いだため、近年までは9月3日であった。
- 中華民国(台湾)と中華人民共和国では、旧ソ連と同じく、9月3日を「軍人節」や「抗日戦争勝利の日」としている。2005年9月3日、北京の人民大会堂で抗日戦争勝利60周年記念式典が開かれた。ただし、支那派遣軍岡村寧次司令官が中国国民政府と降伏文書調印した9月9日や、日本の終戦の日である8月15日を対日戦勝記念日とする場合も稀にある。9月2日の翌日を独自の対日戦勝記念日と制定し、全国人民代表者会議で「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利の日」と決定したのは2014年である。2015年には軍事パレードを含む盛大な戦勝記念日行事を行ない、既成事実化を図っているとされる[3]。
日本の終戦記念日
日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、全国戦没者追悼式を主催している。一般にも同日は終戦記念日や終戦の日と称され、政治団体・NPO等による平和集会が開かれる。
日本において第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))が終結したとされる日については諸説あり、主なものは以下のとおりである。
- 1945年(昭和20年)8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日
- 1945年(昭和20年)8月15日:玉音放送により、日本の降伏が国民に公表された日
- 1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日
- 1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日
4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれている。連合国軍の占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上では、9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。
歴史
1945年7月26日、米英中の3か国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していたが、8月6日広島市に原子爆弾が投下され、8月8日ソ連対日宣戦布告、8月9日広島市に続き長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態が続いた。8月10日、日本政府はポツダム宣言の受諾を外交公電として連合国に向けて通告した(午前6時45分)。同日8時過ぎに外務省からの指示で同盟通信社のモールス通信と放送協会の海外放送(いずれも短波)で通告文書が放送された。国内での短波受信は禁止されていたので大半の日本人より早く短波受信機を持つ連合国側(だけではないが)の国民にはポツダム宣言受諾が知らされた[4]。同時に日本政府は中立国を通じて、国体の変更を伴わないかどうかを連合国側に確認した。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、昭和天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言の受諾を通告した。
1945年8月15日正午(グリニッジ標準時午前3時)から、前日に公布された「大東亜戦争終結ノ詔書」(終戦の詔書などともいう)を昭和天皇が朗読したレコードがラジオ放送され(いわゆる玉音放送)、国民及び陸海軍にポツダム宣言の受諾と軍の降伏の決定が伝えられた。当日は朝から「畏き辺り(かしこきあたり=天皇)にあっては本日正午から重大発表を行なうので、必ず聴くように」と繰り返しアナウンスされた。神聖不可侵とされた最高権力者である天皇の肉声が初めてラジオで放送されたことと共に、戦争終結を発表されたと、このラジオ放送は国民にとって敗戦の象徴ともいうべきできごとであり、大きな衝撃を与えた[5]。
1945年8月15日、大本営は陸海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、8月16日に自衛の為の戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した[6]。さらに8月18日には、全面的な戦闘行動の停止は、別に指定する日時以降に行うように命令、8月19日に、第一総軍、第二総軍、航空総軍に対して、8月22日零時以降、全面的に戦闘行動を停止するように命令した。支那派遣軍を除く南方軍等の外地軍に対しては、8月22日に、8月25日零時以降に全面的な戦闘行動停止を命令した[7]。中国大陸や北方戦線では、ソビエト連邦や中華民国との戦闘が暫く続いた。ソ連軍は北方四島に上陸作戦を展開し、それを阻止するための戦闘が、中央の命令により現地陸軍守備隊によって行われた(占守島の戦い等)。また戦闘停止命令の届かなかった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続いた。さらに、外地の一般市民が難民と化し多くの犠牲者をだした。また、沖縄の久米島では現地の海軍部隊による住民の虐殺事件も起きている(久米島守備隊住民虐殺事件)。これらの戦闘は8月下旬になると概ね終結した。
1945年9月2日、昭和天皇は「誓約履行の詔書」を発し、日本政府全権の重光葵外務大臣と大本営(陸海軍)全権の梅津美治郎参謀総長が、降伏文書に調印し、即日発効した。1951年9月8日には、平和条約であるサンフランシスコ平和条約が調印された。そして、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日をもって、国際法上、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結することとなった[8]。
法律
引揚者給付金等支給法(昭和32年[1957年]法律第109号)は8月15日を終戦の基準とし、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(昭和42年[1967年]法律第114号)は8月15日を「終戦日」と呼んでいる。1963年5月14日の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。1982年4月13日、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われており、お盆は月遅れのお盆と一致することから、お盆=8月15日となっている。
- 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」について(昭和57年[1982年]4月13日閣議決定)
- 趣旨 先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を設ける。
- 期日 毎年8月15日とする。
- 行事 政府は、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に、昭和38年[1963年]以降毎年実施している全国戦没者追悼式を別紙のとおり引き続き実施する。
全国高等学校野球選手権大会の会場でも、正午の時報直前にプレーを中断し、選手・観客らが1分間の黙祷を捧げる。3試合の開催となった2010年は正午時点で1試合目と2試合目の間のグラウンド整備が行われており、12時10分のプレイボール直前に黙祷が行われた。同じように、3試合開催となった2014年は正午の時点で2010年と同様、試合間グラウンド整備が行われていたため、12時15分に行われた。
地上戦が行われた沖縄では、6月23日に組織的な日本軍の抵抗が終結した。このため、現在、沖縄県では6月23日を慰霊の日として休日としている。アメリカ軍による正式な沖縄戦の終結宣言は7月2日であるが、沖縄征服は6月30日と記録している。しかし、その後も日本軍による抵抗は続いた。9月7日、南西諸島守備軍代表は、嘉手納の米軍第10軍司令部で降伏調印し、沖縄戦は公式に終結した。このため、沖縄県の公式慰霊施設である平和の礎では、沖縄戦終結の日を9月7日としている。
学校教科書
小学生用社会科教科書や中学生社会科教科書(歴史分野)の多くは、終戦の日を8月14日か8月15日と記しており、9月2日については言及していないものもある。またサンフランシスコ講和条約については、締結日の1951年9月8日について言及しているが、発効日の1952年4月28日には言及していないものもある。
高等学校日本史教科書の多くは、終戦の日を9月2日としている。8月14日は「ポツダム宣言受諾が決定され連合国側に通知した日」、8月15日は「戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日」と記されているものが多い。例えば、山川出版社の『詳説日本史』では、以下の記述となっている。
備考
ドキュメンタリー番組等でしばしば使われる「終戦を祝う世界の人々」の映像の多くは、8月11日に撮影されたものだという。この日「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を打電した内容が新聞にスクープされ、正式な降伏と錯覚した人々が騒いだのが真相のようである。当時、北欧の中立国スウェーデンに避難していた日本人特派員の手記[9]によると、8月10日に日本が降伏する旨の報道があり、日本大使館からも同様の声明があったという。
脚注
- ↑ フランス、世界反ファシズム戦争勝利55周年を記念 人民日報 2000年5月10日
- ↑ フランス国防省 対日終戦式典を開催 【パリ2日=共同】 朝日新聞 2000年9月4日(『朝日新聞縮刷版』 2000年9月号 164頁より)
- ↑ 3.0 3.1 (連載)日本人だけが知らない「終戦」の真実【7】中国、ロシア、アメリカで「対日戦勝記念日」が異なる理由 松本利秋
- ↑ 日本ラジオ博物館「玉音放送とラジオ」
- ↑ この放送は聞き取りがたかったという回想が多いが、その一因は録音盤の素材が充分でなかった点にもあることを元録音班のメンバーが明かしている。『朝日新聞』2008年12月26日夕刊、東京版、2面。
- ↑ 森松俊夫 1994, 大陸命第千三百八十一号-第千三百八十二号.
- ↑ 森松俊夫 1994, 大陸命第千三百八十五号-第千三百八十八号.
- ↑ ソビエト連邦のようにサンフランシスコ平和条約に署名しなかった国については、相手国と日本が別途に平和条約または同等の二国間協定を結ぶまで法的には戦争状態が継続したことになる。対ソビエト連邦については、日ソ共同宣言締結で関係が正常化した。
- ↑ 衣奈多喜男 『最後の特派員』 朝日ソノラマ 1988年7月 ISBN 978-4-257-17205-5
参考文献
- 川島真・貴志俊彦編著『資料で読む世界の8月15日』山川出版、2015年。ISBN-10: 4634640287。
- 佐藤卓己 『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2005年7月。ISBN 4480062440。
- 森松俊夫 『「大本営陸軍部」大陸命・大陸指総集成』第10巻 エムティ出版、1994年。ISBN 4896144325。
関連項目
- 終戦
- 戦後
- 聖断
- 玉音放送
- ポツダム宣言
- 日本の降伏
- 宮城事件
- 光復節 (韓国) - 韓国で日本による朝鮮半島統治からの解放を祝う日。
- 対日戦勝記念日(VJデー) - 連合国による。
- ヨーロッパ戦勝記念日(VEデー)
- 第一次世界大戦休戦記念日
- 沖縄慰霊の日
- 主権回復の日
- 日本の戦後改革
- 終戦日記
- 大詔奉戴日(日本における、第二次世界大戦の大東亜戦争開戦記念日)
- 連合国軍最高司令官総司令部
- 連合国軍占領下の日本
- アメリカ合衆国による沖縄統治
- 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)
- 日本のいちばん長い日 - 1945年8月15日前後の政府中枢部の動きを描いた。岡本喜八監督の代表作。原作は半藤一利。
- 旧三笠ホテル - 終戦事前外交交渉の会場(軽井沢)。